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◎はじめに
Ⅳ・①『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』
白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城の『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。
いわば、倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。
「隋書」俀国伝中に、『明年(大業4年:608年:推古16年)、上、文林郎裴清を遣わして俀国に使いせしむ。
百済を渡り、行きて竹島に至り、南に聃羅を望み、都斯麻国を経、迥かに大海の中に在り。
又東して一支国に至り、又竹斯国(=筑紫・九州島)に至り、又東して秦王国に至る。其の人華夏に同じ。以って夷州と為すも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。
又十余国を経て海岸(=九十九里浜海岸)に達す。竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す。』
と記載あるように竹斯国(=俀国直轄地:筑紫・九州島)以東で目ぼしい国といえば秦王国だった、この秦王国さえも俀に附庸すると言っているが、隋使は俀国の大宰府から更に東の秦王国まで訪れたのだ。
この隋書でいう秦王国こそが飛鳥・葛城地方の『秦国』王家であり、蘇我氏であろう。
ということは、蘇我馬子(=巷苛有明子)の元は前方後円墳だった封土が剥ぎ取られ石棺がむき出しの辱めを受けてる「石舞台」などは、九州王朝倭国難波副都の倭王家 〔分家の弟王家〕 に乗っ取られた証拠だろう。
九州王朝倭国の〔造複都難波京の詔:649年10月〕は、予想される朝鮮半島や唐との関係悪化に備えて、
●倭国連邦の距離的中心地である大宰府東方の難波宮に拠点(副都)を別に設けることで、従来の連邦制と異なる中央集権的政策である「天下立評(=全国評制施行)」の完全実施と、
●倭国連邦の『秦国』が唐国・新羅の東西枢軸に参加し、倭国大宰府を背後から襲うのを防御・牽制・排除し、
●そこを基点に更に東方の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化し後塵の憂いを除く、
のが目的と思われ、東国経営の基地でもあり、宮殿というより軍事要塞といった趣のものだったでしょう。
難波副都は当時の地図を見ると南から北へ伸びた半島の先端に位置し、その東は日下江の入江で今の大阪市街は葦で覆われた海の中である。
まさに都というより軍事要塞・基地というのが当っている。
649年(大化5年:孝徳5年:常色3年)10月、 〔造複都難波京の詔〕 が発せられ、同時に伊勢王等の諸国境界確定記事が続き、652年(書紀白雉3年:孝徳8年:白雉元年)「正月より是の月に至るまでに、班田すること既におわりぬ(立評:評制施行の完成)」。
「同年、2月(白雉改元儀式)」 「同年、秋9月、宮を造ることがまったく終わった(九州王朝難波副都完成)。
その宮殿の形状は、とても論じつくせない。」と続く。
いっぽう、九州王朝倭国は古田武彦氏が指摘するように、もともとが「両京制」・「兄弟王朝」の政治システムだったようで。
思うに、九州王朝倭国はこの非常事態に即断即決で対処の為に、兄弟王家のいずれかが大宰府、いずれかが難波副都をと分かれて預かる形になったでしょう。
「大宰府倭兄王家」 を預かったのが薩夜麻(=白鳳王・高市皇子の父の天武天皇)であり、 「難波副都倭弟王家」 を預かったのが天智天皇をはじめとする 〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇 だった。
倭国は九州(筑紫島)を本拠に・出雲・加賀・吉備・『秦国』・尾張・毛野(常陸)・任那等を含む連邦国家であったはずで、その個々の王国ごとに統治形態が違い、連邦国家全国の「天下立評(=全国評制施行)」は大変困難な作業だったと思われる。
太閤検地を思い出すまでもなく、当然強大な軍事力・軍事行動も必要だったと思われるが、あにはからん、伊勢王等の諸国境界確定記事は産むが易しで、2年ばかりで完了したようだ。
その後、中央集権国家の巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」は爾来強大な軍事力で支えられ継続して維持されたはずで、そのベース基地たる 「九州王朝難波副都」 は「天下立評(=全国評制施行)」の班田収受が徐々に軌道に乗り、かたやその財政余力をかって、飛鳥・葛城の『秦国』王家の蘇我氏の取り込みも謀った。
そうこうするうちに、 「難波副都倭弟王家」 は大和朝廷へ発展したということでしょう。
「大宰府倭兄王家」 は大陸の情勢が風雲急を告げ 〔参照:川端俊一郎著『隋唐帝国の北東アジア支配と倭国の政変』について〕、その白鳳王(=明日香皇子・筑紫君薩夜麻・天武天皇)は百済回復戦で出兵、白村江戦で破れ、あろうことか捕虜になって唐国の長安に連行・抑留されてしまった。
いっぽう、「天下立評(=全国評制施行)」の維持にかこつけて参戦しなかった、(というより『秦国』が唐国・新羅の東西枢軸に参加し、倭国大宰府を背後から襲うのをブロックする為にその兵力を動かせなかったと言うのが正解か)、中大兄皇子(=天智天皇)の 「難波副都倭弟王家」 は兵力の温存はできたものの倭国留守居王権として、唐国との戦後賠償交渉を繰り返し、白村江戦が本土決戦での敗戦でなかったので交渉は強気だったでしょう。
弟王家「近江朝」の天智は本州・四国の連邦解体後の後釜に坐り、弟王家「近江朝」の中央集権国家を樹立しその独立宣言が新羅への「倭国」改めて「日本」と号すだ。
一向に進まない戦後賠償交渉に業を煮やした唐国側の郭務悰は、捕虜の筑紫君薩夜麻(=天武天皇・白鳳王)を開放・投入。
筑紫君薩夜麻(=天武天皇・白鳳王)は帰国と同時に倭国白鳳王復位を宣言し、当時、唐が占領の筑紫都督府、及び近江朝の本州・四国に分裂していた倭国の再統合を要請した。
その結果が「壬申乱」であろう。
「壬申乱」 を起した天武天皇(=薩夜麻・白鳳王・高市皇子命の父)の 「大宰府倭兄王家」 は、「難波副都倭弟王家」の中で当時孤立していたと思われる別の天武天皇(=大海人皇子・持統の夫・草壁皇子尊の父)の戦勝後の地位と、「難波副都倭弟王家」の将来を従来通りに保障・約束し、副官になるよう協力要請した。その結果、大友皇子(=天智天皇の皇子)の 「難波副都倭弟王家」 に戦勝。
「大宰府倭兄王家」 の天武天皇(=薩夜麻・白鳳王・高市皇子命の父)は「壬申乱」では勝ったものの、倭国のその後は唐国の傀儡化と過酷な戦後賠償でさらに疲弊。
そのうえ、筑紫大地震が襲い、ついに、別の天武天皇(=大海人皇子・壬申乱時の協力者で副官・持統の夫・草壁皇子尊の父)の 「難波副都倭弟王家」 に助けを求めた。
これが、あとで述べる 「三つ足の雀(3種の神器)の貢上」 となったのでしょう。
《 注意 》 天武天皇についての煩雑な表現をしているお詫びと、そのわけをここで説明しておく必要があろう。
日本書紀は、673年(天武2年:白鳳13年)2月27日の項に、
●『〔天武〕天皇は、 —略— 帝位に即いた。正妃を立てて皇后とした。后は草壁皇子 「尊」 を生んだ。—略—』
○『天皇ははじめ、鏡王の —略—次に胸形君徳善の娘、尼子娘を納れて、高市皇子 「命」 を生んだ。—略—』
同じ天武天皇の皇子に 「尊」 ・ 「命」 の異なった「みこと」表記がされていて出典が違うことがわかる。
同時に「二人で一役」の合成人間であることもわかります。
●大和朝廷:「難波副都倭弟王家」出身の 天武天皇(=大海人皇子・持統の夫・草壁皇子 「尊」 の父)
○九州王朝:「大宰府倭兄王家」出身の 天武天皇(=明日香皇子・薩夜麻・白鳳王・高市皇子 「命」 の父)
日本書紀が天武天皇を、「二人で一役」の合成人間で記述することは、全編を通じて九州王朝「倭国」を抹殺するが為でしょう。
しかし逆に、九州王朝「倭国」を抹殺してるよ、と教えてくれてもいます。
さらに、このことは高市皇子 「命」 が九州王朝:「大宰府倭兄王家」の出身であることを、はからずも我々に教えてくれてもいます。
〔参照:天武天皇は二人いた(日出島哲雄著)〕
すなわち、 『白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城の『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和王朝『日本国』である。
いわば、倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。』 ということです。
以下が「その順路のあらすじ」である。
※別紙 『 「倭国」の「大宰府主都」 : 「難波副都」対比年表 .html版 』 ・ 『 同 .pdf版 』 と、併せて参照方お願いします。
■ 『大和朝廷の生い立ちから倭国滅亡迄の歴史的経緯の想定年表』
《歴史的経緯の説明》
①九州王朝「倭国」はある時期(たぶん「倭王武」477年頃)全国征伐し茨城県以西を間接付属王国支配。
②隋書俀国伝に、『又竹斯国に至り、又東して秦王国に至る。―竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す。』
③東へ倭に付属「秦王国」を訪れているのに、『書紀』には記載が無い。たぶん「日本国」へ書きかえた。
④九州王朝「倭国」が緊迫のアジア情勢から難波副都建設し天下立評。同時に倭国の分王家が常駐開始。
⑤倭国と秦王国からの遣使団が唐朝内で鉢合せ、付属秦王国の遣使を難詰し喧嘩。唐朝が両国使監禁。
⑥洲柔・白村江敗戦662年で唐が白鳳倭王を拘束・連行。これをネタに大宰府開城、筑紫島が被占領。
⑦白村江敗戦を知った難波副都守備隊が長門以東を防衛。天智天皇遷都即位、秦国接収、日本国独立。
⑧白鳳倭王薩夜麻が解放帰国。難波副都の大海人皇子の協力で倭国再統合戦の壬申乱を戦勝、復位。
⑨壬申乱戦勝は難波副都の大海人皇子の協力甚大「真人」位賜る。白鳳王崩御后、朱雀王に即位。
⑩筑紫倭王家の近畿遷都、白鳳王・朱雀王崩御后、高市天皇即位。大化改新に不満の軽皇太子が暗殺。
⑪難波副都の軽皇太子、筑紫倭王家の高市天皇暗殺后、文武天皇に即位。大和朝廷「日本国」開闢。
《注意》評制施行の天下立評そのものは、『常色の宗教改革(I「評」制は「誰」が「何時」施行したか):正木裕著』で言う、己酉(六四九大化五《九》常色三)であるが、時代区分としての灘波副都の完成年次の白雉元年652年とした。
このように考えると、九州王朝から大和朝廷に実権が完全に移行したあとの文武天皇の大宝改元以降も、
〔木簡「長屋親王宮鮑大贄十編」の出土からわかることは、高市皇子は実は即位していた。なので高市天皇の皇子の長屋は「親王」である。〕
での長屋親王とか、
〔橘諸兄は九州王朝王族の子孫だった。〕
の大宰府系と思われる九州王朝王族の生存・存続記事もあり得ることとなります。
なぜか、私には永年不思議だった大和朝廷の天皇が筑紫に還りたい、とか戻りついた、とか言ってる次の記事
〔九州王朝難波副都完成の翌年653年(書紀白雉4年:孝徳9年:白雉2年)『この年、皇太子(中大兄皇子)が奏請して、「願わくは倭京に還りたいと思います」といった。
(孝徳)天皇は許さなかった。・・・途中略・・・「倭の飛鳥(福岡県小郡市井上飛島)の河辺の行宮にうつり住んだ。・・・・」』
661年(斉明7年:白鳳元年)『4月、(斉明)天皇は朝倉〔福岡県朝倉郡朝倉町山田〕の宮に遷居した。
6月伊勢王が薨じた。秋7月24日、(斉明)天皇は朝倉の宮で崩じた。
8月1日、皇太子(中大兄皇子)は天皇の柩を移し奉って、磐瀬(福岡市三宅 伊予国宇摩郡津根・長津)の宮にもどりついた。・・・』〕 も 〔遠征中の彼等のもともとの古巣が筑紫だった〕 とすれば一挙に氷解し納得できます。
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Ⅳ・②『日本書紀』 と 『白村江「以前34年」を「以降34年」に切り貼り』
日本書紀が、九州年号で書かれた倭国史書を盗用して如何に改編したかについて、正木裕氏は、
〔日本書紀『持統紀』の真実—書紀記事の「三十四年遡上」現象と九州年号〕
の中で、その改編の手法のひとつを以下明らかにしている。
要は当時の日本は西暦は一般的でなく、「60年周期の干支」と「倭国の元号」(=九州年号)が史書編纂・編年の拠り所だったということです。
『書紀編集者は、九州年号 「白雉・白鳳期」 の記事の一部を編者の都合にあわせて切り取り、 「白雉を朱鳥」 に、 「白鳳を大化」 に各々元号を入れ替え、九州年号の朱鳥・大化期に貼り付けたのだ。
そうした上で、邪魔な九州王朝の「元号」を消去し、近畿天皇家の天皇の治世・年号にあわせて書紀を編纂した。
「朱鳥」2年から9年までは「持統」元年から8年に、「大化」1,2年は「持統」9、10年に、というように。
このような手法によって始めて 「34年前」 の事実が 「天武・持統期」 に近畿天皇家の事跡として記述出来る。
書紀編集者は、
〔白村江敗戦の翌年の天智3年(664)から、『日本書紀』の終わる持統11年(697)までの「34年間」に〕、
〔白村江敗戦以前の「過去の歴史記事」〕
を貼り付け、その間の歴史を改変・創造したことを意味する。』 と言う。
「34年前」 の事実が 「天武・持統期」 に近畿天皇家の事跡として記述されている例としていちばん眼に付くのが、いわゆる、
『天武天皇の詔(複都制683年:天武12年:白鳳23年)で、12月17日、また詔して、
「およそ都城・宮室は、1ヶ処ではない、必ず2・3ヶ処を造る。それゆえ、先ず難波に都を造ろうと思う。
そこで、百寮(官)は、それぞれ〔難波に〕行き、家地を請え」 と詔した』
の〔造複都難波京〕683年時期です。
なお、加えて、
『飛鳥ともに難波京を都とした』 と前後の記事の状況から書くものがいるが、複都制(=両都制、両京制)採用は、広大な領土を有する国に多く採用されるので、これでは近すぎて複都の意味をなさない、あるとすれば 『大宰府ともに難波京を都とした』 だろう。
上記の天武天皇・詔は、正木裕氏の上記に記載の34年遡上説に従うと、これこそが、34年前の649年(大化5年:孝徳5年:常色3年)の出来事〔造複都難波京〕となり、その後は652年(書紀白雉3年:孝徳8年:白雉元年) 「正月より是の月に至るまでに、班田すること既におわりぬ(立評の完成)。
凡そ田は、長さ三十歩を段とす。十段を町とす。段ごとに租の稲一束半、町ごとに租の稲十五束。」
「同年、2月(白雉改元儀式)」 「同年、秋9月、宮を造ることがまったく終わった(九州王朝難波副都完成)。
その宮殿の形状は、とても論じつくせない。」 へと続く、とのこと。
(参照:白雉年間の難波副都建設と評制の創設について)
〔メモ:大化改新の詔646年(大化2年:孝徳2年:命長7年)の方が、これよりも古い出来事となるが、はたして
どうしてこうなったのだろうか?〕
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Ⅳ・③『書紀編纂手法・50年前へ移動』 と 『大化改新詔』
以下は古田史学の会の
【 古賀達也氏の『洛中洛外日記』第196話 2007/11/16 「大化改新詔」50年移動の理由 】
のそっくり転載です。
「難波朝廷天下立評給時」 記事から倭国史改編手法のひとつ 「50年前移動」
が明らかになって、ようやく、
『郡評論争』・『大化改新詔』・『九州王朝難波副都説』 がみえてきました。
—————〔「大化改新詔」50年移動の理由〕—————
『延暦23年(804)に成立した伊勢神宮の文書 『皇太神宮儀式帳』
の 「難波朝廷天下立評給時」 という記事から、それは 「難波朝廷」 の頃というだけではなく、前期難波宮九州王朝副都説の成立により、文字通り九州王朝難波副都で施行された制度と理解できます。
太宰府政庁よりもはるかに大規模な朝堂院様式を持つ前期難波宮であれば、中央集権的律令制としての 「天下立評」 を実施するのにまったく相応しい場所と言えるのではないでしょうか。
そして、この点にこそ『日本書紀』において、大化改新詔が50年遡らされた理由が隠されています。
九州年号の大化2年(696)、大和朝廷が藤原宮で郡制施行(改新の詔)を宣言した事実を、『日本書紀』編纂者達は50年遡らせることにより、九州王朝の評制施行による中央集権的律令体制の確立を自らの事業にすり替えようとしたのです。
その操作により、九州王朝の評制を当初から無かったことにしたかったのです。
『日本書紀』編纂当時、新王朝である大和朝廷にとって、自らの権力の権威付けのためにも、こうした歴史改竄は何としても必要な作業だったに違い有りません。
このように考えたとき、「大化改新詔」が50年遡らされた理由が説明できるのですが、しかしまだ重要な疑問が残っています。
それは、何故『日本書紀』において前王朝の年号である大化が使用されたのか、この疑問です。
九州王朝の存在を隠し、その業績を自らのものと改竄するのに、なぜ九州年号「大化」を消さなかったのでしょうか。
これは大変な難問ですが、わたしは次のような仮説を考えています。
藤原宮で公布された「建郡」の詔書には大化年号が書かれていた。この仮説です。
恐らくは各地の国司に出された建郡の命令書にも大化2年と記されていたため、この命令書が実際よりも50年遡って発行されたとする必要があり、『日本書紀』にも「大化2年の詔」として、孝徳紀に記されたのではないでしょうか。
しかし、この仮説にも更なる難問があります。それなら何故、藤原宮で出された「改新詔」に他王朝の年号である大化が使用されたのかという疑問です。
わたしにはまだわかりませんが、西村秀己さん(古田史学の会全国世話人、向日市)は次のような恐るべき仮説を提起されています。
「藤原宮には九州王朝の天子がいた」 という仮説です。
すなわち、「大化改新詔」は形式的には九州王朝の天子の命令として出されたのではないかという仮説です。
皆さんはどう思われますか。わたしには、ここまで言い切る勇気は今のところありません。
これからの研究課題にしたいと思います。』
【『日本書紀』の「大化改新」記事は、「倭国史本来の(=プロト)大化改新」を、故・鹿島昂氏が指摘した新羅『毘曇(ひどん)の乱』の顛末に沿うように、「登場人物、及び、事件の発生順序(下図★*印参照)」を、“巧妙に”差し替え、“ブロック単位でそっくり”Just五〇年前へ転載したものである。】
