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◎《追紀》


Ⅸ・a《追紀》 『継体天皇は越国:福井県の出身か』 と 『日本には東と南の字義が2つある』


 継体はαに属すが、生まれが「越国三国坂中井」となている。『日本書紀』では越国は現在の福井県ということになっている。
 でも私には福井県では当時の状況から今一つしっくり来ないのだ。
 さて、ここで『国名でみる三韓の地域性について:pikupopodemi記す』は非常に参考になる。
 この中で言う、「弁辰古資彌凍国(ベンシンコシミト)」こそが継体の生まれ故郷ではないだろうか?

 西洋人を「毛唐:けとう」と呼び、唐人を「からひと」ともいう。
 北の土地を表す「任那:みまな」に倭人が居住の頃は「伽耶」と呼び、韓人に追い出されて以降「加羅」とよぶ。筑紫の倭人から海外のことを「加羅:から」と言った。それが、唐の時代になっても「から」とよんだのだそうだ。
 私は「加羅:から」のまたそれ以前の海外を「古資彌凍国」の「古資:こし:越」と言ったと思うのだが・・・・、はてさて?

 この「古資彌凍国」の「古資:こし」は「越」であり「彌凍:みと」は「水門」あるいは「水戸」更には「港」であろう。
 現代風に書けば「越水戸国」・「越港国」となろうか?継体天皇の出生地であろう、継体は任那の「越水戸国」・「越港国」の出身ということになる。
 当時、任那は風雲急を告げ国家存亡の危機にいたわけで俄然現実味を帯びてきた。

  『ちびねこホームページ邪馬臺国試論(第一回)』の弁辰の項途中に紹介の
『平凡社・東洋文庫の三国史記・三国志・日本書紀の新羅・加羅諸国比定図』で、
 【 弁辰古資彌凍国 】は現在の固城、日本書紀の古嵯、新羅以前の小国名が小伽耶。
 継体天皇の出身地と思われる「越水戸国」・「越港国」に将にぴったりだ。


 「筑後国風土記」に〔俄(にわ)かにして、官軍動発し、襲わんと欲する間、勢の勝たざるを知り、独りみずから豊前の国、上膳の県に遁れて、南山峻嶺の曲に終わる。 是に於いて、官軍追尋して蹤を失ふ。〕
筑後国の人が言う官軍とは倭王である倭薈(いわい=磐井)王の軍隊であろう。
「俄かに動発」とは、急に内紛・内乱・叛乱が起こったと言う意味だろう。ここには継体はどこにも出ない。

 倭王である倭薈(いわい=磐井)王は、百済・新羅から侵略される「倭国の故地:任那」の救援要請に如何対応したのだろうか?
 官軍動発:官軍が叛乱するとはどういった状況だったのだろう。
①救援を渋った。
②矢継ぎ早の増発を指示した。
③負けそうなのは官軍の弱さの所為となじった。
③負け戦と分かっている死にたくない。・・・

 「俄かに動発」とは、叛乱のきっかけ・元になったこととはいったい、何だったのだろうか、さっぱり分からない。
 ただ、はっきりしているのは米田良三氏がいうように「倭薈(いわい=磐井)王が、南山峻嶺の曲に終わる。」その場所が大分県宇佐市の西の小高い丘「小倉山」の山頂付近である。
 今は跡形もなくなっているが、東のふもとには奈良へ移築後の「薬師寺」が虚空蔵寺遺跡の上に建っていた。
 また、西の麓の「小倉の池」のそばには移築後の「東大寺」が建っていた。
 そう、倭薈(ゐわい=磐井)王への追慕の気持ちがそうさせたのである。

 倭薈(ゐわい=磐井)王と、日本書紀の継体天皇との関係は嫡子でない、養子などが倭国王を継体したということになる。
 であれば。その叛乱のあと、倭国民の倭薈への追慕の気持ちだけで、宇佐の「小倉山の東麓に「薬師寺」、西麓に「東大寺」を建てるということがありえようか?継体は任那王だったか。


 わたしの仮説が正しければ、500年代初頭の近畿に大和朝廷なるものは存在してない。あったとすれば「秦国」だけである。
 継体の出身地は越国(=福井県)ではなく、弁辰古資彌凍国、今風に「越水戸国」・「越水門国」・「越港国」は現在の固城、日本書紀の古嵯、新羅以前の小国名が小伽耶である。
 そもそも継体は実在してたのか。実に疑わしい。

