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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 043 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(764) 『大海人皇子、天武天皇、物部氏、石上麻呂、『古事記』『日本書紀』『先代旧事本紀』が大和朝廷開闢を解説か』 2011年9月6日(火)




西井健一郎氏は、

【続2) 「橿(モチノキ)はアワギ」の発見
ーイザナギは下関市彦島海士郷町十四番地で禊いだー西井健一郎著】

の中で、

 『親の「内色許男(うつしこを)命」は開化紀に「鬱色雄(うつしこを)命」とあり、注に神「饒速日(にぎはやひ)命」の五世孫とある。これは物部(もののべ)系だから「物(ブツ)」はこの「鬱(うつ)」の替え字で、物部の源は鬱部(うつべ)である。
 その「ウツ」に地名語尾「シ」がついた形が、「顕(うつし)国玉(紀・国譲り)の宇都志」であり、津がつけば「虚空津日高(うつつひこ)」だ。』

と書かれている。




また、その最終章には、

『「倭」を捨て新国号「日本」をつけた『日本書紀』は、天武帝の日嗣(ひつぎ)の正当化をより図るために、天武帝の出自地の系譜と伝承から造作された『古事記』をさらに発展させ、創られた史書である。
 天武紀の初頭にある【壮雄拔神武(壮雄、神武を抜く)】を説明するために、『日本書紀』が書かれたと云っても過言ではない。
 その「神武」と「天武」をつなぐ一環が【橿=檍=澚】なのだ。』

とまで、書かれている。




 若しこれが「史実」ならば、のちの大内氏が下関・上関の通行規制する以前に大海人皇子が関門海峡・瀬戸内海の航行・制海権を握り、唐の占領軍をブロックしていたとも考えられ得るのだ。(そういう意味で、西井健一郎氏には、ぜひ、史実であるなんらかの物証を提示して欲しいものだ。)


 当然、白村江敗戦後の天智近江朝の長門以東「日本国」独立。倭国再統合戦「壬申乱」での、倭王・薩夜麻との交渉にも、大海人皇子の実権が大きく奇与しただろう。

 私がブログ〔倭国の遺跡スポットを訪ねてみよう〕で書いてきた事と、謀らずも附合していないだろうか…、はて・さて?


① 2010年7月18日(日)
【継体紀の「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。」とは】


② 2010年8月23日(月)
【そして改めて、「倭国は、更えて日本と号す。」について】


③ 2010年10月10日(日)
【朕が天智で物部麁鹿火大連が大海人皇子の天武天皇だとしたらどうだろう】


④ 2010年10月31日(日)
【長門以東は朕がとろう。筑紫以西は汝がとれ。】


⑤ 2010年12月12日(日)
【淑人(よきひと)の よしとよく見て 好(よ)し言ひし 芳野吉(よ)く見よ 多良人(たらひと)よく見】




ところで、
【『古賀達也の洛中洛外日記』
第275話 2010/08/08『先代旧事本紀』の謎】

で古賀達也氏が取上げられた『先代旧事本紀』であるが…、




【『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』とは?】
の主唱者はその中で、

『しかし、『先代旧事本紀』が作成された時代には、こういった役割を物部氏は終えており、また石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)の亡き後、中央政界の表舞台にも物部氏の人物が登場することは無くなっていきました。
「天孫本紀」の物部氏系譜は、十七世孫に物部麻呂(もののべのまろ)(元明朝の左大臣・石上麻呂。宅嗣の祖父)のみを記します。そして、物部守屋すら麻呂の曽祖父である物部大市御狩(もののべのおおいちのみかり)の弟という傍流に位置づけ、また石上神宮が蘇我氏支配下にあった時期も、物部鎌姫大刀自(かまひめおおとじ)らの手によって、連綿と物部氏による祭祀が続けられたとしています。』

と書かれています。




あれっ! ここでも、関根聡氏の下記ツイート同様に「左大臣・石上麻呂」が出てくる…

【『古事記正解』関根聡氏ツイート一覧】




という事は、結論はともかくも、大海人皇子、天武天皇、物部氏、石上麻呂、『古事記』、『日本書紀』、『先代旧事本紀』が、大和朝廷の開闢(かいびゃく)に関与している事は確かなようだ。


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(765) 『今将に秋! 「ぶどう狩り・りんご狩り」と合わせ、はるか「八ヶ岳山麓縄文遺跡」を訪ねて見てはいかが?』 2011年9月8日(木)


 今年は例年より秋の訪れが早いように思えます。今将に、「天高く、馬肥ゆる秋」ですね。

 「ぶどう狩り・りんご狩り」と合わせて、「八ヶ岳山麓」に「縄文遺跡」を訪ねて見ては如何でしょう。




   先に
『「九州王朝新発見の現在」阿蘇山問題・隋書俀國伝
◎【有阿蘇山“其石無故火起”接天】の新解釈』 2011年8月21日(日)

で触れましたが、八ヶ岳山麓には、縄文中期の遺跡群の、「尖石遺跡」、「井戸尻」、「曽利」、「藤内」、「九兵衛尾根」などの遺跡が密集して広がっているのをご存知でしょうか?