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Ⅳ・④『「 評 と 郡 」 ・ 「 都督 と 評督 」 』 と 『 天 下 立 評 』
以下は、
『古代史再発見第2回:王朝多元―歴史像―古 田 武 彦 :1998年9月26日(土)大阪・豊中解放会館』
からのまったくの転載ですので、悪しからず。
◎〔九:郡と評〕
それでは国内の方にその現れはないかというと、あるわけです。
有名なテーマとして、戦後歴史学界の最大の論争と言うべき郡評論争です。
井上光貞氏とお師匠さんである坂本太郎さんの論争です。
当時若い講師か助教授であった井上光貞氏は、日本最大の歴史学会である東大の史学会で研究発表された。議長は恩師である坂本太郎さん。
「大化改新の信憑性について」という発表である。
『日本書紀』はおかしい。これには問題があるのではないか。特に大化改新のところで盛んに「郡」と書かれている。郡司という形で出てきている。
しかし金石文やちょっとした系図などで見ると、どうも7世紀後半に「郡」という制度が存在した形跡はない。
逆に「評」という制度が存在したことが伺われる。
そうすると『日本書紀』の「大化改新の詔勅」に問題が在るのではないか。そういう発表が有った。
これに対して議長の坂本太郎さんは、「今の発表は、私としては承伏しかねる。
しかし私は議長だから主張する立場にないので、改めて論文を持って反論して答えたい。」と言った。その後両者の間で論文における論争が始まった。それで日本中の学者がどちらかに付いてという感じで一大論争になった。
それで結論は若いお弟子さんの方の井上光貞氏のほうが、勝ったというか正しかった。
それは最終的に奈良県の藤原宮の木簡(荷札)で決着が付いた。
それを見ると七〇一年を境にしまして、それから前は「評」しか出てこない。郡はその後しか出てこない。そのことが非常にハッキリしてきた。
そればかりではなく静岡県浜松市浜松駅(旧貨物駅)の伊場の木簡からも同じく七世紀末までは「評」、それ以後が「郡」で出てきた。同じ形で次々出てきた。
木簡そのものは、くだらんと言えば言えるが、荷札ですから用済みになったら捨てるものである。
それであるだけにイデオロギーに関係しないから、実用にたてば良い。そういう立場から見ますと、木簡というのは非常に正直な史料とみても、そう間違いはない。
その正直な史料である木簡が全て七世紀末迄は「評」、以後が「郡」になっていますから、井上光貞氏の言うとおりが正しい。そういう形でドラマチックな結論を見た。
私が『「邪馬台国」はなかった』を出す四・五年前です。決着を見たのです。
ところがこのように決着を見たのですが、私のほうから見ると、まだ本当の決着は付いていないと私は考えています。
なぜかと言いますと、坂本太郎さん自身が言ったとおり、「事実問題としては井上君の言ったとおりであると思うが、しかしなぜ『日本書紀』がそれを郡と書き換えなければならなかったのか私には分からない。」と言われた。
そういう問題が残っている。坂本太郎さんは非常に正直な方である。
なぜ正直かということを知っているかというと、わたしはお世話になった坂本太郎氏にもよく本をお送りした。
そうすると葉書で返事を下さって、「あなたの本を頂きました。今読み終わってたいへん困っています。」という返事を送ってこられた。
普通そういうことを書かない。「本を送って頂いてあり難うございます。参考にさせて頂きます。」というような当たり障りのない返事を書く人が多いではないですか。正直な人でないとそういう書き方をしない。
その正直な坂本太郎さんが、今の論争が決着したと認めた後、しかしわたしには、まだ疑問が残っている。
なぜ『日本書紀』が現実に「評」であるものを「郡」と書き直したか、私には理解できない。
その通りである。そういう坂本さんのぼやきにもかかわらず、そういうことを現在の学界は無視して、孝徳天皇の時から評制が開始された。これが正しいと、現在の学界では位置付けている。そういう処理をして現在に至っている。
しかし私は思いますが、現実は「評」であるということを我々は荷札で分かったわけですが、当時の『日本書紀』の編集した人は端(はな)から承知していた。
『日本書紀』は七二〇年に作られた。二〇才の青年は赤ん坊だから知らないけれども、四〇才の人は二〇年「評」の中で生活している。五〇才の人は三〇年間「評」の中で生活している。
そんな年の連中が『日本書紀』を作っているわけでしょう。みんな自分たちが子供の頃は評であったことを、満場一致だれもが知っていることである。何回も出てきますからね。
それをみんな「評」を「郡」に書き変えたのか。ついうっかり書き換えたでは済まない。
やはり「評」という制度の存在を隠したかった。故意というか、うっかりミスでは有り得ない。何回も出てくる。
その故意は、「評」という制度の存在を隠すための、そういう故意である。そう考えなければならない。そういうことは論理の筋道からして当然ではないか。
その「評」という制度はとうぜん一人の人間が気まぐれに言い出したのではなくて、当然権力が施行したと考えなくてはならない。
その「評」という制度を隠したという事は、とうぜんその制度を施行した権力を隠すということの目的以外には有り得ない。
つまり七〇一年以前には、七〇二年以後の近畿天皇家とは別の権力が存在した。そのことが無いような顔をして、『日本書紀』を作らなければ、ならなかった。
「評」という制度が出ていては都合が悪かった。だからずっと「郡」でしたという建て前、(「郡」は孝徳天皇からでしたという建て前)――読んだ方は、みんな嘘だと知っている。言ったら駄目よ。――そういう建て前の本を作った。
「評」という制度を真に施行したのは誰か。この場合には、近畿天皇家以外に施行したのは誰か。そういうふうに論理に絞られてくる。
論理的に考えて見て七〇一年以前に、近畿天皇家ではない権力中心が――制度を相当広範囲に施行するというのは、権力がなかったら存在しない。
静岡県浜松市まで広がって出てくる。もちろんまた九州にも系図などで出てくる。そういう広範囲に施行されている――、絶対に権力が施行したに決まっている。私がそう言っても想像ではない。想像かもしれんが、万に一つの疑いのない想像です。
その権力を近畿天皇家は隠している。『日本書紀』は隠そうとして書かれている。こうならざるを得ない。それは何者かといえば、言うまでもない。先ほどの中国の歴史書にある倭国である。
中国側はなにも近畿天皇家に遠慮したり、ゴマをすったり、遠慮する必要は何もない。
その中国側の史料によれば、倭国は七〇一年で滅亡した。志賀島の金印以来の倭国を滅亡して、その分家であった日本国が併呑したと書いている。
併呑した側が郡制であって、併呑された側が評制であったと考えざるを得ない。
◎〔十:都督と評督〕
しかも郡の場合には郡司という役職はあるが、評の場合は「評司」という言葉はない。
金石文その他で出てくるのは、「評督」という言葉である。だから違いがある。
『日本書紀』を「評」という言葉をただ「郡」に書き直せば良いという訳にはいかない。役職名が違う。
ところが「督」という言葉は見覚えがある言葉である。何が見覚えがあるかというと「都督」という言葉で出てくる。
先ほど説明しました『宋書』をご覧下さい。
■太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表獻方物讃死弟珍立遣使貢獻自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王
・・・
■二十八年加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故并除所
・・・
■順帝昇明二年遣使上表曰
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■開府儀同三司其餘咸假授以勸忠節詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王・・・
『宋書』に倭王は中国側から見ると都督であると何回も出ている。倭王は都督であったことは疑いがない。「都督」がいたところを中国側が歴史書でどう読んでいるかというと「都督府」という。
中国側で天子のもとの役所を「府」という。京都府とか、大阪府というのはその流れである。
それでは日本で「都督府」が存在した形跡がある場所があるかといえば、一つだけある。文献的には『日本書紀』天智紀に出てるのですが、「筑紫都督府」という言葉が出てくる。筑紫は当然福岡県です。
日本書紀 巻第廿七 天命開別天皇 天智天皇 六年春二月壬辰朔戊午。
・・・
十一月丁巳朔の乙丑に、百済鎮将劉仁願、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聰等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。
それでは現実の場所に「都督府」という名が残っている所はあるか。これも一つだけ在る。福岡県の太宰府に行かれると遺跡があって、その前に大きな石碑が建っていて、そこに「都督府楼跡」として出てくる。
普通現地の人はこれは「都府楼」と言っている。これが「都督府」の略形であることは疑いがない。例として中世文書でも太宰府は太府と略するのと同じ形である。「都督府」のことを「都府」と呼び、建物のことを「都府楼」と言っている。
『日本書紀』にある「筑紫都督府」に一致している。
これに対して大和都督府とか近江都督府等は、文献にもないし、現実にそんな呼び方も全く残っていない。
ということは日本で都督府があったと見られる所は全国で一カ所で、福岡県太宰府市の筑紫都督府だけである。
これも意地悪ではないが、いろいろお世話になっている岩波古典大系での「筑紫都督府」のところの注釈が凄い。
これは『日本書紀』を作る原本があって、その原本が写し間違えて、それを又そのまま写し間違えたものである。想像に想像を重ねている。『日本書紀』の原本などは誰も見ていない。
ところが『日本書紀』のまた元が、写し間違いをして「筑紫都督府」と書いて、それをそのまま写し間違ったのだろう。これは「書いてあるけど信用するな。」
と書いてある。あんな注釈、よくも書けたなあ。という気がする。一度帰ってご覧下さい。もちろんこれは苦し紛れとしか言いようがない。
「筑紫都督府」というのは、中国が使いを送ってきた。捕虜を返す場所の記録として「筑紫都督府」という名称があったことは疑いがない。書かれて残っているとおりである。現在も名前が残っている。ということは、あそこに都督が居たということになる。
大和に都督が居るのに、筑紫に都督府があるとしたらおかしい。
「都督」というのは中国で使って東アジアでは有名な政治用語です。出来上がった述語です。
「都督」という言葉、これが元になって出来たのであろう言葉である「評督」というは、東アジア・中国・朝鮮にはないメイド・イン・ジャパンの言葉である。メイド・イン・倭国の言葉ですが、このメイド・イン・倭国の言葉を造るうえで、元になっているのが「都督」という言葉と考えるのは、それほど無理がない。
つまり私が言いたいことは、「評督」という言葉が各地で出てくるが「評」という言葉は関東から九州まで出てくる。
そこの長官が「評督」で、それを統括する長官が居ないということは有り得ない。みんなが自発的に勝手に名前を付けました。それでは、九州から関東まで同じ名前が付かない。そういうことはあり得ない。それを統一した場所がどこかというと「都督府」である。
各地の評の長官が評督、評督が数ある中でそれを統括したのが都督である。その都督が居たところが都督府。こう考えるのが一番筋が通った考え方である。
都督となるとメイドイン・ジャパンではない、中国の言葉である。倭王でないと名乗れない。倭王でない人間が私も「都督」と名乗りたいと言っても勝手に名乗れるものではない。
となりますと今述べた評制の中心は今の九州・都督府である。このように考える。
そのことは『旧唐書』に書いてある事と一致している。倭国というのは志賀島の金印の以来の国が、全部倭国であり、白村江もその倭国と闘った。それを倒した。
それを分家である日本国が併合して統一の王者となったことを、それを倭国を倒した方の唐が承認した。則天武后が承認した。こう言っている。その話ときちんと合う。
それを中国側の史料、後代史料とは言えない唐が滅んだ直後に書かれた『旧唐書』でも、そのように言っているし、(唐が滅んで)百年近く経って編纂された『新唐書』も同じ立場に立っている。
だいたい中国の中でも唐ほど、日本と関係が深かった国はない。その唐が『新唐書』・『旧唐書』を通じて一致して言っていることを、日本が『日本書紀』『古事記』に合わないから、あれは嘘だよと言ってみても、私は「夜郎自大」というか「手前味噌」としか言いようがないと思う。
率直に言って、私は天皇家のことを良く言うとか悪く言うとか、まったく無関係で、天皇家が素晴らしいということが史料を追跡してわかった場合は遠慮無く言いますし、そんなイデオロギーとはまったく無関係である。
そんなことには関係なく、筋道として日本と最も関係が深かった白村江で闘ったその中国が『旧唐書』『新唐書』を通じて書いていることを、ウソだという言い方が出来る資格のある人はどんな日本人にも、学者にも、いないと思う。
天皇家の御用学者だから、それを守らなければ我々は食べていけないと言うのなら、それはもうおしまいで、仕方がない。しかしそれは本当の学問ではなく、国際的に通用するべき学問でもない。わたしはそう思います。
わたしが今日言いたかったことは「七〇一」という問題でございます。「七〇一」を前提にしない日本の歴史は疑わしい。はっきり言ってインチキである。
残念ながら現在の教科書や学者の本は、皆いかがわしい立場に立って書かれていると、言わざるを得ない。そういうことをはっきり言うから、古田を相手にしなければ、いずれ死ぬからという期待に胸を躍らせていると思う。しかしわたしは「それは思い間違いだ。」と思う。わたしの言うことが無理無体なら、死んだらもちろん消え去るであろう。
しかしわたしの言うことが筋が通っているなら、わたしが死んだらよけい始末に負えなくなる。生きているときは「あんな奴が言うことは信用できるか。あんな奴が井上光貞先生や津田左右吉先生より偉いと思うか。」と問われるだけだが。(両方とも)死んでしまえば、いずれ劣らぬ死んだ人間ですから、残るのは論理だけの勝負ということにならざるをえない。(それで競争しなければならなくなる。)大体今までの歴史上もそうである。
死んだら何とかなると思って、そういう思惑からイエスは処刑された。本居宣長も江戸幕府は勝手に町医者に言わせ放しにしていた。学問というのは朱子学で、国学を学問とは江戸幕府は一回も認めなかった。
ところが亡びたのは国学ではなくて朱子学である。歴史のどれを取ってみても、その道理は一貫している。それは明らかである。体制側にいると、それが分からない。あいつさえ死ねば何とか成る。はかない望みを持つ。
――体制を握っていたら宣伝力は抜群であるから――そう考えて最後は宣伝力で勝負するという態度に、ついつい出てしまう。わたしは、そう思っております。しかし、それは終わりに近づいていると理解しています。
以上は、
『古代史再発見第2回:王朝多元―歴史像―古 田 武 彦 :1998年9月26日(土)大阪・豊中解放会館』
の引用・転載です。
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◎「評と郡」・「都督と評督」・「天下立評」における「わたしの理解」について
九州王朝「倭国」王の 珍 が、438年、中国・宋に朝献し、自ら「使持節 都督 ・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍 倭国王」と称し、宋文帝によって「珍安東将軍倭国王」と認めらた時点で、既に「都督と評督」制が行われていたと分かる。
この時点での九州王朝「倭国」の「都督と評督」制の実施範囲であるが、その直轄地の「筑紫(=九州)島」、のほかに半島の「任那」において施行されていた。
また、この時代の本州・四国地区は、九州王朝「倭国」が征服途上であるが、征服後も直轄地ではなく、後に倭国附庸王国「出雲・加賀・吉備・『秦国』・尾張・毛野(常陸)」となる間接統治の連邦附庸王国制が採用されていたと考えられる。
そのため、本州・四国地区については、その後も「都督と評督」制は採用されていなかった。
その約200年後は、隋・唐がしつこく高句麗の侵略を繰り返し、やがては百済・倭国へとその矛先が向いてくると予想した九州王朝倭国の「天帰王(あまぎ・甘木)」が正木裕氏の言う「常色の改革」を推し進める一環として、「天下立評」があり、造複都「難波京」の建設詔649年10月が発せられ、652年「難波京」完成を祝って「白雉改元儀式」が大々的に挙行された。
すなわち、本州・四国地区においても「都督と評督」制が採用された。「天下立評」とは、天下(=本州・四国地区)の立評(=評制施行)である。
さらに、「天下立評」は「難波京」に常駐の九州王朝「倭国」の分家「難波副都倭弟王家」の一任で実施された。
九州王朝「倭国」の末王「高市天皇」が、「プロト大化改新:696年」この評制を郡制へ改新しょうとしたが、想いなかばにして「プロト大和朝廷(=九州王朝「倭国」の分家「難波副都倭弟王家」)」の藤原不比等の同調者にクーデターで暗殺されて、九州王朝「倭国」は696年滅亡する。
この「郡制施行(=建郡)」は九州王朝「倭国」のあと、クーデターで実権を握った大和王朝「日本国」に引継がれ、開闢と同時の701年実施された。
「プロト大和朝廷」とは九州王朝「倭国」の分家「難波副都倭弟王家」であり、「常色の改革」の一環としての「天下立評」は自らの祖王の事績でもあったのだが、九州王朝「倭国」の抹殺と同時に、「天下立評」も無かったことにし、“一足跳びに”、「郡制施行(=建郡)」の「大化改新」へと置き換えたしまった。
九州王朝倭国「天帰王」が「常色の改革」の一環として実施の「天下立評」が倭国の「出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野(常陸)」連邦附庸各王国へ与えた衝撃が想像できます。
この間一髪の「常色の改革」によってこそ、九州王朝倭国が分家ではあっても「大和朝廷」として存続・継続し得たと言えます。
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Ⅳ・⑤『漢委奴国・邪馬壹国・親魏倭国・委国・倭国・大倭国・俀国はどこか? 存在したか?』
漢委奴国・邪馬壹国(x邪馬臺国)・親魏倭国・委国・倭国・大倭国・俀国はどこか?しかも、この科学の時代に今もなお何故わからないのでしょう?
