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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 045 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(791) 『『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その1)』 2011年10月1日(土)


先に上げたここのブログ
【2011年9月18日(日)
大和朝廷の生い立ちから倭国滅亡迄の歴史的経緯の想定年表】

を振り返ろう。


■■■■





 以下が「その順路のあらすじ」である。

※別紙
『 「倭国」の「大宰府主都」 : 「難波副都」対比年表 .html版 』『 同 .pdf版 』
と、併せて参照方お願いします。


《歴史的経緯の説明》

①九州王朝「倭国」はある時期(たぶん「倭王武」477年頃)全国征伐し茨城県以西を間接付属王国支配。

②隋書俀国伝に隋使が「倭国」を訪れ朝命を伝え目的を達した後、更に東へ倭の付属国「秦王国」を訪問。

③東へ倭に付属「秦王国」を訪れているのに、『書紀』には記載が無い。たぶん「日本国」へ書きかえた。

④九州王朝「倭国」が緊迫のアジア情勢から難波副都建設し天下立評。同時に倭国の分王家が常駐開始。

⑤倭国と秦王国からの遣使団が唐朝内で鉢合せ、付属秦王国の遣使を難詰し喧嘩。唐朝が両国使監禁。

⑥洲柔・白村江敗戦662年で唐が白鳳倭王を拘束・連行。これをネタに大宰府開城、筑紫島が被占領。

⑦白村江敗戦を知った難波副都守備隊が長門以東を防衛。天智天皇遷都即位、秦国接収、日本国独立。

⑧白鳳倭王薩夜麻が解放帰国。難波副都の大海人皇子の協力で倭国再統合戦の壬申乱を戦勝、復位。

⑨壬申乱戦勝は難波副都の大海人皇子の協力甚大「真人」位賜る。白鳳王崩御后、朱雀王に即位。

⑩筑紫倭王家の近畿遷都、白鳳王・朱雀王崩御后、高市天皇即位。大化改新に不満の軽皇太子が暗殺。

⑪難波副都の軽皇太子、筑紫倭王家の高市天皇暗殺后、文武天皇に即位。大和朝廷「日本国」開闢。


《注意》評制施行の天下立評そのものは、
『常色の宗教改革(I「評」制は「誰」が「何時」施行したか):正木裕著』
で言う、己酉(六四九大化五《九》常色三)であるが、時代区分としての灘波副都の完成年次の白雉元年652年とした。






■■■■


 誰とは言わないがアカデミーの著作は分かりづらい。それに引き換え、古田武彦氏の著作は分りやすい。
 ここに、『失われた九州王朝:古田武彦著』がある。以下抜粋・転載する。


第三章:高句麗王碑と倭国の展開
 四、『隋書』俀国伝の示すもの
  ●違和の国交


『隋書』俀国伝と推古紀と、両者のくいちがいをもっとも明白に示しているのは、国交記事だ。


◇ 比較してみよう。


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(792) 『『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その2)』 2011年10月3日(月)


先に上げたこのブログ
【2011年9月18日(日)
大和朝廷の生い立ちから倭国滅亡迄の歴史的経緯の想定年表】

を振り返ろう。


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 以下が「その順路のあらすじ」である。

※別紙
『 「倭国」の「大宰府主都」 : 「難波副都」対比年表 .html版 』『 同 .pdf版 』
と、併せて参照方お願いします。


《歴史的経緯の説明》

①九州王朝「倭国」はある時期(たぶん「倭王武」477年頃)全国征伐し茨城県以西を間接付属王国支配。

②隋書俀国伝に隋使が「倭国」を訪れ朝命を伝え目的を達した後、更に東へ倭の付属国「秦王国」を訪問。

③東へ倭に付属「秦王国」を訪れているのに、『書紀』には記載が無い。たぶん「日本国」へ書きかえた。

④九州王朝「倭国」が緊迫のアジア情勢から難波副都建設し天下立評。同時に倭国の分王家が常駐開始。

⑤倭国と秦王国からの遣使団が唐朝内で鉢合せ、付属秦王国の遣使を難詰し喧嘩。唐朝が両国使監禁。

⑥洲柔・白村江敗戦662年で唐が白鳳倭王を拘束・連行。これをネタに大宰府開城、筑紫島が被占領。

⑦白村江敗戦を知った難波副都守備隊が長門以東を防衛。天智天皇遷都即位、秦国接収、日本国独立。

⑧白鳳倭王薩夜麻が解放帰国。難波副都の大海人皇子の協力で倭国再統合戦の壬申乱を戦勝、復位。

⑨壬申乱戦勝は難波副都の大海人皇子の協力甚大「真人」位賜る。白鳳王崩御后、朱雀王に即位。

⑩筑紫倭王家の近畿遷都、白鳳王・朱雀王崩御后、高市天皇即位。大化改新に不満の軽皇太子が暗殺。

⑪難波副都の軽皇太子、筑紫倭王家の高市天皇暗殺后、文武天皇に即位。大和朝廷「日本国」開闢。


《注意》評制施行の天下立評そのものは、
『常色の宗教改革(I「評」制は「誰」が「何時」施行したか):正木裕著』
で言う、己酉(六四九大化五《九》常色三)であるが、時代区分としての灘波副都の完成年次の白雉元年652年とした。






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さてここからは、古田武彦氏の指摘をもとに自分なりにまとめて見る。
このブログの
【2011年6月18日(土)
『源氏物語』薄雲の巻は源氏32歳632年、突如太政大臣、次に式部卿の死が語られ、冷泉帝が嘆かれる】

で触れた事件は以下の通り。


 631年に最初の遣唐使が送られます(『日本書紀』は630年とする)。  刺史高表仁が日本に遣わされたのは632年(『日本書紀』)です。


 『源氏物語』には太政大臣と式部卿が亡くなったことが記されますが、さらに二十六歳の弾正尹(だんじやうのいん)(現在の警察庁長官)為尊(ためたか)親王も亡くなる事件でした。
 このことは『源氏物語』と『和泉式部日記』から明らかになります。


 唐からの一団は冊封関係を強いる使いであったため、王子である為尊親王は拒否をし、高表仁と言い争いになり、切られてしまいます。
 傍にいた太政大臣(現在の総理大臣)と式部卿(現在の外務大臣)も巻き添えを食うことになります。


■■■■


一方、『日本書紀』は同じ時期の「対唐外交史」はと言うと以下の通りです。

『日本書紀』632年(舒明4年10月4日)高表仁に告げて「天子の命じた使が、天皇の朝廷に到来したと聞き迎えます」といった。高表仁 が答えて「風の寒い日に、船を飾り整えて迎えを賜い、歓びまた恐縮しています」といった。


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(793) 『『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その3)』 2011年10月3日(月)


 「俀国」と『日本書紀』の「日本国(=秦王国)」の対唐外交史を、年次を追って、古田武彦氏の手法をまねて、「左右の対比表」の形に整理して見ましたが、如何でしょうか?

