ホームへ戻る





これが『書紀』のからくり、九州年号で倭国史書を切り貼り





“九州年号”で編纂の倭国史書を、『書紀』はどうのように改編したか、を解き明かす




正木裕氏は古代に真実を求めて 第十一集 (古田史学論集)の
●日本書紀『持統紀』の真実
  ——書紀記事の「三十四年遡上」現象と九州年号——

 また同氏は古代に真実を求めて 第十二集 (古田史学論集)の
●藤原宮と「大化の改新」
  ——実は50年後の九州年号大化期の出来事だった——


 の項で日本書紀が、九州年号で書かれた倭国史書を盗用して如何に改編したか、その手法を詳細に明らかにしている。

 要は当時の日本は西暦は一般的でなく、60年周期の干支と倭国の元号が史書編纂・編年の拠り所だったということです。

   更に、『これは「九州年号で記述された史書」の存在を前提にしないと成立し得ない編纂手法だ。同時にそれは紛れもなく「九州王朝の存在」の証明でもあるのだ。』とも記述している。


 詳しくは上記2書を読んでいただくとして、その要点を以下に紹介し日本書紀の九州倭国史盗用の編纂手法が明らかになれば、日本書紀の「うそ」の部分解明が更に進むことでしょう。正木裕氏のいっそうの努力を見守りましょう。

 ネットの読者に『書記年号・九州年号の34年繰り下げ/50年繰り上げ対照表』を転記しアップしてみました、共感頂けると幸いです。

参照記事1:古賀達也の洛中洛外日記・日本書紀

参照記事2:のんびりひまじん歴史認識と評論なんでもメモ







古代に真実を求めて 第十一集 (古田史学論集)正木裕共著


日本書紀『持統紀』の真実
  ——書紀記事の「三十四年遡上」現象と九州年号——

1.持統天皇吉野行幸の「34年遡上」と吉田論証


 《「日本書紀」に記す、持統3年(689)から11年(697)にかけての持統天皇の31回の「吉野行幸」は、九州王朝の天子の、朝鮮半島出兵等の軍事基地たる『佐賀なる吉野』視察記事の盗用である。また、持統11年(697年)6月の吉野行幸記事は、34年前の天智2年(663)、白村江の戦い直前の最後の行幸だ。》


これは、古田武彦氏が、その著『壬申大乱』(東洋書林・2001年)において論証された書紀持統紀の真実である。

 その根拠として、同氏は、柿本人麿の『万葉歌』から「佐賀なる吉野」を発掘された上で、


  ①「行楽地」たる奈良の吉野にふさわしくない冬季にも頻繁に行幸している。一方佐賀の吉野は
   「吉野ヶ里遺跡」に示されるように「軍事基地」であり、その視察に季節は無関係であること。

  ②持統紀に吉野行幸の頻度が異常に多く、かつ集中しており、持統天皇以降はもちろん、持統
   本人についても11年6月以降は、崩御までの6年間に1回とほぼ全くと言っていいほど行幸
   記事が見られないのは不自然。

  ③書紀で、持統が「吉野宮より至る(帰った)」日付の持統8年(694)4月「丁亥:ひのとのい」
   は存在せず、34年前の斉明6年(660)4月には存在すること、などを挙げられた。


 私はこの吉田論証をもとに次のような仮説を立てた。

  ①持統天皇の吉野行幸記事は持統3年(689)から持統11年(697)まで、31回毎年連続して
   記述されている、いわば「セットもの」。持統8年と11年の記事がそろって「34年遡上」して
   いるなら、31回の行幸記事も「セット」で34年遡上り、斉明元年(655)から天智2年(663)
   のことになる。

  ②34年遡上現象は「吉野行幸」に限らず、書紀の持統紀において他の記事にも広く波及して
   いる。これは持統紀編纂にあたってはなんらかの原資料から、34年遡上しての「盗用」という
   手法がとられたことを意味する。

  ③「丁亥」の例のように「不存在の干支日を記す」というミスが発生するのは、 記事の遡上盗用
   において「日の干支」は元記事からそのままきりとられ、書紀が編纂(34年後に貼り付け)
   されていることを示す。



   ・・・・・・・・・・・・・<途中略>・・・・・・・・・・・・・・・



6 持統紀「34年遡上盗用」の手法

6ー①白村江「以降34年」に「以前34年」を切り貼り


 それでは、「34年遡上する」という書紀の事実は何を示しているのだろうか。「日本書紀」の最終は文武元年・持統天皇11年(697)秋8月。その直前夏4月に最後の吉野行幸記事がある。それは白村江戦の天智2年(663)のことだった。白村江以降34年間一気に飛躍しているのだ。

