§……壬申の乱ダイアローグ……§
以下は、塩川慶子さんから、このページに寄せられたダイアローグの抜粋です。
また、塩川慶子さんの渡来人の足跡をたずねても併せてご覧ください。
壬申の乱の秘密
Q:壬申の乱は、新羅からの移住者と百済からの移住者との戦いであったと、思っていますが、
その時まで、九州王朝は実力を持っていたのでしょうか。九州王朝も近畿に移ってきていませんか?
A:私は、鹿島昇氏の考えを是としています。壬申の乱までは韓国での出来事だと言うことです。
大津の宮とは、百済の熊津の宮(韓国の熊に大きいという意味ありより)であり、白村江の戦い以後百済再興を図った遺臣を、新羅の勢力が全滅掃討したことを、あたかも日本の大津付近で皇位継承の争い(実際は王朝の交代)のごとくアレンジしています。そう思いませんか?
したがって、壬申の乱の内容で日本列島内の事件は、何も分からないと言えます。
ただ、この時代に、九州倭国王朝が、奈良日本王朝へ王朝交代したことは確かだと考えています、
どうも具体的にわからないというのが本音です。その王朝交代が、幕末の皇女和宮が降嫁したかのごとく倭国の姫君が嫁いだか?、
はたまた、神武が東征したかのごとく奈良の秦王朝を征服し移動したか?。
一方、秦王朝の蘇我入鹿の、元は封土のあった墓が暴かれて、石郭が剥き出しになっている。
蘇我の有明子が、馬子と蔑まされている、など、受け入れ側の奈良王朝もすんなりと済んでないようです。
九州から奈良への膨大な数の寺の移築は神武のように東征したのならば自分の先祖の地をあまりにも軽んじた行為だと言えます。
九州王朝は、古田武彦氏のおっしゃるように今で言う連邦制の国家であり、これが奈良王朝になるといきなり中央集権国家になったことで。
そんな力が果たして、奈良王朝単独にできたかと考えると、どうも唐王朝の指示があってできたと推察できます。
ちょうど、土地改革・財閥解体を進駐軍が戦後の日本でやったように。
新羅の奈良王朝は、唐の干渉でその100年に及ぶ非常に不安定な政権を閉じ。百済遺臣の桓武王朝に引き継ぐと言ったことではないでしょうか。
Q:壬申の乱は、百済人=天智の子大友と、新羅(高句麗か?)=天武 との戦いだと思いますが、舞台は日本の大津辺りだと思います。
大津に都跡が発掘されていますし,穴太には、それ以前に朝鮮半島から移住してきた人々の住居跡や,古墳が有ります。
白村江以後、舞台は列島に移った、と。
それ以後,源平の争いも、桓武平氏は百済だから、船戦に強いし、新羅源氏は、馬戦に強い。日本の天皇家は、ずうっと、半島の故郷を背負って権力闘争をして来たと思います。現在の天皇家は?
A:私も、当初そのように考えていました。
米田良三氏が、紫式部の源氏物語は平安時代の京都を舞台にした物でなく、白村江の戦いの少し前の時代の九州太宰府近辺を舞台にしているという説(私のホームページの中の参考文献にあります)は、私をとりこにしています。
この様に地名何ぞは、いくらでも変えられるということです。もちろん、大津に文化が無かったといっているのではありません。それなりに育った地方都市があったとは思いますが・・・。
この事は、飛鳥時代の奈良付近にも当てはまります。ただ、奈良が倭族を代表する主権国家の都だったかどうかです。また、現天皇家の始祖(いわゆる権現様)は、桓武天皇です。開祖以来1、200年経過してます。
世界で一番長い王朝だと思います、もう少し自信もってもいいのではないかとも思ってます。
桓武王朝(即ち京都王朝)は、奈良王朝、九州王朝のいずれとも血縁関係はないと思います。
天皇家は、天武系(奈良王朝系)の先祖供養はされてないとのことです、当然でしょう。 思うに、秋篠宮のお名前は、桓武天皇の出身地名ですよね。
天皇家には、日本書紀といういいかげんな史書でなく、ちゃんとした史書が伝わっている模様です。
桓は、韓国の正字で桓族の武帝と言う意味だと思います。逆に言えば、倭族の倭武ではないということです。
桓武は、白村江で破れた義茲王の第5代とも言われてます、この辺は「日本列島史抹殺の謎」に詳しく書かれています。
A:壬申の乱に付いては、私も以前より非常に関心がありました。
九州倭国より、奈良日本王朝へのターニングポイントと言うか当時の関ケ原と言うか古代史の研究で避けて通れない事件です。
そこで、今回の内容をダイアローグとしてサイトアップしました。まずはご連絡まで。
Q:今日は琵琶湖を一周するつもりで出かけましたが、結局、大津、膳所、近江八幡、八日市、など、南だけしかまわれませんでした。大津宮への遷都は事実であったと思います。
もちろん今の天皇家が百済出身であるからと言って、天智に遡って血が繋がっているかどうかは分かりません。桓武からは、確かに繋がっていますか?
