大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 046 》
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ
白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、
日本書紀の〔 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権
2010年 4月 2日 発行
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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ https://waikoku.sakura.ne.jp/yamato.html 2:32 PM Apr 2nd webから ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(747) 『『古事記正解』 @Kojikiseikai(関根 聡)氏 の ツイート一覧 ①』
2011年8月29日(月)
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漢字には、語義がある。「安」には〔仕える〕義があり、「安麻呂」は「麻呂に仕える」ことを意味する。日本書紀中の「安麻呂」用例は、ただ一人。大伴安麻呂(家持の祖父)という人物で、後に大納言、石上麻呂政権下のナンバー3として麻呂に仕えた。続日本紀の「安麻呂」用例は、さらに興味深い。
古事記の編纂者は、太安萬侶。続日本紀には、「太安麻呂」として慶雲元年(704)に登場し、約10年後、石上麻呂政権下で古事記を完成させる。漢字には語義がある。「安」には〔仕える〕義があり、太安麻呂が誰に仕えたか、その名が示す。古事記編纂の責任者は、時の左大臣・石上麻呂だった。
古代の律令制下、貴族の子は21歳で叙位し、名が認められた。古事記の編纂者・太安麻呂の叙位は慶雲元年(704)。以後10年間に、阿倍、小治田、平羣、大神、上毛野、平群、巨勢など、有力氏族の子が「安麻呂」を名乗る。漢字「安」には〔仕える〕義があり、時の左大臣には、石上麻呂がいた。
藤原馬養は、左大臣・石上麻呂の娘を娶り、宇合と改名。漢字「宇」には〔家・天下・国家・風格〕の語義がある。その名をもって、麻呂(物部氏)と不比等(中臣氏)が縁を結び、式家が左右大臣の血を継ぐ家となったことを示した。その意味で、「宇合」は太安麻呂による造語「高天原」と同義といえる。
日本語「高天原」は、太安麻呂による造語。物部(左大臣・石上麻呂)の出身地「高原」と中臣(右大臣・藤原不比等)の異名「天」を合わせ、持統天皇の和風諡号「高天原広野姫」とした。いわば8世紀初頭の石上麻呂-藤原不比等政権の象徴語。その高天原が、古事記では先祖由来の地名として使われた。
古事記原文「高天原」には、【訓高下天云阿麻】と注意書きがある。太安麻呂は、「天」が中臣(右大臣・藤原不比等)の異名であることを示し、語義をもって「左大臣(石上麻呂)に阿る」と揶揄した。「高原」は物部氏の居住地で、麻呂の出身地。つまり「高天原」は、麻呂-不比等政権を表す造語だった。
天永4年(1113)源俊頼は歌論書『俊頼髄脳』を著し、「天」が古来「なかとみ」の異名だったことを記している。古事記原文「高天原」には【訓高下天云阿麻】と施注があり、太安麻呂は、この「天」が中臣(右大臣・不比等)であることを示唆したと考えられる。日本語「高天原」は何か?は前述した。
延暦九年(790)韓國連源は、先祖(物部大連)伝来の居住地「高原」をもって連名を改姓。また死後の弘仁三年(812)下野介としての善政を後世に伝えるため贈位されている。栃木県北部には高原山がある。古事記編纂の責任者・石上麻呂(当時左大臣)は、この
群馬県高崎の
常陸風土記は、古事記、日本書紀以外に「高天原」の地名を記す唯一の書。編纂に関与した藤原宇合の名義は「物部+中臣」。高天原も、本来「麻呂(物部)+不比等(中臣)」を表す政治用語だった。宇合の父は不比等、妻は麻呂の娘・国盛で、常陸風土記に「高天原」が記されたのは偶然ではない。
古代日本の方位は、古代中国と同様、南が基準だった。地図上、南が上で、東が左。事実、漢字「左」には「東側」の語義がある。万葉集の「佐岐毛利」表記は興味深い。自ら語義により「東国男で毛利(神奈川県厚木市付近)の出身」と名乗っている。古代仮名には、確実に歴史的な語義や字義が認められる。
天平宝字7年(763)大伴家持は、藤原良継(宿奈麻呂)・石上宅嗣と共に藤原仲麻呂暗殺計画を企てた。良継、宅嗣は、二人共に古事記編纂の責任者・石上麻呂(当時左大臣)の孫で、相模守の経験者。家持自身も、宝亀五年(774)に相模守となる。古事記・万葉集の編纂と東国相模との関わりは深い。
湘南を走る江ノ電の駅に、「石上」という名もない駅がある。古地図をみると、その隣に「藤原」という小字。相模守・石上宅嗣と藤原良継の存在が気にかかる。その配下?の大伴家持も、相模守の経験者。万葉集の研究が、後に鎌倉の仙覚、藤沢の由阿によって為されたのは偶然ではないかもしれない。
(748) 『『古事記正解』 @Kojikiseikai(関根 聡)氏 の ツイート一覧 ②』
2011年8月29日(月)
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関東地方の遺跡分布を俯瞰すると、信じがたい歴史的事実が浮かび上がる。BC1世紀、房総半島を大津波が直撃。霞ヶ浦から15m以上の津波が押し寄せ、埼玉から群馬の低地が水没した。その後、逆流した津波が東京湾東部を襲う。繁栄した上代日本文明は壊滅。それが古事記上巻冒頭記述の背景だった…。
関東南部の遺跡分布を観てみよう。海抜20m以下の地域に、BC1世紀以前の遺跡が何一つない。東京湾東部には、100を超える貝塚があるが、住居跡などの遺跡は皆無。その原因は大津波だろう。古事記上巻は、この事実を書き記している。東日本大震災も、この歴史的教訓を学んでいれば軽減できた…。
BC1世紀、関東地域を大津波が襲った。古事記は、その歴史的事実を「國稚如浮脂而久羅下那洲多陀用幣流之時」と記す。栄えていた上代日本の文明は一夜にして壊滅。その復興に立ち上がったのが、宇摩志阿斯訶備比古遲と天之常立だった。数代後、伊耶那岐と伊耶那美が国土の「修理固成」を決断する。
BC1世紀に大地震が発生、関東地方の上代文明を津波で壊滅させ、日本全域に甚大な被害を与えた。仙台の沓形遺跡等には、その痕跡が残されている。古事記が記す「淤能碁呂嶋」とは、荒廃した上代の日本地域に他ならない。伊耶那岐と伊耶那美は、国土の「修理固成」(復興事業)に取組んだのである。
伊耶那岐と伊耶那美による「修理固成」は、紀元1世紀後半に始まった。よく言えば国土の復興事業だが、「生む」というのは、各地域の部族を支配下に置くことに他ならない。16世紀の古地図を元に上代の日本地図を復元し、国生みの過程をGIFアニメにしてみると、いろいろ面白いことが分かった。
伊耶那岐と伊耶那美による国生みの出発点は、伊豆。「水蛭子」は埼玉の水子地域、「淡嶋」は岐阜の安八地域に比定できる。そして「淡道之穗之狹別嶋」から「佐度嶋」までは、何の矛盾なく地図上に描ける。しかし次の「大倭豊秋津嶋」(通説:本州)は、論理的にも表記的にも矛盾し問題があった。
『真福寺本古事記』を観てみよう。佐渡の次ぎ、国生みの折返し点は「大倭豊秋津」と表記されている。他書と異なり唯一「嶋」がない。表記からして国生み初の「津」の生成だ。現実的な位置から考え、その場所は「蒲原津」(現在の新潟市付近)となる。これは、論理的表記的に記述が整合し納得がいく。
古事記国生みにおける「大倭豊秋津」。亦名を「天御虚空豊秋津根別」という。訓「別」は、先例に「生子淡道之穗之狹別嶋【訓別云和氣下效此】」とあり、「和氣」の意だ。「別」と記して「一緒みたいな」とは何のことだろう?用例には「狹別」「依別」「許呂別」「日別」「久士比泥別」などがあり…。
