Ⅵ・①『継体紀の「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ」とは』
「日本書紀継体紀527年(継体21正和2)8月1日、天皇は親しく斧鉞をとって、物部麁鹿火大連に授けて、
『長門以東は朕がとろう。筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え。ひんぴんと報告しなくともよい』 といった。」
⇒いままで、この句の背景になった史実が思い浮かばなく思案してたが、
「朕」の「継体天皇が、中大兄皇太子の天智天皇」で、「物部麁鹿火大連が、大海人皇子の天武天皇」だとしたらどうだろう。
663年9月以降の早い時期に、難波で白村江敗戦の報を受けた、難波副都倭弟王家(=プロト大和朝廷)の中大兄皇太子(=のちの天智天皇)は弟の大海人皇子へ、
大海人は難波から筑紫へ急行し、倭国大宰府倭兄王家の残存部隊を結集し、留守居王権として筑紫島を防衛・確保、百済倭敗残兵・百済避難逃亡民の受入れ、さらには困難な戦後賠償交渉と損な役回りだっただろう。
「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え、ひんぴんと報告しなくともよい」
正木裕氏の言う「常色の改革」の天下立評を指示し、難波複都を造った、倭国の天帰王(=甘木王)もまさかこんなに簡単に出雲・加賀・吉備・『秦国』・尾張・毛野(常陸)が解体し中央集権化しょうとは思ってもいなかっただろう。
■661年斉明7年10月23日戻って以降、近江に遷都する 667年天智6年3月19日迄は難波に居た。ことになるが、662
■662
■664年(天智3年)夏5月17日百済を占領した唐の将軍(鎮将)劉仁願が朝散大夫郭務悰を九州倭国の筑紫都督府(=大宰府)へ派遣。
■日本書紀665年(天智4年)8月、長門に城を築くとある。
■665年(天智4年)9月23日唐国が朝散大夫郭務悰、忻州の司馬、上柱国の劉徳高ら凡そ254人を九州倭国の筑紫都督府(=大宰府)へ遣わした。
■667年(天智6年)3月19日、プロト大和朝廷が倭国から実質的に分離独立。
■667年(天智6年)11月9日、百済の鎮将劉仁願が、熊津都督府の熊山県令で上柱国の司馬法聡らを遣わして、大山下境合部連石積らを九州倭国の筑紫都督府(=大宰府)に送った。13日司馬法聡らが帰国した。
■667年(天智6年)11月、讃岐国山田郡の屋島城を築く。
■668年(天智7年)春、三国史記・新羅本紀・卷第六・文武王・上
■668年(天智7年)冬10月大唐の大将軍英公が、「高句麗」を打ち滅ぼした。
■669年大唐が郭務悰ら2000人余人を九州倭国の筑紫都督府(=大宰府)へ派遣してきた。
■670年、三国史記新羅本紀文武王10年(天智9年)に、プロト大和朝「近江朝」が『「倭国」更えて「日本」と号す。』
■671年(天智10年)春正月6日、プロト大和朝「近江朝」の大友皇子が宣命して、26階冠位・法制を施行した。
■671年(天智10年)春正月13日、唐の百済鎮将劉仁願が李守真らを九州倭国の筑紫都督府(=大宰府)へ遣わし上表した。
■671年(天智10年)11月10日、この月になって沙門道久、「筑紫君薩夜麻」、韓島勝裟婆、布師首磐の4人が唐から来て、「唐国の使人郭務悰ら600人、送使沙宅孫登(百済人)ら1400人、あわせて2000人が、船47隻に乗りともに比知島に停泊し語り合って”今吾等の人・船は多い。
■671年(天智10年)12月3日、プロト大和朝「近江朝」の天智天皇が近江宮で崩じた。
■672年(天武元年)夏5月22日、郭務悰らに総合してふとぎぬ1673匹、布2852端、真綿666斤、他甲冑弓矢を(倭国が白村江戦後賠償金として)賜った。
■672年(天武元年)7月23日プロト大和朝「近江朝」の大友皇子が自ら首をくくった、ことで壬申乱が終結した。
九州王朝倭国が白村江敗戦以後、筑紫都督府に唐軍が進駐・占領した時点では、既に本州・四国は倭国難波分家弟王家「近江朝」の天智の支配下に入っていたと推定できる。
唐軍が進駐し占領したのは、薩夜麻倭国白鳳王不在の倭国直轄地・即ち九州島で、白鳳王の息子の高市皇子を大海人が助ける形で統治していた。
倭国の天帰王が実施した「常色の改革」の一環に天下立評があり、この徴税システムが従来の倭国附庸国連邦を解体したであろうことは明瞭です。
この時点670年で、倭王の白鳳王・薩夜麻は唐の都に捕虜として拘留され、倭国の都大宰府は倭王不在であった。九州王朝倭国の旧来からの本領地の九州島は唐が進駐し、占領していたわけで、「倭国は、更えて日本と号す。」などできなかっただろう。
白村江までは倭国附庸国連邦の解体が約10年というあれよ・あれよ間であり、本州・四国の統治は、弟王家が大宰府王家からの委任統治の形だったでしょう。
日本書紀は(664年)天智3年春2月9日天皇は大皇弟に命じ、二六階の近江令を宣したというが、少し用意周到過ぎないだろうか、(671年)天智10年正月6日大友皇子が宣命した「冠位・法制の施行」が史実と思うがどうだろう。
一向に進まない戦後賠償交渉に業を煮やした唐国側の代表の郭務悰は、捕虜で洗脳が終わった倭国王・筑紫君薩夜麻(=天武天皇・白鳳王)を開放。
薩夜麻(=白鳳王・高市皇子命の父の天武天皇)の 「唐の傀儡政権・倭国(=大宰府倭兄王家)」 は、「プロト大和・近江朝(=難波副都倭弟王家)」の中で当時孤立していたと思われる大海人皇子(=持統の夫・草壁皇子尊の父の天武天皇)の戦勝後の地位と、「プロト大和・近江朝(=難波副都倭弟王家)」の将来を旧来通りに保障・約束し、副官になるよう協力要請した。
その結果、大友皇子(=天智天皇の皇子)の 「プロト大和・近江朝(=難波副都倭弟王家)」 に戦勝。
668年には高句麗が滅亡している。同年、新羅本紀に「阿麻来服」とあり、「長門以東の天智近江朝が倭国から独立」のニュースは新羅から唐へ急報されただろう。
というのは、672年「壬申の乱」が起きるその前年671年に、倭国白鳳王薩夜麻が帰国している。
「近江朝(=難波副都倭弟王家)」が「倭国」から分離独立したことを唐国は認めたくなかったのだ。
然し、「壬申乱」で戦勝したはずの倭国のその後は、唐国の傀儡化と過酷な戦後賠償でさらに疲弊してゆくことになる。
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