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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 047 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(814) 『「日本書紀」七二〇年編纂完了後、唐朝では国史編纂資料中から、倭国史五十四年分が抜き取られたのである』 2011年10月22日(土)


『古田史学会報』no.106(2011年10月08日)に、これまでに、

 『『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その○○)』

 にて、シリーズで紹介の記事に、非常に時期を得た大変参考になる投稿記事が寄せられてるのを発見したので、その

 『唐書における7世紀の日本の記述の問題:山東省曲阜市 青木英利著』を抜粋・転載します。


■■■■


 細かい事になるけれども、日本に関しての「旧唐書」の記述には、空白がある。それを代表的にあらわしているのは、倭人伝と日本伝である。
●倭人伝では、貞觀二二年(六四八年)で朝貢が途切れ、
●日本伝では、長安三年(七〇三年)に朝貢が新たに開始したことになったいる。

 これは、列伝の記述で、それを、補充説明するような記述は、本紀に勿論無い。本紀は大事を、列伝は小事という水準の違いがあり、
●貞觀二二年(六四八年)から長安三年(七〇三年)の間の「五四 五六 年間」の日中の空白を埋める年代的記述は本紀にはない。

 ただし、この「五四 五六 年間」を「説明している」記述が、日本伝の冒頭に書かれている。
 「日本国者は倭国の別種なり」と以下「北の大きな山を限りとして、その外は毛人の国なり」。つまり、この「五四 五六 年間」に、日本を代表する国名が、倭国から日本に変わったという説明がなされて、国土を北に接する毛人の国は独立国だという事も書かれている。


 さて、「唐会要」という、唐代に創作され続けられてきた一連の書がある。宰相・崔鉉が撰した「続会要」が底本になって、北宋の九六一年に完成したものであるが、九六一年と言えば、九四五年の「旧唐書」に遅れて出来ているが、「唐会要」の底本は「続会要」で、これは、八五三年に完成していて、「旧唐書」は「続会要」を種本としている。「旧唐書」に書き漏らした事も、ここには、載っている。


 さらに、この「続会要」は蘇冕の「会要」を引き継いだこととなっている。蘇冕は唐・徳宗朝の人で、「会要」四十巻の編纂者である。
 高祖から徳宗に至る九朝の典章制度・典志類史書の会要の創始者である。その蘇冕の発言としては、資冶通鑑は一〇八四年の編纂である。ちなみに、「旧唐書」には彼の事跡は載っていない。徳宗時代とは、七八〇年から八〇四年の時期である。


 従って、「旧唐書」の倭国伝・日本国伝は、「唐会要」の「倭国伝」・「日本国伝」が種本で、さらに、大本は「会要」に求める事は当然である。


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編纂者:蘇冕    撰者:崔鉉
『会要』⇒(続編)⇒『続会要』⇒(底本)⇒『唐会要』
  ↓          ↓        ↓
  ↓          ↓       (種本)
  ↓          ↓        ↓
  ↓          ↓        ・→『旧唐書倭・日本国伝』
  ↓          ↓
『倭・日本・蝦夷国伝』  ・→→(種本)→『旧唐書』


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 さて、この「会要」の倭国伝には、永徴五年(六五四 六五〇 年)一二月に倭国遣使貢献して高宗が、新羅が高句麗と百済から、侵犯を受けているので、倭は出兵して新羅を救えと国書を出している。この時、屋久と波耶と多尼は皆倭に付属していると認定している。

 十六 二十年後の六七〇年に、唐が高句麗を平定(六六八年滅亡)した祝いの遣使を倭国が送り、かくのごとく、後まで継続して朝貢していたと書かれている。

 七〇三年の則天武后時には、自ら、その国、日に近いので「日本国」と号し、倭を雅ならずにて、変えたと説明している。これが、「会要」の倭国伝である。
 一方、同じ「会要」の日本国伝は「旧唐書」と同じ文章が載っている。

 さらに、蝦夷国が、独立国の扱いで、六五九年倭国に伴われて、入朝している事が記載されている。


 この、「会要」と「旧唐書」の比較をすると、「旧唐書」の貞觀年間で朝貢が途絶えたのは明らかに、両国の友好関係の亀裂があったからで、高表仁の外交努力も失敗だった事は紛れも無い事で、「唐書」「会要」は隠さず明確に書きとめていて、貞觀二二年(六四八年)の朝貢も、当時東方で一番の中国信奉国の新羅を通じての間接的朝貢であった。つまり、貞觀二二年(六四八年)の朝貢は、一方的な感じで扱われていて、歓迎の意味は無い。

 「唐書」の外交の認識水準では、日本は優良な友好国としてのみ扱われてきた。その意味は、大変大きい。日本は、倭(種?)として、周代以来の一貫した、礼節の国、模範的な友好国なのである。その国との外交関係に、虚偽の不快な関係はあってはならないとの自負は唐朝にはあった。ここが、重要である。


「唐書」の水準はそうゆう点にある。だから、「会要」の永徴五年(六五四 六五〇 年)の倭国への新羅救援の要請国書、そして、六七〇年の高句麗平定の祝いの遣使も、一切、「唐書」には書かれていない。

 何故なら、この朝鮮半島に関する事件は、倭国と唐朝の不和の原因そのものであったし、唐朝にとっては、倭国の態度は、形式的・偽善以外の何者でもなかった。唐朝の自尊心からは、不愉快な事なのである。


 「会要」が、国史より、多くのことが記載されているのは、政治・経済・文化・制度沿革の詳細を実務的に記載しているからであり、五夷の国々に付いても漏れなく記載されている事は当然で、年次の記録が、主たる役割ではなく、冊府元亀の外臣部・朝貢の年表には及ばないが、日本のように、王朝が変わった場合は、その年次を伴う王朝交代の要約を記載しているのである。その要約を、「旧唐書」は「国史」の水準で、年次抜きで、採用しているのである。ある意味で、それ以外に、「旧唐書」には道が無かった。年次は、何処を探しても見当たらなかったからである。


 しかも、「旧唐書」は単なる、「会要」の書き写しでは無かった。その交代の要約は、国史の水準として、「会要」の矛盾した羅列とは異なり、論理的整合性を持っている。


 しかしながら、ここには、六五九年以後の年代の記述が一切、存在しない事を前提に成り立っているという点を、従来、見逃してきた事を指摘しなければならない。


 重ねて言うと、中国側の「会要」「冊府元亀」「旧唐書」には、六五九年以後の対日本関係年表は、殆ど記載されていない事が特色であり、
 一方、この時代を描いている「日本書紀」の「斉明紀」「天智紀」「天武紀」「持統紀」には、多くの対外年表が載っていて、勿論、対唐関係の年表が中心ですが、その大部分が、中国側に該当するものがありません。


 記録の国の「国史」に年表が無いという事に付いては、原因は、二つです。紛失したか、それとも、非公開化されたか。

 紛失は、ありえません。徳宗時代以前に紛失しているとしたら、他の年表にも影響があります。そうゆう傾向は聞いた事がありません。

 としたら、意図的に、この部分が、非公開になっていて、徳宗代年までには、年表の代わりに、この空白を埋める要約が、成立していたと考えられます。

 従って、「会要」と「旧唐書」にある、「倭国伝」「日本国伝」の要約は、非公開にした唐王朝が、非公開の決定時に作成した、弁解書、説明書なのです。

 何時の決定か?徳宗代には、当然、詳細な年表を知りえませんから、「会要」の編者が新作することは不可能です。
 七八〇年以前のかなり早い時期に、世上公開の公文書、特に、外交年表の中から、日中関係に限り、抜き取られ、国史編集資料としての使用が不可能となったのです。その齟齬を補う為に、要約が、はめ込まれたのです。


 つまり、七八〇年以前に、既に揃えられていた年表の中から、六五九年から七〇三年までの期間の、対、日本関係の外交年表に限って抜き取りが行われたのである。


「日本書紀」の編纂完了は七二〇年である。この編纂の後、六〇年後には、中国の国史編纂資料の中から、日本史五十六年分が抜き取られたのである。この要約はその段階で作成され、「会要」にはそれが、そのまま書き写されて、「会要」「続会要」「唐会要」と伝わったのです。


■■■■■

 以上で、主題の論稿を終えますが、追加があります。


 この「会要」の内容で注目すべき事を付記します。

   それは、「倭国伝」の中で、則天の時、自ら国名を日本に変えたといっていることで、従来、だから、大和の旧名が倭国だと則天は認めているとする論がありますが、ここは、大和が主張していると紹介しているに過ぎません。

 「会要」の「日本国伝」の日本は倭国の別種だとの事は、唐の見解である。

 入朝者と書いていることから、この日本国としての入朝者は、七〇三年の朝貢を指し、この入朝者が多くの自慢話をして、実態と違い、唐は此れを疑うとしていて自ら主張しているが、実態がなく、唐は疑っていると、強調しているのです。「会要」の則天時の文字を以って、倭国が単に日本と改名した事を、則天が承認したかのような主張は成り立たない。


 それから、「会要」が蝦夷国を独立国として扱っている事です。「蝦夷国」の項を独自に作っています。つまり、「日本国」や「倭国」と同じく項立てをしています。これは、徳宗代の認識と一致しているはずです。つまり、日本国史の八〇一年の坂上田村麻呂の蝦夷占領までは、蝦夷は独立国で、七二五年の「多賀城」建設も七三三年の「出羽の柵」も疑って掛からなければ成らないし、隼人・蝦夷の蝦夷は、蝦夷国とは区別しておかなければならないと思います。


 つまり、七世紀から八世紀にかけて、蝦夷征伐の国史が一方に書かれていて、一方では、隼人・蝦夷の倭国軍への取り込みが行われていて、七一〇年の平城遷都の時の儀式においては、隼人・蝦夷は近衛兵の中心として扱われていますので、蝦夷の場所の詳細な特定と区別が必要だと思います。(二〇一一・九・三)


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いやー、驚きです。。。。

 青木英利氏と全く面識がありませんが…、


 『つまり、七八〇年以前に、既に揃えられていた年表の中から、六五九年から七〇三年までの期間の、対、日本関係の外交年表に限って抜き取りが行われたのである。

 そうか、唐王朝側にも九州王朝「倭国」を抹殺する「外交史料の抜き取り」という意思が働いていたとは、全く想像外でした。


 【「持統紀」はなかった、本来は「高市紀」だった:飯田満麿著】
で、故飯田満麿氏が想定されていたことは、まんざら間違いではなかった、ということだ。

『1.動かせぬ歴史事実』
(イ)その政治的理由の発生時期は、『古事記』撰上の(712年)前後から『日本書紀』撰上の(720年)の期間に限定される事。

『9.結びにかえてー外国史書の証言』
これは「唐」側として、甚だ意思疎通に欠けるもので、不満の意が表明されたと思われる。この事態を受けて、「近畿王家」は大陸の風に倣って急遽漢風諡号を制定した。これは「唐」側に記録されている、開元初年(713)の粟田真人を正使とする遣唐使によって報告されたと推定される。但しこの開元初年の遣使記録は日本側には記録されていない。