「大倭豊秋津」の亦名は「天御虚空豊秋津根別」。訓「別」は、「和氣」の意だ。「別」と記して「一緒みたいな」とは?共通の「豊秋津」が、大河下流の豊穣な土地とすれば、根別とは、現在の信濃川と利根川を示すのだろうか?確かに「豊秋津根」の略は「トネ」になる。源を一にする二つの「豊秋津」…。
「大倭豊秋津」の亦名は「天御虚空豊秋津根別」。亦名の「天御虚空」とは?古事記序の記述から、「天御」が「天御中主神」を意味するのは間違いない。上巻冒頭では「天之御中主神」と記され、漢字「之」に歴史的な事実が示唆されている。「之」義は「至る」で、彼は「天、御中に至る主」だった。
BC3世紀末、天之御中主神率いる集団が九州に渡来、瞬く間に九州を制覇した。その後関東に進出、「豊秋」と称される文明を築いた。しかし、その文明はBC1世紀に起きた大津波によって消滅。ただただ蒼空が広がる大地を、古事記は「天御虚空」と記した。古事記は、優れた史書であり神話ではない。
古事記の書名は、顔師古(581- 645)の漢書注「多記古事也」に由来する。多氏である太安麻呂は、これを「多氏、古事を記す」と解し史書の書名とした。記述は、漢籍・漢語の知識を駆使しつつ、故意に正格の文法を無視し、非中華的な文体・表記を追求。中国人が、読まないように画策している。
古事記の「天地」とは何か?上代日本(BC200頃~645)の日本地域である。中国は「別天」と記され、上巻冒頭の5人の神は中国からの渡来者だったと明記。逃亡者であり「隠身」だったと記す。初期三神は、上代の関東地域に豊かな文明を築いたが、大津波で壊滅、その事実は時の闇に消えた。
『古事記正解』 @Kojikiseikai(関根 聡)氏のツイート一覧②へ コメントあり:
『何故出雲が登場しない?不自然すぎる。おまいらロス茶の回し者だろ?』
zackyChannel
(749) 『『古事記正解』 @Kojikiseikai(関根 聡)氏 の ツイート一覧 ③』
2011年8月29日(月)
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古事記の「天之御中主神」とは誰か?別天(中国)からの渡来者で、隠身(逃亡者)。始皇帝の命で東渡した際、妻子は人質にとられ、独神(独身)だった。司馬遷は史記で、この人を「徐市(冂+十)」と記す。漢字「冂」は、都から遠く離れた境界のこと。つまり「市」は、遠くへ行った「十」という人だ。
古事記の「天之御中主神」とは、中国からの渡来者で「徐市(遠くへ行った十)」という人だった。わが国名も、彼に由来する。「日本」は本来「日大十」と表記された国。その初出は、左大臣・石上麻呂の歌(万葉集1/44)にある。読んで字のごとく「ひ(の)やまと」。偉大なる「十」の国「日」だ。
万葉集の人麻呂歌(1/42)を観てほしい。原文は「潮左為二五十等兒乃嶋邊榜船荷妹乗良六鹿荒嶋廻乎」。「潮」と比喩される集団が「左為(東へ向かい)、二五十(=東渡)兒の島辺、榜船に妹(妻)を乗せ、良(家柄確かな)六鹿(6集団)が荒嶋(上代日本)を廻ったてさ」と言挙げされている。
日本へ東渡した徐市集団は、総勢3000人強。大半は、秦に滅ぼされた6国(韓・趙・魏・燕・楚・斉)から徴集された良家の子女だった。一国当たり男女250人ずつ計500人、後に「六鹿」と比喩される6集団を形成していた。万葉集の人麻呂歌(1/42)は、その歴史的事実を的確に伝えている。
司馬遷は、史記で「徐市(冂+十)」の東渡を記録。後に「徐福」と好意的な表記に変えつつ、蒙恬・趙佗と共に、秦が滅びた元凶、三悪人の一人と断じている。古代中国において、徐福は英雄などではなく、売国奴として意識されていた。この事実は、上代日本「天」の形成と文化性にも大きく影響している。
徐市(冂+十)東渡は、始皇帝の命とされるが、その裏には宰相・李斯の存在がある。李斯は中国統一後、保身のため、故郷の楚(百越・後の南越)と辺境の地「邪麻(古事記:天)」に逃亡先を準備する。その実行者が徐市と趙佗だった。史記を分析すると、李斯を黒幕とした徐市と趙佗の暗躍が見えてくる。
趙佗は、南越建国後、秦に寡婦(夫のない女)3万人を求め、秦の皇帝は半数の1万5千人を許可。そのため民心は乱れ、反乱を望むものが十家のうち七家に及んだ---と史記は記す。この許可を与えたのは、二世皇帝の胡亥ではなく、李斯だった。始皇帝の死には謎がある。趙佗は、その真相を知っていた。
徐福は、始皇帝に良家の子女3000人等を与えられて東渡、平原大沢を得、戻らず。そのため人民は悲痛、乱を望むものが十家のうち六家に及んだ---と史記は記す。徐福集団の船10数隻は、楚で建造され、その指揮は 趙佗がとる。いざ納船時、船内には百越の少女1500人が密かに乗せられていた。
徐福集団の子女は、3000人。韓・趙・魏・燕・楚・斉の6国から徴集された子供だった。一国あたり男女250人ずつ500人。しかし実際に東渡した女児1500人は、李斯の指示で趙佗がすり替えた百越の女児1500人だった。李斯は、自国の女による集団統治を企図、徐福に実行を託したのである。
始皇帝の死は、宰相・李斯による毒殺だった。逃亡か、暗殺か、二者択一を迫られた李斯は、徐福調合の毒による暗殺を選ぶ。能なしの胡亥を皇帝に立て、実質上自ら中国を支配する。計画は成功。その秘密を察した南越の趙佗は、3万人の寡婦を要求し、李斯は1万5千人を送る。建国を公に認めたのである。
周知のごとく、始皇帝の死後まもなく、李斯は趙高の罠に嵌り刑死する。長年にわたる極度の緊張から解放され、油断があったのだろう。李斯の死と秦の崩壊は、徐福と趙佗にとって幸運だった。李斯の陰謀は、歴史の闇の中に消え、二人の関与も露呈しなかった。しかし売国奴の汚名が消えた訳ではない。
徐市集団の子女3000人は、韓・趙・魏・燕・楚・斉の6国から徴集された。しかし実際に東渡した女児は、趙佗がすり替えた百越の1500人だった。よって構成は、越韓・越趙・越魏・越燕・越楚・越斉。楚の男子には百越人がいて、越楚組の一部は純粋種で、後に「御子」「巫女」などと呼ばれた。
法学者・水林彪によると、古事記は天皇と多くの臣下が血の繋がりのある同族として描かれ、その構想の中に等族的政治思想が表れているという。この事実は、上代日本「天」が徐福集団の子女によって形成され、しかも、その指導者層と主要部族が、BC1世紀の大津波で壊滅したことと無縁ではない。
(750) 『『古事記正解』 @Kojikiseikai(関根 聡)氏 の ツイート一覧 ④』
2011年8月30日(火)
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BC1世紀、徐福集団の子孫は、現在の関東平野を中心とし日本各地の沿岸部に根拠地(島)を築いていた。しかし大津波によって、その多くが壊滅。生き残りの宇摩志阿斯訶備比古遲神は復興を目指し、國之常立神、豊雲上野神が後を継ぎ、約100年後の伊耶那岐命と伊耶那美命による国生みの基礎を築く。
伊耶那岐命と伊耶那美命は、生き残りの御子を御柱に立て、後見人となって上代日本「天(邪麻)」各地の島を制圧、現在の新潟市付近に本土制圧の根拠地「伊津」を置いた。彼ら「伊」族は、その後、日本各地に根拠地「伊津」を作り全国に支配権を伸ばす。最初の津を、古事記は「大倭豊秋津」と記す。
新潟の古老は、漢字「越」を今でも「イツ」と読む。有名な弥彦神社も「いやひこ」様と言う。いま越と呼ばれる国が、昔「イ」の国だっだことは間違いないだろう。その国を、古事記は「大倭」と記す。漢字「大」は敬称で、「倭」は「伊」の漢風表現だ。とすれば、読みは「やまと」であるはずがない。
古事記本文は、歌謡部を除き、文語で記された。中国本土の漢文同様、黙読で文意を伝えることを目的とする。古事記は歴史的に誤読が重ねられた。本居宣長(1730-1801)は誤読に曲読を加え、本来の古事記とは似て非なる贋作を捏造。温和な人柄と優れた文才が災いし、その学的な罪過は甚だしい。
