「倭国」難波副都での「天下立評」を「原・大化改新」で覆い隠した
九州王朝「倭国」が副都難波宮で先鞭の天下立評(=長門以東評制施行)を、
のちの藤原京でのプロト大化改新(=郡制施行)で覆い隠し、亡きものにした
私が主張の〔大和朝廷「日本国」出生秘話:大和王朝は(難波副都で「天下立評」した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ〕は、〔古賀達也氏の前期難波宮九州王朝副都説〕(参照:「古賀達也の洛中洛外日記」:難波宮)が、原点であることは言うまでもありません。
古賀達也氏は〔前期難波宮は九州王朝「倭国」の副都であり、そこでの評制施行と大化の改新(郡制移行)について、次のように語る。
第140話 2007/08/26
「天下立評」8月の関西例会で、わたしは「平安時代の「評制」文書─『皇太神宮儀式帳』『神宮雑例集』の史料批判─」というテーマを発表しました。延暦23年(804)に成立した、伊勢神宮の文書『皇太神宮儀式帳』に「難波朝廷天下立評給時」という記事があり、しかも同文書は太政官に提出された解文、いわば公文書であることを紹介しました。すなわち、平安時代の近畿天皇家内部の公文書に九州王朝の制度であった「評」が記されていることを指摘しました。たとえば『日本書紀』はおろか、延暦16年(797)に成立した『続日本紀』でも、700年以前の「評」を「郡」に改竄されているのですが、ほぼ同時期に解文として提出された『皇太神宮儀式帳』には「天下立評」や「評督」という記述が使用されており、近畿天皇家のとった九州王朝隠滅方針にも、内部では温度差のあったことがうかがえます。
さらに、「難波朝廷天下立評給時」という記事は、九州王朝が評制を施行した時期を難波朝廷(孝徳天皇)の頃、すなわち650年頃であるとするもので、評制開始時期を記した現存する唯一の史料でもあり、貴重です。この頃、太宰府政庁よりもはるかに大規模な朝堂院様式を持つ前期難波宮が完成しており、このことと「天下立評」とは何かしら関係しているのではないかと想像しています。この件、今後も研究していきたいと思っています。
第186話 2008/08/23
八角堂と八角墳8月16日の関西例会はお盆の休みにもかかわらず、過去最高の参加人数でした。もちろん、内容も多岐に渡り充実しています。初参加の方もありました。多くの会員の皆さんの参加をお待ちしています。今回の発表で興味深かったのは竹村さんの「八角堂」と「八角墳」の紹介と関係を論じたものでした。ある説によれば、孝徳・斉明・天智・天武・持統・文武の陵墓が八角墳であるとのこと。前期難波宮の八角堂が出現してから、近畿天皇家の陵墓に「八角形」が採り入れられたとすれば、それは偶然ではなく、何らかの理由があったに違いありません。その理由は、まだわかりませんが、とても楽しみな現象であり研究テーマではないでしょうか。
おそらくこの研究は多利思北孤以後の九州王朝天子の陵墓研究へもつながる予感がしています。
第187話 2008/08/30
大化改新と前期難波宮最近、大化改新の研究に没頭しているのですが、通説を調べていて面白いことに気づきました。岩波の『日本書紀』解説にも書かれているのですが、大雑把に言えば、大化二年の改新詔を中心とする一連の詔は、歴史事実であったとする説と、「国司」などの大宝律令以後の律令用語が使用されていることから、『日本書紀』編纂時に創作された虚構とする説、その中間説で大宝律令や浄御原令の時の事績を孝徳期に遡らせたものとする説があります。そして、孝徳期にはこのような改新は無かったとするのが学界の大勢のようなのです。
ところが、孝徳期に大化改新詔のような律令的政治体制は無かったとする学界の大勢には、大きな弱点、目の上のたんこぶがあったのです。それは前期難波宮の存在です。
大規模な朝堂院様式を持つ前期難波宮は、どう見ても律令体制を前提とした宮殿様式です。それは、後の藤原宮や平城京と比較しても歴然たる事実です。この事実が今も大和朝廷一元史観の歴史家たちを悩ませているのです。
たとえば、山尾幸久氏の論稿「『大化改新』と前期難波宮」(『東アジアの古代文化」133号、2007年)にも如実に現れています。そこには、次のような記述があります。
右のような「大化改新」への懐疑説に対して、『日本書紀』の構成に依拠する立場から、決定的反証として提起されているのが、前期難波宮址の遺構である。もしもこの遺構が間違いなく六五〇〜六五二年に造営された豊碕宮であるのならば、「現御神天皇」統治体制への転換を成し遂げた「大化改新」は、全く以て疑う余地もない。その表象が現実に遺存しているのだ。(同誌11頁)
このように、大化改新虚構説に立つ山尾氏は苦渋を示された後、前期難波宮の造営を20年ほど遅らせ、改新詔も前期難波宮も天武期のものとする、かなり強引な考古学土器編年の新「理解」へと奔られているのです。
ようするに、学界の大勢を占める大化改新虚構説は前期難波宮の存在の前に、論理上屈服せざるを得ないのですが、わたしの前期難波宮九州王朝副都説に立てば、この問題は氷解します。すなわち、650年頃、前期難波宮に於いて九州王朝が評制を中心とする律令的政治体制を確立したと考えれば、前期難波宮の見事な朝堂院様式の遺構は、従来の考古学編年通り無理なく説明できるのです。(つづく)
第188話 2008/08/31
