大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 043 》
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ
白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、
日本書紀の〔 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権
2010年 4月 2日 発行
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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ https://waikoku.sakura.ne.jp/yamato.html 2:32 PM Apr 2nd webから ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(764) 『大海人皇子、天武天皇、物部氏、石上麻呂、『古事記』『日本書紀』『先代旧事本紀』が大和朝廷開闢を解説か』 2011年9月6日(火)
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西井健一郎氏は、
【続2) 「橿(モチノキ)はアワギ」の発見
『親の「内色許男(うつしこを)命」は開化紀に「鬱色雄(うつしこを)命」とあり、注に神「饒速日(にぎはやひ)命」の五世孫とある。これは物部(もののべ)系だから「物(ブツ)」はこの「鬱(うつ)」の替え字で、物部の源は鬱部(うつべ)である。
と書かれている。
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また、その最終章には、
『「倭」を捨て新国号「日本」をつけた『日本書紀』は、天武帝の日嗣(ひつぎ)の正当化をより図るために、天武帝の出自地の系譜と伝承から造作された『古事記』をさらに発展させ、創られた史書である。
とまで、書かれている。
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若しこれが「史実」ならば、のちの大内氏が下関・上関の通行規制する以前に大海人皇子が関門海峡・瀬戸内海の航行・制海権を握り、唐の占領軍をブロックしていたとも考えられ得るのだ。(そういう意味で、西井健一郎氏には、ぜひ、史実であるなんらかの物証を提示して欲しいものだ。)
当然、白村江敗戦後の天智近江朝の長門以東「日本国」独立。倭国再統合戦「壬申乱」での、倭王・薩夜麻との交渉にも、大海人皇子の実権が大きく奇与しただろう。
私がブログ〔倭国の遺跡スポットを訪ねてみよう〕で書いてきた事と、謀らずも附合していないだろうか…、はて・さて?
① 2010年7月18日(日)
② 2010年8月23日(月)
③ 2010年10月10日(日)
④ 2010年10月31日(日)
⑤ 2010年12月12日(日)
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ところで、
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【『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』とは?】
『しかし、『先代旧事本紀』が作成された時代には、こういった役割を物部氏は終えており、また石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)の亡き後、中央政界の表舞台にも物部氏の人物が登場することは無くなっていきました。
と書かれています。
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あれっ! ここでも、関根聡氏の下記ツイート同様に「左大臣・石上麻呂」が出てくる…
