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【 法隆寺移築説の原点である観世音寺・考 : 米田良三 論 】

緊急お知らせです。ファンが、待ちに・待った(続編)
『続 法隆寺は移築された 「源氏物語」は筑紫が舞台だ:米田良三著』
が発行されました。


さて、どちらがシンメトリーか?






《 ご注意 》

 以下は〔AB&JC PRESS〕 の中にある、

◇ 『現代を解く・長谷寺考』(Solving the present age・Tinking about Hasedera)

 に記載の記事内容を、抜粋・一部加工・転載したものですので、悪しからずご了承ください。



 なお、とりわけ、古代「倭国」史上では、避けて通れない“非常に重大な事件”が、“隠蔽”されていますが、その“秘密”を、米田良三氏が、見事に解明してくれています。


 その“注目”の内容、

◆ 『632年、唐が倭国に遣わした冊封・刺史「高表仁」に対し、26歳の倭国・王子「弾正尹・為尊親王」が、「唐への冊封関係を拒否した事件」』 

 は、ここから、スキップします。

2011年 1月 21日 転載

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『法隆寺移築説の原点である観世音寺・考』



 観世音寺副住職・西南学院大学教授の高倉洋彰氏は『大宰府と観世音寺』(海鳥ブック)に「観世音寺の名は朱鳥元(686)年に初めてあらわれる」とされます。
 九州歴史資料館発行の『観世音寺』(2007年考察編)は、『続日本紀』の709年の記述内容を取り上げ、観世音寺年表の最初に「671年の天智天皇の建立発願」を挙げています。
 『七大寺年表』には「和銅元(708)年戊申、依詔造大宰府観世音寺、又作法隆寺」とあり、続いて大和朝廷の造筑紫観世音寺別当満誓・玄肪の派遣があり、天平十八(746)年に観世音寺は完成します。


 このように公式には671年以前に、観世音寺の名は無いとされています。
 しかし法隆寺移築説では、創建観世音寺は聖徳太子のモデルとなった日本(倭)国の上宮王が607年に創建したとします(倭国から日本国への改称は上宮王による)。
 671年以前の観世音寺の歴史事実を消すことは容易なのか、本当に完璧にそのように行われているのだろうか。





『 1.『二中歴』の観世音寺』


 鎌倉時代初期の成立とされる辞典『二中歴』に古い年号(九州年号)が記されています。


           二三 辛酉
       白鳳
           対馬採銀観世音寺東院造


 白鳳と言う年号は23年間続いたこと。白鳳元年は辛酉、661年であること。対馬で銀を採掘することを祝して、しろがねの白に。観世音寺の東院が造られ、上宮(じょうぐう)王像と千食(せんじき)王后像の居場所が定まったことを祝して、上宮王が自らを例えられた鳳(おおとり)に。合わせて白鳳としたとの記述。


 上宮王像は(現時点で存在する法隆寺の)東院伽藍の救世観音像であり、千食王后像は同じく百済観音像のことです。
 創建観世音寺の主仏である釈迦像(現法隆寺金堂薬師像)の脇侍であったのですが、新しく造られた釈迦三尊像(現法隆寺金堂)が観世音寺金堂に安置された623年に外され、この二体が置かれる正式な場所が無かったことを知る必要があります。
 東院伽藍の講堂に当たる伝法堂は住宅(聖武天皇夫人の橘夫人邸)を転用した建物という浅野清氏(法隆寺解体修理工事を中心となって行われた建築史研究者)の研究がありますが、上宮王と千食王后が生活した建物が転用された可能性が大きく、両人にとって東院伽藍以上に相応しい居場所はないわけです。
 また法隆寺昭和資財帳作成の調査で、上宮王をモデルにして造られた釈迦三尊像の台座内側に墨書銘が発見されています。
 顔を見合わせる鳳と陵魚が描かれ、「相見丂陵面楽識心陵了時者」と書かれています。
 光背銘には上宮王と千食王后が一日違いで亡くなったことが記されますが、亡くなった鳳である上宮王と陵魚である千食王后が、仲睦ましい時を過ごされるようにと祈願して書かれたものと思われます。
 この墨書銘と『二中歴』の記述とは、鳳が上宮王の譬えであることを前提とした表現となっていることを疑うことはできません。


 ところで拙著『法隆寺は移築された』(新泉社)の法隆寺は筑紫観世音寺が移築されたものとする考えに異を唱える方がおられます。
 法隆寺が移築された建物であるという説明は認めるが、観世音寺からではないと。
 実は法隆寺が移築された建物であることを認めるだけで、論理的に日本の歴史はひっくり返ってしまうのですが、そのことは別の機会に述べることにし、話を進めます。


 古賀達也氏は「法隆寺移築論の史料批判 ─観世音寺移築説の限界─」(古田史学会報)に次のように述べて、論を始められます。


 『二中歴』所収「年代歴」によれば、白鳳元年(六六一)に「観世音寺を東院が造る」とあり(注4)、この記事は観世音寺の創建年代を記す信頼できる唯一の史料といってもよい。


 この内容が正しいのであれば、私が法隆寺西院資財帳から導き出した観世音寺創建年607年は意味を成さなくなり、脱帽する以外にない。
 「観世音寺東院造」の私の読みは先に示したが、古賀氏が読まれる「観世音寺を東院が造る」が正しいかどうかを検討してみよう。(注4)として次の文を掲げておられます。


 『二中歴』には「白鳳」下の細注に「対馬採銀観世音寺東院造」とあり、この文を、当初わたしは「観世音寺の東院を造る」という意味に解していたが、『二中歴』表記ルールによれば「東院という人物が観世音寺を造った」と理解すべきであることを古田武彦氏より御教示いただいた。
 その根拠として、「倭京」の細注に「二年難波天王寺聖徳造」という記事があり、これは「倭京二年(六一九)に難波の天王寺を聖徳が造る」という意味である。


 古賀氏は私と同じ読み方をされていたのを古田武彦氏の教示により変更されたことが分かる。
 古田氏が言われる『二中歴』表記ルールはあるのだろうか。
 「倭京」の細注にある「二年難波天王寺聖徳造」という記事を「倭京二年(六一九)に難波の天王寺を聖徳が造る」と読むことに異論はない。
 聖徳は上宮王のまたの呼び名であった可能性も否定はできないが、法隆寺『西院資財帳』と同金堂薬師像光背銘に「607年に推古天皇と聖徳太子が法隆寺を造った」と上宮王の業績を書き換えたことからすると、『二中歴』執筆時に同じ路線上で書きかえられた可能性が大きい。
 平安末期から鎌倉時代にかけて聖徳太子信仰が盛んになったことからすると、聖徳(太子)が造るという表記は鎌倉時代初期の辞典にふさわしく、短いながら聖徳太子に関する時事記事となっている。
 一方の「対馬採銀観世音寺東院造」は「対馬で銀が採掘され、観世音寺を東院が造る」と、後半は「難波天王寺聖徳造」と同じ表記ルールの文として、読まれている。
 聖徳太子信仰から考えると、鎌倉時代初期の人々は聖徳太子が祀られる法隆寺東院の存在を知っていたことは疑えません。
 739年に行信が造営した法隆寺東院伽藍は上宮王院とも呼ばれており、観世音寺から移築されたことは口に出して言いはしないが、おそらく周知であり、観世音寺東院と言う言葉は法隆寺東院と共に理解されていたと考えます。
 さらに明らかなことは、鎌倉時代初期に聖徳(太子)同様に知られる東院と言う人物の存在を仮定しない限り、古田氏の考えは成り立たないことです。


 年号の細注の数字は年号が用いられた年数を示し、続く干支は年号元年の干支を示す表記ルールとなっていますが、記事の部分には表記ルールはないと判断したいがいかがなものでしようか。
 「観世音寺の東院が造られた」が正しい読みとしますと、「この記事は観世音寺の創建年代を記す信頼できる唯一の史料といってもよい」は誤りで、古賀達也氏の反論は成り立たなくなります。


 現在の大宰府都城に戻りますと、観世音寺の東隣の井戸遺構の中から「東院」と書かれたかわらけが発掘されていることはよく知られていますし、近年、観世音寺敷地内から「西院」と書かれたかわらけまで見つかっています。
 観世音寺が在って、東院伽藍が661年に造られ、本体を西院伽藍と呼ぶようになったことが推測できます。
 またもちろん法隆寺の西院伽藍・東院伽藍の名称は観世音寺から移ったことは間違いないところです。


 『法隆寺は移築された』で明らかにした事実と、第2作『建築から古代を解く』(新泉社)で明らかにした、観世音寺(西院伽藍)の北面堂である三十三間堂の千体仏の完成年と、奈良文化財研究所が発表した年輪年代法の成果 ―(法隆寺)五重塔の心柱の伐採年― を加えて、以下に年代順に並べてみます。


 史料の凡例は、〈銘〉:釈迦三尊像後背銘、〈奈〉:奈良文化財研究所、〈資〉:西院資財帳、〈報〉:法隆寺解体報告書、〈融〉:三国遺事、〈二〉:二中歴、〈紀〉:日本書紀です。

   591年―上宮王の治世始まる〈銘:釈迦三尊像後背銘〉
   594年―五重塔心柱の伐採年〈奈:奈良文化財研究所〉
   598年―上宮王講経→五十万代施入〈資:西院資財帳〉
   607年―観世音寺創建(建前状態)+釈迦像・上宮王像・千食王后像〈資:西院資財帳〉
   617年―ハレー彗星出現「六月肺出」の落書
                →五重塔仕上げ作業中〈報:法隆寺解体報告書〉
   618年―この頃観世音寺完成す〈報:法隆寺解体報告書〉・〈融:三国遺事〉
   622年―上宮王・千食王后死亡〈銘:釈迦三尊像後背銘〉
   623年―釈迦三尊像敬造請坐〈銘:釈迦三尊像後背銘〉→上宮王像・千食王后像を外す
   650年―三十三間堂の千体仏の完成〈紀:日本書紀です〉
   661年―観世音寺東院造→上宮王像・千食王后像安置〈二:二中歴〉

 これらは大宰府都城の観世音寺に関わる歴史事実です。





『 2.『源氏物語』の観世音寺』


 十一世紀初めの作品とされ、二年前に千年紀と騒がれた『源氏物語』を見てみます。


 物語の主人公である光源氏の関わった女性の一人に夕顔がいます。
 源氏十七歳の年、宿直(とのい)での談義“雨夜の品定め”に左大臣家の頭(とう)の中将が、添い通せないはかない女性と打ち明けます。
 玉蔓(たまかずら)を連れて雲隠れした夕顔を、その後、源氏は偶然に見つけ、通い詰めることになります。
 しばらくして、某(なにがし)の院に夕顔と女房右近(うこん)を連れ出すまでになっています。
 ところがその夜、物の怪に取りつかれたように、夕顔は突然に亡くなり、右近は源氏に匿(かくま)われることになります。
 夕顔と右近が雲隠れしたなか、玉蔓の乳母(めのと)の夫が大宰少弐に任官になり、二人を置いて筑紫に向けて出発します。玉蔓四歳の年です。


