大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 046 》
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ
白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、
日本書紀の〔 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権
2010年 4月 2日 発行
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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』
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(776) 『『古事記正解』 @Kojikiseikai(関根 聡)氏 の ツイート一覧 ⑮』
2011年9月13日(火)
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漢字「麿(麻呂)」と「韓」。この二字は、左大臣・石上麻呂の秘密を解き明かすキーワードである。いわば木戸孝允の「木戸」と「小五郎」の関係に似ている。生きる環境の変化で名を変えたが、変化しつつ前の名残を留めた。麻呂の場合、その初源は、不比等の兄・定恵との関係に行きつく。その秘密とは?
白雉五年(654)2月条◆遣大唐押使大錦上高向史玄理。(中略)割注〈伊吉博得言。學問僧惠妙於唐死。知聰於海死。智國於海死。智宗以庚寅年付新羅船歸。覺勝於唐死。義通於海死。定惠以乙丑年付劉徳高等船歸。妙位。法謄。學生氷連老人。高黄金。并十二人。別倭種韓智興。趙元寶。今年共使人歸。〉
白雉五年(654)2月、中臣鎌足の嫡子・定恵は学問僧として渡海。同行者の中に韓智興がいた。割注に伊吉博得の記録があり、定惠は乙丑年(665)劉徳高の船で帰国。末尾に「別倭種韓智興。趙元寶。今年共使人歸」と書かれている。原文「今年」には論議があるが、智興は定恵と共に帰国したと思う。
韓智興、後の左大臣・石上麻呂は、倭種(混血児)だった。この歴史的事実が、麻呂を特異たらしめる理由である。父は物部系、母は百済系の王族ないし貴族の娘。そう考えると、麻呂のドラマティックな事績が読み解ける。母が仏教徒で、麻呂にも仏教の素養があり、それ故に定恵の従者に選ばれたのだろう。
斉明天皇五年(659)伊吉連博徳は、遣唐使に随行、中国の地で韓知興と出会う。この経緯も、長い割注(伊吉連博徳書)に記されている。天使に謁見後、騒乱が発生。日本の客人は、知興の従者による讒言で知興と共に罪を問われたが、博徳の弁明が認められて罪を逃れたという。この割注内容も興味深い。
参照:斉明天皇五年(659)7月3日条割注◆(中略)十二月三日。韓智興■人西漢大麻呂枉讒我客。々等獲罪唐朝。巳決流罪。前流智興於三千里之外。客中有伊吉連博徳奏。因即免罪。事了後。勅旨。國家來年必有海東之政。汝等倭客不得東歸。遂逗西京。幽置別處。閉戸防禁。不許東西困苦經年。
天智天皇四年(665)9月23日、唐國遣朝散大夫沂州司馬馬上柱國劉徳高が来朝。その船で、定恵と共に韓智興も帰国する。この時、徳高一行の中に百濟將軍朝散大夫上柱國郭務宗がいた。この人物も、後々石上麻呂と深い関わりを持つ。定恵(唐)、郭務宗(百済)との縁は、麻呂の人生を方向づけた。
参照:天智天皇四年(665)9月23日条◆九月庚午朔壬辰。唐國遣朝散大夫沂州司馬馬上柱國劉徳高等〈等謂右戎衛郎將上柱國。百濟將軍朝散大夫上柱國郭務■。凡二百五十四人。七月廿八日至于對馬。九月廿日至于筑紫。廿二日進表函焉。〉※斉明天皇五年(659)7月3日条「伊吉連博徳書」の本記。
定恵は、帰国後わずか3か月で死亡。仏教僧では物部を頼れず、韓智興は中国で縁のあった伊吉連博徳に身を寄せた。後に壹伎史韓國を名乗るから、博徳の娘を娶った可能性もある。その間、定恵の弟・不比等と会い、親交が始まった。時に麻呂26才、不比等6才。この邂逅が、古代日本の潮流を決めた。
文武四年(700)6月17日、大宝律令の編纂が開始された。関係者には下記19人の名がある。①刑部親王②藤原不比等③粟田眞人④下毛野古麻呂⑤伊岐博得⑥伊余部馬養⑦薩弘恪⑧土部甥⑨坂合部唐⑩白猪骨⑪黄文備⑫田邊百枝⑬道首名⑭狹井尺麻呂⑮鍜大角⑯額田部林⑰田邊首名⑱山口大麻呂⑲調老人。
斉明天皇五年(659)7月。遣唐使たちは、西漢大麻呂の讒言により罪を問われたが、伊吉連博徳の弁明が功を奏し許される。時に百済滅亡の前年。おそらく讒言内容も百済に因し、遣唐使たちは帰国を許されず幽閉された。この時、唐には不比等の兄・定恵がいた。博徳も、後に定恵帰国の記を残している。
古代日本において、大宝律令とは何だったのか?その編纂目的は?伊吉連博徳など編纂者たちは、どのように選ばれたのか?結果として、当時、何が起きたのか?編纂者たちは、その後どうなったのか?日本書紀と続日本紀等を熟読し、自分の目と手、頭を使って、その歴史的事実を明らかにしたい。通説は…。
(777) 『『古事記正解』 @Kojikiseikai(関根 聡)氏 の ツイート一覧 ⑯』
2011年9月13日(火)
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刑部親王:忍壁皇子とも。初見は壬申の乱(672)時で、2年後石上神社に赴き、膏油で神宝の武器を磨かせる。刑部名の初出は、文武3年(700年)の大宝律令選定開始時。大寶3年(703年)知太政官事に就任し、慶雲2年(705年)5月薨去。生年不明。続日本紀は第九皇子と記すが異説もある。
慶雲二年(705)5月7日条◆三品忍壁親王薨。遣使監護喪事。天武天皇之第九皇子也。この薨伝が、刑部親王の評価を物語る。前年、右大臣・石上朝臣麻呂に二千一百七十戸益封の際、親王には二百戸。麻呂の20分の1以下だった。この時、不比等には八百戸。この事実をもって人物評価すべきだろう。
大宝三年(703)1月20日条◆詔三品刑部親王知太政官事。その初仕事は次条が記すごとく、下毛野朝臣古麻呂、伊吉連博徳等4人へ大宝律令編纂の功賞授与。さらに3月7日、古麻呂には功田廿町を追加している。任官直後、古麻呂など東国の官僚たちに手厚い報償を与えたのは何故?その歴史的背景は?
