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【「持統紀」はなかった、(本来は「高市紀」だった):飯田満麿著 】





 わたしが 大和王朝は(難波副都で「天下立評」した)倭王家 〔分家の弟王家〕だ の考えに至った、今は亡き故飯田満麿氏が世に問う、埋もれた名著の  『「持統紀」はなかった:飯田満麿著』 です、より多くの方々へ読んで戴ければ幸いです。

 飯田満麿氏は 『古事記』 に記載なくて、『日本書紀』 にのみ記載の 〔舒明天皇から持統天皇に至る八代の治績〕 中でも、終わりのほうの特に 「持統紀」 に注目されたようです。 が、私は始まりのほうの 『乙巳の変』・『大化の改新』 にカムフラージュされているとしか思えない 『天下立評』 に注目しました。        


    以下は 「古代に真実を求めて」 古田史学論集第12集:古田史学の会編よりの抜粋・転載です。

2010年 4月 8日 発行





『はじめに (持統紀 はなかった)』

 古田武彦氏の名著『盗まれた神話』(朝日新聞社:1975年)に触発されて、日本古代史の密林に分け入るに至ったわたしは、当然の事ながら『記紀』の本質について、強い興味を抱き、いろいろと調べてきた。

 何故なのか理由は曖昧ながら、わたしの場合『記紀』の説話、史料の細かな内容分析よりも、両書の構成、及至は歴史書としての構造に、強く興味を抱き、今日に至った。

 好奇心に駆られるままに、両書の紀年法の調査、比較を行う過程で、わたしは一つの強い疑問に遭遇した。同一王朝の事績を、共通の構造で編纂された、『古事記』が先在 しているのにもかかわらず、僅か8年後に、何故『日本書紀』が編纂される必要があったのか?

 この疑問解明に挑戦しょうと決心した。




『1.動かせぬ歴史事実』

 広く知られているように、わが国の正史は、『古事記』編集の事実を記載していない。しかし、巷間密かに、写本が各種生産され秘蔵されて来た。

 本居宣長によって『古事記伝』が執筆された、明和元年(1764年)から寛正10年(1798年)に至って、研究成果はあまねく公開され、その結果を我々は享受出来ることとなった。

 太安萬侶の序文によれば、『古事記』は和銅4年9月(711年)の詔勅を受け、和銅5年正月(712年)朝廷に献上されている。これは明らかに元明天皇(707-715年)治世下の歴史事実である。

 ●『続日本紀』元明天皇、和銅7年(714年)2月10日、戊戌、
   「詔 従六位上 紀朝臣清人。正八位下 三宅臣藤麻呂。令 撰修 国史(=『日本書紀』)

 即ち、711年の詔勅は消され、714年の詔勅は明記された。

 この事実は『古事記』は何らかの政治的理由で、その存在を抹殺された。と言う厳然たる判断を我々の前に提示する。問題の究明には、まずその政治的理由を探索する必要がある。幸いこれを推定するに足る複数の判断基準を見出す事が出来る。


(イ)その政治的理由の発生時期は、『古事記』撰上の(712年)前後から『日本書紀』撰上の(720年)の期間に限定される事。

(ロ)その政治的理由の当事者は、『日本書紀』にのみ記載される、「舒明」以下「持統」まで八代の中に存在する事。




『2.可能性のある歴史事実』

 上記、(イ)の要件を満たす事項が『続日本紀』上に存在する。

 ●和銅元年(708年)正月11日(戊申)
  「亡命山澤。挟蔵禁書。百日不首。復罪如初。」

 ●和銅6年(712年)7月5日(壬戌朔)
  「秋七月丙寅。詔曰。授以勲級。本據有功。若不優異。何以勧奨。今討隼賊。
   将軍幷士卒等戦陣有功者1千280餘人。並宜隨勞授勲焉」


 上記は「隼人の乱」の途中経過と、乱後の論功行賞記事と考えられている。但しこの乱後に就いては、勃発の原因、具体的当事者名、等々不明な点が多々あり、積極的な研究は無いに等しかった。今年になって、古賀達也氏が『続・最後の九州年号ー消された隼人征討記事ー』(『古代に真実を求めて』古田史学論集第十一集2008年)を発表するに及んで、この疑問は完全に解消された。

 それによれば有史以来、この日本列島の主要部分を統治してきた、倭国王朝(九州王朝)も、盛者必衰の真理には逆らえず、八世紀初頭には全く衰微し、その座を新興の「近畿王家」に明け渡す事となった、その最終決着が、「隼人の乱」であった事が理解される。

 わたしはここで古賀氏が論証された結論を全面的に肯定する。しかし、ここに至るまでには、複雑怪奇な出来事があり、かつ複雑な人間関係が輻輳している筈である。果たしてその当事者は誰か、この問題を上記、(ロ)の要件の中から探索してみよう。

 舒明天皇から持統天皇まで、八代を西暦で表示すると、629年-697年の69年間である。この間に東アジアおよび倭国内に起きた、政治的変動を網羅してみよう。分かり易くするため、箇条書きで表記する。


  ①隋・唐による朝鮮半島侵攻 (614年-668年)

  ②百済、高句麗の滅亡 (660年、百済)(668年、高句麗)

  ③倭国と百済遺臣による百済再興戦 (661年-663年)

  ④唐、占領軍倭国進駐 (664年-)

  ⑤筑紫君薩夜麻の帰国 (671年)

  ⑥「壬申の乱」 (672年)

  ⑦筑紫君薩夜麻の復位とその後継 (672年)