 時が流れ、少弐の任官が解けて帰ることになりますが、重病の床につき、亡くなってしまいます。
 その後も一族が住み続けたのは肥前の国松浦(まつら)でした。
 姫君にしかるべくお仕えするようにと言う少弐の遺言もあり、乳母は長男の豊後の介や妹らと、二十歳ぐらいになった玉蔓を連れて、京に上ります。
 九条に昔懇意にした人を探し出し、宿と定め、神仏こそがしかるべくお導き下さると長谷寺に詣でます。
 観音信仰が盛んであることを映しています。
 椿市に宿を取った玉蔓の一行は、先約の一行と泊まり合わせることになりますが、それは玉蔓の消息を気にして、長谷寺に度々詣でている右近の一行でした。
 再会の喜びの時間が過ぎ、御堂の初夜(そや)の勤行(ごんぎょう)に臨んだ時の一行の中の三條と右近の様子が原文(岩波文庫本)では次のように語られます。


 国々より、ゐなか人おほく詣でたりけり。
 この国の守(かみ)の北の方も、詣でたりけり。
 いかめしういきほひたるを羨(うらや)みて、この三條がいふやう、


 三條「大悲者(だいひさ)には、異事(ことごと)申さじ。
 あが姫ぎみを、大貮の北の方ならずば、當国の受領(ずりょう)の北の方になしたてまつり給へ。
 三條らも、随分に栄えて、かへり申しつかうまつらむ」 と、額に手をあてて、念じ入りてをり。
 右近、「いと、ゆゝしうもいふかな」と聞きて、


 右近「いと、いたうこそ、ゐなかびにけれな。
 中将殿のむかしの御おぼえだに、いかゞおはしましし。
 まいて今は、天の下を御心にかけ給へる大臣にて、いかばかりいつかしき御中に、御かたしも、受領の妻にて、品定まりておはしまさむよ」と、いへば、


 三條「あなかま、たまえ。大臣・公卿も、暫(しば)し待て。
 大貮の御舘(みたち)の上の、清水の御寺の、観世音寺に詣で給ひしいきほひは、帝の行幸(みゆき)にやは劣れる。
 あな、むくつけ」とて、なほ更に、手をひきはなたず、をがみ入りてをり。


 内容は以下です。


 この国の守の北の方が詣でた勢いを羨(うらや)んで、三條が長谷観音に姫君が受領の妻になることをお祈りするのを聞いて、右近は


 「まあ、ひどく田舎じみてしまったものね。
 姫君のお父君の中将さまは、あの頃でもどんな御身分柄だったというのでしょう。
 まして今は、天下のことをお心のままになさっておいでになる大臣で、これほど立派な方の御一族なのに、この姫君が受領の妻におなりになるなどということがあるものですか」(円地文子訳) と言うと、


 ここまでは三條と右近の話の流れが素直に理解できます。
 ところが次の三條の言葉は不可解です。


 「ああ、うるさい、何もおっしゃるな。
 大臣も何もしばらく待って下さい。
 大弐の御館(おやかた)の北の方が清水の御寺、観音寺にお詣(まい)りなさった時の勢いは、帝さまの行幸(ぎょうこう)にも負(ひ)けをとるどころではなかったのに。
 何も知らないで」(円地文子訳)


 円地文子は「観世音寺」では意味が通じないと判断したのか、「清水の御寺、観音寺」と京都の清水寺に差し替えています。
 それでも今で言えば、福岡県知事の奥さんの行動と天皇の行幸の様子を直接比較しており、不自然です。


 三條のこの言葉を与謝野晶子は次のように訳しています。


 「まあお待ちなさいよあなた。大臣様だって何だってだめですよ。
 大弐のお館(やかた)の奥様が清水(きよみず)の観世音寺へお参りになった時の御様子を御存知ですか、帝(みかど)様の行幸(みゆき)があれ以上のものとは思えません。
 あなたは思い切ったひどいことをお言いになりますね」


 「清水(きよみず)の観世音寺」と原文に忠実に訳していますが、やはり円地と同じ不自然さは残りますし、直前の右近が三條を非難した話とつながらず、意味不明と言わざるを得ません。


 観世音寺境内に建つ「清水記碑」は安永五年(1776年)筑前福岡藩士の加藤一純が建立したもので、以下のように書かれています。


 筑前国御笠郡観世音寺は清水山普門院といひける
  源氏物語玉葛巻にも、大弐のみたちのうへ乃 清水の御寺の観世音寺にと紫式部もかけり
  寺を清水の御寺といふなり
  さいふことも此寺のうしろに清水のわきいづるところあればなるべし
  この水いまにいたりてかわらず(以下略)


 碑文に書かれるように『源氏物語』には「観世音寺」と書かれていることは間違いありません。
 清水の御寺と言うのは、この寺の後ろに清水の湧き出るところがあるからと、筑紫の観世音寺のことだと念を押しています。
 おそらく円地文子は原文が理解しがたく、写本にあった書き込み(?)を採用したのではないだろうか。
 奈良の長谷寺での会話に九州の「観世音寺」が登場することは、動かし難い事実となる。
 そうするとますます以て、三條の言葉がどういう意味なのか不明と言わざるを得ません。


 もう一つ玉蔓の巻の筋書きの中に疑問があります。
 玉蔓の乳母の夫が太宰の少弐に任官して筑紫に下り、住まった場所が肥前の国の松浦(現唐津市辺)と語られます。
 現在の福岡県の副知事以上に当たる役職であり、大宰府辺の住まいでないとおかしいところです。
 しかし京に帰る段の、松浦からの早船の記述も筋書きの重要な部分を占めており、松浦でないと困るのである。


 『源氏物語』の研究で、このような疑問が発せられることがなかったのは不思議です。
 円地文子が「観世音寺」を消去した判断が何によるものなのかを知りたいところですが、『源氏物語』は単なるフィクションと言う認識から踏み出すことがなかったのかもしれません。


 ところで登場する〈筑紫〉が〈肥前国〉で、〈大宰大弐、大宰少弐〉が〈肥前国守、肥前国介〉であったならどうでしようか。平安時代ではなく、日本(倭)国の600年代、つまり『源氏物語』の舞台が京都ではなく、筑紫の京であったなら。


 二つ目の疑問であった玉蔓らの住まいが肥前国松浦であることは、肥前国介であれば当たり前で、疑問は解消します。
 問題は、筑紫の京から詣でた佐賀県佐賀市の隠国にあった長谷寺(『現代を解く・長谷寺考』AB&JC PRESS 発行・参照)での、右近に対する三條の言葉ですが、原文は次のようになります。


「あなかま、たまえ。
 大臣・公卿も、暫し待て。
 肥前国守の御舘の上の、清水の御寺の、観世音寺に詣で給ひしいきほひは、帝の行幸にやは劣れる。あな、むくつけ」


 「ああ、うるさい、何もおっしゃるな。
 大臣も何もしばらく待って下さい。
 肥前国守の舘の奥様が、」と言いだしたところで、別のことを思い出したのだ。


 「清水の御寺の、観世音寺に詣でになられた(頭の中将の)勢いは、(桐壺)帝の行幸に劣りませんでしたよ。
 ああ、何も知らないくせに」と、三條は雲隠れした右近に対して、自分は、頭の中将が観世音寺に詣でられた様子を見、さらに桐壺帝の行幸をも見ているのだと自負する。
 夕顔らが雲隠れした後、筑紫の京を離れる直前にそれらを見ていることになる。


 夕顔の巻の後、若紫の巻、末摘花の巻、紅葉賀の巻に「朱雀院への行幸」及び「紅葉賀」と記される盛大な儀式が行われている。
 儀式に参加することが決まった面々は、演奏や演舞の練習にも余念がない様子が語られ、女子が儀式に出席できないことから宮中における試楽も行われる。
 儀式当日には桐壺帝が行幸され、晴れの舞台に光源氏と頭の中将が青海波を舞う。
 頭の中将の勢いは帝にも劣らなかったことは間違いない。


 三條は右近に対して17年前のことを糺(ただ)しているのだ。
 思い出した紅葉賀の興奮を背後に持つ言い草と言うことになる。
 「朱雀院への行幸」はこれまで朱雀上皇への行幸と解釈されてきたが、筑紫の京の「観世音寺への行幸」だったことになる。
 『源氏物語』を平安時代に再登場させるには、京都に観世音寺が無いため、朱雀院と言葉を置きかえざるをえなかったのだ。
 桐壺帝に観世音寺への行幸を頂いて、取り行われた盛大な儀式を紅葉賀と呼んだことが分かる。


 『源氏物語』には三條の言葉の中に「清水の御寺の、観世音寺」と観世音寺が1回現れるのみだが、本来の『源氏物語』には朱雀院と置き替えられた、以下の記述、関連記述があったことになります。


 神無月に、観世音寺の行幸あるべし。
 舞(まひ)人など、やむごとなき家の子ども、上達部(かんだちめ)・殿上人どもなども、その方(かた)につきづきしきは、皆、選ばせ給へれば、親王(みこ)たち・大臣よりはじめて、とりどりの才(ざえ)ども習ひ給ふ、いとまなし。〔若紫〕


 頭中「しか、まかで侍るまゝなり。
観世音寺の行幸、今日なん、楽人・舞人定めらるべきよし、よべ、うけたまはりしを、「大臣にも伝へ申さむ」とてなん、まかで侍る。
 やがて、かへり参りぬべう侍り」〔末摘花〕


 行幸のことを、「興あり」と思ほして、君だちあつまりて、のたまひ、おのおの、舞ども習ひ給ふを、その頃のことにて、過ぎゆく。〔末摘花〕


 行幸近くなりて、試楽など、のゝしるころぞ、命婦はまゐれる。〔末摘花〕


 観世音寺の行幸は、神無月の十日あまりなり。
 世の常ならず、おもしろかるべき度のことなりければ、→試楽〔紅葉賀〕


 行幸には、親王たちなど、世の残る人なく、仕うまつり給へり。
 春宮もおはします。
 例の楽の舟ども、漕ぎめぐりて、唐土・高麗と尽くしたる舞ども、種おほかり。
 楽の声、鼓の音、世をひびかす。〔紅葉賀〕