 書紀編集者は、白村江敗戦の翌年の天智3年(664)から、『日本書紀』の終わる 持統11年(697)までの「34年間」に、白村江敗戦以前の「過去の歴史記事」を 貼り付け、その間の歴史を改変・創造したことを意味する。



6ー②九州年号「朱鳥・大化」を「白雉・白鳳」で置き換え

 問題は「どのようにして、どこから、何のために、歴史を盗用したか」だ。その鍵は「九州年号」だ。


   添付『九州年号・書紀天皇表〔九州年号の34年繰り下げ/50年繰り上げ対照表〕』参照



  ①九州年号で「朱鳥元年」は686年、朱鳥は9年間続く。

  ②その34年前652年は書紀では白雉3年だが、九州年号では「白雉元年」にあたり、
   「白雉」も9年続く。

  ③朱鳥の後は九州年号では「大化」で「元年」は695年。その34年前661年は「白鳳元年」だ。


  34年遡上すれば、朱鳥元年は白雉元年、大化元年は白鳳元年とピッタリ対応する。


 先に、事例Ⅰ・Ⅱ(孝徳の葬儀・蝦夷朝貢)で挙げた、持統2年(688)は、九州年号で「朱鳥3年」、そして34年遡上した孝徳10年・書紀白雉5年(654)は九州年号で「白雉3年」、朱鳥と白雉の「元号」の入れ替えとなっている。

 先に述べた「吉野行幸」の例でも、表1の左右では、九州年号「朱鳥と白雉」「大化と白鳳」の年号が1対1で対応している。
 本稿冒頭に記す、古田氏が指摘した持統天皇の吉野最終行幸(持統11年・文武元年)では、持統11年(697)は九州年号「大化3年」にあたり、34年前の天智2年は「白鳳3年」で、「大化ー白鳳」での元号入れ替えとなっている。

 事例Ⅲ(朱鳥元年百姓・僧尼献上)では、「天武15年朱鳥元年」は九州年号でも「朱鳥元年」、34年前の「孝徳8年白雉3年」は九州年号「白雉元年」で、「朱鳥ー白雉」の入れ替え。

 つまり書紀編集者は、九州年号「白雉・白鳳期」の記事の一部を編者の都合にあわせて切り取り、「白雉を朱鳥」に、「白鳳を大化」に各々元号を入れ替え、九州年号の朱鳥・大化期に貼り付けたのだ。

 そうした上で、邪魔な九州王朝の「元号」を消去し、近畿天皇家の天皇の治世・年号にあわせて書紀を編纂した。「朱鳥」2年から9年までは「持統」元年から8年に、「大化」1,2年は「持統」9、10年に、というように。

 このような手法によって始めて「34年前」の事実が「持統期」に近畿天皇家の事跡として記述出来るのだ。

 これは「九州年号で記述された史書」の存在を前提にしないと成立し得ない編纂手法だ。同時にそれは紛れもなく「九州王朝の存在」の証明でもあるのだ。




6-③「命長」と「白雉」にも置き換え

もちろん「九州年号をもとにした書紀編纂手法」は持統紀の34年遡上に止まらない。一つだけ例を挙げよう。同種の手法は、書紀の舒明12年記事と孝徳白雉3年記事の重複にも現れている。



 [A・舒明12年(640)] (舒明11年)秋9月に、大唐の学問僧恵隠・恵雲、新羅の送使に従い
   京に入る。(略) 12年(略)5月丁酉朔辛丑(5日)、大きに設斎す。因りて、恵隠僧を請して、
   無量寿経を説かしむ。


 [B・書紀白雉3年(652)] 夏4月戊子朔壬寅(15日)、沙門恵隠を内裏に請せて、
   無量寿経を講かしむ。沙門恵資を以って、論議者とす。沙門一千を以って、作聴衆とす。
   丁未(20日)、講くこと罷む。


   (岩波注)A「白雉3年4月15日条の前半と酷似する。同事の重出か」
         B「舒明12年5月条。内容もほぼ同じ」



舒明12年5月の恵隠による無量寿経の講記事と、孝徳白雉3年夏4月の記事の重出は、岩波解説の通りだろう「何故重出」したのかは、舒明12年と白雉3年という「書紀の年号」を比較していては何も分からない。

