米田良三著
「法隆寺は移築された」
は、
古代史を解明するうえで、すばらしくも画期的です。
なんと
法隆寺は、九州王朝「倭国」の版図より
「移築」 されていた。
なお、この著書の中で移築元が、大宰府
「観世音寺」
(左図は当時をしのぶ絵図)
だとする説については、その後、
「異論」 も出されているが、この 「異論」 に対しては、私は 「九州倭国の法興寺を法隆寺へ移築し、その跡地に観世音寺を造った」 と考えています。
以前より、私は古田武彦氏の著書で九州王朝「倭国」の存在が確かである、と思いつつも、それらを証明する手がかり・物証なるものが得られず、すっきりしませんでした。
本書に出会い 「法隆寺が九州からの移築である」 と知ったとき、九州王朝『 倭国 』の存在・実在を確信しました。
法隆寺の移築元の云々はさりながら、彼は「 藥師寺 」・「 東大寺 」 が、宇佐八幡宮にほど近い
倭国の聖地・
「 小倉山 」
より移築されたもの。
「 東大寺 」の正式名称「 金光明四天王護国の寺 」の「 金光 」は
「 倭国の元号(=九州年号) 」
であり、「金光元年(西暦570年)」に完成していると言い。
また、『これまで世界最古の木造建築とされていた「法隆寺(前身=法興寺)」の創建は607年であり、これより73年前の534年に造られた「薬師寺東塔」が、否、最近では517年創建の「長谷寺」が、これから世界最古の木造建築とされよう』とも述べています。
さらに、 『今に残る、法隆寺・東大寺・薬師寺・長谷寺・法輪寺・法起寺・興福寺・東福寺・三十三間堂・桂離宮・吉野宮(吉野ヶ里からの移築)・伊勢神宮等々、これらあまたの建物が、九州倭国より移築されたものである。』 と述べています。
確かに北部九州の、特に宇佐から大宰府、更に吉野ヶ里にかけて 「虚空蔵寺・法鏡寺・相原・垂水・椿市・木山・上坂・天台寺・大分・塔之原・井上・観興寺・塔之塚・大願寺・晴気」などの「…廃寺跡」 が数珠のごとく連なって残されてます、ごっそり倭国から大和へ移築されたのでしょう。
それはまた何故?私に限らず興味の引かれるところです。
さらに信じられないとお思いでしょうが、平安時代を代表する 『「源氏物語」はもともと九州「倭国」を舞台にした作品で、平安時代に紫式部により今風に手を加えられ世に出たもの、「源氏物語」の本来の中心は現「京都」ではなく、九州王朝の嘗ての都・太宰府都城であり、時空的にはさかのぼること法興寺(=観世音寺の前身)創建の西暦607年以降で、倭国が滅亡する 壬申乱672年迄の間に限定できる。』 とものべています。
「源氏物語」の舞台であるその現在地はというと、
★難波が現在の博多、
★住吉大社は博多駅の南西にある住吉神社、
★田蓑島は、住吉神社の南にある美野島、
★難波の浦とは袖の湊、
★伊勢は加布里の隣・大石(神在?)あたり、
★須磨は今津湾の周船寺あたり、
★明石は須磨の隣・姪浜あたり、
★逢坂の関は関屋あたり、
★吉野は佐賀の遺跡のある吉野ヶ里あたり
に比定できると言う。
紫式部と原著作との距離・方向・位置・気候の微妙な感覚差が伝わりましょうか。雪が降る情景の京都から吉野は無理でも、大宰府からは吉野ヶ里も降ってるとわかるその違いです。
『「源氏物語」で桂殿はどのように語られているのか見てみよう。源氏は須磨、明石とわびしい日々を送られた。そこで明石の君と出会われ、姫君がお生まれになる。源氏は明石の君の上京を促される。明石の君のために入道(父)は京に住まいを用意する。その場所は「大堰川の近く」「大堰」と表現される。そしてごく近いところに「桂殿」がある。「大堰」とは現在の「水城」であろう。
