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大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 042 》
 
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ
 
 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、 
日本書紀の〔 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 
 2010年 4月 2日 発行
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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』
 
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ https://waikoku.sakura.ne.jp/yamato.html 2:32 PM Apr 2nd webから ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 
 
 
(758) 『「橿(モチノキ)はアワギ」の発見ーイザナギハ下関市彦島海士郷町十四番地で禊いだー西井健一郎著』 2011年9月1日(木)
 
 
 
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古田史学会報no105(2011年8月8日)へ投稿記事のひとつを紹介しょう。
 
 先に紹介の
 
 これだと「吉野」は葦(ヨシ)しげった野原でなく、米田良三氏の言うように、「吉・きつ(=国栖・くず)野・の」で、先住民「国栖」の住むところとなる。はて・さて?
 
 
《参照》
 
《応神紀》応神天皇十九年(戊申二八八)十月戊戌朔》十九年冬十月戊戌朔。幸吉野宮。時国樔人来朝之。因以醴酒献于天皇。而歌之曰。
 
●伽辞能輔珥。予区周〓[土+烏]菟区利。予区周珥。伽綿蘆淤朋濔枳。宇摩羅珥。枳虚之茂知〓[土+烏]勢。磨呂俄智。
 
※ かしのふに よくすをつくり よくすに かめるおほみき うまらに きこしもちをせ まろがち (K039)
 
歌之既訖。則打口以仰咲。今国樔献土毛之日。歌訖即撃口仰咲者。蓋上古之遣則也。夫国樔者。其為人甚淳朴也。毎取山菓食。亦煮蝦蟆為上味。名曰毛濔。其土自京東南之。隔山而居于吉野河上。峰嶮谷深。道路狭〓。故雖不遠於京。本希朝来。然自此之後。屡参赴以献土毛。其土毛者栗・菌及年魚之類焉。
 
 
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「橿(モチノキ)はアワギ」の発見 ーイザナギハ下関市彦島海士郷町十四番地で禊いだー 大阪市 西井健一郎氏 投稿
 
 
●一、 「橿(キョウ)」と「檍(オク)」
 
 神代七代の第六代神を、『古事記』は “於母陀流(おもだる)神・阿夜訶志古泥(あやかしこね)神” と書く。
 
 
 もっとも、応神紀に【吉野之白檮上、作横臼…】に続き、“歌曰、加志能布邇(かしのふに)余久須袁都久理(よくすをつくり)”とある。「白檮」は「加志」にあたる。
 神武紀の白檮原(かしはら)宮を『日本書紀』は「橿原」の地と記すから、橿は「カシ」と訓むことになったかもしれない。なお、旁(つくり)の畺には「かちりかたい」の意味がある。「檮:とう」 
 
 
 惶根尊の亦名にある「橿城」が本当に「カシキ」への当て字なのか、との疑問を持つ。
 
 
 つまり、中国から輸入された時点の「橿(きょう)」と「檍(おく)」は同じ木種を指していた。
 
 
 では、原伝承が『記・紀』の種本に採録された時点での、「橿」と「檍」とをあてた木種はなんと呼ばれていたのだろう。
 
 
 その唯一の古例が、『紀』のイザナギがミソ禊ぐ地名“檍原”である。この原訓に、「檍、此れを“阿波岐”云う(第7一書)」である。
 
  
 更にそれならば、「橿城根」は「アワギ・ギネ」への当て字だったことになるが、橿城の「城(ぎ)」は、橿を「アワギ」と読ませるように「城」を重ねて仕向けたとも思える。
 
 
 然し、種本が「アワギネ」にあてた「橿城根」を、『日本書紀』の編者は、「訶志古泥(かしこね)」の当て字だと受け取り、間違えて編集したと推測する。
 
 
 
 
 
 
(759) 『続1) 「橿(モチノキ)はアワギ」の発見ーイザナギは下関市彦島海士郷町十四番地で禊いだー西井健一郎著』 2011年9月1日(木)
 
 
 
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《参照》
 
 《第二段本文》次有神。泥土煮尊。〈泥土。此云于毘尼。〉・沙土煮尊。〈沙土。此云須毘尼。亦曰。泥土根尊。沙土根尊。〉次有神。大戸之道尊。〈一云、大戸之辺。〉・大苫辺尊。〈亦曰大戸摩彦尊。大戸摩姫尊。亦曰大富道尊。大富辺尊。〉次有神。面足尊。惶根尊。〈亦曰吾屋惶根尊。亦曰忌橿城尊。亦曰青橿城根尊。亦曰吾屋橿城尊。〉次有神。伊弉諾尊。伊弉冊尊。
 
