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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 042 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(758) 『「橿(モチノキ)はアワギ」の発見ーイザナギハ下関市彦島海士郷町十四番地で禊いだー西井健一郎著』 2011年9月1日(木)



古田史学会報no105(2011年8月8日)へ投稿記事のひとつを紹介しょう。

 先に紹介の
『古事記正解』《魚拓》
 @Kojikiseikai(関根 聡)氏 の ツイート一覧】も“すごく”興味があるが、こちらも少々「消化不良」気味なれど“すごく”面白いぜよ。

 これだと「吉野」は葦(ヨシ)しげった野原でなく、米田良三氏の言うように、「吉・きつ(=国栖・くず)野・の」で、先住民「国栖」の住むところとなる。はて・さて?


《参照》
『日本書紀』《応神天皇巻首》日本書紀 巻第十 誉田天皇 応神天皇

《応神紀》応神天皇十九年(戊申二八八)十月戊戌朔》十九年冬十月戊戌朔。幸吉野宮。時国樔人来朝之。因以醴酒献于天皇。而歌之曰。

●伽辞能輔珥。予区周〓[土+烏]菟区利。予区周珥。伽綿蘆淤朋濔枳。宇摩羅珥。枳虚之茂知〓[土+烏]勢。磨呂俄智。

※ かしのふに よくすをつくり よくすに かめるおほみき うまらに きこしもちをせ まろがち (K039)

歌之既訖。則打口以仰咲。今国樔献土毛之日。歌訖即撃口仰咲者。蓋上古之遣則也。夫国樔者。其為人甚淳朴也。毎取山菓食。亦煮蝦蟆為上味。名曰毛濔。其土自京東南之。隔山而居于吉野河上。峰嶮谷深。道路狭〓。故雖不遠於京。本希朝来。然自此之後。屡参赴以献土毛。其土毛者栗・菌及年魚之類焉。




「橿(モチノキ)はアワギ」の発見 ーイザナギハ下関市彦島海士郷町十四番地で禊いだー 大阪市 西井健一郎氏 投稿


●一、 「橿(キョウ)」と「檍(オク)」

 神代七代の第六代神を、『古事記』は “於母陀流(おもだる)神・阿夜訶志古泥(あやかしこね)神” と書く。
 『日本書紀』
はこの二神を上品に“面足(おもだる)尊・惶根(かしこね)尊”と写し、惶根尊の亦名として、“吾屋(あや)惶根尊・忌(いむ)橿城尊・青橿城根尊・吾屋橿城尊”との四つを付記する。
 そして依拠校注本は、橿城にカシキとの訓をつける。
それは亦名の吾屋惶根尊=忌橿城尊=青橿城根尊=吾屋橿城尊、つまり、惶根=橿城根とみて、橿にカシと訓(くん)したと思われる。


 もっとも、応神紀に【吉野之白檮上、作横臼…】に続き、“歌曰、加志能布邇(かしのふに)余久須袁都久理(よくすをつくり)”とある。「白檮」は「加志」にあたる。  神武紀の白檮原(かしはら)宮を『日本書紀』は「橿原」の地と記すから、橿は「カシ」と訓むことになったかもしれない。なお、旁(つくり)の畺には「かちりかたい」の意味がある。「檮:とう」 


 惶根尊の亦名にある「橿城」が本当に「カシキ」への当て字なのか、との疑問を持つ。
 それは漢和辞典に「橿(きょう)」の意味は「モチノキ、樹皮から鳥もちをつくる」とあり、その近くに載る「檍(おく)」にも、「{意}モチノキ、同」と載るからだ。


 つまり、中国から輸入された時点の「橿(きょう)」と「檍(おく)」は同じ木種を指していた
 橿に「{国字}かし、木の名前」とあるのは『日本書紀』の用例に従ったもので、それ以前からではないだろう。
 また、檍には「{国字}かし」の意味とは載せていないから、「モチノキ」を「カシ」とは呼ばなかっただろう。


 では、原伝承が『記・紀』の種本に採録された時点での、「橿」と「檍」とをあてた木種はなんと呼ばれていたのだろう。


 その唯一の古例が、『紀』のイザナギがミソ禊ぐ地名“檍原”である。この原訓に、「檍、此れを“阿波岐”云う(第7一書)」である。
 つまり、「檍」の「モチノキ」は、当時「アワギ」と呼ばれていたのだ。
 であれば、採録時点で用いられていた「橿」も「アワギ」への当て字とも考えられる。