「大化改新」論争と西村命題第187話において、山尾幸久氏の論稿「『大化改新』と前期難波宮」(『東アジアの古代文化」133号、2007年)を紹介し、大化改新虚構説にとって前期難波宮の存在が致命傷となっていることを述べましたが、管見では1969年に発行された『シンポジウム日本歴史3 大化改新』(井上光貞司会、学生出版)でも、井上光貞氏、門脇禎二氏、関晃氏、直木孝次郎氏という斯界の泰斗が、前期難波宮の存在を大化改新真偽論に関わる主要テーマの一つとして、繰り返し論争している様子が収録されています。また、1986年発行の『考古学ライブラリー46 難波京』(中尾芳治著、ニュー・サイエンス社)でも、「孝徳朝に前期難波宮のように大規模で整然とした内裏・朝堂院をもった宮室が存在したとすると、それは大化改新の歴史評価にもかかわる重要な問題である。」「孝徳朝における新しい中国的な宮室は異質のものとして敬遠されたために豊碕宮以降しばらく中絶した後、ようやく天武朝の難波宮、藤原宮において日本の宮室、都城として採用され、定着したものと考えられる。この解釈の上に立てば、前期難波宮、すなわち長柄豊碕宮そのものが前後に隔絶した宮室となり、歴史上の大化改新の評価そのものに影響を及ぼすことになる。」(93頁)と、前期難波宮の存在が大化改新論争のキーポイントであることが強調されています。
前期難波宮が『日本書紀』の記述通り652年に造営されたことは考古学上、ほぼ問題ない事実であると思われるのですが、こうした考古学上の見解以外にも、大化改新虚構論や、山尾さんの天武期に前期難波宮が造営され、改新詔もその時期に出されたとする説には大きな欠点があります。それは西村命題(第184話参照)をクリアできないという点です。
もし、山尾説のように天武が近畿では前例のない大規模な前期難波宮を造営し、改新を断行したのなら、天武の子供や孫達が編纂させた『日本書紀』にその通り記せばいいではないですか。何故、天武の業績を『日本書紀』編纂者たちが隠す必要があるのでしょうか。孝徳期にずらす必要があるのでしょうか。このように、山尾説は「それならば、何故『日本書紀』は今のような内容になったのか」という西村命題に答えられないのです。(つづく)
第196話 2007/11/16
「大化改新詔」50年移動の理由第140話 「天下立評」で紹介しましたように、評制が難波朝廷(孝徳天皇)の頃、すなわち650年頃に施行されたことは、大和朝廷一元史観でも有力説となっています。これを多元史観の立場から理解するならば、九州王朝がこの頃に評制を施行したと考えられるのです。その史料根拠の一つである、延暦23年(804)に成立した伊勢神宮の文書『皇太神宮儀式帳』の「難波朝廷天下立評給時」という記事から、それは「難波朝廷」の頃というだけではなく、前期難波宮九州王朝副都説の成立により、文字通り九州王朝難波副都で施行された制度と理解できます。太宰府政庁よりもはるかに大規模な朝堂院様式を持つ前期難波宮であれば、中央集権的律令制としての「天下立評」を実施するのにまったく相応しい場所と言えるのではないでしょうか。そして、この点にこそ『日本書紀』において、大化改新詔が50年遡らされた理由が隠されています。
九州年号の大化2年(696)、大和朝廷が藤原宮で郡制施行(改新の詔)を宣言した事実を、『日本書紀』編纂者達は50年遡らせることにより、九州王朝の評制施行による中央集権的律令体制の確立を自らの事業にすり替えようとしたのです。その操作により、九州王朝の評制を当初から無かったことにしたかったのです。『日本書紀』編纂当時、新王朝である大和朝廷にとって、自らの権力の権威付けのためにも、こうした歴史改竄は何としても必要な作業だったに違い有りません。
このように考えたとき、「大化改新詔」が50年遡らされた理由が説明できるのですが、しかしまだ重要な疑問が残っています。それは、何故『日本書紀』において前王朝の年号である大化が使用されたのか、この疑問です。九州王朝の存在を隠し、その業績を自らのものと改竄するのに、なぜ九州年号「大化」を消さなかったのでしょうか。
これは大変な難問ですが、わたしは次のような仮説を考えています。藤原宮で公布された「建郡」の詔書には大化年号が書かれていた。この仮説です。恐らくは各地の国司に出された建郡の命令書にも大化2年と記されていたため、この命令書が実際よりも50年遡って発行されたとする必要があり、『日本書紀』にも「大化2年の詔」として、孝徳紀に記されたのではないでしょうか。
しかし、この仮説にも更なる難問があります。それなら何故、藤原宮で出された「改新詔」に他王朝の年号である大化が使用されたのかという疑問です。わたしにはまだわかりませんが、西村秀己さん(古田史学の会全国世話人、向日市)は次のような恐るべき仮説を提起されています。「藤原宮には九州王朝の天子がいた」という仮説です。すなわち、「大化改新詔」は形式的には九州王朝の天子の命令として出されたのではないかという仮説です。皆さんはどう思われますか。わたしには、ここまで言い切る勇気は今のところありません。これからの研究課題にしたいと思います。
第202話 2008/12/30
「白雉改元儀式」盗用の理由拙論「白雉改元の史料批判」(『古田史学会報』 No.76、2006年10月)において、『日本書紀』孝徳天皇白雉元年(650)二月条の白雉改元儀式記事は、本来九州年号白雉元年に当たる孝徳紀白雉三年(652)二月条から切り取られたものであることを論証しました。すなわち、『日本書紀』の白雉改元儀式は九州王朝で行われたものであるとしたのです。そして、この論文末尾に改元儀式が行われたのは、孝徳紀白雉三年(652)九月に完成した前期難波宮はなかったかと示唆しました。それまでは太宰府政庁跡がその舞台ではと考えたこともあったのですが、『日本書紀』に記された大規模な儀式の場としては、太宰府政庁跡は規模が小さいように思えていました。ところが、前期難波宮であれば太宰府よりもはるかに大規模な朝堂院様式の宮殿でもあり、規模的には全く問題ありません。
考古学的にも「戊申年」(648)木簡の出土など、年代的にも矛盾はありませんし、「その宮殿の状(かたち)、ことごとく論(い)ふべからず」(『日本書紀』白雉三年九月)と、その威容も記されているとおりの規模です。更には、天武紀朱鳥元年(686)正月条の難波の大蔵省からの失火で宮室が悉く焼けたという記事と対応するように、前期難波宮址には火災の痕跡があり、『日本書紀』の記述と考古学的状況が見事に一致しています。