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●二、 橿城根尊は「アワギネ尊」
 
 
「橿城根」が「アワギネ」だったと考える第二の理由は、『日本書紀』の神代七代の神名群に続く一書にある。《参照:上記の第二段》
 
 
 それが、
 
 
(第2)の、【《第二段一書第二》一書曰。国常立尊。生天鏡尊。天鏡尊生天万尊。天万尊生沫蕩尊。沫蕩尊生伊弉諾(いざなぎ)尊。沫蕩。此云阿和那伎(あわなぎ)。】とである。
 
 
 「青橿城根」とある「イザナギ」の親の名を、第2では阿和那伎と記す。同一人の名前なのだから、橿は阿和への当て字である。
 
 
 なお、沫蕩に「アワナギ」との原訓があるが、「蕩」は称号「タラシ」への当て字だ。先行王の「面足尊」も「ツラのタラシ」だから。ツラは、『日本書紀』カグツチの第7一書の【「天吉葛」、此れを「阿摩能與佐點圖羅(あまのよさつら)」と云う】からみて、葛(=国栖・〔くず〕)族の意味だから、「面足」の原称は「葛のタラシ」である。
 
 
 この第2一書は宋史日本伝中の日本僧然が提出した日本国王年代紀の一部分なのだが、そちらには【初主號天御中主。次曰…。次天萬尊。次沫名杵尊。次伊弉諾尊。…】と「イザナギ」の前に「アワナギ」「アワナギネ」かが載る。ここでも「カシコネ」の名は見えないのである。
 
 
 
 
 
 
(760) 『続2) 「橿(モチノキ)はアワギ」の発見ーイザナギは下関市彦島海士郷町十四番地で禊いだー西井健一郎著』 2011年9月2日(金)
 
 
 
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●三、 「カシコネ神」は香の色許泥神
 
 
となると、「アワギネ」は「カシコネ」とは別人かもしれない。
 
 
 「カシコネ」を我流の漢字で書けば「香の色許泥(かのしこね)」となる。「香」つまり「カグ」の地出身の勇者、あるいは「カグ」の地を支配する勇者との称号を持つ王だった。ひょっとすると、天萬尊か、「イザナギ」に討たれた「迦具土(かぐつち)神」のことかも。
 
 
 ついでに、「シコオ」や「シコメ」などの「シコ(色許)」称号がつく記紀への登場人物はわずかである。
 
 
 親の「内色許男(うつしこを)命」は開化紀に「鬱色雄(うつしこを)命」とあり、注に神「饒速日(にぎはやひ)命」の五世孫とある。これは物部(もののべ)系だから「物(ブツ)」はこの「鬱(うつ)」の替え字で、物部の源は鬱部(うつべ)である。
 
 
 ウツは神武紀の「珍彦(うつひこ)」、孝元記の「建内宿禰(たけのうつのすくね)」の祖父で木国造の「宇豆(うづ)比古」、応神記の「宇遅能和紀郎子(うじのわきいらつこ)」の支配地だった。
 
 
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 太古の彦島では、「香」はその「ウツ(=小戸沿岸)」域の一部である。
 
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(761) 『続3) 「橿(モチノキ)はアワギ」の発見ーイザナギは下関市彦島海士郷町十四番地で禊いだー西井健一郎著』 2011年9月2日(金)
 
 
 
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●四、 「イザナギ」の禊の地、「アハキ」原
 
 
 話を「アハギネ」に戻す。
 
 橿が檍と同地であれば、「イザナギ」が何故、檍(あわぎ)原(バルかも?:九州に多い村の意味の語尾)で禊(みそぎ)を行ったかがわかる。彼を養育した「アワギネ」ノ出自地だったからだ。
 