韓国(高句麗とその流れの百済)の始祖伝説、檀君は桓雄と熊女の子供ですから、桓武の桓はそこから来ているのでしょうね。
熊津は今の公州であり、光州ではありません。公州はコンジュ、光州はクアンジュです。熊はコムと言い、狛族なのでしょうね。
桓族と言うのはどのあたりの種族なのですか?現在の読みはhangですが、昔はどうだったのでしょうか?
韓国語の勉強を始めて、余りにも日本語と同じなので、日本人のルーツは韓国だと悟り、古代史を始めました。まだ3年です。知らない事だらけです。
伽耶巡り、百済巡り、高句麗は遼東半島だけ行って来ました。もちろん、慶尚道や済州道、38度線南部は大体行きました。普通の韓国人よりは、たくさん歩いていると思います。
これからは、滋賀県を勉強する予定です。大津遷都以前の渡来人、以後の韓国とのかかわりを見て来ます。
今日は「朝鮮人街道を」見に行ったのですが、その特徴はすっかり失われていました。近江風土記の丘の立て看板に「朝鮮人街道」の名があったのは救いでした。
壬申の乱が韓国を舞台にしているとすれば、瀬田の唐橋は、韓国では何処と批定しておられますか?
日本書紀のあのリアルな書き方は、実話をモデルにしているとしか思えないです。
人物名はあなたの説と同じであっても良いですが、韓国にその橋があれば見に行きたいと思います。
瀬田の唐橋第一遺構は、七世紀半ばのものです。今のところ、瀬田説を信じざるを得ません。唯、九州王国が天武・持統の頃まで、大和王朝より力を持っていたかもしれないとは思っています。
まだまだ分からない事だらけです。
天皇陵をどんどん発掘して、できるだけ真実の歴史が明らかになれば良いと思います。
ではまた
A:転記するのに一生けんめいで、公州と光州の違いみおとしました。プリントは光州となっていましたので、この本どうも3人の会談の速記録の模様で、速記者が間違ったと思います。
あまり離れた場所でないのでいずれが正しいかは鹿島先生に確認しないとわかりません。
サイトアップの記事には、はいってませんが(ついかします)日本列島内でヘゲモニー争いの似た事件が、あったかもと佐治先生はいってます。
ところで、あなたはすごいパワーの持ち主なのですね、感心してます。なにがそこまで引っ張ってゆくのでしょうね。
具体的な物証はあまり残ってないというのが、この探求のつらいところですが。
そのまえに、ぜひ米田良三氏の著作をお勧めいたします。
きっと眼からうろこが落ちるおもいがするとおもいます。(すこしオーバーかな)では、また
Q:図書館で米田良三さんの本を見つけることが出来ませんでした。まあゆっくり探します。
話し変わりますが、皇太后の葬式に24億7千万円をかける、ということどう思いますか?
ニュースにもならないし、マスコミの人たち問題にしていないのか、それとも、言論自主規制なのか。
私は一人うなっていますが・・・・
A:私が、唯一尊敬している米田良三氏は、東京工大の建築工学卒業の方です。
古代史には、縁のないひとと思いますが。これがまたどうしたことか耐震工学の研究から法隆寺の五重塔の芯柱の考察より発見した法隆寺の”移設説”頭の良い人いるんですね。
私の中学の修学旅行のとき、運悪く昭和大修理に遭遇しほとんどその姿を見ていませんが。
のろわれた寺で五重のてっぺんには、鎌がさしてある。とか聖徳太子の眷属の・恨みがどうのこうの、中学の美術でならいました。
古田武彦氏の法隆寺の阿弥陀仏後背銘金石文の解釈は、なる頬すばらしいと思ってましたが、
また、九州年号の研究もすばらしいと思ってますが、伊予国温泉風土記の解釈もすごいとおもいました。
が、所詮文献史学のつらさで今一つものたりなさをおぼえてました。
その後たまたま、米田さんの文献を読んでこれはすごいとおもいました。ぜひ、読まれることをお勧めします。
私は、継体天皇の越国の三國よりうんぬんをうたがってます。
任那に固志国と言うのが、たしか三国志魏志倭人伝に(というか韓伝に)あったと記憶してます。
磐井の乱というのは、任那の固志国をはじめとする、倭人系の国が、500年代中ごろ、百済・新羅に追われ九州にその移動した。
その際発生した混乱がこの話のもとになっていると思うのですが、いかがでしょう。
倭會が、磐井の正規な名前だとも聞きますが(米田説)宇佐の西、小倉山におわりき倭會は阿弥陀如来だ、説。
たしかに東大寺も、薬師寺も卍が胸に刻まれているしとっぴなはなしでもないようです。
ただ、糸魚川静岡構造線が昔海峡でうんぬんは、今一つ本当?てかんじですが。
話し変わりますが、瀬田の大橋、ほんとうにあったのですか、いまの橋とどんな違いがあるのでしょうか?
