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「観世音寺」は「法隆寺」への移築元ではないという説がある。



『法隆寺は移築された:米田良三著』の移築元は、大宰府の「観世音寺」ではないという異説がある。『法隆寺は観世音寺の移築か〈その1〉・〈その2〉:大越邦生著』 及び、『法隆寺のものさし(隠された王朝交代の謎):川端俊一郎著』の各要点を紹介します。






〔●法隆寺は観世音寺の移築か〈その1〉:大越邦生著〕


・大越邦生〈その一〉:  1)中門中央の柱

 米田氏は述べる。「描かれた中門は桁行四間、梁間三間で二層の建物であり、入口の中央に柱が立っている。この姿は法隆寺の中門を描いた場合と同じである」(四三ぺージ)

 氏は観世音寺絵図の中門が桁行四間と述べているが、私には何度見直してみても中門は桁行五間にしか見えない。これは私の眼の錯覚であろうか。いや、そうではない。その証拠に、中門二階の桁行を数えてみてほしい。二階の桁行は五間である。それについては誰しも見誤りはないだろう。一階と二階の桁行が違っていることもまた考えにくいことから、観世音寺絵図中門の一階は、二階と同様に桁行五間とみられるのである。観世音寺の中門は、法隆寺のように中央に柱を置く形式ではなく、正面に二本の柱を置く形式をとっているのである。では、桁行五間の中門は例がないのかというと、「飛鳥時代の寺院の門は三間、奈良時代に入ると五間の門が建てられるようになる」というほどその事例は多い。観世音寺中門が五問だとしても、決して特別視するにあたらないのである。




・大越邦生〈その一〉:  2)金堂・五重塔

 法隆寺の金堂と五重塔はその裳階の存在が美術的価値を一層高らしめているといわれている。石田茂作が法隆寺の七不思議にこの裳階をあげていることも故なきことではない。ところで、この裳階が絵図に存在しない。

 そればかりか、二層であるはずの法隆寺金堂が、絵図では一層の建物になっているではないか。ディテールの描写ならともかく、これだけの力量を持つ古図の描き手がこのような決定的な過ちをおかすとは。仮にそれが米田氏の述べるような「本当の姿を描くことがタブーであったかのような、何か特別な制約のもとに描かれ」(四三ぺージ)たのだとしても、二層の建物を一層で描くことにどのような意味があるのだろうか。例えぱ、絵図には中門が二層に描かれているが、意図的に金堂を一層に描き変えた作者が、なぜ中門を二層のままにしておいたのかという疑問にもなるのである。健全な理性からはおよそ理解しにくいことではなかろうか。





・大越邦生〈その一〉:  3)回廊

 現在の太宰府観世音寺の本堂は元禄二年に再建されたものとされている。さて、この本堂の裏手に回ると多くの礎石が堂を取り巻いているのがわかる。これが旧観世音寺講堂の跡であり、福山敏男氏の伽藍復元図によると、この講堂に回廊が続いていたことになっている。今、問題にしている絵図も、講堂と回廊の関係においてはほぽ同様の形式といえよう。

 絵図が第一次観世音寺を描いているとしたなら、法隆寺も同様の回廊配置でなければならないだろう。しかし、法隆寺の伽藍配置はよく知られているように、金堂と塔を内にして回廊がそのまわりを囲む形式であり、講堂は回廊の外に配置されていたのである。地下調査では、昭和二三年に講堂の前面で北面回廊が確認され、昭和五五年には旧回廊の基壇幅六・五メートルが確認されている。法隆寺の回廊配置と第一次観世音寺の絵図は、このような違いがあるのである。

 さて、絵図を第一次観世音寺、つまり法隆寺西院伽藍を描いたものと考えたことによってこれだけの矛盾が生じてきた。絵図を移築説の根拠にすることは、このように無理がある。これを「法隆寺=観世音寺説」をとる識者はどのように解決するのであろうか。




〔●法隆寺は観世音寺の移築か〈その2〉:大越邦生著〕



・大越邦生〈その二〉:  1. 五重塔礎石

 私の指摘はこうであった。

観世音寺塔の初層一辺の長さは十九・五尺(鏡山猛氏の復元)、

法隆寺のそれは二十一・六尺であり両寺院が同一とは言い難いと。




・大越邦生〈その二〉:  2. 金堂基壇

 この阿弥陀堂下層の金堂阯を資材帳は「長五丈四尺 広三丈四尺五寸」と記している。これを延喜尺で換算すると、十六×一○mになる。これなら新旧どちらの基壇にもぴたりと当てはまる。

