ホームへ戻る







評制「天下立評649年」を、郡制「大化696年」へ改新の【廃評建郡】が史実



 私の 大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ  に至った経緯はというと、

 〔「日本書紀」が改竄する以前の九州王朝「倭国」の本来の史実が、長門以東の「天下立評(評制)649年」を経てのちに、「原・大化改新(郡制)696年」への“廃評建郡”だったと分かった。〕 からですが、

 いったい何故『日本書紀』は九州王朝「倭国」の本来の史実の「天下立評(評制)」を隠蔽し、当初より一足飛びに「大化改新(郡制)」が施行実施されたかの如く歪曲・改竄したのか、大和朝廷にとって「天下立評(評制施行)」の史実を「日本書紀」が書くことはそんなに“まずい”ことだったのでしょうか、知りたいところです。


2011年 2月 8日 発行






①『九州王朝の「常色の改革」こそ大和朝廷「日本国」の起源だろう』
(参照Twitter その2:117) 2010年6月7日(月)

 正木裕氏は古田史学会報no96(2010年2月号)『九州年号の改元について』の中で書く『命長7年(646)「利」が崩御し、次代の天子は筑紫小郡宮に遷居するとともに、年号を「常色(647~)」と改元。礼法や冠位制度を改革し、さらに評制施行や難波宮建設などの大改革を行ったと考えられる。私はこれを九州王朝の「常色の改革」と名づけた』 と。

 さらに、『なお、「常色」の常は「のり・典法」を意味し、色は〔色法〕という語で「仏・物質の法を言ふ(諸橋漢和大辞典)」ことから、『書紀』大化3年の「七色・十三階の冠制」創設にも因む年号名と思われる』この正木裕氏のご意見に私も大賛成だ。九州王朝の「常色の改革」こそ大和朝廷「日本国」の起源だろう。

 九州王朝の「常色の大改革」の目玉が評制施行の天下立評であり、その天下立評が九州王朝を従来の連邦制から中央集権制へと大転換させただろうし、中央集権制の天下立評が大宰府の東方へ副都難波宮を建設させ、巨大徴税システムの天下立評維持が強大な軍事力を要し倭国の軍隊を2分したと想像できる。

 それにしても、倭国の連邦制を構成していた吉備・出雲・尾張・毛野・秦の各王国が大きな抵抗も無く、伊勢王の境界確定作業が3年ばかりで終わっていることから概ね協力的であったと思われることだ。それだけ、唐国・新羅・秦国の侵略脅威がひしひしと迫り、「常色の大改革」が大和朝廷の萌芽となった。

 宮殿というよりは軍事基地に近い九州王朝倭国の副都・難波宮に王家分家の弟王家が常駐したであろうことは即断即決が必要な当時の状況から容易に想像できよう。その弟王家が天智系の(舒明・皇極・孝徳・斉明・天智・大海人の天武・持統)の各天皇の出身母体であり、大和王朝「日本国」の前身であろう。




②『そもそも、大和王朝「日本国」はいつ発生したか?が問題だ』
(参照Twitter その2:118) 2010年6月8日(火)

 そもそも、近隣の史書が認める九州王朝「倭国」が在ったかが問題ではなく、大和王朝「日本国」が遣唐使・粟田真人派遣 (701年)で、華々しく東アジア史にデビューする以前、九州王朝倭国が高市天皇暗殺で滅亡696年する以前はどうだったかが問題だろう。みんな問題を履き違えていないだろうか?