この事件が本当なら、あまりに矮小すぎて人を馬鹿にしてるのでは、と思うのは私一人でしょうか。
公州に、この橋に相当の場所がきっとあるはずだとわたしは、狙ってます。いかんせん韓国のことを知らなさ過ぎます。やむをえず諦めます。
むしろ、あなたに探していただきたいと思いますがいかがでしょうか
瀬田の唐橋
Q:運転していた頃、何度か渡った橋だが、歩いて渡って見ると、大きさが実感できる。「唐橋を制するものは、天下を制す」と言われ、都の喉首の要衝だ。
織田信長が、大橋、小橋として架け替え、一九七九年に鉄筋コンクリートになった。「壬申の乱」当時の橋は、現在の瀬田の唐橋より八十㍍ほど南だった。
橋脚の遺構が、いくつか発掘されているが、一番南の第一橋脚遺構が、七世紀中頃に構築されたものだ。
橋脚を直接建て上げるための台材として、檜の角材が使われている。その下に、台材を支え、基礎の沈下を防ぐ為に、十一本の樫の丸太材を並べている。さらにその下には、これに直交するように複数の材が並べてある。
そんな大変丁寧な作りであったそうだ。その最上面には、橋脚の基礎部分が流されるのを防ぐ為に、穴太・坂本辺り産の角石を積み上げてあった。
その第一橋脚の、復元模型が、滋賀県文化財保護協会にある。幅は約八・五㍍。橋脚間隔約十八㍍。橋脚数六~七基と言う規模だった。
この橋を挟んで、東から大海人の軍、西からはもちろん、大友の軍が迎え撃ったのだ。大友軍は、橋の中央を三丈程(約十㍍)切り断ち、長板を掛け渡した。敵が橋を渡ろうとすると、その板を引いて落とそうと言う計略だった。ところが、此処に大分君稚臣と言う勇者が現れた。鎧を重ね着し、矢に射られながら、刀を抜いて板を走り渡り、板を引くための綱を断ち切ったのだ。勢いで攻め込んだ大海人軍の大勝利だった。
大友皇子は「山前に隠れて自ら縊れぬ」とある。勝者の歴史書は、敗者には素っ気無い。この様にして、大海人は天武天皇として即位した。以上、この間見てきた時に書いた文です。
韓国にたとえそのような橋遺構と、似た話があったとしても壬申の乱が日本で行われなかったと言う証明にはならないでしょう?
