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 米田良三氏は、奈良の法隆寺をはじめとする法輪寺・法起寺・薬師寺・長谷寺・東大寺・興福寺は言うに及ばず、京都の三十三間堂・東福寺…等、数多の寺々が、九州「倭国」からの移築であると解明された。

 その著書の一つ「逆賊磐井は国父倭薈だ」において、その解明の要点を記されている。以下にその「序論」を転載する。詳しくはぜひその著書をご覧下さい。




『逆賊磐井は国父倭薈だ:米田良三著』





 序論

 倭薈の死は筑後国風土記逸文「磐井の墓」に次のように記される。

 「独自豊前の上膳の県に遁れ、南の山の峻しき嶺の曲に終りき」

 この倭薈最後の地がどこであるかは古代史学者の興味を引かなかったようである。次章で述べる「磐井の墓」の存在場所がいろいろと論じられたのとは対照的である。最後の地は倭国の連続する歴史の中で聖地として整備されている。大分県宇佐市の一画に位置しているのだが、現状は聖地を示すものは地上に何もないと言って良い状態である。

 まず聖地の全体像と特異であった倭薈の風貌について話しをしたい。と言うのは、部分を詳しく説明してもその全体像が無くてはイメージさえ歪んでしまいそうだからだ。さらに倭薈の風貌は徹底して消しさられており、特異な姿の再現は歴史探求の第一歩になると信ずるのである。まず結論を述べ、その後ゆっくりと説明することににしたい。



 聖地小倉山

 侵略者である継体軍によって、西暦531年2月7日、倭国王倭薈は大分県宇佐市の駅館川西岸の 小倉山(小高い丘陵)に死亡する。小倉山を中心とする法域が534年に整備される。小倉山を金堂に見たてた中心伽藍は、倭薈像(現在、奈良薬師寺金堂に安置される薬師如来像)が安置された堂(移築されて薬師寺東院堂となる)と塔(移築されて薬師寺東塔となる)と鐘楼が、その麓に並び建つ構成であった。また全体が見える駅館川の対岸には拝殿(字名として拝田が残る)が設けられた。神道を奉ずる人々は倭薈を八幡大神として崇め、駅館川岸に八幡宮を設けたのだ(後に場所、内容を改変したのが宇佐八幡宮)。倭薈を慕う人々は、小倉山に追われることになった最後の足跡をたどり、追体験することで偲んだ(薬師寺にある仏足跡歌碑)。

 この侵略によって多くの人が殺され、葬られている。小倉山周辺で亡くなった人々は倭薈と共に法域の中(宇佐市風土記の丘等)に葬られており、その他の人々は、それぞれ亡くなった場所に葬られている。考古学上、装飾古墳として取り上げられる古墳がそれである。その分布は、ほぼ日本列島を覆っていると言って良い。内壁を彩色したのが倭国の人の墓であり、線画の鳥などが描かれているのが継体軍の人の墓である。瞬時に起こった悲劇で数は多かったが、短期間に装飾古墳として荘厳をを終えている。

 次に、小倉山の裏の大檪木の下に草庵を結んだ童行者の祈りが、京(太宰府都城)の御所にいる帝の耳に聞こえたことが発端となり、そこに漂っている多くの霊を詞るために東大寺が造られることになる(「東大寺要録」)。発願は536年(僧聴元年)で、まず倭薈の大仏像(後に場所と内容を改変したのが奈良東大寺大仏)が造られる。最初に造られた拝殿からは見えなくても、小倉山の向こうに大仏が出来上がっていくことがイメージされる。また小倉山の上はもちろん、周辺の山の上を完成に向かう大仏を遠望して、大勢の人が見物したと思われる道の跡を確認できる。これらのことから、拝殿から西方を拝むと小倉山があり、その後ろに座る大仏が山越にこちらを向いているイメージ(山越阿弥陀来迎)が完成したと考えられる。

 続いて覆屋として大仏殿が造られ、脇侍として息長足姫像と仲津姫像が安置される。合わせて35年の歳月の後、570年(金光元年)に金光明四天王護国之寺(東大寺の正式名称)が完成する。大仏殿の屋根を省略してこの伽藍を描いた曼荼羅「地獄極楽図」と「山越阿弥陀図」が一組の屏風として描かれており(京都・金戒光明寺蔵)、倭国の聖地小倉山が主題であることが分かる。来迎図では倭薈は阿弥陀如来に、母の息長足姫は観音菩薩に、妻の仲津姫は勢至菩薩に描かれている。阿弥陀信仰は6世紀末に燎原の火のごとく東アジアに広がった。