 一方、法隆寺ではどうであろう。法隆寺の金堂は十八・五×十五mであり、今の数値より南北で約二・五m、東西で約五m近くも大きい。形も法隆寺金堂の梁行と桁行の比が一対一・○四とほぼ方形に近いのに対し、観世音寺の場合は一対一・六と細長い。法隆寺金堂を復元基壇上に置くと、金堂は基壇とほぼ同規模となり、とても復元基壇上に法隆寺金堂が建っていたようには思えない。図は一・が実測の六mに相当するので、実際に机上で確かめてみられるとよい。




・大越邦生〈その二〉:  3. 講堂遺構

 両寺院講堂阯の比較を行うと次のようになる。

  ○観世音寺講堂梁行 十五・三m

  ○法隆寺講堂梁行  十六・五m

 結果は、法隆寺講堂の梁行が一・二m近く大きいことがわかる。やはり講堂遺構の比較も、法隆寺が観世音寺の移築ではなかったことを証言していたのである。




〔●法隆寺の物差しは中国南朝尺の「材」:川端俊一郎著〕



・川端俊一郎: 3.法隆寺

 現存する世界最古の木造建築法隆寺は、その五重塔の中心柱が西暦594年の伐採であることが、年輪を今から昔へ数え上げてゆく、年輪年代学により断定された7。法隆寺はまた日本の古寺では唯一の殿堂法式の建築である8。金堂の殿身は五間あり、周囲には裳階が付いた独特の様式である。金堂とは日本独自の呼称で、中国では仏殿とか宝殿という。法隆寺金堂のように二重のものは殿閣と呼ぶ。

 『営造法式』によると、五間の殿堂には二等材が使われ、その1材は宋尺の8.25寸とされている。宋尺は約32cmだったので、1材は26.5cmほどであった。法隆寺の1材は約27cmなので二等材に相当する。この材で間広を測ると整数値が得られる。

 金堂正面の心間とその両脇の間広は、どれも12材で、両端の梢間は各8材である。正面合計は52材で、解体修理工事の『報告書』(昭和31年)の正面実測値は(測定精度は曲尺5厘単位)、14015㎜だから、1材は269.5㎜である。五重塔でも同じ材が使われており、心間は10材、梢間は7材である。間広は一重上がるごとにそれぞれ1材ずつ減ってゆく。二重は心間9材で梢間6材である。五重は二間しかなく、間広はともに6材である。

 法隆寺金堂の柱頭にある組み物(斗栱)は「材」と「分」とで作られている。肘木(栱)の長さの平均値は1348㎜で、これはちょうど基本となる角材を5材の長さに切って加工したものだから、高さは1材、つまり15分で、幅は12分となる。凹状のます(斗)は、どこもみな分刻みに工作されている。斗口の幅は、そこに銜える材厚と同じ12分で、斗口の深さは5分、両側の厚さは3分である。凹型部分は高さ8分で、18分角の立方体である。凹部の下は高さ5分で、四方を弓なりに削られて細くなり、肘木に乗る部分では12分の方形となる。このように、法隆寺でも、古来中国の木造建築で用いられてきた「材」と「分」とを確認することができる。法隆寺の「材」は唐尺では寸法が合わない。五重塔の中心柱の伐採年が、西暦594年と断定されたので、「材」の寸法をとった尺が、その当時日本で使われていた中国尺であることもまた確定した。中国の南北朝時代、倭王は北朝には貢献せず、代々南朝に臣従してその都に都督府を開いてきたから、そこでは南朝尺が使われていた。南朝を滅ぼした北朝の隋に最初の使節を送るのは西暦600年になってからである。

 法隆寺の「材」は南朝尺で寸法がとられている。丘光明『中国古代度量衡』(1996年、北京)によると南朝尺は245mmである。法隆寺の1材269.5mmは、ちょうど南朝尺の1尺1寸となる。法隆寺の飛鳥様式とは、実は、中国ではすでに失われてしまった南朝様式を今に伝えるものだったということになろう。