大津の宮遺構とその出土品を見れば、都が無かったとは言えません。それが、日本書紀に書かれている意味を持っていたかどうかは分かりませんが。
A:天皇の軍隊なるものが、古代いかほどの規模をゆうしていたのか、天智が死んだとはいえ、大友はその統帥権を持っていたはず。防人にさいていたためか、身近に近衛兵を置けなかったというのか。
天武側は津や・桑名・はては関が原と迂回して、正面(京都)からの攻撃をさけているが、その結果の戦いに大きいとはいえ橋上の戦(千人規模の戦いと思われる)でけりがつくというのは、あまりに話が手が込んでいる割にちゃっちいとおもうのですが。
日本書紀を、信じればの話で、人間一度嘘をつくと、次に嘘をつかなくていい局面でも、さらに嘘をつく、つかざるを得なくなるものですが。
大化の改新が嘘だったと知っていますのでやはりこの話も嘘でしょうね。
Q:まだ鱗の落ちていない目(米田氏の本を読んでいない)ですから、何とも言えないのですが、人は勝ち馬に乗りやすいのも事実で、どうっと勢いが変わる事は有りがちだと思います。
それに、近江京への遷都によって、冷や飯を食った、飛鳥勢力が天武を先頭に、十分に戦略を立てていたとすれば。・・「三国史記研究会」はしているのですが、百済本紀と日本書紀を併読していて、関連するところだけ新羅本紀を見る程度です。
なにしろ、歴史遊びの日が浅いから、知識も浅いのです。
漢文なので一人で読む気もしないし。三国史記も13世紀の高麗の坊さんが書いたもので、何処まで信じられるか分かりません。
百済本紀に関しては、日本書紀の方が信じられる気がします。
もちろん、百済人の太安万侶と天武の息子の舎人親王が編纂したのだと言う点は、しっかり押さえて読まないといけませんが。ともかく、何もかも一応疑ってかかるべきですね。
世界一大きい墓である仁徳天皇陵が、仁徳天皇とは1世紀もずれている程で、文献に頼るばかりではどうしょうもありません。
インターネットが出来るようになって、面白くて、触りまくっています。メールも来ていると嬉しくってなりません。
出不精がこうじそうです。今日は一緒に韓国語やっている友達が、別のグループで翻訳した詩集の出版記念パーティーに行きます。明日は「元暁研究会」です。日曜は「アジア市民大学」で、三日続いているので気が重いです。出たついでに、米田氏の本探して見ようと思っていますが。
それと、難しくても、新羅本紀の扶余隆の最期を読まねばなりませんね。
ではまた
A:あのー、申しづらいのですが、米田良三さんも、鹿島昇さんも、まじな人であまり世間受けするひとでは、ありません。で一般書店では、売られてないでしょう。
もちろん一時期はうられてたのですよ、私が買ったのですから、ただ恒久的にはその対象外になっている、というか、はずされていると言うか。
それで、念のためわたしのホームページには紀伊国屋ブックウエブをアップしています。配達料金を取られますので、とられないサイトあるとは思いますが今までつかってますので乗せてます。
口座を登録し、書名・或いは著書名で検索して下さい。
「日本列島史抹殺の謎」は、若干胡散くさい第1・2部は読み飛ばし、第三部のみ読むとか、「法隆寺は移築された」は、部材の細かい符牒までは気にしないで読むとか、若干工夫をようします。
大体、「三国史記」ってずっと後世になって編纂されたと聞いてます。
新羅時代にきっと焚書されたのでしょう、鹿島昇さんは比曇の乱の細かいところは、むしろ日本書紀の方が詳しいといってますし・残っているのではと書いてます。
いままでの話しの内容から、ひょっとするとむしろ「日本列島史抹殺の謎」を先によまれたほうが良いのかもしれませんね、(古田武彦さんは、もちろんご存知だとおもいますので)
では、また。
Q:三国史記を引っ張り出して、熊津都督扶余隆という文字のあるページを開いています。文武王5年です。壬申の乱に似た記述を見つけるには、キチンと文字を追わねばなりません。ゆっくりやってみます。
明日、アジア市民大学はサボって、または月曜日頃、もう一度一人で滋賀県に行こうかと思っています。
やっぱりこつこつ一人で歩かないと何が本当か見えてきません。
昨日、詩人の金時鐘さんと会いました。韓国では、本屋に詩集が一杯並んでいて、よく売れているのですが、日本では、詩で食べていく事は出来ないそうです。
国民性の違いもあるでしょうが、やっぱり言葉のリズムの美しさでしょうね。元は同じ言葉なのに、ずいぶん変わってきました。日本語も、古文は詠むだけで音楽でしたものね。
米田氏の本は、ゆっくり探します。大阪市立の図書館は全部検索できますが、他も何とか当たってみます。