 二月の廿日あまり、観世音寺に行幸あり。
 花盛りは、まだしき程なれど、三月は、故宮の御忌月なり。〔乙女〕


 今年は、男踏歌あり。
 内裏より観世音寺にまゐりて、つぎに、この院にまゐる。
 道のほど遠くて、夜あけ方になりにけり。〔初音〕


 観世音寺のきさいの宮の御方など、めぐりける程に、夜もやうやう明け行けば、〔初音〕


 その他、真木柱の巻、藤裏葉の巻、若菜の巻上にもありますが、省略します。

 また「清水の方」・「清水の観音」と観世音寺を愛称でも語っています。


 寺々の初夜も、皆、行ひはてて、いと、しめやかなり。
 清水の方ぞ、光多く見え、人のけはひも繁かりける。〔夕顔〕


 いと心あわたゞしければ、川の水にて手を洗ひて、清水の観音を念じたてまつりても、すべなく、思ひ惑ふ。〔夕顔〕


 「清水の観音」は607年に創建された観世音寺に安置された釈迦像の脇侍の千食王后像、後の百済観音を指していると思われます。
 桐壺帝の行幸の対象となる王室寺院としてあったのが観世音寺で、『源氏物語』の背景としての存在であることが分かります。


 では紅葉賀とは何なのかを考えてみましょう。
 過去の源氏研究により、源氏が何歳の時のことが書かれているかは知られています。

     18歳…………観世音寺・紅葉賀
     22歳…………桐壺帝の譲位
     32歳…………太政大臣、式部卿の死
     34歳…………観世音寺行幸
     53歳…………源氏死亡

 『日本書紀』の推古天皇条に、聖徳太子の死亡が次のように記されます。


 二十九(621)年春二月五日、夜半、聖徳太子は斑鳩に薨去された。
 このとき諸王・諸臣および天下の人民は、老いたものは愛児を失ったように悲しみ、塩や酢の味さえも分からぬ程であった。
 若き者は慈父慈母を失ったように、泣き叫ぶ声はちまたに溢れた。
 農夫は耕すことも休み、稲つく女は杵音もさせなかった。
 皆がいった。
 「日も月も光を失い、天地も崩れたようなものだ。
 これから誰を頼みにしたらよいのだろう」と。
 (宇治谷孟訳『日本書紀』講談社学術文庫)


 法隆寺金堂の釈迦三尊像光背銘に見るように、上宮王の死は千食王后の死の翌日ですが、『日本書紀』の記す聖徳太子の死は一人です。
 また上宮王の死は622年ですが、聖徳太子の死は621年と異なります。
 このように聖徳太子は上宮王とは別人だとする一方、「慈父慈母を失ったように」とあり、上宮王の記録が聖徳太子死亡記事に転用されていることは疑えません。
 この記録から上宮王と千食王后の死のショックは尋常でなかったことが伝わります。


 『源氏物語』では文学的表現として、上宮王の死を桐壺帝の譲位と置き換えたと想定してみました。
 当時の人々には、その表現の裏にある上宮王の死は伝わるわけで、フィクションと現実の乖離を読み進めたと推測できます。
 そして三十四歳の時の観世音寺行幸は現実の上宮王の十三回忌に当たります。
 源氏をはじめとする出席者が故院(上宮王)の子供であることや、この行幸が内内のことと述べられることとも合致します。
 その他も以下に示す年次の出来事(赤字)と捉える事が出来ます。


 史料の凡例は、〈銘〉:釈迦三尊像後背銘、〈奈〉:奈良文化財研究所、〈資〉:西院資財帳、〈報〉:法隆寺解体報告書、〈融〉:三国遺事、〈二〉:二中歴、〈紀〉:日本書紀です。

    591年―上宮王の治世始まる〈銘:釈迦三尊像後背銘〉
    594年―五重塔心柱の伐採年〈奈:奈良文化財研究所〉
    598年―上宮王講経→五十万代施入〈資:西院資財帳〉
    607年―観世音寺創建(建前状態)+釈迦像・上宮王像・千食王后像〈資:西院資財帳〉
    617年―ハレー彗星出現「六月肺出」落書
                 →五重塔仕上げ作業中〈報:法隆寺解体報告書〉
    618年―この頃観世音寺完成する〈報:法隆寺解体報告書〉・〈融:三国遺事〉
                 →紅葉賀(=落成式)
    622年―上宮王・千食王后死亡〈銘:釈迦三尊像後背銘〉→桐壺帝の譲位
    623年―釈迦三尊像敬造請坐〈銘:釈迦三尊像後背銘〉→上宮王・千食王后像を外す
    632年―太政大臣・式部卿の死亡
    634年―観世音寺行幸(十三回忌)
    650年―三十三間堂の千体仏の完成〈紀:日本書紀〉
    653年―源氏死亡
    661年―観世音寺東院造→上宮王像・千食王后像安置〈二:二中歴〉


 ハレー彗星出現時の617年の6月の段階で、観世音寺五重塔の天井板の仕上げ工事をやっていた。
 そして618年10月10日過ぎに観世音寺で行われた儀式、紅葉賀は観世音寺の落成式と言うことになる。
 金堂壁画などが完成した伽藍の前庭で青海波が舞われたのです。



@@@@@@――《 弾正尹・為尊親王の対唐国・冊封拒否事件 》――@@@@@@@@@


◇◇◇◇ 《 さてここからが、非常に重要です。 》


 『源氏物語』は平安時代の作品とされてきましたが、筑紫の京を舞台とし、源氏の年齢に600を加えた年次の記録になっています。
 もちろんフィクションが加えられていますが、653年の源氏の死までの内容は、現実の時間の流れを踏まえていることが確かめられます。


 『源氏物語』薄雲の巻は源氏三十二歳の年、632年のお正月の様子の記述の後、突如太政大臣の死が語られ、次に式部卿の死が語られ、世の中の騒がしいことを(冷泉)帝が嘆かれる。


 『旧唐書』倭国日本伝には、次のように記されます。


 貞観五(631)年、使を遣わして方物を献ず。
 太宗其の道の遠きを矜(あわ)れみ、所司に勅して歳ごとに貢せしむるなし。
 また新州の刺史(しし)高表仁を遣わし、節を持して往いて之を撫せしむ。
 表仁、綏遠(すいえん)の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣(の)べずして還(かえ)る。



 631年に最初の遣唐使が送られます(『日本書紀』は630年とする)。

 刺史高表仁が日本に遣わされたのは632年(『日本書紀』)です。

 『源氏物語』には太政大臣と式部卿が亡くなったことが記されますが、さらに26歳の弾正尹(だんじやうのいん:現在の警察庁長官)為尊(ためたか)親王も亡くなる事件でした。

 このことは『源氏物語』と『和泉式部日記』から明らかになります。

 唐からの一団は「冊封関係」を強いる使いであったため、王子である「為尊親王」はこれを拒否し、「高表仁」と言い争いになり、切られてしまいます。

 傍にいた太政大臣(現在の総理大臣)と式部卿(現在の外務大臣)も巻き添えを食うことになります。



















 事件は博多駅辺にあった高津の宮に唐の使節を迎えての会談の場で起こったと考えられます。
 強大な国家唐が意図して起こしたと考えられる外交事件です。
 十四歳の冷泉帝を補佐する最高権力者である三十二歳の源氏は、三十六歳の唐の太宗の意図を外し、「表仁、綏遠の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る」という形でこの事件を処理したものと思われます。
 この時の緊張感は『和泉式部日記』にも記されており、633年5月5日のことと分かります。
 帥(そち)の宮の侍従の乳母(めのと)が、和泉式部のところに出かけようとする帥の宮に小言をいう場面があり、その中で次のように言う。


 世の中は今日明日とも知らず変わりぬべかめるを、殿のおぼしきつることもあるを、世の中御覧じはつるまでは、かゝる御歩きなくてこそおはしまさめ


 (現代語訳)最近の政情は今日明日と関係なく変ってゆくに違いないのですから、殿が御計画を立てておかれたこともあるように、政情の変化の結果が見極められるまではこのような御歩きをなさらないでいなさい


 殿は源氏であり、政情は唐との緊迫した関係である。


 『源氏物語』と『和泉式部日記』と『旧唐書』は同じ事件を三様に記録していることが分かります。
 尚、フィクションである『源氏物語』の記録性については、641年3月10日過ぎの明石の女御の御産に対応して、写実的著述である『紫式部日記』を著わしたことで解るように、紫式部自身が特に重要と考えていたと思われます。


 『源氏物語』は、時間と空間の正確さの中に、源氏の存在を記録した作品と言えます。


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『 3.観世音寺の鐘』


 古賀達也氏はもう一つ反論される。


 別の視点から論ずるなら、もし現法隆寺が観世音寺を移築したものであるならば、なぜ銅鐘だけは大和へ持っていかなかったのか説明困難である。
 わが国最古の銅鐘が観世音寺に現在も存在するという事実が米田説に不利であること、論をまたないであろう。


 901年に菅原道真は大宰権帥に左遷され、榎(えのき)寺の謫所(たくしょ)に幽閉の身で、六百メートル先の観世音寺の鐘(口径86.2㎝、高さ1.6m)を聞いている。


      不出門
     都府楼纔看瓦色   都府の楼には纔(わずか)に瓦の色を看(み)る
     観音寺只聴鐘声   観音寺にはただ鐘の声をのみ聴く


 話は遡るが、『源氏物語』乙女の巻には、筑紫の京に源氏の六條院が完成したことが語られる。
 源氏三十五歳、635年のことで、紫の上のもとには和泉式部、紫式部、清少納言ら(平安時代ではない)が仕えていました。
 同年、先に述べたところの玉蔓が、隠国(佐賀県佐賀市)の長谷寺に詣で、(長谷)観音の霊験により右近とめぐり合い、源氏の六條院に迎えられる。
 この霊験を踏まえて『源氏物語』のストーリー(17年前の出来事に立ち返る)が組立てられていることから、紫式部の執筆開始はこの霊験を知った635年以降と言うことが分かります。
 先の633年5月5日を記録する『和泉式部日記』、635年以降に書かれ始めた『源氏物語』と、紫の上のサロンに文学が花開くわけです。
 清少納言は『枕草子』(241段)で次のように述べています。


 清水にこもりたりしに、わざと御使(つかひ)して賜(たま)わせたりし、唐(から)の紙のあかみたるに、草にて、


   「山ちかき入相(いりあい)の鐘の声ごとに恋ふる心の数は知るらんものを、こよなの長居(ながゐ)や」とぞ書かせ給へる。
 紙などのなめげならぬも、とり忘れたる旅にて、むらさきなる蓮の花びらに書きてまゐらす。