それは九州王朝『倭国』の主だった史実を、『日本書記』が抹殺し・隠しているからでしょう。とてもまともな史書とはいえませんね、いわゆる偽書の類でしょう。
九州王朝『倭国』は
『白村江の戦い』(西暦662年)
に敗れる迄、九州(筑紫島)を本拠に・出雲・加賀・吉備・『秦国』・尾張・毛野(常陸)・任那等を含む連邦国家で、日本列島及び半島最南部を代表する政権だった。
(参照):連邦制を彷彿させるものとしては、古田武彦氏が著書『よみがえる九州王朝』で「幻の筑紫舞」を紹介している。
〔肥後の翁(西山村光寿斉):加賀の翁(光寿):都の翁(筑紫):難波津より上りし翁(若光寿):尾張の翁(和光):出雲の翁(右寿):夷の翁(佳光也)〕演ずる「七人立」の「西山村にしやまむら流、舞の会」をである。
私はこの連邦国家の構成員であった飛鳥・葛城の『秦国』が、唐・新羅に唆(そその)かされ白村江の戦いで倭国を裏切ったものと思います。
そもそも、その『秦国』は新羅(旧名:秦韓)の移民・植民地だったのではとも思ってます。
高句麗・百済・九州倭国を 「南北枢軸国」 とすると、唐・新羅・『秦国』は 「東西枢軸国」 であり、倭国連邦・連合分断の楔(くさび)だったわけです。
では、この『秦国』が大和朝廷「日本国」へ発展したのでしょうか?
日本書紀は白村江敗戦後の九州王朝「倭国」から大和朝廷「日本国」への政権交代を語ろうとしないわけですが。
先の日米の太平洋戦争敗戦後の米軍の進駐・占領を思えば想像に難くないわけで、認めたくないかもしれませんが、日本は白村江敗戦と、太平洋戦争敗戦の「敗戦による進駐・占領」を2度経験しているのです。
九州王朝『倭国』が白村江の敗戦を期に、マッカサーの厚木飛来同様、唐軍2千人規模ではあるも、数度の筑紫都督府(=大宰府)進駐。
当然、破壊示威・略奪暴行もあったでしょう。
倭国白鳳王・薩夜麻不在での留守居倭王権の混乱・政権建直しで近江朝の独立(=天智天皇の遷都・即位)・倭国の戦後賠償・レジスタンス抵抗・唐のジレンマ。
更に10年后の、捕虜になって洗脳された筑紫君薩夜麻(=明日香皇子、白鳳王661-684年、天武天皇)の唐よりの解放・帰還。
筑紫君薩夜麻(=天武天皇・白鳳王)は帰国と同時に倭国白鳳王復位を宣言し、当時、唐が占領の筑紫都督府、及び近江朝の本州・四国に分裂していた倭国の再統合を要請した。
これにより
『壬申の乱』(西暦672年:天武元年:白鳳12年)
の発生。
倭国王としての復位するも、唐の倭国傀儡政権化・いっそうの過酷賠償による疲弊。
九州王朝『倭国』は白村江の敗戦を期に一気に衰弱し、さらに『壬申の乱』を経て、最期の本来の『プロト大化改新』をとどめに滅亡に至った。
その後は中央集権国家の大和朝廷『日本国』が701年開闢したと理解できよう。
ただこの大和朝廷『日本国』もいきなり出来たわけではなく、その約50年前に前身の『プロト大和朝廷(=難波副都倭弟王家)』が出来るきっかけは、九州王朝「倭国」の天帰王(甘木王)が実施した「常色の改革」の一環としての難波副都での「天下立評」がその発端でしょう。
日本の古代史云々を語る者は、何はさて置き、
『何故、国内的には「日本書紀」が九州王朝「倭国」を抹殺したのか、対外的には、大和朝廷「日本国」がどういう経緯で忽然と極東アジアに現れたのか』
を明らかにしなければならない、と私は考えます。もうそのほとんどが、ほぼ明らかになっているのでしょう。
ようするに、要点を見逃してる、なにか決め手に欠けてるというか、そのほんの些細なことを見落としていないだろうか。
では、この過程・経緯・顛末を詳しく調べてみようではないか。
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◎白村江戦以前・「常色の改革」・「天下立評」以降
Ⅴ・①『風雲急を告げる大陸の情勢』と『白村江戦い以前』
川端 俊一郎著の『隋唐帝国の北東アジア支配と倭国の政変』によって、氏の外国史料に基づく当時の理解はその的確性において卓越している。
しかし
『何故「日本書紀」が九州王朝「倭国」を抹殺したのか、大和朝廷「日本国」がどういう経緯で忽然と極東アジアに現れたのか』の説明になっていないのではないかと思う。
若し、蘇我馬子(=有明子)をはじめとする蘇我氏こそが飛鳥・葛城の『秦国』王家であり、その『秦国』が母体・核となって大和朝廷「日本国」へ発展したと「仮定」した場合、その王朝史となる「日本書紀」が九州「倭国」を抹殺しただろうか?
私は思うに
『抹殺せずその「討伐経緯」をむしろ誇らしげに書き込んだ』だろう。
これが、連邦国家の他の一員である出雲・加賀・吉備・尾張・毛野(常陸)であっても同様であったと考えます。
「隋書」俀国伝中に、
『明年(大業4年:608)、上、文林郎裴清を遣わして俀国に使いせしむ。
百済を渡り、行きて竹島に至り、南に聃羅を望み、都斯麻国を経、迥かに大海の中に在り。
又東して一支国に至り、又竹斯国に至り、又東して秦王国に至る。其の人華夏に同じ。以って夷州と為すも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。
又十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す。』
と記載あるように竹斯国(九州島)以東で目ぼしい国といえば秦王国だった、この秦王国さえも俀に附庸すると言っているが。
この隋書でいう秦王国こそが飛鳥・葛城の『秦国』王家であり、蘇我氏であろう。この時点であっても、大和朝廷「日本国」という記述はどこにもみあたらない。
なお、古田武彦氏は著書「失われた九州王朝」で竹斯国(=筑紫国)より東へ、秦王国と十余国を経て海岸に達するという。だから、この海岸が九州の東岸であることは疑えない。
と言ってるが、私のは竹斯国(=九州島)であり「海岸」は常陸国(茨城県)の九十九里浜である。隋書時代の視点はもっと広かったと思う。
今、数えで7年に1度の諏訪大社の御柱祭でテレビが連日放映している。この「諏訪」は山口県東半分の「周防」の地名遷移といわれている。
大和朝廷になって防府市が国衙であり、九州王朝時代は光市の「小周防」に国衙があったと言われている。周防湖(諏訪湖)を埋め開拓したのが秦氏であり秦国だともいい、果ては、この秦氏が東遷したとも言われている。
あっそうそう「小周防」で思い出した、日本書紀の壬申乱以降を少しでも読んだことのある人は「吉野の宮に行幸した」と同じくらいの頻度で「広瀬と龍田の神とを祀った」という記事がある。秦国に関係するかもね
日本書紀608年(推古16年9月11日)
〔ここに天皇「隋帝 唐帝 」を聘ふ。その辞に曰く
「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す。使人鴻臚等の掌客裴世清等至りて久しき億ひ方に解けぬ。李秋薄冷尊如何に想ひ清悆此れ即ち常の如し。今大礼蘇因高・大礼乎那利等を遣わして往かしむ謹白具ならず」〕
これは『秦国』の朝貢記事ではないだろうか
日本書紀632年(舒明4年10月4日)
〔高表仁に告げて「天子の命じた使が、天皇の朝廷に到来したと聞き迎えます」といった。
高表仁 が答えて「風の寒い日に、船を飾り整えて迎えを賜い、歓びまた恐縮しています」といった。〕
この時の朝廷とは『秦国』であり、この時唐国と同盟のよしみ誼を結んだだろう。
日本書紀647年(孝徳3年:常色元年)
〔この歳、新羅が大臣大阿飡金春秋(のちの武烈王)らを遣わして、博士で小徳の高向黒麻呂、小山中の中臣連押熊を送ってきて、孔雀一羽、鸚鵡一羽を献上した。そこで春秋を人質とした。春秋は姿や顔が美しくよく談笑した。〕
この647年は、新羅で正月毘曇が反乱を起こし、金春秋・金庚信が誅殺したいわゆる「毘曇の乱」と同年である。
そんな余裕が金春秋にあったか疑わしいが、金春秋は新羅で647年正月「毘曇の乱」を収め、すぐその足で来たことになる。
来たのは倭国か、秦国かということだが、「唐国・新羅・秦国の東西枢軸」への参入勧誘・交渉の為に唐の内意を受けて、『秦国』へ自ら赴いて来たというのが正解だろう。
隋・唐がしつこく高句麗の侵略を繰り返し、やがては百済・倭国へとその矛先が向いてくると予想した九州王朝倭国は〔造複都難波京の詔:649年10月〕を発して難波宮に拠点(副都)を設け天下立評・『秦国』王家の蘇我氏の排除を計画・実行した。
その際、「両京制」「兄弟王朝制」倭国は即断即決の為、王家を大宰府兄王家と難波副都弟王家に分担した。
当初倭王は大宰府倭京と、副都・難波京を数度往復したであろうが、その後は、難波京に王家分家の弟王家が常駐することになったであろう。
当然、唐は高句麗を屈服させた後に、半島を陸路で百済へ侵入すると想定してたはず、しかし、唐は山東半島から直接海路侵入してきた。
百済は思わぬ侵略にあわてたことだろう。660年百済は壊滅した。
その前の659年、倭国・ 日本国 秦国 の遣唐使が喧嘩・拘束されたのはその計画を本国に察知させない為だろう。
「冊府元亀」に
『(顕慶4年:659:高宗)10月、蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す』とある、蝦夷国人は大宰府倭国の使とともに入唐したのである。
この記事に何故拘(こだわ)るかと言えば半島や唐との関係悪化に備えて、九州王朝倭国が「難波副都」を基点に更に東方の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化し後塵の憂いを除く、のも一つ目的だったとすれば、蝦夷国が倭国の使に随いて入朝は難波副都倭弟王家の成果である。
と同時に、難波副都倭弟王家はこの時点では大宰府兄王家に「従たる存在」だったと分かります。
倭国が難波副都で652年「天下立評」して以降、倭国は『秦国』王家の蘇我氏の取込みができなかったようで、660年百済壊滅の直前の659年、倭国・ 日本国 秦国 の遣唐使が喧嘩・拘束記事につながったのだろう。
この時の「日本国」とは、唐国・新羅に唆(そその)かされて同盟・遣使の『秦国』で、この王家が蘇我氏だと考えると、白村江の戦い前後まで蘇我氏は健在で、難波副都倭弟王家の天智天皇は『秦国』のブロックのため白村江に出兵できなかった。
否この時蘇我氏を打倒したのかもしれないが、その後に少なくとも滅ぼされたことになる。
飛鳥寺・四天王寺・川原寺・山田寺は『秦国』を代表する寺社・仏閣である。
白鳳地震の後どうも捨て置かれたみたいで、発掘調査で塀が倒れたままの状態とかで発見されている。
『秦国』王家の蘇我氏がこの時点で滅亡していたと考えられる。確かに壬申乱以降、日本書紀に蘇我氏の名前が出て来ない。
(なおここで注意したいのは、日本書紀は大宝元年 『日本国』 が成立以降、倭附庸国『秦国』と隋・唐の密使との外交秘史が、隋・唐の中国外交正史書に記載無いことを良いことに、『秦国』を 『日本国』 へ書き換えたものと推測できることである。)
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Ⅴ・②『難波朝廷天下立評給時』 と 『天子伊勢王こそ、評制創設の立て役者』
わおっ。皇太神宮儀式帳」より抜粋「初郡度會多氣飯野三箇郡本記行事」条
・『難波朝廷天下立評給時』 の記事がネット上に有った、ありがたい。
『確かに、『評制施行の史実』が、「木簡」だけでなく、「文書」でも確認できた“非常に有意義な一瞬”である、すごーい。
そのうえ、更に、『評督領(こおりのかみ)』も併せて確認できる。
「古代史獺祭:皇太神宮儀式帳「初神郡度會多氣飯野三箇本記行事」フレーム」
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/koutaijinnguu_gishikichou/01_fr.htm
〔 「皇太神宮儀式帳」より抜粋「初郡度會多氣飯野三箇郡本記行事」条 〕
一 初郡度會多氣飯野三箇郡本記行事
右従纏向殊城朝廷以來 至于難波長柄豐前宮御宇天萬豐日天皇御世 有爾鳥墓村造庤弖 爲雑政行仕奉支 而難波朝廷天下立評給時仁 以十郷分弖 度會乃山田原立屯倉弖 新家連阿久多督領 礒連牟良助督仕奉支 以十郷分 竹村立屯倉 麻續連廣背督領 礒部眞夜手助督仕奉支 同朝廷御時仁 初太宮司所稱庤司 中臣香積連須氣仕奉支 是人時仁 度會山田原造御厨弖 改庤止云名弖号御厨 即号大宮司支 近江大津朝廷天命開別天皇御世仁 以甲子年 小乙中久米勝麿仁 多氣郡四箇郷申割弖 立飯野宮村屯倉弖 評督領仕奉支 即爲公郡之 右元三箇郡攝一處 太宮仕奉支 所割分由顕如件
一、 初め郡(かむこおり)度會(わたらい)多氣(たけ)飯野(いいの)三箇郡の本記行事
右は纏向殊城朝廷(まきむくのたまきのみかど=活目入彦五十狭茅‐垂仁天皇)より以來、難波長柄豐前宮(なにわのながらとよさきのみや)に御宇(あめのしたしらしらし)めしし天萬豐日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと=孝徳天皇)の御世に至るまで、有爾鳥墓村(うてとりつかのむら)に庤(かむたち)を造りて、雑(よろづ)の政行(かむことのことまろ)として仕え奉りき。
而して、『難波朝廷(なにわのみかど=孝徳天皇)、天の下に評(こおり)を立て給いし時に、』以って十郷を分かちて度會(わたらい)の山田原(やまだのはら)に屯倉(みやけ)を立てて、新家連阿久多(にいのむらじ・あくた)が「督領(かみ)」に礒連牟良(いそのむらじ・むら)が「助督(すけ)」に仕え奉りき。
以って十郷を分かち、竹村(たけのむら)に屯倉を立て、麻續連廣背(おうみのむらじ・ひろせ)が「督領(かみ)」に、礒部眞夜手(いそべのまやて)が「助督(すけ)」に仕え奉りき。
同じき朝廷(みかど)の御時(おんとき)に、初め太宮の司の所、庤司(かむたちのつかさ)と稱(なづ)け中臣香積連須氣(なかとみのかつみのむらじ・すけ)仕え奉りき。
この人の時に、度會の山田原に御厨(みくりや)を造りて、庤(かむたち)と云うを改め名づけて御厨(みくりや)と号(なづ)く。
即ち大宮司と号(なづけ)き。
近江大津朝廷(おおみのおおつのみかど)天命開別天皇(あめことひらかすわけのすめらみこと=天智天皇)の御世に、甲子の年を以って小乙中の久米勝麿(くめのかつまろ)に多氣の郡四箇の郷を申し割(わ)けて、飯野宮村(いいののたかみやのむら)に屯倉を立てて、『評督領(こおりのかみ)』に仕え奉りき。
即ちこれを公郡(みかどのこおり)と爲す。 右のもと三箇の郡を一處に攝(す)え、太宮に仕え奉りき所の割分由(わけさだめたるゆえ)を顕(あらわ)すこと件(くだん)の如し。
延暦23年(804)に成立した伊勢神宮の文書『皇太神宮儀式帳』の『難波朝廷天下立評給時』の記事が残されてたことで、九州王朝倭国の複都:難波朝廷で評制施行が、大和朝廷の郡制施行に先んじること約50年前にあったことが、木簡出土などで分かっていたものの、初めて文書でも裏付けられたということです。
「郡制施行に先んじる、評制施行の史実が文書で裏付けられた」わけですが、このことは更に次の段階である「白雉年間の難波副都建設と評制の創設について:川西市 正木 裕」で述べられている段階へと展開します。
伊勢王は孝徳期白雉改元記事に登場 :ー略ー天武・持統紀には、ー略ー伊勢王関連記事を34年遡上させてみると、
①(683年:白鳳23年)天武12年⇒(649年:常色3年)孝徳5年
《12月13日、諸王五位伊勢王・大錦下羽田公八国・小錦下多臣品治・小錦下中臣連大嶋、并判官・録史・工匠者等を遣はして、天下に巡行きて、諸国の境堺を限分ふ。然るに是の年、限分ふに堪へず。12月17日詔して、「文武の諸官人および幾内の有位の人らは、四季の初めの月(1・4・7・10月)の1日に、必ず朝廷に参内せよ。ー略ー。
また詔して、「およそ都城・宮室は、1ヶ処ではない、必ず2・3ヶ処を造る。それゆえ、先ず難波に都を造ろうと思う。そこで、百寮(官)は、それぞれ〔難波に〕行き、家地を請え」と詔した。》
②(684年:朱雀元年 )天武13年⇒(650年:常色4年)孝徳6年
《冬10月3日、伊勢王等を遣して、諸国の堺を定めしむ。 ー略ー
是年、詔したまはく、伊賀・伊勢・美濃・尾張、四の国、今より以後、調の年に役を免し、役の年に調を免せ。》
③(685年:朱雀2年)天武14年⇒(651年:常色5年)孝徳7年
《秋7月、(中略)27日、詔して、「東山道は美濃より東、東海道は伊勢より東の諸国の有位の人等に、並に課役を免じる」といった。
冬10月10日、軽部朝臣足瀬・高田首新家・荒田尾連麻呂を信濃に遣はして、行宮を造らせた。思うに束間の温湯に行幸しょうと考えたのであろうか。
12日、浄大肆泊瀬王・直広肆巨勢朝臣馬飼を、判官以下、并廿人を以て、畿内の役に任じた。
17日、伊勢王等、亦東国に向うことになり衣袴を賜わった。》
となり、次の伊勢王の白雉改元譚(古賀説では白雉3年・九州年号白雉元年)と見事に連続する。
④(686年:朱鳥元年)天武15年⇒(652年:白雉元年)孝徳8年
《春正月ー略ー伊勢王亦実を得。》
⑤(650年:常色4年)孝徳6年:書紀白雉元年⇒(652年:白雉元年)孝徳8年:書紀白雉3年
《2月ー略ー15日ー略ーこのとき、左大臣、右大臣〔の2人〕がつき従って輿の前部を持ち、〔伊勢王:後に追加した?〕、三国公麻呂、倉臣小屎〔の2人が〕、輿の後部を持って、御座の前に置いた。》
661年(斉明7年:白鳳元年)『4月、斉明天皇は朝倉宮に遷居した。6月伊勢王が薨じた。秋7月24日、斉明天皇は朝倉の宮で崩じた。』記事ではさらっと、6月に伊勢王が薨じ、ついで翌7月斉明天皇が崩じたとなっているが、この伊勢王という人物は斉明天皇と、ひょっとして、同一人物ではないか?