何だか買う意欲はなくなりました。また気が変わると思いますが、その前に読むべき本がたくさん有りますので。
ではまた。
万葉と新羅の郷札(ヒャンチル)「新羅の古歌」
A:「元は同じ言葉なのに、ずいぶん変わってきました。」私には、もとは同じ言葉だと言う風にはどうも思えないのですが、なにかの本でも見たなとおもってましたら、それもすぐ真じかの「日本列島史抹殺の謎」に、
佐治: 鈴木武樹氏は「いまわれわれが万葉ぶりといっているのは、案外古代朝鮮ぶりかもしれない」といっていますね。
吾郷: 金思華(「三国遺事」の訳者)氏は万葉と新羅の郷札(ヒャンチル)「新羅の古歌」が似ているといっています。とありました。のでついでにアップして置きました。
今日、系図のサイト原稿を作り、そのページをアップしょうとしたのですが、残念ながら失敗しました。
丸一日パーになりました、また日を改めて仕切り直しです。
Q:少し韓国語をやれば、(感性さえあれば)こんなに基本が同じ言葉が、別々に発生するわけは無いと思います。
アルタイ語族としてまとめても、種族が同じと言えます。
そして、どの時期から分かれたか、といえば相当近い時代だと思いました。
中国とは通事が必要でしたが、新羅や百済、高句麗とは百済の滅亡と大移動の頃までは、方言くらいの違いで同じ言葉を使っていたのだと思い始めたのです。
日本書紀にも、それらのクニと、通事を交えて話をしたとは書いてありませんね。
現在の韓国語で、足は ta-ri,橋も同じく ta-ri と言います。日本では、a-si ,ha-si ですね。 足りる、と言う言葉もあり、鎌足と読みます。
こんなのが、ぞろぞろ出てきます。音読みが似ているのは当たり前ですが、固有語、訓読み、がそっくりだと、変です。
植民地時代など、新しく出来た共通語もあります。土方とか。そう言う語は別として、韓国語を日本語に訳す時、現代日本語より、江戸時代語、もっと、平安時代語に訳したい表現が多いです。
向こうは向こうで変化しているはずで、違う語も勿論多いのですが。
動詞の前に打ち消し語が来る事、現代日本語にはありませんね。古典には出てきます。韓国語、入門だけでも齧ってみてください。
ハングル文字がしんどい、とか、発音がとても無理、とか、全くの外国語なのですが、文の構造を見ると、1300年前は一緒だった、と実感します。
擬音語が似るのは当たり前だけど、擬態語が似ていたら?とかね。日本書紀は信じられるか?これは、日本書紀を如何見るか、と言う問題ではないかと思います。書紀に書かれている事を裏付ける遺跡遺構が続々発掘されています。
明日香の、亀型石を始めとする石と水の都跡は、斎明を謗る記載に一致しますし。有った事をどういう視点で書いたかを捉えねばなりませんが、モデルすらない事を、頭の中で練り上げて、創作したとも思えません。
皇国史観の歴史を習った母(師範出です)が、一度も日本書紀そのものを習わなかったと言っています。
教えたら都合が悪い事も一杯書かれていますから。一つの歴史資料としては大切な書だと思います。
A:韓国語について、現代の国語学者・言語学者が、日本語との相互関係を、あなたのように具体的に表現しているのを私は、知りません。
情けないことだと思います。独自性が無いというか、周りを気にしすぎるとか。日韓で、この辺のことをもう少し明確にすべきだと思いますが。いかがでしょう。
日本書紀ですが、たとえば、乙橘姫が走水の海にみなげ入水した、などはいかがでしょうか。
これは、九州から大和を攻める九州王朝の途中に時鳴門海峡の渦潮があるといっているだけではないでしょうか。
身投げした、してないかもしれませんね、それは美しい女性が身投げする。
魂を奪はれるほどすごい自然の摂理を表現しょうとしているものと思いますが、
もともと、九州を起点に書かれた物語を、奈良を起点に書き換えざるを得ず鳴門が、走水になったものとおもいますが、いかがでしょう。他にも似たようなケースがたくさんあります。
日本書紀を訳した山田宗睦氏は「日本書紀にはもとの本(テクスト)がある。もとの本をもっと具体的にいいあらわすと、倭国史である。
古田武彦氏がいうように、日本書紀は倭国史を「盗用」した。「もうひとつ別のテクスト」を「吸収」し「変形」した。そしてわたしの見るところ、倭国形成しは、巻1(神代上)から巻9神功紀)にかけ、分散して吸収、変形されている。
もとの本を復元することはほぼ可能である。」・・・・・略・・・・・・・「日本書紀(下)P285参照」と、
私は、日本書紀は「史書」ではなく、「物語」である。とかんがえています。
奈良には、奈良の王権(たぶん秦国の)があり、関東には毛野の王権があり、吉備には吉備の王権があった。また出雲にもあったとおもってます。