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という事は、結論はともかくも、大海人皇子、天武天皇、物部氏、石上麻呂、『古事記』、『日本書紀』、『先代旧事本紀』が、大和朝廷の開闢(かいびゃく)に関与している事は確かなようだ。
(765) 『今将に秋! 「ぶどう狩り・りんご狩り」と合わせ、はるか「八ヶ岳山麓縄文遺跡」を訪ねて見てはいかが?』 2011年9月8日(木)
今年は例年より秋の訪れが早いように思えます。今将に、「天高く、馬肥ゆる秋」ですね。
「ぶどう狩り・りんご狩り」と合わせて、「八ヶ岳山麓」に「縄文遺跡」を訪ねて見ては如何でしょう。
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先に
米田良三氏がその著『列島合体から倭国を論ず』の暘谷論で語るように、『暘谷海に面した平野にあった一万年前起源の縄文遺跡が四〇〇〇年前に、「八ヶ岳の山腹・山麓」に隆起した』とも考えれます。
■
『列島合体から倭国を論ず:米田良三著』第2章 暘谷論 4 列島合体 p81には、次のようにある。
①、「縄文海進」…縄文時代の一時期気温が上昇して海水面が上がったと言う説。
と書かれている。
更に、p59に『そして四〇〇〇年前に東日本と西日本が合体する。(暘谷海の)海流はせき止められ、さらに火山活動が活発になる。二〇〇〇年に近い火山活動の結果、主なものを挙げても北から、妙高、黒姫、蓼科、八ヶ岳、富士山、箱根の火山ができたのである。』とあり、そんなに最近富士山ができたのかって、いぶかる方も居られるかと思いますが…、最近、「東日本大地震」を直接経験すると、「ひょっとすると、ひょっとするかも知れない」と思う次第です。
期せずして、古田武彦氏も同じようなことを、おっしゃってると思い、敢えて『列島合体から倭国を論ず:米田良三著』を紹介します。
確かに、関東では、浅間(あさま・せんげん)神社が多く祀られていて、ここ横浜でも横浜駅と三ツ沢グランドの間の浅間交差点の近くには浅間(せんげん)神社があり、その上の尾根には前方後円墳があったとされています。富士宮神社は源頼朝が伊豆で挙兵して祀ったのが始めでつい最近のことのようです。古くは浅間神社のようです。
■
【(東アジアの)『古代文化』1978春号 縄文の「井戸尻連合体王国」】
あとひとつ、八ヶ岳の山麓には「縄文遺跡」があると聞いている。
『「尖石遺跡」---八ヶ岳山麓の縄文遺跡の発掘にかけた宮坂英弌氏の情熱』・《魚拓》
『八ヶ岳山麓に栄えた縄文王国「井戸尻遺跡」群の華麗な文化』・《魚拓》
『甲斐・信州国境地帯 八ヶ岳山麓に縄文遺跡を訪ねて』・《魚拓》
(766) 『九州王朝に任命された官職「朝臣」の任命。「真人」に任命された天武』 2011年9月9日(金)
ここに1冊の本がある、
その中の以下を、そっくり取上げよう。
◆第6の鍵◆「十七条の憲法」を作ったのはだれか
2 九州王朝に任命された官職
「朝臣」の任命
これと同じような問題がほかにもあります。
二番目「朝臣」として出てくるのが人麿です。人麿「朝臣」問題は、人麿だけを抜き出して議論できる問題ではありません。万葉集のなかに出てくる「朝臣」のひとつとして考えなければなりません。
「真人」に任命された天武
けれども私の立場はそうではありません。それは九州王朝の任命した「朝臣」であると思います。「朝臣」だけ任命したということはないでしょう。
これは、結局、「八色の姓」というような制度は大王家が発布するものか、それとも天子が発布するものか、という問題になってきます。
七世紀後半に評制、評督が全国にあって、都督府が筑紫なのですから、そのような「評」制下において、官職名だけが大和側に「八色の姓」を発布するというのは、はっきりいっておかしいのではないでしょうか。
ひるがえって「八色の姓」も、原点を筑紫と考えるほうが話はよくわかります。
<以下略>
■
『古代史をゆるがす(真実への7つの鍵):古田武彦著』
(注:①) 日本書紀の天武十三年の項に八色の姓(やくさのかばね)というのがあるので、その二番目が朝臣である。
