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『(川端 俊一郎著)隋唐帝国の北東アジア支配と倭国の政変』について




隋唐帝国の北東アジア支配と倭国の政変


Northeast Asia under the Control of Chinese Sui and Tang Empire,
and a Change in the Dynasty ruling over Japan
Kawabata Shun-ichiro
川端 俊一郎




 以下は、 『隋唐帝国の北東アジア支配と倭国の政変(川端 俊一郎著)』の転載である。

 川端 俊一郎氏の外国史料に基づく当時の理解はその的確性において卓越していると思う。
 一方、国内史料である「古事記」「日本書紀」「続日本紀」による代々の著名な史家の説明はまるで分裂症に似ている。「白村江の戦い」「壬申の乱」の当時でさえ彼らの説明では神代の話のようになってしまう。
 ここにきて、「日本書紀」の改編手法が正木裕氏をはじめ「古田史学の会」の会員各位の努力で明らかにされることで漸く国内情勢が見えてきた。更に古賀達也氏が「難波朝廷天下立評給時」記事から解明された内容で、九州王朝「倭国」は寝ていたのではなく最善の努力をしていたのである。下記で氏のおっしゃる『長期にわたる外交空白で、倭国は東アジア情勢の把握に遅れをとることになったであろう。』とは少しばかり見解を異にする者である。
 川端俊一郎 氏の見解もまた、日本国内的には、何故「日本書紀」が九州王朝「倭国」を抹殺したのか、の説明になっていないし、大和王朝「日本国」がどういう経緯で忽然と極東アジアに現れたのか、の説明になっていないと思うのである。

● 参照:大和王朝は(難波副都で天下立評した)倭王家分家の弟王家だ

2010年 4月 8日 発行




囚われの筑紫の君、「 薩野馬 サチヤメ」の帰還

 「新羅及び百済、耽羅、倭の四国の酋長」を連れて、劉仁軌将軍が凱旋したとき、高宗は「甚だ悦んだ」と旧唐書は記している。劉仁軌は、白村の江で倭国に完勝し、半島南部を支配下に置いた唐将で、四国の酋長とはその国の王である。高宗は、西域の征服地も拡大して大唐帝国を築き上げ、支配下にある諸国の王たちには、麒徳2年10月(665年)を期して、みな東都洛陽に集合するよう命じていた。翌年元旦、泰山で「封禅之礼」を挙行し、天と地の功に報いるというのである。諸州の刺史はみな現地集合であった。高句麗はまだ降服していなかったが、高蔵王がその子福男を遣ってきたことが、旧唐書本紀に特記されている。

 この盛大な「封禅之礼」に参列することになった倭国の「酋長」とは、白村の江の戦で降伏した倭王に他ならない。高宗は10月に洛陽を発ち泰山へ向かった。従駕した「諸蕃」のなかに倭の「酋長」もいたことが、冊府元亀にも記されている。囚われの倭王が泰山で日出を仰いだとき、敗戦からすでに三年半が過ぎていた。帰国を許されるのはさらに五年後のことになる。この間に倭王は、唐帝国の偉容をつぶさに観察し、国力の差を実感することができたであろう。それまでの外交政策と朝鮮出兵に反省するところがあったに違いない。

 降伏した諸国の王を唐都へ連れ帰って再教育し、征服地の戦後改革が済んでから、時機を見て故地へ送り返すというのが、唐の冊封体制における羈縻支配というものであった。羈(キ)とは馬の手綱、縻(ビ)とは牛の鼻綱で、これで牛馬も御すことができる。

 百済平定(660年)の場合には、捕らえられた義慈王は長安ですぐに亡くなっていたが、五年後には王子扶余隆が許され、旧都の熊津(現、公州)へ都督として戻されている。高句麗を平定(668年)したときには、降伏した高蔵王を九年後に開府儀同三司・遼東州都督とし、朝鮮王に封じて送り返している。唐に協力して百済と高句麗を滅ぼす新羅も、その王都、金城(現、慶州)に雞林州都督府が置かれ、新羅王国は中国の一州となった。これは百済王国滅亡から二年後、白村の江の戦の年のことで、文武王法敏は雞林州都督として参戦していたのである。

 囚われた倭王が、敗戦九年後(671年)に太宰府のある筑紫に帰国したことを、日本書紀は記している。「筑紫の君、薩野馬」が、唐軍二千とともに帰還したのである①。この「薩野馬」の読みであるが、倭国は南朝に臣従し、都督府を筑紫に開いてきたから、その都督府を太宰府と改称した後も、そこで用いられていた漢字は南朝の呉音であった。したがって薩野馬の読みは「サチヤメ」である。都督府はどの国でもその都に置かれたから、倭国の都もまた筑紫にあったのである。筑紫の君とは倭王にほかならない。中国側の史料にでてくる倭国とは筑紫の政権のことであった。



日本書紀を尊重する歴史教科書

 日本の歴史教科書には筑紫の政権は出てこないし、ましてや倭王が捕らえられて「封禅之礼」に参列したことなども記述がない。日本の歴史教科書は、大和朝廷の編纂した日本書紀を尊重して、筑紫の政権についてあからさまに書くところがないのである。日本書紀は、奈良の都の大和朝廷が編纂(720年)したものであり、万世一系の大和中心の皇国史観で歴史を書いている。しかしその日本書紀も、神代からの王朝が筑紫にあったことは明記しており、また大和初代という神武天皇も、その筑紫から東征してきたのであった。