 私の仮説は、九州王朝「倭国」の元号「大化」を、大和王朝「日本国」が「大宝」と改元する以前の、大和朝廷の前身は九州王朝倭国の難波副都の倭王家分家の弟王家だったということだ。九州年号表を参照

 では、九州王朝「倭国」が「常色の改革647年」で評制施行の天下立評し、大宰府の東方へ副都難波宮を建設する以前はどうだったか?何もなかったではなく「隋書」俀国伝中に『明年上文林郎裴清を遣わして俀国に使いせしむ。ー略ー又竹斯国に至り、又東して秦王国に至る』そう其処には秦王国があった。

 『明年(大業4年:608)、上、文林郎裴清を遣わし、ー略ー秦王国に至る』『620?( 推古28:倭京3)唐の掌客裴世清等至』『632(舒明4:仁王10)唐使の高表仁が到来』これらの記事は隋・唐が倭国の附庸国・秦国と知りながら秦国と交渉続け唐・新羅陣営へ取込むべく画策の証しだろう。

 倭国は附庸国・秦国を唐が唐・新羅同盟に組込むべくチョッカイを出しているのを苦々しく見てただけではないだろう、知ってどうしたか、天下立評で財務基盤を強化し、更には、秦国の傍に難波副都を築き、秦国を牽制し、秦国が唐・新羅同盟へ参加するのを阻止・最終的には抹殺・撲滅しようとしただろう。

 『秦国の唐・新羅同盟参加阻止・最終的には抹殺・撲滅しようとした』その過程は、日本書紀が記す蘇我氏を秦国の王家だとして考えると分かりやすいだろう。蘇我氏は壬申乱以降、その姿を日本書紀に見せなくなった。




③『「常色の大改革」を推し進めた倭国王とはどんな「王」だったか』
(参照Twitter その2:119) 2010年6月8日(火)

 『命長7年:646「利」が崩御后、次の天子は筑紫小郡宮に遷居、年号を「常色647~」と改元。礼法や冠位制度を改革、評制施行や難波宮建設など「常色の大改革」を推し進め、難波京完成で「白雉652~」改元后も「白鳳661~」改元直前迄在位しただろう倭国王とはどんな「王」だったのだろう。

 古田武彦氏の著「古代史の十字路」「壬申大乱」で言う明日香皇子=筑紫君薩夜麻であり、白鳳王であり、唐から捕虜解放後の筑紫君薩夜麻は「高市皇子命の父の天武天皇」だから、明日香皇子=筑紫君薩夜麻=白鳳王=「高市皇子命の父の天武天皇」は同一人物となる。その父が「常色」「白雉」の王となる。

 (巻3-240)「久堅乃天歸月乎網尒刺我大王者盖尒為有」甘木の大王は「月」を(旗などの)しるしにし、それを御狩りに使われた網の前に、刺すように立てておられる。(亡き大王の棺の列の)そのありさまを見ると、まるで生きておられた時の行列と同じく、今も「きぬがさ」を立てておられるようだ。

 古田武彦氏の著「古代史の十字路」の中で紹介の「万葉集(巻3-240)「久堅乃天歸月乎網尒刺我大王者盖尒為有」は柿本人麻呂が猟の途中、不慮の死をとげた甘木(=天歸)大王の雷山葬送追悼の辞だ言う。この筑紫甘木の王こそ明日香皇子=筑紫君薩夜麻=白鳳王の父の「常色」「白雉」の王であろう。

 あー、もっと詳しく「常色の改革」「白雉改元儀式」「甘木(=天歸)大王の雷山葬送」を知りたいものだ。日本書紀が完成と同時に倭国史書の類をすべて焼却してしまったという、どこか皇居の倉庫片隅に眠ってないか?探してくれー。それにしても古田武彦氏はすごいなッ。万葉集に書かれているよだって。




④『持統が大嘗したのでなく、遷都后の高市だったとわかる』
(参照Twitter その2:120) 2010年6月11日(金)

 当初倭王は大宰府倭京と、副都・難波京を数度往復したであろうが、その後は、難波京に王家分家の弟王家が常駐することになったであろう。しかし、難波京はあくまで副都でそこには、王権を示す「3種の神器」や「大嘗祭」をすることは無かったわけで、持統が大嘗したのでなく、遷都后の高市だったとわかる。