これらの事実や大和朝廷の宮殿様式の変遷の矛盾などから、わたしは前期難波宮九州王朝副都説へと進んだのですが、30個近くある九州年号から、何故白雉だけが改元儀式を『日本書紀』編者は盗用したのだろうかと考えていました。大化や朱鳥も『日本書紀』に盗用されてはいますが、改元儀式まで盗用されているのは白雉だけなのです。
大和朝廷や『日本書紀』編纂者にとって、白雉改元儀式そのものも盗用しなければならなかった理由があったと考えさせるを得ません。そうでなければ、存在を消したい前王朝の年号や改元儀式など自らの史書『日本書紀』に記す必要など百害有って一利無しなのですから。
こうした視点から『日本書紀』を読み直しますと、二つの理由が見えてきました。一つは、主客の転倒です。白雉を献上された孝徳天皇を主とし、献上の輿をかついだ伊勢王(恐らくは難波朝廷で評制を施行した九州王朝の天子)を臣下とするためです。もう一つは、その舞台である前期難波宮を大和朝廷の宮殿と見せかけるためです。
もし、前期難波宮が本当に孝徳の宮殿であり、白雉改元儀式が遠く九州の太宰府などで行われた儀式だとすれば、『日本書紀』に盗用しなければならない必要性など全くありません。こうした視点からも、前期難波宮九州王朝副都説は有効な仮説ではないでしょうか。すなわち、「それなら何故『日本書紀』は今のような内容になったのか」という西村命題に応えられる仮説なのです。
なお古田先生は、『なかった−真実の歴史学−』第五号(ミネルヴァ書房、2008年6月)所収「大化改新批判」において、「難波長柄豊碕宮」を福岡市の愛宕神社に比定されています。考古学的遺構など今後の展開が注目されます。
第203話 2008/12/31
2009年新年賀詞交換会202話を書き終わってから気がついたのですが、孝徳紀の白雉改元儀式はかなり詳細に記述されています。当初は、九州王朝系史書をからの盗用かなと考えていたのですが、もしかすると孝徳自身が九州王朝の臣下の一人として列席していたのではないかと思うようになりました。場所も大阪ですから大和からもそう離れてはいませんし、『日本書紀』の記載するところでは、孝徳の宮殿を難波長柄豊碕宮としていますから、おそらく前期難波宮の北方に位置する長柄に自らの宮殿を構えていたのではないでしょうか。
九州王朝による白雉改元の儀式が完成間近の前期難波宮で執り行われることになり、孝徳は臣下ナンバーワンとして列席した可能性大です。ですから、孝徳や「大和朝廷」の官僚達はその見事な宮殿と絢爛たる改元儀式を実際に参加し、実見したため、『日本書紀』に詳しく掲載できたのではないでしょうか。ただし、主客を置き換え、前期難波宮を自らの宮殿であるかのような記述にして。
前期難波宮九州王朝副都説は万葉集の史料批判にも有効のようで、このことについてもいつか述べたいと思います。
さて、2009年1月10日、古田史学の会では古田先生のご自宅近くの向日市物集女公民館にて、古田先生をお迎えして新年賀詞交換会(参加無料)を開催します。詳細は次の通りです。終了後、近くの焼き肉やさんで懇親会(有料、定員あり)も開催します。ちょっと交通の便は不便ですが、古田先生にお会いできる数少ない機会です。ふるってご参加下さい。
それでは皆さん、良いお年をお迎え下さい。
日時 2009年1月10日(土)午後1時〜3時 場所 向日市物集女公民館(向日市物集女中条26)電話075−921−0048
阪急らくさい口駅 西へ徒歩約13分 ※会場はややわかりにくい場所ですので、事前に地図などで調べてからおこし下さい。
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第220話 2009/08/10
条坊都市太宰府と前期難波宮九州王朝の首都太宰府に対して、前期難波宮を九州王朝の副都とする仮説をわたしは提案していますが、実はこの仮説にも弱点がありました。それは、礎石を持つ瓦葺きの太宰府政庁(2期)に対して、その後(九州年号の白雉元年、652年)に造られたとした前期難波宮が朝堂院様式の大規模な宮殿でありながら堀立柱で板葺きであるという点でした。これは宮殿様式の発展から見て、ちょっとアンバランスかなという思いがあったのです。しかしこの問題も井上氏の研究成果により発展解消できそうなのです。新たな仮説によれば、九州王朝の宮殿様式の発展が次のような順序になるからです。まず、7世紀初頭(九州王朝の倭京元年、618年)に、通古賀地区の字扇屋敷を宮域とする初期太宰府の宮殿、仮に同地にある王城神社にちなんで「王城」宮と呼んでおきますが、この「王城」宮を中心とする条坊都市初期太宰府が建都され、九州年号の白雉元年(652年)に前期難波宮(朝堂院様式・堀立柱)を副都として創設、その後に太宰府政庁(2期、朝堂院様式・礎石造り)が新設されるという順序です。
これですと、最も新しい王宮となる太宰府政庁(2期)が朝堂院様式と礎石を持っていることになり、前期難波宮がまだ礎石造りでないこととうまく整合するのです。なお、初期太宰府の「王城」宮がどのような様式であったかは不明ですが、この発展史からすれば、掘立柱の板葺きであった可能性が大です。今後の考古学的調査の結果や研究を待ちたいと思います。
さらにこの宮殿発展史にはもう一つの視点が重要です。それは、条坊都市中の宮殿の位置です。(つづく)
第224話 2009/09/12