 中国側の史料と日本書紀との記述が驚くほど違っているのは、大和朝廷が大和中心に歴史を書き変えたからである。現代日本の歴史教科書の編者たちは、自らの史観に都合の良いように中国史料からつまみ食いをして日本の古代史を描いているが、あくまでも大和が古代から日本の中心で、外国に支配されたことなどはないとする、日本書紀と同じ立場を崩すことがない。

 日本書紀は、中国の漢書、後漢書、三国志、梁書などから、いろいろと美辞麗句を借用するから、その倭人伝や倭国伝の記述について、日本書紀の編者たちがよく知っていたことは疑いない。しかし現代の歴史教科書の編者たちとは違って、そうした史実はひとつも記さなかった。後漢書にある光武帝からの金印のこと、三国志にある卑弥呼の金印のこと、梁書にある倭の五王のこと、大将軍となり筑紫都督府を開いた倭王武のことなどが、日本書紀には出てこない。さらには隋書にある日出処天子、その遣隋使などもまた日本書紀には無い。つまり日本のどの教科書にも載っている古代日本の史実が、日本書紀には何ひとつ出てこない。これらはつまり筑紫のことであって大和のことではなかったのである。

 たとえば「漢委奴国王」と刻された金印は、大和ではなく、筑紫の志賀島から出土した。臣従していた漢が滅亡して不用になったその漢の金印を、石槨のなかに収めて手厚く埋納したのは、新興の魏から新たに「親魏委王」の金印を得た卑弥呼に違いない。なんのことはない、卑弥呼の国もまた筑紫にあったのである。 さらにまた隋書によれば、日出処天子の倭国も「竹斯」つまり「チクシ」にあった。今も筑紫では、筑紫をチクシと読む。隋書は「竹斯国より東もみな倭の支配下にある」と記している。倭国は「阿蘇山」のある国であった。日本書紀にも、筑紫を竹斯と書いたりする箇所がある。おそらくは、昔は竹斯で、後に筑紫と書いたものであろう。筑紫には確かに日本書紀とは別の歴史があったのである。

 こうした筑紫の歴史について日本書紀の編者たちは記述しなかった。それに対して現代日本の歴史教科書の編者たちは、中国史料にみられる倭国の歴史を、筑紫ではなく大和のこととして取り込み、新たな日本の古代史像を作り出してしまう。日本書紀以上に大和中心の皇国史観なのである。しかしながら上述のように、白村の江で戦って敗れた倭王もまた、大和の中大兄ではなく、筑紫の薩野馬なのであった。

 ところで日本書紀によると、その薩野馬が帰還する四年前に、大和の中大兄が、都を筑紫から近江の大津に遷し、天皇の位に即いたのだという。そうであれば、倭王である薩野馬が不在の間に、筑紫から大和への政権交代があったことになろう。大和に天命がおりたのである。日本書紀では中大兄は「天命開別天皇」(天智天皇)とされている。 そこへ筑紫の薩野馬が生還した。そうすると、倭王を帰還させた唐軍と大和の中大兄との間で、何かが起きたに違いない。日本書紀は、あからさまにはそれを書かないが、何とかそれを日本書紀から探ってみようとするのがここでの課題である。ただし、筑紫から大和への政権交代を隠蔽した日本書紀からそれを読み解くのは容易ではない。多くは推測に頼るほかなくなるであろう。しかしその推測は当時の東アジアの国際情勢を把握するなかでなされなければならない。



朝貢と冊封による中華帝国のアジア支配

 日本書紀には北東アジア情勢の記述などないから、中国の隋書や旧唐書、朝鮮の三国史記などによって当時を知るほかはない。北朝に隋が登場すると、高句麗と百済とはいち早く朝貢して冊封を受けた。高祖文帝が即位した開皇元年(581年)のうちに、百済の威徳王は上開府・儀同三司・帯方郡公となり、高句麗の平原王は大将軍・遼東郡公となっている。両国は、じつは南朝の陳国にも朝貢していた。しかし倭国はそれまで通り南朝に臣従し、北朝の隋には朝貢しなかった。

 中華帝国へ朝貢し冊封を受けるという支配構図が、南朝と北朝とに二分されていた時代は、北朝の隋が、開皇9年、南朝の陳を平定することによって終わりを告げる。南朝の王宮や太宰府ばかりでなく、王墓も寺院も破壊された。

 統一隋への対応は、百済と高句麗とでは対照的であった。百済はまた直ちに奉賀の遣使をしたので、文帝はこれを「善」とし、年別の入貢はしなくてもよいとの詔を下した。これに対し、隋の侵略を恐れた高句麗は、兵力を蓄え防戦の準備を始めたのである。そこで文帝は査察の使者を送った。今日でも大国はこうした査察を繰り返している。隋の査察団は、空の館で厳重に防守され、何も見聞する事ができなかったという。文帝は陰に悪事があると疑い、これを諫める国書を送り、忠誠をつくさないならば将軍を派遣すると脅した。国力を蓄えた隋は、やがて高句麗や突厥など、周辺諸国の攻略に全力をあげるようになる。

 倭国は南朝に臣下の礼をとってきたから、新興の隋にどう対処するのか、外交上最大の問題となっていたと思われるが、もちろん日本書紀には何の記載もない。倭国が代々南朝に朝貢し臣従してきたことなども日本書紀では無視される。それは筑紫の歴史であって、大和の歴史ではなかっただけのことである。