 米田良三氏の源氏物語からの“すごーい”解明で、
【このことは『源氏物語』と『和泉式部日記』から明らかになります。
 唐からの一団は冊封関係を強いる使いであったため、王子である為尊親王は拒否をし、高表仁と言い争いになり、切られてしまいます。
 傍にいた太政大臣(現在の総理大臣)と式部卿(現在の外務大臣)も巻き添えを食うことになります。】

 この記事が、633年「表仁、綏遠の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る」といった安易なものでなかった。ということだ。


 私なりに、以上を、荒っぽく想定するに、

 開元初年(713)の粟田真人は、完成したばかりの『古事記』の素案を持って唐朝を訪れた。

 この時、唐朝側は、以前に、倭国が「冊封関係」を拒否したことで、他の「蛮夷」に示しが付かなくなっていた。
 また、羅唐同盟に「秦国」を誘惑したが、「秦国」が滅亡とかで、失敗していた。

 以上を踏まえ、日本・唐の両国が話しあった結果が、

『いっそのこと「倭国」・「秦国」との外交交渉史を、いや、「倭国」・「秦国」両国の存在そのものを、歴史上無かったことにしょう。』

という結論だったのではないだろうか。

●唐朝:『どうだ、そういった史書はできるか?』
●日本:『うーん、難しそうですが、やってみましょう。』

 そこで、帰国後、急遽“でっち上げ”られたのが、『日本書紀』だったということだ。
 当然、『日本書紀』は漢文であり、完成後、唐朝へ復命したはずだ。

 その復命の遣唐使が、養老元年(717年)派遣であろう。
少しの「手直し」は指示されたはずだが、その内容で、唐朝側も了解し、

「六五九年から七〇三年までの期間の、対、日本関係の外交年表に限って抜き取りが行なわれた」のである。


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『古田史学会報』no.106(2011年10月08日)に、寄稿の『唐書における7世紀の日本の記述の問題:山東省曲阜市 青木英利著』の末尾の「まとめ」は、まったくすごい・画期的である。
《 ご注意:以下はその抜粋である 》


 七八〇年以前のかなり早い時期に、世上公開の公文書、特に、外交年表の中から、日中関係に限り、抜き取られ、国史編集資料としての使用が不可能となったのです。その齟齬を補う為に、要約が、はめ込まれたのです。


 つまり、七八〇年以前に、既に揃えられていた年表の中から、六五九年から七〇三年までの期間の、対、日本関係の外交年表に限って抜き取りが行われたのである。


「日本書紀」の編纂完了は七二〇年である。この編纂の後、六〇年後には、中国の国史編纂資料の中から、日本史五十六年分が抜き取られたのである。この要約はその段階で作成され、「会要」にはそれが、そのまま書き写されて、「会要」「続会要」「唐会要」と伝わったのです。


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 少なくとも、大和朝廷の、いわゆる奈良時代に入って、日本国・唐国の両国で、九州王朝「倭国」・「秦国」の抹殺が実行されたということだ。なんとも、いやはや、“驚き”以外何ものでもない。


 ひょっとして、米田良三氏が言う、法隆寺・薬師寺・東大寺・長谷寺等々の九州から近畿への移築は、そこに「倭国」が存在していたという史実をも抹殺するが為の処置であり、更に、古典『源氏物語』『和泉式部日記』『土佐日記』等々の大宰府六〇〇年年代著作を、平安時代著作だと偽った時代の移し替えなどもその類いだとすると、すべての辻褄が合ってくる。


 “ 如何に、大々的に、組織だって ”、 日本国・唐国の両国が、両国の国を挙げて、九州王朝「倭国」・「秦国」の抹殺を実行したかであろう。


 犠牲者は、唐から冊封関係を強いられた九州王朝「倭国」のはずだ。冊封の強要を拒否された唐国の執念たるや、すさまじく。なんとも、いやはやである。


 そうだ、皆さんが知らない『源氏物語』と『和泉式部日記』が行間伝える史実の

『 九州王朝「倭国」の王子である為尊親王はこれを拒否し、高表仁と言い争いになり、切られてしまいます。
 傍にいた太政大臣(現在の総理大臣)と式部卿(現在の外務大臣)も巻き添えを食うことになります。』


《 「中国の周辺弱小国が独立を貫く」上で、九州王朝「倭国」の王子である為尊親王が唐国の冊封強要を拒否した 》 史実の意義は非常に大きいものがあるといえます。


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《私なりに、あらっぽい想定》

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①:開元初年(713)の粟田真人は、完成したばかりの『古事記』の素案を持って唐朝を訪れた。
 この時、唐朝側は、以前に、倭国が「冊封関係」を拒否したことで、他の「蛮夷」に示しが付かなくなっていた。
 また、羅唐同盟に「秦国」を誘惑したが、「秦国」が滅亡とかで、失敗していた。
 以上を踏まえ、日本・唐の両国が話しあった結果が、
『いっそのこと「倭国」・「秦国」との外交交渉史を、いや、「倭国」・「秦国」両国の存在そのものを、歴史上無かったことにしょう。』という結論だったのではないだろうか。
●唐朝:『どうだ、そういった史書はできるか?』
●日本:『うーん、難しそうですが、やってみましょう。』
 そこで、帰国後、急遽“でっち上げ”られたのが、『日本書紀』だったということだ。
 当然、『日本書紀』は漢文であり、完成後、唐朝へ復命したはずだ。

②: その復命の遣唐使が、養老元年(717年)派遣であろう。
少しの「手直し」は指示されたはずだが、その内容で、唐朝側も了解し、
「六五九年から七〇三年までの期間の、対、日本関係の外交年表に限って抜き取りが行なわれた」のである。


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 この上記《私なりに、あらっぽい想定》が成り立つ為には、日本国遣唐使の①、及び②の派遣時に、嘗ての六五九年「秦国」外交使節団員が、加わっていたはずだと考えざるを得ません。

 附庸国「秦王国」 ⇒ 長門以東天智近江朝「日本国」 ⇒ 灘波副都天武朝 ⇒ (文武天皇)大和朝廷「日本国」

と渡り歩いただろう外交使節団の構成員・メンバーです。
少なくとも、「秦王国」の外交経緯を熟知し、唐国側に面識のある人物でなければ成らないのです。


《そこで、参考迄にトレースしている頁が以下です…が、確信は無い》
2011年9月13日(火)
『古事記正解』 @Kojikiseikai(関根 聡)氏 の ツイート一覧をご参照ください。

※ 詳細は該当頁にてお願いします。


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(815) 『白村江敗戦で、九州王朝「倭国」は唐に制海権を奪われ、為に、海運取引税収入が無くなり財政が逼迫した』 2011年10月24日(月)




『古田史学会報』no.104(2011年6月5日)に、寄稿の『卑弥呼の時代と税について:山東省曲阜市 青木英利著』

 青木英利氏は、この記事の中の末尾に、


『白村江敗戦で、九州王朝「倭国」は、(唐に制海権を奪われ、)唐による海運取引制限を受け、為に、海運取引(消費税?)収入が無くなり、財政が逼迫した』

とするユニークな見方を発表されているのでその投稿記事を紹介します。


■■■■


《 ご注意:以下はその抜粋・転載ですので悪しからず。 》

 三国志魏志倭人伝に「収租賦」の言葉がある事は衆知、疑いない。 しかし、賦税制度とその前提の「課税台帳」としての「戸籍」の存在は、記載がない。
 もとより、「収租賦」が本当に、後代の租庸調の租税に当たるのかさえ不明瞭である。
 私は、長らく、不明瞭だと感じていたので、今回、三国志魏志の全「租」の使用例を抜き出してその標準の意味を確認した。


 呉志にも使用されていたが、数が少なく、蜀志には使用例がない。従って、魏志だけに限って調べた。
 使用箇所の概括は、武帝・文帝・明帝・三少帝の帝紀で十二箇所、伝で十一箇所。帝紀は武帝の本文が一箇所、注の魏書からの引用文中に八箇所、他の三帝紀では本文です。伝での使用は十一箇所の内、本文上に使用されているのは八箇所で、注は三箇所です。
 武帝紀の注の魏書の使用をみると、この時代までに、「租賦」の使用は多くその意味も確立しているとの印象が最初にありました。


● 最初から順に訳文を羅列します。


一、今年の租賦は納める事は不要
二、他の方たちに代わり、租賦を納める
三、彼が納めた田租は、一畝につき四升の穀物
四、現在将に受け取った租賦を部下に分け与える
五、田租と俸禄の為に、奉仕する
六、祖税は全て完全に納めつくした
七、皆、税を納めるのは不可能だ
八、賜ったのは𩙿尭安県の田租
九、ここにおいて、誰(人名)の賦税徭(よう)役を二年間免除する
十、頻川郡の田租を一年間免除する
十一、配偶者や子供の無い老人、父親の無い子供は今年の租賦は免除
十二、毎年ただ、半分の租賦を納めよ、之を五年継続。
十三、租賦を僅かに納めるか、それとも、延び延びにする。
十四、また、納めさす田租賦税綿絹の類い(新しい租税の新設)
十五、田租の収入は平素の数倍(豊作で、田の面積も増えている)
十六、租の時期は、人々に対して、その時に応じた、適切な量で納めさせるべき
十七、詔勅によって、茂の田租と俸禄は少なくなった(封戸を五千から五百に削る)
十八、食物・衣類に課税ならびに田租賦税(消費税の事かな?)
十九、田租賦税を軽く少なくする
二十、又、烏丸五百余の戸家の田租を免ずる事を上表する
二十一、又、使者を派遣、彼等の租税を非常に厳しく管理する
二十二、非常に重い田租賦税を納めさす
二十三、田租賦税を、納めさす

 以上二十三個所の「租」関係の、訳文を羅列した。最後の二十三番目の、「田租税を、納めさす」が倭国伝の訳文である。魏の使者が二十年に渡り、倭国に逗留して観察した結果、簡明に書かれたこの「収租賦」の意味は大きい。中国の税制度の知識の無い方が、以上の二十三箇所の訳文を読まれた場合の印象は如何なものであろうか。


 ただ、背景だけは予断になるかも知れないが、述べたい。「三国志」には志がなくて、志の中で本来食貨の項があり、ここで租税と土地政策が述べられるのだが、志が無いので、「三国志の「租 」の概念に付いての直接の包括的な説明は無い。


 しかし、晋書で述べられている事が相当すると見られる。全ての教科書で、両晋南朝の屯田制が税の制度としても語られている。これは、曹操の魏時代に行われた「屯田制と戸調式」を引き継いだもので、中国史史上一大画期をなすものである。