 690年〔持統4年(持統即位元年):朱鳥5年〕春正月1日 —略— 神璽の剣、鏡を『皇后 高市天皇』に上げ奉った。『皇后 高市天皇』は天皇位に即いた。—略—
 ●690年〔持統4年(持統即位元年):朱鳥5年〕10月29日『 高市皇子 高市天皇』が、藤原の宮の〔予定〕地を観た。公卿、百寮〔官〕が従った。 ●『同年12月19日『 天皇 高市天皇』が、藤原に〔行〕幸して、宮地を観た。公卿、百寮〔官〕がみな従った。〔高市皇子に公卿、百寮〔官〕が従ったとあるが皇太子に天皇と同じ規模の公卿、百寮〔官〕が従うだろうか、この2つの記事は主語の「高市皇子」と「天皇」のみが意図的に違えてあるようだ、他の述語の部分は全く同じだからして〕。
 691年〔持統5年(持統即位2年):朱鳥6年〕11月1日、大嘗。「持統即位何年」というのは大宰府倭兄王家の高市天皇の在位であろう。これが倭国王最後の大嘗祭である。




⑤『「常色の改革」の一環としての難波副都での「天下立評」がその発端』
(参照Twitter その4:189) 2010年8月7日(土)

 認めたくないかもしれませんが、日本は白村江敗戦と、太平洋戦争敗戦の「敗戦による進駐・占領」を2度経験しているのです。

 九州王朝『倭国』は白村江の敗戦を期に一気に衰弱し、さらに『壬申の乱』を経て、最期の本来の『プロト大化改新』をとどめに滅亡に至った。  その後は中央集権国家の大和王朝『日本国』が701年開闢したと理解できよう。

 ただこの大和王朝『日本国』もいきなり出来たわけではなく、その約50年前に前身の『プロト大和朝廷(=難波副都倭弟王家)』が出来るきっかけ、九州王朝「倭国」の天帰王(甘木王)が実施した「常色の改革」の一環としての難波副都での「天下立評」がその発端でしょう。

 日本の古代史云々を語る者は、何はさて置き、 『何故、国内的には「日本書紀」が九州王朝「倭国」を抹殺したのか、対外的には、大和王朝「日本国」がどういう経緯で忽然と極東アジアに現れたのか』  を明らかにしなければならない。









 〔Ⅱ〕 次いで、『日本書紀』の「大化の改新」を、通説はどのように受取り、解釈しているのかをネット中を捜し「大化の改新」に関係する内容の優れた通説をおさらいしよう。




 資料①:以下は、〔第11講舒明・皇極期〕大化の改新よりの抜粋・転載です。


『大化の改新』


〔1]舒明朝(629~641)

 (1)推古朝末期の国内情勢:
    622年に聖徳太子、太子死後に勢力をのばした蘇我馬子も626年に没した。
     ※ 蘇我蝦夷(?~645):
     馬子の子。太子の死後権力を伸長した馬子の跡をついで大臣となり、国政の主導的地位に
     就く。蝦夷の叔父にあたる境部摩理勢と結んだ山背大兄王の即位要求を退け(摩理勢を殺
     害)して舒明天皇を擁立。
     ※ 境部摩理勢は馬子から蝦夷への族長権の継承に反発していた。

 (2)舒明天皇(位629~641):
    もと田村皇子。敏達の孫で父は押坂彦人大兄皇子。推古天皇が628年に没後,蘇我蝦夷に
    推されて山背大兄王を退けて即位(飛鳥岡本宮で)。在位中は他氏との協調関係を保った
    蘇我蝦夷の独裁体制のもと国内政治は平穏が保たれたが、国内改はほとんどみられず。

 (3)遣唐使の派遣と留学生の帰国:
    630年犬上御田鍬を遣唐使として派遣。632年旻が帰国。640年には高向玄理や南淵請安が
    帰国。彼らは唐の律令制集権国家の情報をもたらした。
     ※ 中国では隋の煬帝による第二次高句麗遠征(613)頃から反乱が勃発。のちの唐の高祖
    李淵は617年山西省で兵を挙げ隋都の長安を占拠。そして煬帝の孫を擁立して恭帝とし翌
    618年に禅譲を受けて唐王朝を建国。626年には李淵の子の太宗李世民が父の高祖を退位
    させ628年中国全土を統一。621年には百済、628年には高句麗と新羅がそれぞれ王位を
    冊封された。