 たとえば、南朝劉宋の昇明2年(478年)、「倭国王武」は順帝に遣使上表して「ひそかに自ら開府・儀同三司を仮し」と述べている(宋書)。日本書紀に出てこないこの倭王は、大和の王ではなく筑紫の倭王であった。順帝は武王を「使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」に除した。つまり倭王は大将軍となり、都督府を開いたことが追認された。この都督府が後の太宰府である。 倭王武の上表文にはまた「渡って海の北を平らぐこと九十五国」とあるから、半島の南も平定したのである。武王が支配下にあると主張した七国には百済も含まれていた。しかし宋ではすでに百済王を「鎮東大将軍」としていたので、順帝はその百済を除いて、倭王武を「六国の安東大将軍」としたのであった。その六国のなかには新羅が入っている。やがて新羅も自立を求めて北朝の斉に朝貢し、世祖武成帝の河清4年(564年)、新羅王は使持節・東夷校尉・楽浪郡公となった(北史)。新羅の隋への朝貢はやや遅れて、開皇14年(594年)に、新羅王は上開府・楽浪郡公となっている。

 高句麗では、平原王のあとを嗣いだ嬰陽王もまた隋の冊封をうける。しかしやがて高句麗は一万余騎で遼河の西に攻め入る(598年)。これが営州総管に撃退されると、待っていたかのように、隋の高祖文帝は水陸三十万の軍を送って一挙に高句麗を平定しようとした。ところがこれが失敗に終わった。高句麗は強かったのである。



倭国最初の遣隋使(600年)

 高句麗が隋軍を撃退した二年後の開皇20年(600年)、 倭国は初めて隋に使節を遣った。これも日本書紀には記載がない。筑紫の倭王は、遣隋使を出したものの、朝鮮三国のような冊封関係を結ぼうとはしなかった。倭国は三国とは違う外交路線を持っていたのである。隋書によると、新羅と百済はみな「倭を大国と為し、これを敬仰し、恒に通使往来」していた。日本書紀には両国からの朝貢が随所に記載されているが、これは大和へのものではなく、筑紫の倭王へのものだったのである。それは宋の安東大将軍、斉の鎮東大将軍、梁の征東将軍など、南朝に代々認められてきた地位を示すものであろう。その南朝を滅ぼしたのが隋である。隋の高祖文帝に遣使した倭王には朝鮮三国とは違った想いがあった。それは次の煬帝の時になってはっきりする。

 隋書によると、大業3年(607年)、全盛期を迎えた煬帝に「日出処天子から日没処天子へ」の国書が届いたのである。これを覧て煬帝は悦ばず「蛮夷の書は無礼だ、もう以聞するな」と鴻臚卿に命じる。そして翌年、煬帝は文林郎の裴世清を派遣して倭王を「宣諭」した。しかしこれが成功しなかった。対等外交を挑んだ日出処天子には、日没処天子に臣従するつもりは無かったのである。同じ年、琉求国も煬帝の「慰諭」を受けるがこれに従わなかった。すると都をせめられ宮室を焚かれ、男女数千人を連れ去られている。臣従しなければ、やがてどのような事態になるのかは明白であった。

 中国の東北では、再び遼西に進出した高句麗と隋とが激突した。しかし、煬帝みずからの高句麗遠征は三年連続失敗に終わる。隋に臣下の礼をとらなかった倭王はその対隋外交に自信を深めたことであろう。中国はすでに「天下大乱」の状況になっていた。大業13年、突厥攻略を任されていた煬帝の従兄弟、唐の李淵がクーデターを起こし、煬帝の孫を即位させ、煬帝を太上皇として敬遠した。翌年、南へ逃げた煬帝が配下の者に惨殺されると、李淵は禅譲を受けて即位し唐朝をたてた(618年)。

 高祖李淵が隋末からの天下大乱の収拾に成功すると、周辺諸国への外圧はより強力なものとなって、歴史はまた繰り返した。高句麗は高祖即位の翌年、武徳2年に遣使した。武徳4年には高句麗のほか新羅と百済の三国が朝貢した。武徳5年、高祖は「恭膺宝命」で始まる国書を高句麗の栄留王に送って臣従を求め、また隋との戦争で大量に発生した分散家族の交換を提案した。送り返された華人は万の数にたっし、高祖を「大喜」させている。武徳7年、三国はあいつぎ冊封をうけ、高句麗王は上柱国・遼東郡王となり、新羅王は柱国・楽浪郡王、百済王は帯方郡王となった。しかし倭国は、またしても、なかなか遣使しなかった。

 高祖を継いだ太宗は、国内を平定し終えると東突厥を攻め、頡利可汗を生け捕りにした。その地を分って六州となし、やがて頡利を宥して右衞大将軍としている。北狄が治まれば次は東夷である。突厥の敗北を聞くと、高句麗の栄留王は太宗に奉賀の使をおくる(628年)。隋が南朝の陳を平定したときの対応とは大違いである。しかし太宗は貞観五年(631年)、広州都督府の司馬・長孫師を派遣して、高句麗が隋の戦死者の遺骸を埋めて戦勝記念碑としていた「京観」を毀させた。唐の攻伐を懼れた栄留王は、今の長春付近から遼東半島の山脈に沿って海岸にまで及ぶ、完成に16年もかかった長城を建設しはじめる。




倭国最初の遣唐使(631年)

