いわゆる『書紀』のいう「大化の改新」は無かった
共著書「日本列島史抹殺の謎」の章「比曇の乱と入鹿殺し」で、
【『書紀』の「大化の改新」は、韓国新羅史「比曇(ひどん)の乱」の翻訳だ。】 と、故人・鹿島曻氏は、指摘している。
佐治:
鹿島先生の説は「日本書紀」が朝鮮史の翻訳だということですが、どこまでが朝鮮史でどこからがいわゆる日本史になるかという問題について……
鹿島:
壬申の乱までは朝鮮史であります。新羅の善徳王(632~647)というのは女帝ですが、和白(新羅の部落会議に源をもつ全員一致の合議政体)の筆頭であった伊食比曇が唐にそそのかされて、女王ではダメだといって、廉宗と共謀して王位をねらい、647年正月に反乱を起こした。このとき、王子の金春秋(のち、新羅30代文武王)と重臣の金庚信が比曇を誅殺した。
これを「比曇の乱」というのですが、「日本書紀」では、女帝の皇極(642~645)のとき、大臣の蘇我入鹿が王位を狙った。645年6月に中大兄皇子と中臣鎌足が入鹿を誅したことになっていて、実はこれは「比曇の乱」の翻訳なのであります。
佐治:
大化の改新とか入鹿殺しの宮廷クーデターなんかはもともと朝鮮のことで、日本列島で起きた事件ではなかったということですね。
鹿島:
そうです。新羅ではこののち唐制を模倣して法治主義を採用した。大化の改新というのは新羅で起きたことであります。
新羅史では真徳王(647~654)という女帝が立ったのですが、「日本書紀」では皇極のあと孝徳が立って、そのあと皇極が重祚して斉明(655~661)になっている。孝徳のモデルは百済の末王義慈王の長男孝ですから、これは藤原仲麻呂が「日本紀」を改竄したときに追加したもので、舎人版「日本紀」にはなかったのではないか。そうすると、原本では皇極、斉明と続いていて、女帝の皇極のモデルもやはり新羅の女帝の善徳王、女帝の斉明のモデルが新羅の女帝の真徳王であった。のちにその間に孝徳が入ったということになります。
吾郷:
鹿島先生の「倭と王朝」の比定表では、舒明が百済の末王義慈、皇極が新羅女王善徳、孝徳が百済の義慈王の王子孝、斉明が新羅女王真徳、天智が孝の弟豊璋になっていますね。
鹿島:
はい。ところで今の入鹿殺しのモデルが比曇の乱だということは、福田芳之助と言う人の「新羅史」にあります。大正二年の出版です。
新羅史では、金庚信が王孫の金春秋と接近する為に、庚信の家の前で蹴鞠の戯をして、わざと春秋のもすそを踏んで襟ひもを裂、自分の家に招じ入れて妹にそれを縫わせた。それが縁で春秋と庚信の妹が結婚するのです。 福田氏はこれが中大兄皇子が法興寺で蹴鞠をしたとき、鎌足が皇子の履物が飛んだのを拾ってコンタクトしたと言う「書紀」の説話のモデルだと主張した。……
□ 相 関 : ひどんの乱 ⇒ 大化の改新
□ 新羅史 : 比 曇 ⇒ 蘇我 入鹿
□ 百済史 : 豊 璋 ⇒ 天智 天皇
《ご注意》ご参考迄に私案を追記しておきます。
□ 倭国史 : 高市 天皇 ⇒ 蘇我 入鹿
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