 漢末の混乱は、朝廷の混乱もあったが、大掛かりな農民反乱で三国時代となり、いわば、騒乱の中での徴兵と、逃散により、無住の農地が激増して、農地は荒廃した。
 勿論、国家によって管理、掌握される人民の人口は大激減である。それは、騒乱から逃げる事と、徴兵を免れるための逃散によってである。
 この時代の戦闘は、勝利も大切だが、兵士狩りが目的の戦闘も多い。農民兵士が、戦闘員の大部分の時代である。
 農民が、兵士から分離されたのは、唐時代になってからである。唐代は、農民には一切徴兵はなくなった。身分上の不分離の時代が三国時代である。
 一言付け加えると、隋代の琉球占領は、一万二千人の捕虜を連行して、その後も屋久島などに侵攻しているが、この時代もまだ、兵士狩りが目的だ。


 この時代は、土地と人をどのように結びつけるかが課題で、全部兵隊では、農業をやる者が居なくなるので、戦闘の無いときはどんどん土地をあてがって、兵隊には屯田させ、屯田は僻地にも広げた。優遇すれば、逃げていた農民も集まって来るものである。




 これらの作業は、土地と農民の関係では、「土地の私有制と賦役」が漢代で確立しているし、「役」は代納・貨幣経済が発達しているので、この基礎の上に、戦乱で崩壊した農村社会の現状に即した、新しい、税の体制が実施されたのである。
 当然、散逸した戸籍の再生も、現状に即した形で再生されたのである。もはや、以前の戸籍にこだわる必要はない。これらのことは、文書作業なしには成し得ない事は自明である。


 そういった時代に生きた陳壽にとっては、「租賦税」は政治制度・社会制度の基本であり、現実の施策の名称である。
 当然、彼に倭国の報告をした官人も、同様の水準で、「租賦税」を認識していたはずである。
 倭国に、「租賦税」の仕組みが有るのか・無いのか、そのことも報告の対象となっている。有ると報告しているのである。
 その「租賦税」とは、上記羅列した二十三箇所のような意味の租税制度なのである。詳細な点では、異なる点があるかもしれないが、大概においては、同一の意味での税制度を指している事は疑いない。


 さて、それならば、論理の指し示す公理に基づくと、「戸籍」があった事もこれも確実である。
 そして、また、「伝送文書」と言って、国内外を問わず、一大卒が文書と賜り物を検査していると述べている様子は、文書なしにはどんな小さな公事も進まないと言うことであり、文字が普及していると言うことでもある。


 以上の事より、「租賦税」の制度があり、収納させていると言う事が明らかなので、次に、「租賦税」の中身・種類などについて、これから関心を持ってみたい。


 両岸海上国家というイメージと市場で食料を手に入れている記載から、海運取引税や消費税などが田税とともに仮定される。私は、額としては田税より海運取引・消費税の比率が高かったのではないかと想像している。なぜなら、中国では、儒教の影響で、商業が軽視されているが、反面、古代戦国時代以来、世界的な商業中心地で、商業資本・金融資本が大変発達していて、歴代の王朝はこの金融資本・商業資本を当てにしてきた。


 倭国は小国連合の国家であったわけで、二十九の他の小国に対して、倭国の徴税権が及ぶはずがない。
 倭国は、倭国内だけの「田租賦税」だけでは、田の広さと農民人口だけでは、形式的には三十分の一の収入である。
 とすれば、海運取引・消費税という市場占有率が物を言う世界だから、この独占で、大きな収入があったと想像できる。


 だとすると、(その後の倭国の)白村江の敗戦は、この海運市場の国内外の喪失であり、当然、唐からは、遣唐使航路の制限と造船の制限を受けたであろうから、この点で、倭国の国家財政は逼迫したはずである。
 遣唐使だけの経済交流は、実は、海運取引の市場を奪う、中国からの経済統制である。
 (倭国を後に後継の)日本(国)は、「田租賦」のみに頼ることになり、戸籍の実施は全国的なものとなった。戸籍は、嘗ては、倭国だけにあったと見なすべきだろう。


■■■■


抜粋・転載は以上ですが、




 上記の題名『卑弥呼の時代と税について』の 山東省曲阜市 青木英利氏投稿記事は、従来説とは、全く異なる新たな視点での「三国志魏史倭人伝・卑弥呼」像を捕らえている。

 同時に、言い方を換えれば、『白村江敗戦で、九州王朝「倭国」は唐に制海権を奪われ、為に、海運取引税収入が無くなり財政が逼迫した。』と要約できよう。


 私が以前より、『倭国は、白村江敗戦での唐への戦後賠償支払いで疲弊した。』とする見方は、『百済再興で、韓半島の白村江へ派兵敗戦が、列島本土決戦での敗戦ではなかった為、倭国が素直に戦後賠償に応じたかどうか分らない。』とも考えられる。

 従って、青木英利氏の上記投稿記事の『白村江敗戦で、九州王朝「倭国」は唐に制海権を奪われ、為に、海運取引税収入が無くなり財政が逼迫した。』とする見方のほうが、現実的で、妥当性があると言える。私の説は間違いのようだ、今後は訂正する。

 この事は、「天下立評」で九州を除く長門以東の灘波副都弟王家(=プロト大和朝廷)の近江朝天智天皇、大海人天武天皇は、傘下の各附庸王家を解体し、評制を確立し、「田租賦税」を得る組織をつくり上げていたが為に、兄王家の九州倭国といつしかその勢力を逆転、しのぐようになったものといえよう。




 過去、青木英利氏が『古田史学会報』へ投稿記事で、本ブログで取上げ、抜粋・転載したものは、上記を含め以下のものがあります。


①◆2011年2月15日(火)
【白村江の会戦の年代の違いを検討する:中国山東省曲阜市 青木英利氏寄稿】
『古田史学会報』no102(2011年2月5日号)『白村江の会戦の年代の違いを検討する:中国山東省曲阜市 青木英利氏寄稿』


②◆2011年10月24日(月)
【白村江敗戦で、九州王朝「倭国」は唐に制海権を奪われ、為に海運取引税収入が無くなり財政が逼迫した】
『古田史学会報』no.104(2011年6月5日)『卑弥呼の時代と税について:山東省曲阜市 青木英利著』


③◆2011年10月21日(金)
【「日本書紀」七二〇年編纂完了後、唐朝では国史編纂資料中から、倭国史五十六年分が抜き取られたのである】
『古田史学会報』no.106(2011年10月08日)『唐書における7世紀の日本の記述の問題:山東省曲阜市 青木英利著』




上記は、いずれもわが説の

『大和王朝は難波副都で天下立評した九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』

を補強し、我田引水かも知れないが、非常に近しいものであると考えています。


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(816) 『震災後の奥州紅葉狩り』 2011年10月31日(月)


 プリウス車で秋の東北を巡って、来ました。
25日、福島2本松の岳温泉泊まり。
26日、山形の山寺・平泉中尊寺金色堂・「延年の舞い」の毛越寺(もうつうじ)・一関泊まり。
27日、青森の三内丸山遺跡、八甲田山ロープウェイ、奥入瀬渓流、十和田湖休屋泊まり。
28日、大湯環状列石、多賀城碑、鐘崎笹かま館、岳温泉泊まり。
29日、昼過ぎ横浜帰宅。4泊5日の旅行。


 車走距離1,720km、高速料金28,150円
プリウス車は120~130kmがちょうど良い速度かな。越えると顔が引きつってくる。レクサスとかがゆったりと、後を追ってくると自然によけたくなる。まっ、ともかく、加速性は抜群に良い。車線変更、高速路進入加速は不安がない。


 東北自動車道は震災の傷跡があって、いたるところで工事中だった。もうかなり、補修が進んでいるのだろうが、あくまで、応急処置が終わったといった段階かな。路面はパッチワークそのもので、車輪が吹っ飛ぶんじゃーと思うことが度々だった。
 特に、仙台北部道路のジャンクションは、盛り土構成で建設されているのか、ひび割れの補修跡が痛々しかった。


 青森の恐れ山へ行って、金鉱を探すのが夢で、今度も『大金山がゾクゾク発見されている:上原敬之典著』の本を携帯したが、残念、そこまで行けなかった。いやー、蝦夷国は広い。


 八甲田のてっぺんは雪?霧氷?かな、もう、紅葉は終わってて冬景色。奥入瀬は水量豊かで紅葉が盛りだった、いつ行っても良いところのようだ。
 念願の三内丸山遺跡・大湯環状列石・多賀城碑はやっと訪れることが出来た。女房に感謝・感謝です。
 ホテルは閑散かと思ったが、思いのほか満杯で、漸く落着きを見せ始めたって感じかな。
 中国・韓国・台湾からの観光客と思える方々に結構であった。ありがたい。


 岳温泉(注:岳温泉から459号線を東に行くと、原発被災のうわさの浪江町・双葉町です)には、機動隊のバスを数台見かけたし、東北自動車道の安代JCTの青森側は自衛隊のトラックを数台追い越した。
 まだまだ、震災の復旧は隊員の協力が必要だし、ありがたい、感謝する。
 仙台空港の傍を通ったが、被災状況は見えなかった。


 東北自動車道は、軽4とトラックの多いのにはびっくりした。最近の軽4はターボチャージャーが標準装備のようで、結構な速度が出せるようで…、先日宇部高専のクラス会で久しぶりに会った小・中学時代からの旧友が軽4で山口の田舎に帰った(片道約1,000km)ってんで、おい・おいって、仲間にひやかされてたが、なーるほどと思った。


 左側車線、追い越し車線の両方にトラックが並んで走られたのには参った。一気に減速するのだが、中には、意地悪なトラックの運ちゃんがいるようで、ふたをするのを楽しんでるようだった。
 パッシングしても…?? 駄目かなー、かなりの距離引っ張られた。


amami_toshitoshihiko.izutani
最低なドライバーですね"@tohyan: 左側車線、追い越し車線の両方にトラックが並んで走られたのには参った。一気に減速するのだが、中には、意地悪なトラックの運ちゃんがいるようで、ふたをするのを楽しんでるようだった。 パッシングしても…?? 駄目かなー、かなりの距離引っ張られた。


yasuhara24安原圭二
最低! QT @amami_toshi: 最低なドライバーですね"@tohyan: 左側車線、追い越し車線の両方にトラックが並んで走られたのには参った。一気に減速するのだが、中には、意地悪なトラックの運ちゃんがいるようで、ふたをするのを楽しんでるようだった。


今回は東北地震の半年後ということもあってか多くのトラックを みかけましたが、110~120kmだしてるのざらでしたね。 RT @yasuhara24 @amami_toshi


『震災後の奥州紅葉狩り』の最後28日、岳温泉に泊まりましたが、先にも書きましたが、この岳温泉から459号線を東に行くと、原発被災のうわさの浪江町・双葉町です。
そのホテルの温泉の内湯が熱くて、露天風呂へ入りましたが、たまたま、そこで、双葉町からの原発避難の方とご一緒した。
『政府も、東電も、いったい何してるんだ。俺達は帰りたいんだ、帰るに帰れない。』と悲痛な叫びを挙げられてました。


