【 「筑紫なる飛鳥浄御原宮」を探る:正木裕氏投稿 】
先日、待望の「古田史学会報no103」が、送られてきました。会報記事の中に、私の「壬申乱は唐の指導の下に、筑紫と長門以東天智近江朝との倭国再統合戦である」説で、日本書紀『天武2年(673)2月癸未(27日)天皇、有司に命ぜて壇場を設けて、飛鳥浄御原宮に即帝位す。』の飛鳥浄御原宮が近畿にあったとすると、私なりに、何か今一しっくり来なかったのです。でも記事を読むにつれ、なるほど、そうだったのかという記事がありました。《「筑紫なる飛鳥宮」を探る:正木裕氏投稿》である。
以下、「古田史学会報no103」『「筑紫なる飛鳥宮」を探る:正木裕氏投稿』抜粋引用・転載します。
2011年 4月 26日 発行
壬申の乱で長門以東天智近江朝に戦勝し、九州王朝「倭国」を再統合した明日香皇子の薩夜麻(=大海人とは別の天武天皇)が即位した〔筑紫・飛鳥浄御原宮跡〕
従来説の《天武天皇の宮殿「近畿・飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)」(672~694年)の北端とみられる石組み溝が出土した発掘現場》〔近畿・飛鳥京跡157次調査・現地説明会 2007.2.11(日)〕
その前に、《飛鳥浄御原宮が近畿にあったとすると、私なりに、何か今一しっくり来なかったのです。でも記事を読むにつれ、なるほど、そうだったのか》の私説とやらの
〔倭国の遺跡スポットを訪ねてみよう〕ブログを振り返ってみよう。
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275) 『大和王朝は難波副都で「天下立評」した九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』 2010年11月18日(木)
647年、九州王朝「倭国」に「甘木王(=常色王)」が即位する。
649年、「倭国」甘木王が、造複都「難波京」の詔を発す。
天下立評で「プロト大和」開祖・伊勢王が難波副都に常駐する。
その後、白村江戦前後までに、天下立評の進展に伴い、
同時に「難波副都倭弟王家」が台頭する。
660年、百済滅亡。
●〔何が言いたいか、それは斉明天皇・天智天皇・天武天皇が「難波副都倭弟王家」の出身だということだ。〕
647年、九州王朝「倭国」に甘木王「常色王」即位し、即位后、唐の侵略に対抗する為「常色の大改革」を次々断行する。直轄地の筑紫(=九州島)は早くから評制施行済みだったが、長門以東は連邦附庸国「出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野」の地方分権支配だったのだ。
これを中央集権制の天下立評すべく、649年、造複都・難波京の詔を発し。652年、天下立評、難波副都完成、白雉改元儀式。天下立評で「プロト大和」開祖・伊勢王が難波副都常駐。
倭国内では、大宰府と難波副都で権力の2重構造が発生。その後白村江戦前後までに、天下立評に伴い、倭国連邦附庸王国の「出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野(常陸)」等が解体を余儀なくされる。同時に難波副都倭弟王家が台頭する。
663年、百済復活戦・白村江戦へ出兵。白村江敗戦で倭国白鳳王薩夜麻が唐に捕獲連行。
664年、その白村江敗戦后早い時期に、留守居の難波副都の天智天皇が、倭王不在の倭国長門以東(=本州・四国)を唐から守備・防衛・直接支配する。