   更にそれならば、「橿城根」は「アワギ・ギネ」への当て字だったことになるが、橿城の「城(ぎ)」は、橿を「アワギ」と読ませるように「城」を重ねて仕向けたとも思える。


 然し、種本が「アワギネ」にあてた「橿城根」を、『日本書紀』の編者は、「訶志古泥(かしこね)」の当て字だと受け取り、間違えて編集したと推測する。


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(759) 『続1) 「橿(モチノキ)はアワギ」の発見ーイザナギは下関市彦島海士郷町十四番地で禊いだー西井健一郎著』 2011年9月1日(木)



《参照》
『日本書紀』:巻第一 神代上

 《第二段本文》次有神。泥土煮尊。〈泥土。此云于毘尼。〉・沙土煮尊。〈沙土。此云須毘尼。亦曰。泥土根尊。沙土根尊。〉次有神。大戸之道尊。〈一云、大戸之辺。〉・大苫辺尊。〈亦曰大戸摩彦尊。大戸摩姫尊。亦曰大富道尊。大富辺尊。〉次有神。面足尊。惶根尊。〈亦曰吾屋惶根尊。亦曰忌橿城尊。亦曰青橿城根尊。亦曰吾屋橿城尊。〉次有神。伊弉諾尊。伊弉冊尊。
《第二段一書第一》一書曰。此二神。青橿城根尊之子也。
《第二段一書第二》一書曰。国常立尊。生天鏡尊。天鏡尊生天万尊。天万尊生沫蕩尊。沫蕩尊生伊弉諾尊。沫蕩。此云阿和那伎。



●二、 橿城根尊は「アワギネ尊」


「橿城根」が「アワギネ」だったと考える第二の理由は、『日本書紀』の神代七代の神名群に続く一書にある。《参照:上記の第二段》


 それが、
(第1)には、【《第二段一書第一》一書曰。此二神(=伊弉諾尊・伊弉冊尊)。青橿城根尊之子也。】と、これに続く、


(第2)の、【《第二段一書第二》一書曰。国常立尊。生天鏡尊。天鏡尊生天万尊。天万尊生沫蕩尊。沫蕩尊生伊弉諾(いざなぎ)尊。沫蕩。此云阿和那伎(あわなぎ)。】とである。


 「青橿城根」とある「イザナギ」の親の名を、第2では阿和那伎と記す。同一人の名前なのだから、橿は阿和への当て字である。
 古来「アワギネ」であったものが、「イザナギ」が「ナギ称号」を用いた以後、それ以前の祖先も「ナギ称号」に付け替えられているのだ。


 なお、沫蕩に「アワナギ」との原訓があるが、「蕩」は称号「タラシ」への当て字だ。先行王の「面足尊」も「ツラのタラシ」だから。ツラは、『日本書紀』カグツチの第7一書の【「天吉葛」、此れを「阿摩能與佐點圖羅(あまのよさつら)」と云う】からみて、葛(=国栖・〔くず〕)族の意味だから、「面足」の原称は「葛のタラシ」である。


 この第2一書は宋史日本伝中の日本僧然が提出した日本国王年代紀の一部分なのだが、そちらには【初主號天御中主。次曰…。次天萬尊。次沫名杵尊。次伊弉諾尊。…】と「イザナギ」の前に「アワナギ」「アワナギネ」かが載る。ここでも「カシコネ」の名は見えないのである。


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(760) 『続2) 「橿(モチノキ)はアワギ」の発見ーイザナギは下関市彦島海士郷町十四番地で禊いだー西井健一郎著』 2011年9月2日(金)



●三、 「カシコネ神」は香の色許泥神


となると、「アワギネ」は「カシコネ」とは別人かもしれない。
 その目でみると、先刊の『古事記』は「訶志古泥(かしこね)神」を「イザナギ」の祖先に、「沫那芸(あわなぎ)神」は孫神に別置している。


 「カシコネ」を我流の漢字で書けば「香の色許泥(かのしこね)」となる。「香」つまり「カグ」の地出身の勇者、あるいは「カグ」の地を支配する勇者との称号を持つ王だった。ひょっとすると、天萬尊か、「イザナギ」に討たれた「迦具土(かぐつち)神」のことかも。
 なお、この基本地名「香」に集落名であることを示す語尾「シ(志など)」がつき、同地を「カ・シ」と呼んだ期間があり、『日本書紀』の編者が「アワギ」と混同した可能性はある。