「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」前期難波宮は九州王朝の副都とする説を発表して、2年ほど経ちました。古田史学の会の関西例会では概ね賛成の意見が多いのですが、古田先生からは批判的なご意見をいただいていました。すなわち、九州王朝の副都であれば九州の土器などが出土しなければならないという批判でした。ですから、わたしは前期難波宮の考古学的出土物に強い関心をもっていたのですが、なかなか調査する機会を得ないままでいました。ところが、昨年、大阪府歴史博物館の寺井誠さんが表記の論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号、2008年11月)を発表されていたことを最近になって知ったのです。それは、多元的古代研究会の機関紙「多元」No.93(2009年9月)に掲載された佐藤久雄さんの「ナナメ読みは楽しい!」という記事で、寺井論文の存在を紹介されていたからです。佐藤さんは「前期難波宮の整地層から出土した須恵器甕について、タタキ・当て具痕の比較をもとに、北部九州から運ばれたとする。」という『史学雑誌』2009年五月号の「回顧と展望」の記事を紹介され、「この記事が古賀仮説を支持する考古学的資料の一つになるのではないでしょうか。」と好意的に記されていました。
この佐藤稿を読んで、わたしが小躍りして喜んだことはご理解いただけると思います。そしてすぐに、京都の資料館や図書館に『九州考古学』第83号があるかどうか調べたのですが、残念ながらありませんでした。そこで、知人にメールで調査協力を要請したところ、正木裕さん(古田史学の会会員)が同論文を入手され、送っていただきました。有り難いことです。
同論文を一読再読三読したわたしは、この論文が大変優れた研究報告であることを理解しました。大和朝廷一元史観に立ってはいるものの、考古学者らしい実証的な調査と自ら確認した情報に基づいて論述されていたからです。(つづく)
第226話 2009/09/22
難波宮の仮説と考古学前期難波宮九州王朝副都説に対して、古田先生は九州の土器など考古学的痕跡の必要性を指摘されたのですが、この「仮説と考古学の一致」の問題は大変重要な指摘です。特に、『日本書紀』孝徳紀に記された「なにわの宮」の所在地に関する仮説にとって、それが仮説として成立する上で、次の諸点の提示は絶対条件です。1.七世紀中頃の大規模な宮殿遺構という考古学的事実が存在すること。
2.その規模は、『日本書紀』に記されたような白雉改元儀式が可能な規模であること。
3.評制を施行した「難波朝廷」に相応しい大規模な官衙跡(官僚機構)が存在すること。
などです。これらの存在、すなわち考古学的出土事物の提示が仮説成立の絶対必要条件なのです。いわゆる孝徳紀の「なにわの宮」の所在地を筑前や筑後、あるいは豊前とする仮説を提起したいのであれば、この提示が必要不可欠なのです。
ところが、これら諸条件を満足している仮説は、わたしの前期難波宮九州王朝副都説だけです。しかも、「なにわ」という地名も現存しています。第225話で触れた前期難波宮東方官衙の大規模遺跡の発見も、前期難波宮九州王朝副都説をますます確かなものにしたと言えるのではないでしょうか。
第235話 2009/11/15
難波天王寺、聖徳が造る現存最古の九州年号群史料である『二中歴』年代歴ですが、その九州年号の下に記された細注の記事、特に仏教関連記事が九州王朝下のものであるとする論文「九州王朝仏教史の研究−経典受容記事の史料批判」(『古代に真実を求めて』第三集、2000年)を発表したことがあります。その細注の中で、倭京二年(619年)「難波天王寺聖徳造」という記事の難波について、「年代歴に見える『難波天王寺』を、九州の難波とする可能性も捨て難い。この点、今後の課題として保留しておきたい。」(139頁)と態度を保留していたのですが、この問題について解決を見ました。
結論から言えば、この難波は摂津の難波と考えざるを得ません。なぜなら、同じ『二中歴』年代歴の「白鳳」の細注に「観世音寺東院造」とあり、「筑紫観世音寺」ではなく、単に「観世音寺」とだけしかないことは、この記事が筑紫で成立したからで、筑紫の読者に対してその場所を殊更に記す必要が無かったと考えられます。それに対し、天王寺には「難波天王寺」と、その場所が難波であると記す必要があったということは、この天王寺は筑紫ではないことを示します。もし筑紫にあったのであれば、筑紫で成立した細注に単に「天王寺」と記せば、読者にはわかるはずですから。したがって、「難波」とわざわざ表記したのは、筑紫ではなく、遠く摂津の難波にある天王寺であることを説明する必要があったと考えるべきなのです。
こうした史料事実の示す論理性から、この難波天王寺は摂津難波の天王寺と理解するよう、細注筆者は読者に要求していることが明かとなったのです。そうすると、この難波天王寺は九州王朝の聖徳と呼ばれる人物が建立したことになりますが、この倭京二年(619年)が九州王朝天子・多利思北孤の晩年に当たることから、聖徳とは皇太子の利歌弥多弗利であった可能性が大きいように思います。そして、この聖徳・利歌弥多弗利の活躍記事が、『日本書紀』の「聖徳太子」記事として盗用されたのではないでしょうか。
更にもう一つ、重要な問題があります。それは摂津難波に九州王朝が天王寺を建立したのであれば、当時、摂津難波は九州王朝の直轄支配領域であったことになります。だからこそ、九州年号の白雉元年(652年)に九州王朝は副都として前期難波宮を建設することができたと思われるのです。
それでは、九州王朝はいつ頃摂津難波を支配領域としたのでしょうか。このテーマについては別に論じたいと思います。
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第242話 2010/01/31
太宰府と前期難波宮2月27日、東京で講演しました(多元的古代研究会主催・文京区民センター)。
「太宰府と前期難波宮 ーー九州年号と考古学による九州王朝史復原の研究」というテーマで、7世紀段階の九州王朝研究の成果をまとめた内容です。更には関西例会で報告された各氏の説も紹介させていただきます。これを期に、関西と関東の研究交流が進むことを願っています。
講演内容の項目は次の通りです。関東の皆さんのご参加をお待ちしております。太宰府と前期難波宮