 「対比表」にすると、「俀国」と『日本書紀』の「日本国(=秦王国)」の対唐外交史に、はっきり、温度差があると分りますね。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 特に、632年は九州王朝「倭国」で、唐の高表仁は
【冊封】
関係を強いて、王子の為尊親王はこれを拒否、高表仁と言い争いになり、切られてしまいます。
 弾正尹(だんじやうのいん)(現在の警察庁長官)為尊(ためたか)親王。傍にいた太政大臣(現在の総理大臣)と式部卿(現在の外務大臣)を切り殺した後に、瀬戸内海から灘波へと航海し、「日本国(=秦王国)」を訪れてるわけで…。
 当然、「日本国(=秦王国)」側もこのニュースは知ってたはずでしょうから、それからすると、『書紀』の『高表仁に告げて「天子の命じた使が、天皇の朝廷に到来したと聞き迎えます」といった。高表仁 が答えて「風の寒い日に、船を飾り整えて迎えを賜い、歓びまた恐縮しています」といった。』は、いかにも意味深でしょう。そう、思いませんか?


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 『日本書紀』は、肝心な「事件の詳細な顛末」を隠しているわけですね。
 特に、米田良三氏の

【このことは『源氏物語』と『和泉式部日記』から明らかになります】

と指摘する内容は、全く度肝を抜きます。

《詳細は下記参照方》

 ①【2011年1月28日(金)
表仁、綏遠の才無く王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る⇒まさか・源氏物語で、ここまで分るか?】

 ②【2011年1月28日(金)
唐の冊封要求を、倭王子・為尊親王は拒絶、唐使・高表仁と言い争いになり、切られてしまう】

 ③【2011年6月30日(木)
ドナルド・キーン氏89才が日本国籍を取られるそうだ。18才で英訳された『源氏物語』を読んで感動】

 ④【2011年7月1日(金)
つまり『和泉式部日記』に記される故宮、帥宮は、上宮王の息子たちであり、大殿は、上宮王の息子の光源氏だ】

 ⑤【2011年7月19日(火)
『日本書紀』の偽書の偽書たる所以。“頭隠して尻隠さず”です】


 『源氏物語』と『和泉式部日記』を編集・現代訳にたずさわった方々は藤原定家はともかくも、
【源氏現代語訳のススメ】
を参照すれば、 与謝野 晶子・円地 文子・谷崎 潤一郎・田辺 聖子・橋本 治・瀬戸内 寂聴・大和 和紀ほか、玉上 琢彌・今泉忠義・渋谷栄一・宮脇文経・柴田正明・佐藤和雄と、数多たくさん居られるわけですね。

 その誰もが知ってか、知らずかこの事を公表した方は、我が米田良三氏のみでしょう。


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 このブログの
【2011年6月18日(土)
『源氏物語』薄雲の巻は源氏32歳632年、突如太政大臣、次に式部卿の死が語られ、冷泉帝が嘆かれる】

で触れた事件は以下の通り。


 631年に最初の遣唐使が送られます(『日本書紀』は630年とする)。
 刺史高表仁が日本に遣わされたのは632年(『日本書紀』)です。


 『源氏物語』には太政大臣と式部卿が亡くなったことが記されますが、さらに二十六歳の弾正尹(だんじやうのいん)(現在の警察庁長官)為尊(ためたか)親王も亡くなる事件でした。
 このことは『源氏物語』と『和泉式部日記』から明らかになります。


 唐からの一団は冊封関係を強いる使いであったため、王子である為尊親王は拒否をし、高表仁と言い争いになり、切られてしまいます。
 傍にいた太政大臣(現在の総理大臣)と式部卿(現在の外務大臣)も巻き添えを食うことになります。


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 一方、『日本書紀』は同じ時期の「対唐外交史」はというと以下の通りです。

『日本書紀』632年(舒明4年10月4日)高表仁に告げて「天子の命じた使が、天皇の朝廷に到来したと聞き迎えます」といった。高表仁 が答えて「風の寒い日に、船を飾り整えて迎えを賜い、歓びまた恐縮しています」といった。


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(794) 『『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その4)』 2011年10月4日(火)


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 「俀国」と『日本書紀』の「日本国(=秦王国)」の対唐外交史を、年次を追って、古田武彦氏の手法をまねて、「左右の対比表」の形に整理して見ましたが、如何でしょうか?

 「対比表」にすると、「俀国」と『日本書紀』の「日本国(=秦王国)」の対唐外交史に、はっきり、温度差があると分りますが…。


 その前に、『日本書紀』の「日本国とは、(=秦王国)である」という私の説の根拠とやらを今一度整理して書いておきます。


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 「隋書」俀国伝中に、『明年(大業4年:608年:推古16年)、上、文林郎裴清を遣わして俀国に使いせしむ。百済を渡り、行きて竹島に至り、南に聃羅を望み、都斯麻国を経、迥かに大海の中に在り。又東して一支国に至り、又竹斯国(=筑紫・九州島)に至り、又東して秦王国に至る。其の人華夏に同じ。以って夷州と為すも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。又十余国を経て海岸(=九十九里浜海岸)に達す。竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す。』


上記「隋書」俀国伝中には、2つのキーワードがあります。
①竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す。
②又竹斯国(=筑紫・九州島)に至り、又東して秦王国に至る。


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一方、先に
【2011年10月1日(土)
『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」(その1)】