大宝元年(701)7月21日条◆左大臣正二位多治比眞人嶋薨。(中略)遣三品刑部親王。正三位石上朝臣麻呂。就第弔賻之。大宝三年(703)閏4月1日条◆右大臣從二位阿倍朝臣御主人薨。遣正三位石上朝臣麻呂等弔賻之。…相次いで左右大臣が薨御。麻呂と不比等は、高天原政権樹立の足固めに入る。
知太政官事:大宝三年(703)1月20日に刑部親王。慶雲二年(705)9月5日に穗積親王が任命された。左大臣不在を埋める名目上の職責で、実権はなかった。いわば名誉職である。麻呂は、和銅元年(708)3月13日まで、敢えて左大臣にならず、知太政官事名をもって様々な施策を行った。
大宝元年(701)8月26日、石上麻呂と藤原不比等は、軍事・内政の両面から巧みな戦略を用い政権を奪取。麻呂は外敵対策を名目に軍事拠点に東国将兵を配し、不比等は大宝律令の編纂などを利用して東国官僚を朝廷内に引き込み無血クーデターを実現した。知太政官事任命は、その事後対策である。
歴史:原義は、書かれた過去のこと。「記」である。広義では、事象の流れとして慣用される。記は人技ゆえ、時に間違いや嘘もある。むろん事実も。歴史的研究とは、記を分析し、その事実性を読み取り、論理的・整合的に分析、事実の相関性を明らかにすること。分析には、通時的また共時的視点が必要だ。
藤原不比等:初出は、日本書記の持統三年(689)2月26日条。「藤原朝臣史」が判事に任命された。次に持統十年(696)10月21日条。丹比眞人に資人120人。大納言阿倍御主人と大伴御行に各80人。石上麿と「藤原朝臣不比等」に50人が与えられた。日本書紀の用例は、この2回しかない。
持統三年(689)2月26日条◆以淨廣肆竹田王。直廣肆土師宿禰根麿。大宅朝臣麿。藤原朝臣史。務大肆當麻眞人櫻井。穂積朝臣山守。中臣朝臣臣麿。巨勢朝臣多益須大三輪朝臣安麿。爲判事。…藤原不比等の初出。「史」表記は何を意味するのか?後に「不比等」と改名したのは何故か?通説は正しい?
持統十年(696)10月22日条◆假賜正廣參位右大臣丹比眞人資人一百廿人。正廣肆大納言阿倍朝臣御主人。大伴宿禰御行並八十人。直廣壹石上朝臣麿。直廣貳藤原朝臣不比等並五十人。…「不比等」表現の初出。初めて石上麻呂と同時に名を記す。以後、麻呂に追随し昇階、死ぬまで麻呂を越えなかった。
石上麻呂と藤原不比等。大宝元年(701)8月、東国勢力をもって無血クーデターを起こして政権を奪取。二人三脚で古代日本の礎をつくり、高天原政権を樹立する。不比等は、麻呂の副臣で、自ら「麻呂と比べ等しからず」と名乗っている。名をもって上下関係を明らかにし、無駄な混乱を避けたのだろう。
高天原:太安麻呂が持統天皇の諡号「高天原広野姫」として草案、古事記が描く地名にも用いた。石上麻呂の出身地「高原」と中臣の異名「天」を組合わせた政治用語である。大宝元年(701)中納言革命によって実質的な政権を掌握、和銅元年(708)3月名実共に「高天原政権」と呼ぶべき樹立する。
文武元年(697)8月20日条◆以藤原朝臣宮子娘爲夫人。紀朝臣竃門娘。石川朝臣刀子娘爲妃。…続日本紀は「高天原」宣命に続き、この宮子夫人記で始まる。この婚姻が、後の日本に与えた影響は大きい。ただ共時的に分析すれば、石上麻呂が認めた結果であり、不比等の一存で為し得たことではない。
(806) 『『古事記正解』 @Kojikiseikai(関根 聡)氏 の ツイート一覧 Ⅰ-⑱』2011年10月23日(日)
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想定:思いつくこと。事実認識、体験・経験がモノをいう。実感しないことは思いつかない。15m級の津波など、これまでSF映画の話だった。しかし現実に起こり、調べてみれば2000年前にも起きていた。古事記は、その復興記から描かれている。史書編纂の背景にも、685年の白鳳地震がある。
検証:関東平野の沿岸低地部には、上代前期以前の遺跡が皆無。東京湾東部では、高台でも貝塚しかない。これは、千葉沖で地震が発生、大津波が霞ヶ浦から内陸を襲い、東京湾に逆流した歴史的事実を示唆する。上代日本文明は、一夜にして壊滅した。福島県の沓形遺跡には、その時の津波痕が残されている。
文明:「文化」の発達段階を示す語であると共に、その単位である。そして、それぞれの文明をなりたたせているのは、梅棹忠夫氏のいわれる人間=装置・制度系としての文明系なのである。…川添登『「木の文明」の成立(上)』NHKブックス1990.P- ※上代日本文明は、木の文明ではない。
想定:わが仮説。紀元前200年頃、秦からの渡来者三千数百人が九州に上陸。その後、関東に進出して上代文明を築いた。その国は「天」と呼ばれ、開祖は「天之御中主神」。古事記は、別天神(中国人)で隱身(逃亡者)と記す。また家族は人質にとられ、獨神(独り身)だった。いったい誰のことだろう?
