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観世音寺の古絵図は、何故か京都の「三十三間堂(=大房)」を描く。


九州王朝「倭国」法興寺の東院と、西院を奈良の法隆寺へ移築し、その跡地に観世音寺を造った。
その証拠に、現在も観世音寺に残る古絵図には移築前の「三十三間堂(=大房)」が描かれている。


1999年 2月 11日 初掲載




 左の挿絵は、米田良三著「法隆寺は移築された」に紹介の写しで、 現在の観世音寺に残る一幅の古絵図である。
絵図の奥に描かれている横長の建物が現在は移築されて京都に建つ三十三間堂(=大房)である。

 さらに絵図の右奥には、「能舞台」とおぼしき絵が描かれている、 当時すでに『筑紫舞』『延年の舞』などの能が演じられていたのでしょう、また、寺の最前列には鳥居が描かれている、当時の宗教観がおもしろい。

 それにしても、現在の『観世音寺』はみすぼらしい。あたりは枯れた霊気にあふれ、かすかに残る礎石がその領域を語る。形ばかりの小さな講堂の両脇には、焼失前の建物の1mを超える丸い基礎がむき出しのまま放置されている。

 さて、その礎石の上には、九州王朝委国の造ったその前身のA観世音寺(=法興寺)がのっていたのか、奈良朝が造ったB観世音寺がのっていたのか・・・・・・
 わたしは思うに、米田良三氏が「法隆寺は移築された」を著わした時点で、『観世音寺の前身が法興寺である』と迄は、とても踏み込めなかったのでしょう。

 九州王朝委国の造った『法興寺(=観世音寺の前身)』を奈良の『法隆寺』へ移築した後、何故、奈良朝は跡地に古絵図の示す観世音寺を再建したのでしょうね。
 九州倭国の他の多くの寺社仏閣が奈良へ移築後、廃寺に捨て置かれたにも 関わらずです、それは倭国と日本国をつなぐ特別な何かでしょうか。とまれ、今現在、我々はその遺跡が目の前に現存してるだけで感謝すべきか・・・。







 最近わたしは、『法隆寺移築論争の考察:故飯田満麿著』の「礎石基礎形状変更の可能性 」 即ち、
〔「法興寺⇒法隆寺移築⇒跡地に1ランク下の観世音寺建造」は技術的にも可能だ〕 にそって、

《 ◎ 「観世音寺」の前身は、「法興寺」だった 》 と考えます。



 ではなぜか、その前に先ず、その経過をたどってみよう。

1.九州倭国の上宮法皇(=多利思北弧)が、大宰府・都府楼の脇に法興寺を新築します
  (618年:法興元28年:倭京元年頃完成)
  法興寺は、金堂・講堂・五重塔・三十三間堂(=大房)が一式の構成だった。

  その後更に、夢殿・伝法堂も法興寺の東隣に建てられます(東院の完成661年:白鳳元年)。
  (一式だったわけは著書を読んでれば分かりますよね、
   33・44の数遊びのできた大工だったってね、44は五重塔上段基壇)

2.白村江の戦い(663年)の敗戦后九州倭国が列島の主権を失い弱体化・滅亡に瀕するに伴い、
  奈良の日本国は法興寺の金堂・講堂・五重塔を、奈良の再建・法隆寺として移築します。
  (西院伽藍完成710年)

    このとき三十三間堂(=大房)のみをなぜか残しています、これも著書読んでればわかりますが、
  奈良朝の阿弥陀信仰の禁止により奈良へ運ばなかったと分かります。      

3.その後ポツンと残った三十三間堂(=大房)の前方跡地に、金堂・講堂・五重塔の礎石規模を
  2等材から3等材へ縮小して再建
します。 (参照: 故飯田満麿氏『法隆寺移築論争の考察:仮説の提示』
  同時に法興寺は実在してなかったとするために、「観世音寺」(746年完成)と改名・命名します。

4.更に時代が下って平忠盛と大江匡房・大宰府長官が図って、
  阿弥陀信仰の禁止のほとぼりがさめた京都へ、三十三間堂(=大房)を単独で移築します。
  (得長寿院造立1132年)平忠盛はその功により朝廷への登殿を許されます。