 ついでに、「シコオ」や「シコメ」などの「シコ(色許)」称号がつく記紀への登場人物はわずかである。
 初代大国主の別称とある「葦原色許男(しこを)」(記)のほかは、孝元記の「内色許男(うつしこを)命」とその妹で皇后の「内色許売(うつしこめ)命」、同妃になる兄の娘の「伊迦賀色許売(いかがしこめ)命」ぐらいだ。この妃名は「五十(い)のカグ(香)のシコメ(姫)」であり、「カ・シコネ(惶根)」尊と同じ称号である。
 「香」域でシコメ称号が使われていたことを示す。「カシコネ」が代々継がれたから、区別のために「イ」が頭についた。


 親の「内色許男(うつしこを)命」は開化紀に「鬱色雄(うつしこを)命」とあり、注に神「饒速日(にぎはやひ)命」の五世孫とある。これは物部(もののべ)系だから「物(ブツ)」はこの「鬱(うつ)」の替え字で、物部の源は鬱部(うつべ)である。
 その「ウツ」に地名語尾「シ」がついた形が、「顕(うつし)国玉(紀・国譲り)の宇都志」であり、津がつけば「虚空津日高(うつつひこ)」だ。


 ウツは神武紀の「珍彦(うつひこ)」、孝元記の「建内宿禰(たけのうつのすくね)」の祖父で木国造の「宇豆(うづ)比古」、応神記の「宇遅能和紀郎子(うじのわきいらつこ)」の支配地だった。
 「建内宿禰(たけのうつのすくね)」と「味師内(うましのうつの)宿禰」の名から、「建(たけ)」も「味師(うまし)」も「内(うつ)」に属することがわかる。
 風土記逸文の山城国宇治茶には『「宇治若郎子」が宮を作ったので御名により宇治と号した。もとの名は「許乃国(このくに)」といった』と載る。「許の国」は「木(こ)」の国造の地で、昔は「ウツ」と呼ばれていた地域だった。



 太古の彦島では、「香」はその「ウツ(=小戸沿岸)」域の一部である。



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(761) 『続3) 「橿(モチノキ)はアワギ」の発見ーイザナギは下関市彦島海士郷町十四番地で禊いだー西井健一郎著』 2011年9月2日(金)



●四、 「イザナギ」の禊の地、「アハキ」原


 話を「アハギネ」に戻す。

 橿が檍と同地であれば、「イザナギ」が何故、檍(あわぎ)原(バルかも?:九州に多い村の意味の語尾)で禊(みそぎ)を行ったかがわかる。彼を養育した「アワギネ」ノ出自地だったからだ。
 『日本書紀』には「産む時に至り、まず淡路洲を以って胞(えな)となす。意、不快あり。故、名を淡路洲と曰う」とある。
 更に、注には、「胞はエ(兄)。第一子は産み損ないだから、アワヂ(吾恥)とつけた」とある。


 この淡路は「アハギ」からの造作であり、「アハギ」が胞衣(エナ:胎児を育てる膜と胎盤「広辞苑」)となって「イザナギ」を育てたことを伝える。
 ただ、それが不快とあるのが不可解である。誰が何を不快としたのだろう。
 『古事記』では、国生みの初子を淡路の穂の狭別嶋と記し、淡路を忌避していないのだ。
 私見では、狭別嶋はサベツ島、周防の「沙麼津(さばつ)」だ。


「イザナギ」は「アハギ」原でミソギをすることにより「アワキネ(=イザナミと同一人物)」の庇護やくびきから独立することを宣言し、イザナキ族の初代王の地位についた。
 それは男王制の始まりで、それまでの巫女王制からの脱却だったから伝承に残った。