・川端俊一郎: 4. 太宰府遺構も南朝尺

 筑紫の都督府が太宰府と改称されるのは、南朝滅亡(589年)の後のことである。南朝天子の太宰府は南京にあった。それが滅ぶと、倭王は自立して、都督府を太宰府と改め、日出処天子を自称して遣隋使を送り出したということになろう。太宰府とは天子の総理府の意味である。

 筑紫の太宰府遺構は唐尺では寸法が合わないが南朝尺で寸法が合う。太宰府正殿の母屋は間広が18材の五間、90材である。鏡山猛『大宰府都城の研究』(昭和43年)によると、母屋正面五間の実測値は2202cmだから、1材は245㎜となる。つまり、太宰府正殿の1材は南朝尺の1尺であった。法隆寺の1材は1尺1寸で、二等材であるが、太宰府正殿は三等材で営造されている。一等、二等材は殿堂に使われるが、三等材からは庁堂にも使われるので、太宰府正殿が殿堂であったか、庁堂であったかはわからない。太宰府政庁の東となりにある観世音寺の遺構も南朝尺で寸法が合う。観世音の呼び名は古いもので、唐代には、太宗李世民の世の字を避けて、ただ観音と呼ばれるようになる。観世音寺の遺構を唐尺で測っても寸法が合わないのは、その創建が南朝時代だったからである。

 観世音寺の旧講堂跡地には現観世音寺の本堂が建っており、旧礎石の大半は失われ、残るものにもズレが認められるが、本堂裏と両脇の礎石からは、太宰府正殿と同じ三等材の使用を確かめることができる。講堂は母屋の間口が五間で、鏡山猛によるその実測値は2333cmである。これは19材の五間、95材である。1材は245.6㎜となって、太宰府正殿の材と同じ三等材であることがわかる。




・川端俊一郎: 6. 法隆寺の移築説と移築前の寺号

 今の法隆寺は元の法隆寺の焼失跡を整地した上に建っている。日本書紀は西暦670年の焼失を記しており、昭和14年の発掘調査で、焼失した法隆寺が今の法隆寺とは全く違う伽藍であることが判明した。

 現法隆寺の用材の伐採年が、年輪年代学によって、元の法隆寺の焼失より70年以上も前であることが明らかになってくると、ようやく移築説が登場する12。ただし旧観世音寺を移築して法隆寺としたのでは寸法が合わない。旧観世音寺は三等材、法隆寺は二等材の営造なのである。

 移築して法隆寺とされる前の日本一の古寺は、筑紫にあったであろう。筑紫には都督府が置かれたが、どの国でもその都に中国の都督府が置かれている。百済でも新羅でも、また高句麗でもそうであった。筑紫には当時の王都があり13、日本一の古寺も筑紫にあったものと思われる。

 その日本一の古寺が筑紫から大和へ移築されたのは、唐と白村江で戦って降伏した後に、王朝が交代することとなり、やがて奈良の新都が営造されたからであろう。ほかにも薬師寺や元興寺などは、飛鳥から奈良に移築されている。

 筑紫からの移築がひとつの悲劇であったことは、その古寺を創建した上宮王等身の観世音菩薩像(救世観音)が、綿布で幾重にもぐるぐる巻きにされて、八角仏殿(夢殿)に隠されていたことからも分かる。祟りを恐れる法隆寺僧が、殿内には朝鮮渡来の仏像があり、扉を開けばたちまち仏罰で地震が起き、法隆寺が崩壊すると言い張るのを押し切って、この秘仏を救い出したのはアメリカのフェノロサである(明治17年)14。 大和朝廷の日本書紀は、王朝の交代を記さないばかりか、上宮王や日出処天子についても、また都督府や遣隋使についても、なにひとつ記さない。それは筑紫王朝のことであって、大和のことではなかったからであろう。

 法隆寺金堂にある釈迦三尊像の光背銘から、上宮王の治世の年号が「法興元」で、その元年が591年であることが分かる。中心柱伐採の三年前である。日本書紀にはこの年号も出てこないが、なぜか、この年号に因んだと思われる、「法興寺」の営造にかんする短い記事があちこちに散在している。

