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◎白村江戦以降・「近江朝」


Ⅵ・①『継体紀の「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ」とは』


 「日本書紀継体紀527年(継体21正和2)8月1日、天皇は親しく斧鉞をとって、物部麁鹿火大連に授けて、
『長門以東は朕がとろう。筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え。ひんぴんと報告しなくともよい』
 といった。」


 ⇒いままで、この句の背景になった史実が思い浮かばなく思案してたが、


 「朕」の「継体天皇が、中大兄皇太子の天智天皇」で、「物部麁鹿火大連が、大海人皇子の天武天皇」だとしたらどうだろう。
 大宰府倭兄王家の白鳳王薩夜麻が白村江戦で敗れ自身は唐の捕虜になった。
 その直後の難波複都倭弟王家の中大兄皇太子と大海人皇子との会話だとすれば、留守居のプロト大和朝廷が、九州王朝倭国のあとがまにそっくり納まろうとしたと分かる。


 663年9月以降の早い時期に、難波で白村江敗戦の報を受けた、難波副都倭弟王家(=プロト大和朝廷)の中大兄皇太子(=のちの天智天皇)は弟の大海人皇子へ、
 「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え、ひんぴんと報告しなくともよい」と指示した。


 大海人は難波から筑紫へ急行し、倭国大宰府倭兄王家の残存部隊を結集し、留守居王権として筑紫島を防衛・確保、百済倭敗残兵・百済避難逃亡民の受入れ、さらには困難な戦後賠償交渉と損な役回りだっただろう。
 中大兄は九州島を除く本州・四国を実効・直接支配下に治め、これが後のプロト大和「近江朝」の基盤となった、だろう。


 「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え、ひんぴんと報告しなくともよい」
 ● ⇒ これが、白村江敗戦直後のプロト大和朝廷の中大兄と大海人との会話だとすれば、天下立評后の中央集権化で出雲・加賀・吉備・『秦国』・尾張・毛野(常陸)が解体した直後の即ち『長門以東』である。


 正木裕氏の言う「常色の改革」の天下立評を指示し、難波複都を造った、倭国の天帰王(=甘木王)もまさかこんなに簡単に出雲・加賀・吉備・『秦国』・尾張・毛野(常陸)が解体し中央集権化しょうとは思ってもいなかっただろう。
 『長門以東』とは嘗かつての倭国連邦附庸王国の領土であったわけだ。


■661年斉明7年10月23日戻って以降、近江に遷都する 667年天智6年3月19日迄は難波に居た。ことになるが、662 663 年天智(元年 2年 )8月28日倭国・百済連合軍は唐・新羅連合軍に白村江で敗戦する、倭王の薩夜麻が唐の捕虜になる。


■662 663 年(天智元年 2年 )9月以降の早い時期に、難波で敗戦の報を受けたプロト大和朝廷の中大兄皇太子は大海人皇子へ、
 「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え、ひんぴんと報告しなくともよい」
 といった。大海人皇子は筑紫へ渡り倭国の残存部隊の結集と留守居王権として筑紫島を確保。
 中大兄皇太子は九州島を除く本州・四国を実効・直接支配。


■664年(天智3年)夏5月17日百済を占領した唐の将軍(鎮将)劉仁願が朝散大夫郭務悰を九州倭国の筑紫都督府(=大宰府)へ派遣。
 664年(天智3年)12月12日郭務悰らが帰った。


■日本書紀665年(天智4年)8月、長門に城を築くとある。
 以前に、私は、山口県西半分旧長門国の地図を首っ引きで探したが無かった。
 『石城山遺跡は「長門の城」であったか、「楊井水道」は古代の「長門水道」であった』と、「のちに、なって」知った。


■665年(天智4年)9月23日唐国が朝散大夫郭務悰、忻州の司馬、上柱国の劉徳高ら凡そ254人を九州倭国の筑紫都督府(=大宰府)へ遣わした。
 665年(天智4年)12月劉徳高らが帰国した。


■667年(天智6年)3月19日、プロト大和朝廷が倭国から実質的に分離独立。
 筑紫都督府(=大宰府)の唐進駐軍が瀬戸内海を通って「難波京」を急襲すればひとたまりも無い、この侵略予防の為、暫時、「難波京」から「近江京」へ遷都。
 同時に、中大兄皇太子は天智天皇として即位。これが、プロト大和朝廷で初の王位即位であろう。
 668年(天智7年)正月3日皇太子が天皇位に即いた。(㊟:或本はいう6年3月に即位)