『古事記』はこのミソギの地を 【到坐竺紫日向之橘小門阿波岐原(ちくしひゅうがのたちばなのおどあはぎはら)】と記す。

   『記紀』の種本の源は下関市の彦島伝承とするわが偏固な史観からは、 【チクシ日(ひ)の「向(むこ)」のキツの小戸(おど)のアハギバル】と解す。


 竺(ちく)はタケ(竹・建)の書き換えであり、「高天原(たかあまがはら)」や「高尾張邑(たかのおはりむら)」のタカと同じ広域地名である。
 シと日は、ともに今の○○村のような前出の地名語尾で、重複して用いられている。
 「向(むこ)」は地名、『日本書紀』ミソギ第10一書の【故還向於橘之小門、而拂濯也】【キツの小戸にある「向(むこ)」へ還(かえ)って】と読める。神功紀には「務古(むこ)水門」、継体紀に「高向(たかのむこ)」と載る。
 橘はキツ、前出の【天吉葛(あまのよさつら)】の「吉(きつ)」で「国栖(くず)族」の地を意味する。「橘小門(きつのおど)」とは、小戸つまり下関の小瀬戸の国栖族が支配していた部分を指す。


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(762) 『続4) 「橿(モチノキ)はアワギ」の発見ーイザナギは下関市彦島海士郷町十四番地で禊いだー西井健一郎著』 2011年9月4日(日)



●五、 「アワ(粟・淡・沫)」は、「大の咋」の地


 このミソギの地、「阿波岐(あはぎ)」は、『記・紀』に多出する「アワ(淡・粟)」とは別地である。

 第10一書の前出部分の直前に
【故欲濯除其穢惡、乃往見粟門及速吸名門。然此二門、潮既太急。故還向於橘之小門、…】と、橘小門とアワの瀬戸を別記するからわかる。


 後者の「速吸名門(はやのすいなのと)」は、神武紀に
【舟師東征。至速吸之門。時有一漁人、乗艇而至。天皇招之。因問曰、汝誰也。對曰、臣是國神。名曰珍彦。釣魚於曲浦。聞天神子来、…】とある。
 曲浦には「アタのウラ」との訓が依拠本にあるから(理由不明)、そこは「吾(阿)田の浦」で「小椅(おい:おばし)の君」の地。小橋は「乎波之(おばし)(+理)」で尾羽張(おはばり)神の裔(すえ)。曲がるという地形から推して、響灘側から東に入った小戸が急に北向き曲がる部分か。
 一方の「粟門(あわのと)」は景行記に
【此之御世、定田部、又定東之淡水門】とあるから、
関門海峡側の小戸東口である。


 その粟門の岸辺がアワの国、『古事記』の【粟國謂「大宣都比賣(おおげつひめ)」】の地だ。
オホゲツ比売は「大の齧(げつ:クイ)」であり、「大の咋(く)」と置換できる。咋は首長称号だから「大域のボス」、その支配地が粟國なのだ。
 「大」とは「大戸」、関門海峡の大瀬戸に面した地域名である。
 「小戸」とはこの「大戸」に対する比喩地名。
 地名の語頭に「大」のつく地名は彦島側には残っていないが、門司側には「大里」が頭につく町名群が存する。


 この大域の歴代のボスが、大戸日別神や大年神(大戸主の訛)である。スサノヲ神譜(記)に「刺国大(さしくにおお)」の神名がみえる。
 国は地区名で、大国主は代々の「大域の国地区のボス」称号だ。
 鼻口などから食物を呈してスサノヲに殺される「大気津(おおげつ:オホゲツ)比売」(記)の説話をみると、粟國は物生りが豊かのようだから小戸東側の平地部、現在の「彦島本村町(ほんむらまち)」とみる。この本村町は「誉田(ホム・タ。タも地名語尾)の名残だ。


 粟國(本村町)の東前面が「淡海(あわのうみ)」、現在の下関漁港。その東対岸の大和町は埋立て前は砂州と岩礁が並び、関門海峡から岩列を越して入る潮で泡立つ入り海だった。



●六、 「海士郷町」と、賊の「麻剥ぎ」


 一方のアワギ原は檍原、そこは橿原。

 その位置を神武紀は
【觀夫畝傍山東南橿原地者、蓋國之墺区乎。可治之】と記す。
 注目は「墺(おう)」とは、(漢字源)には、「①山の麓に入り込んで住むのに適した所。②入江の奥にある岸」とある。
 イザナギは小戸の両口の潮が速く禊(みそぎ)できずに向うへ戻ったのだから、向の檍原=橿原は墺の地、つまり、入江の奥にある岸辺の地でぴったり。
 「墺(おう)」が種本のままとすると、地形を正確に伝えている。そこは小戸沿岸でキツの二丘陵間の狭間(はざま)、海士郷町の十四番地あたり、と我が史観からは比定できる。


