Ⅶ・①『筑紫大地震』 と 『倭国の難波への王権の禅譲・難波遷都』
追い討ちに,筑紫全域を襲ったと考えられる
●『(水縄活断層系を起震断層とする) 筑紫大地震(678年:天武7年:白鳳18年)推定震度は「7.1以上」』 の発生で更なる疲弊・弱体化。
この筑紫大地震(678年:天武7年:白鳳18年)発生後、余震と思える書紀の記事12回を経てのち、四国・近畿・東海を襲った、いわゆる大型東南海地震の
先の 『天武の造複都難波京の詔』 以外には、筑紫大地震後の難波遷都を匂わす記事はないか。
ある、あるといえばある。ただし何か支障があったかとみえて、たとえ話で書かれている。で、見落としてしまうのだが。
●『683年(天武12年:白鳳23年)春正月2日、百寮(官)が朝廷〔天皇〕を拝した。
〔筑紫太宰丹比真人嶋らが、三つ足の雀を貢〔上〕した。〕』
⇒ 下線部の意味は、
〔3種の神器(=三つ足の雀) を九州王朝から大和王朝へ貢上した〕 という意味だそうだ。
●『7日、親王から群卿までを、大極殿の前に喚び、宴〔会〕をした。
●『18日、詔して、
〔3種の神器(=三つ足の雀) を九州王朝からプロト大和王朝へ貢上した〕
ともかくも、このことを簡単に言えば 「大宰府の白鳳王から、難波副都の(副官の)天武天皇へ、皇位の継承がなされた」 ということだろう。
更に、この皇位継承は、遷都でもあり、
古田武彦著「古代は輝いていたⅢ:法隆寺の中の九州王朝」の巻末資料に、Ⅳ山口県内の文献に見える逸年号表が掲載されているが、その中に〔朱鳥元年:686年:文献名「源平盛衰記」剣の段:記載箇所
更に日本書紀には次の記事
この記事はいやー良く分からないが、どうもその後、予期せぬ拙いことが起こったようだ、まさか、3種の神器(=三つ足の雀)がレプリカだったとか。
否違うだろう、たぶんこういうことだろう、
遷都後にも運悪く、その遷都先の近畿地方を
『(震源が室戸岬沖とされる)白鳳の大地震(684年:朱雀元年:白鳳24年)・マグニチュード 8.4』 が更に襲い、『秦国』を代表する飛鳥寺・四天王寺・川原寺・山田寺・若草伽藍等々の大寺院・仏閣が、掘立て柱構造であったがために地震に弱く全壊・全滅。
そこで、当時先進的・礎石構造の筑紫大地震にも耐えた九州「倭国」の建物の移築が決まったのでしょう。
なお、遺跡発掘調査で分かったことの、白鳳大地震で倒壊したはずの飛鳥寺・四天王寺・川原寺・山田寺・等々、大寺の書紀記事が、684年(天武13年:朱雀元年)・685年(天武14年:朱雀2年)・686年(朱鳥元年:天武15年)の3年間に限って頻出する、これは倒壊してないよと強弁してるのだろうが、これには面食らってしまう。例えば。
『(天武14年:朱雀2年:685年8月24日)天皇の病気のために、三日間、
飛鳥寺・四天王寺・川原寺・山田寺・若草伽藍等々は『秦国』を代表する寺社・仏閣である。だから倭国史書に記載されていたかどうか疑わしい。
九州元号朱雀元年(天武13年:684年)は、34年前の、書紀白雉元年(孝徳6年:常色4年:650年)に対応してるとわかる。
この遷都を期に、九州王朝大宰府系の難波京と、プロト大和朝系の飛鳥浄御原京とが、地理的に近接したが為と考えられる王権・主導権の移管が始まる。今日的には吸収合併・禅譲か放伐かと言えば、婚姻を含む禅譲だったのでしょうが、各皇子・皇女の主導権争いは暗殺を含む陰湿で、陰険なものだったでしょう。
大宰府朝系の白鳳王(=武市皇子命の父)の死が684年(白鳳地震が白鳳24年10月14日発生)、いっぽう、
これからすると、同一人の「天武天皇」扱いされていて分かり辛いが、大宰府朝の白鳳王・薩夜麻から、プロト大和朝の大海人皇子への「禅譲遺志」を受けて、プロト大和朝の「(大海人皇子の)天武天皇」は、朱雀年号の期間に、倭王「朱雀王」の帝位に即位していたことになる。
ひょっとして、高市天皇は副都難波系プロト大和朝が牛耳っていた「評制」を、「郡制の施行」に改めることで、財政を大宰府朝系のものとするのが目的だったのではないか。