 倭国の太宗への遣使は、唐と高句麗の間が再び緊張したこの貞観5年のことである。しかしそれもまた冊封を求めるものではなかった。隋との対等外交政策は、唐に対しても継続されたのである。太宗は、道が遠いのだから歳ごとに貢がなくてもよいとは言いながら、新州刺史の高表仁を派遣して倭王を「宣撫」した。ところが、これがまたもや失敗に終わる。高表仁には「遠くを綏める才が無く」、臣従をめぐって「王子と礼を争い」、朝命を宣べることができずに還った(旧唐書倭国伝)。やはりあの「無礼」な倭国だったのである。

 その後しばらく倭国は遣唐使を出さなかった。貞観22年(648年)に「倭国奉表」の記事がみえるが、これは新羅の使節に託して起居を通じただけのものだった。高宗の代となって、永徽5年12月(654年)、倭国は大きな琥珀と碼碯を献じた(旧唐書本紀)。これが最後の倭国との国交記載である。長期にわたる外交空白で、倭国は東アジア情勢の把握に遅れをとることになったであろう。

 西戎北狄から天可汗と呼ばれた太宗は、配下の突厥の将に唐の官職を与えて近衛軍とし、西域の攻略に力をいれた。タリム盆地に出て吐谷渾を従え(635年)、高昌(トルファン)を滅ぼして西州とし安西都護府を置いた(640年)。さらに焉耆を征して安西都護府を移した(644年)。こうして西域が治まると次は東夷である。

 はたして貞観19年春(645年)、太宗は水軍四萬、歩騎六萬を率いて高句麗を攻め、隋の煬帝にならって遼河を渡った。しかし苦戦が続いて、安市城を抜くことができず、冬になって引き返す。太宗は、翌々年もまたその翌年も自ら兵を率いて攻めるが、みな失敗に終わった。そして四度目の遠征を計画中に太宗は亡くなってしまう(649年)。臣下の礼をとらなかった倭王は、またまたその外交政策に確信を深めたものかも知れない。 たしかに歴史は繰り返したのであるが、三十年前とは違って天下大乱とはならなかった。武徳律令に続く貞観律令のもとで内国政治は安定しており、経済復興は軌道に乗り、唐は国力を蓄えていた。長らく唐へ遣使しなかった倭国は、力関係の変化を認識できなかったものと思われる。かつて高句麗の広開土王(好太王)を苦しめ、やがては安東大将軍に任じられたような、極東における倭国の相対的優位性はすでに無くなっていたのである。

 太宗が亡くなると西突厥が乱れるが、高宗はかえって大規模な征討軍をおこして亀茲(クチャ)を制し、安西都護府をさらに西へと移した(658年)。唐帝国はかつてないほどの版図を築きあげていた。東夷への外圧は強まりこそすれ弱まることはなかったのである。



反唐枢軸の形成と新羅のひとり勝ち

 半島の情勢にも変化があった。高句麗では、長城建設を監督していた蓋蘇文が謀反して栄留王を弑逆、群臣多数を殺害し、王の弟の子に王位を継がせたて高蔵王(宝臧王、史記)とした (642年)。この弑逆が太宗には遠征の口実となったのであるが、その唐軍を撃退した高句麗は、こんどは新羅への圧迫をさらに強めるようになる。 百済では武王のあとを嗣いだ義慈王が新羅を攻めて、八十年ぶりに伽耶地方(任那)を取り戻した(642年)。新羅では女王善徳のときであったが、百済と高句麗の結託した攻撃を受け、唐に出兵を要請した。太宗は高句麗に使いを遣り諭すが蓋蘇文は聞き入れなかった。

 そこで新羅の金春秋、後の武烈王は、太宗の支援を求めて渡唐することになる。貞観22年に「倭国奉表」を託された新羅使とは、唐の支援を求めた金春秋だったのである。金春秋は三代前の真智王の孫で、善徳、真徳と続いた女王を助け、積極的な外交を展開した。伽耶を取られたときには支援を求めて高句麗に行き、一時捕らえられたこともある。また訪唐の前年、金春秋は日本に滞在して連帯の道を探っている。

 太宗は金春秋を厚遇し「特進」(正二品)の地位を与えた。大唐の支援を確かなものにした金春秋は、その子文王を太宗の許に残して帰国する。金春秋は唐朝の情勢把握が正確なことに驚いたことであろう。隋書には「新羅と百済は倭を大国と為し恒に通使往来」と書かれていた。隋書の成立は貞観10年だから、太宗が派遣した高表仁が倭王宣撫に失敗したころの編集なのである。金春秋は唐朝が日本をどのように書いたかを読んだばかりではなく、その隋書の撰者でもある重臣魏徴から、日出処天子の「無礼」の意味するところをよくよく言い聞かされたであろう。西域が片付けば、次は東方である。

 金春秋が帰国すると、新羅では中国の衣冠をつけるようになる。太宗の御史に咎められた独自の元号も取りやめ、高宗の永徽元年(650年)からは、その唐の元号を使っている。倭国にも元号があって、よく知られているのは「白鳳」であるが、これは日本書紀には出てこないから、筑紫の元号だったのである。そのほか、法隆寺②の釈迦三尊像光背銘にある「法興」が周知の元号である。

 新羅から筑紫に調税を持ってきた使が、唐服を着ているのをみて追い返したという記事が孝徳紀にみえる(651年)。そのとき巨勢大臣が、いま新羅を伐たなければ必ず後悔すると言っているが、やがてそれが現実のものとなる。永徽5年春3月(654年)、新羅では武烈王が即位し、6月には高宗から最高位の開府儀同三司を与えられた。