『大化の改新は無かった』で、吾郷 : 鹿島先生の「倭と王朝」の比定表では、舒明が百済の末王義慈、皇極が新羅女王善徳、孝徳が百済の義慈王の王子孝、斉明が新羅女王真徳、天智が孝の弟豊璋という。
その中で鹿島昇氏は「原本では皇極、斉明と続いていて、女帝の皇極のモデルもやはり新羅の女帝の善徳王、女帝の斉明のモデルが新羅の女帝の真徳王であった。のちにその間に孝徳が入ったということになります」と言う。
「毘曇の乱」の善徳王・真徳王の写しが「乙巳の変」の皇極・斉明であれば、その本元が評制創設の天子伊勢王であったとしてもおかしくない。
「古賀事務局長の洛中洛外日記 2008/03/01第164話」〔白雉年号と伊勢王〕
従来、疑問とされてきた天武紀に現れる伊勢王記事が、34年遡り現象により、孝徳期へと移動しうることが、正木さんの研究で判明していましたから、白雉年間の天子としての伊勢王の姿が見えてきたのでした。
難波副都で活躍した九州王朝の天子伊勢王こそ、評制創設の立て役者ではなかったかと考えているのですが如何でしょう。と、
今、伊勢王で検索してたら、〔『伊勢物語』9段の暗号〕というページを見つけた。
思ったより高度な測量技術が古代にあったと言うことらしいが、このほかにも暗号についての膨大なページがあってとても読み切れない。
私の「皇極・孝徳・斉明・天智・天武」の和風諡号に 「天□□」 を持つ5代が九州王朝倭国の分家・弟王家の出身であり、大和王朝「日本国」の前身ということだが、「伊勢王」が「皇極、孝徳、斉明」の1人3役ということからして、「伊勢王・天智・天武」の3代が 、本来のプロト大和朝廷ということになる。
九州王朝「倭国」の「甘木王(=明日香皇子、常色・白雉王)』が647年即位してすぐ、唐・新羅・『秦国』同盟に対抗の為「常色の改革」を発表するが、その一環として「天下立評」し、複都難波京を築き、倭王分家弟王家の伊勢王が常駐する。
この伊勢王が大和朝廷の始祖王で、皇極・斉明天皇は伊勢王と同一人物だろう。
《 メモ 》
日本書紀には『668年(天智7年)6月伊勢王とその弟の王とが、日を接して薨じた(官位は未詳)』と記載している。
先に『661年(斉明7年)4月、斉明天皇は朝倉宮に遷居した。6月伊勢王が薨じた。秋7月24日、斉明天皇は朝倉の宮で崩じた』とあり、「その弟の王」と「斉明天皇」とが、まるで、さも同じと言わんばかりだ。
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Ⅴ・③『九州王朝倭国「天帰王(あまぎ・甘木)」の「常色の改革」以降』
少し、いったん整理をしよう。
九州王朝倭国の(博多駅九大付近の上塔里に居住したであろう)「利」王が薨去后、次王の「天帰王(あまぎ・甘木)」が正木裕氏の言う「常色の改革」を推し進める一環として、天下立評があり、複都「難波京」の建設詔649年が発せられ、652年「難波京」完成を祝って「白雉改元儀式」が大々的に挙行された。
当初「天帰王(あまぎ・甘木)」は大宰府と複都「難波京」を数度往復したであろうが、唐が高句麗をしつこく攻撃を繰り返すという、風雲急を告げる状況で「兄弟王朝」の弟王家出身の「伊勢王」が、天下立評・東国蝦夷皇化の為、倭国軍の約半分を率い「難波京」へ常駐することになったであろう。
難波副都への弟王家と軍隊の常駐ですが、これは何の為か倭国連邦附庸国(出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野)の王・王家・貴族を天下立評での中央集権システムの上級官僚へと取り込む為でしょう。
結果どうなったか、各附庸国は各々少なからずの軍隊持っていたでしょうから、この軍隊を取り上げ、付近の倭国地区官衙の軍隊へ嵌め込んだでしょう。
当初倭国地区官衙の長官は各附庸国の王が就任したでしょうから、以前の命令・指示系統と変わらなかったでしょうが、次世代へ相続は出来なかった。
相続できないから、倭国連邦構成国の各附庸国王家はいつしかバラバラに解体され、大和朝廷が50年后郡制を施行した頃はもう無かったのではないでしょうか。
明治維新の廃藩置県で各旧藩主は華族だ・貴族院議員だとおだてられ下にも置かれなかったでしょうが、戦後は廃れて観る影もありませんね。
天下立評は中央集権的巨大徴税制度であり、従来の倭国附庸国「出雲・加賀・吉備・『秦国』・尾張・毛野(常陸)」連邦制とはそぐわないものであった。
各附庸国の王や軍を地区の国衙官庁・軍の官僚制へ組み込み、各附庸国は自然と解体した。
結果、弟王家は九州を除く、四国・本州を直接実効支配する。こととなり、約10年で弟王家は筑紫の倭兄王家をしのぐ勢いに。
661年「天帰王(あまぎ・甘木)」の「常色・白雉王」が狩の途中不慮の死を遂げ、「明日香皇子・薩夜麻」が大嘗祭もせずにそそくさに「白鳳王」として即位、白村江戦へ自ら出征するも663年敗戦し、途中不幸にも捕虜・連行された。
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Ⅴ・④『娜大津の磐瀬宮は伊予国宇摩郡津根・長津の村山神社:合田洋一著』
日本書紀を読むと、中大兄皇子が白村江戦を指揮したと一見受け取れますが、倭国王薩夜麻のように白村江に出向いて陣頭指揮したとは書かれていないのです。
『661年斉明7年:白鳳元年9月、皇太子は長津(
那津・博多港 伊予国宇摩郡 )の宮にはべっていた』とあるだけで、更に、長津は伊予にあったと言う説さえ最近出てきた。
古田史学会報no94「娜大津の長津宮考」合田洋一著で『釈日本紀』に、
「皇太子遷居于長津宮。斉明天皇紀曰。七年三月。御船還至于娜大津。居于磐瀬行宮。天皇改此名曰長津。兼方案之。于娜者。伊豫國宇麻郡也。長津宮者。伊豫國也。」
とあって、娜大津の長津宮の比定地は伊予国宇摩郡だと紹介する。
倭弟王家の斉明天皇は661年斉明7年正月6日難波副都を出発。8日大伯(岡山県邑久おおく郡)。14日伊予熟田津の石湯(道後温泉)。3月25日御船はもどって娜大津に至った。磐瀬行宮に居た。天皇はこれを改めて長津といった。4月天皇は朝倉の宮に遷居した。7月24日天皇は朝倉の宮で崩じた。
娜大津の長津宮の比定地は伊予国宇摩郡だとする合田洋一氏はさらに、長津宮は宇麻国津根・長津の村山神社(現・四国中央市)だと言う。
斉明は老いて正月14日道後温泉で病気とかを2ヶ月湯治し、戻って3月25日長津宮で休養し、4月天皇は朝倉の宮に遷居した。7月24日天皇は朝倉の宮で崩じた。
『661年斉明7年:白鳳元年正月6日御船は征西して、はじめて海路に就いた』
と書紀は記すが、こんな旅が果たして征西といえるだろうか?
「斉明老人が筑紫の田舎で死にたいと懇願するので、いたわって中大兄皇子は道後温泉で2ヶ月湯治させ、少し戻って長津宮で休養し、4月朝倉の宮。7月24日朝倉宮で崩じた」
661年(斉明7年)のその後はというと、
●(斉明紀に)7月24日斉明天皇が朝倉宮で崩じた。
●(天智紀に)この月、皇太子は長津宮に遷居した。だんだんと海外の軍政務をとった。
●(斉明紀に)8月1日皇太子は天皇の柩を移し奉って、磐瀬の宮に戻りついた。
●(天智紀に)9月皇太子は長津宮にはべっていた。
●(斉明紀に)冬10月7日天皇の棺は海を帰り行った。
●(斉明紀に)10月23日天皇の柩は、戻って難波に泊まった。
『(斉明紀に)661年斉明7年、冬10月7日天皇の棺は海を帰り行った。
このとき皇太子はある所に停泊して、天皇を―云々―した。』何が言いたいか?
要するに、何しに朝倉宮へ行ったのと聞けば、「朝倉宮で崩じる」為だったとしか言えない。
それも筑紫朝倉宮は長居せず、柩を埋葬せず難波へ持ち帰っている。
結局、往復して難波宮へ戻った来ただけなのだ。
上記の日付は、「斉明天皇の巻末」と「天智天皇の巻頭」との記事が、日付順に突合せてある。
この難波宮と朝倉宮の往復での還り途次、9月皇太子は長津宮にはべっていた。
『職冠を百済の王子豊璋に授けた。云々』以降の記事が続くのだ。
還り途次の長津宮で白村江戦までの事件・史実が記入されている。
●(天智紀に)9月皇太子は長津宮にはべっていた。
●(斉明紀に)冬10月7日天皇の棺は海を帰り行った。
( 同 上 )冬10月23日天皇の柩は、戻って難波に泊まった。
結局、「長津宮にはべっていた」のは9月初めから10月7日迄。
10月23日戻って以降、近江に遷都する 667年(天智6年)3月19日迄は難波に居た。ということのなる。
《 メモ 》
なお、気がかりなのは、この同じ年の 〔661年斉明7年:白鳳元年〕 には、九州王朝「倭国」の甘木王(常色王:白雉王)が狩の途中に不慮の事故で崩じ、明日香皇子が白鳳王に即位していることだ、これとの関連性が今の私には分からない。
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◎白村江戦以降・「近江朝」
Ⅵ・①『継体紀の「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ」とは』
「日本書紀継体紀527年(継体21正和2)8月1日、天皇は親しく斧鉞をとって、物部麁鹿火大連に授けて、
『長門以東は朕がとろう。筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え。ひんぴんと報告しなくともよい』
といった。」
⇒いままで、この句の背景になった史実が思い浮かばなく思案してたが、
「朕」の「継体天皇が、中大兄皇太子の天智天皇」で、「物部麁鹿火大連が、大海人皇子の天武天皇」だとしたらどうだろう。
大宰府倭兄王家の白鳳王薩夜麻が白村江戦で敗れ自身は唐の捕虜になった。
その直後の難波複都倭弟王家の中大兄皇太子と大海人皇子との会話だとすれば、留守居のプロト大和朝廷が、九州王朝倭国のあとがまにそっくり納まろうとしたと分かる。
663年9月以降の早い時期に、難波で白村江敗戦の報を受けた、難波副都倭弟王家(=プロト大和朝廷)の中大兄皇太子(=のちの天智天皇)は弟の大海人皇子へ、
「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え、ひんぴんと報告しなくともよい」と指示した。
大海人は難波から筑紫へ急行し、倭国大宰府倭兄王家の残存部隊を結集し、留守居王権として筑紫島を防衛・確保、百済倭敗残兵・百済避難逃亡民の受入れ、さらには困難な戦後賠償交渉と損な役回りだっただろう。
中大兄は九州島を除く本州・四国を実効・直接支配下に治め、これが後のプロト大和「近江朝」の基盤となった、だろう。
「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え、ひんぴんと報告しなくともよい」
● ⇒ これが、白村江敗戦直後のプロト大和朝廷の中大兄と大海人との会話だとすれば、天下立評后の中央集権化で出雲・加賀・吉備・『秦国』・尾張・毛野(常陸)が解体した直後の即ち『長門以東』である。
正木裕氏の言う「常色の改革」の天下立評を指示し、難波複都を造った、倭国の天帰王(=甘木王)もまさかこんなに簡単に出雲・加賀・吉備・『秦国』・尾張・毛野(常陸)が解体し中央集権化しょうとは思ってもいなかっただろう。
『長門以東』とは嘗かつての倭国連邦附庸王国の領土であったわけだ。
■661年斉明7年10月23日戻って以降、近江に遷都する 667年天智6年3月19日迄は難波に居た。ことになるが、662 663 年天智(元年 2年 )8月28日倭国・百済連合軍は唐・新羅連合軍に白村江で敗戦する、倭王の薩夜麻が唐の捕虜になる。
■662 663 年(天智元年 2年 )9月以降の早い時期に、難波で敗戦の報を受けたプロト大和朝廷の中大兄皇太子は大海人皇子へ、
「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え、ひんぴんと報告しなくともよい」
といった。大海人皇子は筑紫へ渡り倭国の残存部隊の結集と留守居王権として筑紫島を確保。
中大兄皇太子は九州島を除く本州・四国を実効・直接支配。
■664年(天智3年)夏5月17日百済を占領した唐の将軍(鎮将)劉仁願が朝散大夫郭務悰を九州倭国の筑紫都督府(=大宰府)へ派遣。
664年(天智3年)12月12日郭務悰らが帰った。
■日本書紀665年(天智4年)8月、長門に城を築くとある。
以前に、私は、山口県西半分旧長門国の地図を首っ引きで探したが無かった。
『石城山遺跡は「長門の城」であったか、「楊井水道」は古代の「長門水道」であった』と、「のちに、なって」知った。
■665年(天智4年)9月23日唐国が朝散大夫郭務悰、忻州の司馬、上柱国の劉徳高ら凡そ254人を九州倭国の筑紫都督府(=大宰府)へ遣わした。
665年(天智4年)12月劉徳高らが帰国した。
■667年(天智6年)3月19日、プロト大和朝廷が倭国から実質的に分離独立。
筑紫都督府(=大宰府)の唐進駐軍が瀬戸内海を通って「難波京」を急襲すればひとたまりも無い、この侵略予防の為、暫時、「難波京」から「近江京」へ遷都。
同時に、中大兄皇太子は天智天皇として即位。これが、プロト大和朝廷で初の王位即位であろう。
668年(天智7年)正月3日皇太子が天皇位に即いた。(㊟:或本はいう6年3月に即位)
■667年(天智6年)11月9日、百済の鎮将劉仁願が、熊津都督府の熊山県令で上柱国の司馬法聡らを遣わして、大山下境合部連石積らを九州倭国の筑紫都督府(=大宰府)に送った。13日司馬法聡らが帰国した。
■667年(天智6年)11月、讃岐国山田郡の屋島城を築く。
《参照》
『私の写真日記:屋島城跡』:この屋島城は近年その存在が脚光を浴びていますが、先の『石城山遺跡は「長門城」であった』と同様、長門城及び屋島城は近江朝が九州王朝倭国から実質的に分離・独立したが為に、「瀬戸内海航路」の防衛上で、必要になったと考えられます。
■668年(天智7年)春、三国史記・新羅本紀・卷第六・文武王・上
『八年春、阿麻來服、遣元器與淨土入唐、淨土留不歸、元器還、有勅、此後禁獻女人』
の「阿麻来服」記とは、倭国難波副都常駐弟王家の近江朝天智は白村江后、倭国から長門以東(本州・四国)を、667年分離独立させ、翌年668年春、とりあえず、隣国の新羅へ近江朝の仮名「阿麻(=天)」国(弟王家も当然「アマ氏」である)として、その独立宣言報告使・国交開設使を新羅へ派遣したのだ。
■668年(天智7年)冬10月大唐の大将軍英公が、「高句麗」を打ち滅ぼした。
■669年大唐が郭務悰ら2000人余人を九州倭国の筑紫都督府(=大宰府)へ派遣してきた。
■670年、三国史記新羅本紀文武王10年(天智9年)に、プロト大和朝「近江朝」が『「倭国」更えて「日本」と号す。』
■671年(天智10年)春正月6日、プロト大和朝「近江朝」の大友皇子が宣命して、26階冠位・法制を施行した。
■671年(天智10年)春正月13日、唐の百済鎮将劉仁願が李守真らを九州倭国の筑紫都督府(=大宰府)へ遣わし上表した。
7月11日唐の人の李守真らと百済の使人らとがいずれも帰国した。
■671年(天智10年)11月10日、この月になって沙門道久、「筑紫君薩夜麻」、韓島勝裟婆、布師首磐の4人が唐から来て、「唐国の使人郭務悰ら600人、送使沙宅孫登(百済人)ら1400人、あわせて2000人が、船47隻に乗りともに比知島に停泊し語り合って”今吾等の人・船は多い。
いきなりあそこに行ったなら、あそこの防人がおどろいて射戦するのをおそれる”といい、そこで道久らを遣わして予め来朝の意を開陳」
■671年(天智10年)12月3日、プロト大和朝「近江朝」の天智天皇が近江宮で崩じた。
■672年(天武元年)夏5月22日、郭務悰らに総合してふとぎぬ1673匹、布2852端、真綿666斤、他甲冑弓矢を(倭国が白村江戦後賠償金として)賜った。
30日郭務悰らが帰国した。
■672年(天武元年)7月23日プロト大和朝「近江朝」の大友皇子が自ら首をくくった、ことで壬申乱が終結した。
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Ⅵ・②『壬申乱とは「唐の傀儡・倭国」と「長門以東・近江朝」の唐による倭国再統合戦だった』
九州王朝倭国が白村江敗戦以後、筑紫都督府に唐軍が進駐・占領した時点では、既に本州・四国は倭国難波分家弟王家「近江朝」の天智の支配下に入っていたと推定できる。
唐軍が進駐し占領したのは、薩夜麻倭国白鳳王不在の倭国直轄地・即ち九州島で、白鳳王の息子の高市皇子を大海人が助ける形で統治していた。
倭国の天帰王が実施した「常色の改革」の一環に天下立評があり、この徴税システムが従来の倭国附庸国連邦を解体したであろうことは明瞭です。
弟王家「近江朝」の天智は本州・四国の連邦解体後の後釜に坐り、弟王家「近江朝」の中央集権国家を樹立しその独立宣言が新羅への「倭国」改めて「日本」と号すだ。
この時点670年で、倭王の白鳳王・薩夜麻は唐の都に捕虜として拘留され、倭国の都大宰府は倭王不在であった。九州王朝倭国の旧来からの本領地の九州島は唐が進駐し、占領していたわけで、「倭国は、更えて日本と号す。」などできなかっただろう。
近江朝が倭国の弟王家で、その先祖が安羅王とわかる。
白村江までは倭国附庸国連邦の解体が約10年というあれよ・あれよ間であり、本州・四国の統治は、弟王家が大宰府王家からの委任統治の形だったでしょう。
倭国大宰府王家が白村江で敗戦したと同時に、弟王家「近江朝」の天智は本州・四国を直接支配下に置いたと考えます。表面的な違いは無かったのだ。
日本書紀は(664年)天智3年春2月9日天皇は大皇弟に命じ、二六階の近江令を宣したというが、少し用意周到過ぎないだろうか、(671年)天智10年正月6日大友皇子が宣命した「冠位・法制の施行」が史実と思うがどうだろう。
この弟王家「近江朝」は天智が崩御することで潰えてしまう、毒殺か。
一向に進まない戦後賠償交渉に業を煮やした唐国側の代表の郭務悰は、捕虜で洗脳が終わった倭国王・筑紫君薩夜麻(=天武天皇・白鳳王)を開放。
筑紫君薩夜麻(=天武天皇・白鳳王)は帰国と同時に倭国白鳳王復位を宣言し、当時、唐が占領の筑紫都督府、及び近江朝の本州・四国に分裂していた倭国の再統合を要請した。その結果が「壬申乱」であろう。
薩夜麻(=白鳳王・高市皇子命の父の天武天皇)の 「唐の傀儡政権・倭国(=大宰府倭兄王家)」 は、「プロト大和・近江朝(=難波副都倭弟王家)」の中で当時孤立していたと思われる大海人皇子(=持統の夫・草壁皇子尊の父の天武天皇)の戦勝後の地位と、「プロト大和・近江朝(=難波副都倭弟王家)」の将来を旧来通りに保障・約束し、副官になるよう協力要請した。
その結果、大友皇子(=天智天皇の皇子)の 「プロト大和・近江朝(=難波副都倭弟王家)」 に戦勝。
「唐の傀儡政権・倭国(=大宰府倭兄王家)」 の薩夜麻(=白鳳王・高市皇子命の父の天武天皇)は
『壬申の乱』(西暦672年:天武元年:白鳳12年)に戦勝した。
668年には高句麗が滅亡している。同年、新羅本紀に「阿麻来服」とあり、「長門以東の天智近江朝が倭国から独立」のニュースは新羅から唐へ急報されただろう。