検証:司馬遷は『史記』始皇帝本紀で、姓を「徐」、名を「冂+十」という方士の東渡を記す。「冂」は、都から遠い僻地のこと。日本に来た彼は、「大+十」という敬称で呼ばれた。日本の「本」である。古事記は、「天之御中主神」と表現。上代日本「天」の開祖という意味だろう。別名を「徐福」という。
検証:『萬葉集』(1/42)潮左為二五十等兒乃嶋邊榜船荷妹乗良六鹿荒嶋廻乎。…これは徐福記である。人麻呂は、渡来集団を「潮」と比喩、「左為(東渡した)」と述べる。「二五十等(東渡ともがら)」と、その中心が「百越」の子らと暗示している。古漢字の字義を知らずに、万葉集は読み解けない。
良六鹿:徐福集団は、韓・趙・魏・燕・楚・斉から徴集された良家の子女3000人が中心。彼らは、各国6集団に分かれ、上代日本を制覇。人麻呂は、その集団を「鹿」と比喩。古代日本で、水夫を「鹿児」と呼ぶ由縁である。人麻呂は、言挙げの禁を破り、家持は、その作品を敢えて『萬葉集』に収録した。
古事記・日本書紀・萬葉集:3書は、編纂の立場、目的が異なり、内容も一見乖離しているが、実は補間し合っている。それは、編纂責任者の石上麻呂と藤原不比等は盟友で、家持の祖父・安麻呂は、高天原政権のナンバー3。また家持自身、左右大臣の二人の孫、良継・宅嗣と昵懇の仲だったからである。
石上麻呂:高天原政権(708)の左大臣。壬申の乱(672)では、近江軍の将として大友皇子の最後を看取る。遣新羅使(676)を経て、持統期に出世。右大臣(704)以後、薨(717)まで、臣下のトップとして日本の礎を築く。古事記(712)編纂の責任者でもある。韓智興、壹伎韓國は前身。
藤原不比等:高天原政権(708)の右大臣。麻呂と共に東国勢力を束ね、中納言革命(701)を起こす。麻呂は軍事、不比等が内政を担当し、古代政界の実権を握る。その縁は、不比等の兄・定恵に遡り、二人の絆は強かった。政権の担い手も、東国関係者と遣唐使の経験者が多い。過大評価は間違いだ。
大伴安麻呂:高天原政権(708)のナンバー3。初出は、壬申の乱時(672)。690年頃に一時失脚するが、中納言革命(701)に加わって政界に復帰。兄・御行の死後、大納言(705)となる。その後、安麻呂派のリーダーとして活躍する。改名は701年か?萬葉集の編者・家持は、孫である。
安麻呂派:石上麻呂に安(=仕)えると名で意思表明した官僚集団。大伴安麻呂を筆頭に、太朝臣(704)、阿倍朝臣(705)、小治田朝臣・平羣朝臣・大神朝臣(707)、上毛野朝臣(708)、小治田朝臣(711)、巨勢朝臣(713)などがメンバーで、高天原政権の実務を支える中核となった。
高天原:左大臣・石上麻呂の生地「高原」と右大臣・藤原不比等(中臣)の異名「天」を組合わせた政治的造語。太安麻呂が、持統天皇の諡号「高天原広野姫」として創案、古事記では地名として使われた。持統の後押しで中納言革命(701)を起こし、政界の実権を握った麻呂・不比等の政権名に相応しい。
(807) 『『古事記正解』 @Kojikiseikai(関根 聡)氏 の ツイート一覧 ⑲』 2011年10月23日(日)
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参照:古事記上巻冒頭/天地初發之時於高天原成神名天之御中主神【訓高下天云阿麻下效此】※太安萬呂は、施注により「高天原」の「天」は、中臣の異名だと明記。「阿麻(麻呂に阿る)」と皮肉っている。不比等とは、相性が悪かったのか。古代の異名は、源俊頼『俊頼髄脳』(1111頃)に解説がある。
高:上代~古代初期にかけての東北地方。その最西部が「高崎」で、下総の高地などは「高原」と呼ばれ、物部氏一族の居住地だった。左大臣・石上麻呂(639-717)の生地である。藤原不比等の母も、車持一族の出で、共に東国と深い縁がある。高天原政権に、東国勢が多いのは当然といえるだろう。
参照:続日本紀延暦九年(790)11月10日条◆外從五位下韓國連源等言。源等是物部大連等之苗裔也。(中略)先祖塩兒。以父祖奉使國名。故改物部連。爲韓國連。(中略)因地賜姓。古今通典。伏望。改韓國二字。蒙賜高原。依請許之。※この記により、高原が石上麻呂(=壹伎韓國)の生地と分かる。
韓國連源:宝亀八年(777)遣唐使の録事。翌年、耽羅嶋に判官・海上三狩を残し、謀をもって残り約40人を率い帰国。延暦九年(790)改姓を奏上し、居住地名の「高原」姓を賜る。死後の弘仁三年(812)下野介時の善政により追贈された。同族の広足は、役小角(699配流)の弟子だった。
韓國:続日本紀の用例は、韓國連関連の11例のみ。日本書記でも11例。仁徳紀に3例、雄略紀に1例、天武元年(672)7月22日条に「壹伎史韓國」名で6例、持統八年(694)6月8日条に「刑部造韓國」名で1例。韓國連源は録事で、続日本紀の編纂にも関与。この事実を知っていたに違いない。
改姓不記:日本書紀における常套的記述。意図的な場合と、当時常識だったが故の場合、また後の改竄によるもの等がある。例えば、明治時代の木戸孝允と維新期の桂小五郎、新堀松輔は同一人物だが、その事実は説明なくして分からない。左大臣・石上麻呂=物部麻呂≒壹伎韓國≒韓智興は、その典型だろう。
先使後名:煩雑な説明を避けるため、よく知られた後の名を前身を語る際に用いる。時に、事実を隠す目的などにも行われる。例えば、大伴安麻呂。語義は「麻呂に安(=仕)える」で、中納言革命(702)前後の改名のはず。その名が、記述の便かつ変節を隠すため壬申の乱時(672)にも使われている。
古代語「韓國」:書記・続紀の用例は、共に11例。すべて物部氏関連で、仁徳紀3例、雄略紀1例は、8世紀における先祖伝承である。延暦九年(790)韓國連源は「先祖塩兒。以父祖奉使國名。故改物部連。爲韓國連」と改姓の理由を説明している。この塩兒とは?また何故、「韓國」に改姓したのか?