 大和王朝「日本国」は、九州王朝「倭国」の大化7年を(建元でなく)改元し大宝元年701年名実ともに発足した。
 640年代後半になってその前身と考えられる「難波副都倭弟王家」の「プロト大和朝」が出現する。
 私の仮説が正しければ、500年代初頭の近畿に大和朝廷なるものは存在してない。継体はダメ押しだろう。

 九州王朝「倭国」の倭薈(ゐわい=磐井)王が九州年号創始・建元は、「善記」(522壬寅):継体16年。途中「正和」(526丙午):継体20年の改元を経て。倭薈(ゐわい=磐井)王が、「にわかに(倭国の)官軍が動発し襲われた」が為の死亡・改元が「發倒」(531辛亥):継体25年である。
(注意:「發倒」は倒れたもの再び起こすの意で古田武彦氏説によった)

 日本書紀編者は当時の日本が西暦は一般的でなく、「60年周期の干支」と「倭国の元号」(=九州年号)が史書編纂・編年の拠り所で、「倭国年号」で編纂の倭国史書を元に大和王朝「日本国」史をでっち上げ(正木裕氏)のち、九州元号最初の「善記」に続く以後の倭国史を、「善記」の前に「継体」を置くことで倭国史・元号共々を抹殺したと考えられる。


 韓半島東部の新羅の地名は日の出を意味する「シラヒース」で韓半島東部を表す。

いっぽう、韓半島南部の安邪:安羅:阿羅:咸安の安:アンには韓国語で下部・陰部の意味で韓半島南部だと思うが、安羅がその南部の代わりに、“お日様に一番近い”、故に「日本府」を名のったとしてもおかしくない。
 旧唐書「日辺に在るを以って名と為す」同じではないか。

 三国史記新羅本紀文武王10年670天智9年に、倭国更えて日本と号す。自ら言う「日出づる所に近し」と以って名と為す。即ち東部を言う。
 一方旧唐書には「その国日辺に在るを以て故に日本を以て名と為す」この「日辺にある」とは太陽に近い即ち南部を言うだろう。
 普段、無意識に呼ぶ我が「日本国」の「日本」には、「日出づる所に近し」の“東”と、「日辺にある」の“南”との意義の2つある。

 新羅は「白日」で「日の出の国」であり、日本は「日出づる所に近し」で同義異字である。
 大和朝廷で最初の遣唐使一行は、日本は「日出づる所に近し」の同じ内容を唐朝の官人へ告げたと思われる。
 が、対する唐朝の官人らは、以前に安羅が「日本府」を号した時、「日辺に在る」からと言ったというじゃあないか。
 あなた方はその「日本」を踏襲したいんでしょう。ならば、「日辺に在る」が正しいのじゃないの。と訂正したはずだ。

〔メモ:日本(ひのもと)の
『(もと)で辞書を引くと、同じ(もと)でも、(本:主となるもの・中心・よりどころ)(元:物事のおこり・はじめ・起源)(下:あたり・そば・かたわら)』、
 いっぽう、『辺(へ):ほとり・近く・そば)』とある。〕


「任那日本府」とは、筑紫から見て倭人連合の北の人・土地という意味と、韓半島南部の倭人連合国の宗主国:安羅(安邪)という意味だろう。
 この安羅(安邪)の日本府で百済本紀の531年(継体25年)
『太歳辛亥の3月軍進みて安羅に至り、乞乇城を営む。この月高麗、其の王・安を殺す。又聞く日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬ』
の事件があったか。最初に日本を名乗ったのはこの安邪(安羅)であろう。

 この安邪(安羅)の南に弁辰古資彌凍国「越水戸国」・「越港国」小伽耶があり、ここの継体天皇が534(継体28年)歳次甲寅に崩ず。


 531年(継体25年)『太歳辛亥の3月軍進みて安羅に至り、乞乇城を営む。この月高麗、其の王・安を殺す。又聞く日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬ』で、百済本紀はこの「安羅の王・安」と「日本の天皇」とが同じだという。ということは最初に日本・天皇を称号したのは安羅国であり、安羅国王だということになる。

 百済本紀はこの「安羅の王・安」と「日本の天皇」とが、〔 又聞く:同じ事件を「別人」から聞く 〕の意味で同じだと言ったのだろう。

 ところが、『日本書紀』編者は「安羅の王・安」と「日本の天皇」は違うとし、更に「日本の天皇」と「継体」を同一視したと書いている。
 更には「日本の天皇」と「倭薈(磐井)王」が同じだと書く者さえいる。まったく、やれ・やれである。


 『531年(継体25年)太歳辛亥の3月、安羅の王・安が殺され(=日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨)』