■667年(天智6年)11月9日、百済の鎮将劉仁願が、熊津都督府の熊山県令で上柱国の司馬法聡らを遣わして、大山下境合部連石積らを九州倭国の筑紫都督府(=大宰府)に送った。13日司馬法聡らが帰国した。


■667年(天智6年)11月、讃岐国山田郡の屋島城を築く。
《参照》
『私の写真日記:屋島城跡』:この屋島城は近年その存在が脚光を浴びていますが、先の『石城山遺跡は「長門城」であった』と同様、長門城及び屋島城は近江朝が九州王朝倭国から実質的に分離・独立したが為に、「瀬戸内海航路」の防衛上で、必要になったと考えられます。


■668年(天智7年)春、三国史記・新羅本紀・卷第六・文武王・上
 『八年春、阿麻來服、遣元器與淨土入唐、淨土留不歸、元器還、有勅、此後禁獻女人』
 の「阿麻来服」記とは、倭国難波副都常駐弟王家の近江朝天智は白村江后、倭国から長門以東(本州・四国)を、667年分離独立させ、翌年668年春、とりあえず、隣国の新羅へ近江朝の仮名「阿麻(=天)」国(弟王家も当然「アマ氏」である)として、その独立宣言報告使・国交開設使を新羅へ派遣したのだ。


■668年(天智7年)冬10月大唐の大将軍英公が、「高句麗」を打ち滅ぼした。


■669年大唐が郭務悰ら2000人余人を九州倭国の筑紫都督府(=大宰府)へ派遣してきた。


■670年、三国史記新羅本紀文武王10年(天智9年)に、プロト大和朝「近江朝」が『「倭国」更えて「日本」と号す。』


■671年(天智10年)春正月6日、プロト大和朝「近江朝」の大友皇子が宣命して、26階冠位・法制を施行した。


■671年(天智10年)春正月13日、唐の百済鎮将劉仁願が李守真らを九州倭国の筑紫都督府(=大宰府)へ遣わし上表した。
 7月11日唐の人の李守真らと百済の使人らとがいずれも帰国した。


■671年(天智10年)11月10日、この月になって沙門道久、「筑紫君薩夜麻」、韓島勝裟婆、布師首磐の4人が唐から来て、「唐国の使人郭務悰ら600人、送使沙宅孫登(百済人)ら1400人、あわせて2000人が、船47隻に乗りともに比知島に停泊し語り合って”今吾等の人・船は多い。
 いきなりあそこに行ったなら、あそこの防人がおどろいて射戦するのをおそれる”といい、そこで道久らを遣わして予め来朝の意を開陳」


■671年(天智10年)12月3日、プロト大和朝「近江朝」の天智天皇が近江宮で崩じた。


■672年(天武元年)夏5月22日、郭務悰らに総合してふとぎぬ1673匹、布2852端、真綿666斤、他甲冑弓矢を(倭国が白村江戦後賠償金として)賜った。
 30日郭務悰らが帰国した。


■672年(天武元年)7月23日プロト大和朝「近江朝」の大友皇子が自ら首をくくった、ことで壬申乱が終結した。



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Ⅵ・②『壬申乱とは「唐の傀儡・倭国」と「長門以東・近江朝」の唐による倭国再統合戦だった』

 九州王朝倭国が白村江敗戦以後、筑紫都督府に唐軍が進駐・占領した時点では、既に本州・四国は倭国難波分家弟王家「近江朝」の天智の支配下に入っていたと推定できる。
 唐軍が進駐し占領したのは、薩夜麻倭国白鳳王不在の倭国直轄地・即ち九州島で、白鳳王の息子の高市皇子を大海人が助ける形で統治していた。


 倭国の天帰王が実施した「常色の改革」の一環に天下立評があり、この徴税システムが従来の倭国附庸国連邦を解体したであろうことは明瞭です。
 弟王家「近江朝」の天智は本州・四国の連邦解体後の後釜に坐り、弟王家「近江朝」の中央集権国家を樹立しその独立宣言が新羅への「倭国」改めて「日本」と号すだ。