 これを九州年号に置き換えると、舒明12年=九州年号命長元年、一方、書紀白雉3年=九州年号白雉元年で両者とも「元年」になる。ここでも九州王朝の元号「命長」と「白雉」の入れ替えが行われているのだ。

元記事は命長元年。何故なら直前の舒明11年秋9月に「大唐学問僧恵隠・恵雲、従新羅送使入京。」の記事がある。これは対外的資料で動かしづらいだろう。したがって同じ僧「恵隠」の登場する命長元年(舒明12年)のA記事のほうが本来なのだ。

 A記事「5月丁酉朔辛丑(5日)」の翌日6日の干支は「壬寅」で、B記事「夏4月戊子朔壬寅(15日)」の干支だ。

 「大設斎」の翌日の講話記事を、同じ「元年」である九州年号白雉元年(書紀白雉3年)に切り貼りしたのだ。残念ながら「書紀白雉3(652)年5月」には壬寅がない。それで直近の4月15日「壬寅」に貼り付けた、それがB記事なのだ。

 A記事前半の「大設斎す」までが辛丑(5日)。「因以」以下はは翌日壬寅(6日)の記事の「骨子」だ。その「元文(無量寿経講話の詳細)」は干支「壬寅」付きで切り取られ、「九州年号白雉元年4月」に貼り付けられた。そして九州年号(白雉元年)を消去し、書紀年号にあわせ「白雉3年」の出来事としたのだ。


 結局、本来は、「九州年号『命長』元年(640)5月辛丑(5日)大きに設斎す。翌5月壬寅(6日)、沙門恵隠を内裏に招請、講無量寿経を講ぜしめた。沙門恵資を論議者と為した。沙門一千を聴衆とした。5月丁未(11日)、講を罷める」という記事だったこととなる。


 こうした九州年号をもとにした記事の入れ替えは書紀の随所に見られる。紙面がないので略すが、その最もはなはだしいのが、古賀達也氏が明らかにした、「白雉改元」記事が九州年号白雉元年(652)から書紀白雉元年(650)に切り取られている例だろう。




7.「34年遡上盗用」の目的

 これまで見てきたように、書紀編集者は「白雉・白鳳と朱鳥・大化の入れ替え」など、九州年号をもとにした手法を用いて、歴史の改ざんを行っていた。

 九州年号は白村江以降も「白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長」と続く。したがってカットされた34年間には、九州王朝の支配下での、白村江敗戦処理、唐の2千人での筑紫への進駐、占領政策の実施等さまざまな歴史があったはずだ。そして何よりも、701年を画した近畿天皇の権力奪取、九州王朝からの政権交代劇があった。

 「国の初元から我々が支配していた」と主張する近畿天皇家は、こうした経緯は明るみに出せない。そこで、書紀編纂にあたって彼等にとり「不都合な真実」はばっさり削除され、都合よく改変された歴史が挿入されたのだ。

 その際、①近畿天皇家の歴史部分(例えば「壬申乱」)、②天変地異や、対外的にカットしづらい事(海外の史書の記述・例えば郭務悰などとの交渉)は近畿天皇家の物指しで取捨選択しつつ残した。そして「削除」した穴埋めとして、③九州王朝の歴史で、主体を近畿天皇家に変えれば都合の良いこと等を、時代や主体を改ざんして盗用した。その代表的手法が「34年遡上」だったのではないか。

 このようにして近畿天皇家は九州王朝の歴史をわが物とすることに成功した。そして書紀成立以降、1300年にわたって、この歴史は喧伝され続けてきた。古田氏と古田史学会が発展させてきた九州王朝論、なかでも氏の持統天皇吉野行幸記事の分析に始まる、『日本書紀』「持統紀」における34年の遡上現象の発掘・分析により、書紀1300年の欺瞞が、いささかなりと暴けたなら幸いである。





 『日本書紀』大化2年(646)正月条に記された「郡」に関する「改新の詔」は、九州年号大化2年(696:持統10年)に持統天皇が発した「建郡」の詔勅だった。そして詔に記す条坊制の創設は、694年12月に遷居された「藤原宮(京)」についての記事だった。つまり、孝徳期に行われたとされるこれらの「改新」は、実は50年後の九州年号大化期の出来事だった。書紀編集者はこの事実を50年前に移し、九州王朝による過去の「評」制施行や、前期難波宮造営を近畿天皇家の事績にすり替えたのだ。