 ついでに、畝傍山は「ウムビ」の山への当て字、神武記の吉野行きに載る「井氷鹿(いひか)」や「石押分(いのおしわけ)」など【「生尾(うむび)」の人】の地、そこも「吉(きつ=国栖)野」地域。小戸の「橘(きつ)」の檍原とは同域だ。


 面白いことに「アワギ」は小戸沿岸族(国栖族)にとっては聖地だが、それに対抗する本村町の平地族にとっては蛮徒の地にすぎない。
 それが証しに、「アワギ」のボスとみる「麻剥(あさはぎ)」という賊が景行紀に載る。帝の将を出迎えた神夏磯媛が、賊だと訴える中の一人が【三曰麻剥。潜聚徒黨居於高羽川上】なのだ。「アサハギ」と訓ませる「アハギ」への当て字である。


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(763) 『続5) 「橿(モチノキ)はアワギ」の発見ーイザナギは下関市彦島海士郷町十四番地で禊いだー西井健一郎著』 2011年9月5日(月)



●七、 檍は奥、そして澚


 一方、「アワギ」の檍を「オク」と呼び替えて、「奥」と置き換えた形跡がある。


 神武紀が橿原を墺区としたのも、同地が「オク」とも呼ばれていたからではないか。
 古くは「奥山津見」の名にも見える。であれば、そこは「大年神(おおとしかみ)」と「香用(かよ)比売」との子の「奥津(おくつ)日子神」と「奥津日売神」、亦名「大戸比売」で竈(かまど)の神(記・大年神譜)の地である。
 母の「香用比売」の用は「モチ(いる)」への当て字で「香の母遅(もち)」の姫だ。「カのシコネ」とは祖裔の関係がありそう。
 その子に擬す「奥津日子神」達はその支配域にある。奥津は大戸に近い。であれば、竈(カマド)は「香の窓」であり、「大山津見」と「野椎(のづち:ヤのツチ)神」が産む「大戸惑子(おおとまどひこ)」・「大戸惑女神(記・神生み)」の「オオトのマド」と同地かだろう。


 ところで、『日本書紀』に「奥津」はない。『古事記』は孝昭帝の后の「余曾多本毘売(よそたほひめ)」の兄を尾張連祖・「奥津余曾(おくつよそ)」と記すが、『日本書紀』は「澚津世襲(おきつよそ)」とあてる。
 前述したが「余曾(よそ)・世襲(よそ)」ともに【「阿摩能與佐圖羅(あまのよさつら)」、一云「與曾豆羅(よそつら)」】のヨソ、つまり「吉(きつ)」であり、葛族の意味だから、奥津の国栖族のボスである。なお、「多本(たほ)毘売」は澚津の姫の姫だから、「多木(たき)毘売」の誤記だろう。


 ここでは「奥津余曾」=「澚津世襲」で、つまり、「奥」は「澚」に置換されている、とわかる。
 であれば、何故天武帝が「澚真人(おきのまひと)」との称号を名乗ったのかがわかる。

【「澚」は「奥(おく)=「檍(おく)」であり、「橿」なのだ。】

 そこが、彼の出自地の祖神「イザナギ」が王として独立を宣言した聖地だったからであり、後には「大域」と「アマ域」を出自とする「大海人(おおあまの)皇子」こと天武帝の氏族の開祖で初代王の「磐余彦(いわれひこ)」=神武帝もまた即位し都と宣した聖地でもあったからである。
 その地名を多種の用字で書き分けたのは、実際の出自地(片田舎すぎた小戸)や神武東遷の虚構を韜晦(とうかい:①自分の本心・地位・才能などをかくすこと。②姿おくらますこと。)するためだ。


 「倭」を捨て新国号「日本」をつけた『日本書紀』は、天武帝の日嗣(ひつぎ)の正当化をより図るために、天武帝の出自地の系譜と伝承から造作された『古事記』をさらに発展させ、創られた史書である。
 天武紀の初頭にある【壮雄拔神武(壮雄、神武を抜く)】を説明するために、『日本書紀』が書かれたと云っても過言ではない。
 その「神武」と「天武」をつなぐ一環が【橿=檍=澚】なのだ。




《参照》

①私考・彦島物語 I 筑紫日向の探索:西井健一郎著

②私考・彦島物語 II 國譲り(前編):西井健一郎著

③私考・彦島物語II 國譲り(後編):西井健一郎著

④太古の彦島では、「香」はその「ウツ(=小戸沿岸)」域の一部である。


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