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ほんとうに太宰府は、九州王朝「倭国」の都(みやこ)だったのか


古賀達也氏は 自身のブログ「古賀達也の洛中洛外日記:大宰府」の中で、
太宰府条坊と倭国王宮域(内裏・政庁)の変遷を次のように記載する。




2010年 1月 24日 発行

第218話2009/08/02
太宰府条坊の中心領域

 7月の関西例会で伊東さんが紹介された、太宰府条坊と政庁の中心軸はずれているという井上信正氏(太宰府市教育委員会)の調査研究は衝撃的でした。そのずれの事実から、政庁(2期)や観世音寺よりも条坊の方が先に完成していたという指摘も重要でした。すなわち、現都府楼跡の政庁は条坊が完成したとき(七世紀初頭、九州年号の「倭京」年間と思われる。)にはまだ無く、条坊都市に当然存在したはずの中心領域、すなわち九州王朝の王宮は別にあったことになるからです。

 この点に関しても、井上氏は重要な指摘をされています。それは条坊右郭中央にある通古賀地区に注目され、同地域の小字扇屋敷王城神社がある付近からは比較的古い遺物が集中して出土しており、この地区が条坊創建時の中心領域と推定されています。

 しかも、この扇屋敷を中心とする領域は、小規模ながら藤原宮を中心とする大和三山・飛鳥川の配置とよく似ており、同じ風水思想による都市設計ではないかとされています。すなわち、扇屋敷の北には小丘陵(小字東蓮寺)があり、東には古代寺院般若寺から伸びる丘陵地が、南には南東から北西に流れる鷺田川があるのです。

 これを九州王朝説から考察すれば、七世紀初頭の条坊都市の中心領域は通古賀地区であり、ここに九州王朝の宮殿が造られたと考えることが可能です。しかも、「王城神社」という名称も注目されます。更には、井上氏も指摘されていますが、この扇屋敷の中心軸の丁度南のライン上に基山山頂があることも、この地域が重要地点であったことを感じさせるのです。

 まだ研究途中ですが、七世初頭の九州王朝は太宰府に条坊都市を造り、その中心として通古賀地区扇屋敷に宮殿を造ったという仮説は有力のように思われます。そして、もしこの仮説が正しければ、太宰府を先行例として藤原宮・藤原京は太宰府条坊都市と同じ設計思想で造られたことになり、この視点から新たな問題が惹起されてくるのです。




第219話 2009/08/09
観世音寺創建瓦「老司1式」の論理

 太宰府条坊と政庁・観世音寺の中心軸はずれており、政庁や観世音寺よりも条坊が先行して構築されたという井上信正氏(太宰府市教育委員会)の調査研究を知るまで、わたしは条坊都市太宰府は政庁(九州王朝天子の宮殿)を中心軸として7世紀初頭(九州年号の倭京年間618〜623)に成立したと考えていました。すなわち、条坊と政庁は同時期の建設と見ていたのでした。

 しかし、この仮説には避けがたい難題がありました。それは観世音寺の創建時期との整合性です。観世音寺は、『二中歴』年代歴に白鳳年間(661〜683)とする記述「観世音寺を東院が造る」があること、更に創建瓦の老司1式が藤原宮のものよりも古く、むしろ川原寺と同時期とする考古学的編年から、その創建時期を7世紀中頃としていました。その結果、条坊都市太宰府ができてから、観世音寺が創建されるまで20〜40年の差があり、その間、政庁の東にある観世音寺の寺域が「更地」だったこととなり、ありえないことではないかもしれませんが、何とも気持ちの悪い問題点としてわたしの脳裏に残っていたのです。

 ところが、井上氏の研究のように、条坊が先で政庁と観世音寺が後なら、この問題は生じません。およそ次のような順序で太宰府は成立したことになるからです。

 通古賀地区の宮域を中心とした条坊都市が7世紀初頭に成立。次いで7世紀中頃に条坊の北東部に観世音寺が創建され、その後に政庁(第2期)が完成。

 もちろん、これはまだ検討途中の仮説ですが、この場合、条坊の右郭中央部にあった宮域が、後に北部中心部に新設されたことになり、「天子は南面」するという思想に基づいて、宮域の新設移動が行われたのではないでしょうか。