 での対比年表の608年に注目すると、



『●(四月)妹子、帰国。裴世清、筑紫に至る。天皇、灘波吉士雄成を遣はして、裴世清を召す。』

とあります。

 これは『隋が裴世清を俀国に派遣し、俀国の都の筑紫に着いた。と、これを知った推古天皇は、灘波吉士雄成を筑紫に派遣して、隋使裴世清様に、わが国まで足を延ばして戴き、ぜひお立ち寄りくださるようにご招待せよ。』ということだ。


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これについては、別に、『失われた九州王朝:古田武彦著』p319の

『二つの道』の途中に、
(A)既にして清を引いて館に就かしむ。其の後、人を遣わし其の王に謂って曰く 「朝命既に達せり、請う即ち塗を戒めよ」と。<隋書倭国伝>

<途中略>

次ページp320には、

 したがって、この裴世清の要求は、
“俀王の都から、さらにはるかなる旅に出発しょう” とする意思を示しているのだ。
 そして、その旅の安全を保つように警戒を俀王に要求しているのである。


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 これを私流に解釈すると、

『隋使裴世清は隋の天子の朝命である俀王との筑紫での会見は無事に終わった。
更に、俀附庸ではあるが、俀国の次に大国の秦王国からも招待したいと言ってくれてるので、更に東のほうへ足を延ばしてみたい。ついては途中の瀬戸内海航路の安全・警護もお願いする』である。


 これらを総合すると、

『日本書紀』推古天皇紀の「日本国」とは、「隋書」俀国伝中の(=秦王国)である。

  という結論になる。


とはいえ、

 馬子(=有明子)をはじめとする蘇我氏こそが飛鳥地方の葛城『秦国』王家であり、葛城『秦国』が母体・核となって大和朝廷「日本国」へ発展したと「仮定」した場合、その王朝史となる「日本書紀」が九州「倭国」を抹殺しただろうか、私は思うに抹殺せずその討伐経緯をむしろ誇らしげに書き込んだだろう。



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(796) 『『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その5)』 2011年10月7日(金)


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■ 即ち、『日本書紀』において「我が日本国」の「対唐外交史」は、先に上げたこのブログ
【2011年9月18日(日)
大和朝廷の生い立ちから倭国滅亡迄の歴史的経緯の想定年表】

において、

「秦王国(倭に附庸)」→「秦王国」→灘波副都に併合接収→長門以東「天智近江朝(日本国独立)」→天武朝(倭国に復帰)→「大和朝廷(日本国開闢)」の流れを追っている。

◆《参照》
【Ⅴ・①『風雲急を告げる大陸の情勢』と『白村江戦い以前』】


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日本書紀647年(孝徳3年:常色元年)〔この歳、新羅が大臣大阿飡金春秋(のちの武烈王)らを遣わして、博士で小徳の高向黒麻呂、小山中の中臣連押熊を送ってきて、孔雀一羽、鸚鵡一羽を献上した。そこで春秋を人質とした。春秋は姿や顔が美しくよく談笑した。〕この647年は、新羅で正月毘曇が反乱を起こし、金春秋・金庚信が誅殺したいわゆる「毘曇の乱」と同年である。そんな余裕が金春秋にあったか疑わしいが、金春秋は新羅で647年正月「毘曇の乱」を収め、すぐその足で来たことになる。来たのは倭国か、秦国かということだが、「唐国・新羅・秦国の東西枢軸」への参入勧誘・交渉の為に唐の内意を受けて、『秦国』へ自ら赴いた。


『日本書紀』
を参考に現代語訳すると、


《大化二年(六四六)九月》
◆九月。小徳〔冠位一二階の第二、従四位〕の高向博士黒麻呂を新羅に遣わし、〔人〕質を貢〔進〕させた。とうとう任那の調を廃した。〈黒麻呂、更の名は玄理〉


《大化三年(六四七)是歳》
◆この歳、新羅が上臣〔大臣〕大阿飡〔一七位階の第五〕金春秋〔のちの武烈王〕らを遣わして、博士で小徳の高向黒麻呂、小山中〔天智三年の冠位二六階の一六位〕中臣連押熊を送ってきて、孔雀一羽、鸚鵡一羽を献〔上〕した。そこで春秋を〔人〕質とした。春秋は姿や顔が美しく、よく談笑した。


《大化四年(六四八)二月壬子朔》
◆二月壬子朔(一日)。三韓〈三韓は、高麗・百済・新羅をいう〉に学問僧を遣わした。


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『古代史獺祭(こだいし・だっさい)』
【舊唐書  卷一九九上 東夷伝 倭國 日本】

の現代語訳には、


631年:貞觀五年、使を遣して方物を獻ず。太宗、其の道の遠きを矜(あわれ)み、所司に勅して歳ごとに貢せしむる無し。また新州刺史表仁を遣し、節を持して往きて之を撫せしむ。高表仁、綏遠(さいえん)の才無く、王子と禮を争い、朝命を宣(の)べずして還る。

648年:(貞觀)二十二年に至り、また新羅に附し表を奉じ、以って起居を通ず。


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(797) 『『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その6)』  2011年10月9日(日)


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■ 即ち、『日本書紀』において「我が日本国」の「対唐外交史」は、先に上げたこのブログ
【2011年9月18日(日)
大和朝廷の生い立ちから倭国滅亡迄の歴史的経緯の想定年表】

において、

「秦王国(倭に附庸)」→「秦王国」→灘波副都に併合接収→長門以東「天智近江朝(日本国独立)」→天武朝(倭国に復帰)→「大和朝廷(日本国開闢)」の流れを追っている。

◆《参照》
【Ⅴ・①『風雲急を告げる大陸の情勢』と『白村江戦い以前』】


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『日本書紀』
を参考に現代語訳すると、


《白雉四年(六五三)五月壬戌【十二】》
◆四年、夏五月辛亥朔壬戌(十二日)。大唐に発遣する。
 大使、小山上〔以下大化五年の位階、正七位〕の吉士長丹、副使、小乙上〔従八位〕の吉士駒〈駒は、更の名糸〉、
 学問僧、道厳、道通、道光、恵施、覚勝、弁正、恵照、僧忍、(知聡)、道昭、定恵〈定恵は内大臣の長子である〉、安達〈安達は中臣渠毎連の子〉、道観〈道観は春日粟田臣百済の子〉、
 学生、巨勢臣薬〈薬は豊足臣の子〉、
 氷連老人〈老人は真玉の子。或本は、学問僧の知弁、義徳、学生の坂合部連磐積を加えている〉、あわせて一百二十一人が、みな一船に乗った。室原首御田を送使とした。
 また〔第二の〕大使、大山下〔従六位〕の高田首根麻呂〈更の名は八掬脛〉副使、小乙上の掃守連小麻呂、学問僧、道福、義向、あわせて一百二十人が、みな一船に乗った。土師連八手を送使とした。


