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まぼろし の 邪馬壹(≠臺)国は、九州「筑紫野市」【馬市(うまいち)】付近じゃないのだろうか?



まぼろし の 邪馬壹(≠臺)国 は、どこか?




邪馬壹(≠臺)国は筑紫野市・馬市(うまいち) では?
そこは宝満川からの陸揚げ地点か、
故・宮崎康平氏は 「まぼろしの邪馬台国」 で次のように述べている。



2002年 2月 10日 発行



〔01〕、
まぼろしの邪馬台国を書いた故宮崎康平は、魏志倭人伝の(奴国から始めて邪馬台国を1周して奴国へ戻る)国名を逆の順に読むように勧めているが、もしそうだと邪馬台国は、甘木市を中心とする扇状地(夜須郡、下座郡、上座郡)とならないか、とりわけ夜須川沿いの夜須町では?
私のその都城推定地は、「筑紫野市・馬市(うまいち)」付近です、そこは有明海の入り江が迫り港でもあって交易の要衝だった。


〔02〕、
次にあり奴国(福岡市)、次にあり鳥奴国(ううのと読んで)大野城市付近、次にあり支惟国、これは有名な基ヰ城のふもと近辺。
つまり夜須町から見て宝満川を挟んで対岸の国々が北から南へ列挙されているのでは?


〔03〕、
また、故宮崎康平は、把利国の推定地としているが、
(注:私は、別の見方をである。彼の言う把利国の西側大部分こそ邪馬台国であり、把利国はその東の杷木町と思う)
その把利国の項の中で次のように言っている。
(斉明天皇は新羅征討のおり、なぜここに行宮を造営されたのか。和名抄はなぜ上座、下座をカミツアサクラ、シモツアサクラと読ませたのか。記紀伝承の大部分が、なぜこの地方に関係深いのか。
大和地方の重要な地名が、そっくりこの地方にあるのはなぜか。
それに神話の高天原が、なんらかの実在した地方にイメージの発想があったとすれば、・・
甘木、馬田、安須川、天降山(あもりやま)、古処(こし)、白坂峠(ヨミノシラサカ)
などが、そのまま当てはまるのである。」


〔04〕、
また、故宮崎康平は、「五・六世紀頃まで筑後川の本流は、筑前と筑後の国境を大きく北へ迂回して流れていたようである。
原則的に筑後の国は筑後川より南にならなければならないのに、三井郡の大半が筑後川の右岸(北側)にあるのは、本流が次第に流れを変えた為であろう。
少なくとも邪馬台国時代には点々と島州はあっても、
筑後平野の中心部は有明海に続いて大きな内湾になっていたようである。」


〔05〕、
また別に「研究を続けた結果、ついに邪馬台国時代には博多湾と有明海の間に水道が通じていたことを突き止めた。
つまり博多湾と有明海はつながっていて、この時代には自由に航行できたのである。
・・・中略・・・私はここを「二日市水道」と呼んでいる。
二日市温泉の旅館・・・中略・・・数年前の同館温泉掘削の際のコアによれば、
同地は現在標高40mであるが、マイナス70m付近の地層が邪馬台国時代に該当し、
現在の海面より30m以下となり、その後の海面上昇高を差し引いても、
水道は10m以上の水深であったことが分かる」


〔06〕、
私は筑後川と宝満川に挟まれた北東部の扇状地こそ邪馬壹(≠臺)国であり、
とりわけ筑紫野市・馬市(うまいち)は、その「首都」の所在地考える。
でも、そこは今は地下10m近く埋もれてる。


〔07〕、
有明海に続く内湾が、宝満川と筑後川沿いに”Y”字形に入り込んでいたら、
また現代の標高10mが海水面としたら、
筑紫野市・馬市(うまいち)がちょうど陸揚げ地点と想定される。


〔08〕、
古田武彦氏の説のとおり、邪馬台国は”やまたいこく”でなく、
邪馬壹(≠臺)”やまいちこく”と読むのなら、邪馬壹(≠臺)は、邪馬市へ変化し、
その上 ”邪” が脱字しているとしたら、との推理です。