  ⑧「朱鳥」年号の共有(持統紀の疑惑) 〔九州年号は 686年-694年〕:〔日本書紀は 686年- 〕

  ⑨高市皇子の薨去 (696年7月) と、中臣不比等の台頭 (696年10月贈位)

  ⑩遣唐使・粟田真人派遣 (701年)   


 上記に列記された政治変動が、『古事記』抹殺の要因だったとすれば、個々の政治変動は如何なる意味を内蔵し、かつどのような、相互関連があるのか検証の必要がある。

 但し、舒明天皇から持統天皇に至る八代の治績は、『日本書紀』にしか描かれていない。従って、客観的に万人が納得するように、対校史料に基づき論証を進めることは困難である。

 私は此処で、これら各項の政治的検証に、古田武彦氏と古賀達也氏が、既に公表された、それぞれの論証を基本に据え、両氏が未だ論究されていない問題で、検証上不可欠と判断される問題に関しては、わたしの推論を提示したい。

 上記の10項を総括すれば、これらは、中国大陸からの強い外圧によって、倭国内の政治秩序に歪みが蓄積し、ついには伝統ある「倭国王朝(=九州王朝)」が脆くも瓦解し、新興の「近畿王家」にその座を奪われた歴史経過の表出である。

 個々の事項の検証を必要とするが、上記、①から③までは、『日本書紀』『三国史記』『新唐書・旧唐書』等に歴史事実として明記されている事項で、特段の解釈を追加する必要が無いのでこの際割愛し、④は⑤に含める。⑤以下の6項目については、それぞれに章を改めて、その政治的意義を検証しょう。




『3.⑤筑紫君薩夜麻の帰国』

 『日本書紀』天智10年(671)11月10日条に、筑紫君薩夜麻の「唐」からの帰国が明記されている。この記事によれば、薩夜麻ほか3名は、唐の使人、郭務悰ら600人、送使沙宅孫登ら1400人と47隻の船団に護送されて帰ってきた。

 このように筑紫君薩夜麻の帰国は物々しい有様だったが、彼の渡唐については、一切何の記事も見当たらず、又帰国の理由も何ら語られていない。

 2001年10月、この障壁を軽々と越える、画期的な論証が世に問われた。古田武彦氏の『壬申大乱』(東洋書林2001年)の出版である。検証の手段が皆無の薩夜麻の帰国問題に対して、同氏は『万葉集』を大胆にも対校史料として採用した。同書巻第二、「199」「200」「201」「202」の柿本人麻呂作歌がそれである。従来から、それは「壬申の乱」最大の功労者高市皇子への挽歌とされてきた。同氏はこの定説に対して、以下の理由を以て、否定的見解を提示した。

 『日本書紀』に盛夏の出来事として明記されている『壬申の乱』が、この長歌では、厳冬の出来事として描写されている事。及び「壬申の乱」の大勝利に対する、高揚漢感が全く歌われず、むしろ重篤の敗北感に満ちている感覚等々から、この長歌は「白村江の戦い」で知られる百済復興戦役の前段「洲柔の野戦」(662年末~663年3月)の乱戦の中、行方不明になった筑紫君薩夜麻への挽歌だったと断じられた。

 さらに同氏は、同年四月に上梓された、『古代史の十字路』(東洋書林2001年)中で論じた『万葉集』巻第三の長歌「239」「240」の柿本人麻呂作歌を引用し、従来長皇子の猟遊の歌とされたこの長歌が実は、明日香皇子(薩夜麻)を伴った「倭国」大王(甘木大君)が猟遊中に、突然の事故で落命した悲劇を歌い上げた絶唱であり、「199」番歌の(皇子ながら任け給へば・・・・)の一節と呼応して 皇子 大王(甘木大君)の身に生じた重篤な悲劇を嘆き悲しむ稀有の名作と称揚した。

 筑紫君薩夜麻の帰国以前の政治情勢を、古田武彦氏のこの『万葉集』理解に準拠して、私見を述べる。661年の「百済」滅亡に際して、「倭国」に亡命してきた多くの「百済」遺臣は、当時人質として「倭国」に滞在していた扶余豊璋を「百済王」に推戴し、義勇軍を結成した。

 倭国内にも俄かに「百済」同情論が高まり、不穏な情勢となった。甘木の大君と呼ばれていたらしい「倭国」王の意思が那辺にあったかは詳らかでないが、いずれ慌しい雰囲気だっただろう事は疑いを入れない。

 或いはこの様なストレスを解消する為か、大王は狩猟を催した。皇子同伴の、大掛かりなこの狩の最中、如何なる原因か、大王の身の上に災厄が巻き起こり、あえなくも落命した。

 折から「百済」復興の気運は沸騰し、大軍が集結する事態に及んでいた。現実の成り行きに引きずられ、亡き大王への喪に服す間もなく、息子薩夜麻は全軍の先頭に立ち、海を渡った(662年)。作戦方針も定まらぬまま、百済の原野で唐・新羅連合軍と激突した。

 先駆して乱刃に身を挺した薩夜麻の姿は、折からの吹雪に紛れ、香としてその行方を絶った。海路を進んだ数百艘の救援船団も、白村江で「唐」の船団に包囲され、脆くも壊滅した(663年)。