九州年号と考古学による九州王朝史復原の研究
2010/02/27
古賀達也
1.白雉改元と前期難波宮
1).大和朝廷王宮編年の矛盾
2).『日本書紀』白雉改元記事の2年移動 652年→650年
3).史料と考古学の一致 「天下立評」「律令体制」と7世紀中頃の「朝堂院」
2.九州年号と遷都遷宮
【資料】正木 裕 九州王朝の改元と『書紀』等の遷都遷宮関連記事の対応
2009/11/21 古田史学の会・関西例会
3.前期難波宮の土器
【資料】寺井 誠 「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」
『九州考古学』第83号 2008/11/29 九州考古学会
4.前期難波宮と藤原宮木簡
【資料】田中 卓 「古事記における国名とその表記」
『古典籍と資料 田中卓著作集10』国書刊行会 平成5年
5.太宰府条坊と政庁
【資料】井上信正 「大宰府条坊区画の成立」
『考古学ジャーナル』No.588 平成21年7月号
6.九州王朝王宮・王都の変遷
古賀旧説:太宰府政庁第II期(条坊都市・倭京元年618年)→前期難波宮(副都・白
雉元年652年)→近江宮(白鳳元年661年)
古賀新説:太宰府条坊(通古賀王城宮・倭京元年618年)→前期難波宮(副都・白雉
元年652年)→近江宮(白鳳元年661年)→太宰府政庁第II期(条坊拡張)
7.「白雉二年九月吉日」奉納面の発見(西条市丹原町福岡八幡神社蔵)
【資料】大下隆司 「白雉二年銘奉納面」について
2009/08/15 古田史学の会・関西例会
8.九州王朝王族の探索
【資料】西村秀己 「橘諸兄・考」 2009/12/19 古田史学の会・関西例会
第243話 2010/02/06
前期難波宮と番匠の初め第224話において、寺井誠氏の論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号 2008/11/29 九州考古学会)を紹介しましたが、そこで指摘された前期難波宮から北部九州の須恵器が出土しているという考古学的事実が何を指し示すのか、どのような証明力を有するのかをずっと考えてきました。というのも、通説通り前期難波宮が孝徳の王宮であれば、その建設に北部九州の工人達も参加したということになり、前期難波宮が九州王朝の副都であったという特段の証明力にならないという反論が予想されたからです。しかも、前期難波宮からは北部九州以外の土器も出土していますから、尚更です。
こうした学問上の論証力という視点から、寺井論文の持つ意味についてより深い考察が必要と考え続けてきたのです。そして、寺井論文を何度も熟読するうちに、やがて論点がはっきりと見えてきたのです。その結論は、寺井論文はわたしの前期難波宮九州王朝副都説を間違いなく証明する貴重な考古学的事実を指し示しているというものでした。
寺井論文で紹介された北部九州の須恵器とは、「平行文当て具痕」のある須恵器で、「分布は旧国の筑紫に収まり、早良平野から糸島東部にかけて多く見られる」ものとされています。すなわち、ここでいわれている北部九州の須恵器とは厳密にはほぼ筑前の須恵器のことであり、九州王朝の中枢中の中枢とも言うべき領域から出土している須恵器なのです。
この事実は重大です。何故なら、土器だけが難波に行くわけではなく、当然糸島博多湾岸の人々の移動に伴って同地の土器が難波にもたらされたはずです。そうすると九州王朝中枢領域の人々が前期難波宮の建築に関係したこととなり、九州王朝説に立つならば、前期難波宮は孝徳の王宮などでは絶対に有り得ません。
何故なら、もし前期難波宮が通説通り孝徳の王宮であるのならば、九州王朝は大和の孝徳のために自らの王宮、たとえば「太宰府政庁」よりもはるかに大規模な宮殿を自らの中枢領域の工人達に造らせたことになるからです。こんな馬鹿げたことをする王朝や権力者がいるでしょうか。九州王朝説に立つ限り、こうした理解は不可能です。寺井氏が指摘した考古学的事実を説明できる説は、やはり九州王朝副都説しかないのです。
しかも、九州王朝の工人たちが前期難波宮建設に向かった史料根拠もあるのです。その史料とは『伊予三島縁起』で、この縁起は九州年号が多用されていることで、以前から注目されているものです。その中に「孝徳天王位。番匠初」という記事があり、孝徳天皇の時代に番匠が初まるという意味ですが、この番匠とは王都や王宮の建築のために各地から集められる工人のことです。この番匠という制度が孝徳天皇の時代に始まったと主張しているのです。すなわち、九州から前期難波宮建設に集められた番匠の伝承が縁起に残されていたのです。「番匠の初め」という記事は『日本書紀』にはありませんから、九州王朝の独自史料に基づいたものと思われます。
このように寺井論文が指摘した糸島博多湾岸の須恵器出土と『伊豫三嶋縁起』の「番匠の初め」という、考古学と伝承史料の一致は、強力な論証力を持ちます。ちなみに、『伊豫三嶋縁起』の「番匠の初め」という記事に着目されたのは正木裕さん(古田史学の会会員)で、古田史学の会関西例会で発表されました。ここまで論証が進むと、前期難波宮九州王朝副都説は揺るぎなく確立された最有力説と思うのですが、いかがでしょうか。
第248話 2010/03/13
法隆寺と難波『日本書紀』天智紀に記された法隆寺(若草伽藍)焼失後、和銅年間頃、跡地に移築された現法隆寺の移築元寺院の所在地や名称について、古田学派内で検討が進められてきましたが、未だ有力説が提示されていないように見えます。わたし自身も、倭国の天子である多利思北孤の菩提寺ともいうべき寺院ですから、九州王朝倭国の中枢領域にあったはずと考え、筑前・筑後・肥前・肥後を中心に調査検討を行ってきましたが、有力な手掛かりを見いだせずにきました。しかし、近年到達した前期難波宮九州王朝副都説により、摂津難波も九州王朝が副都をおけるほどの直轄支配領域であるという認識を持つに至ったことから、この地も法隆寺移築元寺院探索の調査対象に加えるべきではないかと考えています。