阿夜訶志古泥神。この神を「あやかしコネの神」と読んで、怪しいコネを持つ神と解した人がいる。間違いは明らかだが、古事記を漢文訓読調に読んで得意がる人は多い。これも明らかな間違い。漢文訓読が成立するのは平安期以降。古事記成立期に、そんな読みはなく、有名な宣長読みも大半は間違いばかり。
古事記原文「坐何地者平聞看天下之政猶思東行」。宣長の訳は「イヅレノトコロニマサバカ、アメノシタノマツリゴトヲバタヒラケクキコシメサム、ナホヒムカシノカタニコソイデマサメトノリタマヒテ」。神武天皇の有名な言葉ですが、???。読む語順は、③①②④、⑤⑥⑦①②③④、①④②③。変ですね。
古事記原文「坐何地者平聞看天下之政猶思東行」。わが訳は「坐いかに?地を平らぐと聞く。看して天下これを政す。だから思う、東へ行こう」。語順は、①②、①②③④、①②③④⑤、①②③④。これは話し言葉、行ったり来たりして読む訳がない。ちなみに「坐何?」は、自問自答による日本初の謎謎です。
焦士威爾奴、房朱力士、蕭爾斯勃内、迦爾威尼、蕭魯士、培侖、范納、威男。これらをどう読むか?その答を知らずに解釈するのは、まず不可能だ。答は、全部19世紀の作家ジュール・ベルヌのこと。漢字による人名表記は極めて困難。この事実は、古事記の時代も同じで、正確な神名解読は極めて難しい。
万葉集原文「宇梅」。漢字「宇」は、屋根の庇を原義とし「家」の語義がある。ウメは自然木ではなく、貴族の館庭で育てられる薬木だった。よって「宇梅」と記され、後に「梅」一字で「うめ」と読まれた。また「烏梅」は、未熟な梅の果実を、黒い薫製にしたもの。古代の仮名表記には、当時の意味がある。
万葉集原文「姫押」。訓「押」は「へし」で、漢方の利尿剤「敗醤」の和語表記。当時の漢字「姫」は、本来「女+巨」で「女+臣」ではない。「女+巨」は持統天皇を暗喩。幅広の直線道路「美知(女帝の権威を知らしめす)」の両脇に、敗醤の元ヲミナヘシが植えられことをもって「姫押」と記された。
日本語「女郎花」。初出は新撰万葉集にある。万葉集で初めて中臣女郎が題材とし、大伴家持が「乎美奈敝之」と仮名表記。よって「女郎花」と書かれ「をみなへし」と読まれた。「乎美奈敝之」は「ああ美(女帝)は何で萎れたのか」という天皇批判で、家持が罪を問われる元になった。古代仮名は意味深だ。
日本語「姫」。古代日本では、初め「女+巨」と記され、小さくて可愛いが絶大な権力を持った女帝(持統天皇)を暗喩した。後に持統を象徴する花を「乎美奈敝之(ああ美=女帝は何で萎れたのか)」と記した家持だけが、万葉集で「女+臣」字を用いている。古代日本の文字表記は、往々に政治的だった。
古代日本語「巨」。中国音「チィ」をもって「小さい」義を持ち、「偉大」や「重要」の原義を内在する。「女+巨」と記し、持統天皇のごとき女帝を暗喩。「姫押」という植物名も、女帝が小枝を圧し折るように弱小部族を支配したことを暗示している。また「巨米」と記し、小粒だが重要な穀物の名とした。
(751) 『『古事記正解』 @Kojikiseikai(関根 聡)氏 の ツイート一覧 ⑤』
2011年8月30日(火)
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日本語「大和」。初出は真福寺本古事記の景行記にあるが、専門家は誤字としてきた。萬葉集・日本書紀に用例はなく、初出は養老令とされる。しかし続日本紀の和銅5年9月3日条に「大和」の初出があり、古事記の用例を裏付ける。古事記に地名「大倭」用例はなく、大和國表記の誤字根拠は何もない。
太安麻呂は造語の達人で、麻呂-不比等政権を象徴する「高天原」など数々の言葉をつくった。藤原馬養の名を「宇合」としたのも彼の案だろう。自らの名をもって、左大臣・石上麻呂に安(仕)えると宣言、天皇と麻呂のご意見番として活躍した。よって養老年間は、麻呂の病に始まり安麻呂の死で終わる。
最古の写本・真福寺本古事記(1371)は、従来の写本から句読点やフリガナを外し原本の復元を目指した。9年後の校勘本・道果本古事記を分析すると、その事実が明らかだ。賢瑜の写本を師・信瑜が校正しており、誤字や脱字は少ない。後代の宣長本は贋作。古事記研究は、真福寺本に拠らねばならない
古代日本語「大和」は、太安麻呂が古事記景行記の述作時に創出、その後養老令に採用され、徐々に使われるようになった。この歴史的事実は、続日本紀の和銅5年9月3日条と真福寺本古事記によって裏づけられる。7-9世紀は、土着中国語の和化によって日本語が生まれた時代。様々な言葉も案出された。
長岡語「旅の人」。他所から来た人のことで、長岡に家を構えても、三代は長岡人にはなれない。長岡に住んで3年。いまでも長岡人同士の会話についていけない。親しくなった与板の職人さんと話す。意味が分かるのは三分の一くらい。それでも何とか話ができる。元来、言葉なんて、そんなもんなのだろう。
坂本竜馬は、日本初のマルチリンガル人間だった。たぶん土佐弁丸出しの薩摩弁や長州弁、時には英語も話した。それが偉業を為せた最大の因。逆に長岡が維新戦で丸焼けになったのは、河井継之介が土佐の岩村精一郎に、長岡弁で話しかけたから。成上りの岩村は、馬鹿にされていると感じたと実感的に思う。
日本語は、いつ生まれたのか?少なくとも現代日本語が作られ、一般化したのは昭和28年、国営放送が開始されてからだろう。明治以前、日本に共通語は存在せず、庶民は各地の藩語、集落語を話して生きていた。一万年前から原初の日本語があったなどというのは、ただの盲信。学問的な根拠は何もない。
日本語「日本」。初出は、万葉集(1/44)にある。作者は石上麻呂。古事記の編纂責任者で、時の左大臣だ。原文:吾妹子乎去来見乃山乎高三香裳日本能不所見國遠見可聞。通説訳:我妹子をいざみの山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも。影印には「日本」の「本」が「大+十」と書かれていた。何故?
古代日本語「日本」。初出は万葉集(1/44)にあり、「やまと」と訳される。しかし原文表記は「日大十」。「大十」一字で「やまと」と読める。よって正訳は「ひ(の)やまと」だろう。おそらく、これが後の「ひのもと」読みの由来。漢字「本」が、後代の日本で「もと」訓される初源と推測できる。
「日何?」と問うて、「大十興国也」と解く。故に、わが国の名は「日本」と記され、解答者によって用例歌が作られた。古代日本における作歌は、本来、中国語を和化するための手段だった。7~9世紀、200年にわたる努力によって原初日本語は誕生し、平安時代以降、日本独自の文化を花開かせていく。
万葉集(1/44)原文:吾妹子乎去来見乃山乎高三香裳日本能不所見國遠見可聞。朱鳥6年(692)3月、持統天皇の伊勢行幸に際し従駕の石上麻呂が詠んだ歌だ。麻呂は、持統に「吾妹子」と親しく呼びかけている。二人は幼友達で兄妹のごとき関係があったのだろう。麻呂出世の隠れた要因と思われる。
万葉集(1/44)原文:吾妹子乎去来見乃山乎高三香裳日本能不所見國遠見可聞。わが妹子、いざ見し乃の山、高み香るも…。貴女も、いま見る山も、気高く優れた姿だけれども…と、麻呂は乎(感嘆)をこめて気持ちを表している。漢字「香」には「優れる」義があり、通説のごとき万葉仮名ではない。
万葉集(1/44)原文:吾妹子乎(中略)日本能不所見國遠見可聞。「本」は本来「大+十」で、古代中国からの逃亡者・徐市の尊称。この事実は中国に知られてはならず、次の「能不所見國」が語られる。つまり日本は、その実像を見られてならぬ国。だから「遠ざけて見せよと伝え聞く」と麻呂は言った。
(752) 『『古事記正解』 @Kojikiseikai(関根 聡)氏 の ツイート一覧 ⑥』
2011年8月30日(火)
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万葉集(1/44)の「遠見可」は、後の古事記や日本書紀の編纂方針とされた。古事記は敢えて正格の漢文を用いず、書紀は意図的に年代を誤魔化した。遡ること数百年、魏使の案内者は、豊予海峡の存在を隠し、瀬戸内海・大阪湾経由で投馬国(遠回国)へ。それが倭人伝の記述で、水行南距離の真相だ。