來目臣塩篭:物部の将で、壹伎韓國の配下。壬申の乱時(672)忠節を疑われ自死、身の潔白を訴え、子孫の臣名を「韓國」に変えたき旨を伝えた。後に石上麻呂は、 塩篭(=塩兒)の願いを叶え「韓國連」が賜わられた。天武元年(672)7月23日条「々々知事漏」は、書紀編者の誤釈と考える。
参照:天武元年(672)7月23日条◆(中略)有人曰。近江將壹伎史韓國之師也。財等自高安城降。以渡衞我河與韓國戰于河西。財等衆少不能距。(中略)是時。河内國司守來目臣塩篭有歸於不破宮之情。以集軍衆。爰韓國到之。密聞其謀而將殺塩篭。々々知事漏。乃自死焉。(後略)
刑部造韓國:壬申の乱時(672)物部麻呂(=壹伎韓國)と共に、大友皇子の自死を看取った舎人が数人いた。その中の一人ないし縁者が、壹伎韓國の事跡に因み、自らの名を「韓國」としたのだろう。刑部一族は、物部氏で河内国が本拠地だが、物部麻呂の生地・下野国にも刑部郷(和名抄)があった。
参照:天武元年(672)7月23日条◆(中略)於是。大友皇子走無所入。乃還隱山前。以自縊焉。時左右大臣及群臣皆散亡。唯物部連麻呂。且一二舍人從之。』初將軍吹負向乃樂至稗田之日。(中略)有人曰。近江將壹伎史韓國之師也。財等自高安城降。以渡衞我河與韓國戰于河西。財等衆少不能距(後略)
勇士來目者:壬申の乱時(672)当麻の戦いで、壹伎韓國軍を撃破し、劣勢だった大伴吹負軍を勝利に導く。韓國は、ただ一人逃走。「遥」遠くで吹負は「見之」、來目に命じて矢を射させるが失敗する。吹負軍最大の功労者を、書紀は「者」としか記さず、後に報償記もない。何故?來目塩篭との関連は?
(808) 『『古事記正解』 @Kojikiseikai(関根 聡)氏 の ツイート一覧 ⑳』 2011年10月23日(日)
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参照:天武元年(672)7月23日条◆(中略)▼是日。將軍吹負爲近江所敗。以特率一二騎走之。(中略)時有勇士來目者。拔刀急馳直入軍中。騎士繼踵而進之。則近江軍悉走之。追斬甚多。(中略)故莫妄殺。於是。韓國離軍獨逃也。將軍遥見之。令來目以俾射。然不中而遂走得免。※意味深の記述です。
日本書紀:続日本紀の養老四年(720)5月21条に「先是。一品舍人親王奉勅。修日本紀。至是功成奏上。紀卅卷系圖一卷。」とある。奇妙にも、編纂の経緯や関係者への褒賞記述がない。巻30持統紀以前の編纂は、平城遷都(710)前に終わっていた(森博達説)とされ、成立の背景は謎めいている。
竹取物語:作者は、日本書記(720)を「「蓬莱の玉の枝」と比喩。藤原不比等が、山田史御方等に命じ、内密に改竄させた事実を示唆した。不比等は、褒賞を与えぬまま死去。御方は公金を横領し弟子に与え、後に逮捕(722)されるが、元正天皇が恩赦を与えた。かぐや姫のモデルも、氷高皇女である。
参照:続日本紀 養老六年(722)4月20日条◆詔曰。周防國前守從五位上山田史御方。監臨犯盜。理合除免。先經恩降。赦罪已訖。然依法備贓。家無尺布。朕念。御方負笈遠方。遊學蕃國。歸朝之後。傳授生徒。而文舘學士。頗解属文。誠以不矜若人。盖墮斯道歟。宜特加恩寵。勿使徴贓焉。
歴史:原義は、書かれた過去。記は人技ゆえ、間違いや嘘もある。無論、多くの事実も記される。しかし成立後、他者によって改竄されることも。天武元年(672)7月23日条の壹伎史韓國記は、左大臣・石上麻呂の前身記述だったが、それ自体が秘密にされ、さらに誰かに改竄された痕が感じられる。
古事記:現存する日本最古の史書。和銅三年(710)左大臣・石上麻呂は、藤原宮の留守となった。旧都に残した反対勢力の監視と古事記の編纂が目的で、引退した訳ではない。古事記は本来、上代日本記(B.C200頃~639)だが、後に改竄され変質した。竹取物語では「古糞」と揶揄されている。
長屋王邸:平城京にあった左大臣・石上麻呂(639-717)の館。軍事を掌握する麻呂は、旧都の留守として敵対勢力を監視しつつ、古事記を編纂。新京には長子・豊庭と庇護する長屋王を置いた。故、麻呂関係の木簡が多く発掘される。本来は石上麻呂邸で、長屋王邸の命名は事実誤認の結果である。
参照:和銅三年(710)3月10日条◆始遷都于平城。以左大臣正二位石上朝臣麻呂爲留守。※これが、引退説の根拠。しかし同年7月、配下の牟佐村主“相摸”を特進させ、翌711年3月には多胡郡の設置(多胡碑に石上尊とある)に関わっている。麻呂と東国の縁は、正史を改竄しても隠しきれない。