 「清水」は京都清水寺ですが、この部分は平安時代に再登場した時に替えられており、本来の『枕草子』では「長谷」となっていました(『現代を解く・長谷寺考』参照)。
 筑紫の京には『源氏物語』で取り上げた「清水の御寺の、観世音寺」の観世音寺の別名である清水寺しかなく、清水にこもる必要はなかったのです。
 「紙などのなめげならぬも、とり忘れたる旅にて」とあり、筑紫の京から片道三、四日の長谷詣ででぴったりです。
 初瀬に籠った清少納言に文を出したのは、六條院の紫の上か、源氏姫君である明石の女御かだが、『枕草子』には源氏死亡(653年)後の様子も記されており、おそらく後者であろう。
 「山ちかき入相(いりあい)の鐘」と長谷寺の尾上(おのえ)の鐘が詠われる。
 平安時代の歌集群(多くが日本(倭)国の時代の作品の採録と思われる)に尾上の鐘を詠った歌が多く、鐘の音が広く知られていたことが分かりますし、山の中の静かな初瀬の地(現在、善正寺として鐘楼基壇が残る)で、鐘の音は大きい存在であったことは疑えません。


 現在、日本三大大鐘と呼ばれるのは奈良東大寺と京都の方広寺と知恩院の三つの鐘(口径約2.7m、高さ3.2~4m)です。
 鐘の造りも鐘楼の造りもほぼ同じであり、同一工房の作品と思われます。
 ちなみに一つは510年代に造られた先に説明した長谷寺の尾上の鐘、移築して現在京都知恩院の鐘、一つは520年代に造られた奈良の京(みやこ)の東山麓の豊山(福岡県上陽町北川内)の鐘、移築して現在京都方広寺の鐘、一つは536年からの数年間に造られた小倉山(大分県宇佐市)東大寺の鐘、移築して現在奈良東大寺の鐘の三つです。
 吉野ヶ里近傍に造られた奈良の京を拠点に、本来の長谷寺と仏教道場である豊山を造ったのも、“磐井の乱”で亡くなり、阿弥陀如来(大仏)として東大寺に祀られるのも、〝倭の五王〟最後の倭武と神功王后の子である奈良帝(倭薈)です。
 観音信仰発祥から阿弥陀信仰へと倭薈を中心に歴史は動きます。


 『源氏物語』夕顔の巻は源氏十七歳、617年の記録ですが、大弐(だいに)の乳母(めのと)が源氏の見舞いに対してお礼を言う場面があり、「もはや阿弥陀如来の御来迎も心残りなくお待ちいたされます」と言い、618年の若紫の巻では、僧都が源氏に「阿弥陀仏をおまつりしてある御堂に、お勤めをいたす刻限」と席を外す場面があります。阿弥陀信仰が隆盛である世の中が記録されています。


 清少納言は京における日常生活の中での鐘の音について、73段に次のようにふれています。


 しのびたる所にありては、夏こそおかしけれ。(中略) また、冬の夜いみじうさむきに、うづもれ臥して聞くに、鐘の音の、ただ物の底なるやう


にきこゆる、いとをかし。鳥の声も、はじめは羽のうちに鳴くが、口を籠めながら鳴けば、いみじう物ふかくとほきが、明くるままにちかくきこゆるもをかし。


 人目を避けて、好きな人と逢う時の情景について述べています。
 冬の夜の内裏周辺で聞く鐘の音であり、観世音寺の鐘と思われます。
 607年の創建時から鐘は鳴ったと考えられ、朝夕鳴る鐘の音は、もちろん90年前から鳴り始めた尾上の鐘とは異なるが、筑紫の京の人々には十分に親しまれていたと思われます。


 筑紫の京は531年の“磐井の乱”後、城壁都市として再興されていました。
 664年唐軍の占領により、城壁が解体され(城壁の跡に造られた土盛りが水城)、京の『源氏物語』的世界は崩壊し、人々は不安と絶望の中に落されます。
 さらに672年5月以降は、扶桑国軍(大和朝廷)により観世音寺が解体・移築され、筑紫の人々も強制的に移住させられ、平城京や京都を中心に住まわされたと考えられます。


 移築の内容を見ますと、法隆寺は観世音寺の建物をそのまま用い、配置換えをすることで、姿かたちはほとんど別物に見えるように建てられています。
 仏像の名前も例えば、釈迦像を薬師像に変え、光背銘を追刻しています。
 さらに文書史料も書き換えています。
 観世音寺を使って歴史の捏造の限りを尽くしていると言っても過言ではありません。


 ところが法隆寺の鐘は現地で鋳造したことが分かっています。
 技術的に劣る出来栄えですが、容易にできる観世音寺の鐘を持ってくることはなかったのです。
 観世音寺の鐘の音が斑鳩で鳴れば、歴史捏造のからくりの全てが分かるため、鐘を移すことはしなかったのではないでしょうか。
 
音の記憶は万人のものであり、瞬時に捏造の本質を悟られかねません。
 日本(倭)文化を略奪したことを隠す試みが行われたのです。
 人間の行為として認めがたい卑劣なことをしたとの自覚の反映と言えます。
 観世音寺を移築して法隆寺を作ったことは深く人間性に関わる問題であり、古賀氏が言われるように安易に行われているのではないことは明確です。
 なお、豊山の鐘が方広寺に移築されたり、尾上の鐘が知恩院に移築されたのは江戸時代になってからのことで、法隆寺移築とは反対の意味(日本(倭)国文化の保護?)を持つと思われます。


 『法隆寺は移築された』で述べたところですが、森貞次郎氏は「筑前観世音寺鐘考 ―とくに唐草図文を中心として―」と題する論文で、次のように述べられます。


 忍冬唐草文を持つ観世音寺鐘の製作年代は、その形成からみて妙心寺鐘にきわめて近いとされながらも、宝相華文をもつ妙心寺鐘よりも明らかに年代的に遡る形式である。


 この両鐘はほとんど同一の企画によって同一工房において製作されたと述べられます。妙心寺鐘の内側には陽鋳された次の銘がある。


戊戌年四月十三日壬寅収糟屋評造春米連広国鋳鐘


 妙心寺鐘は筑紫の糟屋評造が造ったのであり、観世音寺鐘には「上三毛」の陰刻があり、両鐘が(宇佐市の)上膳(かみつみけ)県の工房で造られたことが分かります。
 また工房が存続したのは日本(倭)国の時代であり、唐軍占領(664~672年)後の製作活動はあり得ません。
 観世音寺鐘が造られたのは607年で、妙心寺鐘が造られた戊戌年は定説の698年ではなく、60年遡った638年と思われます。
 参考までに、定説において698年の日付干支計算の根拠とされる『三正綜覧』は、科学的とは言い難い内容の代物と判断しています。





『 4.観世音寺の碾磑(てんがい)』


 講堂前の広場に石垣に囲まれて「碾磑」と書かれた立札と花崗岩で造られた回転挽き臼があります。上臼の厚さ約25㎝、下臼の厚さは約30㎝、直径は約1mもあり、上臼は400㎏、下臼が500㎏と相当な重量です。
 粉体工学の研究者である三輪茂雄氏は、唐代の磚磑との関係から、この磚磑が観世音寺創建(定説の746年)期のものと判断されていたようです。
 さらに古いのではと言う思いがあったのか、『法隆寺は移築された』を読み「移設時に取り残されたのかもと考えるようになりました」とメッセージを頂きました。


 観世音寺の碾磑の精度について、三輪氏は次のように述べておられます。


 私はさっそく、下臼に長尺の直線定規をあててみた。完全な平面が保たれ寸分の狂いもない。
 石積みの平面程度の加工ではなく、機械の摺動面加工に匹敵する。
 現在のように大型の研磨盤がなかった時代に、これだけ大きな石材の平面加工を、この精度でやってのけるのはただごとではない。
 私はこれをつくり出した技術水準の高さに驚異を覚えた。


 もうひとつ、この調査で是非知りたいことがあった。
 400キログラムもある上石の重量を支えて、スムーズに回転させる軸受機構である。
 これは上石の中心部に直径約30センチ、高さ5センチの凸起部をつくり、下石には上石の凸起部がちょうどはまり込む穴をうがち、さらに中心に心棒孔を設け、ここに鉄の心棒を入れたらしい。
 さらに回転精度を保つために完全にすり合せて、ツルツルにしてある。
 このような石臼の軸受機構は現在までの調査では、実物も文献も類例がない。


 この摩訶不思議な碾磑の存在は巨石を扱う技術―切り出し、運搬、加工―が存在し、碾磑を使用する粉体工業―朱などの材料、薬、食料の生産―が存在した文化が伴わねば在りえません。
 そのことを理解するには664年の唐軍占領までの日本(倭)国がこの世から消えた、そのミッシングリンクの存在を認識することから始めなくてはなりません。
 672年から扶桑国(大和朝廷)が行った法隆寺移築や、薬師寺、東大寺、長谷寺等の移築がそれに含まれることはもちろんですが、その前に行われた唐軍による行為についてもです。
 日本(倭)国王室を潰したことは明らかですが、その内容を知る術はありません。
 その他で分かる三つの行為の内、阿弥陀如来、つまり倭薈の存在を消す作業については、扶桑国との共同作業であったようですが、別の機会に述べることにします。
 他の一つは石に関する行為で、逢坂(おうさか)の関を含む城壁の解体に始まります。
 以下数値は概略ですが、城壁は下部の3mに花崗岩の切り石を積み、その上8mにレンガを積み、その上に高さ1mほどの手すりを回しており、逢坂の関の屋階(おくかい)には二階建ての楼館が建っていました。
 城門(高さ9m)をくぐる道路は道幅6mで、厚さ50㎝の巨石(1m×2m)が敷き詰められていました。これ等を跡形もなく失くし、断面が台形の土盛り(水城)としたのです。
 『日本書紀』は天智天皇三年(664年)の条に「この年、(中略)また筑紫に大堤を築いて水を貯えた。これを水城と名付けた」と記しています。
 これを皮切りに後述するところの道路に敷き詰められた巨石や、水辺の巨石が剥がされ、長柄橋(ながらばし)と呼ばれた石造の巨大アーチ橋や石造の反(そ)り橋である山田橋(やまだばし)が解体されました。
 また、上部の木造の採光部以外は石で造られた石山寺(いしやまでら)(三宅廃寺)が解体され、中に安置されていた石刻仏像群と共に跡かたもなく持ち去りました。おまけに石工もほぼ全員が連れ去られたと思われます。
 巨石と石に関するものはほぼ完璧に無くなったのです。運ばれた石刻仏像群の一部は唐の洛陽の宝慶寺に飾られましたが、大半は山東半島各地に埋納されました。
 1945年以降に発掘されていますがそれら仏像群が略奪してきた日本(倭)国のものであると気付いた様子はありません。
 中心となる作品は、観世音寺の壁画に描かれた阿弥陀浄土(あみだじょうど)、釈迦浄土(しゃかじょうど)、薬師浄土(やくしじょうど)、弥勒浄土(みろくじょうど)の群像を彫刻化した石山寺の仏像群と考えられます。
 また連れ去った石工を使って竜門(りゅうもん)の奉先寺(ほうせんじ)の盧舎那仏(るしゃなぶつ)を彫らせたと思われますが、彼らがその後どうなったかを知ることが出来ません。