 米田良三氏がその著『列島合体から倭国を論ず』の暘谷論で語るように、『暘谷海に面した平野にあった一万年前起源の縄文遺跡が四〇〇〇年前に、「八ヶ岳の山腹・山麓」に隆起した』とも考えれます。




  【列島合体から倭国を論ず 第2章:暘谷論 4:列島合体】


『列島合体から倭国を論ず:米田良三著』第2章 暘谷論 4 列島合体 p81には、次のようにある。

①、「縄文海進」…縄文時代の一時期気温が上昇して海水面が上がったと言う説。
が、事実は関東平野に見るように大地が隆起しただけである。海のなかの根(ね)が隆起し大地となり、そこに暘谷から逃れてきた人々を中心に生活の場が作られ、貝塚が築かれたのだ。現在に心配されるような、温暖化現象による水位の上昇はなかったと考えられる。

と書かれている。

更に、p59に『そして四〇〇〇年前に東日本と西日本が合体する。(暘谷海の)海流はせき止められ、さらに火山活動が活発になる。二〇〇〇年に近い火山活動の結果、主なものを挙げても北から、妙高、黒姫、蓼科、八ヶ岳、富士山、箱根の火山ができたのである。』とあり、そんなに最近富士山ができたのかって、いぶかる方も居られるかと思いますが…、最近、「東日本大地震」を直接経験すると、「ひょっとすると、ひょっとするかも知れない」と思う次第です。

 期せずして、古田武彦氏も同じようなことを、おっしゃってると思い、敢えて『列島合体から倭国を論ず:米田良三著』を紹介します。


 確かに、関東では、浅間(あさま・せんげん)神社が多く祀られていて、ここ横浜でも横浜駅と三ツ沢グランドの間の浅間交差点の近くには浅間(せんげん)神社があり、その上の尾根には前方後円墳があったとされています。富士宮神社は源頼朝が伊豆で挙兵して祀ったのが始めでつい最近のことのようです。古くは浅間神社のようです。




【(東アジアの)『古代文化』1978春号 縄文の「井戸尻連合体王国」】


 あとひとつ、八ヶ岳の山麓には「縄文遺跡」があると聞いている。
縄文文化は一万年前起源だと聞くので、暘谷海に面した平野にあった縄文遺跡が四〇〇〇年前に、八ヶ岳の山麓に隆起したと考えれば、充分納得可能でもある。


『八ヶ岳山麓の縄文遺跡群』


『「尖石遺跡」---八ヶ岳山麓の縄文遺跡の発掘にかけた宮坂英弌氏の情熱』《魚拓》


『八ヶ岳山麓に栄えた縄文王国「井戸尻遺跡」群の華麗な文化』《魚拓》


『甲斐・信州国境地帯 八ヶ岳山麓に縄文遺跡を訪ねて』《魚拓》


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(766) 『九州王朝に任命された官職「朝臣」の任命。「真人」に任命された天武』 2011年9月9日(金)


 ここに1冊の本がある、
『古代史をゆるがす(真実への7つの鍵):古田武彦著』 である。


その中の以下を、そっくり取上げよう。


◆第6の鍵◆「十七条の憲法」を作ったのはだれか

2 九州王朝に任命された官職


「朝臣」の任命

 これと同じような問題がほかにもあります。
 万葉集に「柿本朝臣人麿」とありますが、「朝臣」とは朝廷の臣下という意味です。「朝臣」を任命するのは朝廷です。人麿はどこの朝廷から「朝臣」に任命されたのでしょうか。
 少し古代史にくわしい方なら、(注:①) 日本書紀の天武十三年の項に八色の姓(やくさのかばね)というのがあるので、その二番目が朝臣である と思われるでしょう。人麿に関していえばそれでよさそうにみえるのですが、よくないことがあります。
 万葉集のなかで最初に出てくる「朝臣は」藤原朝臣鎌足のことです。鎌足は天智八年に死んでいます。八色の姓がでる十五年前なのに、どうして「朝臣」に任命されるのでしょう。これには致命的な無理があります。


二番目「朝臣」として出てくるのが人麿です。人麿「朝臣」問題は、人麿だけを抜き出して議論できる問題ではありません。万葉集のなかに出てくる「朝臣」のひとつとして考えなければなりません。
 すでに述べたように、人麿「朝臣」の直前に出てくる「朝臣」は鎌足です。史料性格上、その一連の「朝臣」として理解せざるをえません。
 そうすると「天武十三年」の「八色の姓」とは結びつくことはありえないのです。(注:②) 大和朝廷一元主義の場合は、そこから発展がありません。 それだから従来の万葉学者は真剣に問題にしょうとしないのです。「みんなで逃げれば、こわくない」といった感じですね。