唐は九州筑紫都督府占領軍を帰任させる前に、捕虜の倭国王薩夜麻を解放復位させ倭国の再統合の為の「壬申の乱」を計画・実行したのだろう。
というのは、672年「壬申の乱」が起きるその前年671年に、倭国白鳳王薩夜麻が帰国している。
ということは、「壬申の乱」が、近江朝大友皇子と吉野朝天武天皇の跡目争いといった小さなものなく、唐の倭国再統合戦だったということだ。
熊本大津内牧瀬田橋戦も含め、記述外の戦がどうだったのかだ。
「近江朝(=難波副都倭弟王家)」が「倭国」から分離独立したことを唐国は認めたくなかったのだ。
壬申乱に戦勝、唐筑紫占領軍が引揚げ后は、独立した筑紫(=九州島)統治大宰府「倭国」と、長門以東(=本州・四国)統治真人(=征討将軍)の「天武朝(=難波副都倭弟王家)」とに取って代わる。
然し、「壬申乱」で戦勝したはずの倭国のその後は、唐国の傀儡化と過酷な戦後賠償でさらに疲弊してゆくことになる。
(残念なことに、白村江敗戦後のこの時期、属国・九州王朝倭国の唐への戦後賠償船派遣記事は、正木裕氏の指摘する34年遡上説でそっくり抹殺・抹消され窺い知ることができないのだ)。
〔参照:天武天皇は二人いた(日出島哲雄著)〕
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◎壬申乱以降・「難波遷都」・「プロト大化改新」・「倭国滅亡」
Ⅶ・①『筑紫大地震』 と 『倭国の難波への王権の禅譲・難波遷都』
追い討ちに,筑紫全域を襲ったと考えられる
●『(水縄活断層系を起震断層とする)
筑紫大地震(678年:天武7年:白鳳18年)推定震度は「7.1以上」』
の発生で更なる疲弊・弱体化。
この筑紫大地震(678年:天武7年:白鳳18年)発生後、余震と思える書紀の記事12回を経てのち、四国・近畿・東海を襲った、いわゆる大型東南海地震の
●『(震源が室戸岬沖とされる) 白鳳大地震(684年:天武13年:白鳳24年)・マグニチュード 8.4』
が発生するが、この間にあったと思われる 『倭国王権』 の大宰府から難波への遷都であろう。
『参照:天武紀の地震記事と九州王朝(川西市・正木裕)』
先の 『天武の造複都難波京の詔』 以外には、筑紫大地震後の難波遷都を匂わす記事はないか。
ある、あるといえばある。ただし何か支障があったかとみえて、たとえ話で書かれている。で、見落としてしまうのだが。
●『683年(天武12年:白鳳23年)春正月2日、百寮(官)が朝廷〔天皇〕を拝した。
〔筑紫太宰丹比真人嶋らが、三つ足の雀を貢〔上〕した。〕』
⇒ 下線部の意味は、
〔3種の神器(=三つ足の雀) を九州王朝から大和王朝へ貢上した〕 という意味だそうだ。
●『7日、親王から群卿までを、大極殿の前に喚び、宴〔会〕をした。
そして三つ足の雀を、群臣に示した。』
●『18日、詔して、
「明神として大八洲を〔統〕御める倭根子天皇の勅命を、諸国司、国造、郡司、百姓らよ、もろもろに聞きなさい。朕が、はじめて天皇位の登って以来、天の祥瑞が、一つ二つではなく数多くあらわれた。
伝え聞くと、天の祥瑞とは、行政の理が、天の道にかなうというと、これに応じて表れるということだ。ここに今、朕の世に当り、年ごとに祥瑞が重ねてあらわれた。一方ではおそれかしこみ、一方ではよろこばしい。
そこで、親王、諸王、および群卿、百寮〔官〕、ならびに天下の人民と共に、よろこびあおう。すなわち小建の位以上に、禄物を給するが、それぞれ差がある。 そして死罪以下、みな大赦した。また百姓の課役をみな免じる」
といった。』
〔3種の神器(=三つ足の雀) を九州王朝からプロト大和王朝へ貢上した〕
ということは「王権の委譲が九州王朝からプロト大和王朝へなされた」、ということであり、歓喜のさまが読み取れる。これはすごい・とんでもないことだ、遷都どころの話ではない。
しかし、 「3種の神器」 と書けば良いところを何故か、 「三つ足の雀」 と書いている、なぜだろう、だれかに遠慮してるって感じかな。
ともかくも、このことを簡単に言えば 「大宰府の白鳳王から、難波副都の(副官の)天武天皇へ、皇位の継承がなされた」 ということだろう。
更に、この皇位継承は、遷都でもあり、
「王権の九州王朝倭国からプロト大和王朝日本国への 禅譲だった 禅譲のはずだった」 のだろう。
九州王朝倭国は高市天皇の最後の踏ん張りがあったとは言え、このとき実質的に滅亡したといえる。
古田武彦著「古代は輝いていたⅢ:法隆寺の中の九州王朝」の巻末資料に、Ⅳ山口県内の文献に見える逸年号表が掲載されているが、その中に〔朱鳥元年:686年:文献名「源平盛衰記」剣の段:記載箇所
「しかるを天武天皇朱鳥元年に、是をめして内裏にをかる、いまの宝剣是也」とある。
更に日本書紀には次の記事
『686年(朱鳥元年:天武15年)6月10日、天皇の病を卜ったところ、草薙剣が祟っていた。即日、尾張の国の熱田社に送り置いた』とある。
この記事はいやー良く分からないが、どうもその後、予期せぬ拙いことが起こったようだ、まさか、3種の神器(=三つ足の雀)がレプリカだったとか。
否違うだろう、たぶんこういうことだろう、
『遷都もしたし、九州王朝倭国からプロト大和王朝日本国へ禅譲もしたが、禅譲は別人の天武天皇(=大海人皇子・持統天皇の夫・草壁皇子尊の父)の一代限りだ。なぜなら、壬申乱の功労顕彰のためにしたことだからだ』
とか、言ってきたのだろう。〔わたしの深読みだろうか・・・〕
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Ⅶ・②『白鳳の大地震』 と 『震災後の移築』
遷都後にも運悪く、その遷都先の近畿地方を
『(震源が室戸岬沖とされる)白鳳の大地震(684年:朱雀元年:白鳳24年)・マグニチュード 8.4』
が更に襲い、『秦国』を代表する飛鳥寺・四天王寺・川原寺・山田寺・若草伽藍等々の大寺院・仏閣が、掘立て柱構造であったがために地震に弱く全壊・全滅。
そこで、当時先進的・礎石構造の筑紫大地震にも耐えた九州「倭国」の建物の移築が決まったのでしょう。
いまひとつは、倭国の唐への戦後賠償費の肩代わりをプロト大和王朝はさせられてた模様でその差押え物件としても、寺社仏閣の大量移築が実施されたのでしょう。
米田良三氏も 「大和政権は震災からの復興に九州の建物を移築したのではないか」
と言っています。
なお、遺跡発掘調査で分かったことの、白鳳大地震で倒壊したはずの飛鳥寺・四天王寺・川原寺・山田寺・等々、大寺の書紀記事が、684年(天武13年:朱雀元年)・685年(天武14年:朱雀2年)・686年(朱鳥元年:天武15年)の3年間に限って頻出する、これは倒壊してないよと強弁してるのだろうが、これには面食らってしまう。例えば。
『(天武14年:朱雀2年:685年8月24日)天皇の病気のために、三日間、
大官大寺、川原寺、飛鳥寺で読経した。そして稲を三寺に納めたが、それぞれ差があった。』
飛鳥寺・四天王寺・川原寺・山田寺・若草伽藍等々は『秦国』を代表する寺社・仏閣である。だから倭国史書に記載されていたかどうか疑わしい。
ただ、この記事が九州元号で編纂された『秦国』史書に記載されていたとすれば、そこからの転載だろう。
九州元号朱雀元年(天武13年:684年)は、34年前の、書紀白雉元年(孝徳6年:常色4年:650年)に対応してるとわかる。
というか、書紀白雉元年は九州元号白雉元年の2年前とずれてるが 、朱鳥の前の朱雀2年分の記事も後から遡上させたくて、強引に設定し取り繕ったものだろうて。
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Ⅶ・③『遷都後の地理的近接』 と 『王朝交代』
この遷都を期に、九州王朝大宰府系の難波京と、プロト大和朝系の飛鳥浄御原京とが、地理的に近接したが為と考えられる王権・主導権の移管が始まる。今日的には吸収合併・禅譲か放伐かと言えば、婚姻を含む禅譲だったのでしょうが、各皇子・皇女の主導権争いは暗殺を含む陰湿で、陰険なものだったでしょう。
大宰府朝系の白鳳王(=武市皇子命の父)の死が684年(白鳳地震が白鳳24年10月14日発生)、いっぽう、 副都難波京 飛鳥浄御原京にいて白鳳王副官としての別人の天武天皇(=大海人皇子・持統天皇の夫・草壁皇子尊の父)の死が686年(朱鳥元年:天武15年)9月9日。(よって、朱雀年号が在位となるが、朱鳥改元が7月20日で没日とずれるが。)
これからすると、同一人の「天武天皇」扱いされていて分かり辛いが、大宰府朝の白鳳王・薩夜麻から、プロト大和朝の大海人皇子への「禅譲遺志」を受けて、プロト大和朝の「(大海人皇子の)天武天皇」は、朱雀年号の期間に、倭王「朱雀王」の帝位に即位していたことになる。
朱雀王(=プロト大和朝の大海人皇子)の崩御後、大宰府朝系の高市天皇は、686年(天武15年:朱鳥元年)には、大宰府朝内で「朱鳥王」として即位していた。
この「大宰府朝とプロト大和朝との後継問題」の決着は、〔後述の大嘗祭記事よりわかることですが、〕以降の690年〔持統4年(持統即位元年):朱鳥5年〕春正月1日、「高市天皇」は天皇位に即いたことになる。
死亡は696年(持統10年:大化2年)7月10日なので、即位していたなら普通に考えて、高市天皇は難波京の代わりに藤原京を造り、694年(持統8年:朱鳥9年)12月6日遷都したことになる。
さらに翌々年の
696年春正月1日、新都:藤原京でプロト大化改新(建郡)の詔を宣したのは、九州王朝倭国の高市天皇ということになる。
ひょっとして、高市天皇は副都難波系プロト大和朝が牛耳っていた「評制」を、「郡制の施行」に改めることで、財政を大宰府朝系のものとするのが目的だったのではないか。
ところが、高市天皇の死亡でその計画が頓挫した。とか・・。
いまひとつは、九州の寺社仏閣を大和へ大量移築したのは大宰府朝系の高市天皇だったとも考えられることです。いずれにしても、すごいやり手の天皇だったことは確かなようです。
(持統天皇は687年執政、690年即位元年-697年退位ということになってるが、新唐書「日本国伝」に総持・総持統・持統と名前が変わっていることからして、高市天皇の在位を認めないための「代替の架空の天皇」ということになる)。
文武天皇697年即位、大宝改元は701年である。
〔メモ:(kotobankデジタル大辞泉によると、総持とは:そう‐じ〔‐ヂ〕【総持】《(梵)dhāraniの訳。音写は陀羅尼》悪法を捨てて善法を持する意で、仏の説くところをよく記憶して忘れないこと。〕
『朱雀684年以降、文武天皇即位697年迄が、倭国から日本国への移行期間』 ということになる、不思議と高市天皇(≒持統天皇)の在位期間にラップします。
古田武彦氏は「評制は700年をもって郡制に取って代わる」と言っている。極端に言うとすればではあるが、「九州王朝倭国」は700年末迄存続し・きっかりその年末に滅亡したと言うことになる。
その後、残存部隊の「隼人の乱」が鎮圧する712年(和銅5年:元明6年:大長9年)を最後に「九州王朝倭国」は完全に滅亡する。
このあと九州年号は、朱鳥(686-695年)・大化(695-704年)・大長(704-712年)迄と続く。
《メモ》:九州年号と『書紀』天皇位名とにより、わかること。
●若し、筑紫君薩夜麻が白鳳王だとした場合、「白鳳」年号が、661年-683年だから、即位661年-退位684年(捕虜の663-670年は空位)とわかる。
●白鳳王の場合、筑紫大地震678年の時も改元してないので、「白鳳」大地震684年の時も生前の改元は無いと考えられる。よって、684年末に崩御したのでしょう。
●また、『書紀』天武天皇の記録から見た場合、即位672年-退位686年で、九州年号「朱雀684年暮-686年途中迄」の3年間は、別の2人目の大海皇子が天武天皇として執政したことになる。
即ち、大海皇子の天武天皇が、倭王「朱雀王」の帝位に即位したと分かる。
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Ⅶ・④『これが倭国王最後の大嘗祭である』 と 『高市天皇の薨去はクーデターによる暗殺だ』
壬申乱672年で難波倭弟王家の大友皇子(=天智天皇の皇子)が大宰府倭兄王家の白鳳王(=天武天皇)に戦死させられた。このことは「兄弟王朝」に致命的な 「亀裂」 を生じさせただろう。
673年(天武2年:白鳳13年)『12月5日、大嘗に侍し奉った中臣・忌部、および神官の人たち、ならびに播磨(悠紀)・丹波(主基)2国の郡司、また下働きの人夫らにことごとく禄を賜った』は、「大嘗祭」の大和朝廷初出記事でなく、「壬申乱」を征した倭国白鳳王(=筑紫君薩夜麻・天武天皇)の即位記事が紛れ込んだのだろう。
筑紫大地震(678年:天武7年:白鳳18年)発生後、白鳳王(=天武天皇)が、683年別人の天武天皇に渡した「3種の神器(=三つ足の雀)」を反故に、その白鳳王(=天武天皇)の皇子の高市皇子が大宰府から難波京へ、その難波京焼失で、さらに「プロト大和朝」浄御原宮への同居を余儀なくされた。
ただ、この同居遷都したことで、大海皇子の天武天皇の倭王「朱雀王」が崩御後、結果的には即位して天皇になったのだろう。
難波倭弟王家の別人の天武天皇(=大海人皇子・持統天皇の夫・草壁皇子尊の父)が686年(朱鳥元年:天武15年)薨去したのちすぐにはだれが即位するか決まらず、その4年後。
690年〔持統4年(持統即位元年):朱鳥5年〕春正月1日
—略— 神璽の剣、鏡を『皇后 高市天皇』に上げ奉った。『皇后 高市天皇』は天皇位に即いた。—略—
●690年〔持統4年(持統即位元年):朱鳥5年〕10月29日
『 高市皇子 高市天皇』が、藤原の宮の〔予定〕地を観た。公卿、百寮〔官〕が従った。
●『同年12月19日『 天皇 高市天皇』が、藤原に〔行〕幸して、宮地を観た。公卿、百寮〔官〕がみな従った。
〔高市皇子に公卿、百寮〔官〕が従ったとあるが皇太子に天皇と同じ規模の公卿、百寮〔官〕が従うだろうか、この2つの記事は主語の「高市皇子」と「天皇」のみが意図的に違えてあるようだ、他の述語の部分は全く同じだからして〕。
691年〔持統5年(持統即位2年):朱鳥6年〕11月1日、大嘗。
「持統即位何年」というのは大宰府倭兄王家の高市天皇の在位であろう。
これが倭国王最後の大嘗祭である。
難波副都完成当初、倭王は大宰府倭京と副都・難波京とを数度往復したであろうが、その後は、難波京に王家分家の弟王家が常駐することになったであろう。しかし、難波京はあくまで副都であって、そこには、王権を示す「3種の神器」や「大嘗祭」をすることは無かったわけで、持統天皇が「大嘗」したのでなく、遷都后即位した高市天皇の“すりかえ”だったとわかる。
なお、古田武彦氏が論文『大嘗祭と九州王朝の系図』で書かれているように持統天皇がはじめて大嘗したというなら、大和朝廷が690年に大宝建元したはずだし、郡制も建郡されたはずで、氏の701年と喰いちがってくる。今はこの意見は修正されていると思うが、大和朝廷が大嘗したのは、あくまで、文武天皇からである。
●696年〔持統10年(持統即位7年):大化2年〕7月10日、後皇子尊『 高市皇子 高市天皇』が薨じた。
●同年10月22日、かりに、正広参〔正三位〕の位の右大臣丹比真人に、資人120人を賜った。正広肆〔従三位〕の大納言安倍朝臣御主人、大伴宿禰御行に、ともに80人。直広壱〔正四位下〕石上朝臣麻呂、直広弐〔従四位下〕藤原朝臣不比等に、ともに50人。
696年7月10日の高市天皇の薨去はクーデターによる暗殺だろう。
何故、暗殺と考えるか、というと、高市天皇の在位期間がそっくり持統天皇に置き換えられている。
また、7月10日の高市天皇・薨去の3ヶ月后の10月22日に、クーデターに参加したと思われる丹比真人・安倍御主人・大伴御行・石上麻呂・藤原不比等が栄達している。
「大宰府倭兄王家」の高市天皇が 浄御原宮 藤原京 で「難波副都倭弟王家」に暗殺されたと考えれば、その後も「続日本紀」が多治比真人嶋・藤原不比等、等々の首謀者の華々しい栄達を記述していることも納得できるというものだ。
本家の「大宰府倭兄王家」の高市天皇が
浄御原宮 藤原京 で、分家の「難波副都倭弟王家」に暗殺されたということは、分家が本家を乗っ取るクーデターであり、
だから、これこそが「プロト大化改新」だと言うに留まらず、
九州王朝「倭国」が滅亡し、新たに、大和王朝「日本国」が誕生したということである。
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Ⅶ・⑤『「高市天皇」暗殺が、「乙巳の変」のモデルになっている』
日本書紀で、だいたい、物語風に書かれている箇所はいただけないし、うさん臭い。
我々世代は「大化改新」と習ったけど、今は「乙巳の変」というのだそうだ、これなんか新羅であったひどん(毘曇)の乱のコピー丸出しだし、壬申乱だってまともに信じるとやけどするね。
「乙巳の変」とか「壬申乱」とかは、具体的に書くと色々御幣があったということだ、だから最寄の記事を利用してさもそうであったかのごとく脚色したということだろう。
696年〔持統即位7年:大化2年〕7月10日、後皇子尊『 高市皇子 高市天皇』が薨じた。
この記事は、倭国側の暗殺下手人:丹比真人嶋・安倍朝臣御主人・大伴宿禰御行。大和側の暗殺下手人:石上朝臣麻呂・藤原朝臣不比等。らによって倭国最後の王「高市天皇」が暗殺・薨去したもので、645年乙巳皇極4年6月12日の「乙巳の変」のモデルになっていると考えるものです。登場人物を「乙巳の変」に当て嵌めてみよう。
◇
( X皇極X O高市O )天皇が( X板葺宮X O藤原京O )の大極殿に出御した。 ( X古人大兄X O丹比真人嶋O ) が侍した。
( X中臣鎌子連X O藤原朝臣不比等O ) は、 ( X蘇我入鹿臣X O高市天皇O ) が、疑多い性格で、昼夜剣を持っているのを知っていて、俳優をして、たばかって解かした。 ( X入鹿臣X O高市天皇O ) は、笑って剣を解き、入って座に侍した。
( X蘇我倉山田麻呂臣X O重臣安倍朝臣御主人O ) が、進んで三韓の表文を読み上げた。
このとき、 ( X中大兄X O軽皇太子:のちの文武天皇O ) は、衛門府を戒め、同時に( X板葺宮X O藤原京O の )十二の通用門を鎖し、往来させなかった。衛門府を一ヶ所に召集して、まさに禄を給しようとした。
( X中大兄X O軽皇太子:のちの文武天皇O ) は、自分で長槍を執りもって、〔大極〕殿の側に隠れた。 ( X中臣鎌子連X O藤原朝臣不比等O ) らが、弓矢を持って助けまもった。
( X海犬養連勝麻呂X O当麻真人国見O )をして、箱の中の両剣を ( X佐伯連子麻呂X O路真人跡見O )と( X葛城稚犬養連網田X O巨勢朝臣粟持O ) とに授けさせ「努め努めて、いっきょに斬れ」といった。 ー 以下、略 ー
◇
・・・如何だろう?少し当て嵌めに無理があるだろうか。・・はてさて・・・
新羅の『ひどん(毘曇)の乱』は、新羅が善徳王(632-647女帝)の時、和白の筆頭伊食「毘曇」が唐に唆されて、女王ではダメだといって廉宗と共謀し王位を狙い、647年正月反乱を起こし、この時、王子の金春秋(=中大兄皇子)と重臣の金庚信(=中臣鎌足)が「毘曇」(=蘇我入鹿)を誅殺した。