 こうして、百済と高句麗と倭国の三国が唐の侵略と対決する枢軸を形成し、東はじの新羅は唐と結ぶという交叉した関係ができあがった。すでに倭国では山城や水城が築かれていた。高句麗が隋唐軍の猛攻に耐えることができたのは、その山城が堅固だったからである。平壌の大成山城の遺構を見学すると、その雄大さに驚かされる。日本書紀は、白村江の敗北の後になって、大和の政権が筑紫の山城や水城を築いたかのように書いているが、それでは遅すぎる。敗戦後には進駐軍が来ている。そんなときに軍備増強などとは、作り話なのである。

 高句麗と百済とは連合して武烈王の新羅を攻めた。すると武烈王はただちに唐に援軍を求める。唐の高宗はまず百済に占領地を返すよう書を送り、他方では高句麗を攻めて牽制した。武烈王の6年、百済がしきりに国境を犯すと、ふたたび高宗に出兵を求める。その翌年、準備を整えた高宗はいよいよ百済平定に乗り出す。

 病弱の高宗は太宗とは違って自ら親征することはなかった。顕慶5年夏(660年)、西突厥を平定して戻った左武衛大将軍の蘇定方を大総管とし、水陸13萬の兵を百済に送った。新羅王も唐軍の総管として5萬の兵でこれを迎え、ともに百済を平定した。百済の義慈王と太子隆などの王族と、群臣将軍58人が京師に送られた。また万余の百姓が連れ去られたという。あっけなくも反唐枢軸は分断されたのである。唐軍が、古都(現、扶余)にある定林寺の五重の石塔に刻した「大唐平百済国碑銘」がいまも残っている。

 唐軍はその年末から高句麗を攻め、翌年もまた翌々年も攻めるが、これはいずれも成功しなかった。高句麗はやはり強かったのである。しかしさすがに疲弊の度を強め、何度も援軍を求めてきたことが日本書紀には記されている。これはもちろん、大和ではなく、筑紫への要請である。

 倭王の戦略は、無謀と言うべきか、朝鮮出兵であった。現代で言えば、アメリカ合衆国に宣戦布告するようなものであっただろう。百済の再興を図った日本軍は、白村の江で完敗する。「四戦皆捷」と旧唐書は記している(662年)。その舟四百艘が炎上し海も赤くなったという。「倭衆」は皆降伏し、倭王薩野馬も囚われの身となった。残るは高句麗だけとなって、不落を誇った平壌もついに陥落した(668年)。こうして朝鮮半島では新羅がひとり勝ちすることとなった。



唐帝国による戦後処理

 唐は百済を平定すると、五つの都督府を置き、唐に協力した酋を各地の都督にしている。旧都の熊津には唐軍の鎮将が駐在した。劉仁軌は熊津の鎮守であった。この百済府城が唐軍の対日工作基地となる。

 唐は白村の江の勝利の後、百済から幾度となく二千人規模の進駐軍を筑紫に送って戦後処理や戦後改革に当たらせた。先ずは武装解除であるから、水城や山城が破壊され、王墓までもが辱めを受けたに違いない。今日、まともな形で残っている王墓がひとつもないのは、その破壊のせいであろう。

 進駐軍は筑紫の太宰府を元どおりに都督府と改称した。後に薩野馬が戻されたのは筑紫都督としてであった。太宰府とは中国南朝の都にあった天子の総理府のことである。したがって、筑紫の都督府を太宰府と改称することができたのは、南朝の陳が滅ぼされたからである。日出処天子を自称した倭王が、都督府を太宰府と改め、隋に使いを送った。しかしその積極外交はやがて唐との戦争にまでなり、白村の江での敗北後、太宰府はまたもとの筑紫都督府に戻されたということになる。それが再び太宰府と呼ばれるようになるのは唐の影響から自立した後のことになろう。

 唐が、強大な高句麗を平定したときには、九つの都督府と、それを統括する安東都護府を王都平壌に置いた。戦功のあった酋を各地の都督とし、都護府は唐の将軍が鎮守した。のちに新羅が強勢になり、百済の伎伐浦の戦いで敗北すると(676年)、唐は安東都護府を遼東の新城(現、撫順)に移し、そこに高蔵王を遼東州都督として戻した。しかし高蔵王はすぐ靺鞨と通じ謀反したので、また召還されたりしている。

 百済の場合は五つ、高句麗の場合は九つの都督府が置かれたが、倭国の場合には筑紫都督府ひとつである。かつて南朝時代には安東大将軍の首府であったが、いまや一都督府にすぎない。これが倭国の現実的評価であった。 唐軍が撤退したあとの朝鮮半島は新羅が統一するところとなる。唐は百済にあった対日工作基地を失うことになった。薩野馬帰還の五年後には、倭国に対する唐の直接的支配は遠のいたのである。唐書は失敗した対日工作については何も記していないが、こうした東アジア情勢の変化の中で、敗戦後の倭国の混乱とその収拾について、日本書紀を解読してゆくことが必要である。



筑紫の倭王は、 (天皇)