 このように、井上氏の研究は、九州王朝の首都太宰府の建都と変遷を考察する上で大変有益なものなのですが、大和朝廷一元史観側にすると、とんでもない大問題が発生します。それは、藤原宮に先行するとされる老司1式の創建瓦を持つ観世音寺よりも太宰府条坊は古いということになり、日本最初の条坊都市は通説の藤原京ではなく太宰府ということに論理的必然的になってしまうからです。

 九州王朝説からすれば、これは当然の帰結ですが、九州王朝を認めたくない一元史観(日本古代史学界・考古学界)からすれば、とんでもない話しなのです。大和朝廷のお膝元の藤原京よりも早く、九州太宰府に条坊都市ができたことになるのですから。

このように通説にとって致命的な「毒」を含んでいる井上氏の研究が、これから一元史観の学界の中でどのように遇されるのか興味津々といったところです。



第220話 2009/08/10
条坊都市太宰府と前期難波宮

 九州王朝の首都太宰府に対して、前期難波宮を九州王朝の副都とする仮説をわたしは提案していますが、実はこの仮説にも弱点がありました。それは、礎石を持つ瓦葺きの太宰府政庁(2期)に対して、その後(九州年号の白雉元年、652年)に造られたとした前期難波宮が朝堂院様式の大規模な宮殿でありながら堀立柱で板葺きであるという点でした。これは宮殿様式の発展から見て、ちょっとアンバランスかなという思いがあったのです。

 しかしこの問題も井上氏の研究成果により発展解消できそうなのです。新たな仮説によれば、九州王朝の宮殿様式の発展が次のような順序になるからです。まず、7世紀初頭(九州王朝の倭京元年、618年)に、通古賀地区の字扇屋敷を宮域とする初期太宰府の宮殿、仮に同地にある王城神社にちなんで「王城」宮と呼んでおきますが、この「王城」宮を中心とする条坊都市初期太宰府が建都され、九州年号の白雉元年(652年)に前期難波宮(朝堂院様式・堀立柱)を副都として創設、その後に太宰府政庁(2期、朝堂院様式・礎石造り)が新設されるという順序です。

 これですと、最も新しい王宮となる太宰府政庁(2期)が朝堂院様式と礎石を持っていることになり、前期難波宮がまだ礎石造りでないこととうまく整合するのです。なお、初期太宰府の「王城」宮がどのような様式であったかは不明ですが、この発展史からすれば、掘立柱の板葺きであった可能性が大です。今後の考古学的調査の結果や研究を待ちたいと思います。

さらにこの宮殿発展史にはもう一つの視点が重要です。それは、条坊都市中の宮殿の位置です。



第221話 2009/08/11
条坊と宮域

 古代日本における王都や王宮は、それぞれ目的や設計思想に基づいて造られていますが、中でも代表的な様式として、『周礼』考工記に基づく正方形の条坊都市の中央に王宮があるタイプと、「天子は南面する」という思想に基づく条坊都市中央北部に王宮があるタイプが著名です。なお、後者を古田先生は「北朝様式」とされています。

 今回、井上氏の研究成果に基づいて提案した九州王朝の宮殿の変遷をこの様式から見ますと、初期太宰府の「王城」宮は『周礼』様式、前期難波宮は「天子南面」様式、そして太宰府政庁(2期)は「天子南面」様式となり、九州王朝は前期難波宮から「天子南面」様式という設計思想を採用したことになります(ただし、前期難波宮は条坊が無かったようです)。すなわち、九州王朝は七世紀中頃から「天子南面」思想を、その副都に採用したことになるのです。その事情についてはこれからの研究課題ですが、重要で興味深いテーマです。

 九州王朝に対して、大和朝廷の王都を見ますと、大和朝廷にとって最初の条坊都市である藤原京(新益京)は『周礼』様式で、平城京からは「天子南面」様式となります。これも九州王朝との関係で考察する必要がありそうですが、特に藤原京完成時はまだ九州王朝が健在なので、太宰府政庁(2期)や前期難波宮と同じ「天子南面」様式の採用を憚ったのではないでしょうか。

 実は藤原京の宮域については、一旦造った条坊と側溝を埋め立てて宮域にしたということが発掘調査でわかっており、初めから条坊と同時に宮域ができたのではないのです。これは、もしかすると藤原宮の建築にあたって、条坊区画のどの部分を宮域にするのか、九州王朝に遠慮してなかなか決められなかった痕跡かもしれませんね。



