ホームへ戻る



《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話


大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 隋書・旧唐書の云う九州王朝「倭国」の滅亡経緯と、701年(大宝元年)文武5年(九州:大化7)正規に開闢する大和朝廷「日本国」が、その助走期間(プロト大和朝廷)を何時から、どういう経緯で成立したか?「粗雑な構成」の日本書紀が垣間見せる史実らしき行間から、探ることです。
 別紙 『 「倭国」の「大宰府主都」 : 「難波副都」対比年表 .html版 』『 同 .pdf版 』 を、参照方お願いします。


2010年 3月 10日 発行





《 前 へ 戻 る 《   次 へ 進 む   》 つぶやき:「古代」目次編 a1 へ 》


(注意)目次をクリックすると該当のページへスキップします。



大和朝廷「日本国」出生秘話
“ も  く  じ ”


  ◎はじめに
   Ⅰ・① 『法隆寺は、九州より「移築」 された』
   Ⅰ・② 『源氏物語』 と 『桂離宮(=桂殿)』
   Ⅱ・① 『旧唐書』 と 『倭国』
   Ⅲ・① 『九州王朝「倭国」は、いつ滅亡したか』 と 『大和朝廷「日本国」は、いつ開闢したか』
   Ⅲ・② 『大和朝廷は難波副都で「天下立評」した九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』



  ◎九州王朝「倭国」が緊迫のアジア情勢から難波副都建設・「天下立評(=全国評制施行)」
   Ⅳ・① 『大和朝廷は「天下立評」で難波副都に派遣常駐した九州王朝倭国の倭王家分家の弟王家だ』
   Ⅳ・② 『日本書紀』 と 『白村江「以前34年」を「以降34年」に切り貼り』
   Ⅳ・③ 『書紀編纂手法・50年前へ移動』 と 『大化改新詔』
   Ⅳ・④ 『「評と郡」・「都督と評督」』 と 『天下立評』
   Ⅳ・⑤ 『漢委奴国・邪馬壹国・親魏倭国・委国・倭国・大倭国・俀国はどこか? 存在したか?』


  ◎白村江戦以前・「常色の改革」・「天下立評」以降
   Ⅴ・① 『風雲急を告げる大陸の情勢』と『白村江戦い以前』
   Ⅴ・② 『難波朝廷天下立評給時』 と 『天子伊勢王こそ、評制創設の立て役者』
   Ⅴ・③ 『九州王朝倭国「天帰王(あまぎ・甘木)」の「常色の改革」以降』
   Ⅴ・④ 『娜大津の磐瀬宮は伊予国宇摩郡津根・長津の村山神社:合田洋一著』


  ◎白村江戦以降・「近江朝」
   Ⅵ・① 『継体紀の「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ」とは』
   Ⅵ・② 『壬申乱とは「唐の傀儡・倭国」と「長門以東・近江朝」の唐による倭国再統合戦だった』


  ◎壬申乱以降・「難波遷都」・「プロト大化改新」・「倭国滅亡」
   Ⅶ・① 『筑紫大地震』 と 『倭国の難波への王権の禅譲』
   Ⅶ・② 『白鳳の大地震』 と 『震災後の移築』
   Ⅶ・③ 『遷都後の地理的近接』 と 『王朝交代』
   Ⅶ・④ 『これが倭国王最後の大嘗祭である』 と 『高市天皇の薨去はクーデターによる暗殺だ』
   Ⅶ・⑤ 『「高市天皇」暗殺が、「乙巳の変」のモデルになっている』
   Ⅶ・⑥ 『九州王朝難波副都での評制施行』 と 『天智天皇に続く大和王朝』
   Ⅶ・⑦ 『「大宰府倭兄王家」と「難波副都倭弟王家」の白村江戦後』


  ◎大和朝廷「日本国」誕生
   Ⅷ・① 『日本国』 と 『日本書紀』
   Ⅷ・② 『遣唐使の派遣』 と 『朝貢貿易』
   Ⅷ・③ 『万世一系の皇統譜』 と 『今の歴史教育は間違っている』
   Ⅷ・④ 『大和朝廷「日本国」がどういう経緯で忽然と極東アジアに現れたのか』


  ◎《追紀》


   Ⅸ・a 《追紀》 『継体天皇は越国:福井県の出身か』 と 『日本には東と南の字義が2つある』
   Ⅸ・b 《追紀》 『「日本書紀」が記す「高市天皇暗殺」迄の経緯』
   Ⅸ・c 《追紀》 『「続日本紀」が記す「高市天皇暗殺」後の下手人達の栄達』



(注意)目次をクリックすると該当のページへスキップします。






《 前 へ 戻 る 《   次 へ 進 む   》 つぶやき:「古代」目次編 a1 へ 》

“ も く じ ” へ 戻 る