 俄かに国王を失い、思いもかけぬ敗戦に、狼狽えるばかりの「倭国」政府を、しっかりと掌握したのは、「近畿王家」の中大兄皇子だった。その経緯は以下の如くであった。

 戦後直ちに唐・「百済」鎮将・劉仁願は朝散太夫・郭務悰を主席交渉人として倭国に派遣してきた(664年)5月17日。迎えたのは中大兄皇子であった。

 第1回は同年12月12日まで7ヶ月余に及ぶ長期交渉であったが、すんなりとは決着しなかった。
(667年)11月の交渉で決着を得るまで実に3年半に及ぶ長期交渉だった。交渉成立の条件は極言すれば「唐」に対する「倭国」の臣従とその証明だった。一番の難問は臣従の証明だったと思われる、今となって確証は無いが、私見を披瀝するならば、当時の首都「倭京」の呼称を、倭の五王時代に戻って「筑紫都督府」と唱えること、及び天子の象徴とされていた「法興寺」の破却だった可能性が高い。

 ともかく、中大兄は「唐」との困難な交渉を完了させた。この過程で中大兄は確固たる位置を「倭国」政府内に確立し、統治の実権を握り天皇を名乗った。しかし度重なる困難の故か、僅か4年後の671年俄かに病を発し、病床の人となった。『日本書紀』によれば、重病を自覚した天皇は、病床に東宮の大海人皇子を呼んで後事を託したが、仏門に帰依することを願う大海人の固辞を受け、大友皇子を後継者に立てた。

 当時朝鮮半島は、「新羅」による統一が進み、しだいに宗主国「唐」と政治的距離を作り始めていた。倭国内に親「新羅」派の誕生を喜ばぬ「唐」政府は、「唐」国内で虜囚の生活を送る過程で、燐徳2年(665年)泰山の会盟にも参加し、親「唐」派に変身した薩夜麻を、密かに倭国王に復帰させる計画を進めていた。
この結果がこの項冒頭の筑紫君薩夜麻の帰国記事である。




『4.⑥「壬申の乱」』

 前章に詳述したような経緯で、(671年)11月10日薩夜麻は帰国した。
しかし、その僅か半年後の(672年)6月24日、俄かに勃発した「壬申の乱」と、薩夜麻の帰国との関連が、語られることは嘗て無かった。

『日本書紀』は天武紀を上下二巻に分け、その上巻すべてを費やして、「壬申の乱」を記録している。それは天武(当時、大海人皇子)の大和・吉野脱出から、不破の関制圧、近江・大津京陥落までの1ヶ月間の激戦の記録であった。これまで、この詳細な記述についての疑問、反論の類いは、ほとんど存在しなかった。

 然るにこの不動の定説に、二十一世紀に入って、有力な複数の反論が提示された。一つは古田武彦氏の著書『壬申大乱』であり、もう一つは、「古田史学会報」69号(2005年)掲載の古賀達也氏の論文「『古事記』序文の壬申大乱」であった。

 古田氏は著書中で、万葉集の天武天皇御製「25」「27」について、元暦校本(平安末成立)と西本願寺本(鎌倉末期成立)を比較対照し、後者に存在する原文改訂を多元史観の立場から検証された。

 その結果、当時有明海沿岸の多良に隠棲していた大海人が、密かに招かれて、吉野ヶ里に基地を構える、「唐」の政務官、郭務悰と接触した事を論証された。

 古賀氏は論文中で、有名な『古事記』序文を分析し、「清原大宮。御大八洲天皇御世・・・・・」以下の文面を検証して、これは大海人皇子が決起して南山(高良山)に立てこもり、隠忍自重の後、味方糾合に成功し、一気に筑後川を越えて東国へ向かった、事実の活写であると主張された。

 この結果、「壬申の乱」を近畿圏及び中部圏の一部に限定した、従来史観は否定された。しかし、何故、郭務悰が大海人を選んだのか?大海人の戦いがどの範囲に及んだのかについては未定の問題として両氏とも言及されなかった。

 それ故、「壬申の乱」は九州島内での出来事とする有力な主張も存在する。この事に関して敢えて私見を述べてみたい。そもそも何故、郭務悰は2000人にも及ぶ軍隊と共に薩夜麻を帰国させたか?結論を急げば、「唐」による、「倭国」大友皇子政権の拒否であった。
 その主たる理由は、対「新羅」政策の対立だったと考えられる。

 しかし熟練の政務官であった郭務悰は、過去の経緯に照らして、それが決して容易な事でないことは、収集した「倭国」内部情報から熟知していた。諸般の情勢は、打開策は、クーデター以外に存在しないことを告げていた。

 郭務悰を決断させたのは、当時「倭国」政権と袂を分かち、吉野ヶ里の対岸に隠棲していた大海人の存在だった可能性は極めて高い。恐らく郭務悰は大海人皇子の能力を十二分に把握していたので、密かに使者を送り会談した。主題は現政権転覆のクーデター実行と薩夜麻擁立、成功報酬は大海人の「倭国」政権内の地位保証だった可能性が高い。

 戦いの様相についての、私見は略述にとどめる。高良山に薩夜麻を擁立して兵を募った大海人達は、味方の集結を待つ間、信頼の高い少数の部下を先行させ、瀬戸内海を早舟で急行し、河内平野から大和に入り、畿内の協力者を糾合し、不破の関を急襲制圧した。

 同じ頃別働隊は大宰府留守司を襲い、駅鈴と多数の武器を奪った。
 用意万端整った大海人皇子の軍隊は、大挙近江・大津の宮を攻撃し、一隊は飛鳥地区にも侵攻し、激戦の後すべて陥落させた。内乱開始後僅か30日後の出来事であった。
大友皇子は自刃し、多くの重臣は捕らえられ誅殺された。天智天皇を後継した近江王朝の終焉であった。