(持統天皇は687年執政、690年即位元年-697年退位ということになってるが、新唐書「日本国伝」に総持・総持統・持統と名前が変わっていることからして、高市天皇の在位を認めないための「代替の架空の天皇」ということになる)。
〔メモ:(kotobankデジタル大辞泉によると、総持とは:そう‐じ〔‐ヂ〕【総持】《(梵)dhāraniの訳。音写は陀羅尼》悪法を捨てて善法を持する意で、仏の説くところをよく記憶して忘れないこと。〕
『朱雀684年以降、文武天皇即位697年迄が、倭国から日本国への移行期間』 ということになる、不思議と高市天皇(≒持統天皇)の在位期間にラップします。
古田武彦氏は「評制は700年をもって郡制に取って代わる」と言っている。極端に言うとすればではあるが、「九州王朝倭国」は700年末迄存続し・きっかりその年末に滅亡したと言うことになる。
その後、残存部隊の「隼人の乱」が鎮圧する712年(和銅5年:元明6年:大長9年)を最後に「九州王朝倭国」は完全に滅亡する。
このあと九州年号は、朱鳥(686-695年)・大化(695-704年)・大長(704-712年)迄と続く。
《メモ》:九州年号と『書紀』天皇位名とにより、わかること。
●若し、筑紫君薩夜麻が白鳳王だとした場合、「白鳳」年号が、661年-683年だから、即位661年-退位684年(捕虜の663-670年は空位)とわかる。
●白鳳王の場合、筑紫大地震678年の時も改元してないので、「白鳳」大地震684年の時も生前の改元は無いと考えられる。よって、684年末に崩御したのでしょう。
●また、『書紀』天武天皇の記録から見た場合、即位672年-退位686年で、九州年号「朱雀684年暮-686年途中迄」の3年間は、別の2人目の大海皇子が天武天皇として執政したことになる。
壬申乱672年で難波倭弟王家の大友皇子(=天智天皇の皇子)が大宰府倭兄王家の白鳳王(=天武天皇)に戦死させられた。このことは「兄弟王朝」に致命的な 「亀裂」 を生じさせただろう。
673年(天武2年:白鳳13年)『12月5日、大嘗に侍し奉った中臣・忌部、および神官の人たち、ならびに播磨(悠紀)・丹波(主基)2国の郡司、また下働きの人夫らにことごとく禄を賜った』は、「大嘗祭」の大和朝廷初出記事でなく、「壬申乱」を征した倭国白鳳王(=筑紫君薩夜麻・天武天皇)の即位記事が紛れ込んだのだろう。
筑紫大地震(678年:天武7年:白鳳18年)発生後、白鳳王(=天武天皇)が、683年別人の天武天皇に渡した「3種の神器(=三つ足の雀)」を反故に、その白鳳王(=天武天皇)の皇子の高市皇子が大宰府から難波京へ、その難波京焼失で、さらに「プロト大和朝」浄御原宮への同居を余儀なくされた。
難波倭弟王家の別人の天武天皇(=大海人皇子・持統天皇の夫・草壁皇子尊の父)が686年(朱鳥元年:天武15年)薨去したのちすぐにはだれが即位するか決まらず、その4年後。
690年〔持統4年(持統即位元年):朱鳥5年〕春正月1日
●690年〔持統4年(持統即位元年):朱鳥5年〕10月29日
691年〔持統5年(持統即位2年):朱鳥6年〕11月1日、大嘗。
難波副都完成当初、倭王は大宰府倭京と副都・難波京とを数度往復したであろうが、その後は、難波京に王家分家の弟王家が常駐することになったであろう。しかし、難波京はあくまで副都であって、そこには、王権を示す「3種の神器」や「大嘗祭」をすることは無かったわけで、持統天皇が「大嘗」したのでなく、遷都后即位した高市天皇の“すりかえ”だったとわかる。
なお、古田武彦氏が論文『大嘗祭と九州王朝の系図』で書かれているように持統天皇がはじめて大嘗したというなら、大和朝廷が690年に大宝建元したはずだし、郡制も建郡されたはずで、氏の701年と喰いちがってくる。今はこの意見は修正されていると思うが、大和朝廷が大嘗したのは、あくまで、文武天皇からである。
●696年〔持統10年(持統即位7年):大化2年〕7月10日、後皇子尊『
●同年10月22日、かりに、正広参〔正三位〕の位の右大臣丹比真人に、資人120人を賜った。正広肆〔従三位〕の大納言安倍朝臣御主人、大伴宿禰御行に、ともに80人。直広壱〔正四位下〕石上朝臣麻呂、直広弐〔従四位下〕藤原朝臣不比等に、ともに50人。