千兵衛万兵衛ある中で、一兵衛たぁ情けねぇなぁ半兵衛さん。わが高祖父の一兵衛爺さんは、岡っ引き出の警官。明治時代初頭、平塚で起きた農民騒動の取締りに行き、農民に同情して東奔西走し事を収めたとか。ふと思い出した名前の余談。わが名「聡」は、聖徳太子の名と稗田阿礼の形容に使われている。
万葉集の編者・大伴家持は、石上麻呂と縁が深い。天平宝字6年(762年)藤原良継(宿奈麻呂)・石上宅嗣と共に藤原仲麻呂暗殺計画を企てた。良継・宅嗣は麻呂の孫で、相模守・上総守の経験者。事件当時、宅嗣は上総守で、密議の席上、皆が東国話に興じた可能性は高い。東国は麻呂の出身地である。
大伴家持は、藤原良継・石上宅嗣と縁があった。二人は左大臣・石上麻呂の孫で、相模守・上総守の経験者。家持も宝亀五年(774)相模守、宝亀五年(774)上総守になる。麻呂は下総「高原」生まれの東国人。家持が麻呂に関心を持つのは当然だろう。東国歌・防人歌の集録も、この事情が背景にある。
万葉集(1/44)の「吾妹子乎」。国文学者は、枕詞だという。けれど「妹子」は、これが初出。漢字「妹」は、「親類や関わりをもつ同年か年下の女子」義があり、「乎」は感動詞だ。持統と眼前の山は、共に気高く優れた容姿で(吹聴したいところだが…)と麻呂は誉めたたえ、しかし…と次句を続ける。
万葉集(1/42~44)は、家持により日本の起源を記した作品が三部作で収録され、使われた一つ一つの漢字に、重要な意味が込められている。後代の枕詞解釈などは、無責任で馬鹿げた愚論。持統-麻呂の関係を、妹-兄的な関わりと観て、初めて歴史的解釈に道が開ける。作品(1/43)もしかり。
作品(1/43)は、「当麻真人麻呂妻作歌」とされる。左大臣・石上麻呂作(1/44)直前に「麻呂妻」の歌というのは見逃せない。麻呂の妻は、左大臣の妻なのに出自不明。この「当麻真人」は、本来は家持が記した注意書きの一部で、麻呂妻の出自を示していた可能性がある。ならば歌の内容も頷ける。
作品(1/43)原文「吾勢枯波何所行良武己津物隠乃山乎今日香越等六」。前半は麻呂について語り、後半は古事記と前歌(1/42)を受け「日」国の由来が記されている。冒頭、夫・麻呂を「勢枯(勢い枯れる)」という真意は?次歌(1/42)の時代背景を踏まえ、麻呂妻の立場を斟酌すべきだろう。
次歌(1/42)は、持統の伊勢行幸時、麻呂によって作られた歌。左注には、中納言三輪朝臣高市麿が「行幸反対」の重諌という歴史的事実が記されている。持統の抜擢を受け、異例の出世を果たしたものの、麻呂には多くの課題が山積。行幸の前、妻に憔悴した表情を見せていたに違いない。 そこで妻は…
作品(1/43)原文「吾勢枯波何所行良武己津物隠乃山乎今日香越等六」。麻呂妻は言う。少しお疲れですね、でも何処へ行こうと、貴方は立派で雄々しく、己を信じ物部の誇りを忘れずに。むかし五柱隠れし、かの山(高天原)を思い出しなさい。今も日国に優れし百越の同胞、六鹿たちがいるじゃないの。
左大臣・石上麻呂。その初出原文:天武天皇元年(672)七月辛亥《廿二》(中略)於是。大友皇子走無所入。乃還隱山前。以自縊焉。時左右大臣及群臣皆散亡。唯物部連麻呂。且一二舍人從之。壬申大乱の最後、大友皇子の自縊に、ただ一人付き添ったのが麻呂である。天武にとっては、敵対者だった。
天武天皇五年(676)十月甲辰《十》◆甲辰。以大乙上物部連麻呂爲大使。大乙中山背直百足爲小使。遣於新羅。大乙上は、19階位。現代の会社なら主任か班長程度の役職である。しかも5年前は近江軍の将兵で、天武と敵対していた。何故そんな麻呂が、遣新羅大使に?矛盾だらけの記事をどう解するか?
天武天皇五年(676)十月、石上麻呂は大使として新羅へ。翌11月、新羅水軍が錦江河口で唐の水軍を破り、6年にわたる羅唐戦争は新羅の歴史的勝利に終わった。麻呂の帰国は、翌年2月。この間、麻呂の果たした役割は何だったのか?時の新羅王が「文武」というのも、麻呂の事跡から考え興味深い。
(753) 『『古事記正解』 @Kojikiseikai(関根 聡)氏 の ツイート一覧 ⑦』
2011年8月30日(火)
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天武天皇十年(681)12月、石上麻呂は小錦下に昇階。7階級特進で、貴族入りする。遣新羅大使以来の事跡は不明だが、この間、新羅使人や遣高麗使人が毎年来朝しており、対新羅・高句麗地域との政治的交渉に、麻呂が深く関わったことが類推される。この時昇階した中に、柿本臣猿の名が見える。
天武天皇十三年(684)11月、大三輪君、阿倍臣、巨勢臣、波多臣、物部連、平群臣、中臣連など凡五十二氏に「朝臣」姓が与えられた。八色之姓による施策で、姓に優劣、待遇の差をつけ、天皇への忠誠の厚い氏(うじ)を優遇、皇室への権力掌握を図った。この時「石上」の名はない。しかし…。
朱鳥元年(686)9月28日、天武天皇の葬儀で、石上麻呂が誄言(しのびごと)を奉った。原文:直大參布勢朝臣御主人誄太政官事。次直廣參石上朝臣麻呂誄法官事。(以下省略)これが「石上朝臣麻呂」の初出で、麻呂は改姓と共に「朝臣」となり、次期持統政権を担う高官として朝廷内外に認知された。
石上麻呂の妻は、出自不明。しかし万葉集(1/43)により「当麻真人」の出と推定できる。「真人」は、八色之姓の最高位で、主に皇族に与えられた。麻呂は、685年頃に当麻真人から妻を娶り、古代政界における政治的基盤を固めていったのだろう。この事実は、これまで明らかにされていなかった。
石上麻呂による日本歌(万葉集1/43)は、持統六年(692)吉野行幸時に作られた。中納言三輪朝臣高市麿が冠位を捨て、中止を重諌した行幸だ。その時の留守官に「直廣參當麻眞人智徳」の名がある。この時期、他にも當麻廣麻呂、當麻櫻井、當麻國見など当麻一族の名が見え、麻呂妻との関りが匂う。
持統三年(689)9月、石上麻呂は筑紫に赴き、任官書を届け、新城を視察している。この年5月、天武葬儀の折、持統が新羅からの調賦と献物の受領を拒み、封印して送り返す事件があった。麻呂の筑紫行きは、この国際的な緊張と無縁ではあるまい。翌10月には、持統天皇自身が高安城に行幸している。
持統四年(690)正月、石上麻呂は持統天皇の即位式に大盾を持って参列。この時点で実質上、物部氏の氏長となったことが分かる。原文表記は「物部麿朝臣樹大盾」。再び「物部」姓が使われるが、名の表記は「麿」。この「麿」表記は、前年9月に「石上朝臣麿」として使われ始めた。テキストの誤植?
持統五年(691)8月13日、「大三輪。雀部。石上。藤原。石川。巨勢。膳部。春日。上毛野。大伴。紀伊。平群。羽田。阿倍。佐伯。釆女。穂積。阿曇」など十八氏に詔が出され、「其祖等墓記」を上進させた。この記事が意味すること、また十八氏の記載順位は、当時の歴史的状況を知る上で興味深い。
持統五年(691)9月4日、音博士大唐續守言と薩弘恪、書博士百濟末士善信に銀20両が贈られた。十八氏の「其祖等墓記」上進条と本条から、後に『日本書紀』となる正史編纂が本格化したことが分かる。この歴史的事実は、森博達著『日本書紀の謎を解く』(中公新書1999)が明らかにしている。
木戸孝允は、西郷隆盛・大久保利通とともに「維新の三傑」として並び称せられる。彼には多くの名があった。和田小五郎、桂小五郎、木戸貫冶、木戸準一郎、木戸孝允。また幕末には、新堀松輔、広戸孝助など10種以上の変名を使用した。この歴史的事実は、書き残された故、現在に伝わっている。
石上麻呂には、複数の名があった。物部連麻呂、石上朝臣麻呂、石上朝臣麿、物部麿朝臣。この歴史的事実は、後代に記され分かっている。問題は、物部連麻呂以前、彼は何と呼ばれたのか?その事実は、現在のところ誰も記さず、左大臣の前半生は時の流れに消え去ったままだ。その発掘は可能だろうか?