[2]皇極朝(642~645)

 (1)皇極天皇(位642~645):
    父は茅渟王(押坂彦人大兄皇子の子)で母は吉備姫王。舒明没後の皇位継承者としては
    蘇我系の山背大兄王、古人皇子及び非蘇我系の中大兄皇子らがいたが、皇極天皇が飛鳥
    板蓋宮で即位。

 (2)蘇我入鹿の専横
    皇極朝の国政を父蝦夷(大臣に再任された)と共に主導、643年には大臣の地位を蝦夷から
    譲られ朝廷の最高位となり、同年入鹿は蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を皇位につける
    べく、山背大兄王(蘇我系であるが小姉君系)を斑鳩宮に襲って滅ぼした。
     ※ 入鹿は人民を使って墓を築造して「陵」と名付けたり邸宅を「宮門」と称したり、子供を
    「王子」と呼ぶなど皇室を無視する姿勢があったとされるが、入鹿自身は天皇になるつもり
    はなく古人大兄皇子を皇位につけその背後で専制権力を握ろうと考えていた。
     ※ この斑鳩に向かった勢力の中に軽皇子(孝徳)も混じっていた。
     ※ 古人大兄皇子は大化改新後出家するも謀反の疑いをかけられ中大兄に殺された。


[3]乙巳の変

 (1)藤原(中臣)鎌足(614~669):
    中臣家の生まれながら祭祀を離れる。『日本書記』によれば飛鳥寺で打毬の際、あるいは
    南淵請安に儒学を学んだ際に中大兄と知り合ったとの伝承がある。山背大兄王滅亡の後行動
    を開始、当初軽皇子に接近するもその後中大兄に接近。また蘇我一族の蘇我倉山田石川
    麻呂を味方とした。

 (2)蘇我氏打倒の目的:
    氏姓制度下で中央・地方の豪族は田荘を拡大し、多数の私有民(部曲)を所有して勢力を競
    合して争い、天皇の権威もそこなわれていたので、大化改新によって天皇を頂点とする律令
    国家の成立をめざした。
     ※ 唐の強大化のもと、大王を中心とする唐風の国家(官制の整備など)を建設すべくその
    障害となる蘇我氏の本宗家を打倒することで中大兄と意見が一致した。 

 (3)乙巳の変(645.6):
    中大兄皇子を中心に中臣鎌足、蘇我石川麻呂が計画し、645年6月12日、三韓進調の日に
    飛鳥板蓋宮の大極殿で入鹿を殺害、蝦夷は自殺、これにより蘇我氏の本宗家は滅亡。
     ※ 『天皇記』『国記』はこの時に焼失したとされる。

 (4)孝徳天皇の即位と新政府の樹立:
    皇極天皇は中大兄に譲位の意志を伝えたが中大兄が鎌足と相談の上これを拒否して軽皇子
    の即位を勧めた。軽皇子は一旦は固辞して古人大兄の即位を勧めるも古人大兄が出家した
    為、やむなく即位して孝徳天皇となった(6.14)。即位後すぐに改新政府の人事が発表
    された。
    即位後5日目に年号が「大化」と定められた。
     ※ 皇太子→中大兄皇子、内臣→中臣鎌足、左大臣→阿倍内麻呂、右大臣→蘇我倉山田
    石川麻呂、国博士→僧旻、高向玄理。
     ※ 大臣・大連が廃止され左右大臣が置かれるとともに、皇太子の下位に置かれた。それ
    以前は皇太子は大臣・大連と並んで政治を行っていたから皇権が強化された。
     ※ 皇極から孝徳への譲位はこれは大王の意志による(群臣推挙ではない)最初の譲位で
    あったが、これは強固な王権をつくるための中大兄・鎌足の意思でもあった。
     ※ 古人大兄はその後謀反の嫌疑をかけられ中大兄によって殺害された(645.9)。