Q:出雲の国譲りなんかは、そのまンまですね。武力を背景に、従わしたのですね。伊勢にも、伊勢津彦が居て、国譲りを迫られ、出雲も伊勢も、共に風に乗って諏訪に飛んだのですね。
諏訪も、いつか行きたいと思っています。(問題意識無しには何度か行っているのですが)どうも、出不精で、琵琶湖まだ行っていません。
インターネットごっこのせいです。
Q:私は九州王朝説を結構信じています。ただ、それがどのようにして、大和に吸収統一されたのかは、諸説、どれを信じていいのか、今のとこ分かりません。
時代は違うにせよ、神武東征のような形だったのか、婚姻などの穏やかな形だったのか。ただ、日本書紀は、少なくとも七世紀以後の記述は、実際に日本で起こった事実をモデルとして書いていると思っています。
100年位の間の出来事を、韓半島で起こったのに、日本の地名をでっち上げたとは思えません。
勿論、当時も亀井や、竹下は居たでしょうが、余りに見え透いた嘘を書いていたら、後世に残らなかったと思うし、現実に、日本書紀の記述を裏付ける発掘調査結果があります。
中大兄が蘇我入鹿を殺したと言う、伝板蓋宮跡は何度か行きました。その上層に飛鳥浄御原宮が有ったのは、木簡も出ているし、疑えません。
さて、「大化の改新は無かった」、と言う説を読んでいないので何ともいえませんが、今のところ私は、中大兄が蘇我入鹿を殺した殺人者であった事を、疑っていません。その意味は、悪い奴を征伐した、と言うのとちょっと違うと思っていますが。
韓国語と日本語は1300年前迄は、同じであったと言う説は多くの人が言っています。
作家の豊田有恒は、日本語は滅亡した百済語だから、韓半島の統一新羅語とはまるで違うように見える、と言っています。
それを裏付けるには、古代韓国語と、古代日本語に精通しなければならず、実際的には無理です。
日本はまだ万葉集などが残っていますが、韓国は、20首ほどの 郷歌(ヒャンガ)が残っているだけだからです、(このヒャンガ、面白いです)。
現代韓国語と、現代日本語から、1300年前の共通性を証明しょうと頑張っている人たちが居ます。両国語の癖を知れば、変化の傾向が分かるからです。
音読みを見ても、癖がつかめます。 「発達」を、日本では「ハッタッ」hattatuと読みますが、韓国はpaltalと読みます。
同じ発音であった筈の音読み、中国読みの癖から、変化の癖が分かります。平安時代には確かに有った F 音が、日本では H 音になりました。
固まれ、止まれ、と言う語をプリーズと聞いてしまった服部君の悲劇は、日本語の悲劇です。
韓国人なら、プリーズすら、フリーズに聞こえるでしょう。
日本でフランスと言っている国を、韓国ではプランスと言うのですから。
このように変化の癖をとかむと、今は違う二国の言葉が、元は同じだったと分かります。
私も、日本が統一日本国になったのは、ずいぶん後だと思います。一応、天智が近江で即位して、内外に日本と言う名を宣言した事になっていますが、それが認められたかどうか怪しいものです。本当に認められていれば、壬申の乱は起こらなかったと思います。
この様な事を語れば、夜が明けてしまいます。
A:戦後日本は、日本書紀の解釈からでなく物証による史実の解明に力を入れてきたはずですが、学校教育は日本書紀のドグマから開放されず中国・韓国・琉球・渤海等周辺諸国との交流史・周辺諸国史書との整合性をも無視してきています。
この為、古田武彦氏が指摘する、旧唐書に記載の倭国・日本国の並列表記を無視したり、九州倭国の隋に対する交渉史を、あたかも奈良王朝が交渉したかのごとく表現しています。
唐の時代になって、唐は倭国との交渉のほかに、連邦内のサブリーダーであった奈良王朝に対しても交渉をそそのかし、倭国連合の分裂を企画・意図した行動をとった模様です。このことが、白村江の戦い前後・長安での倭国使の拘留となったものと考えています。
あなたのおっしゃるように日本書紀が、その版となる事件をもとに記述しているなら、仁徳天皇陵をはじめとする多くの埋葬者が、もっとはっきり時代も狂わずに当てはまるはずですが今の状態は、全くデタラメだといえます。
私は、本居宣長をはじめ、古田武彦氏などの文献史学の限界(解釈の違いによってい
くらでも変えられる)には、ホトホト途方にくれました。
そんな中で、米田良三氏の著書「法隆寺は移築された」に出会ったときは、その画期的な解明にびっくりすると同時に、いたく感動しました。
このサイトへこころ温まるご意見をお寄せいただき誠にありがとうございました。
心より感謝申し上げます。
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