 石造文化としてのミッシングリンクを考えますと、朝鮮半島の南岸は倭国でしたから、現在の慶州の仏国寺にまで高いレベルの石造文化が現存しますし、琉球にも高いレベルの石造文化が存在します。
 これらから中心である日本(倭)国の石造文化がどれほどのものであったかを示すのが、三輪氏が説明される観世音寺の磚磑であり、山東半島の埋納された石刻仏像群であると考えます。
 ただ唐軍の石に対するこだわりは何なのかは今のところ分かりませんが、石の高度な技術が地上から無くなったことだけは明らかです。


 残る一つの行為は貴重な絵を含む金銀財宝の略奪です。
 扶桑国が持ち出した日本(倭)国の財宝である、正倉院御物(の大部分)より優れたものが、唐に運ばれたことは疑う余地はありません。
 何家村(かかそん)出土遺物を見れば明らかですし、故宮博物院(台北)にも公表されない日本(倭)国の財宝があるのではと推測します。


 ところで、中国の絵画に“清明上河図(せいめいじょうかず)”という絵巻の一群があります。
 定説では清明上河図は清明節の北宋の都、汴(べん)京の汴河両岸の生活風景を描いた図巻とされます。
 北京故宮博物館所蔵の清明上河図(北京本)は28.4㎝幅で、5.28mの長さがあり、北宋末期の作品です。
 途中、民間にあった時期もありますが、18世紀には再び清王朝の財宝となっていました。
 他に40点が知られており、日本18、台北13、ニューヨーク6、ロンドン4と世界各地で所蔵されています。


 内容から分類しますと、北京本1点、清朝画院(しんちょうがいん)本5点、流布(るふ)本35点に分けられます。
 北京本は北宋末期に、清朝画院本は1736年に、流布本はおそらく唐の時代から清の時代まで、いろいろな時点に描かれたと思われます。


 流布本と言いますが、模写(もしゃ)ではなくそれぞれが個性的な作品となっています。
 その描かれた内容は、朴訥(ぼくとつ)な田舎の風景・背後の山と海・その海にそそぐ河口、その河の折曲部に臨んだ寺院、さらに上流の河を上り下りする船と両岸の情景、石造の反り橋とその両岸の店と賑わい、その先の城壁、城壁の内部の街と河とその賑わい、そして最後に描くものと描かないものがある宮殿となっています。
 この骨格上に、お祭りの行列とか、芝居小屋の賑わいとか、土俵の相撲の様子とか、お店の様子とか、たくさんの個々の情景を取捨選択して描いており、「清明節の河のほとりの図=清明上河図」に相応しい内容です。
 またほぼ全ての流布本に、城壁内の街の賑わいの最後の地区に建前作業中の家が描かれています。
 このように街の同じ地点に家を建て始める様子が描かれていることから、一つの元本Aを見て描いた35点の流布本と言う関係にあると考えられます。
 つまり流布本は中国各王朝の画院が描いた作品と言えます。


 清朝画院本は1736年に清朝の乾隆(けんりゅう)皇帝に奉られています。
 内容を見ますと、朴訥な田舎の風景と背後の海・その海にそそぐ河口の巻頭部分、河の折曲部に臨んだ寺院、河を上り下りする船と両岸の情景、巨大なアーチ橋とその橋上・両岸の賑わい、城壁、城壁内の街と河とその賑わい、そして宮殿であります。
 清朝画院本の骨格は流布本とほとんど変わりませんが、反り橋と城壁は壮大になり、街の様子は華麗なものになっています。
 乾隆皇帝は「乾隆南巡図巻」と言う大巻を画院に描かせており、絵巻に関心があったことが分かります。
 所有物である沢山の流布本や描かせた「乾隆南巡図巻」を元本Aと比べると、見劣りがする。
 そのため新しい「清明上河図」を指示して描かせたのではないだろうか。
 流布本の反り橋を元本Aの別の巨大アーチ橋に替え、城壁を元本Aの豪壮な城壁に替え、朴訥な田舎の風景・背後の山と海・その海にそそぐ河口を、背後の山のない元本Aの巻頭部分に入れ替え、最後の宮殿も豪壮なもの(水上宮的な建物は他の絵から模写)に替えています。


 表に出ることのない元本Aの存在を仮定して、流布本と清朝画院本を説明しました。
 中国王朝は宝物である元本Aを元に、描く範囲を限定して画院の画家に描かせています。
 さらに清朝の乾隆皇帝は限定の条件を変更し、元本Aの原画に近い模写を指示したことが読み取れます。


 もう一度北京本を見ますと、巻頭に海は存在せず、朴訥な田舎の風景と小川の流れのみが描かれ、次に河船と街の関係が描かれ、石造の巨大アーチ橋に代わる木造のアーチ橋と橋上、両岸の賑わいが。
 次に街の賑わい、木造の平らな橋、城門、城内の街の賑わいが描かれます。
 「清明節の北宋の都、汴(べん)京の汴河両岸の生活風景を描いた図巻」として、北宋末期に張擇端に描かせています。
 元本Aを見て、最大に中国化して描いた作品と捉える事が出来ます。


 次に元本Aの模写本に近いと思われる清朝画院本の特徴を具体的に述べます。
 アーチ橋の先に見える宮殿らしき建物の庭には二、三百年経過した数本の松の木が聳(そび)えています。
 庭に竹林を作った施設や家が所どころにあり、季節柄あちらこちらに梅の花が咲いています。
 地震があったのか、被害を受けた屋根をむしろで覆(おお)った仏堂と一般の家の11軒があり、そのうちの一軒では三人の職人が復旧作業をしています。
 同じ原因からか、ところどころ漆喰壁(しっくいかべ)が剥がれ落ち、下地の子舞(こまい)がむき出しになった家が描かれています。
 城壁内の街には銭湯と思われる「潔淨浴堂」があり、「學」印の寺子屋があり、「松竹軒」と言う掛け軸屋があり、表で染糸作業をし、染めた反物を屋根の上に干し、染料の入った大甕を並べる染物屋があり、小児科・専門骨折・薬屋・油漆老店・香料店・骨董屋・雑貨屋・食堂・居酒屋などが軒を並べています。


 城壁内の街中の道には、四輪の台車に巨大な切り石を載せ、20頭の馬に引かせてい る様子が描かれています。
 この情景から道路の表面は巨大な切り石が敷き詰められていることが推定できます。
 アーチ橋と城壁は巨大な石を用いた構築物ですし、巨石の切り出し、運搬、高度なレベルの加工技術の存在を示す各情景です。


 清朝画院本に描かれる動物は14種類に上る。
 乗り物としてはロバと馬と牛が単独で使われ、複数乗りとして牛車と前後の馬が担ぐ輿(こし)と、二人の人間が担ぐ1人乗りのカバーの付いた輿がある。
 物を運ぶのは棒で担ぐか、一輪車が一般的で、土付きの庭木を四人で担いで運ぶ姿も描かれている。
 巨石を載せた台車を運ぶために20頭の馬が使われているように、運搬のために牛や馬が、さらにロバや水牛や駱駝が使われているが、誰一人として珍しげに見る人は描かれていない。
 その他芸人が連れている猿、誘導される30頭ほどの羊、犬は現在と同じ飼い犬、ペットである。


 舟は櫓や竿を一人で扱う数人乗りのものから、櫓を8人で漕ぐ大型の舟で躁船に10人以上が携わるものまで各種ある。
 大小合わせて、36艘の船が描かれている。


 清朝画院本から推定すると、元本Aの描かれた内容は4月5、6日の清明節の日本(倭)国の情景と言って誤りではないだろう。 
 では河は何川かと言えば賀茂川(現在は御笠川)である。
 京(大宰府都城)から流れ出て、城壁(現在の水城)の逢坂(おうさか)の関をくぐり、約10キロ下って、承天寺手前で直角に曲がる人工河川である堀江(ほりえ)が、現在の博多区役所の先で内海である近江海(あふみのうみ)(現在の福岡市街)に流れ出ていた。
 流布本の反り橋は山田橋(大野城市山田)で、清朝画院本のアーチ橋は堀江に掛る長柄橋です。
 難波津の中心は博多で、長柄橋を渡った先に描かれた大道は逢坂(おうさか)の関まで613年に整備されました。長期間の工期を費やした長柄橋の完成は613年か、614年です。
 664年12月には筑紫の京の城壁は壊されており、元本Aは615年から663年までに描かれたことになります。
 このように見てきますと、元本Aは唐が滅ぼした日本(倭)国の王室の宝物、絵巻であった可能性が大きく、未だ台北の故宮博物館が公表しない人類の宝と思われます。


 巨石文化の関係で清朝画院本を見ますと、城壁内の街の小児科に続く薬屋には「○○人参」などの商札(しょうふだ)がかかり、店の前では薬の原料を三人がかりで量っており、路面に薬研(やけん)を置き作業をする者がおり、廂(ひさし)の上には盆に入れた薬材を天日干ししている。
 店の隣にはロバがおり、その後ろに台に置かれた碾磑と思われる石積みがある。
 薬用の碾磑と仕事を待つロバと思われます。観世音寺の碾磑は一回り大きく、三輪氏は朱の製造に使われたのではないかと推定されています。





『 5.観世音寺の五重塔』


 本来の『源氏物語』の京は現在の大宰府都城跡であり、現在大宰府政庁と呼ばれる内裏(だいり)と、学校院と、王室寺院である観世音寺が並び建っていました。
 清明上河図の流布本のいくつかにはそれらしき建物が描かれています。
 しかし、清朝画院本にはそれらは描かれておらず、別の水上宮と、最奥には近江の海に臨んだ石山寺と思しき建物が描かれています。
 元本Aに描かれている本当の姿を見たい気持ちです。


 『源氏物語』若紫の巻で、618年3月も終りに近く、光源氏はわらわ病(や)みに侵されて、北山に聖を訪ねて登ります。もちろん現在の大野山で、山の桜はまだ盛りでした。
 坂道を登る光源氏の一行が描かれる「源氏物語絵巻」は国宝の方ではなく、天理図書館藏の方ですが、眼下に相輪(そうりん)と風鐸(ふうたく)が金銅色に輝く五重塔が描かれています。
 翻って、京都の北山の眼下に五重塔の建つお寺はありません。描かれているのは607年に創建された観世音寺五重塔なのです。
 この絵巻は663年までに描かれたものであることは自明で、一番貴重な「源氏物語絵巻」と言うことになります。


 もちろん『法隆寺は移築された』・『建築から古代を解く』で紹介した観世音寺古絵図にはその創建五重塔も描かれています。
 623年に裳階(もこし)が付けられる以前の五重塔です。