《白雉四年(六五三)七月》
◆秋七月。大唐に遣わされた使人、高田根麻呂らは、薩麻の曲と竹嶋との間で、船とともに水死した。
 ただ五人が、一〔枚の〕板にとりすがり、竹嶋に流れついた。どうしたらいいか分らなかった。五人の中で、門部金は、竹を伐って筏とし、神嶋についた。この五人は、六日六夜のあいだ、まったくなにも食べなかった。
 さて、金をほめて、位を進め禄を給した。


《白雉五年(六五四)二月》
◆二月、大唐に遣わす。
 押使、大錦上〔天智三年の位階、正四位上〕高向史玄理〈或本は云う、夏五月、大唐に遣わす押使、大華下〔大化五年の位階、従四位〕の高向玄理〉、大使、小錦下〔天智三年、従五位下〕の河辺臣麻呂、副使、大山下〔天智三年、従六位下〕の薬師恵日、判官、大乙上〔天智三年、正八位上〕の書直麻呂〈或本は云う、判官、小山下〔大化三年、従七位〕、書直麻呂〉、〔大乙上の〕宮首阿弥陀、小乙上〔天智三年、従八位上〕の岡君宜、置始連大伯、小乙下〔天智三年、従八位下〕中臣間人連老、〈老、これを於唹という〉、田辺史鳥らは、二船に分乗した。
 留まりつづけること数ヶ月。新羅の道を取って、莱州〔山東半島北岸〕に入港した。
 ついに〔長安の〕京に到〔着〕して、天子〔唐の高宗〕に拝謁した。
 このとき、東宮の監門〔東宮諸門の禁衛を掌る〕郭丈挙が、日本国の地里および国初の神名〔歴史〕をことごとく聞いた。
 みな問に応じて答えた。
 押使の高向玄理は、大唐で卒した。

〈伊吉博得は言う、
-学問僧、
恵妙は唐で死んだ。
知聡は海で死んだ。
智国は海で死んだ。
智宗は庚寅の年〔持統四年〕に、新羅の船にしたがい〔日本に〕帰った。
覚勝は唐で死んだ。義通は海で死んだ。
定恵は、乙丑の年〔天智四年〕に、〔唐使〕劉徳高らの船にしたがい〔日本に〕帰った。
妙位、法謄、学生の、氷連老人、高黄金ら十二人、これと別に倭種の韓智興、趙元宝が、今年、使人と共に帰った。〉


《白雉五年(六五四)七月丁酉【二十四】》
◆秋七月甲戌朔丁酉(二十四日)。西海使の吉士長丹らが、百済、新羅の送使と共に、筑紫に入港した。


《白雉五年(六五四)七月是月》
◆この月、西海使らが、唐国の天子に対〔面〕し奉り。文書・宝物を多く得たことをほめて、小山上〔以下大化五年、正七位〕、大使、吉士長丹に小華下〔従五位〕を授けた。〔食〕封二百戸を賜わった。姓を賜わった呉氏とした。小乙上〔従八位〕、副使、吉士駒に、小山上を授けた。


《斉明天皇元年(六五五)八月戊戌朔》
◆八月戊戌朔(一日)。河辺臣麻呂らが、大唐から還った。


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『古代史獺祭(こだいし・だっさい)』
【舊唐書 卷四 本紀第四 高宗上 永徽五年 (原文)】

を参考に現代語訳すると、

(永徽)五年(六五四)

十二月癸丑 倭國獻琥珀・碼瑙 琥珀大如斗 碼瑙大如五斗器 戊午 發京師謁昭陵 在路生皇子賢 己未 敕二年一定戸


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(798) 『『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その7)』 2011年10月11日(火)


以上を『「倭国」と「秦国」の対唐外交の対比年表』として表示する。


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(799) 『『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その8)』  2011年10月14日(金)


 倭国が難波副都で652年「天下立評」して以降、倭国は『秦国』王家の蘇我氏の取込みができなかったようで、660年百済壊滅の直前の659年、倭国・ 日本国 { 秦国 } の遣唐使が喧嘩・拘束記事につながったのだろう。
 この時の「日本国」とは、唐国・新羅に唆(そその)かされて同盟・遣使の『秦国』で、この王家が蘇我氏だと考えると、白村江の戦い前後まで蘇我氏は健在で、難波副都倭弟王家の天智天皇は『秦国』のブロックのため白村江に出兵できなかった。  否この時蘇我氏を打倒し滅ぼした。


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【2011年9月16日(金)
唐への使節団が、倭人連邦宗主国「倭国」からと、附庸王国「秦国」からとの二つが送られ「もめごと」に発展】

を抜粋・転載します。




その中で更に引用・抜粋の
【中国文献「封府元亀」から古田武彦氏が発見した。本当の蝦夷国と倭国】《魚拓》
には、

『「日本書紀」の659年の記事に蝦夷国の人間を唐に連れて行ったという記事があるが、
この記事は、近畿王朝の記事ではない。借り物だ。


以下は古田氏の最新出版物「失われた九州王朝」から引用。「封府元亀」から
顕慶4年(659年高宗)

十月、蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す」とある。一方日本書記は、珍しい顔の種族を唐の天使に合わせに連れて行ったと書いている。ただしカッコ付きで伊吉連博徳書を引用している。


こちらがとても詳しく記述されていることから、こちらを利用したと推測できるだろう。

伊吉連博徳書は、「蝦夷国」1)という表現を使用。「封府元亀」の表現と同じであるという。このことから古田氏は、日本書記の記事を造作としている。


659年は、唐が国際的に認知していた列島を代表する王朝は、天皇家の祖=近畿ではなく九州王朝であった。
この時、列島から倭国(九州付近)日本国の前身近畿王朝、東日本の蝦夷国の3国が唐に入朝したということだ。この時の蝦夷は、今此熟蝦夷*である。現在の新潟あたりの人たちだ。

