鹿島昂【高市皇子は新羅軍指揮者】説は、万葉集歌(前書き)からの誤謬
以下は、 「日本列島史抹殺の謎」 の抜粋ですが、「万葉集」柿本人麻呂作歌で 「高市皇子尊の城上のもがりの宮の時」 の 高市皇子 とは、
九州王朝「倭国」の 白鳳王「薩夜麻」 のことだ。と古田武彦氏が、その著 「壬申大乱」 で喝破されている。
● 大友皇子の謎
佐治:古代史の謎の1つ、壬申の乱_大友皇子にまいりましょう。鹿島先生の説によれば、大友皇子のくだりも韓国史の借史ということになるわけですか。
鹿島:白村江のあと、唐は百済王子余隆を熊津都督にした。熊津というのは、例の光州(公州のミスプリ?)あたりで、盆地になっている。このとき新羅の文武王は禰軍の郭務粽即ち藤原鎌足を抑留して熊津を攻撃した。
すると唐はこれを非難して、「新羅は昔は忠臣だったが、今は逆臣だ」といった。
このときの国書のやりとりは「三国史記」の「新羅本紀」にありまして、なかなかの名文です。
ここで結局、新羅が熊津を奪った為、余隆は逃亡してしまう。 これが、弘文の近江反乱のモデルであります。
大友皇子の弘文が余隆で百済王善光だと仮定すると、彼が近江で反乱を起こして、新羅軍に討たれたということの実態は、熊津の陥落であります。
このとき文武王の天武は新羅にいたわけで、実際に新羅軍を指揮していたのは 高市皇子(天武の第一王子とされる) であった。 高市 というのは新羅王子金霜林のことです。
このとき、余隆即ち善光の子・昌成が、早く死んだとなっているのは、戦乱で殺されたのではないか。私は施基皇子はこの昌成だと思います。
佐治:近江の乱、つまり壬申の乱も、新羅、唐、百済、日本をめぐる7世紀の国際的争乱の一部と言うことになりますが、原則的にこの事実は何人といえども否定できません。 ただ、その末尾を飾る壬申の乱も、朝鮮半島内の事件の焼き直しであったという説については、戸惑う人もすくなくないと思います。私個人としては、この乱の主要関係者についての鹿島先生の人物比定は、ほぼ真相をついているのではないかと考えられますが、その舞台については、事件が白村江敗戦以降のものですから、やはり幾内中心ではないかと考えたいのです。もちろん、この乱が実在したとしてです。
簡単に言えば白村江に敗戦後の占領軍統治時代、連合国側の分裂(唐・新羅の関係悪化)が顕著になった時点で、占領地(日本)にもそれぞれのヘゲモニー確立をめぐって、いわゆる壬申の乱と称される事件が起こったとしても、不自然ではないでしょうね。
鹿島:私も施基皇子のほうは実際日本で殺されたかもしれないと思います。そうすると弘文は余隆とその子の合成となります。・・・・・・・中略・・・・・・・・
● 高市皇子 は新羅人だった
佐治:鹿島説によると、壬申の乱は 高市皇子 が新羅軍の指揮者であって、熊津の百済軍を率いる大友皇子の余隆を破ったと言う図式ですね。
鹿島:高市 が新羅人だということは「万葉集」にかいてあります。柿本人麻呂というのは百済人だといいますが、その人麻呂の作歌で 「 高市皇子尊の城上のもがりの宮の時 」 というのがあります。
「ちはやぶる人をやわせと、まつろわぬ国を治めと、皇子ながら、よさし給えば、大御身に、太刀取りはかし・・・吹きなせる、小角(くだ)の音も、敵見たる、虎が吼ゆると、諸人のおびゆるまでに・・・・・・百済の原ゆ、神葬(かみはふ)り、葬りいまして・・・・・・」というのです(巻2・199)
この意味は、高市 が皇子ながら剣を取って、猛虎のごとく戦った。そして百済の地で百済の王族たちを殺し続けた、と言うものです。この時代百済と倭国は連合しており、新羅がそれを破った。だから百済の王族を破ったという 高市 は新羅の王子でなければならないわけです。・・・・・・・・
佐治:鈴木武樹氏は「いまわれわれが万葉ぶりといっているのは、案外古代朝鮮ぶりかもしれない」といっていますね。
吾郷:金思華(「三国遺事」の訳者)氏は万葉と新羅の郷札(ヒャンチル)「新羅の古歌」が似ているといっています。・・・・・・・・・・・以下略・・・・・・・・・・・・・・
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さてここで、鹿島昴は何故?