667年、天智近江朝(=倭国難波副都倭弟王家)は、長門以東(=本州・四国)を分離・独立させ、近江遷都・天智が即位する。
「近江朝(=難波副都倭弟王家)」が「倭国」から分離独立したことを、唐国は認めるたくなかったのだ。
というのは、672年「壬申の乱」が起きるその前年
壬申乱に戦勝、唐筑紫占領軍が引揚げ后は、独立した「筑紫(=九州島)」統治大宰府「倭国」と、「長門以東(=本州・四国)」統治の「真人(=征東将軍)」浄御原宮「天武朝(=難波副都倭弟王家)」とに、取って代わる。
然し、672年、「壬申乱」で戦勝したはずの倭国のその後は、唐国の傀儡化と過酷な戦後賠償でさらに疲弊してゆくことになる。(残念なことに、白村江敗戦後のこの時期、属国・九州王朝倭国の唐への戦後賠償船派遣記事は、正木裕氏の指摘する34年遡上説でそっくり抹殺・抹消され窺い知ることができないのだが)
その後大宰府倭国は、悪いことに、678年、筑紫地震をはじめ度重なる地震におそわれる。その窮状を難波副都倭分家弟王家「天武朝」へ訴え救いを求めたふしがあるが、最終的には684年、大宰府から難波京へ遷都することになった。遷都もつかの間、白鳳地震。更に2年后には、難波京が焼失する。止むを得ず、686年、「天武朝(=難波副都倭弟王家)」の浄御原宮へ間借り再遷都する。将に当たり目に祟り目だったのである。
最後の倭国王「高市天皇」が690年、即位。691年、大嘗祭。倭国の藤原京の建設を急ぎ、694年、「間借り」大和の浄御原京から倭国の藤原京へ遷都。695年、九州年号「大化」改元。696年、建郡「本来の大化改新(=プロト大化改新)」発詔。その后、あろうことか、「本来の乙巳の変(=プロト乙巳の変)」で倭王「高市天皇」が藤原不比等をはじめとする下手人に暗殺され、倭国は滅亡してしまう。
翌、697年、「天武朝(=難波副都倭弟王家)」大和の文武天皇が 即位する。698年、大嘗祭。701年、「大宝」建元、新・大宝律令発布。はれて、大和王朝「日本国」の開闢・誕生である。
これが「あらすじ」である。
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526) 『古田史学会報no103【「筑紫なる飛鳥宮」を探る:正木裕氏投稿】』
2011年4月26日(火)
壬申の乱で長門以東天智近江朝に戦勝し、九州王朝「倭国」を再統合した書紀天武天皇(=明日香皇子の薩夜麻)が即位した『飛鳥浄御原宮』の本来の場所がわかった。【注意:天武は2人いて、大海人とは別の天武です】
先日、待望の「古田史学会報no103」が、送られてきた。
《「筑紫なる飛鳥宮」を探る:正木裕氏投稿》
古田武彦氏は、その著『壬申大乱』において、「飛鳥」の地を福岡県小郡市に比定された。
一、2つの「飛鳥浄御原宮」記事
1、『書紀』の飛鳥浄御原宮造営記事
『書紀』では天武元年(672)是歳条に「飛鳥浄御原宮」の建設記事とその翌年2月条の同宮での天武の即位記事がある。
■天武元年(672)是歳、宮室を岡本宮の南に営る。即冬に遷りて居します。是を飛鳥浄御原宮と謂ふ。(略)天武2年(673)2月癸未(27日)、天皇、有司に命せて壇場を設けて、飛鳥浄御原宮に即帝位す。
しかし、この記事には不自然な点がある。それは、
①天武は天智10年(671)に吉野に隠棲しており、また、壬申乱の最中に天武が飛鳥浄御原宮を造営できるはずはない。
②乱が決着したのは元年9月。「行宮」ならいざ知らず、即位の式典を挙げうる大宮の建設に着手し、年内に移転するのは不可能。