ようするに、「乙巳の変・大化改新」は、新羅『ひどん(毘曇)の乱』のコピーすることで、
『 “いえ・いえ”、我が朝においては、貴(唐)国の高句麗の攻撃の報せを受けて、“恐れおののいて”新羅『ひどん(毘曇)の乱』と、まったく同様な「大化改新」という史実あったのですよ。』
と「倭国の対等外交」から「大和朝の冊封外交」への変革があったと、『日本書紀』の記述を通じて、「唐朝への“恭順”を伝え示す意図」があったと思える。
『日本書紀』の「乙巳の変・大化改新」は新羅『ひどん(毘曇)の乱』を参考に、「本来の(=プロト)大化改新」をアレンジ編集し、“でっち上げた”ものと考えられる。
同時に、大和朝廷が、九州王朝「倭国」から「王権の簒奪」を、どうようにしたか、を子々孫々・後世に伝える“自慢話”でもあったのだろう(現在人の感覚ではないな…)。
なお、高市皇子の即位名:高市天皇であるが、あくまでも「傍証」としてだが、
『日本書紀』皇極紀には、
『皇極2年(643年)9月6日、オキナガタラシヒヒロヌカ〔舒明〕天皇を押坂の陵に葬った。
【或本はいう、ヒロヌカ天皇を呼んで、高市(タケチ)天皇とした。】』とある。
「ヒロヌカ天皇が、高市(タケチ)天皇だ。」という意味ではなく、「高市(タケチ)天皇」という固有の天皇が居たという意味の「傍証」としたい。
さらに、日本書紀:乙巳の変の箇所には次のように書かれている。
『皇極4年(645年)6月(12日、韓人が蘇我臣入鹿またの名鞍作を大極殿で誅殺<詳細略>。)
翌13日蘇我臣蝦夷らが、誅されるに臨んで、ことごとく天皇記、国記、珍宝を焼いた。
船史恵尺(ふねのふひとえさか)は、すばやく焼かれる国記を取って、中大兄に奉献した。
この日、蘇我臣蝦夷及び鞍作の屍を墓に葬るを許した。と書かれ、特に「誅されるに臨んで、ことごとく天皇記、国記、珍宝を焼いた」と記す。
大臣である、別に残って良いではないか。では何故、蘇我臣蝦夷は天皇記、国記を全て焼く必要が、何故あったのか。
乙巳変の蘇我臣入鹿は「プロト大化改新」の倭国王・高市天皇だからだ。
696年〔持統即位7年:大化2年〕7月10日、後皇子尊『 高市皇子 高市天皇』が薨じた。
この記事は、倭国側の暗殺下手人:丹比真人嶋・安倍朝臣御主人・大伴宿禰御行。大和側の暗殺下手人:石上朝臣麻呂・藤原朝臣不比等。らによって倭国最後の王「高市天皇」が暗殺・崩御したもので、これこそが「本来の大化改新」「プロト大化改新」である。
645年乙巳皇極4年6月12日の「乙巳の変」はこの「プロト大化改新」及び新羅「毘曇の乱」がモデルになっている、と考えるものです。
「プロト大化改新」は、九州王朝「倭国」の滅亡した日でもある、のです。
この「プロト大化改新」説は、私が“はじめて”のようだ。
今までの歴史家は、この事実に気付かなかったのだろうか。
知ってて、知らないふりしてたのだろうか?・・・・不思議だー!
ようやく、九州王朝「倭国」が、日本書紀に読めてきた。
日本書紀編纂の意図も、期せずに読めてきた。
《 紹介 》
「古田史学会報no100:2010年10月08日」に掲載の〔禅譲・放伐論争シンポジウム・要旨〕で西村秀己氏、正木裕氏、水野孝夫氏、古賀達也氏の4氏の基調講演要旨が記載されている。
まー私の場合は《大和朝廷が、「プロト大化改新」で高市天皇暗殺して、倭国から政権を奪取した》という意見なので放伐かな?
その中で、西村秀己氏が次のように述べられている。
②政権交代が「禅譲」であった根拠。
イ)701年時点でのヤマト朝廷の首都は「飛鳥浄御原」、「藤原京」ではない。
●慶雲元年十一月に始めて“藤原宮の地を定む”(続日本紀)とある。
ロ)701年まで「藤原宮」は九州王朝の宮であった。
a)乙巳の変の起きたのは「藤原宮」。
●大化元年(695年)書紀の記述の舞台に12の門がある。
当時12の門をもった宮は藤原宮のみ。
b)改新の詔勅。(大化2年:696年正月に九州王朝が発布したもの)
●畿内を、「名懇の横川・紀伊の背山・明石の櫛淵・近江の逢坂山」としている。
その中心は藤原宮。
c)古事記序文の飛鳥清原の大宮の天皇は天武でなく文武。(西村持論)
●文武の即位(697年)は「藤原宮」ではなく「飛鳥浄御原」で行われている。
ハ)九州王朝の臣下がヤマト政権下でも継続して重要なポストにいる。
●会報96号の西村論文「橘諸兄考」など。 ー云々ー
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Ⅶ・⑥『九州王朝難波副都での評制施行』 と 『天智天皇に続く大和王朝』
なお、私は天武天皇については古田武彦氏の解説で納得できるが…、
天智天皇(=中大兄皇子)については今もって分からない。
天智天皇・天武天皇の
「 天 □ 」は、例の『隋書』・『俀国伝』の『開皇二十年俀王姓阿毎字多利思北孤』の『阿毎』で「アメ」と読み、天の九州王朝倭王権を表わすと考えるので、天智・天武の両天皇が九州王朝倭王権出身の天皇であり、決して飛鳥・葛城『秦国』の天皇ではないと考えている。
天智は白村江の戦へ出征の筑紫君薩夜麻(=天武)の留守居倭王権で・いわばリリーフピッチャーだと考えている。
だが、そうすると、舒明・皇極・孝徳・斉明・天智・(持統の夫の)天武・持統・文武のつながりが今ひとつしっくり来ないのも確かなのだ。
(そこで)ひょっとして、日本書紀の 〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇 は、九州王朝倭国が「難波副都」でその強大な軍事力を背景に巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」して、全国を実効支配した「両京制」・「兄弟王朝」 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 だったのではないだろうか、と考えが及ぶわけで・・・。
そこで、中央集権国家の巨大徴税システムである評制は爾来強大な軍事力で支えられ継続して維持されたはずで、そのベース基地たる 「九州王朝難波副都」 は652年(書紀白雉3年:孝徳8年:白雉元年)秋9月完成以降、はたしてどのように使われて来たか整理しよう。
正木裕氏は。 「白雉年間の難波副都建設と評制の創設について」 の中で、
『朝鮮半島や唐との関係悪化に備えて、東方の難波宮に拠点(副都)を設けるとともに、斉明紀に見られる「蝦夷・粛慎」を征服し、後塵の憂いを除いた、というのが有力な考え方だ。』 と言っている。
東国経営の中継基地でもあり、宮殿というより軍事要塞といった趣のものだったでしょう。
●白村江戦いまでは、九州王朝難波副都で倭国王家 〔分家の弟王家〕 が評制度の施行を徹底・
実効支配。評制度の施行・維持には、当然強大な軍事力を伴ったと考えられる。
●白村江の戦い以降・壬申乱までは、倭国留守居の天智の首都として、
(この時大宰府は唐に占領されていた。近江朝遷都後は近江京が首都かも)。
●壬申乱以降・筑紫大地震までは、再度薩夜麻白鳳王の筑紫都督府(=大宰府)の難波副都
として。〔なお、飛鳥淨御原宮を西暦672年(天武元年:白鳳12年)の冬に造ったとあるが
九州年号が改元されてないので、プロト大和朝廷の首都だろう。〕
●筑紫大地震以降は大宰府から難波へ禅譲・遷都し、( 薩夜麻・白鳳王・高市皇子命の父
大海人皇子、持統の夫の )天武天皇の 再度 首都へ、で、さらに白鳳大地震・白鳳王の死の
結果、684年の九州元号朱雀改元へ続く。
●その後、難波京の火事・(大海人皇子、持統の夫の)天武天皇の死で686年朱鳥改元。
●その火事の後に、止むを得ず、白鳳王の長男の高市天皇は飛鳥淨御原宮へ間借り遷都した。
ところが飛鳥淨御原宮は『秦国』を取込んだプロト大和朝廷系の都でもあったのではないか。
●白鳳王の長男の高市天皇は難波京の代わりに藤原京を造り、
694年(持統8年:朱鳥9年)12月6日遷都した。翌年大化と改元し、プロト大化改新の詔を宣した。
と考えられないだろうか、あくまでもモデルとしてではあるが。
このばあい、立評時の難波副都とは連邦国家倭国の占領地・直轄地だったはずだし、立評・班田収受制は従来とは違うわけで、近くの飛鳥・葛城の『秦国』とのトラブルは無かったのだろうか、更に 『秦国』 プロト大和朝廷の飛鳥淨御原宮へ遷都後は何かがあっただろう。
また、九州王朝副都難波京での評制と、代わりに、大和王朝藤原京での郡制とは、結果的には、どこがどのように違いがあったのだろうか知りたいものだ。
更にここで、古賀達也氏が洛中洛外日記の中で「前期難波宮は九州王朝難波副都である」ことを証明するとして挙げている数々の事例・事柄を整理しよう。
①難波副都完成が白雉改元、焼失が朱鳥改元、九州王朝では建都や遷都に伴って九州年号を改元した。
②太宰府「政庁跡」は北側に天子がいる正殿(紫宸殿・大極殿)が位置する北朝系の様式であり、難波宮もまた北朝系様式の宮殿である。
③「日本書紀」の『天武12年条(683)難波に複都を造る詔』は、34年前に遡った649年に九州王朝が出した難波副都建設の詔勅を盗用したもので、その後、前期難波宮は九州年号の白雉元年(652)に完成している。
④「難波宮」の名称は、太宰府と同じ筑前にあれば、より具体的な地名を付した宮名が必要だが、はるか遠くの近畿の難波であれば、「難波宮」で十分である。
⑤「副都の定義」とは、首都に問題が発生し、首都機能の維持が困難な際、統治機構が移動し、統治行政可能な都市が副都。倭国天子は太宰府と難波宮を必要に応じ往来、両都を使い分けたか。
⑥寺井誠氏論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号)に前期難波宮から北部九州の須恵器が出土と指摘している。
⑦「伊予三島縁起」の中に『孝徳天王位。番匠初』の記事がある。
等々であるが、「前期難波宮は九州王朝難波副都である」ことに先ず間違いないであろう。
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Ⅶ・⑦『「大宰府倭兄王家」と「難波副都倭弟王家」の白村江戦後』
①663年、「大宰府倭兄王家」の薩夜麻が白村江敗戦で捕虜。
②663年、「難波副都倭弟王家」の天智は倭国の残存部隊の結集と留守居王権として九州島を除く、
本州・四国を実効・直接支配。
③664年、九州倭国の筑紫都督府(=大宰府)に唐軍が進駐・駐留。
④667年、プロト大和が倭国から実質的に分離独立、筑紫都督府(=大宰府)の唐進駐軍が瀬戸内海を
通って難波京を急襲すればひとたまりも無い。防衛上難波京から近江京へ遷都・同時に即位した。
⑤670年、三国史記新羅本紀文武王10年天智9年にプロト大和「近江朝」が倭国更えて日本と号す。
⑥672年、壬申乱後、薩夜麻の倭国王復位。
⑦672年、大海人の天武天皇が「難波副都倭弟王家」の飛鳥浄御原宮で即位。
⑧672年、壬申乱後も、九州倭国は戦後賠償金支払いで更に疲弊。
⑨678年、筑紫大地震で更に疲弊。
⑩683年、倭国がプロト大和へ3種神器貢上。
⑪684年、倭国が大宰府から難波京へ遷都・朱雀改元。
⑫686年、難波京全焼で飛鳥浄御原宮へ再遷都・朱鳥改元。
⑬695年、藤原京完成で遷都・大化改元。
⑭696年、高市天皇が郡制施行のプロト大化改新発詔。
⑮696年、高市天皇暗殺。
⑯696年、九州王朝倭国滅亡。
九州王朝倭国の難波副都が652年完成で、倭王分家の弟王家が難波京へ常駐するようになって以降の歩みと言えよう。
白村江戦以前は天下立評・蝦夷皇化・倭連邦各附庸国〔出雲・加賀・吉備・『秦国』・尾張・毛野(常陸)〕王家の解体・特に秦国の取込みに専念したむきが天智の行動から考えられる。
白村江戦以降は倭国兄王家が疲弊・自壊・主客転倒し滅亡した。
私が言いたいのは、神武・崇神・応神の話ではなく、〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇が九州王朝倭国の分家・弟王家の出身であり、文武天皇を初代にする大和王朝「日本国」の前身・すなわち『プロト大和朝廷』であるということだ。
今はまだ、こんな白村江戦前後さえ分かっていないのだ。
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◎大和朝廷「日本国」誕生
Ⅷ・①『日本国』 と 『日本書紀』
替わって登場したのが、
『新羅』指導のもと、 となり 飛鳥・葛城の『秦国』を取込み、連邦国家『九州倭国』の王権
の禅譲を受け をクーデター「プロト大化改新」で乗っ取り、倭国連邦システムの解体・改組してのち成立の、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』の誕生である。
本家の「大宰府倭兄王家」の高市天皇が
浄御原宮 藤原京 で、分家の「難波副都倭弟王家」に暗殺されたということは、分家が本家を乗っ取るクーデターであり、だから、これこそが「プロト大化の改新」だと言うに留まらず、
九州王朝「倭国」が滅亡し、新たに、大和王朝「日本国」が誕生したということである。
『旧唐書』には、
『
「日本国」 は倭国の「別種」なり、その国日辺に有るをもって日本国を名とす。或いは曰う。倭国自ら、その名雅ならざるを悪み、改めて日本と為す。或いは言う、日本はもと小国、倭国の地を併せたり、…或いは言う、尊大ぶって事実を伝えない。』 とあります。
が、旧唐書がここで謂う「別種」とは、
●〔 倭国と日本国とが、「別々の国」〕と言ってるのでしょうか、
●〔 日本国は倭国から、「別(わか)れた国」〕と言ってるのでしょうか。
私は〔日本国は倭国から別(わか)れた国〕と言ってると考えます。『倭国』の分家の「難波副都倭弟王家」が、飛鳥・葛城の『秦国』王家の蘇我氏を取込み、『倭国』大宰府から王権 の禅譲を受け をクーデターで乗っ取り、誕生した大和朝廷『日本国』の初見です。
「兄弟王朝」だからして、倭国から日本国へ変わった「際立って特殊な何か」はひとつも見受けられないわけだ。
なお、九州に限って、2種類の風土記があり、「県(あがた)風土記」と「郡(こおり)風土記」があることがわかっているが、これは九州王朝「倭国」時代の評・県制施行時(法興王時?)に九州に限って先行して編纂開始されたということであり、大和朝廷「日本国」時代の郡制施行後、その編纂事業が日本全国に更に拡大実施されたことを意味していよう。
『日本書紀』の記述の特に、「継体天皇」「大化改新」「白村江の戦い」「壬申の乱」「天武天皇」「持統天皇」 は手の込んだ改編がなされている模様である。更なる解明が待たれる。
従来よりささやかれているように、『飛鳥時代』の出来事とされる
『大化改新』
そして、法隆寺を舞台にした
『聖徳太子』
等々の話も、元ネタの時代・場所・登場人物をたくみに改変した作り話と言うことになります。
私が 『白村江戦い前、「東西枢軸国」の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城の『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和王朝『日本国』である。
いわば、倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。』
以下が「その順路のあらすじ」である。
※別紙 『 「倭国」の「大宰府主都」 : 「難波副都」対比年表 .html版 』 ・ 『 同 .pdf版 』 と、併せて参照方お願いします。
■ 『大和朝廷の生い立ちから倭国滅亡迄の歴史的経緯の想定年表』
《歴史的経緯の説明》
①九州王朝「倭国」はある時期(たぶん「倭王武」477年頃)全国征伐し茨城県以西を間接付属王国支配。
②隋書俀国伝に、『又竹斯国に至り、又東して秦王国に至る。―竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す。』
③東へ倭に付属「秦王国」を訪れているのに、『書紀』には記載が無い。たぶん「日本国」へ書きかえた。
④九州王朝「倭国」が緊迫のアジア情勢から難波副都建設し天下立評。同時に倭国の分王家が常駐開始。
⑤倭国と秦王国からの遣使団が唐朝内で鉢合せ、付属秦王国の遣使を難詰し喧嘩。唐朝が両国使監禁。
⑥洲柔・白村江敗戦662年で唐が白鳳倭王を拘束・連行。これをネタに大宰府開城、筑紫島が被占領。
⑦白村江敗戦を知った難波副都守備隊が長門以東を防衛。天智天皇遷都即位、秦国接収、日本国独立。
⑧白鳳倭王薩夜麻が解放帰国。難波副都の大海人皇子の協力で倭国再統合戦の壬申乱を戦勝、復位。
⑨壬申乱戦勝は難波副都の大海人皇子の協力甚大「真人」位賜る。白鳳王崩御后、朱雀王に即位。
⑩筑紫倭王家の近畿遷都、白鳳王・朱雀王崩御后、高市天皇即位。大化改新に不満の軽皇太子が暗殺。
⑪難波副都の軽皇太子、筑紫倭王家の高市天皇暗殺后、文武天皇に即位。大和朝廷「日本国」開闢。
《注意》評制施行の天下立評そのものは、『常色の宗教改革(I「評」制は「誰」が「何時」施行したか):正木裕著』で言う、己酉(六四九大化五《九》常色三)であるが、時代区分としての灘波副都の完成年次の白雉元年652年とした。
と考えるようになったわけは、古事記になくて日本書紀に記載の 〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇は、九州王朝倭国が難波副都でその強大な軍事力を背景に巨大徴税システムである天下立評(=全国評制施行)した652年から真実の大化改新696年までとほぼ一致している。この倭王家の一派がプロト大和王朝だと考えた。
さらに、西暦650年以前に大和王朝の基盤であったはずの近畿地区には『秦国』の姿は見えても、大和王朝の姿は具体的に見えて来ないということです。書紀の記述と違って遺跡らしい遺跡もが見当たりません。
『何故国内的には「日本書紀」が九州王朝「倭国」を抹殺したのか、
対外的には、大和朝廷「日本国」がどういう経緯で忽然と極東アジアに現れたのか』上記の「仮説」が明らかにするだろう。
開元(713-741)の初、(日本国)また使を遣わして来朝す。因って儒士に経を授けられんことを請う。
四門助教趙玄黙に詔し、鴻臚寺に就いてこれに教えしむ。乃ち玄黙に闊幅布を遣り、以って束修の礼となす。題していう、白亀元年の調の布と。人またその偽なるかを疑う。
この題得る所の錫賚、尽く文籍を市い、海に泛んで還る。
多治比真人県守が中国の書籍という書籍を買い漁り持還えったと書かれている。
然し、その割に中国及び半島の史書・外交記事と「日本書紀」とに、齟齬が多いのはどうしたわけだろう。大和朝廷はこの史書の類をどう生かしたのだろうか、いやはや。
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Ⅷ・②『遣唐使の派遣』 と 『朝貢貿易』
爾来1,300年の改竄・隠蔽の意図はどこにあったのだろう。
倭国と日本国とは別々の国だと唐国に印象付け、過酷な 『戦後賠償』 を免れるためだったとしたら、その徹底ぶりたるやすごいではないか!