 福島県大玉村産(このまえ泊まった岳温泉付近)のガイガーカウンター。
これって良いんじゃない。さっき、テレビやってた。安いし素人向けだ。
《福島製の小型線量計16,800円在庫有。当日発送可。電話注文も歓迎 主婦や年配の方もワンタッチ簡単操作》


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(817) 『「長門以東」とは、倭国王の直轄領地「九州」に対する、間接支配領地「長門以東」のことである』 2011年11月6日(日)


 灘波副都近江朝天智天皇の「長門以東」とは、倭国王の直轄領地「九州」に対する、間接支配領地「長門以東」のことである。

 では、いわゆる「九州」とは何か、九州島の旧名、①筑前国・②筑後国・③肥前国・④肥後国・⑤豊前国・⑥豊後国・⑦日向国・⑧薩摩国・⑨大隅国の九国でもある。

 が、本来の「九州」とは『俀国』の天子の直轄領のことである。


 ここに、『九州王朝の論理(「日出ずる処の天子」の地):古田武彦・福永晋三・古賀達也共著』がある。

 詳細は本著を参照ください。例によって目次を書いておきます。


目次 九州王朝の論理-「日出ずる処の天子」の地

●はじめに 3…………高田かつ子

●九州の成立-『旧唐書』歴史は志にて知るべきものなり 9…………古田武彦

●「九州」の発見-王維の認識 唐詩の同時代史料性について 17…………福永晋三

●九州の探求 25…………古田武彦

●九州の論理-朝夕の竹林に王維の詩を玩味しつつ 33…………古田武彦

●日中関連史の新史料批判-王維と李白 45…………古田武彦

●九州を論ず-国内史料に見える「九州」の変遷 89…………古賀達也

●続・九州を論ず-国内史料に見える「九州」の分国 107…………古賀達也

●付論 於佐伽那流(おさかなる) 愛彌詩(えみし)-九州王朝勃興の影 117…………福永晋三

●九州の大道-あとがきに代えて 143…………古田武彦


 ◎史料…………175
  『隋書』俀国伝…………176
    「参考」《煬帝紀、琉求国伝》
  『旧唐書』倭国伝・日本国伝…………181
    「参考」《百済国伝》
  『新唐書』日本国伝…………183
    「参考」《百済伝》 



上記同書の要点は、
●九州の成立-『旧唐書』歴史は志にて知るべきものなり 9…………古田武彦
p12には、

『旧唐書』の中に、不思議な一節がある。
「(倭国)四面に小島、五十余国、皆これに付属す」(倭国伝)

ここで「四面」と言っているのから見ると、どうも「日本列島全体」というよりも、「九州島」だけを指しているのではないか。

 この疑問だった。確かに、日本列島全体の場合、「四面」という言い方は、何となく、“ふさわしくない”のである。

 ことに、つづく「日本伝」でその形状を、
「その国の界、東西南北各々数千里あり、西界南界はみな大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国なりと」と延べ、西日本一帯(日本アルプス以西)の形姿をよく反映させているのと比較すると、一段とその感が深い。…


《途中略》


●九州の成立-『旧唐書』歴史は志にて知るべきものなり 9…………古田武彦
p14には、

『旧唐書』のもたらした“新情報”とは何か。
「『俀国』の天子の直轄領」である。

古代、中国(周以前)において「天子の直轄領」を「九州」と称した。


《途中略》


 多利思北孤は、この中国の天子の制度をミニチュアながら“模倣”した。南朝(陳)の滅亡(五八九)後、みずから、代わって「天子」の座にあり、と称した。このため、「俀国風の『九州』」を定めた。それが渺(びょう:ちっぽけな)たる「九州島」だ。これ以外に、あの島を「九州」と呼ぶ理由など、何人にも、いつの時代にも、決してありえなかったのである。


《途中略》


●九州の成立-『旧唐書』歴史は志にて知るべきものなり 9…………古田武彦
p15には、

 向日市の「大極殿」(字・地名)が長岡京の中心「大極殿」であったように、大宰府の「紫宸殿」(字・地名)が「七〇一」以前の「俀国の天子」の中枢部の証拠でしかありえないように、

 わたしたちにとってあまりにもなじみ深い地名としてのこの「九州」こそ、東アジア独特の歴史地名としての「天子の直轄領」、それ以外の表示ではありえなかった。
 地名に遺された、いわばその一痕跡なのではあるまいか。この一事がようやく今、古史料によって論証されえたのである。未来への発起点だ。


《途中略》


続いて、 ●「九州」の発見-王維の認識 唐詩の同時代史料性について 17…………福永晋三
p17には、

  はじめに
九州の成立--『旧唐書』(本書一章)p15に、次の一節がある。

 『旧唐書』は「唐代の直接史料群」の中から、その(俀国の天子)の「直轄領」の記事を発掘し、『隋書』になき“新情報”として、これを敢えて記載したのであった。
 中国では、明白に「天子の直轄領」をしめす「九州」という用語そのものは避けながらも、その実体をここに明記していたのである。

古田武彦氏のこの一節から、一篇の唐詩を思い出した。


  王維と阿倍仲麻呂(中国・唐での名前=晁衡)

【送祕書晁監還日本國(王維)-祕書晁監(=阿倍仲麻呂)の日本國に還るを送る】《魚拓》


積水不可極、 - 積水 極むべからず、
九州何處〈所 〉、- 九州 何れの處〈所 遠き〉か
萬里若乘空。 - 萬里 空に乘ずるがごとし。
向國惟看日、 - 國に向かひては 惟(た)だ日を看、
歸帆但信風。 - 歸帆は 但(た)だ風に信(まか)す。
鰲身映天、 - 鰲身(がうしん) 天に映じてく、
魚眼射波紅。 - 魚眼 波を射て紅ならん。
樹扶桑外、 - 樹 扶桑の外、
主人孤島中。 - 主人 孤島の中。
別離方異域、 - 別離 方(まさ)に異域なれば、
音信若爲通。 - 音信 若爲(いかん)ぞ通ぜん。

   【全唐詩】巻一百二十七


 作者は王維、字は摩詰、尚書宇丞に至って没した。天宝十二載(七五三)、日本の阿倍仲麻呂の帰国を送る宴での詩である。五言排律の詩であるが、第三句の「九州」が、わが国の「九州」島を指すのでhないかと、二十年来うっすらと思ってきた。今回は、はっきりと正しく「俀国の天子の直轄領」としての「九州」島をさすのではないかとの認識に至った。


《途中略》


●「九州」の発見-王維の認識 唐詩の同時代史料性について 17…………福永晋三
p21には、

 『極玄集』が最古の成立である以上、王維はまさしく「九州何処所」、君(阿倍仲麻呂)の言う最初に着岸する「九州」とは一体どこなのかと詠ったのだ。
 王維は他の詩文では「九州」を「中国の天子の直轄領」すなわち「禹の九州」の意味でしか使っていない。
 従って、ここだけが、王維にとって未知なる「日本国の九州」なのである。畢竟、「九州」は中国であれ、日本であれ「天子の直轄領」だという認識から、王維は外れていないのである。日本国に「九州」があることを、王維は決して否定しなかったのである。


《途中略》


●「九州」の発見-王維の認識 唐詩の同時代史料性について 17…………福永晋三
p22には、

 『隋書』にも『旧唐書』にも書かれなかった「九州」が王維の詩に詠まれていた。
 わが国の王朝交代から半世紀経た唐の地で、唐の詩人が故国に帰る日本人を送る詩の中に、倭国・俀国の自称「九州」を残したことに驚きを禁じ得ない。
 なぜなら、七五三年の時点で、すでにわが国で「九州」の呼称が定着していたという何よりの証拠を、この詩が留めているからである。そして爾後、中国も日本も近畿を指して「九州」とは決して呼ばなかったのである。


《途中略》


●九州の探求 25…………古田武彦
p27には、

 このような「成立時期」の判明は、すなわち、ことの「真相」を顕わにした。なぜなら、

①「唐代(九世紀)成立の極玄集」には、明白に「九州何処所」とある。
②はるか後代の「明代(十四~十七世紀)成立の唐詩選」には、「九州何処遠」とある。

 この年代の先後関係から見れば、
「本来は『何処所』であったものが、後代に『何処遠』“改ざん”された」のであった。

 すなわち、王維はやはり、
「(貴方の言う)九州とは、一体どこにあるんだい」
と呼びかけていた、という可能性が高い。


◆◆◆◆


 なお、この王維の【送祕書晁監還日本國(王維)-祕書晁監(=阿倍仲麻呂)の日本國に還るを送る】の詩の一節には、


『樹扶桑外、 - 樹 扶桑の外、』とある。


●九州の論理-朝夕の竹林に王維の詩を玩味しつつ 33…………古田武彦
p42には、

「扶桑の地」それ自身を「遠地」とみなしたもの、それがこの問題の「扶桑外」という表現なのである。


《途中略》


 そうではない。王維の詩想は次のようだ。

「貴方の帰られる(彼方の:遠地の)故郷には(古典上)著名な扶桑が『樹』として生えている。そういったすばらしい世界へと帰られるのですね」 と。




 古田武彦氏は「扶桑外」の『「外」は内・外の外ではなく、「遠地(⇒米田良三氏は:かなた)」の意味だ』と指摘されている。

 が何故か、「扶桑外」の「扶桑」には触れられていないようだ。
 それは、中国の最古典『山海経』にある「扶桑」のようだ。
王維の博識というか、人柄が偲ばれよう。


◆◆◆◆


 我が、米田良三氏の翻訳は非常に分りやすいので、
『列島合体から倭国を論ず:米田良三著』
p52を再び、抜粋引用する。


1・『山海経』

 今から五〇〇〇年程前の東アジアが描かれている。荒唐無稽に思われた記述が、暘谷という海峡の存在が明らかになって意味を持ち出す。というのは日本に当たると思われる記述が「海外東経」にある。

 「海外、東南隅より東北隅に至るもの」とあり、「黒歯国」に次の記述がある。

 『下に湯のわく谷あり、湯の谷の上に扶桑あり、ここは十個の太陽が湯浴みするところ』

 ところがさらに「大荒東経」という篇がある。東洋文庫本の解説に『山海経』に序を書き注をつけた「郭璞(かくはく:二七六~三二四年)は大荒経四と後尾の海内経一を合わせた五篇を、後人の述べるところといい、いつの作品ということに言及していない。晋以前のものであろうが、すでに郭自身が明らかにすることができなかった」とある。
 その「大荒東経」は、次のように記述する。

 『東海の外(=かなた)に大きな壑(=たに)があり、そこは少昊(=こう)の国』

 と始まり、三分の二ほどのところに、

 『山の上に扶木(=扶桑の木)がある。高さ三百里、その葉は芥菜(からしな)のよう。谷あり、湯源の谷(=湯谷)といい、その湯の谷の上に扶木があり、一個の太陽がやってくると、一個の太陽が出ていく。(太陽は)みんな鳥を載せている』