 次に史料としては、延喜五(905)年に製作された『観世音寺資財帳』には「瓦葺五重塔壱基 戸肆具 鐸四口」と記されています。定説ではこの時、五重塔は実在したとされます。
 しかし先にも紹介した901年に左遷された菅原道真は「都府の楼には纔(わずか)に瓦の色を看(み)る。
 観音寺にはただ鐘の声をのみ聴く」と詠っており、五重塔が建っていれば触れないはずはありません。この時すでに五重塔は存在していない。
 文書としては残されていますが、実物は600年代末の解体移築で消滅したままであったと思われます。


 現在の観世音寺の塔跡には心礎(しんそ)と礎石(そせき)4個が残ります。


 心礎は厚さ2m以上で東西2.1m、南北2.3mの花崗岩の巨石で、その中心に89㎝、深さ22㎝の心柱の柱座を掘り凹めているが、舎利孔はうがたれていない(NHKブックス『西都大宰府』藤井功・亀井明徳)。


 私は巨石文化に気付くまではこの心礎は自然石の上部を加工したものだと思っていました。しかしよくよく考えればそのような自然石を探すことは大変なことです。
 花崗岩の採石場から切り出し、加工し、運び、据え付けたと考えるべきでしよう。
 この心礎も巨石文化の一端にあります。


 観世音寺塔跡の基壇(きだん)は削られており、礎石のレベルがどのような関係にあったかは明らかにしがたい状態です。
 調査をされた鏡山猛氏は「大宰府と観世音寺礎石について」で心礎が基壇面より高い位置にあるつくりであったことを述べておられます。
 16個の礎石と共に、心礎も基壇の上に頭を出した状態に据えられていたと言うことです。
 近畿地方で発掘された古代寺院(扶桑国の寺院)の心礎の多くは上面が基壇面下2.7mの地中に据えられているのと異なります。


 ところで移築された五重塔の詳細は昭和の法隆寺解体修理工事で明らかとなりました。五重塔の下部の断面図です。
 観世音寺の五重塔は心柱が基壇の上に飛び出した心礎の上に乗っていたこと、他の柱も基壇上の礎石の上に乗っていたことが分かり、鏡山氏の礎石の所見と合致します。
 心礎の上の89㎝の皿の上に立つ心柱の足元は空洞になっており、皿の上に直径75㎝、高さ1.5mほどの乳房状の空間を造っていたことが分かります。
 心柱の根元部分が鑿で穿たれて造られていることは解体修理工事報告書の写真から明らかです。
 法隆寺解体修理工事ではこの心柱の加工を腐朽(ふきゅう)したものと誤った判断をし、脚部の2mを切断し、無垢材(むくざい)で根継(ねつ)ぎをしてしまったのです。
 断面図の心柱は須弥山の塑像の断面の中に隠れており、同様、四天柱も点線で表されるように、背後の須弥山の塑像の中に隠れています。
 観世音寺金堂には釈迦像(現在の薬師像)が主仏としてありましたが、623年に新たに釈迦三尊像と阿弥陀如来像を加え、三体が並ぶ配置となり、外陣として裳階が取り付けられました。
 同時に五重塔も外陣としての裳階が付けられ、断面図のような須弥山と、上宮王の死を悲しむ塑像群が造られたのです。
 創建時の五重塔では中央の仏壇の湧き立つ雲の中に舎利容器が置かれ、外壁の8面の内壁には8体の菩薩像が描かれていました。
 これらは解体修理工事報告書の所見から復元されます。


 創建観世音寺を復元することで、新しい問題が明らかになります。
 仏舎利塔(ぶっしゃりとう)が変形したものが五重塔で、仏教寺院で最も重要な建物と言われています。
 その舎利容器(しゃりようき)は発掘調査された近畿地方の五重塔跡では地下の心礎上面の収容穴に収められていました。
 一方、観世音寺五重塔では基壇の上の心礎の皿の上に舎利容器が置かれていたと思われますが、法隆寺の宝物にはそれらしきものは伝わっていません。
 舎利容器は移築されていないのです。


 664年5月から672年5月にかけての8年間の唐軍の占領のはじめ、664年5月から12月の間に筑紫の京を取り巻く函谷関にも勝る城壁は解体され、土盛りの現在の水城に変身します。
 
城壁都市が解体させられたのですが、実に周到な占領政策が実行され始めたことを理解したと思われます。
 その後の唐軍占領期に起こったと思われる一つの出来事が推測できます。
 それは鳥仏師の工房の連中が観世音寺の五重塔の須弥山に囲われて隠されていた舎利容器や釈迦三尊像光背の飾り金物などを運び出し、扶余の百済王室寺院の廃墟工房の水槽跡に隠したことです。
 韓国では同所で発掘されたものであり、百済王室の工芸品・百済大香炉であり、663年の百済国滅亡の直前、あわただしい状況の中で隠したものだと主張しています。が、二つの点で間違っています。
 一つは墓さえ暴かれることは常識であり、百済王室の宝がそのような場所に隠されることはありませんし、隠したら盗掘されていたと思われます。
 滅亡後に荒らし回って廃墟となり、時間のたった工房跡の水槽の中に隠したから現代まで残ったと考えられます。
 二つは香炉としていますが、香炉なら煙が出る穴が造られているはずですが、それは見当たりません。
 島国である日本国を須弥山に見立てたデザインと思われ、容器の上に鳳凰が立ちます。
 上宮王が造られた観世音寺の舎利容器にふさわしい形態と言えます。


 現代人にとって歴史の真実を知ることこそ重要だとの認識に立たれるのならば、どこで造られたものであるかを明らかにする方法があります。
 銅鏡ですでに行われていますが、金銅の材料分析を行うことです。
 分析結果は東大寺大仏の銅の原産地である長登の銅が使用されていることを明らかにすると信じます。

(2010年9月25日 米田良三)
(2011年1月4日 誤記訂正)


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『―さしでがましいとは思いますが、知っていることをお伝え致します―』



「龍@Dragonest」さんのブログに、「虹のマイホームパパ」さんが2009年9月4日、


地蔵菩薩さまと神功皇后さまとは、どのような御関係なのでしょう。


の質問をされ、2010年1月3日の下記ブログで、神様が「これについてはわかりません」と答えておられます。
 その前後の内容はブログを見て頂くとして


 以下は、お二方のやり取りを5月初めに目にすることになった、次元の異なる歴史探究者からのメッセージとご理解ください。
 ただ、誤解を与えないようにと説明を加え過ぎたため、長文になったことをお詫びします。


 「地蔵菩薩と神功皇后」は日本の歴史に実在した親子です。「地蔵菩薩」は後で述べるとして、「神功皇后」の正式な名称は神功王后(じんぐうおうこう)で、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)とも呼ばれました。
 「倭の五王」の最後の王・倭武(ゐぶ)の后で509年4月17日に亡くなります。
 何歳であったかは知ることはできませんが、後述する彼女をモデルとした彫像から30代での死亡ではなかったかと推測します。


 倭武はそれより先500年2月に亡くなりますが、不審な死でしたので公表されませんでした。
 おそらく病のため寝所に伏せておられるとしたのだろう。
 カムフラージュのためと思われる「裂田(さくた)のうなで」と言う大土木工事が、神功王后により行われ、現在もその用水路は福岡県那珂川町にあり、使用されています。
 倭武の死に新羅国が関わっている(占い?鏡に映った?)ことを確かめた神功王后は10月、先頭に立ち、世に言う新羅征伐に出発し、勝利を収め、帰路12月14日に福岡県宇美町で倭薈(ゐわい)を産むことになります。
 筑前国風土記逸文の「児饗(こふ)の石」にあるように、臨月を押しての出征でしたが、出発に先立ち、三輪神社に戦勝を祈願しての結果でした(『日本書紀』神功皇后の条と、『釈日本紀』の筑前国風土記逸文「大三輪の神」に同内容の記述)。
 このあと617年までの117年間、新羅国に軍を駐留させます。
 この事実を証明するものに正倉院御物の新羅国戸籍があります。
 現在の日本にも米軍が駐留して65年になります。
 そこに至った理由にもよるのでしようが、外国軍の駐留が短くないことの一例ではあります(もちろん世界が驚愕する例外、1330年以上に亘る天皇家の支配下にある現実と、二重に支配されている現代日本人の悲劇は置きます)。


 502年中国南朝は斉から梁に代わり、倭武は梁の武帝から征東将軍を授かります。死亡が公表されていなかったからであり、その後死亡したことを公表し、同年11月に埋葬します(『日本書紀』の「仲哀天皇」の条)。
 それが香椎宮で、「仲哀天皇、神功皇后」らが祭神となっています。

  【キーワード】倭薈
  【キーワード】神功王后=息長足姫尊
  【キーワード】倭武=「仲哀天皇」


 倭薈は3歳で太子となります。
 が、いたずらの度が過ぎたようで、6、7歳のころ子豚を盗んだ罪で対馬に島流しの刑に処せられます。
 2年の日々の行動は民俗に記憶され、地蔵菩薩の行いとして現在も語られています。
 もちろん口伝の秘密を守るために、背景は語られることなく、毎年その時期が来ると祭りとして、地蔵菩薩の行ったことが再現されて来たのです。
 志賀海神社の山ほめ祭で「うつつらがせみがいにいのちせんざいとゆうはなこそさいたり」と歌われるように、対馬から帰還した時、倭薈は体に卍や輪宝を刺青した仏教者となって、志賀島沖に現れました。


 神功王后の死により、510年11歳で倭(ゐ)国王となります(『日本書紀』の「応神天皇」の条)。
 大宰府都城にあった都に4年が過ぎ、514年には吉野川(現在の筑後川)に面した奈良の京(みやこ)に都を移し(『肥前国風土記』三根郡「宮處の郷」か?)、奈良帝(ならのみかど)と称されます。
 514年から522年は善政が布かれたとして後世、寛平の治(かんぴょうのじ)(*注)>と呼ばれます。


 奈良の京を拠点にして、隠国(こもりく)泊瀬(はつせ・佐賀県佐賀市)の地に、三輪神社(現在の杉神社)に関連する宗教施設として、母である神功王后を祀ります。
 十一面観音として知られる長谷観音像の鎮座する大悲閣と、700メートル余に続く平らな空中回廊が諸施設を結ぶ、大自然の谷間空間に立地する長谷寺の創建です。
 立像である長谷観音像は、戦勝を感謝する姿で、「二本(ふたもと)の杉」(三輪神社・又の名を杉神社の御神体)に対面します。
 この工事で、木工頭(もくのかしら)として奈良帝を助けたのは、歌聖でもあった柿本人麿でした(『古今和歌集』仮名序、『大和物語』)。
 観音信仰は隆盛を極めることとなり、全国(62ケ国?)に100以上の十一面観音を祀る諸国長谷寺が造られ、東アジアの国々(梁・新羅ほか)にも信仰の輪は広がります。
 現代日本の観音信仰同様、普陀落山(浙江省・舟山群島)に見るように、現代中国の観音信仰も盛んです。