参照:和銅六年(713)10月28日条◆詔。防人赴戍時差專使。由是。驛使繁多。人馬並疲。宜遞送發焉。※防人の專使を廃止。つまり見張り役なく、防人たちは自主的に大宰府へ。自分たちの同胞が、左大臣で政界のトップなら見張りは不要。当然ながら防人の職権は拡大、待遇も改善されたのだろう。
律令制度:天皇を核とする中央集権型国家形成の法的整備。言い方をを変えれば、主要氏族の力を弱め、天皇家および中央官僚の権力・財力を強くする内政的政治手法である。持統天皇は、父・天智天皇最大の失策である白村江戦を逆手に取り、石上麻呂と藤原不比等による日本的律令国家形成の布石を打った。
防人:白村江戦の敗北(663)を契機に、九州沿岸防衛のため動員された東国将兵による軍事組織。前期・中期・後期では体制が異なり、中期(700~757)は高天原政権を支える重要な軍事力だった。従来の文学的防人像は、史学的な考察を欠いており、防人の実態、その歴史的役割を見逃している。
さきもり:萬葉集の表記は、佐伎母理・佐伎母利・佐伎母里・佐伎牟理・佐伎毛利。「防人」表現はない。古漢字の「左」義は{東}で、故「佐伎」は{東国人の男}の意味。「毛利」は相模の地名で、作者の出身地。「母理」「母利」「母里」と「牟理」は、何を、どうやって“守る”か字義で表現している。
防人歌:万葉集に約90作品が収録される。編者・大伴家持は、石上麻呂の孫二人(石上宅嗣・藤原良継)との交友から東国に関心を持ち、相模守時(774~)に東国歌や防人歌を集めた。百数十年にわたり動員された防人は、数十万。わずか90余りの防人歌は、何を物語るのか?再考せねばならない。
(809) 『『古事記正解』 @Kojikiseikai(関根 聡)氏 の ツイート一覧 Ⅱー①』 2011年10月23日(日)
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白村江の戦い:天智2年(663)6月、上毛野稚子率いる東国軍は、功臣・佐平福信を援軍し百済再興の緒戦に勝利。愚鈍な百済王・豐璋は、その福信に有らぬ疑いを掛け斬首。さらに8月、功をあせる西国・九州軍と共に白村江で海戦に臨み、唐-新羅軍に惨敗した。この結果が、防人制誕生の背景にある。
参照:天智二年(663)6月◆前將軍上毛野君稚子等。取新羅沙鼻岐。奴江二城。百濟王豐璋嫌福信有謀反心。以革穿掌而縛。時難自决。不知所爲。乃問諸臣曰。福信之罪既如此焉。可斬不。於是。達率徳執得曰。此惡逆人不合放捨。福信即唾於執得曰。腐狗癡奴。王勒健兒。■斬而醢首。
参照:天智二年8月28日条◆日本諸將與百濟王不觀氣象。而相謂之曰。我等爭先彼應自退。更率日本亂伍中軍之卒進打大唐堅陣之軍。大唐便自左右夾船繞戰。須臾之際。官軍敗績。赴水溺死者衆。艫舳不得廻旋。朴市田來津仰天而誓。切齒而嗔殺數十人。於焉戰死。是時百濟王豐璋與數人乘船逃去高麗。
参照:天智元年(662)1月27日条◆賜百濟佐平鬼室福信失十萬隻。絲五百斤。綿一千斤。布一千端。韋一千張。稻種三千斛。&3月4日条◆賜百濟王布三百端。※この賜品量が、当時における福信と豐璋の人物評価。豐璋が、福信を妬むのも無理はない。結果として、白村江の惨敗という悲劇を生む。
歴史:書かれた過去(記)。人技ゆえ、誤記や虚言、後の改竄もある。無論、事実も書かれ、日本書紀の白村江戦記は、多くの史実を伝えている。敗戦理由は「日本諸將與百濟王不觀氣象」と明記される。日本諸將が、誰等かも、記述から明らかだろう。この戦い後、古代日本の軍事的戦力分布が激変した。
天智三年(664)最終条◆是歳。於對馬嶋。壹岐嶋。筑紫國等置防與烽。又於筑紫築大堤貯水。名曰水城。※この年5月、百濟鎭將劉仁願の使いで朝散大夫郭務■が来朝、12月まで滞在した。この間、天智は密かに国防策を実施。おそらく上毛野君稚子の将兵が「防」に配置されたが、日本書記の条にない。
天智天皇10年(671)11月2日、対馬沖に唐船等47隻が現れた。同月10日、対馬国司が、唐から来た4人の説明を大宰府に伝達。一行は、唐國使人郭務■等2000人で「今吾輩人船數衆。忽然到彼恐彼防人驚駭射戰」と述べたという。これが日本書紀「防人」の初出。朝廷は、どう対応したのか?