第229話 2009/10/10
太宰府の内裏

 先日、木村賢司さん(古田史学の会会員)の釣り小屋「大湖望」に行ってきました。古田史学の会林間雑論会などが開催されている、関西の会員の間では有名な所です。大湖望からは琵琶湖を一望でき、木村さんご自慢の別荘です。

  その日は、木村さんに預かってもらっていた丸山晋司さんからいただいた書籍を受け取りに行ったのですが、その書籍の中に『歴史を訪ねて 筑紫路大宰府』田中政喜著(昭和46年、青雲書房刊)の一冊があり、そこに次のような興味深い記述がありました。

 「蔵司の丘陵の北、大宰府庁の西北に今日内裏(だいり)という地名でよんでいるが、ここが帥や大弐の館のあったところといわれ、この台地には今日 八幡宮(坂本神社) があって、附近には相当広い範囲に布目瓦や土器、青磁の破片が散乱している。」同書33頁

 この記述通りとすれば、大宰府政庁跡の北西で、蔵司(くらのつかさ)の北側に内裏とよばれる地があったとのことですが、従来は大宰府政庁の北部に字地名「大裏」があり、ここが九州王朝の天子の居住地「内裏」だと想定していたのです。しかし、そことは別の場所にも「内裏」地名があるということに、わたしにはピンとくるものがありました。

 というのも、大宰府政庁第2期遺構を7世紀段階における九州王朝の天子の宮殿とするわたしの説に対して、伊東義彰さん(古田史学の会会計監査)より、天子の居住区としての内裏にしては狭すぎるという鋭い反論が、関西例会で出されていたからです。確かに、前期難波宮や藤原宮などと比較しても、大宰府政庁跡は規模が小さく、政治の場所と居住区の両方が併存していたとするには、伊東さんの指摘通り、ちょっと苦しいかなという思いがあったのでした。  そうしたこともあって、政治の場所は大宰府政庁跡で、居住区は通古賀(とおのこ

が)地区ではなかったかなどとも考えていたのですが、そのようなときに『歴史を訪ねて 筑紫路大宰府』の記述を読んだのです。現段階では一つのアイデアに過ぎませんが、この蔵司丘陵の北部に位置する「内裏」地名こそが、九州王朝天子の「内裏」がそこにあった痕跡ではないでしょうか。考古学調査報告や現在でも同地が「内裏」と呼ばれているのかを調べなければと考えています。ご当地の方の御教示を賜れば幸いです。



第232話 2009/10/26
太宰府の蔵司(くらのつかさ)

第229話「太宰府の内裏」で紹介しました『歴史を訪ねて 筑紫路大宰府』田中政喜著に記されている、大宰府の蔵司(くらのつかさ)の北側にある「内裏」地名について御教示を乞うたところ、早速、福岡市の上城誠さん(古田史学の会・全国世話人)から当地の字地名を記した地図がファックスで届きました。こうした素早い対応は本当に有り難い限りですし、全国組織の強みでもあります。その地図によれば、大宰府政庁跡の字地名は「大裏」とされ、問題の蔵司の北側は、残念ながら字地名が記されていませんでした。

 上城さんからは更に福岡県教委と九州歴史資料館による蔵司調査のニュース記事(2009/10/22)も送られてきましたので、インターネットで関連記事を検索したところ、蔵司の建物跡が奈良時代平安時代において九州最大規模の建物であり、奈良の正倉院よりも大きいという内容でした。いずれの記事もこのことを「特筆大書」していたのですが、正直に申して「なんで今頃大騒ぎするのだろう」とわたしは思いました。

 既に鏡山猛氏が『大宰府都城の研究』において、正倉院よりも古く大規模な建築物が存在していたとする調査結果を発表されており、古田先生も『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社刊、昭和54年)で、そのことを紹介され、大和朝廷の正倉院よりも古く大規模な倉庫群が太宰府にあったことは九州王朝存在の証拠であるとされていたからです。

 いずれにしても、蔵司遺跡が注目され発掘調査されることは大歓迎です。ここでも九州王朝の痕跡が一段と明かとなることでしょう。わたしも蔵司には引き続き注目していきたいと思います。

   参照: 太宰府・蔵司の礎石建物跡、正倉院上回る規模




 