(注:②) 大和朝廷一元主義の場合は、そこから発展がありません。
(注:③) 天武自身が「真人」に任命された。
の①②③について、若干の私見を述べさせれください。
■
(注:①) 日本書紀の天武十三年の項に八色の姓(やくさのかばね)というのがあるので、その二番目が朝臣である。
この本の第1刷が、1993年11月30日とあるので、発行後18年を経過したことになる。
その間の大きな成果といえば、なんと言っても『日本書紀』の天武紀・持統紀には、意図的に「34年遡上」記事が紛れ込こまされていることの発見であろう。
(767) 『続・1) 九州王朝に任命された官職「朝臣」の任命。「真人」に任命された天武』 2011年9月9日(金)
この「34年遡上」説、及び、その応用例「白鳳○○年⇒天武○○年」を、
■
◎ 【 684 天武13 朱雀 1 】《⇒自然現象に付き》
▲ 【 673年(天武2年:白鳳13年)】《⇒「八色の姓」制定記事》
● 【 650 白雉 1 常色 4 】《⇒常色の改革の一環に付き》
◎ 【 684 天武13 朱雀 1 】《⇒自然現象(=白鳳大地震)に付き》
▲ 【 673年(天武2年:白鳳13年)】《⇒「壬申の乱」功績顕彰記事》
▲ 【 673年(天武2年:白鳳13年)】《⇒「壬申の乱」功績顕彰記事》
◎ 【 684 天武13 朱雀 1 】《⇒自然現象に付き》
◎ 【 684 天武13 朱雀 1 】《⇒自然現象に付き》
◎ 【 684 天武13 朱雀 1 】《⇒自然現象に付き》
◎ 【 684 天武13 朱雀 1 】《⇒自然現象に付き》
▲ 【 673年(天武2年:白鳳13年)】《⇒「壬申の乱」功績顕彰記事》
▲ 【 673年(天武2年:白鳳13年)】《⇒「壬申の乱」功績顕彰記事》
◎ 【 684 天武13 朱雀 1 】《⇒百済役時(=白村江)に付き》
◎ 【 684 天武13 朱雀 1 】《⇒白鳳王・薩夜麻の崩御?に付き》
■
以上、私の感覚で『書紀』を見直してみました。
(768) 『続・2) 九州王朝に任命された官職「朝臣」の任命。「真人」に任命された天武』 2011年9月9日(金)
(Ⅰ) 【 673年(天武2年:白鳳13年)】《⇒「八色の姓」制定記事》
(Ⅱ) 【 650 白雉 1 常色 4 】《⇒「遣伊勢王等、定諸国堺」記事》
(Ⅲ) 【 684 天武13 朱雀 1 】《⇒白鳳大地震記事》
■
この上記『日本書紀』天武紀十三年の連続する記事の内で、
(Ⅱ)の「遣伊勢王等、定諸国堺」記事については、
■
また、
(Ⅲ)「白鳳大地震」記事については、
ただ、ここで不審なのは「白鳳大地震」の名称の由来が分らない。
ここで若し、この「白鳳大地震」名付け者が当時の被災者自身であるとすればですが…、何が分るかでしょう。
1)、地震発生当日の10月14日現在の被災者が、倭国の年号「白鳳」を使用していた。
2)、その後の年末までに、白鳳倭王・薩夜麻が崩御したので、「白鳳」から「朱雀」へ改元されたのだろう。
私が思うに、「白鳳倭王・薩夜麻が崩御する以前に、壬申の乱の功により、倭灘波副都弟王家の大海人皇子・天武天皇へ、倭王帝位を禅譲する約束がなされていた」のではないかという事です。
3)、倭国年号「朱鳥」・「大化」時の帝位は、白鳳倭王・薩夜麻の息子の高市皇子の在位であろう。
○倭王帝位を禅譲の約束が、倭灘波副都弟王家の大海人皇子・天武天皇の「一代限りだ」とする高市皇子側と、
○「次代も継続する」とした倭灘波副都弟王家の大海人皇子側が相互に主張した混乱が大津皇子謀反であり、皇太子草壁皇子尊の薨去であろうか。
以前に見てのとおり、持統天皇とは架空の天皇であり、持統即位元年(690年)とは、白鳳倭王・薩夜麻の息子の高市皇子の天皇即位であり、翌年の大嘗祭である。
(769) 『続・3) 九州王朝に任命された官職「朝臣」の任命。「真人」に任命された天武』 2011年9月9日(金)
この『日本書紀』天武紀十三年の記事の内で、
(Ⅰ) 【 673年(天武2年:白鳳13年)】《⇒「八色の姓」制定記事》
■
が、然し、
(Ⅰ)「八色の姓」制定記事については、
何故なのだろうか、はて・さて?