参照:天智天皇10年(671)11月10日条◆對馬國司遣使於筑紫大宰府言。月生二日(中略)四人從唐來曰。唐國使人郭務■等六百人。送使沙宅孫登等一千四百人。合二千人。乘船册七隻倶泊於比智嶋。相謂之曰。今吾輩人船數衆。忽然到彼恐彼防人驚駭射戰。乃遣道文等豫稍披陳來朝之意。
天武元年(672)3月18日条◆遣内小七位阿曇連稻敷於筑紫。告天皇喪於郭務■等。於是。郭務■等咸著喪服三遍擧哀。向東稽首。※いつのまにか郭務■等は筑紫に上陸、天智天皇の崩御(前年12月1日)を伝えられる。崩御記は前条で、約5か月弱、天智の喪葬や来航47隻に関する対応記録がない。
参照:天武天皇即位前紀天智天皇10年(671)12月条◆天命開別天皇崩。【直後に続いて】天武天皇元年(672)3月18日条◆遣内小七位阿曇連稻敷於筑紫。告天皇喪於郭務■等。於是。郭務■等咸著喪服三遍擧哀。向東稽首。※この2条の直前に、何故か有名な天武出家「虎著翼放之」記がある。
郭務宗(宗は当て字):天智3年(664)と翌年、来朝。3度目(669)は誤記説があり、4度目を記す天智10年(671)11月10日条の内容は、史的に矛盾。壬申の乱との関係が隠匿、あるいは後に改竄された可能性が高い。実に胡散臭い人物。この人物と事績の解釈次第で、古代日本史が変わる。
壬申の乱(672)Ⅰ:前年、唐國使人を偽る郭務宗が渡来し、亡命を希望。その扱いをめぐる朝廷内の対立が、乱の直接原因。上陸に際し、武装解除された甲・冑・弓矢等は翌年5月12日に返還され、唐および百済の残兵は、近江軍として乱に参戦した。5月30日条の「郭務■等罷歸」は、誤魔化し。
壬申の乱(672)Ⅱ:壹伎韓國配下の百済兵は、緒戦で大活躍し、大伴吹負軍を撃破。しかし郭務宗軍との内部対立が起き、大海人軍に寝返って務宗および唐兵を殲滅。これが乱の形勢を変え、吹負は漁夫の利を得た。成行きの勝利故、負けっ放しの吹負に功績はなく、後に不名誉な「吹負」の名を賜った。
(810) 『『古事記正解』 @Kojikiseikai(関根 聡)氏 の ツイート一覧 Ⅱー②』 2011年10月23日(日)
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壬申の乱(672)Ⅲ:壹伎韓國は、大海人・大友両軍の和解を図るべく、大友の元へ。しかし時すでに遅く、事態の収拾は大友の死しか選択の余地はなかった。大友は国の行く末を考え、自らの頭と共に韓國の身を大海人に託す。後に大海人は、有能な韓國に「物部麻呂」の名を与え、外敵対策に当たらせた。
石上麻呂:壬申の乱(672)時、近江軍の将として大友皇子の自死を看取り、わずか4年後(676)遣新羅大使となる。この時、大乙上(19階)で、本来、大使の資格がない。その人物が、8世紀初頭に政界の実権を握り、臣下のトップ・左大臣(708)に。この事実を踏まえず、壬申の乱は語れない。
壹伎史韓國:物部麻呂の初出・大友皇子自死記の直後、話は乱の緒戦に戻り、敗軍の将・韓國の活躍など近江軍の顛末が長々と語られる。逆に勝者であるはずの大伴吹負や勇者・来目は、その後も功労記がない。韓國記は、左大臣・石上麻呂の前身を物語る…矛盾した記述の裏に歴史的事実が隠されていた。
韓智興:天智四年(665)藤原不比等の兄・定恵と共に唐から帰国した倭種(混血児)。定恵は、劉徳高の来朝団に便乗してきたが、その中に郭務宗の名が施注によって記される。この智興を、麻呂=韓國の若き姿とすれば、麻呂と天智・天武、務宗、不比等との人間関係、また歴史的背景が見えてくる。
伊吉連博徳書:日本書紀の施注に使われた古記録。韓智興の冤罪事件等を自らの体験談として記す。智興は、父を物部の末裔、母を百済系貴族とする混血児で、留学僧。定恵の死(665)で行き場を失い、唐での縁を頼り博徳家に身を寄せたのだろう。おそらく後に、博徳の娘を娶り、壹伎史韓國を名乗った。
西漢大麻呂:斉明五年(659)唐で、韓智興と遣唐使を讒言。智興らは罪を問われたが、博徳の弁明により許された。(博徳書)折しも唐は、百済への侵攻を計画中で、母を百済系貴族に持つ混血児・智興が疑われたと考えられる。遣唐使一行は、幽閉され、帰国できたのは百済滅亡後(661)だった。
参照:斉明五年(659)3月3日条:韓智興■人西漢大麻呂枉讒我客。々等獲罪唐朝。巳決流罪。前流智興於三千里之外。客中有伊吉連博徳奏。因即免罪。事了後。勅旨。國家來年必有海東之政。汝等倭客不得東歸。遂逗西京。幽置別處。閉戸防禁。不許東西困苦經年。(後略)※伊吉連博徳書曰く中の記事。
羅唐戦争:670年から676年に行われた新羅と唐の戦争。その末期、敗軍の将・物部麻呂は、大乙上(19階)で遣新羅大使となり、新羅の勝利を現地で見た。天武と麻呂は、定恵を介す旧知の仲。壬申の乱で一時敵対したものの、個人的に信頼関係があった。混血児故の資質も評価されたに違いない。
隼人懐柔:持統六年(692)天皇は、大隅・鹿児島の隼人に仏教を伝えるよう命じ、「郭務宗が作った阿彌陀像を持って行け」と指示した。この施策の背景にも、物部(神道)生まれで元留学僧(郭務宗と共に帰国)という石上麻呂の影が見える。この施策が、後の大仏建立を核にした神宮寺政策につながる。
参照:持統六年(692)閏5月15日条◆詔筑紫大宰率河内王等曰。宜遣沙門於大隅與阿多。可傳佛教。復上送大唐大使郭務■爲御近江大津宮天皇所造阿彌陀像。※為政者は常に、宗教を政策に利用する。信仰心は人間本来の尊い感性だが、宗教は古今東西、政治的な道具に過ぎない。それは歴史が物語る。