 「海外東経」が西日本の記録であり、「大荒東経」が東日本の記録であったのが、日本列島が合体して二〇〇〇年以上経った晋の時代の郭には、暘谷という海峡の存在はもはや知る事が出来なかったのである。もちろん暘谷が日本を指す事は知識として知っていたはずである。

 五〇〇〇年前の暘谷を湯の谷と断崖の上に生えた「扶桑の木」と書いており、深い海溝を挟んだ特殊な形状の海峡が表現される。

 現在中部、関東地方の神社に伝わるオビシャという祭りの原型と思われる言葉「太陽と鳥」が記される。

 また両経の記述に、暘谷を(一〇個の)太陽が湯浴みするところとしており、後に用いられる「日出ずるところ(=隋書の)」、「日辺(=旧唐書の)」の淵源となる話が成立していたと思われる。





 即ち、「扶桑の木」の生えてる「暘谷海」とは、現在の
【フォッサマグナ (Fossa Magna)】
だと理解できよう。


◆◆◆◆


さて、ここで上記、古田武彦氏の著述を、切り口を換えて、再度振り返ってみる。




●九州の成立-『旧唐書』歴史は志にて知るべきものなり 9…………古田武彦
p14には、

『旧唐書』のもたらした“新情報”とは何か。
「『俀国』の天子の直轄領」である。

古代、中国(周以前)において「天子の直轄領」を「九州」と称した。


《途中略》


 多利思北孤は、この中国の天子の制度をミニチュアながら“模倣”した。南朝(陳)の滅亡(五八九)後、みずから、代わって「天子」の座にあり、と称した。このため、「俀国風の『九州』」を定めた。それが渺(びょう:ちっぽけな)たる「九州島」だ。これ以外に、あの島を「九州」と呼ぶ理由など、何人にも、いつの時代にも、決してありえなかったのである。


◆◆◆◆


 古田武彦氏の指摘は、『多利思北孤は、この中国の天子の制度を“模倣”し、南朝(陳)の滅亡(五八九)後、みずから、代わって「天子」の座にあり、と称した。それが渺(びょう:ちっぽけな)たる「九州島」だ。』となる。


 私が何を言いたいかであるが…、

 その時期を、『南朝(陳)の滅亡(五八九)後、「天子」・「九州」を称した。』と推定されている、ことになる。

 ここで私の、『「長門以東」とは、倭国王の直轄領地「九州」に対する、間接支配領地「長門以東」のことである。すなわち、「九州」と「長門以東」とは対句である。』が正しいならば…、

『日本書紀』継体紀21年(527)、『天皇は「長門以東」は朕がとろう。筑紫以西は汝がとれ…云々』の時期は、やはり、おかしいのではないだろうか。
 『「南朝(陳)の滅亡の589年以前に「九州島」の発想は、逆に言うと、無い。だから、527年の「長門以東」は有り得ないこととなる。

 やはり、この場合も、『日本書紀』継体天皇の言動は、白村江敗戦(662年)以後の近江朝(日本国)天智天皇の言動が置き換えられている、と考えるべきであろう。


◆◆◆◆


2010年10月31日(日)
長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。

2010年7月18日(日)
継体紀の「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。」とは




 『日本書紀継体紀527年(継体21正和2)8月1日天皇は親しく斧鉞をとって、物部麁鹿火大連に授けて「長門以東は朕がとろう。筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え。ひんぴんと報告しなくともよい」といった。』

 ⇒いままで、この句の背景になった史実が思い浮かばなく思案してたが、

 朕が天智で、物部麁鹿火大連が大海人皇子の天武天皇だとしたらどうだろう。大宰府倭兄王家の白鳳王薩夜麻が白村江戦で敗れ、自身は唐の捕虜になった。その直後の難波複都倭弟王家の中大兄皇太子と大海人皇子との会話だとすれば、留守居のプロト大和朝廷が、九州王朝倭国のあとがまにそっくり納まろうとしたと分かる。




 思うに、『日本書紀』の「磐井の叛乱」も、「大化の改新」と同様に、色々な歴史資料を寄せ集めて、年次を「繰上げ・繰下げして」切り貼りし、“でっち上げられた”ものである、と言えるようだ。


◆◆◆◆


 昨夜寝床で、amazonにて、取り寄せてあった『俾弥呼(ひみか):古田武彦著』の頁を“ぱらぱら”とめくり、目次を読んでると、“わくわく”してきた。
 古田武彦氏の著述には、年寄りを若者にする麻薬が入っているようだ。




 先に、このブログの、
『白村江敗戦で、九州王朝「倭国」は唐に制海権を奪われ、為に、海運取引税収入が無くなり財政が逼迫した』

で紹介の

『古田史学会報』no.104(2011年6月5日)に、寄稿の『卑弥呼の時代と税について:山東省曲阜市 青木英利著』のなかで、

『倭国は小国連合の国家であったわけで、二十九の他の小国に対して、倭国の徴税権が及ぶはずがない。
 倭国は、倭国内だけの「田租賦税」だけでは、田の広さと農民人口だけでは、形式的には三十分の一の収入である。
 とすれば、海運取引・消費税という市場占有率が物を言う世界だから、この独占で、大きな収入があったと想像できる。』

◆《海運取引・消費税という市場占有率が物を言う世界だから、この独占で、大きな収入があった》




 更に、
『「長門以東」とは、倭国王の直轄領地「九州」に対する、間接支配領地「長門以東」のことである』

で紹介の

『九州王朝の論理(「日出ずる処の天子」の地):古田武彦・福永晋三・古賀達也共著』のなかで、

●九州の成立-『旧唐書』歴史は志にて知るべきものなり 9…………古田武彦
p14には、

『旧唐書』のもたらした“新情報”とは何か。
「『俀国』の天子の直轄領」である。

古代、中国(周以前)において「天子の直轄領」を「九州」と称した。

《途中略》

 『多利思北孤は、この中国の天子の制度をミニチュアながら“模倣”した。南朝(陳)の滅亡(五八九)後、みずから、代わって「天子」の座にあり、と称した。このため、「俀国風の『九州』」を定めた。それが渺(びょう:ちっぽけな)たる「九州島」だ。これ以外に、あの島を「九州」と呼ぶ理由など、何人にも、いつの時代にも、決してありえなかったのである。』

◆《渺(びょう:ちっぽけな)たる「九州島」》




以上をまとめると、

◆《海運取引・消費税という市場占有率が物を言う世界だから、この独占で、大きな収入があった》

◆《渺(びょう:ちっぽけな)たる「九州島」》

である。

 これは、一時の「大英帝国」のイメージではないだろうか?「海運通商国家」、いやーひょっとして、黄海を“わが庭・我がもの顔”に行き来した「海賊国家」だったのではないだろうか。

 というのが、『壬申大乱:古田武彦氏』p59には、
『わたしはようやく到達した。「持統紀の吉野行幸」、その全三十一回の秘密を明らかにしうる地点に来たのである。
その「秘密をにぎる鍵」は、「丁亥」の一語にあった。』
とある。

 いわゆる「持統紀」は十一年間で、「吉野行幸」記事は持統三年一月一八日から持統十一年四月一四日迄、九年間で全三十一回の、「吉野行幸」記事がある事になる。

 これを古田武彦氏は、『吉野軍港軍事派兵閲兵行幸』とみなされているようだ。が、年平均3.4回である。3.5ヶ月に1回を多いと見るか・少ないと見るか…、
『私は、国を挙げての交易の為の「出船の見送り」も含めて』ではないか?と考えている。

 今、奈良の正倉院は、九州・久留米市にあったというではないか、当然、中にある品物は九州王朝「倭国」の交易品であり、南方の『海のシルクロード』経由の、ペルシャ、インド、マレーシア、香港、上海、有明海、吉野ヶ里港(馬市港)へ陸揚げされたものである。

『ちっぽけな「九州島」』に対し、『列島の大部分を占める「長門以東」』といった現在の“面積をもとにした見方”に誰しもが陥りがちなのは、注意すべきだろう。




『稲の日本史:佐藤洋一郎著』p177を読むと、

 『大昔から日本列島にあったと考えてきたイネと稲作の少なくない部分が近世以後のものなのだということを、わたしは声を大にしていっておきたいのである』

 だと力説されている。

 今の「水田」のイメージが定着したのは、近世以降だとすると、それ以前の古代「天下立評」「廃評建郡」「租庸調」「荘園」「封建領主」といった要素はかなり、あやふやなものとなるではないか。




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(818) 『安田喜憲氏の『龍の文明・太陽の文明』(PHP新書、2001)』 2011年11月12日(土)




 先日、このブログ

〔2011年8月25日(木)〕九州王朝「倭国」の源流の長江中流域と、『古事記』序文の倭王・薩夜麻(=天武天皇)
 で、

 『古事記』序文の天武天皇の内実とは、倭王・薩夜麻(=天武天皇)の倭国再統合と倭王復位の事だと考えている。

 このモデルを、とりわけうまく説明できるのが、
〔安田喜憲氏の『龍の文明・太陽の文明』(PHP新書、2001)〕《魚拓》
だと思う。

と紹介しましたが、再度とりあげます。


◆◆◆◆


『龍の文明・太陽の文明:安田喜憲著』

著書表紙カバーの内容紹介:

●北方を起源とし、覇権主義的な性格をもっていた龍の文明。
●一方、長江流域で発祥し、再生と循環の世界観を基本とした太陽の文明。

 約七千年前、この全く性質の異なる二つの文明が中国大陸の北と南に存在した。

 その後、二つの文明は衝突し、結果、漢民族支配の龍型・中華文明が覇権を握ることになった。
 そして、太陽の文明は滅び、一部は少数民族と日本民族へと受け継がれ生き残ることになる。

 南北文明の壮大な興亡の歴史を読み解きながら、日中古代史に貴重な一ページを加える一冊。




はじめに

 中国には、北の畑作牧畜・南の稲作漁労、北の龍・南の鳳凰、北の馬・南の牛という明白な南北構造がみられる。
 これは南船北馬と古くからいわれてきたこととも通じる。その南北構造はたんに交通や経済の問題にとどまらず、中国文明とは何かを根本的に問い直すきわめて重大なことがらを内包している。

 本書は龍と鳳凰(太陽)をめぐる中国人の世界観・宇宙観に焦点をあてる。その南北構造を中国文明史の中に位置づけることによって、中国文明とは南であったかを問い直す。

 そして、この龍と鳳凰の南北構造からみえてきたもう一つの重要なことがらは、日本民族のルーツとその未来さえ、この中国の南北構造の中で見直す必要が出てきたということである。