歴史とは何か?一言でいえば「記された過去」(原義)である。また「物事の流れ」(広義)として慣用される。いずれにも視野は、過去を向く。現在の歴史や未来の歴史は、語義的に成り立たない。歴史の研究とは、過去の事実関係を調べ、それらを合理的に解釈し整合的に関係づけ、明解に説明することだ。
日本書紀/持統十年(696)十月庚寅(22日)。假賜正廣參位右大臣丹比眞人資人一百廿人。正廣肆大納言阿倍朝臣御主人。大伴宿禰御行並八十人。直廣壹石上朝臣麿。直廣貳藤原朝臣不比等並五十人。…この時、初めて麻呂と不比等が名を連ねる。この後、麻呂の昇階に追随し、不比等も出世していく。
(754) 『『古事記正解』 @Kojikiseikai(関根 聡)氏 の ツイート一覧 ⑧』
2011年8月30日(火)
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日本書紀の不比等記述は、持統三年(689)二月己酉条「藤原朝臣史」と持統十年(696)十月庚寅条「直廣貳藤原朝臣不比等」の2回。事跡は全く記されていない。藤原不比等は、石上麻呂の昇階に追随して出世、その関係は二人が死ぬまで変わらない。不比等は、明らかに麻呂の副官的存在だった。
左大臣・石上麻呂と右大臣・藤原不比等。古代「日本」の礎は、この二人、特に麻呂によって築かれた。壬申大乱前後から、6代の天皇に仕え、重要な事績を残した麻呂。現在、不比等の事績といわれることは、ほとんど麻呂によるものといえる。後に桓武朝を興した藤原良継も、麻呂と不比等の孫である。
本朝上古の事を記せし書をみるには、其義を語言の間に求めて、其記せし所の文字に拘はるべからず。上古の代に、今の文字というものはあらず。…新井白石(1657-1725)は、『古史通』読法の冒頭で、史書の見方を分析している。記された一字一字の文字には拘るな…この主張は正しいだろうか?
史書を読む時「其義を語言の間に求めよ」と白石はいう。これは正しい。しかし「其記せし所の文字に拘はるべからず」は間違い。「上古の代に、今の文字というものはあらず」は視野が狭い。古代には古代の文字があり、史家は、字義により文章を表記、人は、字義により名を語った。故、一字に拘わるべし。
藤原宇合(694-737)は、奈良時代の公卿。右大臣・藤原不比等の三男で藤原式家の祖。名「うまかい」読みは、初名の「馬養」による。 漢字「宇」は、宇梅の「宇」で、家や庇の語義がある。左大臣・石上麻呂の娘・国盛を娶り、馬養は「宇合」に改名。左右大臣の家が合わさったからである。
古事記原文「高天原」には【訓高下天云阿麻下效此】と注がある。「天」とは「阿麻(中臣の異名)」で宇大臣・不比等を示唆。また「高原」は物部氏の居住地で、左大臣・石上麻呂の出身地。つまり日本語「高天原」は、本来地名ではなく、麻呂と不比等の連帯を表す政治的用語だった。古代の造語である。
太安万侶(? - 723)は、平城時代の文官で、古事記の編纂者。名は安萬侶、安麻呂とも記される。漢字「安」には「仕える」義があり、「麻呂に仕える」と解せる。平城遷都時、留守居として藤原宮に残った左大臣・石上麻呂に仕え、史書『古事記』を編纂した。内容から考え、物部氏の野史である。
持統天皇(645-703)は、第41代天皇。和風諡号は2つある。火葬(703)時の「大倭根子天之廣野日女尊」。『日本書紀』(720年)に代々の天皇とともに諡された「高天原廣野姫天皇」。後者は、太安麻呂が麻呂-不比等政権を示唆すべく創案、古事記や日本書紀の記述に地名として使われた。
養老年間(717-724)は、左大臣・石上麻呂の発病に始まり、太安麻呂の死をもって終わる。当時の天皇は、元正天皇。この女帝と麻呂・安麻呂の関係は、日本語の成立、書記史的にも興味深い。右大臣・藤原不比等の死(720)は影が薄く、元号も変わらなかった。この歴史的事実は見逃せない。
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『石上麻呂の発病に始まり、太安麻呂の死をもって終わる。元正天皇と麻呂・安麻呂の関係は、日本語の成立、書記史的にも興味深い。藤原不比等の死(720)は影が薄かった』由、『続日本紀』に記載無い713年の遣唐使派遣で、不比等を調べていると貴方の呟きに遭遇しました。私のブログ〔倭国の遺跡スポットを訪ねてみよう〕に勝手に引用中ですが、どうかお許しください。
であれば、続日本紀『700年〔文武4年〕10月15日、直大壱〔正四位上相当〕の石上朝臣麻呂を筑紫総領に任じた』は誰が飛ばしたか。RT @Kojikiseikai 藤原不比等は石上麻呂の昇階に追随して出世、その関係は二人が死ぬまで変わらない。不比等は明らかに麻呂の副官的存在だった。
『不比等は明らかに麻呂の副官的存在だった』とおっしゃるが、若しそうであれば『続日本紀』【700年〔文武4年〕10月15日、直大壱の石上朝臣麻呂を筑紫総領に任じた】は誰が飛ばしたか、というか一時避難させたのかであり、その時誰がイニシアチブを握っていたのかなのでしょうね。RT @Kojikiseikai
(755) 『『古事記正解』 @Kojikiseikai(関根 聡)氏 の ツイート一覧 ⑨』
2011年8月30日(火)
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石動山天平寺は、天皇家の勅願所。最盛期には北陸七カ国に勧進地をもち、院坊360余り、衆徒約3,000人の規模を誇った。権現信仰の名の元、人々から知識米を徴収しつつ、朝廷のため各地の情報を収集した。本来宗教組織ではなく、政治的な情報機関である。故に信仰的基盤は薄く、政変に弱かった
古事記の成立は和銅5年(712)。原本は現存しない。最古の写本は、真福寺本(1372)。一般的な古事記の祖本は、卜部兼永本(1522)で、その流布には宣長本(1803)が決定的な役割を果たした。現在の刊行本は、99.9%以上、宣長本が元本といえる。問題は、それが贋作ということ…。
道果本古事記(1380)。僧・道果が、真福寺本(1372)と、その元本の校勘を試み、神代七代の処で挫折した。上巻途中まで、神名等にフリガナが記され、神代七代までは句読点がある。句読点・フリガナは、道果の発明ではない。故、それらは元本に記されていて、道果が正しいと認めたものだろう。
真福寺本古事記(1372)。30を超える写本中、唯一、句読点・フリガナがない。道果本(1380)の分析により、真福寺本の元本には、句読点・フリガナがあったことが分かる。僧・信瑜は、弟子・賢瑜に命じ、意図的に読点・フリガナを外した写本を作らせた。しかも自ら校正している。何故だろう?
真福寺本古事記(1372)は、古事記原本の復元を目指した。僧・信瑜は、伝来の古事記解釈に疑問を持ち、弟子・賢瑜に句読点・フリガナを外した写本を作成、自ら校正している。古事記成立の時代、句読点・フリガナはなかった。伝承と受容の結果、古事記には誤読や改竄が目立っていたに違いない。
古事記の校勘をおこなうには、真福寺本と兼永本との2冊があれば十分…西田長男(『卜部兼永本古事記』解説)。この主張は、ほぼ正しく、学会の常識となっている。ただし古事記研究の目的は、校勘ではない。いくら厳密に校勘しても、その結果、解釈を間違えれば悲劇的な研究成果になる。実際には?