思うに旧唐書の 『日本国は倭国の別種なり〔=倭国から別(わか)れた国〕、…或いは言う、日本はもと小国、倭国の地を併せたり、…或いは言う、尊大ぶって事実〔=倭国から別(わか)れた国であること〕を伝えない』 とは、言い換えると、
『倭国と日本国とは、民族的には同じ倭族ですが、全くの別国です。
負けたのは対等外交を主張した倭国で、日本国は唐国への戦後賠償には応じられない。ただし、日本国は唐国・周国を宗主国と崇め、朝貢貿易をしましょう。
唐国側としては戦後賠償の利権を失うが倭国が亡んだのでは仕方ない、新しい日本国がその代わりに朝貢するというのだから承認してやるか』
ということだったのではないだろうか。
折りも折り、粟田真人が日本国の承認を求めた則天武后は、唐の国号を周に改めた一瞬の好機、宴に招かれたりしたのは周の則天武后にとっても好機だったのでしょう。
だが、その効果のほどたるや情けなく、遣唐使の派遣が続きます。
菅原道真は唐が衰退し遣唐使の意味がないとして中止したのですが、どうもそれが仇で九州大宰府へ左遷されたと言います。
遣唐使は、賠償・朝貢が任務であったと考えれば至極当然な処置だったのですが、日本側貴族・特に藤原氏は遣唐使の朝貢貿易で潤っていたのでしょう、彼らの利権を無くすという不興を買ったわけですから。事実天平時代の華々しさに比べ、平安時代はくすんで見えます。
「統一新羅」が「唐」との朝貢貿易で発展し、「唐」の滅亡にあわせて「統一新羅」も衰退したと同じメカニズムでしょう。
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Ⅷ・③『万世一系の皇統譜』 と 『今の歴史教育は間違っている』
なお、この『文武王朝』は弱体
(
「新羅文武王」の王名踏襲より新羅・唐のかいらい政権?) で、更に100年後、百済遺民による京都の
『桓武王朝』 へと引き継がれることとなります、現王朝・天皇家のはじまりです。
とはいうものの、これも事実とは違うようで、知る人ぞ知る、この「桓武王朝」も 『足利義満による北朝の簒奪』 により「断絶」し、足利将軍・足利天皇朝廷(皇室)の 『足利王朝』 となります。
その後の『足利王朝』は、『明治維新の南朝革命』 まで続きます。
ちなみに、新羅出身者が源氏を、百済出身者が平家をのちに名乗ったものでしょう。面白いことに韓国・半島では、いまも慶州出身者と公州出身者が反目しあってるとか・・・・。
『万世一系の皇統譜』
について言えば、上記を知るまでもなく累代の天皇が同じ血脈で万世一系であるはずがありません。この世界中広しと言えどもどこにそんな国がありましょう。
『エチオピア王朝はシバの女王とソロモンの子孫といわれ』
これが世界一長寿の王朝でしたが先の革命で滅びましたね。
神武天皇・天武天皇・文武天皇・聖武天皇・桓武天皇 の「 □ 武 」は王統初代を表わすと言われている。
それなりの分けがあったのでしょう。「王統初代」はどうして発生するかを考えれば、実に簡単でしょう、暗殺・内乱・戦争等の武力による前王朝の討伐・転覆・クーデターでしょう。
それを、中国のいわゆる「天命による革命だ」という考え方で表現しても内実は変わりません。禅譲ということもままあったかもしれませんが、古代におけるそのほとんどが「武力転覆」だったでしょう。
ただこの方法だと、国家転覆したクーデターの下手人達(その子孫も含め)もいずれ・いつかは、逆の被害に遇うということでしょうから、おおっぴらに自慢するわけにも行かず「毘曇の乱」に事寄せて「大化革新」「乙巳の変」をでっち上げたということでしょうか。
今の・現代の我々は「選挙制度」という方法を知っている。先日の自民党から民主党への政権交代も、昔だったら「武力革命」だったかもしれません。
思うに 『万世一系の皇統譜』 とは、累代の天皇が同じ血脈ということでなく、「日本(倭)民族の歴史的継続性の象徴」だったのでしょうね。
逆にこのことは、日本国民へ古代からの王朝の交代が、暗殺・内乱・戦争等の武力による討伐・クーデター・転覆の歴史だったと真実の歴史を教えず、「くさい物にふた」の『万世一系の皇統譜』で隠す結果になっていないでしょうか。
「武力革命」を防ぐには「選挙制度」による「民主主義」教育が非常に大切です。
『今の歴史教育は間違っている』と考えます。
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Ⅷ・④『大和朝廷「日本国」がどういう経緯で忽然と極東アジアに現れたのか』
そもそも九州王朝「倭国」が在ったか・無かったかが問題ではない。
九州王朝「倭国」が在ったことはとっくの昔に周辺国が認めていることなのだ。
では逆に大和朝廷「日本国」は在ったかというと、
『670年新羅本紀文武王10年天智9年に、「プロト大和・近江朝(=難波副都倭弟王家)」が倭国更えて「日本」と号す。自ら言う日出づる所に近しと以って名と為す。』
が、周辺国の記録で一番最初なのだ。
「三國史記・卷第六・新羅本紀第六・文武王・上・(原文)」文武王10年670天智9年「十二月・土星入月・倭國更號日本・自言近日所出以爲名」
〔三国史記新羅本紀文武王10年670天智9年に「倭国更えて日本と号す。自ら言う日出づる所に近しと以って名と為す。」〕
文中に、『倭国更えて日本と号す』とあるではないか。この文意は改めて言うまでもなかろうが、670年:天智9年までは「倭国」だったが、これ以降は「日本国」と号するというものだ。
問題はその時の『倭国』とは何者か?だが、
〔667年天智6年3月19日、長門以東の本州・四国を支配する「プロト大和・近江朝(=難波副都倭弟王家)」が倭国から実質的に分離独立。
唐占領下の倭国筑紫都督府の唐進駐軍が瀬戸内海を通って難波京を急襲すればひとたまりも無い、この為暫時難波京から近江京へ遷都。同時に中大兄皇太子は天智天皇として即位〕
の「プロト大和・近江朝(=難波副都倭弟王家)」だろう。
671年天智10年12月3日、「プロト大和・近江朝(=難波副都倭弟王家)」の天智天皇が近江宮で崩じた。
さらに、壬申乱戦中の672年天武元年7月23日、この新生「近江朝」の大友皇子が自ら首をくくり、「プロト大和・近江朝(=難波副都倭弟王家)」は生まれてしばらくして亡んでしまう。
「プロト大和・近江朝(=難波副都倭弟王家)」が「倭国」から分離独立することを、唐国は認めるわけに行かなかったのだろう。
壬申乱戦勝で唐から独立を認められた筑紫大宰府本家兄王家「倭国」と、難波副都倭分家弟王家・プロト大和の「天武朝」へと取って代わる。
壬申乱戦勝で唐から独立を認められた筑紫大宰府本家兄王家「倭国」であるが、その後も唐の過酷な戦後賠償・筑紫大地震とでさらに疲弊してゆく。
「倭国」は、大宰府から難波京へ遷都684年「朱雀」改元、難波京焼失后の浄御原京遷都686年「朱鳥」改元、藤原京の造都・遷都694年「大化」改元する。
その後「プロト大和・天武朝(=難波副都倭分家弟王家)」が、「倭国」の高市天皇を「プロト大化改新696年」で暗殺し倭国を乗っ取る。
翌697年文武天皇即位、翌698年大和王朝初の文武天皇大嘗祭。701年「大宝」改元、大和朝廷「日本国」が開闢する。これを機に九州「倭国」を併合する。最後の抵抗が隼人乱である 。
日本の古代史云々を語る者は、何はさて置き、『何故国内的には「日本書紀」が九州王朝「倭国」を抹殺したのか。
対外的には、大和朝廷「日本国」がどういう経緯で忽然と極東アジアに現れたのか』を明らかにしなければならないと、私は考えます。
古田武彦氏が主張する王朝多元史観はすごく大事です。
日本の部族集団が討伐禅譲のいずれかで「離合集散」を繰り返し国家統一したであろうことは、誰の眼にも明らかだからです。
さらに最終的に日本を統一したのは倭の五王でしょう。ただ、中央集権体制でなく地方自治を認めた連邦制だったとも推定されます。
もちろん、この「王朝多元史観」は、列島・半島南部の村落が離合集散し部族国家を形成し、倭の五王に統合される過程から、倭国の九州(筑紫島)を本拠に・出雲・加賀・吉備・『秦国』・尾張・毛野(常陸)・任那等を含む連邦国家形成。更には、倭国の「天下立評」、「廃評建郡」の大和朝廷「日本国」成立、までの歴史観だと言えます。
これが天下立評で各附庸王国が律令制の官僚組織の中に組み込まれ、中央集権制の一官衙になった時、各附庸王国の出雲・加賀・吉備・『秦国』・尾張・毛野(常陸)は実質的に解体しました。
解体した以降を万世一系の「大和朝廷一元史観」で説明は出来ても、それ以前の連邦時を「大和朝廷一元史観」で説明するのは到底無理というものです。
私は、倭国の連邦制から、日本国の中央集権制への移行がどういう過程・経緯でなされたか。を明かにすることが、
『何故国内的には「日本書紀」が九州王朝「倭国」を抹殺したのか、
対外的には、大和朝廷「日本国」がどういう経緯で忽然と極東アジアに現れたのか』
の説明に、大きな成果を与えるものと考えます。
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◎《追紀》
Ⅸ・a《追紀》 『継体天皇は越国:福井県の出身か』 と 『日本には東と南の字義が2つある』
継体はαに属すが、生まれが「越国三国坂中井」となている。『日本書紀』では越国は現在の福井県ということになっている。
でも私には福井県では当時の状況から今一つしっくり来ないのだ。
さて、ここで
『国名でみる三韓の地域性について:pikupopodemi記す』は非常に参考になる。
この中で言う、「弁辰古資彌凍国(ベンシンコシミト)」こそが継体の生まれ故郷ではないだろうか?
西洋人を「毛唐:けとう」と呼び、唐人を「からひと」ともいう。
北の土地を表す「任那:みまな」に倭人が居住の頃は「伽耶」と呼び、韓人に追い出されて以降「加羅」とよぶ。筑紫の倭人から海外のことを「加羅:から」と言った。それが、唐の時代になっても「から」とよんだのだそうだ。
私は「加羅:から」のまたそれ以前の海外を「古資彌凍国」の「古資:こし:越」と言ったと思うのだが・・・・、はてさて?
この「古資彌凍国」の「古資:こし」は「越」であり「彌凍:みと」は「水門」あるいは「水戸」更には「港」であろう。
現代風に書けば「越水戸国」・「越港国」となろうか?継体天皇の出生地であろう、継体は任那の「越水戸国」・「越港国」の出身ということになる。
当時、任那は風雲急を告げ国家存亡の危機にいたわけで俄然現実味を帯びてきた。
『ちびねこホームページ邪馬臺国試論(第一回)』の弁辰の項途中に紹介の
『平凡社・東洋文庫の三国史記・三国志・日本書紀の新羅・加羅諸国比定図』で、
【 弁辰古資彌凍国 】は現在の固城、日本書紀の古嵯、新羅以前の小国名が小伽耶。
継体天皇の出身地と思われる「越水戸国」・「越港国」に将にぴったりだ。
「筑後国風土記」に〔俄(にわ)かにして、官軍動発し、襲わんと欲する間、勢の勝たざるを知り、独りみずから豊前の国、上膳の県に遁れて、南山峻嶺の曲に終わる。
是に於いて、官軍追尋して蹤を失ふ。〕
筑後国の人が言う官軍とは倭王である倭薈(いわい=磐井)王の軍隊であろう。
「俄かに動発」とは、急に内紛・内乱・叛乱が起こったと言う意味だろう。ここには継体はどこにも出ない。
倭王である倭薈(いわい=磐井)王は、百済・新羅から侵略される「倭国の故地:任那」の救援要請に如何対応したのだろうか?