桂離宮(=桂殿)は、光源氏が教養を併せ持つ実在の皇子であり、皇子自らが建築・施行したものであり、ずっと後代「源氏物語」の愛読者であった八条宮智仁親王が徳川初期の1600年代に、大宰府水城(=大堰)で奇跡的発見から京都の桂川のほとりへ移築したもの。』 とのべています。
●〔 九州王朝「倭国」は、いつ滅亡したか?それは「日本書紀」の( おわり )に書いてある。〕
『696年〔持統10年( 持統 {高市天皇}即位7年): 九州年号大化 2年〕7月10日、後皇子尊『 高市皇子 {高市天皇}』が薨じた。
即ち 《本来の大化改新(=プロト大化改新)》 で、九州王朝「倭国」の末王・高市天皇が 軽皇太子・藤原不比等、らに暗殺された時である。
《以下参照》
◇
( X皇極X O高市O )天皇が( X板葺宮X O藤原京O )の大極殿に出御した。 ( X古人大兄X O丹比真人嶋O ) が侍した。
( X中臣鎌子連X O藤原朝臣不比等O ) は、 ( X蘇我入鹿臣X O高市天皇O ) が、疑多い性格で、昼夜剣を持っているのを知っていて、俳優をして、たばかって解かした。 ( X入鹿臣X O高市天皇O ) は、笑って剣を解き、入って座に侍した。
( X蘇我倉山田麻呂臣X O重臣安倍朝臣御主人O ) が、進んで三韓の表文を読み上げた。
このとき、 ( X中大兄X O軽皇太子:のちの文武天皇O ) は、衛門府を戒め、同時に( X板葺宮X O藤原京O の )十二の通用門を鎖し、往来させなかった。衛門府を一ヶ所に召集して、まさに禄を給しようとした。
( X中大兄X O軽皇太子:のちの文武天皇O ) は、自分で長槍を執りもって、〔大極〕殿の側に隠れた。 ( X中臣鎌子連X O藤原朝臣不比等O ) らが、弓矢を持って助けまもった。
( X海犬養連勝麻呂X O当麻真人国見O )をして、箱の中の両剣を ( X佐伯連子麻呂X O路真人跡見O )と( X葛城稚犬養連網田X O巨勢朝臣粟持O ) とに授けさせ「努め努めて、いっきょに斬れ」といった。 ー 以下、略 ー
◇
●〔 では、大和朝廷「日本国」は、いつ発足・開闢したか?それは、「続日本紀」の( はじめ )に書かれている。〕
『697年〔文武元年:大化3年〕8月1日、(文武天皇が) 持統天皇から位を譲りうけて {高市天皇を暗殺して}、皇位につかれた。
『698年〔文武2年:大化4年〕11月23日、大嘗祭を行った。
とはいえ、国として正式に発足・開闢したのは大宝律令制定以降と言えよう。
『701年〔大宝元年:文武5年:大化7年〕3月21日、対馬嶋が金を貢じた。そこで新しく元号をたてて、大宝元年とした。初めて新令(大宝令)に基づいて、官名と位号の制を改正した。
●〔 なんの言うことはない。「日本書紀」に書かれている( 時代 )は、九州王朝「倭国」の( 時代 )だったのである。〕
九州王朝「倭国」の( 時代 )を、さも、大和朝廷「日本国」がずっと昔から奈良に都を置いて、全国を統治していたかの如くした。倭国・秦国の列島史、及び韓半島史を使ってでっちあげたものだったのですね。ということは、これが取りも直さず 「日本書紀の正体」 だったというわけです。
九州王朝「倭国」がどういう経緯で滅亡に至ったか?更に、大和朝廷「日本国」が、いきなり、バトンタッチできたわけでなく、それには、いつ産声をあげて、どういう経緯で力強く成長したのかを解明したのが、
647年、九州王朝「倭国」に「甘木王(=常色王)」が即位する。
「倭国」甘木王は即位后、唐の侵略に対抗する為「常色の大改革」を次々断行する。
649年、「倭国」甘木王が、造複都「難波京」の詔を発す。
652年、天下立評・難波副都の完成、白雉改元儀式を挙行する。
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長門以東の天下立評で「プロト大和」開祖・伊勢王が難波副都に常駐する。