「真人」に任命された天武

 けれども私の立場はそうではありません。それは九州王朝の任命した「朝臣」であると思います。「朝臣」だけ任命したということはないでしょう。


 これは、結局、「八色の姓」というような制度は大王家が発布するものか、それとも天子が発布するものか、という問題になってきます。
 しかも第一位が「真人」です。なぜ鎌足が「真人」といわれないのでしょうか、それより何より、肝心な天武天皇の名が「真人」(注:『日本書紀』天武紀で、天淳中原澚真人=天武天皇)なのです。
 「真人」が「真人」を任命するとはちょっと喜劇ではないでしょうか。では、どうか。答えは一つ。(注:③) 天武自身が「真人」に任命された のです。


 七世紀後半に評制、評督が全国にあって、都督府が筑紫なのですから、そのような「評」制下において、官職名だけが大和側に「八色の姓」を発布するというのは、はっきりいっておかしいのではないでしょうか。


 ひるがえって「八色の姓」も、原点を筑紫と考えるほうが話はよくわかります。
そしてそのときの天武は「真人」に任命されたということになります。
こう考えると話はとてもすっきりしてくるのです。

<以下略>




『古代史をゆるがす(真実への7つの鍵):古田武彦著』
の記事中に、私が意図的に下記(注)を付していますが、

(注:①) 日本書紀の天武十三年の項に八色の姓(やくさのかばね)というのがあるので、その二番目が朝臣である。

(注:②) 大和朝廷一元主義の場合は、そこから発展がありません。

(注:③) 天武自身が「真人」に任命された。

の①②③について、若干の私見を述べさせれください。




(注:①) 日本書紀の天武十三年の項に八色の姓(やくさのかばね)というのがあるので、その二番目が朝臣である。

 この本の第1刷が、1993年11月30日とあるので、発行後18年を経過したことになる。

 その間の大きな成果といえば、なんと言っても『日本書紀』の天武紀・持統紀には、意図的に「34年遡上」記事が紛れ込こまされていることの発見であろう。


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(767) 『続・1) 九州王朝に任命された官職「朝臣」の任命。「真人」に任命された天武』 2011年9月9日(金)


この「34年遡上」説、及び、その応用例「白鳳○○年⇒天武○○年」を、
『日本書紀』(国史大系版)
に当て嵌めてみよう。




◎ 【 684 天武13 朱雀 1 】《⇒自然現象に付き》
《天武天皇十三年(六八四)七月壬申【二十三】》◆壬申。彗星出于西北。長丈余。

▲ 【 673年(天武2年:白鳳13年)】《⇒「八色の姓」制定記事》
《天武天皇十三年(六八四)十月己卯朔》◆冬十月己卯朔。詔曰。更改諸氏之族姓。作八色之姓。以混天下万姓。一曰、真人。二曰、朝臣。三曰、宿禰。四曰、忌寸。五曰、道師。六曰、臣。七曰、連。八曰、稲置。是日。守山公。路公。高橋公。三国公。当麻公。茨城公。丹比公。猪名公。坂田公。羽田公。息長公。酒人公。山道公十三氏、賜姓曰真人。

● 【 650 白雉 1 常色 4 】《⇒常色の改革の一環に付き》
《天武天皇十三年(六八四)十月辛巳【三】》◆辛巳。遣伊勢王等、定諸国堺。是日、県犬養連手繦為大使。川原連加尼為小使。遣耽羅。

◎ 【 684 天武13 朱雀 1 】《⇒自然現象(=白鳳大地震)に付き》
《天武天皇十三年(六八四)十月壬辰【十四】》◆壬辰。逮于人定、大地震。挙国男女叺唱、不知東西。則山崩河涌。諸国郡官舍及百姓倉屋。寺塔。神社。破壌之類、不可勝数。由是人民及六畜多死傷之。時伊予湯泉没而不出。土左国田苑五十余万頃。没為海。古老曰。若是地動未曾有也。是夕。有鳴声。如鼓聞于東方。有人曰。伊豆嶋西北二面。自然増益三百余丈。更為一嶋。則如鼓音者。神造是嶋響也。

▲ 【 673年(天武2年:白鳳13年)】《⇒「壬申の乱」功績顕彰記事》
《天武天皇十三年(六八四)十月甲午【十六】》◆甲午。諸王卿等賜禄。

▲ 【 673年(天武2年:白鳳13年)】《⇒「壬申の乱」功績顕彰記事》
《天武天皇十三年(六八四)十一月戊申朔》◆十一月戊申朔。大三輪君。大春日臣。阿倍臣。巨勢臣。膳臣。紀臣。波多臣。物部連。平群臣。雀部臣。中臣連。大宅臣。栗田臣。石川臣。桜井臣。采女臣。田中臣。小墾田臣。穂積臣。山背臣。鴨君。小野臣。川辺臣。櫟井臣。柿本臣。軽部臣。若桜部臣。岸田臣。高向臣。完人臣。来目臣。犬上君。上毛野君。角臣。星川臣。多臣。胸方君。車持君。綾君。下道臣。伊賀臣。阿閉臣。林臣。波弥臣。下毛野君。佐味君。道守臣。大野君。坂本臣。池田君。玉手臣。笠臣。凡五十二氏、賜姓曰朝臣。