郭務宗亡命:天智10年(671)羅唐戦争の緒戦に敗れた務宗は、百済残兵、倭人捕虜など1400人と、配下700人の唐兵を連れ日本に亡命した。総数2000人、船数は47隻。一隻当たり43人乗りだから、みな難民ボート並みの船。大型船はなく、戦力もない船団のため、事前通達の要があった。
参照:天智10年(671)11月10日条◆對馬國司遣使於筑紫大宰府言。月生二日(中略)四人從唐來曰。唐國使人郭務■等六百人。送使沙宅孫登等一千四百人。合二千人。乘船册七隻倶泊於比智嶋。相謂之曰。今吾輩人船數衆。忽然到彼恐彼防人驚駭射戰。乃遣道文等豫稍披陳來朝之意。
検証1:総数・船数と事前通達の内容は矛盾。郭務宗のいう「いま吾ら人船も多い」は、文字面の多さで、実際は一隻あたり43人。人数の割に船が少なく、船数の割に人数が少なかった。また大型の唐船があれば、わずか数年前2度来朝しており、事前通達は不要。いきなり防人が戦いを仕掛けるはずがない。
(811) 『『古事記正解』 @Kojikiseikai(関根 聡)氏 の ツイート一覧 Ⅱー③』 2011年10月23日(日)
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検証2:郭務宗は、664年、665年、2年続けて来朝。目的は白村江戦の事後処理と諜報活動だった。天智天皇は、唐の侵攻を恐れ、防備を固め防人を配置した。671年の来朝時、防備に関する記述はなく、代わりに不自然に詳しい対応が記される。日本書記の虚偽記述には、歴史的事実が隠されている。
参照:天武元年(672)3月21日条◆郭務■等再拜進書凾與信物。&5月12日条◆以甲冑。弓矢賜郭務■等。▼是日。賜郭務■等物。總合■一千六百七十三匹。布二千八百五十二端。綿六百六十六斤。※編者は「進書凾與信物」と記すが、実際は亡命の嘆願書だった。それを朝廷は、表面的に拒否する。
検証3:天武元年(672)5月12日、郭務宗等に「絹1,673匹。布2,852端。綿666斤」が賜物された。この数値表記は重要だ。対外的な使節や国への賜物は、個人が対象でなく切りのいい数値になる。故、この時すでに、郭務宗等は、天智天皇ないし大友皇子の臣下になっていたと考えられる。
検証4:郭務宗軍は、筑紫城陸に際し武装解除。その武器(甲・冑・弓矢)が翌年5月に返還され、務宗軍および百済残兵は秘密裏に近江軍へ編入された。これが大海人皇子の出家と壬申の乱勃発の原因である。日本書記は、この歴史的事実を外交政策の必要上から隠し、前後関係を入れ替え誤魔化している。
歴史の空白:歴史とは、記された過去。しかし時に、書けぬ過去があり、書かれぬ過去も多い。歴史研究の基本は、記の調査、書かれた過去調べである。だが記の矛盾から、その当時、書けなかった過去、行間に隠された事実を明らかにして、記を正し、歴史の空白を新たな記述で埋めるのも重要な仕事である。
天智天皇:虚飾された若き日と、抹殺された死の真相。実像は掴み難い。その治世下、日本の律令制度が胎動。彼が選び渡唐させ、帰国した者たちが、40年後に律令国家を完成させ日本の礎を築く。白村江の敗戦は、新たな軍事制を生み、彼の死に伴い壬申の乱が起きた。その歴史的存在性は、極めて大きい。
天武天皇:政敵として、天智天皇を最も良く理解。その娘(持統天皇)を妻とし、天智の政策を引継ぎ、人材を育て、律令国家成立への基礎を作る。特に物部麻呂(石上麻呂)の登用は、新時代の扉を大きく開いた。東国勢力を核とした軍事制の導入は、後の高天原(麻呂・不比等)政権を生む原動力になった。
持統天皇:チメ(女+巨=小柄で可愛いが、絶大な権力を持つ女帝)と呼ばれ、全国に古代道路(美知=女帝の威を知らしめす)を整備。石上麻呂に藤原不比等という副官を加え、主要豪族から既得権を奪うため、東国人を中核とした中央集権的官僚制度を構築した。萬葉集に、その施策が「姫押」と記される。
文武天皇:藤原不比等(文)と石上麻呂(武)に支えられた天皇。実権も、名のごとく「持統」が握っていた。端的には、お飾り。また唐の勢力を朝鮮半島から駆逐して、半島の統一を果たした文武王(在位:661年 – 681年)を暗喩、古代日本における律令国家樹立と新羅寄り外交戦略の象徴とした。
元明天皇:藤原不比等(日=天)、石上麻呂(月=高)に擁立された天皇。まさに高天原(麻呂・不比等)政権の象徴である。在位中(707-715)麻呂は、左大臣(708)となり、平城遷都(710)を断行、自らは藤原古京に留まって反勢力を監視しつつ、太安麻呂に古事記(712)を編纂させた。
元正天皇:文武の姉で、弟同様お飾り(在位717-724)。石上麻呂の死(717)、藤原不比等の死(720)後、高天原政権は崩壊。藤原一族等の専横によって律令制度も崩れゆく。その意味で「正」は詐称。即位前の若き日(氷高皇女)は、後の政治的SF小説『竹取物語』で、かぐや姫のモデルに。
長屋王:左大臣・石上麻呂に庇護された皇子。名のごとく臣下の長たる麻呂邸(長屋)に住み、高天原政権の後継者として養育された。藤原不比等の死(720)後、右大臣(721)、左大臣(424)として政権の座を引き継ぐが、5年後、藤原一族によって罪を問われ謀殺(長屋王の変/729)される。
聖武天皇:在位(724-749)中、長屋王の変(729)、藤原広嗣の乱(740)など、朝廷内の内紛に翻弄された虚弱な天皇。軍事権を握る東国勢力は、藤原一族と対立、天皇が都から逃げ出すという異常事態に。融和策の大仏建立も、さらなる混乱を招く。晩年は、その陰に吉備真備の暗躍が目立つ。
(812) 『『古事記正解』 @Kojikiseikai(関根 聡)氏 の ツイート一覧 Ⅱー④』 2011年10月23日(日)