『5.⑦筑紫君薩夜麻の復位とその後継』

 「壬申の乱」における、大海人側の大勝利は、即ち筑紫君薩夜麻の復位であった。この従来史書の何処を探しても、語られていない事実を検証する前提として、筑紫君薩夜麻の人となりに思いを巡らせてみたい。この日本古代史上、不可欠の存在について『日本書紀』はその帰国記事以外、一切言及していない。逆説的に表現すれば、この人物像は、完全に抹殺すれば、「近畿王家」の正当性を主張する際、欠くことが出来ず、又その存在を詳述すれば、「近畿王家」の正当性を否定せざるを得ぬ、厄介な存在だった可能性が高い。

「白村江」の戦いの前哨戦、「洲柔」の野戦に姿を消した「倭王」薩夜麻は10年の空白の後復位した。この歴史事実は完全に抹殺された。しかしそれを事実とする確証が存在する。

 平安時代の後期の資料をもとに、鎌倉期に成立したとされる『二中歴』年代暦の「白鳳 辛酉 23」の記述がそれである。これを西暦に換算すれば661年ー684年に当り、正に前章までに論じられた、事件をすべて包含する期間である。

 『二中歴』の白鳳年間は、突出して永く、この年号のもと「倭国」を統治した王者は、その波乱万丈の人生の浮き沈みに耐えて、見事な後半生を送ったと推察できる。

筑紫君薩夜麻は即位時(661年)、既に成人していた筈である。当然複数の后妃が存在したと想定される。
 但し慌ただしい半島遠征と、それに続く幽閉生活で子を為したのは帰国後と考えて無理はないと思う。政権の末期、肉親の後継者は、存在したとしても幼かった可能性が高い。

 この安定した政権の後半部分を支えたのは、「近畿王家」の大海人皇子であり、その長子高市皇子であった可能性が極めて高い。大海人皇子の政権内での立場は、倭国伝統の制度に則った「男弟」だったと考えられる。「男弟」には国王の叔父か弟の就任が、しきたりだったとする説もあるが、非常時だとして特例が認められたとも考えられる。

 この政権の統治方式を推論すれば、国王薩夜麻は「難波宮」に君臨して専ら祭祀を司り、大海人は飛鳥に根拠を構え、近畿から東国までを支配統治し、高市は大宰府にあって、西国一円を統治する方式が推測される。
 特に高市は母方が宗像氏であり、九州一円に高い支持を得ていた事が推測される。

 永く安定を誇った白鳳年も、23年癸未(683)終焉を迎えた。『二中歴』によれば次の年号は朱雀である。それに対応する西暦は(684年ー685年)と短い。この間の統治者を薩夜麻とする考えも無論成り立つ、何故ならば「九州王朝」歴代中複数の年号に渡る王者の先例が知られているからである。

 しかし、わたしはこの時期の倭王は、大海人だったと言う仮説を提示したい。『日本書紀』で、天武天皇として知られる大海人は、薩夜麻の治世を安定させ、かつ自身も強大な権力を手にし、並ぶもののない存在となった。薩夜麻が崩御したのか、はたまた自主的に退位したのかは推測するしかないが、後を襲うものは大海人以外には存在しなかった。

 これが真実ならこの時「倭国」の実権は、「近畿王家」に簒奪された事となる。実兄中大兄皇子がほぼ手中にしながら遂に果たし得なかった「倭国」の実権を獲得した。

 この時期(684年ー)朝鮮半島では新羅による、国内統一が進捗し、676年には「唐」の勢力は完全に排除され、政治、外交両面で安定的状況が現出していた。

 ここで敢えて私見を差し挟むならば、この統治体制では、天武天皇は「難波宮」に君臨し、高市皇子は「飛鳥宮」で全国統治の実務を行ったと推量される。高市皇子の勢力範囲だった大宰府には、有力廷臣の保護のもと、高市皇子の皇子又は薩夜麻の皇子が留まった可能性が高い。勿論これらの皇子の存在を示す歴史資料は見あたらないが、『二中歴』によれば「朱雀」以降「朱鳥」「大化」と九州年号が継続し、かつ又前述の古賀達也氏の論証をもとにすれば、最後に「大長」年号(704年ー713年)の存在が確認出来ることから、これら直系の皇子達の存在を疑うことは出来ない。

 しかし天武天皇の絶頂期は僅か2年余りに過ぎなかった。
『日本書紀』天武14年(685)9月24日条は天皇発病を記している。翌年(686年)7月20日、年号「朱鳥」を制定し、同年9月9日崩御した。
奇しくも「九州年号」「朱雀」は西暦換算684年ー685年である。
 この記録は、天武の生涯と一致する。「倭国王」薩夜麻の後を継いだ別人が、天武と同時に即位し同時に崩御する偶然は、ほぼ起こりえない事象と確信して誤りあるまい。




『6.⑧「朱鳥」年号の共有ー持統紀の疑惑』

 天武天皇崩御の後の王位継承者は誰であったか? 天武には有力な三人の皇子があった。高市皇子、大津皇子、草壁皇子。母はそれぞれ、胸形尼子、太田皇女、鵜野皇后であった。そのうち長子の高市皇子は既に大宰府を中心に、西国一帯に根拠を有し、行政経験も豊富であり、かつ又「壬申乱」に於ける功績も抜群で、天武即位後は近畿に在って全国を統括した。彼の後継者としての資質、資格を疑うものは、当時皆無であった。
以上の理路から天武の後継者は高市皇子であったと断言出来る。