隋書によると、筑紫の倭王の姓は「阿毎」で、「阿輩雞弥」と号したという。「阿毎」とは万葉仮名でも「アメ」と読み、「天」のことである。「阿輩雞弥」の読みについては、大正6年に太宰府の天満宮で発見された唐の翰苑(蛮夷部)の写しに、「阿輩雞弥」とは漢語では「天児」のことだとの解説がある。つまり阿輩が天で、雞弥はキミである。アメのキミは、続けるとアマキミと発音される。アメがアマと変わるのを、阿毎(アメ)と阿輩(アマ)とで書き分けたのである。輩の声字である非(p)と、麻(m)とは、ともに唇音で発音部位は相同であり、古くは相通した。例えば韓非子にある「縻」の字を、史記や太平御覧などが引いて、「排」と書いている③。これは非と麻の両声字の語音関係が密切だったからである。したがって、こうした音理からは勿論、隋書の使用情況から看ても、輩を「マ」に当てたと見ることができる④。つまり阿輩雞弥の読みはアマキミなのである。

 だたし筑紫では、アマキミを阿輩雞弥などと書いたりはしなかった。アメのキミは、天の皇と書いた。天皇と書いても、筑紫では音読みしたりはせず、アマキミと読んだのである。

 唐の太宗が服従を迫って倭国に派遣した使節への返書には「東天皇敬白西皇帝」と書いた。やがてその唐と戦って降伏した筑紫君薩野馬とは、筑紫の天皇(アマキミ)だったのである。そうすると、大和の中大兄は筑紫の天皇(アマキミ)不在中に、都を太宰府から近江の大津に移し、自ら天皇(アマキミ)の位を襲ったのである。大和が日本の主権者になったのは神武天皇のときからではなく、大和に天命が降りた天智天皇の時からである。それ以前の天皇号は遡っておくられたものだということになる。

 中大兄の即位には、白村江の敗戦から六年が経っていた。遷都と即位には大反対があったに違いない。「天下の百姓、遷都することを願わず、諷諫する者多く、童謡(わざうた) もおおく、日日夜夜、失火のところが多かった」と、日本書紀が記しているほどである。しかし大和の勢いには勝てなかった。備中国風土記には、中大兄は百済救済のために二万の軍を集めながら、母親が亡くなったので「終に此の軍を遣らなかった」とある。白村の江に出兵しなかったとすれば、大和勢は力を温存していた。しかしそこへ天皇(アマキミ)の薩野馬が、唐軍とともに帰国したのである。力関係は逆転しなかったのであろうか。



唐帝国の対日工作

 唐帝国は、筑紫のアマキミを再教育して戻す予定だったから、大和による政権奪取、新しいアマキミの誕生を自然承認するはずはなかった。三国史記をみると当時の様子を知ることができる。天智即位の年、新羅の文武王には、唐軍がさかんに船を修理しているとの情報が入ってくる。唐軍は、表向きは倭国を征伐するためと言っているが、その実は新羅を攻撃するものではないかと文武王は疑った(新羅本紀)。しかしうわさどおり、翌年になって唐軍は郭務悰ら「二千余人」を倭国に送り、三度目の筑紫進駐をする。倭国からはまた遣唐使が送られた。戦後処理をめぐって折衝が続いたのである。

 唐が新羅の協力で高句麗を平定したとの情報が入ってきたのは、天智即位の年の10月であった。唐にとっての高句麗平定は、新羅にとっては半島統一への前進でもある。9月に新羅使が来たとき、天智天皇は文武王と金庾信に船を贈っているが、11月にもまた文武王に絹や綿などを贈った。このように大和と新羅とはしばしば使節を往来させ、情報交換するようになっている。大和勢は百済に渡らなかったから、新羅とは戦っていなかったのである。あるいは大和と新羅との親交は戦争前からのものであったのかもしれない。

 唐に協力した新羅王国も、雞林州都督府を置かれ、主権を奪われた後では、しだいに唐との対立を深めており、三国史記も文武王法敏の嘆きを記している。「ああ、百済高句麗両国がまだ平定されなかったころは、新羅は唐の指示どおりに走りまわりました。いまや、野獣が討伐されてしまうと、新羅は唐に料理されようとしています」⑤。

文武王は高句麗王の嗣子安勝を支配下に置いて唐軍と戦い、また百済にいる唐軍を攻めた。筑紫へ進駐したこともある百済禰軍や司馬法聰などは新羅軍に捕らえられている。これは唐軍の対日工作の日程を狂わせたであろう。しかし唐軍の方針は変わらなかった。天智天皇即位4年1月(671年)、唐使李守真が筑紫に来て7月帰国する。そしていよいよ実力による最後の切り札の登場となる。11月、筑紫君薩野馬を連れて唐使郭務悰ら「二千人」が船四七隻で、四度目の筑紫進駐をする。この軍勢は、前回と同じであるが、本来はもっと大勢のはずだった。しかしひと月前に、唐の「戦艦七十余艘」は、新羅と戦って負けてしまい、郎将鉗耳大侯は捕虜となっていた。それでも唐軍の筑紫進駐方針に揺るぎはなかったのである。



アマキミ薩野馬は大海人(アマ)

 筑紫の天皇(アマキミ)薩野馬を帰還させた進駐軍と、大和の天智天皇との武力衝突かという緊迫した事態となって、12月3日、あろうことか天智天皇が急死したと日本書紀は記すのである。病死だとしているが、これが力関係の逆転した状況下での死であることには違いない。その翌年には壬申の乱となる。天智天皇の子、大友皇子もあえない最期を遂げ、その「頭」が大海人のもとに捧げられたという。そして大海人が天皇(アマキミ)の位に即いて天武天皇となった。