この点、一般には「後飛鳥岡本宮の内郭を継承しながらエビノコ郭と外郭を造営した」等とされるが、それでも戦後の2~3ヶ月で造営できたとは到底思えず、「天武元年に飛鳥浄御原宮を造営した」とする記事は到底信頼できない。
従って、『書紀』の「天武2年2月に飛鳥浄御原宮で即位した」という記事を事実とすれば、天武は「既に存在していた飛鳥浄御原宮に遷り、即位した」と考えざるを得ないのだ。
2、「飛鳥浄御原宮」の命名記事
また、「飛鳥浄御原宮」の命名理由について『書紀』朱鳥元年に不可解な記事が存在する。
■朱鳥元年(686)秋7月。戊午(20日)、元を改めて朱鳥元年と曰ふ。朱鳥、此をば阿訶美苔利といふ。仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮と曰ふ。
「朱鳥(阿訶美苔利)に因んだと云うが、これではなぜ朱鳥が飛鳥浄御原宮となるのか、全くわからない。岩波『書紀』の注では「一種の嘉号」とするが、「嘉号」など幾らでも考えられる中で、何故「飛鳥浄御原」なのかの説明になっていない。
また朱鳥改元時に「宮号を正式に決めた」とも記すが、天武元年(672)から14年も名無しの宮だったはずはなく、その間の名称があったはずだが『書紀』に全く出てこないのは不自然だ。
一般的に考えれば「その間の名称」は「後飛鳥岡本宮」となるが、それなら堂々と「後飛鳥岡本宮」で即位し、朱鳥改元時に浄御原宮とした(改名した)とすればよい。また即位時点で宮号を改めたならそう書けば良いのであって、遥か後の「朱鳥改元」を理由にする必要は更々無い。
そのどちらとも矛盾するという事は、
①天武が即位した宮は、その時点で既に「飛鳥浄御原宮」と呼ばれて存在していた。
②『書紀』編者はその命名根拠を知らず、無理を承知で「朱鳥改元」を根拠とした。即ち『書紀』編者の牽強付会であった、と云わざるを得ない。
つまり、『書紀』における2つの「飛鳥浄御原宮」の不自然さは、「天武は既に存在していた飛鳥浄御原宮に遷り即位したが、『書紀』編者はその名の根拠が分らず、朱鳥改元に託けた事から生じたもの」と考えられる。
二、古田氏指摘の「筑紫小郡なる飛鳥」
「飛鳥浄御原宮」が、天武即位以前から存在していたというのは常識外であり、しかも直前の天智期は近江遷都時代で、「飛鳥」と名のつく宮は斉明以前に遡るはずだから尚更理解し難いだろう。
しかし、これを矛盾なく解決する考えがある。
それは古田武彦氏の「飛鳥浄御原宮は筑紫小郡に存在した、九州王朝の宮である」との説だ。
氏は『壬申大乱』他において、万葉集の明日香皇子に関する歌や、現地の遺存地名(飛鳥)、考古学的分析(小郡の遺跡群等)を通じ、「飛鳥」の地を福岡県小郡市に比定され、「飛鳥浄御原宮」は同所に存在した九州王朝の宮であると論じられた。
そして、明日香皇子は九州王朝の天子「筑紫君薩夜麻」の皇太子時代の名であり、白村江戦に際し唐に捕虜となり、天智期に帰国したとされる(注2)。
この考えに基づけば、彼に因む宮は斉明・天智期に既に存在した事になり、先の考察と時代的にも整合する。また筑紫小郡の現地名に因む宮名が『書紀』編者に理解できなかったのも当然といえる。
三、『古事記』から探る天武の即位宮
1、「壬申の乱」の性格
それでは「天武が筑紫なる飛鳥浄御原宮で即位した」との考えにはどんな根拠があるのだろうか。
天武は壬申の乱の勝利で政権を掌握し「清原の大宮『古事記』」「飛鳥浄御原宮『書紀』」で即位したとされる。実はこの宮が筑紫小郡付近に存在したと考えられる根拠が『古事記』序文の「壬申の乱」の記述にあるのだ。