 天武天皇崩御の直前朱鳥元年(686年)1月14日当時の首都「難波京」が出火、炎上した。従って高市の治世は「飛鳥宮」で始まった。同時に最初の仕事は「新益京」の建設だった。今日「藤原宮」として知られる、巨大宮殿及び新都の建設である。起工691年。

 然るに『日本書紀』はこの時期の鵜野皇后を天皇に仕立て上げて、「持統紀」を立てた。高市皇子に帰するすべてを、持統天皇の業績として換骨奪胎した。

 ここに興味深い事実がある。「持統紀」は朱鳥元年(686年)9月9日天武天皇が崩御され、鵜野皇后が即位もせぬまま政務を執ったと明記している。一方「九州年号」「朱鳥」も西暦換算686年ー694年であり元年が一致する。『日本書紀』『続日本紀』にはしばしば「九州年号」と同名年号が出現するが、元年が一致する年号は「朱鳥」以外存在しない。

 「持統紀」は朱鳥元年の翌年を無年号元年とし、以降11年までの治世を記述している。この事は「倭国王」の地位に就いて、年号を「朱鳥」と号した高市皇子の治世記録を、隠滅しこの世から抹殺した確かな証に違いない。いったい誰が何の目的で、かかる横暴を行ったのか、それが又『古事記』抹殺とどう関わるのか、章を改めて論じよう。 




『7.⑨高市皇子の薨去と藤原不比等の台頭』

 「朱鳥」年間の「倭国王」が高市皇子だったとすれば、その治世期間(686年ー694年)と『日本書紀』の高市皇子薨去記事(696年)の間に差異がある。

 この差異を解明する推量は、694年に至って俄かに発病した高市は、後継を指名し、この時、退位したと考えられる(しかしそれが誰かは不明である)。その後、病が重篤となり696年7月薨去(崩御)した。この様に考えれば一応の理解は得られる。

 一方、当時健在であった、天武天皇の正妃鵜野皇太后は、天皇崩御の直後、実子草壁皇子の強敵、大津皇子を謀反の疑い在りとして誅殺した(686年)。これにより、実子、草壁皇子の皇太子冊立に成功したが間もなく、これを病に失った(689年)。
 この深い失望に耐えて隠忍自重し、草壁皇子の長子、軽皇子の成長に望みをつないで、自らの直系の皇統継承の機会をうかがっていた。

 高市皇子の退位は、絶好の機会到来であった。しかし、高市皇子の系統が、当時正嫡であったとすれば、鵜野皇太后の野望は危険をはらむ企てだった。陰謀を含む宮廷工作に鵜野皇太后が起用したのは、当時逼塞状態だった中臣家の不比等であった。

 「壬申の乱」の際、大友皇子方だった中臣一門は、乱後失脚状態に陥った。その中で不比等は身軽く立ち回り、草壁皇子のサロンに出入りし、頭角を現したと伝えられる。(696年)7月、高市皇子薨去後間もない同年10月宮廷に出仕し、直広弐の位を得た。

 鵜野皇太后は(697年)8月、軽皇子を王位に就けた。当然大宰府にあったと思われる、高市皇子側政権は猛然反発し武力行使に及んだ。
 「隼人の乱」の勃発である。この内乱の「近畿」側指揮官は中臣不比等だったと思われる。(698年)8月の不比等のみに藤原姓を勅許したとの記録は、この事実の裏づけである。(700年)不比等の直広壱昇進は「隼人の乱」勝利確実の情勢に伴うものである。

 翌(701年)「近畿王家」側は、「唐」制に習って律令を定め、新たに年号を制定「大宝」と号した。

  『続日本紀』 巻第四 元明天皇 詔勅
  和銅元年(708年)正月十一日(戊申)
  「亡命山澤。挟蔵禁書。百日不首。復罪如初。」

  『続日本紀』 巻第四 元明天皇 詔勅
  和銅六年(713年)七月五日(壬戌朔)
  「秋七月丙寅。詔曰。授以勲級。本據有功。若不優異。何以勧奨。今討隼賊。
   将軍幷士卒等戦陣有功者1千280餘人。並宜隨勞授勲焉」

 冒頭、『古事記』隠滅の政治的理由(イ)として掲出した上記の記事は、すべて藤原不比等の功績を公的に称える、対九州王朝完全勝利記録であった。




『8.⑩遣唐使・粟田真人派遣』

 「隼人の乱」における勝敗の帰趨が事実上決着した(701年)宮廷第一の実力者藤原不比等は実に機敏に、使節・粟田真人を宗主国「唐」に派遣した。

 当時「唐」王朝の最高権力者、則天武后は倭国正使・粟田真人の教養と、立ち居振る舞いを高く評価し、いともたやすく「近畿王家」系の政権を「日本国」として承認した。

 和銅六年(713年)に至り、功成り名遂げた藤原不比等の脳裏に浮かんだ願望は、己の功績を永く歴史の記憶に留めると共に、自らの一族の、政治的地位強化だったと思われる。
 しかし彼の輝かしい功績とは、鵜野皇太后の悲願達成のため、高市皇子一族を消耗させた「隼人の乱」の勝利であり、又その結果を受けて実施し成功を得た遣唐使派遣であった。

 だが、この事実は公平に見て、時の政権に対するクーデターであり、国権の簒奪であるといわれても否定し得ない。もし「隼人の乱」の経緯を詳述すれば、文武天皇の政権は正当性を失う。もし100年放置して、『古事記』を継いだ歴史書が編纂されたとき、不比等の業績は功績としてではなく、無慈悲な簒奪として記録される可能性があった。