696年7月10日の高市天皇の薨去はクーデターによる暗殺だろう。
「大宰府倭兄王家」の高市天皇が
本家の「大宰府倭兄王家」の高市天皇が だから、これこそが「プロト大化改新」だと言うに留まらず、九州王朝「倭国」が滅亡し、新たに、大和王朝「日本国」が誕生したということである。
日本書紀で、だいたい、物語風に書かれている箇所はいただけないし、うさん臭い。
我々世代は「大化改新」と習ったけど、今は「乙巳の変」というのだそうだ、これなんか新羅であったひどん(毘曇)の乱のコピー丸出しだし、壬申乱だってまともに信じるとやけどするね。 「乙巳の変」とか「壬申乱」とかは、具体的に書くと色々御幣があったということだ、だから最寄の記事を利用してさもそうであったかのごとく脚色したということだろう。
696年〔持統即位7年:大化2年〕7月10日、後皇子尊『
この記事は、倭国側の暗殺下手人:丹比真人嶋・安倍朝臣御主人・大伴宿禰御行。大和側の暗殺下手人:石上朝臣麻呂・藤原朝臣不比等。らによって倭国最後の王「高市天皇」が暗殺・薨去したもので、645年乙巳皇極4年6月12日の「乙巳の変」のモデルになっていると考えるものです。登場人物を「乙巳の変」に当て嵌めてみよう。
◇
( X
( X
( X
このとき、 ( X
( X
( X
◇
・・・如何だろう?少し当て嵌めに無理があるだろうか。・・はてさて・・・
新羅の『ひどん(毘曇)の乱』は、新羅が善徳王(632-647女帝)の時、和白の筆頭伊食「毘曇」が唐に唆されて、女王ではダメだといって廉宗と共謀し王位を狙い、647年正月反乱を起こし、この時、王子の金春秋(=中大兄皇子)と重臣の金庚信(=中臣鎌足)が「毘曇」(=蘇我入鹿)を誅殺した。
ようするに、「乙巳の変・大化改新」は、新羅『ひどん(毘曇)の乱』のコピーすることで、
『 “いえ・いえ”、我が朝においては、貴(唐)国の高句麗の攻撃の報せを受けて、“恐れおののいて”新羅『ひどん(毘曇)の乱』と、まったく同様な「大化改新」という史実あったのですよ。』
と「倭国の対等外交」から「大和朝の冊封外交」への変革があったと、『日本書紀』の記述を通じて、「唐朝への“恭順”を伝え示す意図」があったと思える。
『日本書紀』の「乙巳の変・大化改新」は新羅『ひどん(毘曇)の乱』を参考に、「本来の(=プロト)大化改新」をアレンジ編集し、“でっち上げた”ものと考えられる。
なお、高市皇子の即位名:高市天皇であるが、あくまでも「傍証」としてだが、
『日本書紀』皇極紀には、
『皇極2年(643年)9月6日、オキナガタラシヒヒロヌカ〔舒明〕天皇を押坂の陵に葬った。
「ヒロヌカ天皇が、高市(タケチ)天皇だ。」という意味ではなく、「高市(タケチ)天皇」という固有の天皇が居たという意味の「傍証」としたい。
さらに、日本書紀:乙巳の変の箇所には次のように書かれている。
『皇極4年(645年)6月(12日、韓人が蘇我臣入鹿またの名鞍作を大極殿で誅殺<詳細略>。)
翌13日蘇我臣蝦夷らが、誅されるに臨んで、ことごとく天皇記、国記、珍宝を焼いた。
大臣である、別に残って良いではないか。では何故、蘇我臣蝦夷は天皇記、国記を全て焼く必要が、何故あったのか。
696年〔持統即位7年:大化2年〕7月10日、後皇子尊『 高市皇子 高市天皇』が薨じた。
645年乙巳皇極4年6月12日の「乙巳の変」はこの「プロト大化改新」及び新羅「毘曇の乱」がモデルになっている、と考えるものです。
「プロト大化改新」は、九州王朝「倭国」の滅亡した日でもある、のです。
この「プロト大化改新」説は、私が“はじめて”のようだ。
今までの歴史家は、この事実に気付かなかったのだろうか。
ようやく、九州王朝「倭国」が、日本書紀に読めてきた。
日本書紀編纂の意図も、期せずに読めてきた。
《 紹介 》
「古田史学会報no100:2010年10月08日」に掲載の〔禅譲・放伐論争シンポジウム・要旨〕で西村秀己氏、正木裕氏、水野孝夫氏、古賀達也氏の4氏の基調講演要旨が記載されている。
まー私の場合は《大和朝廷が、「プロト大化改新」で高市天皇暗殺して、倭国から政権を奪取した》という意見なので放伐かな?