前期難波宮が九州王朝の副都として創建されたのは652年、九州年号の白雉元年ですが、それ以前の七世紀前半から摂津難波が九州王朝にとって寺院建立の有力地であった史料根拠があります。それは現存最古の九州年号群史料として著名な『二中歴』所収「年代歴」です。そこには、九州年号「倭京」の細注に次の記事があります。
「二年(619年)、難波天王寺を聖徳が建てる。」(古賀訳) 倭京二年に九州王朝の聖徳と呼ばれていた人物が難波に天王寺を建てたという内容ですが、当初わたしはこの記事の難波を博多湾岸の「難波」という地名と考え、その地に天王寺が建てられたと考えていました。しかし、筑前の「難波」であれば、九州王朝内部の記事ですから、単に天王寺を建てたとだけ記せば、九州王朝内の読者には判るわけですから、「難波」は不要なのです。しかし、あえて「難波天王寺」と記されているからには、筑前ではなく摂津難波の難波であることを特定するための記述と考えざるを得ません。
たとえば、同じ『二中歴』「年代歴」の九州年号「白鳳」の細注に「観世音寺東院造」と寺院建立記事がありますが、こちらには観世音寺の場所に関する記述がありません。それは観世音寺と言えば太宰府の観世音寺であることは九州王朝内の読者には自明なことであり、従って、わざわざ「筑紫観世音寺」などとは表記されなかったのです。ですから、「難波天王寺」とあれば、読者には摂津難波の天王寺と理解されるように記されたと考えるほかないのです。
また、倭京二年の建立とされていますが、倭京は多利思北孤の時代の九州年号です。その二年に「聖徳」という人物が建てたというからには、これも同様に聖徳と記せばわかるほどの九州王朝内の有力者と考えられます。恐らく、多利思北孤の太子である利歌弥多弗利のことではないでしょうか。多利思北孤の太子である利歌弥多弗利が聖徳と称されていれば、文字通り「聖徳太子」となり、この利歌弥多弗利の伝承や業績が、『日本書紀』に盗用されたのものが、いわゆる聖徳太子記事ではないかと推察しています。
このように、九州王朝は七世紀前半の倭京二年(619年)に、難波に天王寺を建立していた史料根拠があるのですから、天王寺以外にも多利思北孤自身が建立した寺院が摂津難波にあっても不思議ではないのです。地理的にも、遠く九州の寺院を移築するよりも、摂津難波の寺院を移築した方がはるかに容易ですから。
このような認識の進展により、法隆寺移築元寺院の探索地に摂津難波を加えなければならないと考えています。更には、難波の四天王寺の調査研究も九州王朝との関係から再検討しなければならないと思っているのです。
第268話 2010/06/19
難波宮と難波長柄豊崎宮第163話「前期難波宮の名称」で言及しましたように、『日本書紀』に記された孝徳天皇の難波長柄豊碕宮は前期難波宮ではなく、前期難波宮は九州王朝の副都とする私の仮説から見ると、それでは孝徳天皇の難波長柄豊碕宮はどこにあったのかという問題が残っていました。ところが、この問題を解明できそうな現地伝承を最近見いだしました。それは前期難波宮(大阪市中央区)の北方の淀川沿いにある豊崎神社(大阪市北区豊崎)の創建伝承です。『稿本長柄郷土誌』(戸田繁次著、1994)によれば、この豊崎神社は孝徳天皇を祭神として、正暦年間(990-994)に難波長柄豊碕宮旧跡地が湮滅してしまうことを恐れた藤原重治という人物が同地に小祠を建立したことが始まりと伝えています。
正暦年間といえば聖武天皇が造営した後期難波宮が廃止された延暦12年(793年、『類従三代格』3月9日官符)から二百年しか経っていませんから、当時既に聖武天皇の難波宮跡地(後期難波宮・上町台地)が忘れ去られていたとは考えにくく、むしろ孝徳天皇の難波長柄豊碕宮と聖武天皇の難波宮は別と考えられていたのではないでしょうか。その上で、北区の豊崎が難波長柄豊碕宮旧跡地と認識されていたからこそ、その地に豊崎神社を建立し、孝徳天皇を主祭神として祀ったものと考えざるを得ないのです。
その証拠に、『続日本紀』では「難波宮」と一貫して表記されており、難波長柄豊碕宮とはされていません。すなわち、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮の跡地に聖武天皇は難波宮を作ったとは述べていないのです。前期難波宮の跡に後期難波宮が造営されていたという考古学の発掘調査結果を知っている現在のわたしたちは、『続日本紀』の表記事実のもつ意味に気づかずにきたようです。
その点、10世紀末の難波の人々の方が、難波長柄豊碕宮は長柄の豊崎にあったという事実を地名との一致からも素直に信じていたのです。ちなみに、豊崎神社のある「豊崎」の東側に「長柄」地名が現存していますから、この付近に孝徳天皇の難波長柄豊碕宮があったと、とりあえず推定しておいても良いのではないでしょうか。
今後の考古学的調査が待たれます。また、九州王朝の副都前期難波宮が上町台地北端の高台に位置し、近畿天皇家の孝徳の宮殿が淀川沿いの低湿地にあったとすれば、両者の政治的立場を良く表していることにもなり、この点も興味深く感じられます。
第273話 2010/07/31
九州王朝の紫宸殿今井久さん(西条市・古田史学の会会員)が「発見」された西条市(旧東予市)に現存する「紫宸殿」という字地名について、合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人)が考察を進められています。今日も何度がお電話をいただき、九州王朝の紫宸殿についてわたしの見解を申し上げました。そこでの主なテーマは、九州王朝はいつから自らの天子の宮殿を紫宸殿と称するようになったか、ということでした。下限ははっきりしています。大宰府政庁跡に現存する字地名「紫宸殿」の時代です。大宰府政庁第2期遺構が九州王朝の紫宸殿に相当しますから、その時期は太宰府条坊成立よりも後の7世紀後半です。もう少し厳密に言うならば、老司1式瓦が出土した観世音寺創建よりもやや後れる頃、恐らくは白鳳年間(661−683)以後と推定しています(大宰府政庁2期は老司2式瓦が主)。『二中歴』によれば観世音寺の建立は白鳳期とされているからです。