 宮廷内に不動の地位を築き、権力絶頂のこの時を除いて、自らの功業を正史にとどめる機会は、二度と訪れないと感じた不比等は、時の元明天皇に国史撰修の勅許を願った。
 国史編纂の主導権を握った不比等が、週仕官達に示した基本方針は次の三箇条だったと考えられる。


 (い)国の始まりを神武即位に求め、先在した「九州王朝」の事績を一切合切隠滅すること。

 (ろ)「乙巳の変」が起こった(645年)に「九州年号」と紛らわしい「大化」年号を挿入し、蘇我入鹿暗殺と律令制の導入及び、新都「難波宮」の成立が、同時期に起こり、あたかも大政治改革が不比等の実父鎌足主導のもと行われたかの如く造作する事。

 (は)「隼人の乱」の経緯を隠蔽し、「高市皇子」の「倭王」としての実績を完全消去、代わりに「持統紀」を造作・置換する事。


『日本書紀』は実際この三条件の下に編纂されている。この事実は何故『古事記』は抹殺されたか?と言う当論文冒頭の疑問に対する答えが、『日本書紀』における「持統紀」の造作・挿入と「隼人の乱」隠蔽である事を雄弁に物語っている。
 これまでの論究を、端的に表現すれば、我が国の歴史に、「持統紀」はなかったのである。




『9.結びにかえてー外国史書の証言』

 これまで一般に「唐」の正史としては『旧唐書』が重んじられてきた。『旧唐書』列伝は東夷の項に「倭国」「日本国」と峻別して記録している。『新唐書』は「日本伝」のみを記録している。特筆すべきは、『新唐書』「東夷伝」に神武以降光孝まで58代の日本国天皇名を記載している事である。

 このように他国の王朝歴代の王名表を正史中に記載する場合、その原資料は当然相手国の奉呈した国書中の記載による筈である。

 『新唐書』の場合、これは恐らく長安(701)の粟田真人奉呈の国書、によったと推定される。この時の日本国王名表は、当然和風諡号だった。

 これは「唐」側として、甚だ意思疎通に欠けるもので、不満の意が表明されたと思われる。この事態を受けて、「近畿王家」は大陸の風に倣って急遽漢風諡号を制定した。これは「唐」側に記録されている、開元初年(713)の粟田真人を正使とする遣唐使によって報告されたと推定される。

 但しこの開元初年の遣使記録は日本側には記録されていない。

 713年は和銅6年に当る時の天皇は元明天皇であるが、この漢風諡号の原資料は大宝元年(701)の遣唐使の報告であると推定される(付記参照)。

 但し『日本書紀』の天皇名と対比すると58代全体では、誤写5ヶ所、本名5ヶ所、本名誤写1ヶ所、異字名1ヶ所、欠落1ヶ所、の違いが存在する。

 『新唐書』の成立が1060年であるから、350年以前の資料によったものなので許容範囲の異同といえる。しかしながら、この記録の「永徽」初年条最後尾に「持統」とあるべきところが「総持」となっている事実は不可解で納得出来ない。これは「持統紀」が713年以降の、政治情勢の中で、「高市紀」の成り代わりだという私見の裏づけと確信する。

 『釈日本紀』引用「私記」に天平宝治6年~8年(762~764)に、淡海三船が漢風諡号を撰上した旨の、記事が存在する。このことは広く知られている。

 この事実は、これまでのわたしの推論と真っ向から対立する。これについての私見を披瀝して、この論文をしめくくりたい。


  ●『釈日本紀』元正天皇 養老4年5月21日条記事
    「一品舎人親王奉勅。修日本紀。至是功成奏上。紀卌巻系圖一巻」

  ●『釈日本紀』元正天皇 養老4年8月3日条記事
    「是日。右大臣正二位藤原朝臣不比等薨。」


『日本書紀』なるわが国の正史に、自己及び一族の保身のため、真実をいともたやすく、ねじ曲げ、恐るべき変改を加えた張本人は、その公布直後に身まかった。


 720年、新たな歴史書の内容に接した、皇族および廷臣の中には強い動揺が走った筈である。

 古来歴史は、その時の為政者の都合に合わせて、取捨選択される。いわば自明の法則である。しかしながら、実在の天皇を明確な理由もなく抹消し、別の天皇を捏造するなど、前代未聞の出来事であった。


 時に宮廷内の有力者の一人で、高市皇子の実子である長屋王(684~729)には、この正史は絶対容認出来なかった。

 『日本書紀』献上の翌年から早くも、講筵と称する説明会が、全宮廷人を対象に開かれ、しかも終筵まで数年を要したという記録が存在するのは、その証左であろう。

 この講筵の大義名分は、漢語表記を和語に翻訳して、普及を図る事とされているが、これ以降、弘仁4年(813)から、康保2年(965)まで、6度行われた講筵の場合は、これに当てはまると考えられるが、養老5年(721)の講筵は歴史事実の正当性を巡っての争いだった可能性が高い。

 正統を主張する長屋王は、順調に勢力を増大し、大納言、右大臣、左大臣、と地位を高めていった。一方藤原不比等の子息達、所謂、藤原4兄弟は当時まだ参議にも列せぬ若輩だり、政治情勢は藤原氏に不利に傾く一方であった。尋常一様の手段では打開できない。絶対絶命状態で、藤原4兄弟が画策した非常手段は、情報操作による陰謀だった。