古田武彦氏は、『壬申大乱』で、従来近畿での出来事とされてきた壬申の乱は、九州から近畿、東国まで巻き込んだ一大決戦であり、背後に「占領軍」たる唐の意向・天武への支援があったとされた。主な論点を挙げる(唐の支援については注3)。
①白村江以降唐の軍隊が筑紫、佐賀なる「吉野」に駐留していた。指揮官は郭務悰であった。
②天武は兵を挙げるについて、その吉野に赴き、唐の了解・支援をとりつけ、筑紫より出征した。
③従って近江朝の「近江京より、倭京に至るまでに、処処に候を置けり」とする「倭京」は筑紫となる。
更に古賀達也氏は「『古事記』序文の壬申大乱」(注4)で、天武が筑後川や高良山付近に雌伏していたこと、唐人に作戦を授けられたことを示し、古田説を補強された上で「壬申の乱の性格が、天武と唐による九州王朝近江遷都一派の殲滅戦としての位置付けが可能」とされた(注5)
2、『古事記』序文の「壬申の乱」
改めて『古事記』序文を見よう。
①飛鳥の清原の大宮に大八洲御しめしし天皇の御世に曁(いた)りて、潜龍(せんりゅう=太子、ここでは天武)元を體し、洊雷(せんらい同)期に應じき。
②夢の歌を開きて業を纂がむことを相(おも)ひ、夜の水に投(いた)りて基を承けむことを知りたまひき。
③然れども、天の時未だ臻(いた)らずして、南山に蝉蛻(せんせい=せみの抜け殻・世俗を超越する事)し、人事共給はりて、東國に虎歩したまひき。
④皇與忽ち駕して、山川を浚え渡り、六師雷のごとく震ひ、三軍電のごとく逝きき。城杖矛威(いきおい)を挙げて、猛士烟のごとく起こり、紅旗(こうき)兵を耀かして、凶徒瓦のごとく解けき。
⑤未だ浹辰(しょうしん)を移さずして、氣沴(きれい=妖気)自ら清まりき。乃ち、牛を放ち馬を息へ、悌(がいてい=やすらぐ)して華夏に歸り、旌(はた)を巻きて戈を戢(おさ)め、舞詠して都邑に停まりたまひき。
⑥歳大梁(たいりょう=酉年)に次(やど)り、月夾鍾(きょうしょう=2月)に踵(あた)り、清原の大宮にして、昇りて天位に即きたまひき。(神道体系古典編一『古事記』神道体系編纂会1977年12月本による)
①~③は古賀氏の分析どおり、「夜水」は筑後川の別名、「南山」は高良山と考えられ、天武の「筑後」雌伏を示し、④は壬申乱での天武の活躍を述べたものだが、問題は天武の帰還血を示す⑤だ。
3、天武は筑後に帰還し即位した
「華夏に歸り」とあり、大和飛鳥と考えられているが、天武の「蝉蛻」の地、即ち出陣地が「筑後」なら、帰還も「筑後」のはず。また、支援を受けた唐に報告しないとは考えづらく、そして、「華夏」は中国(当時なら唐)を意味する。更に『隋書俀(たい)国伝』では「其の人(俀国人)華夏に同じ」と記し、その「俀国」は阿蘇山がある九州であるはずだ。
■『隋書俀国伝』
従って「華夏に歸り」とは、三重の意味で「天武の出陣地であり、唐の駐留する、九州・筑後に帰る」となる。そして「都邑に停まり」とは『隋書』に「彼(俀国)の都」と記す九州に停まった事を意味する。
天武は乱後、「やすらか」な気持ちで筑紫に帰り、支援者たる唐・九州王朝に報告すると共に「都邑たる筑紫に留まった」のだ。そして「夜水」「南山」の地名からそこは筑後川や高良山周辺であるはずで、筑紫小郡付近はこれに良く適合する地域といえる。
4、『書紀』記事からも「天武帰還地は筑紫」
壬申の乱後の天武の帰還地については、わざわざ『古事記』序文を持ち出すまでもないかもしれない。『書紀』では乱終息後、最初の行事は「筑紫」での新羅の客金押寶等への応接であり、直後の論功行賞だったからだ。