 この時点670年で、倭王の白鳳王・薩夜麻は唐の都に捕虜として拘留され、倭国の都大宰府は倭王不在であった。九州王朝倭国の旧来からの本領地の九州島は唐が進駐し、占領していたわけで、「倭国は、更えて日本と号す。」などできなかっただろう。
 近江朝が倭国の弟王家で、その先祖が安羅王とわかる。


 白村江までは倭国附庸国連邦の解体が約10年というあれよ・あれよ間であり、本州・四国の統治は、弟王家が大宰府王家からの委任統治の形だったでしょう。
 倭国大宰府王家が白村江で敗戦したと同時に、弟王家「近江朝」の天智は本州・四国を直接支配下に置いたと考えます。表面的な違いは無かったのだ。


 日本書紀は(664年)天智3年春2月9日天皇は大皇弟に命じ、二六階の近江令を宣したというが、少し用意周到過ぎないだろうか、(671年)天智10年正月6日大友皇子が宣命した「冠位・法制の施行」が史実と思うがどうだろう。
 この弟王家「近江朝」は天智が崩御することで潰えてしまう、毒殺か。


 一向に進まない戦後賠償交渉に業を煮やした唐国側の代表の郭務悰は、捕虜で洗脳が終わった倭国王・筑紫君薩夜麻(=天武天皇・白鳳王)を開放。
 筑紫君薩夜麻(=天武天皇・白鳳王)は帰国と同時に倭国白鳳王復位を宣言し、当時、唐が占領の筑紫都督府、及び近江朝の本州・四国に分裂していた倭国の再統合を要請した。その結果が「壬申乱」であろう。


 薩夜麻(=白鳳王・高市皇子命の父の天武天皇)の 「唐の傀儡政権・倭国(=大宰府倭兄王家)」 は、「プロト大和・近江朝(=難波副都倭弟王家)」の中で当時孤立していたと思われる大海人皇子(=持統の夫・草壁皇子尊の父の天武天皇)の戦勝後の地位と、「プロト大和・近江朝(=難波副都倭弟王家)」の将来を旧来通りに保障・約束し、副官になるよう協力要請した。


 その結果、大友皇子(=天智天皇の皇子)の 「プロト大和・近江朝(=難波副都倭弟王家)」 に戦勝。
 「唐の傀儡政権・倭国(=大宰府倭兄王家)」 の薩夜麻(=白鳳王・高市皇子命の父の天武天皇)は 『壬申の乱』(西暦672年:天武元年:白鳳12年)に戦勝した。


 668年には高句麗が滅亡している。同年、新羅本紀に「阿麻来服」とあり、「長門以東の天智近江朝が倭国から独立」のニュースは新羅から唐へ急報されただろう。
 唐は九州筑紫都督府占領軍を帰任させる前に、捕虜の倭国王薩夜麻を解放復位させ倭国の再統合の為の「壬申の乱」を計画・実行したのだろう。


 というのは、672年「壬申の乱」が起きるその前年671年に、倭国白鳳王薩夜麻が帰国している。
 ということは、「壬申の乱」が、近江朝大友皇子と吉野朝天武天皇の跡目争いといった小さなものなく、唐の倭国再統合戦だったということだ。
 熊本大津内牧瀬田橋戦も含め、記述外の戦がどうだったのかだ。


 「近江朝(=難波副都倭弟王家)」が「倭国」から分離独立したことを唐国は認めたくなかったのだ。
 壬申乱に戦勝、唐筑紫占領軍が引揚げ后は、独立した筑紫(=九州島)統治大宰府「倭国」と、長門以東(=本州・四国)統治真人(=征討将軍)の「天武朝(=難波副都倭弟王家)」とに取って代わる。


 然し、「壬申乱」で戦勝したはずの倭国のその後は、唐国の傀儡化と過酷な戦後賠償でさらに疲弊してゆくことになる。
 (残念なことに、白村江敗戦後のこの時期、属国・九州王朝倭国の唐への戦後賠償船派遣記事は、正木裕氏の指摘する34年遡上説でそっくり抹殺・抹消され窺い知ることができないのだ)。
〔参照:天武天皇は二人いた(日出島哲雄著)〕



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