倭国内の大宰府と難波副都とで、権力の2重構造が発生か。
その後、白村江戦前後までに、長門以東の天下立評の進展に伴い、
倭国連邦附庸王国の「出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野(常陸)」等が解体を余儀なくされる。
同時に「難波副都倭弟王家」が台頭する。
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660年、百済滅亡。
661年、「倭国」の常色・白雉「甘木王」崩御、伊勢王崩御、白鳳王「薩夜麻」即位。
662 3年、百済復活の白村江戦で敗戦、唐が倭国白鳳王「薩夜麻」を捕獲・捕虜連行。
664年、難波副都の天智が長門以東(本州・四国)守備・防衛・直接支配。唐劉仁願・郭務悰遣倭
665年、唐、司馬上柱国劉徳高・郭務悰254人遣倭。この頃、唐が筑紫都督府(九州島)占領。
666年、唐の高宗が麟徳三年正月、泰山で封禅の儀。
667年、長門以東(本州・四国)難波副都「近江朝」独立・遷都・天智即位。唐・法聡遣倭。
668年、新羅本紀に「阿麻(=近江朝の仮名)来服」、高句麗滅亡。
669年、唐、郭務悰2千余人遣倭・筑紫。
670年、天智天皇の「近江朝」が「倭国」更えて「日本」号す。
671年、李守真遣倭。天智天皇崩御。倭国白鳳王「薩夜麻」帰国。唐、郭務悰2千人・船47隻来倭
672年、壬申大乱で天智「近江朝」滅亡、倭国再統一・白鳳王「薩夜麻」の天武天皇復位。
673年、倭国で復位の白鳳王「薩夜麻」の天武天皇が大嘗祭。
676年、新羅が朝鮮半島を統一。
678年、倭国で筑紫大地震、白村江戦後賠償で疲弊極まる。
682年、倭国太宰丹比真人嶋が大鐘をプロト大和へ貢上。
683年、倭国の丹比真人嶋「三つ足の雀」をプロト大和へ貢上。
684年、白鳳地震、白鳳王「薩夜麻」の天武天皇崩御、倭国大宰府⇒難波京遷都改元。
686年、難波宮焼失で浄御原宮再遷都改元、朱雀王の「大海人」天武天皇崩御。
690年、最後の倭国朱鳥王・高市天皇が即位。
691年、最後の倭国朱鳥王・高市天皇が大嘗祭。
694年、「間借り」大和の浄御原京⇒倭国の藤原京へ遷都。
695年、倭国が藤原京遷都記念で「大化」改元。
696年、倭王大化王・高市天皇が廃評建郡の「プロト大化改新」を発詔、倭王高市天皇を暗殺、倭国滅亡。
697年、「プロト大和朝廷」の軽皇太子が、大和朝廷「日本国」で初の文武天皇に即位。
698年、文武天皇が大和朝廷「日本国」で、初の大嘗祭。
701年、大和朝廷「日本国」が正式に開闢、「大宝」建元、新「大宝律令」発布。
702年、持統太上天皇崩御。
703年、倭王高市天皇暗殺の倭国側下手人3名が、連続死(暗殺死?)。
704年、異変に気付いた倭王天子の一分派?が「大宰府回帰」遷都、「大化」を「大長」改元。
710年、大和朝廷「日本国」が新都・平城京遷都。
712年、「倭国」残兵が「隼人の乱」の反乱を起すも、大和朝廷の追討・掃討で全壊滅。
●〔何が言いたいか、それは斉明天皇・天智天皇・天武天皇が「難波副都倭弟王家」の出身だということだ。〕
647年、九州王朝「倭国」に甘木王「常色王」即位し、即位后、唐の侵略に対抗する為「常色の大改革」を次々断行する。直轄地の筑紫(=九州島)は早くから評制施行済みだったが、長門以東は連邦附庸国「出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野」の地方分権支配だったのだ。
これを中央集権制の天下立評すべく、649年、造複都・難波京の詔を発し。652年、天下立評、難波副都完成、白雉改元儀式。天下立評で「プロト大和」開祖・伊勢王が難波副都常駐。