倭種とは、たぶん九州の王朝の使人で、「韓智興〓人西漢大麻呂、枉讒我客。2」は、倭種の韓智興の従者が我(近畿王朝の使者)客を陥れようとして、事実をまげ、いつわって悪 (あ) しざまに告げ口をしたとあり、このことにより流罪に着せられそうになった。3)


つまり、この時列島から三国の使者が唐に入朝した事実が浮かび上がる。古田氏説)
この指摘は、もっともなことである。
= 日本書紀」がミニ中華思想に貫かれ、蝦夷の扱いが蕃夷であるところからもわかる。ちなみに高宗が一番興味を持った国が プロトヨーロッパ族の末裔日本名蝦夷国であること間違いがない =当時の漢籍から、わかることは、流求国・九州倭国・近畿日本国・が国史に登場していることだ。決して日本天皇の国家が列島を代表した国家でなかったことがこの記事から感じられる。<以下略>』 




私は『書紀』のこの記事は、唐の百済討伐戦前夜の秘密交渉事の一環であり、隋書で言う「倭国」と「秦国」との倭人国家間の唐による「離間策」の一環でもある。
唐への使節団が、倭国連邦宗主国「倭国」からと、附庸王国「秦国」からとの二つが送られ、それが唐朝内で、もめごとに発展したと考えています。


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(800) 『『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その9)』 2011年10月15日(土)


■ 『書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」は、先の

【2011年9月18日(日)
大和朝廷の生い立ちから倭国滅亡迄の歴史的経緯の想定年表】

において、

「秦王国(倭に附庸)」→「秦王国」→灘波副都に併合接収→長門以東「天智近江朝(日本国独立)」→天武朝(倭国に復帰)→「大和朝廷(日本国開闢)」の流れを追っている。


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『日本書紀』
を参考に現代語訳すると、


《斉明天皇五年(六五九)七月戊寅【三】》
◆秋七月朔丙子朔戊寅(三日)、小錦下〔天智三年の冠位、従五位下〕の坂合部連石布、大仙下〔同上、従六位下〕津守連吉祥を、唐国に遣使した。そして、道奥の蝦夷、男女二人を唐の天子〔高宗〕に示した。


◎〈伊吉連博徳の書は曰う、

- 同じ天皇の世に、小錦下の坂合部石布連、大山下の津守吉祥連らの二船が、呉(揚子江下流)の路を〔経由して〕唐に使わされた。

●己未の年〔斉明五年(六五九)〕七月三日、難波の三津の浦から〔出〕発した。

●八月十一日。筑紫の(六⇒大)津〔那津=博多湾〕の浦から〔出〕発した。

●九月十三日、百済の南辺の嶋に到着した。島の名は明らかではない。

●十四日寅の時〔午前四時〕、二船はつれだって大海〔東シナ海〕に乗り出した。

●十五日、日没時、石布連の船は、逆風を横にうけて、南海の嶋に漂着した。島名は爾加委(にかい)、〔一行は〕嶋人によって殺された。そのさい東漢長直阿利麻・坂合部連稲積ら五人は、嶋人の船を盗んで乗り、逃げて括州〔中国浙江省麗州〕に到着した。麗州県の官人が、洛陽の京〔都〕に送ってきた。

●十六日、夜半の時、吉祥連の船が、越州〔杭州湾南岸〕の会稽県〔浙江省紹興〕の須岸山に到着した。東北の風で、風ははなはだ急であった。

●二十二日、余姚県〔浙江省余姚〕に到着した。乗ってきた大船およびいろいろの調度物を、彼の処〔余姚〕にとめ置いた。

●潤十月一日。越州の底〔州衙〕に到着した。

●十月十五日、騨〔馬〕に乗って入京〔長安〕した。

●二十九日、馳けて東京〔洛陽〕に到着した。天子は東京に居た。

●三十日、天子は相見て問うて、「日本国の天皇は、平安かどうか」といった。使人は謹しんで答えて、「天と地とが徳を合わせて、おのずと平安をえています」といった。

○天子は問うて、「執事〔執政〕の卿らは、健在かどうか」といった。使人は謹しんで答えて、「天皇があつく憐しむので、〔卿らも〕また健在でいられます」といった。

○天子は問うて、「国内は平〔和〕かどうか」といった。使人は謹しんで答えて、「〔天皇の政〕治が天地にかない、万民は無事でおります」といった。

○天子は問うて、「これらの蝦夷の国は、どの方〔角〕にあるのか」といった。使人は謹しんで答えて、「国は東北にあります」といった。

○天子は問うて、「蝦夷はいく種〔類〕か」といった。使人は謹しんで答えて、〔種〕類は三種あります。遠い者は名都加留(つがる)と名づけ、次の者は麁(あら)蝦夷と名づけ、近い者は熟(にぎ)蝦夷と名づけます。今〔高宗に示す〕この〔蝦夷〕は、熟蝦夷です。毎歳、本国の朝〔廷〕に入貢しております」といった。

○天子は問うて、「その国に五穀はあるのか」といった。使人は謹しんで答えて、「ありません。肉を食べて〔生〕存しています」といった。

○天子は問うて、「国に屋舎(家屋)はあるのか」といった。使人は謹しんで答えて、「ありません。深山の中、樹の下に住みついています」といった。

○天子は重ねて、「朕は、蝦夷の身や〔顔〕面の異っているのを見て、極めて興をもちふしぎに思った。使人は遠く来て辛苦したことだ。退〔出〕して、〔賓客〕館に居るがよい。後でまた会うとしょう」といった。

●十一月一日、〔唐〕朝で冬至の会があった。会の日にまた覲えた。朝〔見〕の諸蕃の中で、倭客が最も勝っていた。後に出火騒ぎがあったので、そのままになって放っておかれた。

●十二月三日。〔倭種〕韓智興の従者、西漢大麻呂が、我が〔日本国の〕客を讒言(ざんげん)した。客らは、唐朝から罪を獲て、もはや流罪と決定した。その前に、〔倭種〕韓智興を三千里の外に流した。