 【ところで、このように説明してきた歴史は日本史の授業で教わる内容とは根本的に異なります。
 下線を施した地名や建物名は本来あったもので、現在は無いもの、歴史学で言うところのミッシングリンク(消去された文化)の中の存在です。
 消された文化があったことを仮定すると、現在定説となっている歴史にある矛盾は氷解し、歴史遺産の本来の価値が蘇ります。
 その大枠をつかんだ上でないと、この先さらに混乱を来たすと思いますので説明いたします。


 3世紀の卑弥呼の倭国は九州を中心とした国でありました。
 4世紀後半に讃が王となり、418年に九州、四国、本州が統一され、連邦国家となります。
 讃は「倭の五王」の最初の王で、仁徳帝を名乗ります。
 その後、珍・済・興・武(仲哀帝?)・神功王后・奈良帝の世を経、途中で国名を日本国に変え、663年まで繁栄し、我々が日本文化と認識する全て(飛鳥・白鳳・天平・平安ほかに組み替えられた文化やさらに知られていない存在)を現出します。


 664年から672年までの9年間、唐軍が筑紫を占領し日本国は滅亡します。
 唐軍の破壊と略奪はその痕跡を残さない形で行われます。
 672年5月からは、大和朝廷が人の移住と建物の移築を、同様に痕跡を残さない形で行います。
 つまり、現在我々が見るように、歴史から日本(倭)国の文化を消去したのです。


 拙著『法隆寺は移築された』に記したように法隆寺解体修理報告書から秘密が明らかとなりました。
 続いて現在使われる曲尺(かねじゃく・1尺=303mm)ではない、倭(ゐ)尺(1尺=281mm)の発見が、その後の創建建物の建設時期の判断に大きく寄与しました。
 移築された主な建物を挙げますと、法隆寺・薬師寺・東大寺・長谷寺・三十三間堂・桂離宮で、倭尺のものさしを使って造っていることを確かめることが出来ます。


 日本史の授業で教わる内容には、九州にあった本来の建物の歴史は無かったことになっており、これらの建物がなぜ造られることになったかの本当の理由(長谷寺についてはすでに述べました)が隠されています。
 また、寛平の治(かんぴょうのじ)(*注)>は日本史の授業で平安時代の宇多天皇の四年(890年)から醍醐天皇の二年(898年)と教わります。
 元来一人の帝の善政を称えた言葉が時間軸を376年移動して歪な関係になっています。】


 息長足姫尊に起こった霊験に鏡が関係していたためか、長谷寺の文献には鏡の奉納が多く記載されています。
 奈良県桜井市に移築(721年)してからの後世(平安時代)の記録もありますが、本来の長谷寺の記録も少なくありません。
 またさらに佐賀県の泊瀬(現在、初瀬川が流れる)には杉神社以外に、本堂跡の近くに鏡神社が現存し、祭神は息長足姫尊であります。
 また、杉神社の祭神は「神功皇后・仲哀天皇ほか」で1264年に香椎宮から勧請したとされます。
 この時、一時的に杉神社の歴史が途切れかかっています。
 杉神社の本来の祭神は、能「三輪」に見るように、天照大神や「二本の杉」そのものでありましょう。


 523年に倭薈は再び都を大宰府都城に移しますが、政治は弟である嵯峨帝(さがのみかど)に委ねた(兄弟帝と言う倭国独自のシステム)と思われます。
 嵯峨帝は現代に言うところの文化人で、漢詩に長け、奈良帝と歌のやり取りをしており、それらから心やさしい人物であることが分かります(『経国集』・『大和物語』)。
 奈良帝は梁から渡来(梁の都、建康に赴いた柿本人麿のヘッドハンティングの可能性が大きい)した司馬達等(しばたつと)の力を借り、奈良京の東山の麓に仏教道場である豊山(ぶざん)の彫刻公園(上陽町北川内、筑後国風土記逸文の「磐井の墓」)を造り、修行生活に入ります。
 全国から、アジア各地から、多くの才能が倭薈のもとに集まります。


 531年2月始めの凍てつく深夜に、(近畿の)扶桑国の継体軍6万人が倭国の都を奇襲します。『日本書紀』の記述を信じる人には荒唐無稽と見なされそうですが、神武東征の舞台は400年代の地形(大阪府の河内湖)に乗っており、次の事柄が歴史の真実と言えます。


 神武が418年に征服した狗奴国は、倭国統一の功労者である神武や神武の子孫が統治する、倭国の連邦国・扶桑国として存在しました。
 458年ころ若狭辺に進出して来た騎馬民族である天皇家(文化勲章受章者である『騎馬民族国家』の江上波夫が大和朝廷の創始は東北アジアの扶余系騎馬民族によって5世紀前半ごろに達成されたと推論されたところだ)は507年に神武の子孫に取って替わり、扶桑国を自分のものとします。
 継体軍の奇襲は騎馬民族の特異な戦法である大量の兵を使い、焼きつくす、殺しつくすというものでした。
 応戦するも、あまりにも大軍のため、流れを止めることは出来ません。この時倭薈は豊山に居たのか?都か、豊山から退き、大分県宇佐市の小倉山に追い詰められて命を落とします。
 后、二人の王子、1000人の修行者も亡くなります。
 事態を知った倭国軍は全国で反撃し、反乱を鎮圧します(『日本書紀』の「磐井の乱」)。
 辛亥の年(531年)の九州年号は発倒(弓を射て倒す)、殷到(衆が到る)、教到(もと凶倒?)と複数伝わりますが、「二月没」、「二月帝崩」と添え書きもあり、「乱」により年号を改めたことが分かります。
 この「乱」の多数の死者は各地の装飾古墳を中心に葬られます(装飾古墳の絵柄は仏教道場である豊山のイメージで統一)。
 小倉山を中心とする法域は惨劇を保全する形で整備され(534年)、霊山(りょうざん)と称されました(宝塔である三重塔は730年に移築され、薬師寺東塔となる)。
 薬師寺の薬師如来、日光・月光菩薩は、霊山の東院堂に安置された倭薈坐像と二人の王子立像で、倭薈は胸に逆さ卍、手の平に輪宝文、足の裏に輪宝文・瑞祥文の刺青姿のブロンズ像です。
 仏教を拒否し、伝統的な神道を信じる人々は小倉山の倭薈を八幡神と崇めます。後に大和朝廷は場所を6キロほど東へ移動して宇佐八幡宮に造り替えています。現在の全国の八幡社の数は、1万とも2万とも言われています。
 また、霊山と並行して、都の再建も行われますが、最初に行われたのは東ローマ帝国のコンスタンチノープルと同様に城壁で囲い、騎馬民族の攻撃の手法に備えることでした。函谷関より強固な逢坂の関が出来上がります。
 ちなみに城郭都市が完成して安堵した人麿が詠った歌は、百人一首の「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」と思われます。


 535年、童行者(わらわぎょうじゃ)が申し立てる「倭薈を阿弥陀如来、息長足姫尊を観音菩薩、后の仲姫(なかつひめ)を勢至菩薩とする阿弥陀三尊と、それらを囲む多くの菩薩や化仏を、小倉山の大寺院に祀る構想の実現」を、延喜帝(えんぎのみかど)が決断(「早来迎」・「僧聴」の二つの奇跡により進展したと思われる)し、536年から阿弥陀大仏の建立が始められ、天慶帝(てんぎょうのみかど)の570年に至って、東大寺、正式名称金光明護国之寺が落成します。全国の国分寺・国分尼寺も造られ、阿弥陀信仰は隆盛となります。
 当初の経典には阿弥陀の誓願から、継体軍関係者らは「唯除五逆」と除かれています。
 倭薈の死のショックが大きかったからです。
 時間が過ぎ、それでも阿弥陀の思いは全ての人を救いたいというものだとし、完璧な教義に変えたのは天暦帝(てんれきのみかど)で、590年頃のことです(法然がこの境地にたどり着くのは585年後の1175年)。
 そして阿弥陀信仰は東アジアの国々(隋・唐・新羅)に広く受け入れられます。「家家観世音、処処阿弥陀仏」のことわざが生まれるまでに、観音信仰と阿弥陀信仰が中国民衆信仰の中心を占めることになります。


 阿弥陀の教えが説かれる『無量寿経』に記されるように、生前に修行する地蔵菩薩と、冥界にいる悟られた阿弥陀如来と言う関係にあり、二つの名称は倭薈の生前と死後を表現していることが分かります。
 32歳の生涯であった倭薈ですので、対馬に流刑になった際の行動は、のちに地蔵菩薩として記憶されることになったと思われます。
 地蔵菩薩と神功王后の関係は子と母親であります。ところで奈良帝の王子(薬師寺の日光・月光菩薩のモデル)の一人は阿保親王と言います。
 「乱」の時、阿保親王の五男は赤ん坊であったに違いありません。
 後に在原姓を賜り、『伊勢物語』に在原業平として記録され、能「筒井筒」に隠国を舞台として夫婦の愛が語られます。
 阿弥陀さんのお孫さんなのです。

  【キーワード】倭薈=地蔵菩薩=奈良帝=「磐井」=八幡神=阿弥陀如来
  【キーワード】神功王后=息長足姫尊=十一面観音=長谷観音=観音菩薩


 天暦帝の息子で、法興帝(ほうこうのみかど)と呼ばれた上宮王(じょうぐうおう・『日本書紀』の「聖徳太子」)は、悲しむべき事件、日本人が『さんせう太夫』として知る事件―日本国王子である厨子王(ずしおう)らが誘拐される―を契機に、605年倭国を日本国と改名します。
 607年には「日出処天子」の国書を携えた遣隋使が派遣されます。国書には国名改名の経緯が報告されていました(『旧唐書』に引用)。
 また同年、観世音寺(710年に移築して法隆寺)が創建され、金堂の仏壇には、釈迦像(法隆寺の「薬師像」)を中心に上宮王像(法隆寺の「救世観音像」)と千食王后像(せんじきおうこうぞう・法隆寺の「百済観音像」)が並びました(三尊形式)。
 続いて外陣の内壁には、歴代の帝とその中枢が四大壁画の浄土図として描かれます。
 「延喜・天慶・天暦の治」の延喜帝、天慶帝、天暦帝を描いた浄土図と、小倉山辺を背景とする阿弥陀三尊を描いた阿弥陀浄土図(法隆寺金堂壁画6号壁)です。


 信じられないでしょうが、『源氏物語』は光源氏の年齢に600を加えた年次の記録になっています。例えば源氏18歳の618年10月10日過ぎには観世音寺の落成式である紅葉賀(平安時代の『源氏物語』では朱雀院の行幸とあるが、本来は観世音寺への行幸)が、上宮王(『源氏物語』では桐壺帝)の出席のもと取り行われた様子が詳細に記録されています。
 玉蔓(たまかずら)の巻には、この時の印象を述べる三条の言葉「清水の御寺の、観世音寺に詣で給ひしいきほひは、帝の行幸にやは劣れる」が記されます。
 大宰府都城が『源氏物語』の京でないとこの言葉は意味を成しません。
 帝(法興帝)が行幸する対象の観世音寺なのです。