これこそ後年「長屋王の変」(729年)として知られる事件の実態であった。

 わたしの推測によれば、この強硬手段に訴える恐怖政治で、世論の馴致を図った藤原一族は、自らの政治的影響力の強化に努めることを30数年。最後の仕上げは外交文書に明記された漢風諡号を改竄し、淡海三船による漢風諡号の撰上によって「持統」を明文化し国内に認知させる事であった。「 総持 ⇒ 総持統 ⇒ 持統 」この見え透いた言葉遊びによって、藤原不比等の野望は遂に完全達成された。


〔追記〕

 当論文の核心を為す「高市天皇説」については、当会代表・水野孝夫氏、同じく会員・伊東義彰氏との、所謂「古代史談義」のなかで、そのヒントを得た。わたしを含めてこの三人はお互いの住まいが近いこともあって、しばしば会合し、飛鳥地方の探訪や、発掘調査報告会参加など、密接な関係を持っている。そのようなある日、水野代表から「高市皇子は天皇だった可能性が在ります」と聞いたときは、意表を突かれ愕然とした。これまでわたしは高市皇子の存在を何ら顧慮してこなかったから当然の事だ。

 いろいろ調べる過程で、この仮説が、わたしの『古事記』に関する冒頭の疑問を解く鍵かも知れぬとの確信を得た。持つべきものは優れた友人である。


〔編集部注:筆者・飯田満麿氏は2009年1月10日逝去され、本稿は遺稿となりました。〕






 日本古倭奴也 去京師萬四千里 直新羅東南在海中島而居 東西五月行南北三月行 國無城郭聯木爲柵落 以草茨屋 左右小島五十餘皆自名國而臣附之 置本率一人検察諸部 其俗多女少男 有文字尚浮屠法 其官十有二等 其王姓阿毎氏

 自言初主號天御中主 至彦瀲凡三十二丗 皆以尊爲號 居筑紫城  彦瀲子神武立 更以天皇爲號徙治大和州 次曰綏靖 次安寧 次懿 次孝昭 次天安 次孝靈 次孝元 次開化 次崇神 次垂仁 次景行 次成務 次仲哀 仲哀死 以開化曽孫女神功爲王 次應神 次仁 次履中 次反正 次允恭 次安康 次雄略 次清寧 次顯宗 次仁賢 次武烈 次繼體 次安閑 次宣化 次欽明 欽明之十一年 直梁承聖元年 次海達 次用明亦曰目多利思比孤 直隋開皇末始與中國通 次崇峻 崇峻死 欽明之孫女雄古立 次舒明 次皇極

 其俗椎髻無冠帶 跣以行幅巾蔽後 貴者冒錦 婦人衣純色長腰襦結髪于後 至煬帝 賜其民錦綫冠飾以金玉 文布爲衣 左右佩銀長八寸 以多少明貴賤

 太宗貞觀五年 遣使者入朝 帝矜其遠 詔有司毋拘歳貢 遣新州刺史高仁表往諭 與王爭禮不平不肯宣天子命而還 久之 更附新羅使者上書

 永徽初 其王孝即位改元曰白雉 獻虎魄大如斗碼碯若五升器 時新羅爲高麗百濟所暴 高宗賜璽書 令出兵援新羅 未幾孝死 其子天豐財立 死 子天智立 明年 使者與蝦人偕朝 蝦亦居海島中 其使者鬚長四尺許珥箭於首 令人戴瓠立數十歩射無不中 天智死 子天武立 死 子 【 總持 】

 咸亨元年 遣使賀平高麗 後稍習夏音惡倭名更號日本 使者自言國近日所出以爲名 或云日本乃小國爲倭所并故冒其號 使者不以情故疑焉 又妄夸其國都方數千里 南西盡海 東北限大山 其外即毛人云

 長安元年 其王文武立 改元曰太寶 遣朝臣眞人粟田貢方物 朝臣眞人者猶唐尚書也 冠進冠 頂有華四披 紫袍帛帶 眞人好學能屬文進止有容 武后宴之麟殿授司膳卿還之

 文武死 子阿用立 死 子聖武立 改元曰白龜

 開元初 粟田復朝 請從諸儒授經 詔四門助趙玄默即鴻臚寺爲師 獻大幅布爲贄 悉賞物貿書以歸

 其副朝臣仲満慕華不肯去 易姓名曰朝衡 歴左補闕儀王友多所該識 久乃還

 聖武死 女孝明立 改元曰天平勝寶

 天寶十二載 朝衡復入朝 上元中 擢左散騎常侍 安南都護

 新羅梗海道 更明 越州朝貢

 孝明死 大炊立 死 以聖武女高野姫爲王 死 白壁立

 建中元年 使者眞人興能獻方物 眞人蓋因官而氏者也 興能善書 其紙似繭而澤 人莫識

 貞元末 其王曰桓武 遣使者朝 其學子橘免勢 浮屠空海願留肄業 歴二十餘年 使者高階眞人來請免勢等倶還 詔可

 次諾樂立 次嵯峨 次浮和 次仁明 仁明直開成四年 復入貢 次文 次清和 次陽成 次光孝 直光啓元年

 其東海嶼中 又有邪古波邪多尼三小王 北距新羅 西北百濟 西南直越州 有絲絮怪珍云




 日本、古(いにしえ)の倭奴也。 京師を去ること萬四千里、新羅の東南に直(あた)り、海中に在る島に居す。 東西は五月行、南北は三月行。 國に城郭無く、聯木を柵落と爲し、草茨を以って屋す。 左右の小島五十餘り、皆自ら國と名づけて臣を之に附す。 本率一人を置き、諸部を検察す。 其の俗に女多く男少し。 文字有り、浮屠の法を尚(とうと)ぶ。 其の官は十有二等。 其の王の姓は阿毎氏。