龍の文明・太陽の文明 目次


はじめに


第一章 龍の文明

 1…龍の起源を求めて
    龍の文明史 p14
    龍と蛇の起源は違う p15
    龍と馬の深い関係 p16
    龍の誕生地は中国東北部 p18
    出土品に描かれた鳥の頭を持つ龍 p22
    モデルは猪・鹿・魚類 p25
    現在に近い七千年前の龍 p26
    北方から長江流域へと広がった信仰 p29
    龍信仰と玉信仰の発展 p31
    気候変動と巨大都市の出現 p33

 2…龍と王権
    チャピン文化の迷宮 p37
    蛇信仰とジャガー信仰 p41
    モンゴロイドと麻雀 p43
    蛇から龍へ転換したモチェ文化 p44
    龍の出現と王権の確立 p48
    日本列島における王権の誕生と龍 p50


第二章 鳳凰と太陽-稲作・漁撈民のシンボル

 1…太陽の化身・鳳凰
    牧畜民の侵略をはばんだ湿潤な風土 p54
    太陽信仰と鳥信仰 p55
    鳳凰のルーツ p57
    太陽・鳥信仰こそ長江文明の特徴 p60
    鳳凰の吉数は八か六 p63
    火の鳥・日の鳥 p66
    朱雀のルーツは鳳凰 p68

 2…長江文明を担った少数民族
    フウの木は語る p70
    フウの木を崇拝する苗族 p74
    弥生時代を思わせる高床式倉庫 p76
    フウの木で作られた蘆笙柱 p78
    苗族の祭り p80
    太陽のシンボル銅鼓 p82
    フウの木は苗族の宇宙樹 p82
    堅岩 p83
    高床式住居と棚田 p84
    苗族は楓香樹の森の民 p87
    城頭山遺跡を復元する p88
    江漢平原は長江文明の発祥地 p90
    三苗と漢民族の争い p92
    屈原の悲しみ p95


第三章 北の龍・南の鳳凰

 1…南北構造のルーツ
    龍族と太陽族の明白なすみわけ p98
    最高神から水の神へ p102
    龍族と太陽族・蛇族の争い p104

 2…なぜ日本人は雲南省に共感するのか
    龍が鳥に食べられる p107
    強烈な蛇信仰とアニミズムの世界 p109
    蛇と牛・龍と馬 p116
    大蛇の犠牲にされる女性 p118
    蛇と女王の国 p121
    水平軸の目と垂直軸の目 p123
    弥生時代も母権制社会だったのか p125
    首狩りはあったか p126
    滇王国と弥生時代の崩壊 p127
    政治は北・心は南 p132
    雲南省と日本に共通点がある理由 p133


第四章 稲作・漁撈文明の系譜-日本文明の源流を問う

    共通した再生と循環の世界観 p136
    日本の天皇のシンボルは菊 p138
    日本神話に宿る長江文明の存在 p139
    稲・太陽・鳥の信仰は長江からやって来た p143
    ニニギノミコトと鑑真 p143
    ニニギノミコトはなぜ日本へ来たか p146
    江南の水軍 p151
    稲作・漁撈民南方征服王朝説 p153
    南朝と北朝の対立 p156
    長江文明最後の反乱 p158


第五章 東洋文明の復権

 1…中華文明の同化力と融合力
    父権制的文明のシンボルであった「龍」 p162
    中華文明の同化力と融合力のシンボル p163
    中華世紀壇 p164

 2…覇権主義から環境主義へ
    太陽を選んだ日本人 p168
    龍が平和にすむところ・桃源郷 p169
    西洋文明とドラゴン p171
    なぜ西洋はアニミズムを拒否するのか p174
    ドラゴン・プロジェクト p177
    覇権主義の龍と闘ってはならない p178
    長江文明の復権が日中の絆 p182


あとがき




 『日本書紀』の天武天皇とは、倭王・薩夜麻と大海人皇子の二人一役と折にふれ、書いている。
 また、『日本書紀』が「三四年後代送り」あるいは、「五〇年前倒し」してるなどと、とても、正気な・まともな史書とは言えないと分ってきた。が、他に頼る史書が「焚き書」・「隠蔽」等で無い以上、止むを得ないこととは言え、本書にも残念ながら、『日本書紀』が、かなり、引用されている。そのことを抜きにすれば、各位にぜひ、一読をお勧めします。




わたしなりに、特に、気に留めた箇所を以下抜粋・転載します。


第四章 稲作・漁撈文明の系譜-日本文明の源流を問う
    稲作・漁撈民南方征服王朝説 p153

の中の途中に、以下の記述がなされている。

p154に、

 しかし、中国では龍が皇帝のシンボルとなっているのに対し、日本では龍は天皇天皇のシンボルとはならなかった。
 すでに述べたように龍は中国北部の畑作・牧畜民のシンボルであったからである。これに対し、天皇家の主神は、太陽神アマテラスを祀る伊勢神宮にある。このことは、神武天皇以来の日本の天皇家が、龍や家畜の文化を持つ大陸北方よりは、太陽信仰と鳥信仰・蛇信仰を持つ南方の長江流域の稲作・漁撈文明と深い関わりがあったことを物語っているのである。初代の天皇神武が南九州から東征したという日本神話の物語は、日本の王朝の形成に際して、長江流域の稲作・漁撈文明の影響を強く受けたことを史実として伝承しているのではあるまいか。
 その長江流域の人々の生活は、稲を作り、魚を捕り、蚕を飼う生活である。この稲作・漁撈文明こそが日本の王朝を建国した人々に大きな影響を与え、彼らの神話こそが天津神系の神話なのではなかったか。




更に、

第四章 稲作・漁撈文明の系譜-日本文明の源流を問う
    長江文明最後の反乱 p158

p160に、

 天武朝になってアマテラスの伊勢神宮の地位がにわかに上昇する(熊谷公男『大王から天皇へ』講談社)。
 天武天皇が唐帝国の覇権主義に対抗し、倭国を独立した国として維持するために注目したハードは、北朝の畑作・牧畜民の文明システムの律令体制であったが、シフトは南朝の太陽信仰だった。
 天武天皇は長江文明以来の太陽信仰を体系づけ、「日の御子」としての天皇を中心とする「日本国の心の形」を作り上げた。天武天皇は太陽王であった。
 日本列島における「太陽の文明」はこの天武天皇によって名実ともに完成したといえるだろう。
 天武天皇は長江文明を継承し、その長江文明の世界観を天皇を中心とする日本国の建国の柱にすえたのだる。長江文明は日本文明となって甦ったのである。

 『古事記』を誦習した稗田阿礼はいうまでもなく、天武天皇も、太陽信仰のルーツが長江文明にあることは、当然知っていたであろう。
「日の御子」の太陽王としての正統性を示すためには、天皇の高祖は、長江にもっとも近接した南九州に天降る必要があったのである。 ニニギノミコトは太陽信仰のルーツである長江の下流域にもっとも近い笠沙の地に、降臨する必要があったのである。それは長江文明最後の反乱だった。


◆◆◆◆


 先に、『道教と古代日本:福永光司著』は数度ここでとり上げていますが、

【2011年8月15日(月)
また、支援を受けた唐に報告しないとは考えづらく、そして、「華夏」は中国(当時なら唐)を意味する】

 の中で、

■ 繰り返す、『書紀』のいわゆる“すりこみ”で天武天皇というと、すぐに大海人皇子と思う「くせ」が付いています。ところが、天武天皇とは、倭王・薩夜麻と、大海人皇子の2人1役の合成人間だと分ってきましたから、いずれの事績かは都度判断する必要があります。『古事記』序文の内実は、倭王・薩夜麻の事です。

 『古事記』序文の天武天皇の内実が、倭王・薩夜麻の事だと知って、『道教と古代日本:福永光司著』を読むと、更に理解と興味が深まる。
 参照:
【福永光司著『道教と古代日本』①「天皇」「真人」の項に『古代日本の天武・持統の頃云々』】




 この「道教と天武天皇との関係」については、安田喜憲氏の『龍の文明・太陽の文明』が、解説してるはずとして、

『このモデルを、とりわけうまく説明できると思う』

と、この頁の「はじめ」に期待して読み始めたのですが…、残念。。一言も言及されていなかった。




 『龍の文明』を代表する唐の高宗と、『太陽の文明』を代表する倭白鳳王薩夜麻こと天武天皇とのやり取りが、『古事記』序文に表われていると考えている。

 更に薩夜麻が唐から解放帰国後、神道とりわけ伊勢神宮に取込んだだろう唐の道教とは、『龍の文明・太陽の文明』の視点で、どうだったのか詳しく知りたいものです。




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(820) 『気付いたら、大和朝廷「日本国」になっていたという大和朝廷「日本国」とは、一体そもそも何者だったのか』 2011年11月17日(木)


 さて、年末だから、このブログも「まとめ」に入って、今年1年を振り返るものとする。

 しつこいかもしれないが…、周知の史実として、

《東北アジア周辺諸国、特に中国の古代史料は、九州王朝「倭国」の存在を貞觀二二年(西暦648年)迄は明記している。
 引き換え、大和朝廷「日本国」は、長安三年(西暦703年)の700年代に入って、突如現れる。》
ということをだ。

 この事は簡単なことだ。日本列島を代表する政権が、当初、九州王朝「倭国」だった。  そして、貞觀二二年(西暦648年)から長安三年(西暦703年)の期間に政権が交代し、気付いたら、大和朝廷「日本国」になっていたということだ。

 そうです、いわゆる中国側の欠史ブラック・ボックス(暗黒箱)は、
「貞觀二二年(西暦648年)から長安三年(西暦703年)の期間に限定される」のです。


 このことが何故かは、先のブログ
◆2011年10月21日(金)
【「日本書紀」七二〇年編纂完了後、唐朝では国史編纂資料中から、倭国史五十六年分が抜き取られたのである】

と、
『古田史学会報』no.106(2011年10月08日)『唐書における7世紀の日本の記述の問題:山東省曲阜市 青木英利著』で、詳しく紹介しています。




 青木英利氏のその序を再度、抜粋・引用すると、

『細かい事になるけれども、日本に関しての「旧唐書」の記述には、空白がある。それを代表的にあらわしているのは、倭人伝と日本伝である。
●倭人伝では、貞觀二二年(六四八年)で朝貢が途切れ、
●日本伝では、長安三年(七〇三年)に朝貢が新たに開始したことになったいる。
 これは、列伝の記述で、それを、補充説明するような記述は、本紀に勿論無い。本紀は大事を、列伝は小事という水準の違いがあり、
●貞觀二二年から長安三年の間の五六年間の日中の空白を埋める年代的記述は本紀にはない。
 ただし、この五六年を「説明している」記述が、日本伝の冒頭に書かれている。
 「日本国者は倭国の別種なり」と以下「北の大きな山を限りとして、その外は毛人の国なり」。つまり、この五六年の間に、日本を代表する国名が、倭国から日本に変わったという説明がなされて、国土を北に接する毛人の国は独立国だという事も書かれている。』




 すなわち、九州王朝「倭国」が在ったか、無かったが問題ではなく、在ったのである。
 むしろ、この56年の間に政権が交代し、気付いたら、大和朝廷「日本国」になっていた。という大和朝廷「日本国」とは、一体そもそも、何者だったのか。ということが逆に問題なのだ。