◎ 【 684 天武13 朱雀 1 】《⇒自然現象に付き》
《天武天皇十三年(六八四)十一月庚戌【三】》◆庚戌。土左国司言。大潮高騰。海水飄蕩。由是運調船多放失焉。

◎ 【 684 天武13 朱雀 1 】《⇒自然現象に付き》
《天武天皇十三年(六八四)十一月戊辰【二十一】》◆戊辰。昏時。七星倶流東北則隕之。

◎ 【 684 天武13 朱雀 1 】《⇒自然現象に付き》
《天武天皇十三年(六八四)十一月庚午【二十三】》◆庚午。日没時。星隕東方。大如瓮。逮于戌。天文悉乱。以星隕如雨。

◎ 【 684 天武13 朱雀 1 】《⇒自然現象に付き》
《天武天皇十三年(六八四)十一月是月》◆是月。有星、孛于中央。与昴星双而行之。及月尽失焉。

▲ 【 673年(天武2年:白鳳13年)】《⇒「壬申の乱」功績顕彰記事》
《天武天皇十三年(六八四)是年》◆是年。詔伊賀。伊勢。美濃。尾張四国。自今以後。調年免役。々年免調。』倭葛城下郡言。有四足鶏。亦丹波国氷上郡言。有十二角犢。

▲ 【 673年(天武2年:白鳳13年)】《⇒「壬申の乱」功績顕彰記事》
《天武天皇十三年(六八四)十二月己卯【二】》◆十二月戊寅朔己卯。大判連。佐伯連。阿曇連。忌部連。尾張連。倉連。中臣酒人連。土師連。掃部連。境部連。桜井田部連。伊福部連。巫部連。忍壁連。草壁連。三宅連。児部連。手繦連丹比連。靭丹比連。漆部連。大湯人連。若湯人連。弓削連。神服部連。額田部連。津守連。県犬養連。稚犬養連。玉祖連。新田部連。倭文連。〈倭文。此云之頭於利。〉氷連。凡海連。山部連。矢集連。狭井連。爪工連。阿刀連。茨田連。田目連。小子部連。菟道連。小治田連。猪使連。海犬養連。間人連。舂米連。美濃矢集連。諸会臣。布留連。五十氏、賜姓曰宿禰。

◎ 【 684 天武13 朱雀 1 】《⇒百済役時(=白村江)に付き》
《天武天皇十三年(六八四)十二月癸未【六】》◆癸未。大唐学生土師宿禰甥。白猪史宝然。及百済役時没大唐者猪使連子首。筑紫三宅連得許。伝新羅至。則新羅遣大奈末金物儒。送甥等於筑紫。

◎ 【 684 天武13 朱雀 1 】《⇒白鳳王・薩夜麻の崩御?に付き》
《天武天皇十三年(六八四)十二月庚寅【十三】》◆庚寅。除死刑以下罪人、皆咸赦焉。




以上、私の感覚で『書紀』を見直してみました。


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(768) 『続・2) 九州王朝に任命された官職「朝臣」の任命。「真人」に任命された天武』 2011年9月9日(金)


(Ⅰ) 【 673年(天武2年:白鳳13年)】《⇒「八色の姓」制定記事》
    【 650 白雉 1 常色 4 】《⇒「八色の姓」制定記事》
《天武天皇十三年(六八四)十月己卯朔》◆冬十月己卯朔。詔曰。更改諸氏之族姓。作八色之姓。以混天下万姓。一曰、真人。二曰、朝臣。三曰、宿禰。四曰、忌寸。五曰、道師。六曰、臣。七曰、連。八曰、稲置。是日。守山公。路公。高橋公。三国公。当麻公。茨城公。丹比公。猪名公。坂田公。羽田公。息長公。酒人公。山道公十三氏、賜姓曰真人。

(Ⅱ) 【 650 白雉 1 常色 4 】《⇒「遣伊勢王等、定諸国堺」記事》
《天武天皇十三年(六八四)十月辛巳【三】》◆辛巳。遣伊勢王等、定諸国堺。是日、県犬養連手繦為大使。川原連加尼為小使。遣耽羅。