 そうすると、いったいこの大海人とは何者なのであろうか。日本書紀では、天武天皇は幼いころの名を大海人と言い、中大兄の同母弟であると書いている。しかし天智紀をみてもその大海人の名は出てこない。大海人は、いつどこで生まれたのかもわからず、何歳で亡くなったかもわからない記述となっている。しかも、日本書紀を選上したのが、大海人の子、舎人親王だというのだから、本質的なことが隠されているのは疑いない。

 中大兄と大海人とが血を分けた兄と弟であるとするのが、まったくもって疑わしいことは、日本書紀からもよく読み取れる。中大兄は長女ほか四人の娘を大海人に差し出しているのである。なんとしても大海人の子がほしいのであろう。

 大海人に嫁いだ中大兄の長女が生んだ大津皇子は、筑紫の那の大津(現、博多)で出生したという。次女の生んだ草壁皇子も同じく那の大津の生まれである。なんのことはない、大海人は筑紫に居たのである。そして大海人の「海人」の読みは、アマキミの「アマ」と同じである。大海人とは帰還したアマキミ薩野馬のことではないのか。薩野馬には唐軍の後援があって、天智天皇とその子、大友皇子を滅ぼし、天武天皇として復活したのではないのか。そうした疑念が沸き起こるのは避けがたい。

 最近、この大海人こそ帰国した薩野馬だと看破したのは矢吹邦彦である⑥。そうであれば確かに幾多の疑問が霧散する。そこで、大海人ことアマキミ薩野馬が天武天皇として復活したのだとすれば、それが何歳のときであったのか、またその父や祖父は誰であったのか、中国側の史料とつき合わせて推測してみることにしよう。

 唐使高表仁(632年)と「礼を争った」という倭国の王子こそ薩野馬ではなかったかと考えて見ることができる。服従を拒否して唐使を追い返した王子が、その30年後に白村江で唐と戦うことになったのである。礼を争ったときが20歳だと仮定すれば、囚われの身となったのは50歳である。筑紫に戻されて壬申の乱となり、復権を遂げたときが60歳である。天智天皇は46歳で亡くなったから、薩野馬のほうが、ひとまわりは年上であったことになろう。天武15年(686年)に没したとき薩野馬は75歳であった。 隋に臣従しなかった日出処天子は、唐と戦った薩野馬の祖父であろう。天皇(アマキミ)と号した日出処天子は上宮王とも呼ばれ、上宮法皇となって法興32年(622年)に登遐した。そのとき孫の薩野馬は10歳ほどだったであろう。最初の遣隋使は、法興10年のことである。隋書に、その名を「利」と記された太子が、薩野馬の父だったということになる。



中大兄系の復活と大和朝廷の確立

 唐軍の後援で復活した薩野馬の政権であってみれば、薩野馬は大和ではなく、筑紫の都督府にいたかと考えてみることもできる。日本書紀では、大海人は壬申の乱に勝利して、筑紫ではなく大和の飛鳥浄御原宮で即位したことになっているが、これも疑わしいものである。薩野馬は筑紫都督として戻されたのであった。独裁的親政として、天武紀が書かれているのは、大和勢に支えられた政権ではなかったからであろう。しかし唐軍の直接的支援は、百済から唐軍が撤退(676年)することによって遠のく状況となったに違いない。再び筑紫と大和との力関係が危うくなることが予想される。

 薩野馬(大海人)が亡くなった後の権力闘 争にはすさまじいものがあったであろう。日本書紀によれば、大海人には十人の皇子と七人の皇女があった。しかし誰一人、皇位を継承するものがいなかったことになっている。

 まず、薩野馬と中大兄の長女大田皇女との間に生まれた大津皇子が死を賜った。次いで中大兄の次女との間に生まれた草壁皇子が亡くなる。薩野馬の皇子で生まれた年がはっきりしているのはこの草壁で、薩野馬が白村江の戦いに出かける年(662年)に生まれたという。そのとき中大兄は36歳だから、その長女も次女もまだ十代であっただろう。大津皇子は、おそらく草壁よりも先に生まれた。同じく那の大津で生まれているが、大津の名は長女の子のほうに付いている。草壁よりも後の生まれであれば、薩野馬の子ではなくなってしまいかねない。

 四年が経過してようやく、中大兄の次女がアマキミの位に即いて持統天皇になったと日本書紀は記す。そのとき太政大臣となったのが、薩野馬の皇子では最年長の高市皇子であった。胸形君徳善の娘との間に生まれた皇子で、母方の胸形(宗像)の名からして、筑紫の出である。あるいはすでにこの高市皇子が筑紫では皇位に即いていたのかもしれないが、ともかくも、筑紫勢と大和勢との間になんらかの妥協が成立したであろう。 注目すべきは、持統天皇が即位した年に、唐に抑留されていた大伴博麻が帰国したことである(690年)。博麻は筑紫出身の重臣で、アマキミ薩野馬とともに囚われの身となったが、三十年近くもたってから帰国を許されたのである。持統天皇はその忠節をほめて厚く表彰しているが、もしかして、唐朝が大和との妥協を認めたものかもしれない。 持統天皇が即位して六年後に、筑紫勢の代表であった高市皇子が没する(696年)。するとその翌年、持統天皇は亡くなったわが子草壁皇子の子、軽皇子に位を譲る。そして日本書紀の記述はそこで終わっている。