 の安羅国「王安」(=日本府「天皇」)・殺戮事件が起因で、九州王朝倭国の

 『倭薈(磐井)王が「にわかに官軍が動発し襲われた」が為の死亡が(531辛亥)継体25年11月11日である。』

 と連なり、さらに、

 『この安羅の南の弁辰古資彌凍国「越水戸国」・「越港国」小伽耶の継体天皇が534(継体28年)歳次甲寅に崩ずる』

 の前に、継体天皇が九州王朝倭国を再興「發倒」したとなる。


 のちに、大和王朝が「日本国」「天皇」を名乗ったことから逆算すると、この時、小伽耶の継体天皇が任那日本府王家の遺族を連れて筑紫倭国へ渡海避難し、倭国を發倒(=再興)・継体した。

 倭薈(磐井)王遺族が倭兄王家で、任那日本府遺族が倭弟王家だと思う。


 その後も、百済本紀(欽明5年:544年3月)「それ任那は安羅を以て兄とす。唯其の意にのみ従う。安羅人は日本府を以て天とす。唯其の意にのみ従う。」

日本書紀の欽明紀「安羅を以て父とす。日本府を以て本とするなり。」と記す。

 〔注意:この場合の日本府は安羅国内にあった「韓半島南部倭人連邦府(=任那府)」、或いは安羅王宮のことだろう。〕


 倭人が韓人に韓半島から追い出される将にその時期に当っていよう。


《メモ》
 鹿島昇は『日本書紀』の皇統譜は、百済と安羅の王朝を縦につないでいますから、同じ時代が「2重」に書かれていることがあります。
 例えば、継体ー安閑ー宣化というのは安羅王で、アメタリシヒコになるのですが、欽明ー敏達ー用明は、実は、百済王の東城ー武寧ー聖明のことで、「2つ王統」は並行していたわけです。と書いている。







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Ⅸ・b《追紀》 『「日本書紀」が記す「高市天皇暗殺」迄の経緯』

○『678年(天武7年:白鳳18年)12月この月筑紫〔福岡県〕の国で、〔筑紫〕大地震。』

●『682年(天武11年:白鳳22年)4月21日、筑紫太宰丹比真人嶋らが、大きな鐘を貢〔上〕した。』

●『682年(天武11年:白鳳22年)8月13日、筑紫太宰が、「三〔本〕足の雀がいました」といった。』

●『683年(天武12年:白鳳23年)春正月2日、百寮(官)が朝廷〔天皇〕を拝した。 筑紫太宰丹比真人嶋らが、三つ足の雀(=3種の神器) を〔九州王朝からプロト大和王朝へ〕貢上した。』


○『684年(天武13年:朱雀元年)10月14日、人定〔午後8時〕になって〔白鳳の〕大地震。』


○『686年(天武15年:朱鳥元年)1月14日、酉の時(午後6時)に、難波〔京〕の大蔵省が失火して、宮室がことごとく焼けた。』

○『686年(天武15年:朱鳥元年)6月10日、天皇の病を卜ったところ、草薙剣が祟っていた。即日、尾張の国の熱田社に送り置いた』

○『686年(天武15年:朱鳥元年)7月19日、詔して、「天下の百姓の、貧乏によって稲と資材とを借りた者は、乙酉〔天武10〕年の12月30日以前は、公私を問わず、みな免除する〔棒引きする〕」といった。』

○『686年(天武15年:朱鳥元年)7月20日、改元して、朱鳥元年といった。そして宮を飛鳥浄御原の宮と名づけた。』

 〔参照:672年(天武元年:白鳳12年)『9月15日、嶋の宮から岡本の宮に移った。この歳、宮室を岡本の宮の南に造営した。その冬に、遷って居住した。これを飛鳥浄御原の宮という。』とあり、重複している。  

 私が思うに、大宰府倭兄王家は遷都してすぐに、難波京が焼失したので、飛鳥浄御原の宮は難波倭弟王家の宮であるが、止むを得ず、その宮を間借りして同居したということだろう、間借りではあるが改元したのだろう。

○『686年(天武15年:朱鳥元年)9月9日、天武天皇(=持統天皇の夫・草壁皇子尊の父)が薨去した。』

●『687年(持統元年:朱鳥2年)春正月1日、納言布勢朝臣御主人が誅した。礼というものだ』

●『687年(持統元年:朱鳥2年)3月20日、丹比真人麻呂が誅した。礼というものだ』

●『688年(持統2年:朱鳥3年)11月11日、布勢朝臣御主人・大伴宿禰御行が誅した。 —略— 礼というものだ』

●『689年(持統3年:朱鳥4年)8月27日、直広弐〔従四位下〕丹比真人嶋に、直広壱〔正四位下〕を授けた。〔食〕封100戸を増し、前〔の封戸に〕通〔算、200戸と〕した。』