倭国内では、大宰府と難波副都で権力の2重構造が発生。その後白村江戦前後までに、天下立評に伴い、倭国連邦附庸王国の「出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野(常陸)」等が解体を余儀なくされる。同時に難波副都倭弟王家が台頭する。
663年、百済復活戦・白村江戦へ出兵。白村江敗戦で倭国白鳳王薩夜麻が唐に捕獲連行。
664年、その白村江敗戦后早い時期に、留守居の難波副都の天智天皇が、倭王不在の倭国長門以東(=本州・四国)を唐から守備・防衛・直接支配する。
665年、倭国直轄地の筑紫(=九州島)大宰府は、唐進駐軍に占領され、筑紫都督府と呼ばれる。
667年、天智近江朝(=倭国難波副都倭弟王家)は、長門以東(=本州・四国)を分離・独立させ、近江遷都・天智が即位する。
668年には高句麗が滅亡している。同668年、新羅本紀に「阿麻(=近江朝の仮名)来服」と言わしめ、「長門以東の天智近江朝が倭国から独立」のニュースは新羅から唐へ急報されただろう。
670年、更に、天智天皇の近江朝が「倭国」更えて「日本」号す。
「近江朝(=難波副都倭弟王家)」が「倭国」から分離独立したことを、唐国は認めるたくなかったのだ。
唐は九州筑紫都督府占領軍を帰任させる前に、捕虜の倭国王「薩夜麻」を解放・復位させ倭国の再統合の為の「壬申の乱」を計画・実行したのだろう。
というのは、672年「壬申の乱」が起きるその前年
671年に、倭国白鳳王薩夜麻が帰国している。ということは、「壬申の乱」が、
671年、天智天皇崩御后の近江朝大友皇子と吉野朝天武天皇の跡目争いといった小さなものでなく、唐の倭国再統合戦だったということだ。熊本県大津町内牧瀬田橋戦も含め、記述外の戦がどうだったかだ。
672年、壬申大乱で天智近江朝は滅亡し、潰えてしまう。
壬申乱に戦勝、唐筑紫占領軍が引揚げ后は、独立した「筑紫(=九州島)」統治大宰府「倭国」と、「長門以東(=本州・四国)」統治の「真人(=征東将軍)」浄御原宮「天武朝(=難波副都倭弟王家)」とに、取って代わる。
然し、672年、「壬申乱」で戦勝したはずの倭国のその後は、唐国の傀儡化と過酷な戦後賠償でさらに疲弊してゆくことになる。(残念なことに、白村江敗戦後のこの時期、属国・九州王朝倭国の唐への戦後賠償船派遣記事は、正木裕氏の指摘する34年遡上説でそっくり抹殺・抹消され窺い知ることができないのだが)
その後大宰府倭国は、悪いことに、678年、筑紫地震をはじめ度重なる地震におそわれる。その窮状を難波副都倭分家弟王家「天武朝」へ訴え救いを求めたふしがあるが、最終的には684年、大宰府から難波京へ遷都することになった。遷都もつかの間、白鳳地震。更に2年后には、難波京が焼失する。止むを得ず、686年、「天武朝(=難波副都倭弟王家)」の浄御原宮へ間借り再遷都する。将に当たり目に祟り目だったのである。
最後の倭国王「高市天皇」が690年、即位。691年、大嘗祭。倭国の藤原京の建設を急ぎ、694年、「間借り」大和の浄御原京から倭国の藤原京へ遷都。695年、九州年号「大化」改元。696年、建郡「本来の大化改新(=プロト大化改新)」発詔。その后、あろうことか、「本来の乙巳の変(=プロト乙巳の変)」で倭王「高市天皇」が藤原不比等をはじめとする下手人に暗殺され、倭国は滅亡してしまう。
翌、697年、「天武朝(=難波副都倭弟王家)」大和の文武天皇が 即位する。698年、大嘗祭。701年、「大宝」建元、新・大宝律令発布。はれて、大和朝廷「日本国」の開闢・誕生である。
これが「あらすじ」である。別紙 『 「倭国」の「大宰府主都」 : 「難波副都」対比年表 .html版 』 ・ 『 同 .pdf版 』 を、参照方お願いします。