ですから、7世紀第4四半期頃には九州王朝は大宰府政庁遺構を紫宸殿と称していたと推定できます。それではそれ以前はどうだったのでしょうか。わたしが九州王朝の副都としている前期難波宮にも紫宸殿と呼ばれる宮殿があったのではないかと考えています。
九州年号の白雉改元(652年)の儀式の様子が『日本書紀』では2年溯った650年に記されていますが、前期難波宮で行われたと考えられる白雉改元の儀式において、その宮殿の門が「紫門」と記されています。中国では天子の位を「紫宸」とし、その宮殿を紫宸殿とすることが『旧唐書』などに見えますから、「紫」は天子を表す色であり、「紫門」は天子の宮殿の門のことであり、とすればその奥にある天子の宮殿は紫宸殿と称された可能性が高いように思われます。
更に言えば、前期難波宮は「難波京」の北端にあり「北闕」様式と呼ばれる宮殿様式です。大宰府政庁も条坊都市の北端にあり、同様に「北闕」様式の宮殿です。したがって、両者の宮殿は共に紫宸殿と呼ばれていたのではないでしょうか。都の中心に宮域を持つ『周礼』様式の藤原宮とは明らかに政治思想性が異なった様式なのです。
このように、九州王朝の紫宸殿は副都である前期難波宮が初めてではないかと考えていますが、いかがでしょうか。
第279話 2010/09/11
難波京条坊の初確認9月1日から2日にかけてのwebや新聞紙上で、難波京に条坊跡が確認されたとのニュースが掲載されました。大阪文化財研究所の高橋工難波宮調査事務所長から発表されたもので、天王寺区上町遺跡で奈良時代の難波京の条坊に架かっていた橋の橋脚が発見され、条坊の痕跡と見られるという内容です。この発見により、難波京に条坊が存在していたことはほぼ確実と思われます。実は今回の新発見をわたしたちはマスコミ発表前に知っていました。8月の関西例会での特別講演として、高橋工氏が「古代の難波 発掘調査の最前線」というテーマで発表された中で、最大の眼目が今回の条坊痕跡の発見だったからです。高橋氏も、まだマスコミには発表していない最新のテーマと言われていました。
マスコミへの発表前ということもあり、高橋氏にご迷惑をおかけしないよう配慮して「洛中洛外日記」でも今日まで触れずにきました。本当に画期的な発見だと思います。
橋脚から出土した土器が8世紀前半のものとのことですので、この橋は聖武天皇による後期難波宮の時代の築造とされていますが、条坊も後期難波宮になって初めて造営されたのか、それとも前期難波宮(九州王朝の副都)時代に既に造営されていたのかという、重要な課題があり、今後も調査研究を深めていきたいと思っています。
第292話 2010/11/14
前期難波宮大規模官衙の論理前期難波宮九州王朝副都説について、この数年間わたしは繰り返しその論証や傍証について述べてきました。そしてこの説の当否が、九州王朝から大和朝廷へ の権力交代の研究にとって非常に重要な論点とならざるを得ないことも明白になってきたように思われます。7世紀後半の九州王朝の宮殿や王都を北部九州内に留まるものとするのか、あるいはわたしのように難波副都を含めたスケールで考えるのかで、その様相が大きく変わってくるからです。
そこで、2011年は前期難波宮九州王朝副都説を考古学の面から検証すべく、『古田史学会報』に「ここに九州王朝ありき ー前期難波宮の考古学ー」という論文を連載しようと計画しています。
その一論点は、九州王朝が全国に施行した評制による中央集権体制を支えた官僚組織とその役所である大規模官衙を有した宮殿は、7世紀中頃においては前期 難波宮しかなく、その宮殿は「大宰府政庁」をはるかに凌駕し、更にその宮殿の西と東には大規模官衙群が出土しているという考古学事実こそ、ここが九州王朝 副都であったと解する他無い論理性を有しているというものです。
評制を九州王朝の制度とする九州王朝説に立つ限り、その全国支配の為の行政施設遺構を提示できなければなりませんが、そのような大規模遺構は7世紀中頃の 日本列島に於いて前期難波宮しかないのです。
評制を施行し全国を統治した官僚群とその官衙が筑前や豊前にあったとしたい論者は、わたしが指摘するこの論理性をクリアできる考古学的事実を提示する学問的義務がありますが、それができた論者をわたしは知りません。
第295話 2010/12/04
平城宮大極殿に立つ先日、奈良の平城宮址に行ってきました。遷都1300年祭のイベントが終了した後だったので見物客もまばらで、復原された大極殿をゆっくりと見学することができました。平城宮址に行った目的の一つは大極殿の見学ですが、もう一つは先行して造られていた朱雀門を久しぶりに訪れることでした。というのも、この朱雀門建設の 現場責任者で2009年1月に物故された飯田満麿さん(当時本会副代表・大林組OB)を偲ぶためでした。この大極殿完成を飯田さんも天国から喜んで見守っ て おられることでしょう。
それではなぜわたしが大極殿を見たかったかというと、8世紀初頭における日本列島の代表者が君臨した宮殿と、中央集権的律令体制の官僚群が執務する朝堂の規模を体感したかったからなのです。
710年に平城遷都した近畿天皇家は、その直前の列島の代表者たる九州王朝の権威と支配領域を「禅譲」であれ「放伐」であれ引き継いだのですから、九州 王朝とほぼ同規模の宮殿と官僚組織、そして官僚達が執務する役所・官衙を有したはずです。それが平城宮の規模なのですから、逆説的に考えれば九州王朝も平 城宮と同程度の官僚組織と役所・官衙が持っていたことになります。