 
 この淡路は「アハギ」からの造作であり、「アハギ」が胞衣(エナ:胎児を育てる膜と胎盤「広辞苑」)となって「イザナギ」を育てたことを伝える。
 
 
「イザナギ」は「アハギ」原でミソギをすることにより「アワキネ(=イザナミと同一人物)」の庇護やくびきから独立することを宣言し、イザナキ族の初代王の地位についた。
 
 
『古事記』はこのミソギの地を
【到坐竺紫日向之橘小門阿波岐原(ちくしひゅうがのたちばなのおどあはぎはら)】と記す。
  
 『記紀』の種本の源は下関市の彦島伝承とするわが偏固な史観からは、
【チクシ日(ひ)の「向(むこ)」のキツの小戸(おど)のアハギバル】と解す。
 
 
 竺(ちく)はタケ(竹・建)の書き換えであり、「高天原(たかあまがはら)」や「高尾張邑(たかのおはりむら)」のタカと同じ広域地名である。
 
 
 
 
 
 
(762) 『続4) 「橿(モチノキ)はアワギ」の発見ーイザナギは下関市彦島海士郷町十四番地で禊いだー西井健一郎著』 2011年9月4日(日)
 
 
 
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●五、 「アワ(粟・淡・沫)」は、「大の咋」の地
 
 
 このミソギの地、「阿波岐(あはぎ)」は、『記・紀』に多出する「アワ(淡・粟)」とは別地である。
 
 第10一書の前出部分の直前に
 
 
 後者の「速吸名門(はやのすいなのと)」は、神武紀に
 
 
 その粟門の岸辺がアワの国、『古事記』の【粟國謂「大宣都比賣(おおげつひめ)」】の地だ。
 
 
 この大域の歴代のボスが、大戸日別神や大年神(大戸主の訛)である。スサノヲ神譜(記)に「刺国大(さしくにおお)」の神名がみえる。
 
 
 粟國(本村町)の東前面が「淡海(あわのうみ)」、現在の下関漁港。その東対岸の大和町は埋立て前は砂州と岩礁が並び、関門海峡から岩列を越して入る潮で泡立つ入り海だった。
 
 
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●六、 「海士郷町」と、賊の「麻剥ぎ」
 
 
 一方のアワギ原は檍原、そこは橿原。
 
 その位置を神武紀は
 
 
 ついでに、畝傍山は「ウムビ」の山への当て字、神武記の吉野行きに載る「井氷鹿(いひか)」や「石押分(いのおしわけ)」など【「生尾(うむび)」の人】の地、そこも「吉(きつ=国栖)野」地域。小戸の「橘(きつ)」の檍原とは同域だ。
 
 
 面白いことに「アワギ」は小戸沿岸族(国栖族)にとっては聖地だが、それに対抗する本村町の平地族にとっては蛮徒の地にすぎない。
 
 
 
 
 
 
(763) 『続5) 「橿(モチノキ)はアワギ」の発見ーイザナギは下関市彦島海士郷町十四番地で禊いだー西井健一郎著』 2011年9月5日(月)
 
 
 
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●七、 檍は奥、そして澚
 
 
 一方、「アワギ」の檍を「オク」と呼び替えて、「奥」と置き換えた形跡がある。
 
 
 神武紀が橿原を墺区としたのも、同地が「オク」とも呼ばれていたからではないか。
 
 
 ところで、『日本書紀』に「奥津」はない。『古事記』は孝昭帝の后の「余曾多本毘売(よそたほひめ)」の兄を尾張連祖・「奥津余曾(おくつよそ)」と記すが、『日本書紀』は「澚津世襲(おきつよそ)」とあてる。
 
 
 ここでは「奥津余曾」=「澚津世襲」で、つまり、「奥」は「澚」に置換されている、とわかる。
 
【「澚」は「奥(おく)=「檍(おく)」であり、「橿」なのだ。】
 
 そこが、彼の出自地の祖神「イザナギ」が王として独立を宣言した聖地だったからであり、後には「大域」と「アマ域」を出自とする「大海人(おおあまの)皇子」こと天武帝の氏族の開祖で初代王の「磐余彦(いわれひこ)」=神武帝もまた即位し都と宣した聖地でもあったからである。
 
 
 「倭」を捨て新国号「日本」をつけた『日本書紀』は、天武帝の日嗣(ひつぎ)の正当化をより図るために、天武帝の出自地の系譜と伝承から造作された『古事記』をさらに発展させ、創られた史書である。
 
 
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《参照》
 
④太古の彦島では、「香」はその「ウツ(=小戸沿岸)」域の一部である。
 
 
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