(Ⅲ) 【 684 天武13 朱雀 1 】《⇒白鳳大地震記事》
《天武天皇十三年(六八四)十月壬辰【十四】》◆壬辰。逮于人定、大地震。挙国男女叺唱、不知東西。則山崩河涌。諸国郡官舍及百姓倉屋。寺塔。神社。破壌之類、不可勝数。由是人民及六畜多死傷之。時伊予湯泉没而不出。土左国田苑五十余万頃。没為海。古老曰。若是地動未曾有也。是夕。有鳴声。如鼓聞于東方。有人曰。伊豆嶋西北二面。自然増益三百余丈。更為一嶋。則如鼓音者。神造是嶋響也。




この上記『日本書紀』天武紀十三年の連続する記事の内で、

(Ⅱ)の「遣伊勢王等、定諸国堺」記事については、
「34年遡上」説の正木裕氏は、
『白雉年間の難波副都建設と評制の創設について』
で、「34年遡上」の妥当性について言及されている。




また、

(Ⅲ)「白鳳大地震」記事については、
このブログ
【2011年3月13日(日)歴史は教える、九州王朝「倭国」の滅亡の直接の引き金が『筑紫大地震(678年)推定震度「7.1以上」』である】
で触れた通りである。

 ただ、ここで不審なのは「白鳳大地震」の名称の由来が分らない。
というのは、地震の発生が《天武天皇十三年(六八四)十月壬辰【十四】》で年末の10月14日であり、
「白鳳大地震」ではなくて何故「朱雀大地震」と呼ばれなかったのかといった疑問です。

 ここで若し、この「白鳳大地震」名付け者が当時の被災者自身であるとすればですが…、何が分るかでしょう。


1)、地震発生当日の10月14日現在の被災者が、倭国の年号「白鳳」を使用していた。
          ⇒という事は、白鳳倭王・薩夜麻が存命だった。

2)、その後の年末までに、白鳳倭王・薩夜麻が崩御したので、「白鳳」から「朱雀」へ改元されたのだろう。
 一方、この時の『日本書紀』の天武紀は、十三年(六八四)であり、十五年(六八六)崩御まで続いている。
倭灘波副都弟王家の大海人皇子・天武天皇の崩御と同時に、倭国年号が「朱雀」から「朱鳥」へ改元されている。
 白鳳倭王・薩夜麻と、天武天皇の崩御年のこの2年ずれは何を意味しているのだろうか。


 私が思うに、「白鳳倭王・薩夜麻が崩御する以前に、壬申の乱の功により、倭灘波副都弟王家の大海人皇子・天武天皇へ、倭王帝位を禅譲する約束がなされていた」のではないかという事です。
大海人皇子の倭王帝位在位期間が、即ち、倭国年号「朱雀」であろう。

3)、倭国年号「朱鳥」・「大化」時の帝位は、白鳳倭王・薩夜麻の息子の高市皇子の在位であろう。

 ○倭王帝位を禅譲の約束が、倭灘波副都弟王家の大海人皇子・天武天皇の「一代限りだ」とする高市皇子側と、

 ○「次代も継続する」とした倭灘波副都弟王家の大海人皇子側が相互に主張した混乱が大津皇子謀反であり、皇太子草壁皇子尊の薨去であろうか。

 以前に見てのとおり、持統天皇とは架空の天皇であり、持統即位元年(690年)とは、白鳳倭王・薩夜麻の息子の高市皇子の天皇即位であり、翌年の大嘗祭である。
 なお、この時の皇太子には倭灘波副都弟王家の大海人皇子の息子の軽皇太子(=のちの文武天皇)が就いていたと考えられる。
 大宰府と灘波副都の兄弟王家が交互に天皇・皇太子を繰り返すといった約束だったのではないだろうか。


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(769) 『続・3) 九州王朝に任命された官職「朝臣」の任命。「真人」に任命された天武』 2011年9月9日(金)


この『日本書紀』天武紀十三年の記事の内で、

(Ⅰ) 【 673年(天武2年:白鳳13年)】《⇒「八色の姓」制定記事》
    【 650 白雉 1 常色 4 】《⇒「八色の姓」制定記事》

《天武天皇十三年(六八四)十月己卯朔》◆冬十月己卯朔。詔曰。更改諸氏之族姓。作八色之姓。以混天下万姓。一曰、真人。二曰、朝臣。三曰、宿禰。四曰、忌寸。五曰、道師。六曰、臣。七曰、連。八曰、稲置。是日。守山公。路公。高橋公。三国公。当麻公。茨城公。丹比公。猪名公。坂田公。羽田公。息長公。酒人公。山道公十三氏、賜姓曰真人。




が、然し、

(Ⅰ)「八色の姓」制定記事については、
正木裕氏は、「34年遡上」可否の妥当性について、何故か(私の調べた限りだが…、)言及されていない。

何故なのだろうか、はて・さて?