官軍動発:官軍が叛乱するとはどういった状況だったのだろう。
①救援を渋った。
②矢継ぎ早の増発を指示した。
③負けそうなのは官軍の弱さの所為となじった。
③負け戦と分かっている死にたくない。・・・
「俄かに動発」とは、叛乱のきっかけ・元になったこととはいったい、何だったのだろうか、さっぱり分からない。
ただ、はっきりしているのは米田良三氏がいうように「倭薈(いわい=磐井)王が、南山峻嶺の曲に終わる。」その場所が大分県宇佐市の西の小高い丘「小倉山」の山頂付近である。
今は跡形もなくなっているが、東のふもとには奈良へ移築後の「薬師寺」が虚空蔵寺遺跡の上に建っていた。
また、西の麓の「小倉の池」のそばには移築後の「東大寺」が建っていた。
そう、倭薈(ゐわい=磐井)王への追慕の気持ちがそうさせたのである。
倭薈(ゐわい=磐井)王と、日本書紀の継体天皇との関係は嫡子でない、養子などが倭国王を継体したということになる。
であれば。その叛乱のあと、倭国民の倭薈への追慕の気持ちだけで、宇佐の「小倉山の東麓に「薬師寺」、西麓に「東大寺」を建てるということがありえようか?継体は任那王だったか。
わたしの仮説が正しければ、500年代初頭の近畿に大和朝廷なるものは存在してない。あったとすれば「秦国」だけである。
継体の出身地は越国(=福井県)ではなく、弁辰古資彌凍国、今風に「越水戸国」・「越水門国」・「越港国」は現在の固城、日本書紀の古嵯、新羅以前の小国名が小伽耶である。
そもそも継体は実在してたのか。実に疑わしい。
大和王朝「日本国」は、九州王朝「倭国」の大化7年を(建元でなく)改元し大宝元年701年名実ともに発足した。
640年代後半になってその前身と考えられる「難波副都倭弟王家」の「プロト大和朝」が出現する。
私の仮説が正しければ、500年代初頭の近畿に大和朝廷なるものは存在してない。継体はダメ押しだろう。
九州王朝「倭国」の倭薈(ゐわい=磐井)王が九州年号創始・建元は、「善記」(522壬寅):継体16年。途中「正和」(526丙午):継体20年の改元を経て。倭薈(ゐわい=磐井)王が、「にわかに(倭国の)官軍が動発し襲われた」が為の死亡・改元が「發倒」(531辛亥):継体25年である。
(注意:「發倒」は倒れたもの再び起こすの意で古田武彦氏説によった)
日本書紀編者は当時の日本が西暦は一般的でなく、「60年周期の干支」と「倭国の元号」(=九州年号)が史書編纂・編年の拠り所で、「倭国年号」で編纂の倭国史書を元に大和王朝「日本国」史をでっち上げ(正木裕氏)のち、九州元号最初の「善記」に続く以後の倭国史を、「善記」の前に「継体」を置くことで倭国史・元号共々を抹殺したと考えられる。
韓半島東部の新羅の地名は日の出を意味する「シラヒース」で韓半島東部を表す。
いっぽう、韓半島南部の安邪:安羅:阿羅:咸安の安:アンには韓国語で下部・陰部の意味で韓半島南部だと思うが、安羅がその南部の代わりに、“お日様に一番近い”、故に「日本府」を名のったとしてもおかしくない。
旧唐書「日辺に在るを以って名と為す」同じではないか。
三国史記新羅本紀文武王10年670天智9年に、倭国更えて日本と号す。自ら言う「日出づる所に近し」と以って名と為す。即ち東部を言う。
一方旧唐書には「その国日辺に在るを以て故に日本を以て名と為す」この「日辺にある」とは太陽に近い即ち南部を言うだろう。
普段、無意識に呼ぶ我が「日本国」の「日本」には、「日出づる所に近し」の“東”と、「日辺にある」の“南”との意義の2つある。
新羅は「白日」で「日の出の国」であり、日本は「日出づる所に近し」で同義異字である。
大和朝廷で最初の遣唐使一行は、日本は「日出づる所に近し」の同じ内容を唐朝の官人へ告げたと思われる。
が、対する唐朝の官人らは、以前に安羅が「日本府」を号した時、「日辺に在る」からと言ったというじゃあないか。
あなた方はその「日本」を踏襲したいんでしょう。ならば、「日辺に在る」が正しいのじゃないの。と訂正したはずだ。
〔メモ:日本(ひのもと)の
『(もと)で辞書を引くと、同じ(もと)でも、(本:主となるもの・中心・よりどころ)(元:物事のおこり・はじめ・起源)(下:あたり・そば・かたわら)』、
いっぽう、『辺(へ):ほとり・近く・そば)』とある。〕
「任那日本府」とは、筑紫から見て倭人連合の北の人・土地という意味と、韓半島南部の倭人連合国の宗主国:安羅(安邪)という意味だろう。
この安羅(安邪)の日本府で百済本紀の531年(継体25年)
『太歳辛亥の3月軍進みて安羅に至り、乞乇城を営む。この月高麗、其の王・安を殺す。又聞く日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬ』
の事件があったか。最初に日本を名乗ったのはこの安邪(安羅)であろう。
この安邪(安羅)の南に弁辰古資彌凍国「越水戸国」・「越港国」小伽耶があり、ここの継体天皇が534(継体28年)歳次甲寅に崩ず。
531年(継体25年)『太歳辛亥の3月軍進みて安羅に至り、乞乇城を営む。この月高麗、其の王・安を殺す。又聞く日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬ』で、百済本紀はこの「安羅の王・安」と「日本の天皇」とが同じだという。ということは最初に日本・天皇を称号したのは安羅国であり、安羅国王だということになる。
百済本紀はこの「安羅の王・安」と「日本の天皇」とが、〔 又聞く:同じ事件を「別人」から聞く 〕の意味で同じだと言ったのだろう。
ところが、『日本書紀』編者は「安羅の王・安」と「日本の天皇」は違うとし、更に「日本の天皇」と「継体」を同一視したと書いている。
更には「日本の天皇」と「倭薈(磐井)王」が同じだと書く者さえいる。まったく、やれ・やれである。
『531年(継体25年)太歳辛亥の3月、安羅の王・安が殺され(=日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨)』
の安羅国「王安」(=日本府「天皇」)・殺戮事件が起因で、九州王朝倭国の
『倭薈(磐井)王が「にわかに官軍が動発し襲われた」が為の死亡が(531辛亥)継体25年11月11日である。』
と連なり、さらに、
『この安羅の南の弁辰古資彌凍国「越水戸国」・「越港国」小伽耶の継体天皇が534(継体28年)歳次甲寅に崩ずる』
の前に、継体天皇が九州王朝倭国を再興「發倒」したとなる。
のちに、大和王朝が「日本国」「天皇」を名乗ったことから逆算すると、この時、小伽耶の継体天皇が任那日本府王家の遺族を連れて筑紫倭国へ渡海避難し、倭国を發倒(=再興)・継体した。
倭薈(磐井)王遺族が倭兄王家で、任那日本府遺族が倭弟王家だと思う。
その後も、百済本紀(欽明5年:544年3月)「それ任那は安羅を以て兄とす。唯其の意にのみ従う。安羅人は日本府を以て天とす。唯其の意にのみ従う。」
日本書紀の欽明紀「安羅を以て父とす。日本府を以て本とするなり。」と記す。
〔注意:この場合の日本府は安羅国内にあった「韓半島南部倭人連邦府(=任那府)」、或いは安羅王宮のことだろう。〕
倭人が韓人に韓半島から追い出される将にその時期に当っていよう。
《メモ》
鹿島昇は『日本書紀』の皇統譜は、百済と安羅の王朝を縦につないでいますから、同じ時代が「2重」に書かれていることがあります。
例えば、継体ー安閑ー宣化というのは安羅王で、アメタリシヒコになるのですが、欽明ー敏達ー用明は、実は、百済王の東城ー武寧ー聖明のことで、「2つ王統」は並行していたわけです。と書いている。
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Ⅸ・b《追紀》 『「日本書紀」が記す「高市天皇暗殺」迄の経緯』
○『678年(天武7年:白鳳18年)12月この月筑紫〔福岡県〕の国で、
〔筑紫〕大地震。』
●『682年(天武11年:白鳳22年)4月21日、筑紫太宰丹比真人嶋らが、大きな鐘を貢〔上〕した。』
●『682年(天武11年:白鳳22年)8月13日、筑紫太宰が、「三〔本〕足の雀がいました」といった。』
●『683年(天武12年:白鳳23年)春正月2日、百寮(官)が朝廷〔天皇〕を拝した。
筑紫太宰丹比真人嶋らが、三つ足の雀(=3種の神器) を〔九州王朝からプロト大和王朝へ〕貢上した。』
○『684年(天武13年:朱雀元年)10月14日、人定〔午後8時〕になって〔白鳳の〕大地震。』
○『686年(天武15年:朱鳥元年)1月14日、酉の時(午後6時)に、難波〔京〕の大蔵省が失火して、宮室がことごとく焼けた。』
○『686年(天武15年:朱鳥元年)6月10日、天皇の病を卜ったところ、草薙剣が祟っていた。即日、尾張の国の熱田社に送り置いた』
○『686年(天武15年:朱鳥元年)7月19日、詔して、「天下の百姓の、貧乏によって稲と資材とを借りた者は、乙酉〔天武10〕年の12月30日以前は、公私を問わず、みな免除する〔棒引きする〕」といった。』
○『686年(天武15年:朱鳥元年)7月20日、改元して、朱鳥元年といった。そして宮を飛鳥浄御原の宮と名づけた。』
〔参照:672年(天武元年:白鳳12年)『9月15日、嶋の宮から岡本の宮に移った。この歳、宮室を岡本の宮の南に造営した。その冬に、遷って居住した。これを飛鳥浄御原の宮という。』とあり、重複している。
私が思うに、大宰府倭兄王家は遷都してすぐに、難波京が焼失したので、飛鳥浄御原の宮は難波倭弟王家の宮であるが、止むを得ず、その宮を間借りして同居したということだろう、間借りではあるが改元したのだろう。
○『686年(天武15年:朱鳥元年)9月9日、天武天皇(=持統天皇の夫・草壁皇子尊の父)が薨去した。』
●『687年(持統元年:朱鳥2年)春正月1日、納言布勢朝臣御主人が誅した。礼というものだ』
●『687年(持統元年:朱鳥2年)3月20日、丹比真人麻呂が誅した。礼というものだ』
●『688年(持統2年:朱鳥3年)11月11日、布勢朝臣御主人・大伴宿禰御行が誅した。 —略— 礼というものだ』
●『689年(持統3年:朱鳥4年)8月27日、直広弐〔従四位下〕丹比真人嶋に、直広壱〔正四位下〕を授けた。〔食〕封100戸を増し、前〔の封戸に〕通〔算、200戸と〕した。』
●『689年(持統3年:朱鳥4年)9月10日、直広参〔正五位下〕石上朝臣麻呂、直広肆〔従五位下〕石上朝臣虫名らを筑紫に遣わして、位紀を送り給した。また新城を監〔察〕した。』
○『690年〔持統4年(持統即位元年):朱鳥5年〕春正月1日 —略— 神璽の剣、鏡を『皇后 高市天皇』に上げ奉った。『皇后 高市天皇』は天皇位に即いた。—略—』
●『690年〔持統4年(持統即位元年):朱鳥5年〕7月5日、 皇子高市を、太政大臣とした。 丹比真人嶋に正広参〔正三位~従二位〕を授けて右大臣とした。』
○『690年〔持統4年(持統即位元年):朱鳥5年〕10月29日「 高市皇子 高市天皇」が、藤原の宮の〔予定〕地を観た。公卿、百寮〔官〕が従った。』
○『690年〔持統4年(持統即位元年):朱鳥5年〕12月19日「 天皇 高市天皇」が、藤原に〔行〕幸して、宮地を観た。公卿、百寮〔官〕がみな従った。』
●『691年〔持統5年(持統即位2年):朱鳥6年〕春正月1日、 —略— 正広参〔正三位~従二位〕右大臣丹比真人嶋に300戸、前と通〔算〕して500戸。直広肆〔従五位下〕百済王禅広に100戸、前と通〔算〕して200戸、直大壱〔正四位上〕布勢御主人朝臣と大伴御行宿禰とに80戸、前と通〔算〕して300戸。その余にも〔食〕封を〔加〕増したが、それぞれ差があった。
○『691年〔持統5年(持統即位2年):朱鳥6年〕11月1日、大嘗。』
●『694年〔持統8年(持統即位5年):朱鳥9年〕春正月2日、正広肆〔従三位〕を、直大壱〔正四位上〕布勢朝臣御主人と大伴宿禰御行とに授けた。〔食〕封をひとり200戸〔加〕増した。、前と通〔算〕して500戸。ともに氏上とした。
○『694年〔持統8年(持統即位5年):朱鳥9年〕12月6日、藤原の宮に遷居した。
○『696年〔持統10年(持統即位7年):大化2年〕7月10日、後皇子尊『 高市皇子 高市天皇』が薨じた。
●『696年〔持統10年(持統即位7年):大化2年〕10月22日、かりに、正広参〔正三位〕の位の右大臣丹比真人嶋に、資人120人を賜った。正広肆〔従三位〕の大納言安倍朝臣御主人・大伴宿禰御行に、ともに80人。直広壱〔正四位下〕石上朝臣麻呂・直広弐〔従四位下〕藤原朝臣不比等に、ともに50人。
天皇が薨去したのだ、3ヶ月後とはいえ顕彰記事は異常だ。以上から「高市天皇」暗殺の下手人は、
★「丹比真人嶋」★「安倍朝臣御主人」★「大伴宿禰御行」☆「石上朝臣麻呂」☆「藤原朝臣不比等」
の合計5人(★印は九州系、☆印は近畿系を表示する。)であり、もちろん、リーダーは「藤原朝臣不比等」だったと言えよう。
筑紫太宰丹比真人嶋らは、「大きな鐘を貢上して助けを求めた」が納得して貰えず、 「三つ足の雀がいました」と打診し、三つ足の雀(=3種の神器) を九州王朝からプロト大和王朝へ貢上した。だがその経過にうとい高市天皇が約束を反古することとなり窮地に立った丹比真人嶋らは高市天皇を裏切ったのだろう。
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Ⅸ・c《追紀》 『「続日本紀」が記す「高市天皇暗殺」後の下手人達の栄達』
○『697年〔文武元年:大化3年〕8月1日、(文武天皇が)持統天皇から位を譲りうけて、皇位につかれた。
○『698年〔文武2年:大化4年〕11月23日、大嘗祭を行った。直広肆〔従五位下相当〕の榎井朝臣倭麻呂が、大楯を大嘗宮の門に立て、直広肆の大伴宿禰手拍が楯と桙を立てた。神祇官の官人と、大嘗祭の仕事(悠紀・主基二田の奉仕)にお仕えした尾張・美濃2国の郡司や百姓らに、それぞれの仕事に応じて物を賜った。』
●『700年〔文武4年:大化6年〕正月13日、詔があって、左大臣・丹比真人嶋に霊寿の杖と輿および供人とを賜った。高齢をいたわってである。』
●『700年〔文武4年:大化6年〕8月22日、 —略— 阿倍朝臣御主人と大伴宿禰御行には、ともに正広参(従二位相当)を授けた、 —略— 何れも善い政治を褒めてのことである。』
●『700年〔文武4年:大化6年〕10月15日、直大壱〔正四位上相当〕の石上朝臣麻呂を筑紫総領に任じた。』
●『701年〔大宝元年:文武5年:大化7年〕正月15日、大納言で正広参(正三位相当)の大伴宿禰御行が薨じた。天皇はその死を大変惜しんで、直広肆〔従五位下相当〕の榎井連倭麻呂らを遣わして葬儀を指揮させられた。直広壱〔正四位下相当〕の藤原朝臣不比等らを邸に遣わして詔を告げさせ、正広弐(正二位相当)の位と右大臣の官を追贈された。御行は難波朝(孝徳朝)の右大臣で、大紫(正三位相当)の位の長徳の子である。』
○『701年〔大宝元年:文武5年:大化7年〕3月21日、対馬嶋が金を貢じた。そこで新しく元号をたてて、大宝元年とした。初めて新令(大宝令)に基づいて、官名と位号の制を改正した。
●『701年〔大宝元年:文武5年:大化7年〕3月21日、左大臣で正広弐(正二位相当)の多治比真人嶋に正冠の正二位、大納言で正広参(従二位相当)の阿倍朝臣御主人に正冠の従二位、中納言で直大壱〔正四位上相当〕の石上朝臣麻呂と、直広壱〔正四位下相当〕の藤原朝臣不比等に正冠の正三位、直大壱の大伴宿禰安麻呂と直広弐〔従四位下相当〕の紀朝臣麻呂に正冠の従三位を授けた。 —略—
大納言で正冠従二位の阿倍朝臣御主人を右大臣に任じ、中納言で正冠正三位の石上朝臣麻呂・藤原朝臣不比等・正冠従三位の紀朝臣麻呂をともに大納言に任じた。大宝令の発足でこの日、中納言の官職を廃止した。
●『701年〔大宝元年:文武5年:大化7年〕3月29日、右大臣・従二位の阿倍朝臣御主人に、あしぎぬ五百疋・絹糸四百休 —略— を授けた。
●『701年〔大宝元年:文武5年:大化7年〕7月21日、この日、左大臣・正二位の多治比真人嶋が薨じた。天皇は詔して、右少弁で従五位下の波多朝臣広足・治部少輔で従五位下の大宅朝臣金弓らを遣わして、葬儀を指揮させられた。また、三品の刑部親王・正三位の石上朝臣麻呂を遣わし、 —略—、左大臣嶋は宣化天皇の玄孫で、多治比王の子だる。
●『701年〔大宝元年:文武5年:大化7年〕8月16日、正三位の石上朝臣麻呂を太宰師(大宰府の長官)に任じた。
○『702年〔大宝2年:文武6年:大化8年〕12月22日、太上天皇が崩御された。 —略—
●『703年〔大宝3年:文武7年:大化9年〕4月1日、阿倍朝臣御主人が薨じた。正三位の石上朝臣麻呂らを遣わし物を贈って弔わせた。
この時点で、「丹比真人嶋」「安倍朝臣御主人」「大伴宿禰御行」「石上朝臣麻呂」「藤原朝臣不比等」の5人のうち、 「丹比真人嶋」 ・ 「安倍朝臣御主人」 ・ 「大伴宿禰御行」 が死に、「石上朝臣麻呂」・「藤原朝臣不比等」が生き残っていることになる。
ちょうど、今木健之著「本能寺の首謀者は秀吉である」の①宇喜多直家、②中川瀬兵衛、③椙原家次、④蒲生賢秀、⑤池田恒興、⑥丹羽長秀、⑦誠仁親王、⑧蒲生氏郷、の早死に・変死に、似ていないだろうか?
●『717年〔養老元年:元正3年〕3月3日、左大臣で正二位の石上朝臣麻呂が薨じた。天皇は大変悼み惜しまれて、このために朝政をやすまれた。
●『720年〔養老4年:元正6年〕8月3日、右大臣正二位の藤原朝臣不比等が薨じた。天皇はこれを深く悼み惜しまれた。ためにこの日は政務はみず、内殿で悲しみの声をあげる礼を行い、特別に手厚い天皇の勅があった。死者を弔い贈り物をする礼は、他の群臣とは異なって盛大であった。大臣は近江朝廷の内大臣・大織冠であった鎌足の第二子である。
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