[4]改新政府の政策

 (1)五法令の発布
    a)東国国司詔:
     645年8月には東国に国司(使者)が派遣されて(1)造籍による戸口調査(2)校田という田地
     調査(3)武器の収公と官吏、及び(4)従来の国造・伴造・県稲置の再確認(任命)を行った。
      ※ この時の国司(国宰)は律令制下の国司と異なり臨時の派遣官であって在国せず、任務
     が終わると大和に戻った。また裁判権などは欠如していた。
      ※ 東国には大王家直属の部民(名代・子代)が多くモデルケースとして最適であったから。
    b)大和の六県に使者を使わして造籍・校田を命じた。
    c)男女の法の制定:
     男女間に子が生まれた際に良賤いずれにするかを定めた。良民男女間なら父につけ、良男
     と賤女であれば母に、良女と賤男であれば父につけた。これは戸籍を作成するための前提
     として、また豪族の奴婢所有を確認するためのもの。
    d)鐘匱の制:
     自分の属する伴造や族長の裁判に不服な者の訴えを聞く制度。伴造や国造、県稲置などの
     在地首長を通じて民の訴えを聞くための制度。
    e)寺院統制のための寺司・寺主・法頭の任命や僧侶の統制のための十師の制度を定めた。
     十師には旻などが任命されている。

 (2)遷都と改新の詔:
     645年末に難波長柄豊碕宮に遷都し、翌年646年元旦に改新の詔を発布。

 (3)改新の詔(646年正月):
   a)公地公民制:
    土地人民を収公する代わりに食封(大夫以上)・布帛(それ以下の者)を支給。
     ※ 食封は私地私民の収公の代償として、一定数の戸(封戸)を指定しそこからの租の半分と
     調・庸の大部分を政府を介して与える制度。位階に応じて「位封」が、官職に応じて「職
     封」が与えられた。下級の役人には「布帛」が与えられた。但し食封の実施には戸の編成
     、租税制度の整備、地方制度の確立が前提となるため、6年1造の戸籍がつくられる庚寅
      年籍(690)以後でないと実施は困難であった。
    b)地方行政制:
     畿内七道、「国・評・里」の地方行政区画を定める。「国・郡・里」制となるのは689年
     の飛鳥浄御原令。
      ※ 大宝令以前は郡は評の文字を使用していたことが、699年(己亥)の藤原京出土木簡で
     判明。
      ※ 孝徳朝では国造制の支配から評制による支配へと転換された。国司の派遣により国造
     は評造となりその後郡司となり地方の下級行政官となっていく。
    c)土地制度:
     戸籍・計帳の作成、班田収授の法とあるが、大化前代に白猪屯倉などでは個人別の名簿(
     丁籍)などが作成され班田が実施された可能性はあるが、この時点では戸籍の調査程度。
     班田収授が実施されるのは690年の庚寅年籍以降である。また戸籍としては天智朝の
     庚午年籍があるが、これは徴兵のためのもの。
    d)税制:
     田地の面積に応じて絹などを徴収する「田の調」や戸別の調などの税制。
    e)その他
    イ)品部廃止令(647):
     旧世襲制から新官僚制への移行を宣言したもの
    ロ)新冠位の実施:
     649年13階から649年19階へ。冠位十二階制が大臣など最高位の官人を対象外としたのに
     対し、これらでは皇族を除いて左右大臣以下すべての官人を対象とした点が異なる。
    ハ)大化の薄葬令(646)



      【史料:改新の詔(日本書紀)】

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

      其の一に曰く、昔在の天皇等の立つる所の子代の民、処々の屯倉、及び別には臣・連・
     伴造・国造・村首の所有る部曲の民、処々の田庄を罷めよ。仍て食封を大夫以上に賜ふこ
     と各差あらむ。
       其の二に曰く、始めて京師を修め、畿内国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬を
     置き、及び鈴契を造り、山河を定めよ。
       其の三に曰く、初めて戸籍・計帳・班田収受の法を造れ。
       其の四に曰く、旧の賦役を罷めて田の調を行へ。・・・別に戸別の調を収れ。