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 当初、私としては、(Ⅰ)「八色の姓」制定記事は、【 650年 白雉元年 常色 4年 】のことだとしました。

その理由は、
1)、単に、正木裕氏の「34年遡上」を適用したんですね、「八色の姓」制定記事が、650年の事だとすれば、甘木王が、「天下立評」・「造複都難波京」詔を宣す等、この頃「常色の大改革」を次々断行している最中であり、この(Ⅰ)「八色の姓」制定記事もその一環だと考えられる。

2)、「八色の姓」制定記事が、684年の事だとすれば、上で見たように、白鳳倭王・薩夜麻の崩御直前である、一方の大海人皇子の天武天皇としても、それが禅譲であったとしても、そんな余裕は無かったと思われる。

としましたが、何か「ちぐはぐ」なんですよね。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


そこで、「八色の姓」でネットを検索したところ、


【天武天皇の年齢研究『八色の姓(やくさのかばね)』】《魚拓》

で、「おやっと思う」年表に気付きました。そっくり、11年ずれてるんですね。


『まことに、細々と指示しています。
しかし、その後の結果を公表しますが、その順は気になるところです。


●天武12年(683年:白鳳23年) 9月23日、そして、連姓(むらじ)38氏を皮切りに、
●天武12年(683年:白鳳23年)10月 5日、には14氏にも連姓を賜る。

●天武13年(684年:朱雀元年)10月 1日、姓の順をこの時点で発表する。同時に、真人姓を13氏に賜る。   
●天武13年(684年:朱雀元年)11月 1日、朝臣姓を52氏に賜る
●天武13年(684年:朱雀元年)12月 2日、宿禰姓を50氏に賜る。

●天武14年(685年:朱雀2年) 1月21日、官位を改正する。
●天武14年(685年:朱雀2年) 6月20日、忌寸姓を11氏に賜ります。

<途中略>

 普通、真人とは天皇家の末裔とされる家系のものと規定されています。しかし、この13氏を調べると、決して天皇家の家系に連なるとは言えそうもないものが多いことがわかるのです。
 むしろ、彼らは「壬申年之功」のもの達そのものなのです。例えば、その中で、天武天皇の生前に亡くなったものが3氏ありますが、「壬申年之功」として感情的ともいえる弔いの言葉で讃えられているのです。
 さらに、他の公達も同様であったことがわかります。特に壬申の乱で功績のあったものに、天皇家の末裔として天武天皇自ら八色の姓の最高位である真人姓を与えてしまうのです。』

と、「壬申年之功」が強調されています。


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一方、『日本書紀』天武紀元年(672年:白鳳12年)の「壬申の乱」では、

● 天武紀元年(672年:白鳳12年)7月26日、将軍らは、不破の宮に向かい、大友皇子の首を屯営の前に献じた。
● 天武紀元年(672年:白鳳12年)8月27日、あれこれの勲功ある者に恩勅して、〔天下に〕顕に褒賞した。

<途中略>

● 天武紀元年(672年:白鳳12年)9月15日、嶋の宮から岡本の宮に移った。

とあります。


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もうお分かりでしょう。『日本書紀』天武元年(672年:白鳳12年)の「壬申の乱」の上記記事、

● 天武元年(672年:白鳳12年)9月15日、嶋の宮から岡本の宮に移った。

―記事に、上記ネットの【天武天皇の年齢研究】さんの記事が連続していると分ります。―

● 天武12年(683年)⇒白鳳12年(672年) 9月23日、そして、連姓(むらじ)38氏を皮切りに、
● 天武12年(683年)⇒白鳳12年(672年)10月 5日、には14氏にも連姓を賜る。

 ざっと見て、身分に関する記事は実際より、最近の11年後にされているのです。

 では何故、11年後にされたかですが、
思うに、倭王・薩夜麻の事績を大海人皇子の事績に見せかけるためだったと考えます。


 たぶんですが、●天武13年(684年:白鳳24年⇒朱雀元年)の記事は、本来の史実は、天武2年(673年:白鳳13年)のことなのでしょう。




 ※ その方法を、正木裕氏流に説明すれば、

《 白鳳13年 》【天武2年(673年:白鳳13年)】 ⇒ 《 天武13年 》【天武13年(684年:白鳳24年=朱雀元年)】

 に置換えた事になります。

 (注釈:こういう方法の 《 九州年号「白鳳」から、天皇紀「天武」へ 》 は珍しいですよね!)