5.更に時代が下って残った金堂・講堂・五重塔が戦火で焼失します。

6.跡地に今あるちんけな金堂・講堂を作ります。

お寺の名称を比べてみよう
   法興寺:九州委国での名前(観世音寺の前身)
   法隆寺:移築後の奈良大和王朝での名前
    ( 興 ):動詞①はじめる②勢いを盛んにさせる③あることを楽しむ
    ( 隆 ):形容詞①低くない②盛り上がってる③豊かに大きい
 動詞と形容詞の違いか・・・・

  大宰府・観世音寺に伝わる古絵図の最奥には、どう見ても三十三間堂(=大房)と思われる横長の建物が描かれており、奈良朝が観世音寺を作ったことが明らかですが、この最奥の三十三間堂(=大房)については、奈良朝が阿弥陀信仰禁止の張本人であり、張本人自身が造るはずもなく、九州倭国が造ったものでしょう。

  また、この観世音寺古絵図には中門が「桁行五間・梁間三間・正面に二本の柱」が描かれており、
現法隆寺の中門の「桁行四間・梁間三間・入口の中央に柱」とは明らかに違う。

 古絵図の描く寺が、九州王朝委国の造ったその前身のA観世音寺(=法興寺)であるか、奈良朝が造ったB観世音寺であるか、といえば、この絵図は明らかにB観世音寺であるといえましょう。

 古絵図に三十三間堂(=大房)が描かれていることで、B観世音寺は奈良朝が新地(さらち)に新築したのでなく、その前身のA観世音寺(=法興寺)が建っていたことが分かります。
(注:この絵図の最奥に三十三間堂(=大房)が描かれていることは、川端俊一郎氏『法隆寺のものさし-南朝尺の「材と分」による造営そして移築』と、大越邦生氏『法隆寺は観世音寺の移築か(その1)(その2)』には触れられていない)

 なお、阿弥陀信仰については米田良三著『逆賊磐井は国父倭薈だ』第6章P181以降に詳しいので参照されたい。

 要するに、奈良朝は『九州倭国の法興寺を法隆寺へ移築し、その跡地に観世音寺を造作した』と考えます。

 ところで、法興寺とはそもそも何者か?、調べると飛鳥寺の別名説・元興寺の移築前の名前説とがあるが確固たるものではないようだ。
 なんと言っても有力なのは九州王朝倭国の元号説でしょう、(二中歴による)九州年号のなかの別系列『法興元説』であろう。

<α>主幹系列
 ① 端政(589~593)、② 告貴(594~600)、③ 願転(601~604)、④ 光元(605~610)、
 ⑤ 定居(611~617)、⑥ 倭京(618~622)、⑦ 仁王(623~634)

<β>別系列(四年号)
 ① 端正(589~590)、② 始哭(589~590)、③ 始大(589~590)、法興(591~622)

古田武彦氏の「両京制」の成立-九州王朝の都域と年号論-に詳しい説明がなされている。

 以上見てきたように、法隆寺への移築前が九州倭国の法興寺だとした時、法隆寺の本尊・釈迦尊像の光背銘に法興元31年云々と金石分が刻されているわけが誰の目にもすんなりと受け入れられましょう。
  さらに、観世音寺は着工後完成が延び延びになったと伝えられますが、自慢の法興寺を奈良へ持ち去られ、更に格下の観世音寺の再建に地元住民が喜ばなかったためでしょう。

追記:観世音寺古絵図に戻りますが、この絵図の三十三間堂(=大房)と講堂の間に四ツの蔵とおぼしき建物が描かれています。これも法興寺時代のもので、観世音寺に引き継がれたものと考えます。東大寺をしのぐと言われた、書籍・蔵書の類がびっしり納められていたと思います、果たしてどこへ引き継がれたか・・・・・・・







 

 さて、法隆寺が九州王朝「倭国」の都大宰府の観世音寺から移築されたという、米田良三氏の「法隆寺太宰府観世音寺移築説」に対し、川端俊一郎氏『法隆寺のものさし-南朝尺の「材と分」による造営そして移築』と大越邦生氏『法隆寺は観世音寺の移築か(その1)(その2)』の3編の異説が発表されています。