 試みに「入山、取寺材」の年を、中心柱伐採年(594年)に合わせて見ると「起、法興寺」の年が、ちょうど法興元という年号の元年となり、また「法興寺造竟」の年が最初の遣隋使を出した年(600年)となる。仏法興隆を願った「法興寺」が落成したころ、日没処天子(西海の菩薩天子)への使節が往来していたのである。

 上宮王の私集のひとつ『法華義疏』の表紙には、寺の名が書かれていたはずの所に、削ぎ取られた跡が残っている15。そこには「法興寺」と記されてあったかと推測してみることができる。 




・川端俊一郎: 7. 上宮王の姓と号とその在所

 法興寺を創建した上宮王こそは日出処天子であるが、その姓は阿毎、号は阿輩雞彌と隋書にある。阿毎はアメで、毎の字は万葉仮名で乙類の「メ」に当てられており、アメとは天のことである。号については、大正7年に太宰府天満宮で発見された『幹瀚』に「阿輩雞彌とは漢語の天児なり」との解説がある。阿輩は天、雞彌が児に相当する。これはつまり天(アメ)のキミである。アメのキミはアマキミと発音される。アメがアマと変るのを、阿毎(アメ)と阿輩(アマ)とで書き分けたのである。輩の読みについてはまた趙平安先生にご教示いただいた。『幹瀚』三十巻は隋書よりやや遅れて成立したが、中国ではすべて失われ、太宰府の一巻のみが現存する。

 筑紫の倭王は、阿輩雞彌などとは書かずに、天の皇とかいてアマキミと呼んだ。唐の太宗への国書には「東天皇敬白西皇帝」とある。大和の新政権は天皇とは書かずに主明楽美御徳(スメラミコト)と書いて国書を送ったのであろう。玄宗からの国書(736年)には「勅日本国王主明楽美御徳」とある。中国が大和の新政権を承認したのは、その最初の遣唐使(702年)によってである。

 太宰府とは天子の総理府のことであるから、そこに日出処天子が居たわけではない。上宮王という自称からして上宮にいたのである。それを隋書は「邪靡堆」と記し、また昔は「邪馬臺」であったとも記している。これを日本の学者はどちらも「ヤマト」と読んでしまうが、「靡」と「馬」とが同じ読みであったはずは無い。唐代の「靡」の字の読みは、中国社会科学院歴史研究所の趙平安先生 によると、「」と同じであるという。「」の字は羊の鳴き声を表しており、日本書紀では筑後の八女を「陽」とも書いている。

 そうすると、隋書のいう「邪靡」の読みは「陽」と同じ、つまり「ヤメ」だということになる。倭王の上宮は筑紫の「ヤメ」にあったのである。隋書は、竹斯(チクシ筑紫)より東はみな倭の支配下にあると記し、また倭国の風景としては阿蘇山を紹介しており、大和のことなどは出てこない。


移築して法隆寺とされる前の法興寺は「ヤメ」の上宮近くにあったであろう。


八女という地名は、いつも山の中に居る八女津姫に由来するが、その山とは、今も神々の山とされる高良山をおいてほかには無い。 




 米田良三氏の移築元が観世音寺だとする推論に対し、読者の一般的な捕らえ方は

 〔●『法隆寺は他所から移築された。 では、どこから…?』〕

 の文中の 『・・・・・どこでも移築元になりえるのに、観世音寺でなければならない理由が示されていないように思う』 に代表されていよう。




法隆寺と観世音寺の主な違いをまとめると


符号


指摘項目


法隆寺


観世音寺


01


中門


桁行四間、梁間三間、入口の中央に柱


桁行五間、梁間三間、正面に二本の柱


02


金堂・五重塔


裳階あり


裳階なし


03


五重塔礎石


21.6尺


19.5尺


04


金堂基壇礎石


18.5×15m


16×10m


05


講堂遺構礎石


16.5m


15.3m


06


「材」と「分」


二等材


三等材






観世音寺は法隆寺の移築元ではないという説は、上記の他に以下の説がネット上に紹介されているので転載する。


〔●法隆寺移築論の史料批判─観世音寺移築説の限界─ : 京都府 古賀達也〕

〔●法隆寺移築論争の考察 : 奈良市 飯田満麿〕









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