 自ら言う、初めの主は天御中主と號し、彦瀲に至り、凡そ三十二世、皆「尊」を以って號と爲し、筑紫城に居す。 彦瀲の子神武立ち、更に「天皇」を以って號と爲し、徙(ただ)大和州を治む。 次を綏靖と曰い、次は安寧、次は懿、次は孝昭、次は天安、次は孝靈、次は孝元、次は開化、次は崇神、次は垂仁、次は景行、次は成務、次は仲哀。 仲哀死し、開化の曽孫女の神功を以って王と爲す。 次は應神、次は仁、次は履中、次は反正、次は允恭、次は安康、次は雄略、次は清寧、次は顯宗、次は仁賢、次は武烈、次は繼體、次は安閑、次は宣化、次は欽明。 欽明の十一年は、梁の承聖元年に直(あた)る。 次は海達、次は用明、または目多利思比孤と曰い、隋の開皇末に直り、始めて中國と通ず。 次は崇峻。 崇峻死し、欽明の孫女の雄古立つ。 次は舒明、次は皇極。

 其の俗は椎髻し、冠帶無く、跣を以って行き、幅巾をもって後を蔽う。 貴者は錦を冒る。 婦人の衣は純色にして裙(もすそ)長く腰に襦(じゅ)。 髪を後に結う。 煬帝に至り、其の民に錦綫冠を賜い、金玉を以って飾り、文布を衣と爲し、左右銀 を佩(おび)ること長さ八寸、以って多少貴賤明らかなり。

 太宗の貞觀五年、使者を遣し入朝す。  帝、其の遠きを矜(あわ)れみ、有司に詔して歳ごとの貢に拘(とら)わるを毋(な)からしむ。 新州刺史の高仁表を遣し往きて諭さしめるも、王と禮を爭い平らかならず、肯(あえ)て天子の命を宣(の)べずして還る。 久しくして、更に新羅使者に附して上書す。

 永徽の初め、其の王孝即位し、改元して白雉と曰う。 虎魄(こはく)大いさ斗の如く、碼碯(めのう)五升器の若(ごと)きを獻ず。 時に新羅は高麗、百濟の暴す所と爲す。 高宗、璽書を賜い、出兵して新羅を援けしむ。 未だ幾ばくならずして孝死し、其の子天豐財立つ。 死し、子の天智立つ。 明年、使者蝦人と偕(とも)に朝す。 蝦はまた海島の中に居す。 其の使者は鬚の長さ四尺許(ばか)り、箭(や)を首に珥(はさ)み、人をして瓠を戴せて數十歩に立たしめ、射て中(あた)らざること無し。 天智死し、子の天武立つ。 死し、子の總持立つ。

 咸亨元年、使を遣し高麗を平らげしを賀す。 後に稍(やや)夏音を習い、倭の名を惡(にく)み、更に日本と號す。 使者自ら言う、國、日出ずる所に近きを以って名と爲すと。 或は云う、日本は乃ち小國、倭の并す所と爲す。 故に其の號を冒すと。 使者情を以ちてせず、故に焉を疑う。 又其の國都は方數千里と妄(みだ)りに夸(ほこ)る。 南・西は海に盡き、東・北は大山に限り、其の外は即ち毛人と云う。

 長安元年、其の王文武立ち、改元して太寶と曰う。 朝臣眞人粟田を遣し方物を貢ず。 朝臣眞人は、猶唐の尚書也。 進冠を冠り、頂に華四披し有り、紫袍・帛帶す。 眞人は好く學び、能く文を屬し、進止に容有り。 武后之を麟殿に宴し、司膳卿を授け、之を還す。

 文武死し、子の阿用立つ。 死し、子の聖武立ち、改元して白龜と曰う。

 開元の初め、粟田また朝し、諸儒に從い經を授けられんことを請う。 四門助の趙玄默に詔して即ち鴻臚寺の師と爲す。 大幅布を獻じ贄と爲し、悉く賞物貿書を以って歸る。

 其の副の朝臣仲満は華を慕い肯(あえ)て去らず、姓を易え名を朝衡と曰う。 左補闕・儀王友を歴て多く識該(そな)わり、久しくして乃(すなわ)ち還る。

 聖武死し、女の孝明立つ。 改元して天平勝寶と曰う。

 天寶十二載、朝衡また入朝す。 上元中、左散騎常侍、安南都護に擢(ぬき)んず。

 新羅、海道を梗(ふさ)ぎ、更に明を(もち)い、越州に朝貢す。

 孝明死し、大炊立つ。 死し、聖武の女の高野姫を以って王と爲す。 死し、白壁立つ。

 建中元年、使者の眞人興能、方物を獻ず。 眞人は蓋し官に因りて氏とする者也。 興能は書を善くす。 其の紙は繭に似て澤あり、人の識る莫(な)し。

 貞元の末、其の王を桓武と曰い、使者を遣し朝す。 其の學子の橘免勢、浮屠の空海は留りて業を肄(なら)わんことを願う。  二十餘年を歴て、使者の高階眞人來り、免勢等倶(とも)に還らんことを請う。 詔して可(ゆる)す。

 次に諾樂立つ。 次は嵯峨。 次は浮和。 次は仁明。 仁明は開成四年に直(あた)りまた入貢す。 次は文、次は清和、次は陽成。 次は光孝、光啓元年に直(あた)る。

  其の東の海嶼の中にまた邪古(やこ)・波邪(はや)・多尼(たね)の三小王有り。 北は新羅を距て、西北は百濟、西南は越州に直(あた)る。 絲絮・怪珍有りと云う。










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