(参照:観世音寺は法隆寺の移築元ではない)


 表にすると、以下のようになります。 要するに観世音寺に残されている礎石の位置関係からそれにのってる建物の規模が、あきらかにワンランク下であったと考えられるわけですね。


符号


指摘項目


法隆寺


観世音寺


01


中門


桁行四間、梁間三間、入口の中央に柱


桁行五間、梁間三間、正面に二本の柱


02


金堂・五重塔


裳階あり


裳階なし


03


五重塔礎石


21.6尺


19.5尺


04


金堂基壇礎石


18.5×15m


16×10m


05


講堂遺構礎石


16.5m


15.3m


06


「材」と「分」


二等材


三等材









 上記礎石の位置状況の違いを踏まえ、
故飯田満麿氏(2009年1月10日逝去・享年75歳)は 法隆寺移築論争の考察の中で要約次のように言ってます。

 『奇しくも川端・大越両氏の論文はその骨子に於いて共通し、且つ観世音寺説否定の重要な論拠として、現観世音寺の礎石の状態を列挙されている。嘗て筆者は「平城京・東院復元工事」に施工側の責任者として従事した経験を持つが、その際の見聞と建築技術者としての常識から、古代建築の基礎構造を考えるとき、必ずしも両氏の論証が成立しない可能性を感ずるので、その論旨を開陳し両氏の論拠の適否判断の資料に供したいと思う。」

 本論に入る前に理解を容易にする目的で我が国古建築の基礎構造の変遷について略述する。

 古建築の基礎構造の変遷

 日本各地でほぼ日常的に行われている、遺跡調査で柱穴跡が発見されるのは常識の範疇に属し誰も驚かない。この事実が示す通り古代我が国の宗教施設、政庁等集会機能を持つ建物は地面に穴を穿ち柱を立て、それに屋根・壁を取り付ける掘っ建て柱構造であった。この様式は極めて手軽で有用であったが、多雨、高湿の我が国風土においては柱脚部の腐食を防ぐ手段が無く、特別な自然災害が無くても十~十五年の耐用しか無かった。今日伊勢皇大神宮の二十年毎の造営はその証明である。

 この欠点を補い更に荘重な殿舎を立てるため、大陸から輸入された当時の新工法が礎石基礎工法である。七世紀以降の我が国主要建築は総じてこの基礎を用いている。この工法は強固に据えられた礎石の上に柱を据えて、風圧・地震等は柱底面の摩擦抗力と瓦屋根で増した建物の自重で対抗する構造であった。その構造の性質上、柱脚を固定しないこの工法は地震国である我が国には不向きな構造で、事実多くの建物が巨大地震の犠牲に成って倒壊した。然るに今日尚法隆寺を始めとする数多くの古建築が現存するのは、礎石の下の版築基礎盤の為である。以下同工法に付いて知るところを記述する。

 礎石基礎の施工

 礎石基礎の建設には礎石直下の床盤が不可欠である。現在は問題なく鉄筋コンクリ-ト構造が採用されるが、当時の技術水準では勿論願うべきも無い事であり、何処ででも安価に入手出来る材料として粘土を用いた工法が採用された。まず建物設置場所の確定後表土を取り除き、建物基壇より周辺1m程度広げた範囲を地山まで掘削する。建物の規模によって其の深さは一定でないが一m ~二m で平坦にならし、粘土を全面に敷き均し手蛸等で人力突き固めを繰り返す。おおよそ三十cmの粘土層を十cmに突き固める要領で幾層にも積み重ね、強固な版築盤を形成する。この上に設計図に従い位置決めを行い割栗石を礎石の大きさに応じて敷き込み目砂を撒いて礎石を据える。全ての礎石を据え終わったら基壇の寸法に合わせて周りに型枠を組み立て、中に粘土を敷き込み前述の要領で基壇を形成する。基壇部分の版築構造は仕上げ材の腰石・敷石で保護されているので、建物が健在な内は変形変質は起こらないが、一端建物が失われると地上に露出しているため粘土は雨による劣化を直ちに招き基壇は原型を留めぬまでに流失する。今日飛鳥に存在する薬師寺跡の礎石の状況はこの証拠である。