古事記研究は、すべて宣長の研究にささえられている。宣長の研究法を踏襲する限り、宣長を越える事は困難である…小野田光雄『古事記釋日本紀風土記ノ文獻學的研究』。これは名言だ。これまで宣長を越えた学者はおらず、ほとんどの研究家が、宣長の贋作古事記を元に屋上架屋的な論考を繰り返してきた。
高天の原:宮崎駿の描いた『天空の城ラピュタ』のイメージか…三浦佑之『口語訳古事記[完全版]』注。この一文が、作者の感性を物語る。まさに宣長モドキの身勝手解釈で、基礎研究の欠落と歴史観の欠如を示している。流行作家としては一流だが、研究者としては最低。古事記曲解の極め付きと言える。
太(フトノ)朝臣安萬呂…神宮古典籍影印叢刊『春瑜本古事記』序。春瑜本(1426)は、真福寺本と同じ伊勢本系の写本。太朝臣の「フトノ」訓は、真福寺本の「太八嶋」「太雀」表記との関連で興味深い。いくつか島が集まって太八嶋に。大雀の周りに小雀が集まって太雀に。安麻呂も多氏から太氏に。
大雀・大集・太雀…『真福寺本古事記』下巻の表記。聖帝・仁徳を「大雀(でかい小鳥)」と揶揄。序でも、敬称をつけず呼び捨てに。古事記は、勅撰の史書とは考え難い。従来、真福寺本は誤字・脱字が多いとされ、兼永本系の記述が尊重されてきた。しかし真福寺本にこそ、歴史的事実が描かれている。
古代日本、漢字「太」には特別な字義があったらしい。古事記に聖帝・仁徳は「大雀(でかい小鳥)」だったが、人材を集め、「太雀(フト小鳥)」になったとある。編纂者の安麻呂は多氏出身だが「太朝臣」を名乗っている。「太夫」として出世した自負に加え、裕福になって肥満体になったのかもしれない。
日本書紀:本来は『日本書』で、巻30を除く大部分は、平城遷都(710)以前に二人の中国人(續守言。薩弘恪)等によって述作済だった。その本質は、本土・中国を意識した外交的文書であり、同時に脱・古事記を企図する専制的天皇論を軸に内政的な記述(後代の改竄を含む)によって編纂されている。
古事記:上代日本「天(ヤマ)」の興亡記。その本質は等族的政治思想に基づく非専制的王権論で、古代日本の律令制度をつくった政治理念が物語的に語られている。左大臣・石上麻呂(物部氏)の立場から臣下の本音が記され、推古以下は省略。伝紀体(列伝+本紀)という独特な記述法で編纂されている。
(756) 『『古事記正解』 @Kojikiseikai(関根 聡)氏 の ツイート一覧 ⑩』
2011年8月30日(火)
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万葉集:その名が示すごとく、古代日本の文章資料集。メモ書きや随想的記述、後代の和歌に続く古歌など、内容は様々。編纂者は、大伴家持で、左大臣・石上麻呂の孫たち(藤原良嗣・石上宅嗣)との交流と相模守就任を機に編集された。編集内容に、言挙(歴史的事実の暴露)と反朝廷的感覚が散見できる。
風土記:元明天皇の詔によって編纂が命じられた地方史。現在、常陸国、播磨国、肥前国、豊後国、出雲国の5冊のみ伝わっている。常陸国風土記は、藤原宇合(左大臣・石上麻呂の義子)による編纂で、古事記との縁が深い。その事実は「高天原」記述が示唆する。東国は、古事記誕生の源だから当然だろう。
竹取物語:日本初のSF的政治小説。かぐや姫のモデルは氷高皇女(後の元正天皇)で、古事記(燕の子安貝)と日本書(蓬莱の玉枝)の成立、仏法(仏の御石鉢)や律令(火鼠の裘)、古神道(龍首の珠)との関わりが喜劇的に描かれている。作者は月の軍に、自分と長屋王・藤原広嗣などの思いを託した。
日本の礎は、8世紀初頭、左大臣・石上麻呂と右大臣・藤原不比等によって作られた。その志は、紆余曲折の末、藤原宇合・良継親子(麻呂の義子・孫)に引継がれ、後に桓武朝が興された。麻呂ゆかりの地は下総。不比等の母は上野生まれ。二人共、東国に縁が深い。様々な事績も、その事実を示している。
多胡碑:日本三大古碑の一つで、建碑は8世紀末。「石上尊、藤原尊」の名で、麻呂と不比等の事績を刻んでいる。碑文中の「羊」は、物部系の防人で、車持君と縁を結び、多胡郡の統治を任された。その事実は、日本書紀の和銅四年(711)3月6日条と古事記序(712)「君羊」記述に残されている
日本語・羊の「ひつじ」訓は、「日辻」による。日の沈みゆく道を集団で小走りに進む防人たちが「羊」に喩えられたのだろう。事実、万葉集に防人「若麻続部羊」の名がある。「羊何?」答えて「日辻ゆく防人なり。集まりて、足早に進む。故に、ヒツジと訓む」。古代、謎謎は、日本語づくりの手法だった。
続日本紀原文:文武四年(700)十月己未《十五》◆己未。以直大壹石上朝臣麻呂。爲筑紫総領。直廣參小野朝臣毛野爲大貳。直廣參波多朝臣牟後閇爲周防総領。直廣參上毛野朝臣小足爲吉備総領。直廣參百濟王遠寶爲常陸守。これが、続日本紀における麻呂の初出。この条考察の前に、少し歴史を振り返る。
文武元年(697)八月甲子朔◆元年八月甲子朔。受禪即位…続日本紀の第一条。8月1日持統天皇が即位。重要なのは、次の8月17日条で「高天原」「大八嶋」と天皇家の関係が、宣命によって語られている。これは明らかに古事記による記述である。日本書紀には、この宣命が描く歴史は記されていない。
文武元年(697)8月20日◆癸未。以藤原朝臣宮子娘爲夫人。不比等の娘・宮子が文武天皇に嫁いだ。この事実が、歴史上、後に重要な役割を果たしたことは言うまでもない。10年後、高天原(麻呂-不比等)政権を築く大きな力となる。すでに麻呂も当麻真人家から妻を娶り、皇族と縁を結んでいた。
石上麻呂と藤原不比等。不比等は、常に麻呂の後を追って昇階し、麻呂の副官として力を発揮した。その関係は二人が死ぬまで変わらない。この歴史的事実は、これまで見逃されてきた。戦前の不比等=国賊説から、戦後は反動的に不比等の事績が過大評価された。学説にも流行があり、佑ゆく学者は流される。
文武二年(698)8月19日条◆丙午。詔曰。藤原朝臣所賜之姓。宜令其子不比等承之。但意美麻呂等者。縁供神事。宜復舊姓焉。中臣鎌足が賜った姓「藤原」は、不比等のみが受け継ぐ。その特化が、宮子婚姻によることは間違いない。すでに麻呂も「石上」姓を賜り、物部一族の中で特別な地位にあった。
文武三年(699)5月24日条◆丁丑。役君小角流于伊豆嶋。初小角住於葛木山。以咒術稱。外從五位下韓國連廣足師焉。有名な役君小角配流の記事である。韓國連廣足は、天平三年(731)1月27日に外從五位下を授けられている。この解釈次第で、小角と廣足の関係が異なってくる。意味深の記事だ。
参照:延暦九年(790)11月10日条◆壬申。外從五位下韓國連源等言。源等是物部大連等之苗裔也。夫物部連等。各因居地行事。別爲百八十氏。是以。源等先祖塩兒。以父祖奉使國名。故改物部連。爲韓國連。然則大連苗裔。(中略)因地賜姓。古今通典。伏望。改韓國二字。蒙賜高原。依請許之。
2011.09.04 08:23
(772) 『『古事記正解』 @Kojikiseikai(関根 聡)氏 の ツイート一覧 ⑪』
2011年9月13日(火)
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90年後に記された条により、石上朝臣と韓國連は同族だったことが分かる。この延暦九年(790)11月10日条は、物部大連の居住地が「高原」だったことを伝えるなど非常に重要。また後の左大臣・石上麻呂と、役君小角、源等先祖塩兒との関係を歴史的に示唆。古代史の闇に一条の光を当てている。
参照:天武天皇元年(672)7月23日条◆壬子。(中略)大友皇子走無所入。乃還隱山前。以自縊焉。時左右大臣及群臣皆散亡。唯物部連麻呂。(中略)近江將壹伎史韓國之師也。財等自高安城降。(中略)是時。河内國司守來目臣塩篭有歸於不破宮之情。以集軍衆。爰韓國到之。密聞其謀而將殺塩篭。
文武二年(698)5月25日大宰府に命じ大野・基肄・鞠智の三城を修繕。8月20日高安城を修理。12月21日越後國石船柵を修理。文武三年(699)9月15日再び高安城を修理。さらに20日、身分に応じ「弓矢甲桙及兵馬」を備えよと勅令が出されている。文武年間初頭は、政情不安だったのか?
大宝元年(701)8月3日条◆癸夘。遣三品刑部親王。正三位藤原朝臣不比等。從四位下下毛野朝臣古麻呂。從五位下伊吉連博徳。伊余部連馬養撰定律令。於是始成。大略以淨御原朝庭爲准正。仍賜祿有差。不比等等によって、この日大宝律令が制定された。不比等の内政関与を示す重要な記事である。
大宝元年(701)8月26日条◆丙寅。廢高安城。其舍屋雜儲物。移貯于大倭。河内二國。令諸國加差衛士配衛門府焉。高安城は、白村江戦(663)で敗れた朝廷が、唐・新羅の侵攻に備えて築いた山城。文武年間に2度修理した後、わずか2年で廃城に。同時に諸国から兵を衛門府に召集した。何故?