      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

       ※ 田庄→田荘、食封→一定数の封戸を指定しその貢租を支給する制度、 
        大夫以上→五位以上、関塞→関所、斥候→北辺の守備隊員、
        鈴契→駅鈴(駅馬・伝馬の証明書)と木契(一定数以上の派兵証明)
      <論述>大化改新の意義(中公文庫版日本の歴史:第2巻p.200):
       イ)天皇を中心とする統治体制の確立:
        冠位制の改正と呼応する。天皇・皇族が絶対的な地位となった。
       ロ)中央集権体制の樹立:
        国評制の実施、国司(宰)の地方派遣。
       ハ)公地公民制体制への布石:
        但し大化改新直後には豪族は官僚貴族となったが、位階・官職・俸禄を与えられる
        など、実質的には土地・人民の私有を公認されていた。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




資料②:以下は〔 夢幻と湧源〕大化改新…⑫東国国司派遣についてよりの抜粋・転載です。

『日本書紀』によると、孝徳天皇は、皇極4(大化元)年6月14日に即位すると、すぐに体制を整え、8月に東国へ国司を派遣した。



八月五日、東国の国司を召された。国司らに詔して、「天つ神の命ぜられるままに、今はじめて日本国内のすべての国々を治めようと思う。およそ国家の所有する公民や、大小の豪族の支配する人々について、汝らが任国に赴いてみな戸籍をつくり、田畑の大きさを調べよ。それ以外の園地や土地や用水の利得は百姓が共に受けるようにせよ。また国司らはその国の裁判権をもたない。他人からの賂をとって、民を貧苦におとしいれてはならぬ。京に上る時は多くの百姓を従えてはならぬ。ただ、国造、郡領だけを従わせよ。……


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




資料③:以下は〔飛鳥の扉〕「大化改新」よりの抜粋・転載です。

『1.改新の詔(みことのり)』




 二年春正月甲子(かっし)の朔(ついたち)、賀正の礼畢(おわ)りて、即ち改新の詔を宣ひて曰く、

 其の一に曰く、
昔在の天皇等の立てたまへる子代(こしろ)の民①、処々の屯倉(みやけ)②、及び、別には臣・連・伴造・国造・村首(おびと)の所有る部曲(かきべ)の民③、処々の田荘(たどころ)④を罷(や)めよ。仍りて食封(じきふ)を大夫より以上に賜ふこと、各差有らむ。降りて布帛(きぬ)を以て、官人・百姓に賜ふこと、差有らむ。・・・・

 其の二に曰く、
初めて京師(みさと)を修め、畿内・国司・郡司・関塞(せきそこ)⑤・斥候(うかみ)・防人(さきもり)・駅馬・伝馬を置き、鈴(すず)⑥契(しるし)⑦を造り、山河⑧を定めよ。・・・・凡そ畿内は、東は名墾(なばり)⑨の横河より以来、南は紀伊の兄山(せやま)⑩より以来、西は赤石の櫛淵(くしぶち)⑪より以来、北は近江の狭々波(ささなみ)の合坂山(おうさかやま)⑫より以来を畿内となす。・・・・凡そ駅馬・伝馬を給ふことは皆鈴、伝符の剋(きざみ)の数によれ。

 其の三に曰く、
初めて戸籍・計帳・班田収授の法を造れ。凡そ五十戸を里となし、里毎に長一人を置く、・・・・もし山谷阻険にして、地遠く人稀なる処には、便に随ひて量りて置け。

 其の四に曰く、
旧の賦役(えつき)⑬を罷めて、田の調(みつき)を行へ。・・・・別に戸別の調を収(と)れ。・・・・凡その調の副物の塩と贄(にえ)とは、亦(また)郷土(くに)の出せるに随へ。