その中で、西村秀己氏が次のように述べられている。
②政権交代が「禅譲」であった根拠。
イ)701年時点でのヤマト朝廷の首都は「飛鳥浄御原」、「藤原京」ではない。
●慶雲元年十一月に始めて“藤原宮の地を定む”(続日本紀)とある。
ロ)701年まで「藤原宮」は九州王朝の宮であった。
a)乙巳の変の起きたのは「藤原宮」。
●大化元年(695年)書紀の記述の舞台に12の門がある。
当時12の門をもった宮は藤原宮のみ。
b)改新の詔勅。(大化2年:696年正月に九州王朝が発布したもの)
●畿内を、「名懇の横川・紀伊の背山・明石の櫛淵・近江の逢坂山」としている。
その中心は藤原宮。
c)古事記序文の飛鳥清原の大宮の天皇は天武でなく文武。(西村持論)
●文武の即位(697年)は「藤原宮」ではなく「飛鳥浄御原」で行われている。
ハ)九州王朝の臣下がヤマト政権下でも継続して重要なポストにいる。
●会報96号の西村論文「橘諸兄考」など。 ー云々ー
なお、私は天武天皇については古田武彦氏の解説で納得できるが…、
天智天皇(=中大兄皇子)については今もって分からない。 天智天皇・天武天皇の「 天 □ 」は、例の『隋書』・『俀国伝』の『開皇二十年俀王姓阿毎字多利思北孤』の『阿毎』で「アメ」と読み、天の九州王朝倭王権を表わすと考えるので、天智・天武の両天皇が九州王朝倭王権出身の天皇であり、決して飛鳥・葛城『秦国』の天皇ではないと考えている。 天智は白村江の戦へ出征の筑紫君薩夜麻(=天武)の留守居倭王権で・いわばリリーフピッチャーだと考えている。 だが、そうすると、舒明・皇極・孝徳・斉明・天智・(持統の夫の)天武・持統・文武のつながりが今ひとつしっくり来ないのも確かなのだ。
(そこで)ひょっとして、日本書紀の 〔
そこで、中央集権国家の巨大徴税システムである評制は爾来強大な軍事力で支えられ継続して維持されたはずで、そのベース基地たる 「九州王朝難波副都」 は652年(書紀白雉3年:孝徳8年:白雉元年)秋9月完成以降、はたしてどのように使われて来たか整理しよう。
正木裕氏は。 「白雉年間の難波副都建設と評制の創設について」 の中で、
●白村江戦いまでは、九州王朝難波副都で倭国王家 〔分家の弟王家〕 が評制度の施行を徹底・
実効支配。評制度の施行・維持には、当然強大な軍事力を伴ったと考えられる。
●白村江の戦い以降・壬申乱までは、倭国留守居の天智の首都として、
(この時大宰府は唐に占領されていた。近江朝遷都後は近江京が首都かも)。
●壬申乱以降・筑紫大地震までは、再度薩夜麻白鳳王の筑紫都督府(=大宰府)の難波副都
として。〔なお、飛鳥淨御原宮を西暦672年(天武元年:白鳳12年)の冬に造ったとあるが
九州年号が改元されてないので、プロト大和朝廷の首都だろう。〕
●筑紫大地震以降は大宰府から難波へ禅譲・遷都し、(
大海人皇子、持統の夫の )天武天皇の
結果、684年の九州元号朱雀改元へ続く。
●その後、難波京の火事・(大海人皇子、持統の夫の)天武天皇の死で686年朱鳥改元。
●その火事の後に、止むを得ず、白鳳王の長男の高市天皇は飛鳥淨御原宮へ間借り遷都した。
ところが飛鳥淨御原宮は『秦国』を取込んだプロト大和朝廷系の都でもあったのではないか。
●白鳳王の長男の高市天皇は難波京の代わりに藤原京を造り、