■① そこで、だれもが思いつくのが直前の「隋書」俀国伝中に、

『明年(大業4年:608年:推古16年)、上、文林郎裴清を遣わして俀国に使いせしむ。百済を渡り、行きて竹島に至り、南に聃羅を望み、都斯麻国を経、迥かに大海の中に在り。又東して一支国に至り、又竹斯国(=筑紫・九州島)に至り、又東して秦王国に至る。其の人華夏に同じ。以って夷州と為すも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。又十余国を経て海岸(=九十九里浜海岸)に達す。竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す。』

 で言うところの「俀国」に次いで、その名が上がってる「秦王国」であろう。


 この「秦王国」が勢力を貯え、いつしか「俀国」を凌ぎ、最後に「俀国」を征服・転覆して、大和朝廷「日本国」になった。という仮説である。

 が、この仮説には、今一私としては、種々の点で賛同出来ない。


■② 私が想定している仮説はというと、「倭国灘波副都(倭王家分家)」説である。

 正木裕氏の『日本書紀』三四年遡上説によれば、『九州王朝「倭国」で、649年(大化5年:孝徳5年:常色3年)10月、〔造複都難波京の詔〕が発せられ、同時に伊勢王等の諸国境界確定記事が続き、652年(書紀白雉3年:孝徳8年:白雉元年)「正月より是の月に至るまでに、班田すること既におわりぬ(立評:評制施行の完成)」。「同年、2月(白雉改元儀式)」 「同年、秋9月、宮を造ることがまったく終わった(九州王朝難波副都完成)。その宮殿の形状は、とても論じつくせない。」と続く。』
 更に、古賀達也氏の『「前期灘波京」は、九州王朝「倭国」が造ったものだ。』説を踏まえたものである。


 この灘波副都に常駐し、上記隋書でいう従前の各「附庸王家」経由の間接統治権を取り上げ、「長門以東」の評制の施行(=いわゆる「天下立評」)の「直接統治」を推進した政治軍事権力主体(倭王家分家)が、「白村江戦」、近江朝「日本国」、「壬申の乱」、「プロト大化改新」を経て、大和朝廷「日本国」になった。というものだ。
 詳しくは
【大和朝廷「日本国」出生秘話】
をご参照ください。


■■■■


 上記『古田史学会報』no.106(2011年10月08日)の、『唐書における7世紀の日本の記述の問題』で、山東省曲阜市 青木英利氏は以下のように要約している。


 つまり、七八〇年以前に、既に揃えられていた年表の中から、六五九年から七〇三年までの期間の、対、倭国関係の外交年表に限って抜き取りが行われたのである。


「日本書紀」の編纂完了は七二〇年である。この編纂の後、六〇年後には、中国の国史編纂資料の中から、倭国史五十六年分が抜き取られていたのである。この要約はその段階で作成され、「会要」にはそれが、そのまま書き写されて、「会要」「続会要」「唐会要」と伝わったのです。


■■■■


 以上のように、唐の国史編纂資料の中から、倭国史五十六年分が抜き取られていたのである。

 一方、奈良の大和朝廷においては、
【これが『書紀』のからくり、九州年号で倭国史書を切り貼り】
で、

正木裕氏は古代に真実を求めて 第十一集 (古田史学論集)の
● ①日本書紀『持統紀』の真実
  ——書紀記事の「三十四年遡上」現象と九州年号——

 また同氏は古代に真実を求めて 第十二集 (古田史学論集)の
● ②藤原宮と「大化の改新」
  ——実は50年後の九州年号大化期の出来事だった——


を、抜粋・転載していますが、

◆ ①白村江戦の前の倭国史「三十四年分」を、そっくり白村江戦後の後代の『日本書紀』の「三十四年分」として、編纂していた。
 これは、白村江戦の後倭国史「三十四年分」を、そっくり抹殺し、その空白を埋める為の「しょうもない手口」だといえよう。
 同時に、上記、『唐の国史編纂資料の中から、日本史五十六年分が抜き取られていた』に対応しているとも考えられる。

◆ ②九州年号の大化2年(696)、倭国末王の高市天皇が自前の新都藤原宮で廃評建郡の郡制施行「プロト大化改新の詔」を宣言した事実を、『日本書紀』編纂者達は50年前の(646年)に、大和朝廷が「大化改新の詔」を宣言したとして、九州王朝の評制施行を無かったものとし、大和朝廷は当初から郡制施行だったと口をぬぐった。これは「地方の豪族に軍事力を持たせなく徹底」し、中央集権的大宝律令体制を強固に確立しょうとしたのではないか。


《参照》
【2011年9月30日(金)
評制は有ったと分った。次に今何が知りたいかだが「評制」と「郡制」の各々の特徴・相違点は何だったのか】

で紹介。

「評制」と「郡制」の各々の特徴・相違点は何だったのか?について、広島大学教授 西別府 元日氏説を要約すると。

● 評は、軍事的要素の強い制度である。評造などには国造時代以来の民衆を徴兵し、この軍隊を指揮する権限があったが、
● 郡司にはこのような権限はなく、各国の軍団は都から派遣されてくる国司が指揮することになっていた。
● 評から郡への変更は、地方の豪族に軍事力を持たせなくするための変更である。

と、述べられている。


■■■■


 上記『唐の国史編纂資料の中から、倭国史五十六年分が抜き取られていたのである』については、それが先に、

【2011年10月3日(月)
『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その3)】

で紹介の

 『特に632年、唐国より九州王朝「倭国」に派遣の唐使の高表仁が、【冊封】を「倭国」に強いて、王子の弾正尹・為尊親王が強要の【冊封】受容を拒否しますが、これが為、高表仁と言い争いになり唐使の高表仁に切られます(のちに死亡)。傍にいた太政大臣と式部卿は、その場で切り殺されてしまいます。』




一方、これを、『旧唐書』倭国日本伝では、次のように記している。
『貞観五(631)年、使を遣わして方物を献ず。太宗其の道の遠きを矜(あわ)れみ、所司に勅して歳ごとに貢せしむるなし。また新州の刺史(しし)高表仁を遣わし、節を持して往いて之を撫せしむ。表仁、綏遠(すいえん)の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣(の)べずして還(かえ)る。』

 ⇒ これは皆さんご存知のフレーズだろう。が、これは唐国側の表現であり「まずいことしてくれたもんだ!」ってな軽い表現になっている。

 然し、倭国側の歴史書は「黙して語らず」と思いきや、な・なんと『源氏物語』と『和泉式部日記』に書いてあった!?




 『九州王朝「倭国」の王子の弾正尹・為尊親王が、「倭国」が唐との【冊封関係】に入るのを拒否した事』  
がすべての始まり・発端だったといえます。


 唐朝も、奈良の大和朝廷も、期を一つにして (グルになって)、  
『隋書俀国伝』に言う「俀国」・「秦王国」の歴史を改竄・抹殺していると分ります。


 どういう背景だったのか、全く分りませんが…、それにしても、  
なんとも・はや、“すざましい”ことが行われています、驚きです。


■■■■


 では、何故?  『唐朝も、奈良の大和朝廷も、期を一つにして (グルになって)、
『隋書俀国伝』に言う「俀国」・「秦王国」の歴史を抹殺・改竄したかです。




【『古代史獺祭:こだいしだっさい』
隋書 卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 倭國】

の最末尾を抜粋・転載しますと、

原文『…於是設宴享以遣清復令使者隨清來貢方物 此後遂絶

読み下し文『…是において宴享(えんきょう)を設け以って清を遣し、復た使者を清に隨いて來らしめ方物を貢ず。此の後、遂に絶えたり




 この最末尾に“いきなり”の「此後遂絶(=此の後、遂に絶えたり)」である。

遂(ツイ・に):①とうとう。あげくのはてには。その結果として。②そこで。そのまま。それをきっかけに③その足で。そのついでに。

絶(タ・える):①きれる。続かない。②尽きる。亡びる。なくなる。③息がとまる。死ぬ。

 で、「遂絶」の意味解釈は⇒「あげくのはてには、絶交した。」
あるいは、「その結果として、国が亡んでしまった。」となろうか。




 「その結果として」の「その」とは、何か?
また、「絶交」か、「亡国」かでも豪い違いだが、はて・さて?




 ところで、今読んでいるばかりの最近刊『俾弥呼(ひみか):古田武彦著』の第三章 女王国への道…4 任那と文字伝来の真相…「日出ずる処の天子」を記録した背景…p73、には次のように書かれているので抜粋・転載します。

『隋書は、唐代の史書である。唐のはじめ(六三六)、早急に出版された。その目的は一つ、「唐朝の正当化」である。

 唐の高祖(六一八~六二六)は、隋朝の臣下だった。その「臣下」の李淵が、ご主人の天子、隋の煬帝の孫、恭帝(唐の武徳二年、六一九年五月、十五歳で崩ず)を斥け、みずから天子を名乗った。いわば「反逆の王朝」である。その「反逆」を“正当化”するために、『隋書』は作られ、出版されたのである。

 その中のハイライト、それが「俀国伝」だ。その焦点、それが有名な、
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云々」 の「名文句」である。

 だが、中国側の大義名分からは“許しえぬ”ところである。それを“許した”どころか、多少の“不機嫌”をしめしただけで、正規の使者を「俀国」に遣わして「国交」を結んだ。中国の大義名分から見て、“許しえぬところ”である。

 だから、唐の高祖(李淵)はあえて、「主人」である隋の天子を“受け継い”だ。すなわち一見「反逆」とも見えるとも見える、李淵の行為は実は中国の大義名分のための、実にやむを得ぬ行為だったのである、と。-この弁明である。』


  ■


 古田武彦氏の上記を借りれば、「その結果として」の「その」とは、

『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云々』の「名文句」の代表する「隋と俀国の対等外交の主張」であろう。

 更に又、

『隋書は、唐代の史書である。唐のはじめ(六三六年)出版された。』とあることから、「絶交」か、「亡国」かでは、その直前の

632年は九州王朝「倭国」で、唐の高表仁は【冊封】関係を強いて、王子の為尊親王はこれを拒否、高表仁と言い争いになり、切られてしまいます』

の【冊封関係】拒絶事件を指していると考えられ、「亡国」ではなく、「絶交」した。と言っているのでしょう。




 この同じ内容を、のちの『旧唐書』倭国日本伝では、何度も書きますが、次のように「間の抜けた」記載をしています。

『貞観五(631)年、使を遣わして方物を献ず。太宗其の道の遠きを矜(あわ)れみ、所司に勅して歳ごとに貢せしむるなし。また新州の刺史(しし)高表仁を遣わし、節を持して往いて之を撫せしむ。表仁、綏遠(すいえん)の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣(の)べずして還(かえ)る。』