『この意味は、高市が皇子ながら剣を取って猛虎のごとく戦った。
そして百済の地で百済の王族たちを殺し続けたと言うものです。
この時代百済と倭国は連合しており新羅がそれを破った。
だから百済の王族を破ったという高市は新羅の王子でなければならないわけです』と解釈したかだ。
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万葉かな原文をネットでさがしたが中々良いのが無いやはりこれかな
〔『万葉集』柿本人麻呂と高市皇子〕
『高市皇子尊城上殯宮之時、柿本朝臣人麻呂作謌一首集歌199、并短謌集歌200・201』
《魚拓》
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以上が鹿島昂氏をして『高市が新羅人だと「万葉集」に書いてある』と言わしめた万葉集(199)〔高市皇子の尊の、城上(きのへ)の殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首〕である。
だが、古田武彦氏はその著『壬申大乱』で、この長歌は「洲柔城の一大陸戦」で消えた「明日香皇子」に関する歌だという。
この表題に『高市皇子の尊の、城上の殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首』とあり、高市と戦争とを聞くと壬申乱を想像するが、古田武彦氏は、実はこの歌は「高市皇子の父の明日香皇子(=倭王薩夜麻・白鳳王)が百済復活戦の白村江海戦の半年前洲柔の陸戦で行方不明になった悲劇を嘆く歌だ」と書く。
詳しくは「壬申大乱:古田武彦著」、更には「古代史の十字路:古田武彦著」を読まれるようにお勧めする。
壬申乱は672年陰暦6月22日始~7月23日終で、現太陽暦7月下旬~8月下旬初頭だ。
が、この長歌199の中身は① 冬ごもり春さり来れば⇒冬から早春、
② み雪降る冬の林に⇒冬、
③ 大雪の乱れて来れ⇒冬、
④ 春鳥のさまよひぬれば⇒春、の「真冬から早春にかけて」で壬申乱の歌ではとてもないのだ。
この長歌199の中身は「真冬から早春にかけて」で、壬申乱の歌ではとてもないのだ。高市皇子の戦争と言えば、壬申乱以外に無い。
ということは、歌の中身は表題と違って、高市皇子の戦争模様をうたったものでないと分かる。
では、誰のことか、この歌は明日香皇子の洲柔の戦の悲劇を歌っているという。
この長歌199の中身は「真冬から早春にかけて」で、壬申乱の歌ではとてもないのだ。高市皇子の戦争と言えば、壬申乱以外に無い。ということは、歌の中身は表題と違って、高市皇子の戦争模様をうたったものでないと分かる。では、誰のことか、この歌は明日香皇子が洲柔戦で行方知れずを歌うという。
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標訓 高市皇子尊の城上(きのへ)の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本朝臣人麻呂の作れる歌一首并せて短歌
集歌199 挂文 忌之伎鴨 (一云 由遊志計礼抒母) 言久母 綾尓畏伎 明日香乃 真神之原尓 久堅能 天都御門乎 懼母 定賜而 神佐扶跡 磐隠座 八隅知之 吾大王乃 所聞見為 背友乃國之 真木立 不破山越而 狛劔 和射見我原乃 行宮尓 安母理座而 天下 治賜 (一云 掃賜而) 食國乎 定賜等 鶏之鳴 吾妻乃國之 御軍士乎 喚賜而 千磐破 人乎和為跡 不奉仕 國乎治跡 (一云 掃部等) 皇子随 任賜者 大御身尓 大刀取帶之 大御手尓 弓取持之 御軍士乎 安騰毛比賜 齊流 鼓之音者 雷之 聲登聞麻弖 吹響流 小角乃音母 (一云 笛之音波) 敵見有 虎可叨吼登 諸人之 恊流麻弖尓 (一云 聞或麻弖) 指擧有 幡之靡者 冬木成 春去来者 野毎 著而有火之 (一云 冬木成 春野焼火乃) 風之共 靡如久 取持流 弓波受乃驟 三雪落 冬乃林尓 (一云 由布乃林) 飃可毛 伊巻渡等 念麻弖 聞之恐久 (一云 諸人 見或麻弖尓) 引放 箭之繁計久 大雪乃 乱而来礼 (一云 霰成 曽知余里久礼婆) 不奉仕 立向之毛 露霜之 消者消倍久 去鳥乃 相競端尓 (一云 朝霜之 消者消言尓 打蝉等 安良蘇布波之尓) 渡會乃 齊宮従 神風尓 伊吹或之 天雲乎 日之目毛不令見 常闇尓 覆賜而 定之 水穂之國乎 神随 太敷座而 八隅知之 吾大王之 天下 申賜者 萬代尓 然之毛将有登 (一云 如是毛安良無等) 木綿花乃 榮時尓 吾大王 皇子之御門乎 (一云 刺竹 皇子御門乎) 神宮尓 装束奉而 遣使 御門之人毛 白妙乃 麻衣著 埴安乃 門之原尓 赤根刺 日之盡 鹿自物 伊波比伏管 烏玉能 暮尓至者 大殿乎 振放見乍 鶉成 伊波比廻 雖侍候 佐母良比不得者 春鳥之 佐麻欲比奴礼者 嘆毛 未過尓 憶毛 未不盡者 言左敝久 百濟之原従 神葬 々伊座而 朝毛吉 木上宮乎 常宮等 高之奉而 神随 安定座奴 雖然 吾大王之 萬代跡 所念食而 作良志之 香来山之宮 萬代尓 過牟登念哉 天之如 振放見乍 玉手次 懸而将偲 恐有騰文
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