〔09〕、
中国の歴史は、南を北がつねに凌駕することで綴られたこの為か、南朝の歴史は、記録に残っていない。
九州倭国は、南朝との交渉を主としていたと思われるので、
南朝との貿易に有利な地点・即ち日本海側でなく、有明海側と推理します。
なお、私は正倉院の遺物は海のシルクロードで運ばれたものであり、
けっして砂漠・陸のシルクロード経由と考えていません。


〔10〕、
また、他には、次のような点で推理しました。


 ・御笠川(石堂川)・宝満川の川岸であること。

 ・夜須川、又は夜須町にほど近いこと。

 ・岡田の宮・岡田に近いこと。

 ・うか(宇河)筑後川の支流に位置すること。

 ・筑紫に近いこと。

 ・奴国(博多)・鳥奴国(大野城市)・支惟国(基ヰ)と対岸に位置すること。

 ・邪馬壹(≠臺)国(やまいち)の発音が現代も片鱗として残っていること。

 ・九州王朝の最後の都・大宰府に近いこと。


〔11〕、
「五・六世紀頃まで筑後川の本流は、筑前と筑後の国境を大きく北へ迂回して流れていたようである。

原則的に筑後の国は筑後川より南にならなければならないのに、三井郡の大半が筑後川の右岸(北側)にあるのは、本流が次第に流れを変えた為であろう。

少なくとも邪馬台国時代には点々と島州はあっても、筑後平野の中心部は有明海に続いて大きな内湾になっていたようである。」


〔12〕、
また別に「研究を続けた結果、ついに邪馬台国時代には博多湾と有明海の間に水道が通じていたことを突き止めた。

つまり博多湾と有明海はつながっていて、この時代には自由に航行できたのである。・・・中略・・・私はここを二日市水道と呼んでいる。


〔13〕、
二日市温泉の旅館・・・中略・・・数年前の同館温泉掘削の際のコアによれば、 同地は現在標高40mであるが、マイナス70m付近の地層が邪馬台国時代に該当し、現在の海面より30m以下となり、その後の海面上昇高を差し引いても、水道は10m以上の水深であったことが分かる。」


〔14〕、
有明海に続く内湾が、宝満川と筑後川沿いに”Y”字形に入り込んでいたら、また現代の標高10mが海水面としたら、筑紫野市・馬市がちょうど陸揚げ地点と想定される。


〔15〕、
私は筑後川と宝満川に挟まれた北東部の扇状地こそ邪馬壹(≠臺)国であり、とりわけ筑紫野市・馬市(うまいち)は、その「首都」の所在地考える。


〔16〕、
古田武彦氏の説のとおり、邪馬台国は”やまたいこく”でなく、邪馬壹(≠臺)国”やまいちこく”と読むのなら、邪馬壹(≠臺)は、邪馬市へ変化し、その上”邪”が脱字しているとしたら、との推理です。





◎魏志倭人伝の以下記述を、

「東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰謨柄渠 有千戸 丗有王皆統屬女王國 郡使往來常所駐」 「東南至奴國百里 官曰馬 副曰奴母離 有二萬戸」 「東行至不彌國百里 官曰多模 副曰奴母離 有千家」 「南至投馬國水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬戸」

「南至邪馬壹【臺】國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬 次曰彌馬獲支 次曰奴佳 可七萬戸」 「自女王國以北其戸道里可得略載其旁國遠絶不可得詳」

「次有斯馬國 次有已百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有國 次有吾國 次有奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡」

 故宮崎康平は、魏志倭人伝の (奴国から始めて邪馬台国を1周して奴国へ戻る) 国名 を逆の順に読むように勧めているのだ。  






  《 ご参考 》

    ● 馬市の国境石-〔発見された基礎石〕-

    ● 邪馬台国の考古学-〔筑後川・中流域説〕-

    ● 筑紫野市西小田馬市付近地図

         

     地図に表示されてませんが、北から
      「西小田」・「東小田」・「福島」・「安野」・「四三嶋」・「乙隈」・「三沢」・「三国が丘」
      に囲まれる場所が【馬市】です。








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