(注-版築基礎盤の厚さについては推定値を用いた、今後ボ-リング等で確実な測定値が得られればそれに従う。)

 礎石基礎形状変更の可能性

 礎石構造が下部に強固な版築盤を用いている以上、この基礎盤が存在する限り基壇及び礎石の再構は可能である。但し版築は垂直方向には増築可能だが水平方向には増築出来ないので、旧建家より大規模なものは再構築出来ない。又、礎石の水平移動を行っても原材料が自然に産出される粘土又は土砂である限り、其の痕跡は数年で消失する。具体的に実例を挙げるならば、大越論文に示された「観世音寺境内実測図金堂基壇」の状態は第一次の建物が撤去された後、二次三次と建物がやや縮小されて再建された状況を如実に示すものである。

 結論

 以上の論拠から礎石の状況からは観世音寺移築説を完全に否定できない事を結論としたい。しかしながら観世音寺移築を証明する決定的物証を欠く今日の状況に鑑みれば、俄に結論を求められないが、現実に遺跡が存在する分観世音寺説7その他の説3の割合で米田説有利と判断する。しかし川端・大越両氏の卓論には啓発される点が多々あり、特に川端氏の日本書紀崇峻紀及び推古紀の法興寺記事の存在指摘には感銘を受けた、この論証に刺激を受けて一つの仮説に到達したので最後にそれを披露し終わりとしたい。

 仮説の提示

 上宮法王を称し自らを日出ずる処の天子と主張した多利思北孤は、その宮殿に接して壮大な寺院を営んだ。その名は法興寺であった。白村江の敗戦により倭国の内政外交を独占した天智天皇は、唐に対する最大の融和策として天子の象徴法興寺の撤去を思い立ちかつ実行した。この際東アジアに隠れもない名建築に対する尊敬のためか、人民大衆の素朴な信仰に対する配慮からか、焼却等の暴力に訴えることなく再建可能な方法で撤去し、跡地に名を替えて観世音寺の建立を命じた。「続日本紀」元明天皇和銅二年詔書の記事は其の証拠であり、名建築の存在に愛着した日本書紀編集者はさりげなく九州王朝史料から法興寺の記録を転載した。         二〇〇一年八月二五日 』







 米田良三著
『法隆寺は移築された』の39頁、「筑紫大宰府観世音寺研究の現状」項の内容を引用紹介しょう。

 『法隆寺西院伽藍はどこの建物が移築されたのであろうか。大和の地をはるかに離れた筑紫大宰府都城の観世音寺であると言ったら驚かれるであろう。それを証明する前に観世音寺研究の現状を述べたい。

 文献に観世音寺の名が見えるのは『続日本紀』701年が最初である。それ以前を知る手掛かりとなりうる資料は、かろうじて残る遺跡と、現在の観世音寺に残る菅原道真によって歌に歌われた鐘と、東京芸術大学に所蔵されている『延喜5年観世音寺資材帳』と、一枚の絵図である。

 この絵図について、鏡山猛氏は『大宰府遺跡』の中で次のように述べられている。

 観世音寺に古図が一幅あることはよく知られている。 この図には寺の主な建物が描かれ、現在の建物あるいはその跡から判断して相当の根拠を持った図と見える。ただ描かれた年代がはっきりしないが、戦前に前住職から次のような諸記録を見せて頂いたことがある。今まであまり紹介されていないのでここに記しておこう。

 『「絵図軸木の書付」 絵図幻世号(絵図共同人)、大宰府観世音寺絵図書写畢、時留守清建立畢、大永6年丙戊9月15日、天長地久御願円満寺内繁盛心中所求皆今満足如意吉祥也、承応3年9月18日、表具仕 福岡住橋本七兵衛』

 これによると古図は室町時代、大永6年(1526)に写されたもので、原図はこれよりも古く描かれたものであることがわかる。

 江戸時代、承応3年(1654)に表装した時に古い軸木を取り替えたものか、現在の軸木には記銘はない。








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