694年(持統8年:朱鳥9年)12月6日遷都した。翌年大化と改元し、プロト大化改新の詔を宣した。
と考えられないだろうか、あくまでもモデルとしてではあるが。
また、九州王朝副都難波京での評制と、代わりに、大和王朝藤原京での郡制とは、結果的には、どこがどのように違いがあったのだろうか知りたいものだ。
更にここで、古賀達也氏が洛中洛外日記の中で「前期難波宮は九州王朝難波副都である」ことを証明するとして挙げている数々の事例・事柄を整理しよう。
①難波副都完成が白雉改元、焼失が朱鳥改元、九州王朝では建都や遷都に伴って九州年号を改元した。
②太宰府「政庁跡」は北側に天子がいる正殿(紫宸殿・大極殿)が位置する北朝系の様式であり、難波宮もまた北朝系様式の宮殿である。
③「日本書紀」の『天武12年条(683)難波に複都を造る詔』は、34年前に遡った649年に九州王朝が出した難波副都建設の詔勅を盗用したもので、その後、前期難波宮は九州年号の白雉元年(652)に完成している。
④「難波宮」の名称は、太宰府と同じ筑前にあれば、より具体的な地名を付した宮名が必要だが、はるか遠くの近畿の難波であれば、「難波宮」で十分である。
⑤「副都の定義」とは、首都に問題が発生し、首都機能の維持が困難な際、統治機構が移動し、統治行政可能な都市が副都。倭国天子は太宰府と難波宮を必要に応じ往来、両都を使い分けたか。
⑥寺井誠氏論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号)に前期難波宮から北部九州の須恵器が出土と指摘している。
⑦「伊予三島縁起」の中に『孝徳天王位。番匠初』の記事がある。
等々であるが、「前期難波宮は九州王朝難波副都である」ことに先ず間違いないであろう。
①663年、「大宰府倭兄王家」の薩夜麻が白村江敗戦で捕虜。
②663年、「難波副都倭弟王家」の天智は倭国の残存部隊の結集と留守居王権として九州島を除く、
本州・四国を実効・直接支配。
③664年、九州倭国の筑紫都督府(=大宰府)に唐軍が進駐・駐留。
④667年、プロト大和が倭国から実質的に分離独立、筑紫都督府(=大宰府)の唐進駐軍が瀬戸内海を
通って難波京を急襲すればひとたまりも無い。防衛上難波京から近江京へ遷都・同時に即位した。
⑤670年、三国史記新羅本紀文武王10年天智9年にプロト大和「近江朝」が倭国更えて日本と号す。
⑥672年、壬申乱後、薩夜麻の倭国王復位。
⑦672年、大海人の天武天皇が「難波副都倭弟王家」の飛鳥浄御原宮で即位。
⑧672年、壬申乱後も、九州倭国は戦後賠償金支払いで更に疲弊。
⑨678年、筑紫大地震で更に疲弊。
⑩683年、倭国がプロト大和へ3種神器貢上。
⑪684年、倭国が大宰府から難波京へ遷都・朱雀改元。
⑫686年、難波京全焼で飛鳥浄御原宮へ再遷都・朱鳥改元。
⑬695年、藤原京完成で遷都・大化改元。
⑭696年、高市天皇が郡制施行のプロト大化改新発詔。
⑮696年、高市天皇暗殺。
⑯696年、九州王朝倭国滅亡。
九州王朝倭国の難波副都が652年完成で、倭王分家の弟王家が難波京へ常駐するようになって以降の歩みと言えよう。
私が言いたいのは、神武・崇神・応神の話ではなく、〔
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