(原文は漢文 『日本書紀』より)
①皇族の直轄民②皇族の直轄領③豪族の私有民④豪族の私有地⑤関所⑥駅鈴-駅馬・伝馬を使用するための証明となる⑦兵を動かす時に関所でみせる木札⑧国・郡(701年大宝律令までは「評」:こおり と表記)の境界⑨三重県名張市⑩和歌山県伊都郡⑪兵庫県明石市⑫滋賀県逢坂山⑬租・労働


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



第1条
皇族・豪族がもっていた土地・人民をすべて国のものとする。(公地公民制)豪族に食封(じきふ)を支給する。

畿内と畿外との境,名墾(なばり)横河-名張川

第2条 京師、畿内・国・郡・里という地方をおさめる組織をつくった。中央集権的国家を目指した。(国郡里制-朝廷から国司の派遣,地方の豪族を郡司に,村の有力者は里長)

第3条
戸籍・計帳をつくって民に田を与え,班田収授法を行う。(6歳になると口分田として土地が与えられ,死ねば国に返す。口分田には税が課せられた。)

第4条
新しい税の制度を実施する。(田の調(畿外)-田の面積に応じて徴収,戸別の調(畿内)-戸数に応じて徴収,大化以前からあったのは官馬,仕丁,庸布,庸米,采女:うねめ)(租-米,庸-労働の代わりに布,調-各地の特産物 を納める)









 〔Ⅲ〕 次いで、『日本書紀』の「大化の改新」を、通説はどのように受取り、解釈しているのかをネット中を捜し「大化の改新」に関係する内容の優れた通説をおさらいしよう。




 資料①:以下は、〔古田史学会報no99(2010年8月8日号)〕よりの抜粋・転載です。

『九州王朝から近畿天皇家へ「公地公民」と「昔在(むかし)の天皇」:正木裕著』

1.「大化改新」と「公地公民」



『日本書紀(以下書紀)』の「大化改新」記事の信憑性については、所謂「通説」の立場からも疑義が唱えられ、今日、少なくとも諸々の改新詔には大化期のみならず後年の事績も含まれる事が確実とされる。九州王朝説では、単に「後年の事績」とするに止まらず、「大化改新」記事自体、 〔『書紀』編者によって、九州年号大化(695~703)期における、九州王朝から近畿天皇家への権力移行に伴う様々な記事が、孝徳大化(645~649)期に移植されたもの〕 との考えが提起されている。

 本稿では、こうした「九州年号大化移植説」に基づき、『書紀』大化2年(646)3月の「皇太子奏請」条は、九州年号大化期の、九州王朝から近畿天皇家への権力移譲と、九州王朝の支配する土地・人民を近畿天皇家の支配下に移す事を承認(容認)するものであるを述べる。

 

Ⅰ・九州王朝説から見た「公地公民」
 「大化改新」を象徴する事業は「公地公民」だが、その「班田収受」について、

~~~~~~~~~



 資料②:以下は、〔古田史学会報no101(2010年12月1日号)〕よりの抜粋・転載です。

『東国国司」の真実:正木裕著』



 私は『古田史学会報』no99号で、『書紀』に記す「大化改新は、7世紀末から8世紀初頭の、九州年号(【九】と略す)大化期における九州王朝から近畿天皇家への権力移行に関する記事を移植したもので、「皇太子奏請」は、近畿天皇家による九州王朝の資産の収奪を示すことを述べた。(註1)

 本稿では、【九】大化期に、近畿天皇家が九州王朝の官僚、国宰・評督ほかの任命権を奪い、彼らを厳しく考査したうえ、賞罰により恫喝し、近畿天皇家の支配下に取り込む経過が「東国国司詔」に記されている事を述べる。  



1.大化元年「東国国司召集詔」の実年代と内容

「召集詔」の内容は7世紀末に相応しい



 『書紀』大化元年(645)8月に、「東国国司召集の詔」(以下召集詔)が記されている。











ここは、 ”と う や ん” twitter @t0_yan
山本 俊明 のホームページ です 。