 この軽皇子の母親は中大兄の第四女であった。つまり、中大兄の次女の息子が、中大兄の第四女を后として生まれたのが軽皇子である。軽皇子は薩野馬と持統の孫でもあるが、中大兄の孫でもあった。その軽皇子が持統女帝の後を継いで、15歳で文武天皇となった。こうして、壬申の乱で失脚した大和の中大兄の血統が復活したことを告げて日本書紀の最終巻は閉じられている。

 その文武天皇が25歳の若さで亡くなると、その母親が、つまり中大兄の第四女が即位して元明天皇となる。こうして大和朝廷は確立していった⑦。



大和朝廷の最初の遣唐使(702年)

 持統天皇即位の翌年、18氏に「祖等の墓記」を提出させたと日本書紀は記している。諸氏の系図の再編成をはかったものであろう。今日残っている系図などが、こうした改編を経たものなのは疑いがない。

 ついで新政権は、太宰府にも勝る都の営造にとりかかる。それまでの大和には、宮はあっても、太宰府のような都城はなかったのである。新しい都の名は藤原京である。持統即位の翌々年、藤原宮の地鎮祭をして、二年後に遷都したという。 文武天皇の5年(701年)、初めて年号をもうけて大宝とした。そして大和政権としては最初の遣唐使を出すこととなった。大宝2年6月、遣唐使粟田真人が出発する(続日本紀)。旧唐書は倭国伝のほかに日本国伝を立ててこれを記している。もとは小国であったが「倭国の地を併せた」という新政権からの使者「大臣朝臣真人」の来貢を、旧唐書本紀も、即天武后の長安2年10月(702年)、「日本国遣使貢方物」と記している。こうして大和朝廷は、倭国に代わる日本国として大唐に承認されたのである。

 日本書紀は、天皇をアマキミではなく、スメラミコトと読ませる。ただし大和朝廷は、唐帝への国書には天皇の文字は使わず、このスメラミコトを「主明楽美御徳」と書いて国書を作成した。これは中国側の記録から判明する。両国の国書のやりとりのうち、ただひとつ玄宗皇帝の開元24年(736年)の勅書の記録が中国側に残されており、それには「勅日本国王主明楽美御徳」と書かれている(唐丞相曲江張先生文集)。日本からの国書にもそのように書かれていたのである。唐帝にたいして「日本国天皇」と書き送ることができなかったのは、唐帝が高宗以来、天皇と号するようになっていたからである。唐朝は「主明楽美御徳」を国王の氏名と理解して勅書を下賜したものだという(西嶋定生『倭国の出現』東京大学出版会、平成11年)。




① 彼こそ九州王朝の王であるとしたのは古田武彦のいわば発見であった(『失われた九州王朝』角川文庫、昭和五四年)。

② 現法隆寺は670年に全焼した法隆寺の跡地に建っているが、焼け跡からは現法隆寺とはまったく違う伽藍が発掘された(石田茂作、1939年)。現五重塔の中心柱の年輪から、その伐採年が594年と判明した(光谷拓実、2002年)。現法隆寺は南朝尺で営造された南朝様式の建築で、倭王(日出処天子)が筑紫で創建した。移築される前の本来の名は法興寺であろう(拙著『法隆寺のものさし』ミネルヴァ書房、平成16年2月)。

③ 『韓非子』説難第十二、「大意無所拂忤、辞言無所繋縻、然後極聘知辯焉」(宋呉氏復刻乾道本)。『史記』列伝第三老子韓非子伝、「大忠無所拂悟、辞言無所撃排、逎後申其辯知焉」(清同治九年張文虎刊金陵書局本)。史記列伝は、明治書院、新釈漢文大系88、史記8、水沢利忠訳、平成2年。韓非子説難は、明治書院、新釈漢文大系11、韓非子上、竹内照夫訳、昭和35年。但し、竹内は底本の「繋縻」を「撃摩」と改めている。

④ 中国社会科学院歴史研究所の趙平安のご教示によれば「輩,上古属微部幇母; 麻、ミなのである。

 属歌部明母,同唇音,発音部位相同。輩従非声,摩従麻声,非麻兩声字古有相通之例,如《韓非子・説難》:辞言無所繋縻。《史記・老子韓非列伝》、《太平御覧》巻462引縻作排,説明非、麻兩声字語音関係密切。因此,無論従音理,還是使用情況看,輩都有読為麻、摩的可能性。」

⑤ 井上秀雄訳『三国史記』(東洋文庫、昭和55年)による。新羅本紀、文武王11年、 唐将薛仁貴あての書簡で「嗚呼両国未定平蒙指蹤之駆馳野獣今盡反見烹宰之侵逼」と、当時の心境を生々しく伝えている。ところが、朝鮮の三国史記などは「でき栄えは甚だ粗末なものであり、何らの生気も光彩もない」と貶すのは、日本書紀が自慢の津田左右吉で、「霄攘の差」(天と地の差)があるとまで言っている。(全集第二巻付録「三国史記の新羅本紀について」岩波書店、昭和64年)。「歴史の捏造」については、三国史記と日本書紀とでは、それこそ天と地ほどの差があると言うべきだろう。

⑥ 矢吹邦彦『吉備発日本の古代史は変わる』明徳出版社、平成16年6月。

⑦ 被葬者が特定できる天皇陵は天武・持統合葬墓とされる桧隈大内陵(野口王墓山古墳)からで、それ以前の天皇陵は、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と謳った憲法制定にあわせて、明治政府が取り急ぎ定めたものがほとんどである。 






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