 これは古田史学会の古賀達也氏が論証された大化改新詔の真実である。


(詳細は古賀達也の洛中洛外日記・日本書紀参照)


 本稿では大化期の書紀記事中の種々の「宮」に関する記事が、通説のいう子代離宮等の「難波の諸(行)宮」ではなく、藤原宮と考えられる事、またこの「記事移動」は登場人物にも及んでいる事、「大化」年号が何故50年移動したのかを示し、古賀論証を補強したい。




   ・・・・・・・・・・・・・<途中略>・・・・・・・・・・・・・・・





第三章 何故「大化」は50年ずらされたのか




   ・・・・・・・・・・・・・<途中略>・・・・・・・・・・・・・・・



古賀達也の洛中洛外日記

第196話 2007/11/16


「大化改新詔」50年移動の理由


 第140話 「天下立評」で紹介しましたように、評制が難波朝廷(孝徳天皇)の頃、すなわち650年頃に施行されたことは、大和朝廷一元史観でも有力説となっています。これを多元史観の立場から理解するならば、九州王朝がこの頃に評制を施行したと考えられるのです。その史料根拠の一つである、延暦23年(804)に成立した伊勢神宮の文書『皇太神宮儀式帳』の「難波朝廷天下立評給時」という記事から、それは「難波朝廷」の頃というだけではなく、前期難波宮九州王朝副都説の成立により、文字通り九州王朝難波副都で施行された制度と理解できます。

 太宰府政庁よりもはるかに大規模な朝堂院様式を持つ前期難波宮であれば、中央集権的律令制としての「天下立評」を実施するのにまったく相応しい場所と言えるのではないでしょうか。そして、この点にこそ『日本書紀』において、大化改新詔が50年遡らされた理由が隠されています。

 九州年号の大化2年(696)、大和朝廷が藤原宮で郡制施行(改新の詔)を宣言した事実を、『日本書紀』編纂者達は50年遡らせることにより、九州王朝の評制施行による中央集権的律令体制の確立を自らの事業にすり替えようとしたのです。その操作により、九州王朝の評制を当初から無かったことにしたかったのです。『日本書紀』編纂当時、新王朝である大和朝廷にとって、自らの権力の権威付けのためにも、こうした歴史改竄は何としても必要な作業だったに違い有りません。

 このように考えたとき、「大化改新詔」が50年遡らされた理由が説明できるのですが、しかしまだ重要な疑問が残っています。それは、何故『日本書紀』において前王朝の年号である大化が使用されたのか、この疑問です。九州王朝の存在を隠し、その業績を自らのものと改竄するのに、なぜ九州年号「大化」を消さなかったのでしょうか。

 これは大変な難問ですが、わたしは次のような仮説を考えています。藤原宮で公布された「建郡」の詔書には大化年号が書かれていた。この仮説です。恐らくは各地の国司に出された建郡の命令書にも大化2年と記されていたため、この命令書が実際よりも50年遡って発行されたとする必要があり、『日本書紀』にも「大化2年の詔」として、孝徳紀に記されたのではないでしょうか。

 しかし、この仮説にも更なる難問があります。それなら何故、藤原宮で出された「改新詔」に他王朝の年号である大化が使用されたのかという疑問です。わたしにはまだわかりませんが、西村秀己さん(古田史学の会全国世話人、向日市)は次のような恐るべき仮説を提起されています。「藤原宮には九州王朝の天子がいた」という仮説です。すなわち、「大化改新詔」は形式的には九州王朝の天子の命令として出されたのではないかという仮説です。皆さんはどう思われますか。わたしには、ここまで言い切る勇気は今のところありません。これからの研究課題にしたいと思います。






 白石が書簡で触れている『海東諸国紀』(一四七一年成立)には次の九州年号と『日本書紀』に見えない記事が記されている(注 2. )。

 「善化」「発倒」「僧聴」「同要」「貴楽」「結清」「兄弟」「蔵和」「師安」「和僧」「金光」「賢接」「鏡當」「勝照」「端政」「従貴」「煩転」「光元」「定居」「倭京」「仁王」「聖徳」「僧要」「命長」「常色」「白雉」「白鳳」「朱雀」「朱鳥」「大和」「大長」(申叔舟著『海東諸国紀』岩波文庫)






ここは、 ”と う や ん” twitter @t0_yan
山本 俊明 のホームページ です 。