さて一方、 『 建築から古代を解く : 米田良三著 』 の80頁には、次のように記載されている。



『二中暦』の「白鳳」と東院

 観世音寺東院の記録は、今ひとつの文書に存在している。鎌倉時代末期の『二中暦』である。701年の大宝に始まる大和朝廷の連続した年号とは異なる、「九州年号」と呼ばれる一連の年号が記されている。その白鳳の項は次のように記されている。


   『白鳳二十三年・辛酉・対馬銀採・観世音寺東院造』


 白鳳という年号は23年続いたこと、その元年は辛酉であることが記されている。そして対馬に銀が採れ、観世音寺の『東院』が造られたとしるされている。

 さきの東院の考察からすると、辛酉は650年から672年の間にあり、この記録は事実をつたえているものと思われる。つまり、観世音寺の東院の創建(完成)は辛酉(661年)と特定できそうである。しかしこの対馬に銀が採れ、観世音寺の東院が造られたの記録は、どのような意味があってここにしるされているのであろうか。何故この事実が記されているのか。



台座裏の墨書銘

 ふたたび法隆寺にもどろう。現在、昭和資材帳を作成する作業がおこなわれている。その調査で、釈迦三尊像の台座内側から墨書銘がみつかっている。鳥と魚などの絵とともに、「相見了陵面楽識心陵了時者」の12の文字が書かれていた(図23)。

 この銘を、稲岡耕二東大教授は「陵面に相まみえよ、識心が陵にとどまるを願う時は」と読み、「死者の心が墓のなかでしずまるように陵の正面で供養しなさい」の大意で解読できるとし、墨書の周辺には、ガチョウ風の鳥とサメに似た魚、それに五輪塔の絵が描かれてるとみた。

 また古田武彦氏は、魚の絵は中国の「山海経」にかかれている、魚身でありながら人面の「陵魚」であるとし、釈迦三尊像光背銘にしるされた、一日違いで亡くなった「上宮法皇」と「王后」夫妻を、「王后」を「陵魚」に、「上宮法皇」を鳥になぞらえた絵であるとし、墨書を「陵面に相見る。識信を楽しみ陵り了る。時は・・・・・・」 と読んでいる。

 薬師像の台座内側には、橘夫人念持仏厨子に安置される阿弥陀三尊像の後ろに立つ、屏風の中の天女と同じイメージの天女が墨で描かれていることは前著で述べた。

 当時は仏像の体内とか物の裏に、祈願の文や絵を入れたり書いたりする習慣があったと考えられるのである。そのような習慣があったことを前提とすると、銘文は「陵面に相見、識心(上宮法皇と干食王后)は陵了の時を楽しむ」と、斯くあれと願う祈願の文と読める。そして干食王后「陵魚」に、上宮法皇を鳳凰になぞらえたと考えたい。

 このように理解したとき、さきの『二中歴』の白鳳の記事はどのように読めるであろうか。

 山上億良の銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも」の白金(銀)が対馬から採れたことと、鳳になぞらえた上宮王のための観世音寺東院が完成したことを祝って、白鳳の年号が付けられたことを示していると考えられる。つまり、白鳳という年号の使用年数と、元年の干支と年号の由来がしるされている。観世音寺と東院の成り立ちに加えて、この白鳳の記録があり、『東院』伽藍の創建は661年となろう。

 ちなみに『二中歴』は、九州年号の最初に「継体」を付け加え、最後の「大和・大長」の代わりに『日本書紀』が記す「大化」を用いてカムフラージュした文書と考えている。倭国で用いられた年号を書き残すことと、少なくとも白鳳の命名の由来を伝えることを意図したと考えるがいかがであろう。




 




以上を踏まえ私の考えについてひとこと、


 遣隋使の第一回派遣が 隋の開皇20年(600年)に俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥によってなされ、以降、隋との交渉の過程で太宰府都城も東晋・宋・斉・梁・陳の南朝様式から、(南朝・陳を589年滅ぼし北朝・隋が中国を再統一した)隋の北朝様式へあわただしく変えられたものと考える。

 わざわざ、『倭京』と改元したのは、北朝様式の「天子は南面する」という思想に基づき北部中央に王宮のある条坊都市・太宰府都城への改造成就記念であろう。


『倭京(=蔵司内裏・政庁)』と『法興寺(=観世音寺の前身)の西院』は618年(法興元28年:倭京元年)同時に完成している。


 皮肉なことに、その北朝様式の『倭京』と『法興寺』が完成した618年に、隋は滅亡したことになる。



 太宰府条坊と政庁・観世音寺の中心軸はずれており、政庁や観世音寺よりも条坊が先行して構築されたということならば、太宰府条坊はそれ以前に南朝様式で完成してたということになり、例えば九州年号『定居』611年とかも考えられよう。