大宝年間、麻呂と不比等は高天原政権の基礎固めを開始した。麻呂は外交ならび軍事を担当、不比等は法整備や産業育成等の内政を担当した。高安城の廃城は、外敵から内敵への対策変更だ。山城の施設や兵器を大倭・河内二國に移し、そこを諸国の兵が守る。つまり麻呂の敵は、大倭・河内にいたことになる。
文武四年(700)10月15日条◆己未。以直大壹石上朝臣麻呂。爲筑紫総領。直廣參小野朝臣毛野爲大貳。直廣參波多朝臣牟後閇爲周防総領。直廣參上毛野朝臣小足爲吉備総領。直廣參百濟王遠寶爲常陸守。前掲した続日本紀における麻呂の初出。よく見ると、これも内敵対策への布石だったことが分かる。
筑紫総領・石上麻呂の副官は、小野毛野。妹子の孫で、子孫に武蔵七党横山氏がいる。周防総領は、波多牟後閇で波多氏(相模)の出。吉備総領は、上毛野小足で毛野国の豪族出身。常陸守は、百濟王で麻呂が庇護した人物。文武期、古代日本の軍事拠点は、東国関係者によって掌握されていたのである。
唐が攻めてくる---と噂を流して軍備を増強、東国の将兵で軍事拠点を掌握。それは古来、防人の役割だから、何の疑いもかけられない。また王都の防備強化に、2年かけて高安城を修復---と見せかけ、大倭・河内制圧のための軍事物資を高安山中に隠す。そして蜂起。これは明らかにクーデターだ。
文武四年(700)11月21日条◆乙未。天下盜賊往々而在往遣使逐捕。外的対策を名目に、軍事拠点を東国勢力で掌握した麻呂は、国内の敵対勢力を「天下盜賊」として逮捕。文武二年(698)5月25日に備えさせた「弓矢甲桙及兵馬」を没収。敵対勢力の無力化を謀り、高安城廃城策の準備を進めた。
大宝元年(701)3月21日条◆甲午(中略)中納言直大壹石上朝臣麻呂。直廣壹藤原朝臣不比等正正三位。(中略)中納言正正三位石上朝臣麻呂。藤原朝臣不比等。正從三位紀朝臣麻呂。並爲大納言。▼是日罷中納言官。麻呂と不比等は、突如、中納言として登場。階位を正三位に上げ、大納言に昇進する。
「中納言」表記は、歴史的に意味深だ。日本書紀には一例のみ。原文:持統六年(692)2月19日条◆乙卯。(中略)是日中納言直大貳三輪朝臣高市麿上表敢直言。諌爭天皇欲幸伊勢妨於農時。持統行幸に中納言・高市麿が反対。この時、同行の麻呂は「日本歌」(万葉集1/44)を残している。
(773) 『『古事記正解』 @Kojikiseikai(関根 聡)氏 の ツイート一覧 ⑫』
2011年9月13日(火)
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続日本紀の「中納言」初出は「中納言直大壹石上朝臣麻呂」表記。麻呂は、不比等と共に階位を上げ、大納言に。二人が、いつ中納言になったのかは不明。ところが大納言になった途端、その日の内に中納言は廃止される。法に則り、二人三脚的に法外な出世を遂げる二人。不比等の内政的な暗躍が感じられる。
日本初の政治小説『竹取物語』には、石上麻呂が「中納言・石上まろたり」として登場する。記録上、麻呂が中納言だったのは大宝元年(701)3月21日のみ。作者は、この日に焦点を当て麻呂を描いた。中納言革命で政権(屋根)を掌握したが、掴んだのは古事記(古糞)で「甲斐なし」と揶揄している。
大宝元年(701)8月3日条◆癸夘。遣三品刑部親王。正三位藤原朝臣不比等。從四位下下毛野朝臣古麻呂。從五位下伊吉連博徳。伊余部連馬養撰定律令。於是始成。いわゆる大宝律令が完成。しかし半年前には、新法を適用。麻呂と不比等は、実質上、古代政権を担う地位を一日で獲得していた。何故か?
古今東西、為政者の最重要課題は軍事力の強化と統帥権の掌握である。綺麗ごとを言っても、武力のない政権など絵に描いた餅。不比等による律令制定と官位的画策は、麻呂の持つ軍事力に支えられていたのである。麻呂あっての不比等であり、二人の事績は決して切り離せない。この事実を、再度確認しよう。
石上麻呂の戦略は巧妙だ。①文武二年(698)5月大野・基肄・鞠智の三城を修治。②8月高安城を修理。③12月越後石船柵を修理。④文武三年(699)5月小角配流。⑤9月高安城を修理。⑥12月三野・稻積の二城修治。⑦文武四年(700)2月越後・佐渡に石船柵を造営。これらは何故?意図は?
外敵襲来の恐れがある。国内にも内応の動きが…故⑧文武四年(700)2月27日皇族・臣下や機内に、重ねて武器を備えるよう勅令。麻呂の軍事的画策を陰で不比等が支えた。持統八年(694)に任命した巡察使を、文武三年(699)3月畿内、また10月諸国に送り、敵対勢力の動向を監視している。
巡察使:初出は日本書紀の持統八年(694)7月4日条。また天武天皇十四年(685)9月15日条に「巡察國司」の記述がある。この二つを同一視するのは疑問。ただ巡察使の活躍は中納言革命前後、制度化されるのは和銅五年(712)5月17日、古事記完成直後である。石上麻呂との関わりが匂う。
文武四年(700)10月15日条◆己未。以直大壹石上朝臣麻呂。爲筑紫総領。直廣參小野朝臣毛野爲大貳。直廣參波多朝臣牟後閇爲周防総領。直廣參上毛野朝臣小足爲吉備総領。直廣參百濟王遠寶爲常陸守。⑨外敵対策を名目に、石上麻呂が軍事拠点に同胞の東国将兵を配置、軍事的実権を手中にする。
小野朝臣毛野:筑紫総領・石上麻呂の副官。その名が東国人であることを示す。有名な小野妹子の孫で、父は毛人。後代、武蔵七党の筆頭の横山氏(猪俣氏)は、毛野の曾孫・篁の末裔を称し、横山氏(猪俣氏)の一族で、新田氏と自称した由良氏(横瀬氏)も小野を本姓としている。麻呂と縁が深い。
波多朝臣牟後閇:周防総領(700)として石上麻呂に仕え、翌年、造藥師寺司(701)となる。姓が示すごとく東国(相模)の出身。同族の廣足も遣新羅大使(703)に。その後、安麻呂(734)を名乗る子孫もおり、麻呂と縁が深い。造藥師寺司の役割は?歴史的・軍事的に考察せねばならない。
上毛野朝臣小足:吉備総領(700)。陸奥守(708)。上野国造の子孫。同族の男足が下総守(703)、安麻呂が上総守(708)を務め、廣人は石上豊庭(麻呂の嫡子)が右將軍時に副将軍(714)。麻呂薨に際し、太政官の誄をしている(717)。麻呂との縁は極めて深く、麻呂の出自を物語る。
防人:日本語「さきもり」訓は、万葉集「佐伎毛利」(14/3371)による。漢字「左」には「東」義があり、故「佐伎」は「東国人の男」の意味。「毛利」は古来、神奈川県厚木市付近の地名であり、万葉集の用例も、家持(相模守経験者)と東歌・防人等に限られる。「毛利」は、防人達の故郷を示す。
白村江戦の大敗(663)で、西国の軍事力は衰退、国防は東国の防人たちが担うことに。天武-持統政権下、その東国勢力を束ね、文武期に掌握したのが石上麻呂である。文武四年(700)10月15日には、軍事拠点を東国勢で独占。中納言革命(701)さらに高天原政権樹立(708)の礎を固めた。
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2011年9月13日(火)
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高天原:左大臣・石上麻呂の出身地「高原」(下総)と、右大臣・藤原不比等(中臣)の異名「天」を組合わせた造語。太安麻呂が、持統天皇の諡号「高天原広野姫」として考案、古事記の記述では神話的地名として用いられた。古代の政治用語である。本来、地名ではなく、故に歴史的な用例は一例もない。
古代語「高原」:続日本紀延暦九年(790)11月10日条◆壬申。外從五位下韓國連源等言。源等是物部大連等之苗裔也。(中略)源等先祖塩兒。以父祖奉使國名。故改物部連。爲韓國連。(中略)因地賜姓。古今通典。伏望。改韓國二字。蒙賜高原。依請許之。この記により、物部大連の居住地と分かる。
古代語「天」:源俊頼『源俊髄脳』(1111頃)という歌論に、「よろずの名に、みな異名あり」とされ、最初の例として「天 なかとみ といふ」と記されている。平安時代には、平城時代の試行錯誤を経て、カタカナ・ひらがなが発明された。日本語の由来や、言葉の活用法にも関心が深まったのだろう。