●『689年(持統3年:朱鳥4年)9月10日、直広参〔正五位下〕石上朝臣麻呂、直広肆〔従五位下〕石上朝臣虫名らを筑紫に遣わして、位紀を送り給した。また新城を監〔察〕した。』


○『690年〔持統4年(持統即位元年):朱鳥5年〕春正月1日 —略— 神璽の剣、鏡を『皇后 高市天皇』に上げ奉った。『皇后 高市天皇』は天皇位に即いた。—略—』

●『690年〔持統4年(持統即位元年):朱鳥5年〕7月5日、 皇子高市を、太政大臣とした。 丹比真人嶋に正広参〔正三位~従二位〕を授けて右大臣とした。』

○『690年〔持統4年(持統即位元年):朱鳥5年〕10月29日「 高市皇子 高市天皇」が、藤原の宮の〔予定〕地を観た。公卿、百寮〔官〕が従った。』

○『690年〔持統4年(持統即位元年):朱鳥5年〕12月19日「 天皇 高市天皇」が、藤原に〔行〕幸して、宮地を観た。公卿、百寮〔官〕がみな従った。』

●『691年〔持統5年(持統即位2年):朱鳥6年〕春正月1日、 —略— 正広参〔正三位~従二位〕右大臣丹比真人嶋に300戸、前と通〔算〕して500戸。直広肆〔従五位下〕百済王禅広に100戸、前と通〔算〕して200戸、直大壱〔正四位上〕布勢御主人朝臣と大伴御行宿禰とに80戸、前と通〔算〕して300戸。その余にも〔食〕封を〔加〕増したが、それぞれ差があった。

○『691年〔持統5年(持統即位2年):朱鳥6年〕11月1日、大嘗。』

●『694年〔持統8年(持統即位5年):朱鳥9年〕春正月2日、正広肆〔従三位〕を、直大壱〔正四位上〕布勢朝臣御主人と大伴宿禰御行とに授けた。〔食〕封をひとり200戸〔加〕増した。、前と通〔算〕して500戸。ともに氏上とした。

○『694年〔持統8年(持統即位5年):朱鳥9年〕12月6日、藤原の宮に遷居した。


○『696年〔持統10年(持統即位7年):大化2年〕7月10日、後皇子尊『 高市皇子 高市天皇』が薨じた。


●『696年〔持統10年(持統即位7年):大化2年〕10月22日、かりに、正広参〔正三位〕の位の右大臣丹比真人嶋に、資人120人を賜った。正広肆〔従三位〕の大納言安倍朝臣御主人大伴宿禰御行に、ともに80人。直広壱〔正四位下〕石上朝臣麻呂・直広弐〔従四位下〕藤原朝臣不比等に、ともに50人。



天皇が薨去したのだ、3ヶ月後とはいえ顕彰記事は異常だ。以上から「高市天皇」暗殺の下手人は、

★「丹比真人嶋」★「安倍朝臣御主人」★「大伴宿禰御行」☆「石上朝臣麻呂」☆「藤原朝臣不比等」

の合計5人(★印は九州系、☆印は近畿系を表示する。)であり、もちろん、リーダーは「藤原朝臣不比等」だったと言えよう。

 筑紫太宰丹比真人嶋らは、「大きな鐘を貢上して助けを求めた」が納得して貰えず、 「三つ足の雀がいました」と打診し、三つ足の雀(=3種の神器) を九州王朝からプロト大和王朝へ貢上した。だがその経過にうとい高市天皇が約束を反古することとなり窮地に立った丹比真人嶋らは高市天皇を裏切ったのだろう。





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Ⅸ・c《追紀》 『「続日本紀」が記す「高市天皇暗殺」後の下手人達の栄達』

○『697年〔文武元年:大化3年〕8月1日、(文武天皇が)持統天皇から位を譲りうけて、皇位につかれた。

○『698年〔文武2年:大化4年〕11月23日、大嘗祭を行った。直広肆〔従五位下相当〕の榎井朝臣倭麻呂が、大楯を大嘗宮の門に立て、直広肆の大伴宿禰手拍が楯と桙を立てた。神祇官の官人と、大嘗祭の仕事(悠紀・主基二田の奉仕)にお仕えした尾張・美濃2国の郡司や百姓らに、それぞれの仕事に応じて物を賜った。』