○客の中に伊吉連博徳がいて、奏〔言〕した。それに因って即く罪を免ぜられた。

○事〔件〕が落着した後に、勅旨があり、「〔中国・唐〕国家は、来年に、必らず海東〔朝鮮〕の政を征伐する。汝ら倭客は、東に帰ることはできぬ」と。

○遂に西京〔長安〕に、〔日、倭〕別の処に幽置した。戸を閉して監禁し、東西〔自由に行動〕するのを許さなかった。困苦して年を経た。〉


◎〈難波吉士男人の書は曰う、

- 大唐に向った大使〔の船〕は、嶋に触れて〔転〕覆した。副使は、親しく天子に覲えて、蝦夷を示し奉った。そして、蝦夷は、白鹿の皮一、弓三、矢箭八十を、天子に献った。〉


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(801) 『『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その10)』 2011年10月15日(土)


 この時に、『日本書紀』が言う我が「日本国」とは、唐国・新羅に唆(そその)かされて、東西の「羅唐同盟」へ参加加盟の為に遣使の『秦国』であり、この記事は、唐の百済討伐戦前夜の秘密交渉事の一環であり、隋書で言う「倭国」と「秦国」との倭人国家間の唐による「離間策」の一環であろう、と考えられる。

 唐への使節団が、倭人連邦宗主国「倭国」からと、その傘下附庸王国「秦国」からとの二つが送られ、それが唐朝内での「もめごと」に表面化・発展したと考えている。


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 660年百済壊滅の直前の659年の上記、「倭国」・「日本国(=秦国)」の両国の遣唐使が派遣先の唐朝内で「もめごと」に表面化・拘束記事につながったということは、

 倭国が難波副都で652年「天下立評」して、傘下附庸国の解体、中央集権化を施行・推進以降も、倭国はその附庸国『秦国』の懐柔・解体・取込みができなかったということだ。


 更に、この王家が蘇我氏だと考えると、白村江の戦い前後まで蘇我氏は健在で、難波副都倭弟王家の天智天皇は『秦国』のブロックのため白村江に出兵できなかった。
 否、この時、これが為に、蘇我氏を打倒し滅ぼした、とも考えられる。


 倭人連邦の宗主国「倭国」側の使節団から言わせると、本来その傘下附庸国たる「秦国」の使節団が唐朝へ招かれ、独自の外交交渉すること自体が越権行為であり、不快極まりないものであったはずだからだ。


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 前項【『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」(その9)】で取上げた、《斉明天皇五年(六五九)秋七月三日》唐国派遣での、〈伊吉連博徳の書は曰う〉の特に後半を、もう一度、私なりに、詳しく取上げて検討しょう。


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①、十一月一日、〔唐〕朝で冬至の会があった。会の日にまた覲えた。朝〔見〕の諸蕃の中で、倭客が最も勝っていた。後に出火騒ぎがあったので、そのままになって放っておかれた。

◆⇒我が「日本国(=秦国)」使節団が、倭人連邦宗主国「倭国」使節団を、「諸蕃の中で、最も勝れている」と、「自慢」・「羨望」している。
 ・また同時に、この記事は、「冬至の会」朝見の席へ、倭人連邦宗主国「倭国」使節団も派遣され、同席していた。と明記している。


②、十二月三日。〔倭種〕韓智興の従者、西漢大麻呂が、我が〔日本国の〕客を讒言(ざんげん)した。客らは、唐朝から罪を獲て、もはや流罪と決定した。
その前に、〔倭種〕韓智興を三千里の外に流した。

◆⇒「倭国」使節の韓智興の従者、西漢大麻呂が、我が「日本国(=秦国)」使節を讒言・中傷・あしざまに言った。
 ・私からは、宗主国「倭国」使節が、傘下附庸王国「日本国(=秦国)」使節を、讒言して当たり前だとも言えようか。
 ・裏を返せば、「倭国」使節は、「倭人離間策」を謀る唐・高宗の術中にはまったとも言える。


③、客の中に伊吉連博徳がいて、奏〔言〕した。それに因って即く罪を免ぜられた。

◆⇒この伊吉連博徳なる人物は、どういう立場の人物だったのろうか?
 ・長崎県・壱岐島出身の人物が、当時、倭人グループの中で、中立国的な外交・交渉の役割を担っていたのだろうか?
 ・更には、唐へ「日本国(=秦国)」使節を案内・橋渡ししたのだろうか?


④、事〔件〕が落着した後に、勅旨があり、「〔中国:唐〕国家は、来年に、必らず海東〔朝鮮:百済〕の政を征伐する。汝ら倭客は、東に帰ることはできぬ」と。

◆⇒讒言・中傷事件は落着したにも関わらず、帰国が許されていない。ということは、当初より両国使節を拘束するのが、主目的だったとも考えられる。
 ・ということは、唐・高宗が百済を討伐・滅亡させる前にも、色々準備・画策してたとわかる。


⑤、遂に西京〔長安〕に、〔日、倭〕別の処に幽置した。戸を閉して監禁し、東西〔自由に行動〕するのを許さなかった。困苦して年を経た。

◆⇒手の内・情報がばれないよう「倭国」・「日本国(=秦国)」の両使節団を帰国させないで、幽閉・監禁したのだ。
 ・「日本国(=秦国)」にとっては、まったく、いい面の皮だと言えよう。何故なら、この派遣が為に軍都灘波副都の近江朝天智天皇に征伐の口実を与えただろうからだ。
 ・単に、「倭国」・「日本国(=秦国)」の両使節団を帰国させないで、幽閉・監禁されていただけならまだしも、この間、何があっただろうか?
 ・そうです、百済の滅亡、州柔敗戦・白村江敗戦、(天智による「秦国」の征伐)、唐占領軍への大宰府開城、長門以東近江朝の「日本国」独立、薩夜麻の倭王復位・倭国再統合戦の壬申の乱、と続くわけで…、彼らの還る国は、亡国の憂き目に遭い、果たしてその時あったかどうか。
 いうとおり『困苦して年を経た』のであろう。


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(802) 『『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その11)』 2011年10月16日(日)


 この『日本書紀』の《斉明天皇五年(六五九)七月戊寅【三日】》の項には、何故か不思議なことに、その中段以降には、いきなり、〈伊吉連博徳の書は曰う、という「外部史料と思える引用句」がある。

 そもそも、『日本書紀』が、その正規内部資料に基づき国史を著述しているのならば、先ず以って、それを著述し、補完的に、外部資料〈伊吉連博徳の書は「あるいは」曰う、というならまだしもである。