 上宮王は隆盛を極める阿弥陀信仰を、釈迦中心の法華経的価値観の中に収め、その造形的表現として観世音寺を造ったということが出来ます。
 その際、「磐井の乱」で亡くなった千人の修行者、つまり阿弥陀信仰の千体仏(せんたいぶつ・645年に完成)は、観世音寺伽藍の裏に位置する、北面堂である三十三間堂(1266年に京都・三十三間堂に移築)に安置し、阿弥陀三尊と分離しています。
 宗教者のものでない、生活者の仏教を主とする(法華経の主旨)仏教王国の樹立を宣言されたことが分かります。
 後に日本(倭)国王室寺院である観世音寺の中心伽藍を移築し、大和朝廷の聖徳太子が創建したとしたのが法隆寺であります。


 ところで法隆寺に在る地蔵菩薩像は地蔵菩薩像の中で唯一の国宝です。
 明治の廃仏毀釈により取り壊された大御輪寺(おおみわてら)から聖林寺を経て移動したものですが、聖林寺の国宝十一面観音像と共に在った大御輪寺は、三輪山を御神体とする三輪神社(奈良)の神宮寺でした。
 神功王后の十一面観音像と倭薈の地蔵菩薩像は、九州の隠国の「二本の杉」を御神体とする三輪神社(神功王后が出征時に祈願した)から、大和朝廷が移動させた奈良の三輪神社の神宮寺である大御輪寺に鎮座していたのです。
 なお「二本の杉」は平安時代には伐採され、無くなっていたと思われます。
 神木の大杉を切った孫太郎の伝説が現地の今原(いまばる)にあり、「二本の杉」の存在との関連がうかがえます。


 次に、百体以上あると思われる十一面観音像、頭上に11人の顔を持つ観音像の内、長谷観音と奈良法華寺の十一面観音のことに触れます。
 長谷観音は像高が10メートル以上もある世界一大きい木造彫刻で、右手に錫杖(しゃくじょう)を、左手に水瓶を持った十一面観音で、金箔に覆われています。
 600年代中頃の清少納言は『枕草子』で、長谷寺へ頻繁に詣でたことを語り、御あかしの中「仏のきらきらと見え給へるは」に止め、尊さを表現しています。
 亡くなる直前、30歳代後半の神功王后の姿と思われます。
 進化論に毒された現代人には不思議に思えるかもしれませんが、これだけの像を造る能力は倭薈の時代にしかないと申せます。
 長谷寺の説話にこの観音像は517年に用材を得て造られたとありますが、歴史事実を伝えていると思います。
 定説では何回もの焼失・造像を経て、1538年に造られたものとしていますが、用材を得ることさえ容易ではありますまい。
 長谷観音に向かって右脇侍は難陀龍王立像(なんだりゅうおうりゅうぞう)、左脇侍は雨宝童子立像(うほうどうじりゅうぞう)ですが、難陀龍王が倭武であり、雨宝童子が倭薈であることは疑い得ません。
 ところで、十一面観音に関する経典は三本が知られますが、同本異訳の経典で、形像に関する記述も一致します。
 定説では、これら経典により長谷観音が忠実に造られたとされますが、これら経典の訳が為されたのは571年以降であり、517年に造られた長谷観音の形像を記録したことは否定できません。


 もう一つは総国分尼寺である法華寺の十一面観音です。
 長さ135センチほどの榧(かや)の一材から彫出した、頭髪・眉・髭・白目・唇を彩色する以外はすべて素地仕上げとした作品です。
 髪や天衣が風に翻えるように表現されていることが特徴とされますが、これは息長足姫尊が新羅征伐の船上にあった時の姿を写し取っているのではないでしょうか(妊婦姿ではありませんが)。
 定説に言う光明皇后を写したでは風を切る姿の説明が付きません。
 新羅征伐時の30才頃の神功王后をモデルとしていると思います。
 没後の記憶の新しいうち、観音信仰の初期に造られたことは間違いなく、500年代前半の作品と思われます。
 倉田文作は『仏像のみかた』で法華寺十一面観音について、「彫りこんだ工芸的な精巧さに加えて、肉身の健康なうつくしさと、ひとつの様式として完成された木彫の意匠性と、そして巧まざるデフォルメのおもしろさを示している」と称賛しています。
 九州にあった本来の総国分尼寺は正式名称法華滅罪寺として造られ、先行する長谷観音とは異なるオリジナルな十一面観音が求められたのでありましょう。
 また阿弥陀来迎図のうちで、最も重要な作品とされる同寺藏の阿弥陀三尊及び童子図三幅も、後の来迎図と異なり、修行者(尼)の前に日常的に掲げられたオリジナルな阿弥陀三尊像であったと思われます。
 その阿弥陀像は坐像で、薬師寺の薬師如来像―霊山の倭薈坐像―と同じ刺青が胸、手の平、足の裏に克明に描かれています。特筆すべきは、胸の中心の逆さ卍相で、光炎の中に円みのある華形の古い形を示しています。

  【キーワード】倭薈=地蔵菩薩=奈良帝=「磐井」=八幡神=阿弥陀如来=雨宝童子
  【キーワード】神功王后=息長足姫尊=十一面観音=長谷観音=観音菩薩
  【キーワード】倭武=「仲哀天皇」=難陀龍王
  【キーワード】法興帝=上宮王=「聖徳太子」=「救世観音像」=桐壺帝


 622年上宮王と千食王后が亡くなり(前年には大后が死亡)、上宮王をモデルとした釈迦三尊像(現法隆寺釈迦三尊像)が造られ、観世音寺金堂に安置されます(623年)。
 息子の光源氏の時代を迎えたわけです。
 『源氏物語』に語られる世界は阿弥陀信仰が日常生活に浸透し、日本(倭)文化が頂点を極めた日々であります。
 635年、京に源氏が造った六條院が完成し、紫の上のサロンに紫式部、和泉式部、清少納言などが集まり、その才能を開花させます。
 また後に源氏が世話をすることになる二十歳の玉蔓が隠国長谷寺に詣でたのも635年のことで、母・夕顔の女房右近との再会を「二本の杉」に感謝しており、本堂における初夜(そや)の勤行で長谷観音を拝する様子も窺がうことができます。
 また、ハーバード大学美術館が所蔵する『源氏物語画帖』玉蔓は、その直前、御寺に到着した玉蔓一行の喜々とした表情が、長谷寺本堂舞台、空中回廊、「二本の杉」、泊瀬川などを背景に描かれた一枚の絵となっています。
 論理的構成と、消去された文化を復元することを可能にするリアリズムを持つ作品です。


 653年の源氏の死により、すぐれた指導者を欠いた日本国は周辺国に翻弄された可能性が大きいと思われます。
 そんな中、661年に年号を白鳳に変えます。
 『二中歴』に「対馬採銀観世音寺東院造」と説明するように、対馬で銀の採掘が始まったことを「しろがね」である「白」に託し、観世音寺東院(730年代に移築して法隆寺東院伽藍)が造られたことを「鳳」に託し、白鳳の年号としたのです。
 623年に造られた釈迦三尊像が金堂に置かれ、上宮王像(救世観音像)と千食王后像(百済観音像)は居場所がなかったのですが、二人の住処(伝法堂)に夢殿を加えて東院伽藍が造られ、居場所が出来たことを祝う気持ちを、上宮王が自らを譬えておられた「鳳」に託したのです。


 唐突に663年に日本(倭)軍は百済の地へ出兵し、白村江の戦いに敗れます。
 結果、664年から672年まで、唐軍は筑紫を占領し、日本(倭)国は滅亡します。
 『旧唐書』に記されるように703年大和朝廷の遣唐使が「日本国」を自称します。
 扶桑国から日本国に国名を変え、大和朝廷がその後の日本を統治し、現代に至っています。


 日本(倭)国の文化は消されたのですが、占領唐軍による破壊・略奪(例えば城壁は解体され、材料の石や甎は中国に運ばれた可能性があり、跡地は水城と呼ばれる土塁に変化しています)、672年以降の大和朝廷による移築・略奪、平安時代末期の平氏による移築(三十三間堂)、江戸時代の徳川氏による移築(桂離宮・知恩院鐘楼、経蔵)と、近世までそれらの行為は続いたのです。
 現在、日本国(九州王朝)があったという考えの歴史家はほとんどいません。
 ミッシングリンクの存在を隠し続ける天皇家(大和朝廷)、中国(唐)、韓国(新羅)の態度は、その行為を後ろめたいこと、人間として許されないことだと自覚していることを示しています。
 東アジアの頂点を成した文化―おそらく人類史上の最高到達点に達した―を消し去った蛮行以外の何物でもありません。
 これら文化の完璧な抹消が行われているのですが、近畿に移動した文化と人々の歴史は途切れることは無く、「磐井の乱」の記憶さえ消えずにあるのも現実です。


 奈良東大寺は先に述べた小倉山東大寺が移築されたものであることは言うまでもありません。
 東大寺二月堂のお水取りは、関西では「お松明(おたいまつ)」とも呼ばれる行事で、本尊である十一面観音に罪障の懺悔をする行事で、正式名称を十一面悔過法要(じゅういちめんけかほうよう)と言います。
つまり息長足姫尊である十一面観音が絶対秘仏とされる本尊なのです。
 旧暦の2月1日から14日まで行われる修二会(しゅにえ)で、薬師寺、新薬師寺、法隆寺、長谷寺でも行われ、同様にたいまつや鬼が登場します。
 薬師寺の薬師如来は霊山小倉山)の倭薈坐像であったこと同様、これらの寺は阿弥陀三尊に関係する寺院であり、奇襲日の2月初旬、焼き打ちのたいまつ、継体軍である鬼・だだおしと、「磐井の乱」を思い出す要素で構成されているのです。


 以上が日本(倭)国の歴史の概略ですが、より詳しく知りたい場合は拙著『現代を解く・長谷寺考』をお読みください。
 何はともあれ「虹のマイホームパパ」さんが、現在では消え去った歴史事実の点(地蔵菩薩)と点(神功皇后の鏡)を、関係あるものと認識されたのは不思議と言わざるを得ません。

(2010年5月31日 米田良三)
(2011年1月4日 誤記訂正)



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《 ご注意 》


 上記の

 〔 法隆寺移築説の原点である観世音寺・考 : 米田良三 論 〕

 は、〔AB&JC PRESS〕 の中にある、
 ◇ 『現代を解く・長谷寺考』(Solving the present age・Tinking about Hasedera)
 に記載の記事内容を、抜粋・一部加工・転載したものですので、悪しからずご了承ください。



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