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当初、私としては、(Ⅰ)「八色の姓」制定記事は、【 650年 白雉元年 常色 4年 】のことだとしました。
その理由は、
2)、「八色の姓」制定記事が、684年の事だとすれば、上で見たように、白鳳倭王・薩夜麻の崩御直前である、一方の大海人皇子の天武天皇としても、それが禅譲であったとしても、そんな余裕は無かったと思われる。
としましたが、何か「ちぐはぐ」なんですよね。
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そこで、「八色の姓」でネットを検索したところ、
で、「おやっと思う」年表に気付きました。そっくり、11年ずれてるんですね。
『まことに、細々と指示しています。
●天武13年(684年:朱雀元年)10月 1日、姓の順をこの時点で発表する。同時に、真人姓を13氏に賜る。
●天武14年(685年:朱雀2年) 1月21日、官位を改正する。
<途中略>
普通、真人とは天皇家の末裔とされる家系のものと規定されています。しかし、この13氏を調べると、決して天皇家の家系に連なるとは言えそうもないものが多いことがわかるのです。
と、「壬申年之功」が強調されています。
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一方、『日本書紀』天武紀元年(672年:白鳳12年)の「壬申の乱」では、
● 天武紀元年(672年:白鳳12年)7月26日、将軍らは、不破の宮に向かい、大友皇子の首を屯営の前に献じた。
<途中略>
● 天武紀元年(672年:白鳳12年)9月15日、嶋の宮から岡本の宮に移った。
とあります。
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もうお分かりでしょう。『日本書紀』天武元年(672年:白鳳12年)の「壬申の乱」の上記記事、
● 天武元年(672年:白鳳12年)9月15日、嶋の宮から岡本の宮に移った。
―記事に、上記ネットの【天武天皇の年齢研究】さんの記事が連続していると分ります。―
● 天武12年(683年)⇒白鳳12年(672年) 9月23日、そして、連姓(むらじ)38氏を皮切りに、
ざっと見て、身分に関する記事は実際より、最近の11年後にされているのです。
では何故、11年後にされたかですが、
たぶんですが、●天武13年(684年:白鳳24年⇒朱雀元年)の記事は、本来の史実は、天武2年(673年:白鳳13年)のことなのでしょう。
◇
※ その方法を、正木裕氏流に説明すれば、
《 白鳳13年 》【天武2年(673年:白鳳13年)】 ⇒ 《 天武13年 》【天武13年(684年:白鳳24年=朱雀元年)】
に置換えた事になります。
(注釈:こういう方法の 《 九州年号「白鳳」から、天皇紀「天武」へ 》 は珍しいですよね!)
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(770) 『続・4) 九州王朝に任命された官職「朝臣」の任命。「真人」に任命された天武』 2011年9月11日(日)
■
『日本書紀』天武紀十三年の記事の内で「八色の姓(やくさのかばね)」の制定は、
■
(Ⅰ) 【 673年(天武2年:白鳳13年)】《⇒「八色の姓」制定記事》
《天武天皇十三年(六八四)十月己卯朔》◆冬十月己卯朔。詔曰。更改諸氏之族姓。作八色之姓。以混天下万姓。一曰、真人。二曰、朝臣。三曰、宿禰。四曰、忌寸。五曰、道師。六曰、臣。七曰、連。八曰、稲置。是日。守山公。路公。高橋公。三国公。当麻公。茨城公。丹比公。猪名公。坂田公。羽田公。息長公。酒人公。山道公十三氏、賜姓曰真人。
■
《ご注意》私の記事は、
■
そこで、「八色の姓」でネットを検索したところ、
【天武天皇の年齢研究『八色の姓(やくさのかばね)』】・《魚拓》
で、「おやっと思う」年表に気付きました。 そっくり、11年ずれてるんですね。
これって、いわゆる「壬申の乱」の“論功行賞”って奴でしょう。やっぱり、11年ずれていますよね。
忘れないうちに、すぐ、くれって、俺だったら要求します・はい^^
■
《これが「11年のずれ」を気付かせた年表です》
●天武12年(683年:白鳳23年) 9月23日、そして、連姓(むらじ)38氏を皮切りに、
●天武13年(684年:朱雀元年)10月 1日、姓の順をこの時点で発表する。同時に、真人姓を13氏に賜る。
●天武14年(685年:朱雀2年) 1月21日、官位を改正する。