 さらには、〈伊吉連博徳の書は曰う、以降の引用句には、その王朝の運命・存否を別けたであろう重大な事件の著述がある。というのだから、また以って不思議である。

 何故そういう書き方になったか?私が思うに、唐へ使節団を派遣した当の「我が日本国」なる国は、『日本書紀』が編纂当時の720年代には滅亡し、「影も形も無くなっていた」ということだ。で、いきおい外部史料に頼らずに居れなかった、ということだろう。
 たとえ、それを外部史料に頼ったとしても、詳しく書き残さずらずに居れない事件だったということだ。


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 『日本書紀』のこの項には、外部史料に頼ったと思える箇所が、まだある。


 主本文の
①『…そして、道奥の蝦夷、男女二人を唐の天子〔高宗〕に示した。』であり、

②〈伊吉連博徳の書は曰う、『…○天子は問うて、「これらの蝦夷の国は、どの方〔角〕にあるのか」といった。使人は謹しんで答えて、「国は東北にあります」といった。○天子は問うて、「蝦夷はいく種〔類〕か」といった。使人は謹しんで答えて、〔種〕類は三種あります。遠い者は名都加留(つがる)と名づけ、次の者は麁(あら)蝦夷と名づけ、近い者は熟(にぎ)蝦夷と名づけます。今〔高宗に示す〕この〔蝦夷〕は、熟蝦夷です。毎歳、本国の朝〔廷〕に入貢しております」といった。○天子は問うて、「その国に五穀はあるのか」といった。使人は謹しんで答えて、「ありません。肉を食べて〔生〕存しています」といった。○天子は問うて、「国に屋舎(家屋)はあるのか」といった。使人は謹しんで答えて、「ありません。深山の中、樹の下に住みついています」といった。○天子は重ねて、「朕は、蝦夷の身や〔顔〕面の異っているのを見て、極めて興をもちふしぎに思った。使人は遠く来て辛苦したことだ。退〔出〕して、〔賓客〕館に居るがよい。後でまた会うとしょう」といった。』であり、

③〈難波吉士男人の書は曰う、『…〔転〕覆した。副使は、親しく天子に覲えて、蝦夷を示し奉った。そして、蝦夷は、白鹿の皮一、弓三、矢箭八十を、天子に献った。』〉である。


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 これについては、『失われた九州王朝:古田武彦著』第五章:九州王朝の領域と消滅、第一項:九州王朝の黄昏、「蝦夷国」節(p488)以降に『日本書紀』斉明紀五年の上記①②③を詳述後、次のように記されている(以下はその抜粋・転載ですので悪しからず)。


『近畿天皇家の使者が自国内の東辺に住む“野蛮人”をひきいて行き、これを“珍物”として、唐朝の天子の観察に供した。
 -わたしには右の文は、このような調子でひびいてくるのだが、読者はどう感ずるだろう。ハッキリいえば、何か“珍獣”まがいの扱いだ。
 たとえば、岩波古典文学体系本では、右の主本文(A≒①)の「仍以陸道奥蝦夷男女二人示唐天子」を、「仍りて陸道奥の蝦夷男女二人を以(ゐ)て、唐の天子(みかど)に示(み)せたてまつる」と訓読している。「以」を「以」を「ゐて」(“率いて”の意味)と読み、「示」を「みせ」と読んだところなど、“珍獣”あつかいのムードが一段と増幅されている。だが、その根源のニュアンスは無論、原文にある。

 このような『日本書紀』の文面にふれたあと、わたしは中国側の文献『冊府元亀』の中に、つぎの文面を見出して、ハッと胸を突かれた。

 「(顕慶四年、六五九、高宗)十月、蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す」〈冊府元亀、外臣部、朝貢三〉。

 ここでは、蝦夷国人は観賞用の「珍獣」でも、「珍物」でもない。レッキとした蝦夷国の国使として、唐朝に貢献してきた、と記録されている。年代も『日本書紀』とピタリ一致している。
 ところが、実はこの記事と相照応する記事が先の『日本書紀』中の引文にあらわれている。

(1)「難波吉士男人書」(C≒③)によると、蝦夷は、唐の天子に貢物を献上している。これは“蝦夷国の朝貢”に当たる。
(2)「伊吉連博徳書」(B≒②)の中で、唐の天子は、「此等蝦夷国有何方」(此等の蝦夷国は、何の方に有りや)といっている。すなわち「蝦夷国」という“国号”でとらえている。この点、『冊府元亀』の記事と同じである。
つまり、この二点からみても、先の『冊府元亀』の記事が正確であることがわかる。蝦夷国は国使を唐朝に派遣した。そして唐朝もまた、それを夷蛮の一国使として遇した。これが『冊府元亀』の示す史料事実である。


《次に、続く》


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(803) 『『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その12)』 2011年10月20日(木)


《前頁よりの続き》


 これに対し、これとは異なる態度で叙述したのが、『日本書紀』の本主文(A≒①)であった。
 ここでは、まさに蝦夷の男女は、天皇の使者たちの“携行した献上物”の類いのように扱われている。「蝦夷国」を独立した国家と認めぬのみか、“非人間化”して蔑視的表現に“書き換え”た。
 これは中国旧来の、中国の天子を原点とする「東夷・西戎・南蛮・北狄」觀を、八世紀においてミニチュアライズした描写なのであった。
 もちろん、「伊吉連博徳書」(B≒②)に見えるように、唐朝の天子自身も、「蝦夷」に対し、“エキゾチックな好奇心”で相対している。しかし、思ってもみよう。かって三世紀、倭人は「鯨面文身」という、中国の囚人まがいの“珍奇”な風俗をもって「朝貢」してきた。この類いの経験は、中国にとって、いわば“常”のことであった。それゆえ、唐朝の天子が蝦夷の風俗に好奇心を示した、ということと、これを蝦夷国の国使とみた、ということと、両者全く矛盾しないのである。