●『700年〔文武4年:大化6年〕正月13日、詔があって、左大臣・丹比真人嶋に霊寿の杖と輿および供人とを賜った。高齢をいたわってである。』

●『700年〔文武4年:大化6年〕8月22日、 —略— 阿倍朝臣御主人と大伴宿禰御行には、ともに正広参(従二位相当)を授けた、 —略— 何れも善い政治を褒めてのことである。』

●『700年〔文武4年:大化6年〕10月15日、直大壱〔正四位上相当〕の石上朝臣麻呂を筑紫総領に任じた。』

●『701年〔大宝元年:文武5年:大化7年〕正月15日、大納言で正広参(正三位相当)の大伴宿禰御行が薨じた。天皇はその死を大変惜しんで、直広肆〔従五位下相当〕の榎井連倭麻呂らを遣わして葬儀を指揮させられた。直広壱〔正四位下相当〕の藤原朝臣不比等らを邸に遣わして詔を告げさせ、正広弐(正二位相当)の位と右大臣の官を追贈された。御行は難波朝(孝徳朝)の右大臣で、大紫(正三位相当)の位の長徳の子である。』

○『701年〔大宝元年:文武5年:大化7年〕3月21日、対馬嶋が金を貢じた。そこで新しく元号をたてて、大宝元年とした。初めて新令(大宝令)に基づいて、官名と位号の制を改正した。

●『701年〔大宝元年:文武5年:大化7年〕3月21日、左大臣で正広弐(正二位相当)の多治比真人嶋に正冠の正二位、大納言で正広参(従二位相当)の阿倍朝臣御主人に正冠の従二位、中納言で直大壱〔正四位上相当〕の石上朝臣麻呂と、直広壱〔正四位下相当〕の藤原朝臣不比等に正冠の正三位、直大壱の大伴宿禰安麻呂と直広弐〔従四位下相当〕の紀朝臣麻呂に正冠の従三位を授けた。 —略—

 大納言で正冠従二位の阿倍朝臣御主人を右大臣に任じ、中納言で正冠正三位の石上朝臣麻呂・藤原朝臣不比等・正冠従三位の紀朝臣麻呂をともに大納言に任じた。大宝令の発足でこの日、中納言の官職を廃止した。

●『701年〔大宝元年:文武5年:大化7年〕3月29日、右大臣・従二位の阿倍朝臣御主人に、あしぎぬ五百疋・絹糸四百休 —略— を授けた。

●『701年〔大宝元年:文武5年:大化7年〕7月21日、この日、左大臣・正二位の多治比真人嶋が薨じた。天皇は詔して、右少弁で従五位下の波多朝臣広足・治部少輔で従五位下の大宅朝臣金弓らを遣わして、葬儀を指揮させられた。また、三品の刑部親王・正三位の石上朝臣麻呂を遣わし、 —略—、左大臣嶋は宣化天皇の玄孫で、多治比王の子だる。

●『701年〔大宝元年:文武5年:大化7年〕8月16日、正三位の石上朝臣麻呂を太宰師(大宰府の長官)に任じた。

○『702年〔大宝2年:文武6年:大化8年〕12月22日、太上天皇が崩御された。 —略—

●『703年〔大宝3年:文武7年:大化9年〕4月1日、阿倍朝臣御主人が薨じた。正三位の石上朝臣麻呂らを遣わし物を贈って弔わせた。


この時点で、「丹比真人嶋」「安倍朝臣御主人」「大伴宿禰御行」「石上朝臣麻呂」「藤原朝臣不比等」の5人のうち、 「丹比真人嶋」「安倍朝臣御主人」「大伴宿禰御行」 が死に、「石上朝臣麻呂」・「藤原朝臣不比等」が生き残っていることになる。


ちょうど、今木健之著「本能寺の首謀者は秀吉である」の①宇喜多直家、②中川瀬兵衛、③椙原家次、④蒲生賢秀、⑤池田恒興、⑥丹羽長秀、⑦誠仁親王、⑧蒲生氏郷、の早死に・変死に、似ていないだろうか?


●『717年〔養老元年:元正3年〕3月3日、左大臣で正二位の石上朝臣麻呂が薨じた。天皇は大変悼み惜しまれて、このために朝政をやすまれた。

●『720年〔養老4年:元正6年〕8月3日、右大臣正二位の藤原朝臣不比等が薨じた。天皇はこれを深く悼み惜しまれた。ためにこの日は政務はみず、内殿で悲しみの声をあげる礼を行い、特別に手厚い天皇の勅があった。死者を弔い贈り物をする礼は、他の群臣とは異なって盛大であった。大臣は近江朝廷の内大臣・大織冠であった鎌足の第二子である。



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