 唐太宗自身の対・俀国【冊封】強要の交渉失敗を「高表仁の綏遠の才無き所為」としていますが、実際には「王子の為尊親王の【冊封】拒否」に遭っています。高表仁が唐太宗の懐刀的な政策秘書だったことを考え併せれば、「唐太宗の軽はずみな外交策謀の失敗だったのです。」これによる面目の丸潰れは明らかでしょう。

 然し、このことが、俀国のその後に、不幸な事件を、次々と連鎖させてしまいます。


■■■■


【『古代史獺祭:こだいしだっさい』
隋書 卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 倭國】

を再度、参照します。

今取上げた「此後遂絶」の直前の字句を見てください。


原文『…既而引清就館 其後清遣人謂其王曰朝命既達 請即戒塗

読み下し文『…既に清を引きて館に就(つ)かしむ。其の後、清、人を遣して其王に謂いて曰く、「朝命既に達す。請う、即ち塗(みち)を戒めよ」と。』




上記は、既に
【④2011年10月4日(火)
『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その4)】

で、取上げました。

伏線としては、以下をご参照ください。
【①:2011年10月1日(土)
『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その1)】

【②:2011年10月3日(月)
『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その2)】

③:2011年10月3日(月)
『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その3)】




即ち、これを私流に解釈すると、


『隋使裴世清は隋の天子の朝命である俀王との筑紫での会見は無事に終わった。更に、俀附庸ではあるが、俀国の次に大国の秦王国からも招待したいと言ってくれてるので、更に東のほうへ足を延ばしてみたい。ついては途中の瀬戸内海航路の安全・警護もお願いする』である。

これらを総合すると、

『日本書紀』推古天皇紀の「日本国」とは、「隋書」俀国伝中の(=秦王国)である。

  という結論になる。


■■■■


 大業四年(608年)、この隋使・裴世清が端緒を切り開いた「秦王国(=日本国)」との交際を、てこに次の貞観五年(632年)、唐高表仁の「秦王国(=日本国)」の訪問が為されていると分ります。


 特に、貞観五年(632年)、九州王朝「倭国」を訪問した唐の高表仁は【冊封】関係を強いて、王子の為尊親王はこれを拒否、高表仁と言い争いになり、切られてしまいます。
 弾正尹(だんじやうのいん)(現在の警察庁長官)為尊(ためたか)親王。傍にいた太政大臣(現在の総理大臣)と式部卿(現在の外務大臣)を切り殺したのです。

 その後に、瀬戸内海から灘波へと航海し、「日本国(=秦王国)」を訪れてるわけで…。

 当然、「秦王国(=日本国)」側もこのニュースは知ってたはずでしょうから、それからすると、『書紀』の『高表仁に告げて「天子の命じた使が、天皇の朝廷に到来したと聞き迎えます」といった。高表仁 が答えて「風の寒い日に、船を飾り整えて迎えを賜い、歓びまた恐縮しています」といった。』は、いかにも意味深でしょう。そう、思いませんか?




 唐から見て、【冊封】関係を拒否した九州王朝「倭国」は討伐の対象になったはずでしょう。
 その代わりに、同じ倭族の「秦王国(=日本国)」が、その後の交渉相手に浮上してきたというわけです。


■■■■


 その来歴は、今迄このブログで見てきた以下の通りです。




【⑤2011年10月7日(金)
『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その5)】

【⑥2011年10月9日(日)
『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その6)】

【⑦2011年10月11日(火)
『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その7)】

【⑧2011年10月14日(金)
『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その8)】

【⑨2011年10月15日(土)
『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その9)】

【⑩2011年10月15日(土)
『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その10)】

【⑪2011年10月16日(日)
『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その11)】

⑫2011年10月16日(日)
『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その12)】

【⑬2011年10月20日(木)
『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その13)】

【⑭2011年10月21日(金)
『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その14-1・2)】




 がしかし、


【⑩2011年10月15日(土)
『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その10)】

の主だった内容を、再度掲載しますが、


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④、事〔件〕が落着した後に、勅旨があり、「〔中国:唐〕国家は、来年に、必らず海東〔朝鮮:百済〕の政を征伐する。汝ら倭客は、東に帰ることはできぬ」と。

◆⇒讒言・中傷事件は落着したにも関わらず、帰国が許されていない。ということは、当初より両国使節を拘束するのが、主目的だったとも考えられる。
 ・ということは、唐・高宗が百済を討伐・滅亡させる前にも、色々準備・画策してたとわかる。


⑤、遂に西京〔長安〕に、〔日、倭〕別の処に幽置した。戸を閉して監禁し、東西〔自由に行動〕するのを許さなかった。困苦して年を経た。〉

◆⇒手の内・情報がばれないよう「倭国」・「日本国(=秦国)」の両使節団を帰国させないで、幽閉・監禁したのだ。
 ・「日本国(=秦国)」にとっては、まったく、いい面の皮だと言えよう。何故なら、この派遣が為に軍都灘波副都の近江朝天智天皇に征伐の口実を与えただろうからだ。
 ・単に、「倭国」・「日本国(=秦国)」の両使節団を帰国させないで、幽閉・監禁されていただけならまだしも、この間、何があっただろうか?
 ・そうです、百済の滅亡、州柔敗戦・白村江敗戦、(天智による「秦国」の征伐)、唐占領軍への大宰府開城、長門以東近江朝の「日本国」独立、薩夜麻の倭王復位・倭国再統合戦の壬申の乱、と続くわけで…、彼らの還る国は、亡国の憂き目に遭い、果たしてその時あったかどうか。
 いうとおり『困苦して年を経た』のであろう。


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 この「秦王国」は唐・新羅の「羅唐同盟」に参加しなかった、あるいは、参加させてもらえなかった。

 若し、「秦王国」がこの「羅唐同盟」に参加していたならば、「秦王国」使節団を幽閉・監禁し帰国させないということはありえないのではないだろうか。「倭国」使節団のみを、幽閉・監禁したはずだからです。

 結果的に、「秦王国」は「羅唐同盟」には参加拒否され、片や、宗主国の九州王朝「倭国」からは、“裏切り者呼ばわり”され、そのうえ、九州王朝「倭国」の出先であった灘波副都の「長門以東」天智近江朝に、白村江戦の前後に討伐されたと考えらえる。

 従って、白村江戦后に『日本書紀』が「日本国」と記すのは、九州王朝「倭国」の出先であった灘波副都の「長門以東」天智近江朝のことを言っていると考えられます。


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 『この「秦王国」が唐・新羅の「羅唐同盟」に参加しなかった、あるいは、参加させてもらえなかった。』のは何故か?


 俀国の附庸王国の中では、裕福でそれなりの軍事力も持っていただろうが、「羅唐同盟」に参加可能な海軍力は全く無かった。更に、近畿管内を統制する陸軍力は有っても、とても、九州王朝「倭国」の陸・海軍事力には、遠く及ばなかったからだと言えましょう。


 それは、九州王朝「倭国」が、九州を拠点に黄海及び列島の海上通商国家だったのに較べ、「秦王国」は近畿内の農業専業国家だったからだといえます。


 その農業も、九州王朝「倭国」の出先であった灘波副都「長門以東」の評制施行(=天下立評)の中央集権化で、農業収益どころか、附庸王国「秦王国」そのものが今まさに解体されんとする事態に直面していた、といえます。


 「長門以東」の軍事的・政治的支配力は、九州王朝「倭国」の出先であった灘波副都の倭王家分家が、評制施行(=天下立評)の中央集権化を通じて、掌握していたのです。


 白村江敗戦時(六六二年)、九州王朝「倭国」の出先であった「長門以東」灘波副都の倭王家分家の近江朝天智天皇は、九州王朝「倭国」の軍事力・戦力の約半分を温存していたのでは、と考えられます。




 九州王朝「倭国」の白鳳王・薩夜麻は、直轄領「九州島」倭王直属軍(近衛兵)と、当時将に、毛人の地・北部関東を征討中の上毛野君稚子将軍を呼戻し、「州柔の陸戦」「白村江の海戦」へ派兵、自らも参戦したのだ。


 ところが、間接支配領「長門以東」を評制施行「天下立評」中の倭国灘波副都の倭王家分家の(近江朝)天智天皇は、「州柔の陸戦」「白村江の海戦」へ派兵・出兵した模様には受け取れない。
 倭国灘波副都の「長門以東」軍は「秦王国」からの攻撃防御、討伐に当たったと考えられる。当然、対「秦王国」戦には戦勝したと考えられるのだ。


 そして、結果的に、倭国灘波副都の「長門以東」軍は温存され、この後、「長門以東」灘波副都の倭王家分家の近江朝天智天皇は、近江朝「日本国」として、一旦独立するのだ。


 この倭国灘波副都については、
『大和朝廷「日本国」出生秘話』
《大和王朝は難波副都で天下立評した九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ》

 に、詳しく書いていますので、ご参照ください。


 今迄に分らなかった、『日本書紀』の 「持統天皇吉野行幸記事は、三四年遡上している」 との古田武彦氏の発見が、倭国難波副都・天下立評を “はっきり・くっきりと、浮上” させて来ました。


 わたしに限らず、あなたにおかれましても、何故に『日本書紀』は

①持統天皇吉野行幸記事を、実際の史実を三四年后の新しい年代に置き換えて(=遡上して)記載したのか。

②いっぽう、実際にあった「本来の大化改新:六九六年」の史実を、五十年前の古い年代に「大化改新:六四六年」があったとして、置き換えて記載したのか。

また、

③遺跡から出土する木簡(荷札)からは、
  ● 七〇〇年まで評制が施行されていた。
  ● 七〇一年以降になってはじめて、郡制は施行されるようになった。
 と分ってきた、にもかかわらず、『書紀』は当初より郡制が施行されたとして、偽って記載している。

  “何故に”、『日本書紀』は “偽って書き直した” のでしょうか?

誰しもが知りたいのです。 あなたは、“何故に”、だと考えますか?




 なお、正木裕氏は、
 〔日本書紀『持統紀』の真実—書紀記事の「三十四年遡上」現象と九州年号〕
 の中で、その改編の手法のひとつを以下明らかにしている。

 『書紀編集者は、九州年号「白雉・白鳳期」の記事の一部を編者の都合にあわせて切り取り、「白雉を朱鳥」に、「白鳳を大化」に、各々元号を入れ替えて、九州年号の朱鳥・大化期に貼り付けたのだ。 〈以下略〉 』 と言われてる。

  ◆ 《ご参照》
       九州年号・書紀天皇表〔九州年号の34年繰り下げ/50年繰り上げ〕

 ところで、これって、“「九州年号」があった”、としないと分らなかったんだ・にゃー (^_^;)


ところで、“「九州年号」があった”だって、ほんまか? って方へ、

 古賀達也氏が、ちょうど、自身のブログ
【『古賀達也の洛中洛外日記』 第346話 (2011/11/06) 九州年号の史料批判(1)~(6)】
を取上げられている。

必見です、どうぞ。




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