 しかも、さらに注目すべき事実がある。右の『冊府元亀』の文面では、蝦夷国の使者は「倭国」の使にともなわれて、入朝している。「日本国」の使者ではない。  ところが、『冊府元亀』も『旧唐書』と同じく、九州王朝の「倭国」と近畿天皇家の「日本国」とを厳密に使い分けている。
 これはどうしたことだろう。それはこうだ。この時「倭国」の使と「日本国」使は共に入朝した。先の「二つの使節団」(第四章二)でのべた、あの時のことだ。「韓智興の人(=従者)」と「日本国の使者」が相争い、共に唐朝側によって幽閉された、というのは、右の「伊吉連博徳書」の後半部だ。
 ところで、この段階で(六五九)では、日本列島の大表の王者として唐朝に見做されていたのは、当然「倭国」だ。「日本国」ではない。だから、この「冊府元亀」の文面は、蝦夷国使が「日本国」ではなく、「倭国」の使者にともなわれてきた、と見做しているのだ。唐朝のこの時点の立場からすれば、当然の表記である。中国側の一貫して厳正な記載方法に驚くほかない。


 なお、この時点において、「蝦夷国」が独立した国であるという、もう一つの証拠が、「伊吉連博徳書」(B≒②)にある。「今、此れは熟蝦夷なり。歳毎に、本国の朝に入朝す」。たとえば、美濃国や伊勢国などが天皇家に「入貢」する、という書き方はない。これを見ても明らかに「蝦夷国」は「日本国」と別国なのである。そのうえ、「入貢」さえしない「都加留(つがる)」「麁(あら)蝦夷」がそのさらに彼方にあったのである。


 以上の結論と関連事項を記そう。

(一)『日本書紀』本文は、日本列島全体を“近畿天皇家の一元支配下”に描写した。ために、「蝦夷国」を日本列島東部の、天皇家から独立した国家とする見地を、故意に抹殺して記述している。これは九州に対し、たとえば磐井を「国造」「叛逆」として描写するのと同一の手法である。

(二)「蝦夷国の国使派遣」は、歴史事実であるにもかかわらず『旧唐書』『新唐書』には記されていない。これは舒明二年(六三〇)の近畿天皇家派遣の遣唐使が、『旧唐書』や『新唐書』に記載されていないのと同じ扱いである。すなわち、倭人を代表する王権でなく、辺域の国家として、いまだ『旧唐書』などの「正史」には記載されていないのである。

(三)なお、これと類似した現象は、『冊府元亀』の「琉球国」の記事においてもあらわれている。「煬帝、大業三年(六〇七)三月、羽騎尉朱寛を遣わして、琉球国に使せしむ」〈冊府元亀、外臣部、通好〉。ただし、「琉球国」の場合は、『隋書』俀国伝においても、すでに、「俀国」とは別個に出現している。

以上、日本列島内の多元的国家の共存状況と、『日本書紀』の一元的描写-両者の対照があざやかである。


■■■■


 抜粋は以上であるが、

 古田武彦氏のおっしゃる上記文中の《近畿天皇家の「日本国」》を、

  ⇒ 私の言う《『隋書俀国伝』の「秦国」》に置き換えても、

上記結論(一)、(二)、(三)が、当てはまるのは当然である。


 敢えて言うならば、この時点(六五九)では、古田武彦氏の上記文中の《近畿天皇家の「日本国」》なるものは、この日本列島に存在していなく、《『隋書俀国伝』の「秦国」》が、史実としては存在していたのである。
 この「秦国」は、この直後「倭国」灘波副都の天智によって、白村江戦(六六二)前後迄に征服された。
 更に、天智は唐占領の筑紫都督府「倭国」から、長門以東を近江朝「日本国」に独立させた。
 が、この近江朝「日本国」は、唐より解放帰国の倭王・薩夜麻の復位・倭国再統合戦の「壬申乱」で、大海人・天武のもとに、一旦「倭国」に復活したのだ。


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804) 『『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その13)』 2011年10月20日(木)


これ迄を振り返って、古田武彦氏が指摘する結論の特に、

(一)『日本書紀』本文は、「日本列島全体を“近畿天皇家の一元支配下”に描写した。」ために、「蝦夷国」を日本列島東部の、天皇家から独立した国家とする見地を、故意に抹殺して記述している。

(二)「蝦夷国の国使派遣」は、歴史事実であるにもかかわらず『旧唐書』『新唐書』には記されていない。これは舒明二年(六三〇)の近畿天皇家自身が派遣の遣唐使を、『旧唐書』や『新唐書』が記載していないのと同じである。すなわち、「当時の近畿天皇家は、倭人を代表する王権でなく、辺域の国家だ」として、『旧唐書』などの「正史」が記載されていないのである。


 言い換えると、当時の日本列島内は、いまだ、“複数の地方分権国家が並存する状況”であったにもかかわらず、『日本書紀』が意図的に、日本列島内の全体を“近畿天皇家の一元的中央集権国家支配下だった”と架空に描写しなおしたが為に起こった混乱でもある。


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 この時点(六五九)では、古田武彦氏の上記文中の《近畿天皇家の「日本国」》なるものは、この日本列島に存在していなく、《『隋書俀国伝』の「秦国」》が、史実としては存在していたのである。

 この「秦国」は、この直後「倭国」灘波副都の天智によって、白村江戦(六六二)前後迄に征服され、
 更に、天智は唐占領の筑紫都督府「倭国」から、長門以東を近江朝「日本国」に独立させた。
が、この近江朝「日本国」は、唐より解放帰国の倭王・薩夜麻の復位・倭国再統合戦の「壬申乱」で、大海人・天武のもとに、一旦「倭国」に復活したのだ。


■■■■


 韓半島、及び中国の歴史書・遺跡は、九州王朝「倭国」の史実・実在を証明している。独り、『日本書紀』のみが否定しているのである。

 更に、近年発掘の遺跡から、「評」文字の書かれた木簡が、続々発見されている。この木簡の事実からは、『日本書紀』が「評制施行」の史実を隠蔽していたとわかるのだ。

 更には、「『書紀』天武紀・持統紀の記事には三四年遡上するものがある。」あるいは、「『書紀』の「大化改新」は五〇年前に移動されている。」等々の解明・発見が、古田史学の面々によって、次々なされている。


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 これらから、『日本書紀』が意図的に、架空描写・改変した歴史事実とは、本来の姿が、いったい、どうだったかを、正しく見直す必要がある。と言えるだろう。


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(805) 『『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その14)』 2011年10月21日(金)


◆ 「倭国」及び、『書紀』「日本国(=秦王国)」の「対唐外交史」対比年表







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