文武四年(700)11月21日条◆乙未。天下盜賊往々而在往遣使逐捕。⑩石上麻呂は、巡察使の報告に基づき、敵対する邪魔者を「盜賊」の汚名を着せ逐捕し兵馬・兵器を没収。敵対勢力の弱体化と軍備の調達を、勅令によって実行した。すでに軍事拠点は東国勢で固められ、抵抗勢力は為す術もなかった。
大宝元年(701)3月21日条◆甲午。(中略)中納言直大壹石上朝臣麻呂。直廣壹藤原朝臣不比等正正三位。(中略)中納言正正三位石上朝臣麻呂。藤原朝臣不比等。正從三位紀朝臣麻呂。並爲大納言。是日罷中納言官。⑪麻呂と不比等は、突如、中納言で登場、この日一日で階位を挙げ大納言になった。
中納言:日本書紀では、一例のみ。持統六年(692)2月19日中納言・三輪朝臣高市麿が持統天皇の伊勢行幸中止を直言。翌3月3日冠位をかけ重諌した。この時同行の麻呂は、万葉集に「日本歌」を残す。続日本紀の初出は、大宝元年(701)3月21日条で、その日の内に廃止…。意味深な冠位だ。
大宝元年(701)3月21日条は、8世紀日本における重大な政変劇を示唆している。石上麻呂と藤原不比等、彼らを支える東国勢力による古代政権の奪取である。後の高天原政権樹立の幕開けだった。「中納言」は、その過程でも重要な役割を果たす。故に3月21日の政変を「中納言革命」と名付けたい。
大宝元年(701)6月11日条◆壬子。以正五位上波多朝臣牟胡閇。從五位上許曾倍朝臣陽麻呂。任造藥師寺司。軍備の整備と兵站の確保は、軍事戦略における重要課題で、いわば車の両輪。同時に敵の兵力や動向を探り、敵地の地勢を知る必要がある。薬師寺の造営も、明らかに軍事戦術の一つだった。
石上麻呂は、天武-持統期に外交官として出世。文武期、外敵対策を名目に東国勢力を束ね、大きな軍事力を掌握した。8世紀初頭、盟友・不比等と共に内政の完全掌握を目指し、大倭・河内二國を中心とする内敵の撲滅に取り組む。波多朝臣牟胡閇による薬師寺の造営策は、その第一歩。敵は、藤原に在り…。
波多朝臣牟後閇は、周防総領(700)で、東国(相模)の出身。造藥師寺司(701)を兼務し、寺の造営を名目に、東国の将兵を藤原の地に引き込んだ。同時に物資の調達をしながら、藤原古京の地勢を軍事的に分析し、敵対者と内応者を選別した。もと歴戦の将・石上麻呂らしい緻密な軍事戦術である。
大宝元年(701)7月21日条◆壬辰(中略)是日。左大臣正二位多治比眞人嶋薨。…臣下のトップ左大臣が薨死。葬儀は、波多朝臣廣足が準備し、刑部親王と石上朝臣麻呂が弔った。百官之誄は、貴族でもない下毛野朝臣石代が担当した。古代の葬儀は、後継者紹介の場でもあるが、東国勢の名が目立つ。
参照:大宝元年(701)7月21日条◆壬辰。(中略)是日。左大臣正二位多治比眞人嶋薨。詔遣右少弁從五位下波多朝臣廣足。治部少輔從五位下大宅朝臣金弓。監護喪事。又遣三品刑部親王。正三位石上朝臣麻呂。就第弔賻之。正五位下路眞人大人爲公卿之誄。從七位下下毛野朝臣石代爲百官之誄。
大宝元年(701)8月3日条◆癸夘。遣三品刑部親王。正三位藤原朝臣不比等。從四位下下毛野朝臣古麻呂。從五位下伊吉連博徳。伊余部連馬養撰定律令。於是始成。大略以淨御原朝庭爲准正。仍賜祿有差。…大宝律令が完成し、4人の貴族が賜祿されているが、すべて大倭・河内以外の出身者。何故だろう?
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ここで、大宝律令公布の過程を見てみよう。大宝二年(702)2月1日条◆始頒新律於天下。7月10日条◆詔。令内外文武官讀習新令。7月30日条◆始講律。10月14日条◆頒下律令于天下諸國。条記された新令の読習、新律の講義は、誰が責任者で、誰が実施したのか?答は続日本紀に記されている。
参照:大宝三年(703)2月15日条◆二月丁未。詔。從四位下下毛野朝臣古麻呂等四人。預定律令。宜議功賞。於是。古麻呂及從五位下伊吉連博徳。並賜田十町封五十戸。贈正五位上調忌寸老人之男。田十町封百戸。從五位下伊余部連馬養之男。田六町封百戸。其封戸止身。田傳一世。
大宝律令公布の責任者は、下毛野朝臣古麻呂であり、伊吉連博徳・調忌寸老人・伊余部連馬養が実務に関与。特に調忌寸老人は、大宝元年(701)8月21日「預撰律令」の功で、ただ一人昇階している。公布にともなう実務の担当責任者として、新令の読習、新律の講義等の実施企画を任されたのだろう。
大宝元年(701)8月26日条◆丙寅。廢高安城。其舍屋雜儲物。移貯于大倭。河内二國。令諸國加差衛士配衛門府焉。…2年かけて修理した国防の要・高安城を廃棄。兵舎等を大倭・河内に移築し、衛門府(宮門を守衛)に諸國の衛士を配した。文面は穏やかだが、この事態は明らかにクーデターである。
8世紀初頭、石上麻呂と藤原不比等は、軍事・内政の両面から巧みな戦略を用い政権を奪取した。麻呂は外敵対策を名目に軍事拠点に東国将兵を配し、不比等は大宝律令の編纂を利用して東国官僚を朝廷内に引き込んだ。そして大宝元年(701)8月26日、東国勢による無血クーデターを実現したのである。
歴史:直義は、記された過去のこと。広義では、事象の流れとして慣用される。記は人技ゆえに、間違いや勘違い、往々にして嘘もある。もちろん事実も記されるから、それを見極めて、様々な記録を論理的・整合的に紡ぎ上げ、論述するのが歴史学である。その意味で、古事記は、日本最古の歴史書と言える。
石上朝臣麻呂:正体不明の左大臣。黒岩重吾は『闇の左大臣』と題し、その生涯を描いた。壬申大乱の最後、大友皇子の自縊を看取り、わずか4年後に天武朝の遣新羅大使となる。以後、歴代の天皇に仕え、臣下のトップ・左大臣に。いま日本書紀と続日本紀を詳細に分析すると、新たな麻呂像が見えてくる。
桂小五郎:尊王攘夷派の中心人物で、後の木戸孝允。幼名は、和田小五郎。木戸貫冶、木戸準一郎とも言い、命を狙われた幕末期には、新堀松輔、広戸孝助など10種以上の変名を使用した。この事実は記されて残ったが、今では知らぬ人が多い。もし記されなければ、歴史の闇に消えてしまったに違いない。
日本書紀 天武天皇元年(672)7月23日条◆壬子。男依等斬近江將犬養連五十君及谷直塩手於粟津市。於是。大友皇子走無所入。乃還隱山前。以自縊焉。時左右大臣及群臣皆散亡。唯物部連麻呂。且一二舍人從之。…これが後の左大臣・石上麻呂の初出。唐突に「物部連麻呂」と記され、補注等はない。
壬申の乱は、大海人皇子と大友皇子の戦い。その結末は、天武元年(672)7月23日条に「於是。大友皇子走無所入。乃還隱山前。以自縊焉。時左右大臣及群臣皆散亡。唯物部連麻呂。且一二舍人從之」と描かれる。逃げ場所を失い、山前に隠れ自縊。極めて短い。問題は、この後に記された内容である。
天武元年(672)7月23日条は、実に奇妙。大友皇子の自縊を極簡単に記した後、なぜか緒戦から戦いを振り返り、近江將壹伎史韓國について詳細に記す。そのポイントは「韓國離軍獨逃也」。皇子の自縊を見届けた近江軍の臣は、ただ一人・物部連麻呂こと、後の左大臣・石上麻呂だった。これは偶然?
結論から言えば、物部連麻呂こと石上麻呂、そして壹伎史韓國は、同一人物である。元々日本書紀草稿には、その施注があったに違いない。その関係は、桂小五郎と木戸孝允、そして新堀松輔に比定できる。壹伎史韓國名には、その素性を明かせぬ歴史的事実が隠されている。その訳も書紀記述の中にあった。
左大臣・石上麻呂は、物部氏なのか?答は、二重の意味でイエス、そしてノーである。まず左大臣の在任中、朝政に携わった物部姓の官僚が一人もいない。経歴を見ても、ほとんど物部色がない。その理由は、麻呂の出自と育った環境にあった。麻呂は、物部氏系の生まれだが、育てたのは他氏だったのである。
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