■天武元年(672)9月。庚子(12日)に、倭京に詣りて、嶋宮に御す。壬卯(15日)に、嶋宮より岡本宮に遷りたまふ。(飛鳥浄御原宮遷居記事略)
古田氏指摘どおり「倭京」は筑紫であり、嶋宮・岡本宮・飛鳥浄御原宮遷居も筑紫であってこそ金押寶等を筑紫で応接できる。「船一隻賜ふ」のも、論功行賞も、金押寶帰国も、乱直後の記事は全て筑紫と考えるのが『書紀』の自然な解釈だ。
四、「清原の大宮」「浄御原宮」は小郡にあったのか
次に、筑紫小郡が「浄御原宮」の存在に相応しい地域といえるのか、文献的・考古学的に検証しょう。
1、文献的・考古学的に「筑紫小郡」が相応しい
Ⅰ、『書紀』に記す小郡
『書紀』で筑紫には大郡・小郡の存在が記される。
■天武2年(673)11月壬申(21日)に、高麗の邯子・新羅の薩儒等に筑紫の大郡に饗たまふ。禄(もの)賜ふこと各差有り。
■持統3年(689)6月乙巳(24日)に、筑紫の小郡にして、新羅の弔使金道那等に説たまふ。物賜ふこと各差有り。
筑紫大郡・小郡は何れも外国要人を迎えた式典の執り行われた場所だ。先述の新羅の客金押寶等を饗した「筑紫」も大郡・小郡の何れかと思われ、『書紀』上も、天武即位と同時期にこうした施設が筑紫小郡に存在した事が確認される。
《ご注意:下記は普通の地図には『字』迄表示、なので
Ⅱ、遺跡に見る小郡
現在『書紀』の「筑紫小郡」に比定されているのは福岡県小郡市だ。ここには、「小郡官衙遺跡」「下高橋遺跡」「上岩田遺跡」「薬師堂遺跡」等、概ね7~8世紀と見られる大型遺跡が集中し、「正倉院」跡まで発見されている。
特に、小郡市井上地区一帯(現在の岩田地区を含む旧御原郡)には井上廃寺・井上薬師堂遺跡等の大規模遺跡がある。わけても上岩田遺跡(Ⅰ期)は、約12万平米の規模を持ち、東西約18米、南北約15米、高さ約1米強の基壇と、その上の瓦葺き建物や、柵に囲まれた大型の建物群が確認されており、単なる官衙(評衙)とは考え難い。
遺跡には筑紫大地震(678)によると見られる亀裂倒壊の跡がある事から、7世紀中盤から後半にかけ存在した施設と考えられる。
また、「井上廃寺跡(井上山福田寺跡):小郡市大字井上字村囲」からは九州最古の白鳳前期とされる「山田寺瓦」が出土し、かって方2町程度の寺院域と七堂伽藍を有した大寺があったと推定され、小郡は重要な儀典が開催された場所との『書紀』の記述は考古学上も確認される(注6)
2、小郡井上地区の宮は「浄(清浄)」なる宮
また、井上廃寺に隣接する本山という台地上にある広大な「長者屋敷遺跡(未発掘)」は、長者堀に囲まれ、堀は井上地区「井尻」周辺の湧水に発し、上岩田遺跡の横の「蓮輪・池尻(何れも井上地区の地名)」を経て「飛鳥(飛嶋)」まで流れ込んでいたと考えられる(参照:『小郡市史』)。古田氏の指摘通り、井上地区周辺は水に囲まれた「浄い」土地であり、その地に立つ宮は清浄なる宮、「浄之宮」と称されても不思議はない。(詳細な内容については氏の『壬申大乱』を参照されたい)
3、井上地区は旧御原郡(みはらのこおり)
小郡の井上地区は御原郡(注7)にあったと述べたが、御原郡の初見は『肥前国風土記』の「御原郡姫社之社」であり、『和名抄』に「長柄・日方・板井・川口」で成るとあり7世紀には既に存在していたと考えられる。「日方」地名は「干潟」として井上地区の北に遺存し日方神社も同地に存する。南には「御原」地名も残っている。しかも字も三原でも美原でもなく「浄御原宮」と一致する「御原」なのだ。
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