 これらの時期の倭国の京と小倉山東大寺を舞台とする話が「信貴山縁起絵巻」である。奇跡を行う聖が東大寺のそう遠くない信貴山という場所に住み話題となっている。京では帝が病を患って困り、その聖の力を借りることになる。聖は信貴山で祈祷を行い京にいる帝の病を直してしまう。この聖には信濃に済む一人の姉がいる。幼くして別れた弟に会うために上京し、やがて東大寺に至り、夢に現れた大仏(阿弥陀)のお告げで、住んでいる場所を知り、その後一緒に暮らすという話である。この東大寺の大仏は奈良の大仏と異なる柔和な容貌に描かれている。その他の細部についても「東大寺要録」に記録される大仏の内容と一致する。倭国の京の東の大寺、東大寺である。



 倭薈の容貌

 唐の張楚金の「翰苑」に倭国が歌われる。その中で女王の時代を代表する卑弥呼と臺与を歌い上げ、次に男王の代表として「文身点面、猶太伯の苗と称す」者と「阿輩鶏弥」、自ら天児の称を表す」の多利思北孤が歌われる。多利思北孤の前の時代に活躍した倭国を代表する文身点面の王が倭薈である。まさしく特異な容貌の王として東アジアに知れ渡っていたことになる。文章に現れるのはこれのみだが、その姿を他に追ってみる。


  ①薬師寺金堂の薬師如来像

 胸に卍文、掌に輪宝文、足の裏に瑞祥文(写真1)。この姿が分身点面の完璧な内容を現していると思われる。これが小倉山の麓の堂に安置された倭薈像である。


  ②法隆寺金堂の壁画の阿弥陀如来

 阿弥陀浄土図と呼ばれる阿弥陀如来を描いたとされる図である。卍文は衣服で隠れており、足の裏は図柄を表現出来ない角度から描かれており、手の輪宝文のみである(写真2)。他に釈迦浄土図と呼ばれる図にも入れ墨が描かれているとされるが、写真では手の文は明らかでないし、胸の卍文も後に書き加えたものと思われる。というのは焼失壁画のその部分は壊れたり傷ついたりしていないが、卍文の痕跡がないのである。

 前著で述べたようにこの壁画に描かれるのは歴代の倭国王の姿であり、後に阿弥陀如来と呼ばれる倭薈の姿が重要な意味をもっていたのである。



  ③東大寺大佛の蓮弁に描かれた阿弥陀如来

 大仏は蓮の花が開いた状態の蓮肉の上に座り、蓮肉の回りを蓮弁が取り巻く。上段は仰蓮、下段は反花で、上段の蓮弁の一つ一つに阿弥陀如来が毛彫りで刻まれている。蓮弁の如来は左手に輪宝文を描き、右手には何も描かれない。そして胸の卍文はその部分を切り取り、次に裏から同材料で補修し、再び卍文が描かれたことが分かる。さらに周囲には切り刻んで補修した跡が見える(写真3)。小倉山東大寺の大仏の下半分が残った姿が奈良東大寺の大仏である。残った蓮弁のいくつもはこのように切り刻まれており、再建の事情(後述)が読み取れる。また無傷の蓮弁の阿弥陀如来には両掌に輪宝文が、胸に卍文が描かれている。


  ④来迎図の阿弥陀如来

 一群の来迎図は定説では時代が下ることになる。例えば鎌倉時代とされる奈良法華寺の阿弥陀三尊及び童子像は、来迎図の初期を飾る作品で、600年以前の制作であることは疑えない。その阿弥陀には胸に卍文、手に輪宝文、足に瑞祥文が描かれている。

 以上、「分身点面」の倭国王倭薈である。500年代後半からは阿弥陀として認識され、今日にいたっている。阿弥陀は日本人の深層意識に住み続けているのだが、壬申の乱后は阿弥陀信仰は徹底して禁止される。現代日本の宗教学は阿弥陀信仰が鎌倉時代に確立したという地点から先に進めないのである。










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