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(770) 『続・4) 九州王朝に任命された官職「朝臣」の任命。「真人」に任命された天武』 2011年9月11日(日)




『日本書紀』天武紀十三年の記事の内で「八色の姓(やくさのかばね)」の制定は、
【天武13年(684年:白鳳24年⇒朱雀元年)】のことではなく、
【天武2年(673年:白鳳13年)】のことである。




(Ⅰ) 【 673年(天武2年:白鳳13年)】《⇒「八色の姓」制定記事》
    【 650 白雉 1 常色 4 】《⇒「八色の姓」制定記事》

《天武天皇十三年(六八四)十月己卯朔》◆冬十月己卯朔。詔曰。更改諸氏之族姓。作八色之姓。以混天下万姓。一曰、真人。二曰、朝臣。三曰、宿禰。四曰、忌寸。五曰、道師。六曰、臣。七曰、連。八曰、稲置。是日。守山公。路公。高橋公。三国公。当麻公。茨城公。丹比公。猪名公。坂田公。羽田公。息長公。酒人公。山道公十三氏、賜姓曰真人。




《ご注意》私の記事は、
『天武天皇が、倭王白鳳王「薩夜麻」と、大海人皇子「天淳中原澚真人天皇(あまのぬなかはらまひと)」の二人一役である』のご理解が前提ですので悪しからず。
〔参照:天武天皇は二人いた(日出島哲雄著)〕




 そこで、「八色の姓」でネットを検索したところ、

【天武天皇の年齢研究『八色の姓(やくさのかばね)』】《魚拓》


で、「おやっと思う」年表に気付きました。 そっくり、11年ずれてるんですね。

これって、いわゆる「壬申の乱」の“論功行賞”って奴でしょう。やっぱり、11年ずれていますよね。

忘れないうちに、すぐ、くれって、俺だったら要求します・はい^^




《これが「11年のずれ」を気付かせた年表です》

●天武12年(683年:白鳳23年) 9月23日、そして、連姓(むらじ)38氏を皮切りに、
●天武12年(683年:白鳳23年)10月 5日、には14氏にも連姓を賜る。

●天武13年(684年:朱雀元年)10月 1日、姓の順をこの時点で発表する。同時に、真人姓を13氏に賜る。   
●天武13年(684年:朱雀元年)11月 1日、朝臣姓を52氏に賜る
●天武13年(684年:朱雀元年)12月 2日、宿禰姓を50氏に賜る。

●天武14年(685年:朱雀2年) 1月21日、官位を改正する。
●天武14年(685年:朱雀2年) 6月20日、忌寸姓を11氏に賜ります。


《このほど良くまとめられた「年表」を発見しなかったら、「11年のずれ」に気付かなかっただろう。だから、ページ主に、おおきに!って感謝申し上げます。》




 これまでをふりかえって、ざっと見て、身分に関する記事は実際より、最近の11年後に遡上されているのです。
 何故、11年後に遡上されたかですが、思うに、倭王・薩夜麻の事績を大海人皇子の事績に見せかけるためだったと考えます。


 たぶんですが、
●天武13年(684年:白鳳24年⇒朱雀元年)の記事は、本来の史実は、
●天武2年(673年:白鳳13年)のことなのでしょう。



 その方法を、正木裕氏流に説明すれば、
白鳳13年【天武2年(673年:白鳳13年)】⇒天武13年【天武13年(684年:白鳳24年⇒朱雀元年)】に置換えた事になります。


 要するに、「八色の姓」制度は 【 673年(天武2年:白鳳13年)】10月1日、九州王朝「倭国」の白鳳王・薩夜麻が、唐より解放、帰国后に、倭国再統合・倭王復位戦の「壬申の乱」に戦勝後、彼の臣下の功績を顕彰して詔、制定したものである。


 この「八色の姓」制度の制定に伴い、九州王朝「倭国」の白鳳王・薩夜麻が、倭灘波副都弟王家の大海人皇子・天武天皇の「壬申の乱」での功績を顕彰して、大海人皇子を「真人」に任命したのである。


 これが、天武天皇の和風諡号「天淳中原澚真人天皇(あまのぬなかはらまひと)」である。

 たぶんに、白鳳王・薩夜麻にとって、大海人皇子・天武天皇の「壬申の乱」での功績は甚大で、それでも飽き足らず、長門以東の天智近江朝のあとを、大海人皇子へ一任し、委任統治を認めたものであろう。それは、のちの鎌倉幕府・徳川幕府と同じものだったと考えられる。


 天武天皇の「真人」を、いぶかる方も居られるかとは思うが、天武自身は、きっと、「真人」であることをいつも自慢していたはずである。

それが証拠が、
『淑人(よきひと)の よしとよく見て 好(よ)し言ひし 芳野吉(よ)く見よ 多良人(たらひと)よく見』

即ち、⇒ 天武は『淑人(=倭王薩夜麻)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時倭王薩夜麻が賛成してくれて良かった)』
であろう。


 さらに、大海人皇子の天武天皇自身は、彼自身の崩御まで、彼の息子の軽皇子(=のちの文武天皇)をはじめとする子孫が、倭王・薩夜麻の息子の高市天皇を「プロト大化改新」で暗殺し、「大和朝廷を開闢する」なんて、“つゆと”知らなかったのではないだろうか?