このような視点から7世紀後半の宮殿址・官衙址として九州王朝の都としてその条件を満たしている遺構は、まだ全貌が未調査の近江京を除けば、前期難波宮とその官衙群しかないのです。あるいは近畿天皇家の都とされる藤原宮だけなのです。
このような論理性と考古学的事実に導かれて、わたしは見事に復原された平城宮大極殿に立った瞬間、前期難波宮九州王朝副都説の新たな論理的確信を深めたのでした。もしかすると亡くなられた飯田さんが、わたしを平城宮址に呼んでくれたのかもしれません。
第300話 2011/01/16
両京制への展望昨日の関西例会では、わたしの前期難波宮九州王朝副都説の検証が行われました。事前に大下さんに多岐に渡る質問項目をレジュメとして用意していただいたので、有意義な質疑応答が繰り返されました。わたしも事前に自説を改めて見直したのですが、前期難波宮は副都に留まらず、難波京ともいうべき規模であることから、九州王朝は7世紀後半に倭京(太宰 府)と難波京の「両京制」を採用していたのではないかと考えるようになりました。というのも、昨年、難波に条坊制の痕跡が確認されたことにより、その条坊 区割り尺度から前期難波宮の造営と同時に条坊制の京域設計がなされたと考えられるに至ったからです。この点、『古田史学会報』に連載予定の拙稿「前期難波 宮の考古学」にて詳細に説明したいと考えています。
この他、例会では竹村さんによる『先代旧事本紀』の研究報告や、水野代表による東大寺「お水取り」長屋王鎮魂法要説は興味深いものでした。このように、新年最初の関西例会に相応しい発表や質疑応答があり、2011年も新発見続出の予感がしています。
1月例会の発表は次の通りでした。
〔古田史学の会・1月度関西例会の内容〕
○研究発表
(1) 米国防長官 (豊中市・木村賢司)
(2) 天子(帝)になれる条件 (豊中市・木村賢司)
(3) 陳寿の音韻 (豊中市・木村賢司)
(4) 「糊塗」 (豊中市・木村賢司)
(5) 出産の測定は曜日でする (豊中市・木村賢司)
(6) 倭人伝の「距離」と「旅行記」
ーー倭人伝に残された謎(1)の補足(姫路市・野田利郎)
(7) 其の北岸 ーー倭人伝に残された謎(2) (姫路市・野田利郎)
(8)先代旧事本紀「推古27年条」 (木津川市・竹村順弘)
(9) 唐の倭国駐留軍 (木津川市・竹村順弘)
(10)「飛鳥」は「筑紫小郡」か (川西市・正木裕)
ーー書紀の編纂者は「飛鳥浄御原宮」の命名根拠を知らなかった『書紀』では天武が六七二年飛鳥浄御原宮を造り即位したと記す一方、六八六年に朱鳥改元に因んで飛鳥浄御原宮と名づけたとする。この二つの記事の合理的解釈として、
1).飛鳥浄御原宮は九州王朝の宮で「飛鳥の明日香」と呼ばれた筑紫小郡にあった。
2).天武は壬申乱後この宮で即位した。
3).薩夜麻はここで育ち、その地名(山川・野の名)をとり幼名明日香皇子と名づけられた。
4).しかし、近畿天皇家が政権を奪取した九州年号大化期に明日香(飛鳥)は大和の地名とされ、筑紫明日香は阿志岐に変えられた。
5).『書紀』編者は「飛鳥浄御原宮」を近畿天皇家・天武の宮とする必要があったが、筑紫の現地地名に因む宮の名の由来を知らなかった為、「朱鳥改元」を根拠にせざるを得なかった。以上を「大化改新詔」「古事記序文」「万葉歌」ほかを根拠に示した。
(11)前期難波宮九州王朝副都説の検証 (京都市・古賀達也)
○水野代表報告 古田氏近況・会務報告・東大寺「お水取り」は長屋王鎮魂法要・他(奈良市・水野孝夫)
第303話 2011/02/13
豊崎神社を訪問先週、大阪市北区豊崎の豊崎神社を訪問しました。第268話「難波宮と難波長柄豊崎宮」で紹介しましたが、豊崎神社は淀川沿いにあり、この地は孝徳天皇の難波長柄豊碕宮の比定地の一つとされてきました。一度、その地を自分の目で確かめたくて訪れました。豊崎神社は地下鉄御堂筋線の中津駅から徒歩10分くらいの所にあり、周囲は線路やビルに囲まれているため、地勢についてはよくわかりませんでしたが、淀 川に近く、古代に於いては港としては良い場所かも知れません。しかし、評制を施行した全国支配の要所とは思えませんでした。少なくとも、上町台地上にある 難波宮跡とは比較になりません。もちろん、都や宮殿の場所として圧倒的に難波宮跡がふさわしいと思います。
他方、地名との関係でみれば、「長柄」「豊崎」という地名が現存する豊崎神社周辺の方が、「長柄」も「豊崎」も存在しない上町台地法円坂の難波宮跡よりも「難波長柄豊碕宮」候補地にふさわしいこと、言うまでもありません。
しかも、同神社は孝徳天皇の難波長柄豊碕宮故地を偲んで正暦年間(990-994)に創建されたという伝承を有していることから、この地が難波長柄豊碕 宮 のあった場所と10世紀において認識されていたことになり、このことも難波長柄豊碕宮の比定地を考察する上で重要な「証言」となるでしょう。
豊崎神社発行『豊崎宮』第1号(昭和50年11月)においても、難波長柄豊碕宮の候補地として法円坂の難波宮跡なども紹介した上で、豊崎神社が難波長柄 豊碕宮の跡地であると説明しています。しかしその場合、それでは法円坂の前期難波宮は誰のための何のための宮殿かという説明が必要となりますが、大和朝廷 一元説では説明しようがありません。また、通説のように法円坂の前期難波宮を難波長柄豊碕宮とした場合、地名との不一致が避け難い矛盾として現れてきま す。 これら、双方の持つ問題点を解決できる仮説が、わたしの前期難波宮九州王朝副都説なのです。
この問題は、難波長柄豊碕宮を筑前や豊前などの北部九州とする説に於いても発生します。すなわち、それなら法円坂の前期難波宮は誰の宮殿なのか、という 問題をやはり説明できないのです。7世紀中頃における日本列島中最大規模の朝堂院様式宮殿の説明ができないという大矛盾に遭遇するのです。
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