《このほど良くまとめられた「年表」を発見しなかったら、「11年のずれ」に気付かなかっただろう。だから、ページ主に、おおきに!って感謝申し上げます。》
■
これまでをふりかえって、ざっと見て、身分に関する記事は実際より、最近の11年後に遡上されているのです。
たぶんですが、
その方法を、正木裕氏流に説明すれば、
要するに、「八色の姓」制度は 【 673年(天武2年:白鳳13年)】10月1日、九州王朝「倭国」の白鳳王・薩夜麻が、唐より解放、帰国后に、倭国再統合・倭王復位戦の「壬申の乱」に戦勝後、彼の臣下の功績を顕彰して詔、制定したものである。
この「八色の姓」制度の制定に伴い、九州王朝「倭国」の白鳳王・薩夜麻が、倭灘波副都弟王家の大海人皇子・天武天皇の「壬申の乱」での功績を顕彰して、大海人皇子を「真人」に任命したのである。
これが、天武天皇の和風諡号「天淳中原澚真人天皇(あまのぬなかはらまひと)」である。
たぶんに、白鳳王・薩夜麻にとって、大海人皇子・天武天皇の「壬申の乱」での功績は甚大で、それでも飽き足らず、長門以東の天智近江朝のあとを、大海人皇子へ一任し、委任統治を認めたものであろう。それは、のちの鎌倉幕府・徳川幕府と同じものだったと考えられる。
天武天皇の「真人」を、いぶかる方も居られるかとは思うが、天武自身は、きっと、「真人」であることをいつも自慢していたはずである。
それが証拠が、
即ち、⇒ 天武は『淑人(=倭王薩夜麻)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時倭王薩夜麻が賛成してくれて良かった)』
さらに、大海人皇子の天武天皇自身は、彼自身の崩御まで、彼の息子の軽皇子(=のちの文武天皇)をはじめとする子孫が、倭王・薩夜麻の息子の高市天皇を「プロト大化改新」で暗殺し、「大和朝廷を開闢する」なんて、“つゆと”知らなかったのではないだろうか?
(771) 『「八色の姓」の制定は、《天武13年》【684年:白鳳24年⇒朱雀元年】のことではなく、《白鳳13年》【天武2年(673年)】のことだ』 2011年9月12日(月)
■
『日本書紀』天武紀十三年の「八色の姓(やくさのかばね)」の制定は、倭王・薩夜麻が配下の「壬申の乱」功績に対する顕彰であり、論功行賞の一環である。
《天武13年》:【天武13年(684年:白鳳24年⇒朱雀元年)】のことではなく、
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■ 上記の『日本書紀』の『倭国正史』からの、こういった「元号単位の切貼り」の発見は、私にとっては初めてである。
この《転記による11年のずれ》にどのよう気付いたか。
「元号単位の切貼り」手法での『日本書紀』の『倭国正史』改編を、後学のためにも、詳しく書き出しておこう。
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■ 先ず最初に、
《天武天皇元年(六七二)七月乙卯【二十六】》◆乙卯。将軍等向於不破宮。因以捧大友皇子頭、而献于営前。
《 これは、現代文にすると 》
● 天武紀元年(672年:白鳳12年)7月26日、将軍らは、不破の宮に向かい、大友皇子の首を屯営の前に献じた。
<途中略>
● 天武紀元年(672年:白鳳12年)9月15日、嶋の宮から岡本の宮に移った。
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■ 一方、
【天武天皇の年齢研究『八色の姓(やくさのかばね)』】・《魚拓》
で、オリジナルでの「年表」は見れば分りますが…、こうです。
天武12年 9月23日、そして、連姓(むらじ)38氏を皮切りに、
10月 5日、には14氏にも連姓を賜る。
天武 13年10月 1日、姓の順をこの時点で発表する。同時に、
真人姓を13氏に賜る。
天武13年11月 1日、朝臣姓を52氏に賜る
天武13年12月 2日、宿禰姓を50氏に賜る。
天武14年 1月21日、官位を改正する。
天武14年 6月20日、忌寸姓を11氏に賜ります。
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■ もう少し、この「11年のずれ」がどうのようにしてして分ったか、ビジュアルに表現しよう。
《参照》
《 白鳳⇒天武へ置換・転記による11年のずれ 》
・→→→→→→→→→・
どうですか? 『日本書紀』は、『倭国正史』を、うまいこと「転記」改編してますよね。
■
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