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(771) 『「八色の姓」の制定は、《天武13年》【684年:白鳳24年⇒朱雀元年】のことではなく、《白鳳13年》【天武2年(673年)】のことだ』 2011年9月12日(月)



『日本書紀』天武紀十三年の「八色の姓(やくさのかばね)」の制定は、倭王・薩夜麻が配下の「壬申の乱」功績に対する顕彰であり、論功行賞の一環である。

《天武13年》:【天武13年(684年:白鳳24年⇒朱雀元年)】のことではなく、
《白鳳13年》:【天武2年(673年:白鳳13年)】のことである。


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■ 上記の『日本書紀』の『倭国正史』からの、こういった「元号単位の切貼り」の発見は、私にとっては初めてである。
 正木裕氏によると、こういった「元号単位の切貼り」手法での『日本書紀』の『倭国正史』改編は随所にあるらしく、素人の私では “もうどれがどれやら”
 わかりましぇーん^^
 である。

 この《転記による11年のずれ》にどのよう気付いたか。

「元号単位の切貼り」手法での『日本書紀』の『倭国正史』改編を、後学のためにも、詳しく書き出しておこう。


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■ 先ず最初に、
『日本書紀』(国史大系版)
天武紀の「壬申の乱」の終結時期の記事はというと、こうです。

《天武天皇元年(六七二)七月乙卯【二十六】》◆乙卯。将軍等向於不破宮。因以捧大友皇子頭、而献于営前。
《天武天皇元年(六七二)八月甲申【二十五】》◆八月庚申朔甲申。命高市皇子、宣近江群臣犯状。則重罪八人坐極刑。仍斬右大臣中臣連金於浅井田根。是日。左大臣蘇我臣赤兄。大納言巨勢臣比等及子孫、并中臣連金之子。蘇我臣果安之子、悉配流。以余悉赦之。』先是。尾張国司守少子部連鋤鉤匿山自死之。天皇曰。鋤鉤有功者也。無罪何自死。其有隠謀歟。
《天武天皇元年(六七二)八月丙戌【二十七】》◆丙戌。恩勅諸有功勲者、而顕寵賞。
《天武天皇元年(六七二)九月丙申【八】》◆九月己丑朔丙申。車駕還宿伊勢桑名。
《天武天皇元年(六七二)九月丁酉【九】》◆丁酉。宿鈴鹿。
《天武天皇元年(六七二)九月戊戌【十】》◆戊戌、宿阿閉。
《天武天皇元年(六七二)九月己亥【十一】》◆己亥。宿名張。
《天武天皇元年(六七二)九月庚子【十二】》◆庚子。詣于倭京、而御嶋宮。
《天武天皇元年(六七二)九月癸卯【十五】》◆癸卯。自嶋宮移岡本宮。
《天武天皇元年(六七二)九月是歳》◆是歳。営宮室於岡本宮南。即冬、遷以居。焉是謂飛鳥浄御原宮。


《 これは、現代文にすると 》

● 天武紀元年(672年:白鳳12年)7月26日、将軍らは、不破の宮に向かい、大友皇子の首を屯営の前に献じた。
● 天武紀元年(672年:白鳳12年)8月27日、あれこれの勲功ある者に恩勅して、〔天下に〕顕に褒賞した。

<途中略>

● 天武紀元年(672年:白鳳12年)9月15日、嶋の宮から岡本の宮に移った。


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■ 一方、

【天武天皇の年齢研究『八色の姓(やくさのかばね)』】《魚拓》

で、オリジナルでの「年表」は見れば分りますが…、こうです。


天武12年 9月23日、そして、連姓(むらじ)38氏を皮切りに、

      10月 5日、には14氏にも連姓を賜る。

天武 13年10月 1日、姓の順をこの時点で発表する。同時に、

              真人姓を13氏に賜る。

天武13年11月 1日、朝臣姓を52氏に賜る

天武13年12月 2日、宿禰姓を50氏に賜る。

天武14年 1月21日、官位を改正する。

天武14年 6月20日、忌寸姓を11氏に賜ります。


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■ もう少し、この「11年のずれ」がどうのようにしてして分ったか、ビジュアルに表現しよう。


 《参照》
【九州年号・書紀天皇表】


           《 白鳳⇒天武へ置換・転記による11年のずれ 》

            ・→→→→→→→→→・
           ↑          ↓
●(672壬申:天武1:白鳳12 ⇒ 683癸未:天武12:白鳳23)
●(673癸酉:天武2:白鳳13 ⇒ 684甲申:天武13:朱雀1)
●(674甲戌:天武3:白鳳14 ⇒ 685乙酉:天武14:朱雀2)


 どうですか? 『日本書紀』は、『倭国正史』を、うまいこと「転記」改編してますよね。
 これだと、アルバイトに指示しとけば、簡単にスムースに『倭国正史』を改竄できます。
 あとは、念のため「倭国年号」(この場合「白鳳」)を「消しゴム」で消すばかりですよね。




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