 つまるところ『二中歴』の『白鳳二十三年・辛酉・対馬銀採・観世音寺東院造』の 「観世音寺東院造」 の字句を、


「古賀達也の洛中洛外日記」のように「観世音寺東院造る」と読むのではなく、

●建築から古代を解く(米田良三著)のように「観世音寺東院造られた」と読みたい、




 そして、私は観世音寺の前身が法興寺であるとも考えるので、

 (『二中歴』が書かれた後代においても法興寺名を表記するのが憚れたか、一般受けする観世音寺と表記したか)

 この文意は「白鳳元年(661年)法興寺に『東院』が別区・増築された」と解釈している。


 奈良朝になって三十三間堂を除く法興寺の大半が、法隆寺へそっくり移築されたので、今は法隆寺の『東院』として『西院』とは別区・存在しているものと考える。





なお、古賀達也氏は「法隆寺移築論の史料批判」─観世音寺移築説の限界─の末尾細注で、これにふれ、


《4 『二中歴』には「白鳳」下の細注に「対馬銀採観世音寺東院造」とあり、この文を、当初わたしは「観世音寺の東院を造る」という意味に解していたが、『二中歴』表記ルールによれば「東院という人物が観世音寺を造った」と理解すべきであることを古田武彦氏より御教示いただいた。その根拠として、「倭京」の細注に「二年難波天王寺聖徳造」という記事があり、これは「倭京二年(六一九)に難波の天王寺を聖徳が造る」という意味である。》


「東院」を「東院という人物名」に解しておられるが、果たして、

「東院」を「東院という建物名」に解することはできないのだろうか。



「聖徳」の場合は「聖徳太子」の例もあり人物名と解せるが、「東院」の場合人物名・建物名いずれにも解せるとしても人物名の具体例は見当たらないのでは、と思うのだが、また、『二中歴』が書かれた後代の時点でそのような厳格な表記ルールがあったかどうか。

 そもそも、この『二中歴』の「白鳳」下の細注はどうして書き込まれたか、思うに、九州元号はその時々の帝・王・天皇が即位・退位したか、宮・都城が造作・廃棄された かに限って改元されている模様だ。然るに、「白鳳」の場合はそれと違って改元されたということだろう。やはり、法興王の「あの世の宮・都城」である「東院」という建物が造られたからと解釈したほうが良いようだ。





さらにまた、古賀達也氏は上記「条坊都市太宰府と前期難波宮」の項で、


 前期難波宮(九州年号の白雉元年、652年)を九州王朝の副都とする仮説の提案に弱点があるとして、「造られた前期難波宮が朝堂院様式の大規模な宮殿でありながら堀立柱で板葺きである」という点で、これは宮殿様式の発展から見て、ちょっとアンバランス。


と書かれている。


 九州倭国のどこから移築されたかはともかくも、法隆寺は礎石構造ですが、五重塔の芯柱が594年伐採で618年には完成したといわれています。ということは最低この時点で礎石構造の建築技術は達成してたということであり、「前期難波宮(九州年号の白雉元年、652年)が朝堂院様式の大規模な宮殿でありながら堀立柱で板葺きである」ということは、全く別の理由であったと考えます。

 ひとつには、前期難波宮の建築は飛鳥・葛城『秦国』に近く、この協力もあって完成したのであって、当時の飛鳥・葛城『秦国』の技術が「堀立柱で板葺き」であったというだけでしょう。白村江の戦いまで残すところ10年と言う時点での副都建設でしょうから。





 これから更には、南朝形式の内裏(だいり)があったと想定される
通古賀(とおのこが)地区・小字扇屋敷(王城神社)付近一帯、
 及び、北朝形式の内裏があったと想定される大宰府政庁の西北・蔵司の丘陵の北、
今日も小字内裏(坂本神社)付近一帯の遺跡発掘調査が急がれよう。


 私もわくわくして遺跡発掘調査の経過・顛末を見守りたい。
ここ10年で、確かに、なにかが見えてきたのじゃーないだろうか。








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