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吉備真備:遣唐留学生出身の天才的策士。骨肉争う政界で生き抜き、高天原(麻呂-不比等)政権が作った「日本」に、「大和」の首枷、足枷を嵌め、その心まで奪う。「大和」概念は、真備の暗躍により8世紀半ばに誕生。それ以前、日本に「大和」地名はなく、言葉すら無かった。それが歴史的事実である。
歴史用語:縄文、弥生、中世、近世…いま日本史の時代区分は陳腐で、史的概念を欠く。大和朝廷等も、ほとんど時代錯誤で用いられている。歴史学は、考古学や文学と異なる。歴史用語は、史学本来の概念で構築されねばならないが、現実は悲惨的状況だ。その意味で、現代日本に、本物の歴史学者はいない。
日本人:紀元前200年頃、徐市(≠徐福伝説)集団が渡来。彼らは、韓・趙・魏・燕・楚・斉など中国各地から集められた良家の子女で、その後、集団内また在地人と混じり合い日本人となった。その意味で、日本人は元来、アジアで最も優れた混血種といえる。総体として、誕生以来マルチリンガルだった。
参照:史記【秦始皇本紀第六】既已,齊人徐市等上書,言海中有三神山(中略)僊人居之。請得齋戒,與童男女求之。於是遣徐市發童男女數千人,入海求僊人。※漢字「市」は、古字「冂+十」で“都から遠く離れた十”という意味。日本では「大十」と尊称され、「ヤマト」の由来、国名「日の本」になった。
徐市集団:秦の方士「大十」に率いられた三千数百人の一団で、萬葉集は「六鹿」と記す。秦に滅ぼされた六国の良家子女で構成された。少数の秦正規軍兵もいて、渡来後、瞬く間に上代日本全土を制圧し、現在の関東地域に本拠地を置き繁栄。しかし紀元前1世紀の大津波により、その上代文明は壊滅した。
参照:萬葉集1/42/人麻呂/潮左為二五十等兒乃嶋邊榜船荷妹乗良六鹿荒嶋廻乎※「潮」とは、徐市集団の比喩。漢字「左」は「東」義で、「左為」は「東渡」の意。次の「二五十」も「トウ・ト(東渡)=百」で、250人の男が榜船に妻を乗せ、六鹿(6グループ)3000人で荒嶋を廻ったという。
参照:古事記上巻冒頭/天地初發之時於高天原成神名天之御中主神(中略)此三柱神者並獨神成坐而隱身也(中略)此二柱神亦獨神成坐而隱身也※上代日本は「天」と呼ばれ、5人の神が建国。彼らは、みな獨神(家族は人質)で、隱身(逃亡者)。また「上件五柱神者別天神(中国人)」と明記されている。
参照:古事記上巻冒頭/天地初發之時(中略)國稚如浮脂而久羅下那洲多陀用幣流之時【流字以上十字以音】如葦牙因萌騰之物而成…建国の初め、大津波(クラゲのごとく漂える)があったが、人々は水辺に生える葦のごとく再生。後に伊耶那岐神・伊耶那美神が、荒れ果てた国土を「修理固成」し復興させる。
参照:真福寺本古事記/上件五柱神者別天神※古事記全巻中、最も目立つ表記。しかし五柱は名のみ記され、ほとんど事績が語られない。最大の理由は、彼らが別天神(中国人)で、隱身(逃亡者)だったこと。古来、言挙げしてはならぬ秘密。さらに語ろうにも、その足跡は大津波で壊滅し残っていなかった。
弥生時代:その名「弥生」は、東京府本郷向ヶ岡弥生町で発見された土器(1884)が、弥生式土器と呼ばれたことに因む。その後、稲作渡来の学説と結びつき、時代区分として慣用された。本来「縄文」同様、史的概念ではないため、いまや時代区分の用を為さず陳腐化している。根本的な見直しが必要だ。
大津波:従来、波高20m級の津波など、史的考察の想定外だった。関東地方は、「弥生」名誕生の地でありながら、弥生遺跡が少なく、本来あるはずの低地部には皆無。また千葉県西部の沿岸地域には、遺跡を伴わぬ貝塚だけが多数存在する。この歴史的事実を説明するには、「大津波」を想定するしかない。
沓形(くつかた)遺跡:仙台市若林区にあり、2000年前に起きた大津波の痕跡を残す。その発生源は、千葉沖で、霞ケ浦から侵入した大津波は群馬地域まで達し、関東全域の低地部は水没。繁栄していた上代日本の文明は壊滅した。古事記は、その事実を「國稚如浮脂而久羅下那洲多陀用幣流之時」と記す。
(813) 『『古事記正解』 @Kojikiseikai(関根 聡)氏 の ツイート一覧 Ⅱー⑤』 2011年10月23日(日)
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古事記:時の左大臣・石上麻呂が、太安麻呂等に編纂させた史書(野史)。推古期以降は意図的に省略、徐市集団の渡来(紀元前200年頃)に始まる上代日本文明の歴史(誕生・繁栄・崩壊)を、上・中・下3巻に分け記述する。伝説・比喩的人物は、神と記され、実在を想定した人物は、人として記される。
時代区分:日本史では、先史・上代・古代・幕代・近代・現代が史的概念に適す。上代は、古事記が描く時代(紀元前210年頃~645年頃)。幕代とは、幕初~幕末(1192年頃~1868年頃)で、武士の世。時代区分は単純に年切できず、頃感が大切で、歴史的事実の具体的認識に基づくべきだろう。
石上麻呂:定恵に付添い渡唐(653)。帰国後天智に仕え、壬申の乱(672)時は大友皇子の自死を見とるが、4年後、天武が遣新羅使大使(676)に抜擢。以後、持統・文武・元明・元正、計6代の天皇に仕える。晩年に左大臣(708)となり、藤原不比等・大伴安麻呂を従え高天原政権を樹立する。
定恵:藤原鎌足の嫡男。韓智興(後の石上麻呂)等をつれ渡唐(753)、新羅経由で郭務宗らと帰国(665)するが、その年に夭折。壬申の乱、大宝律令の制定、高天原政権の樹立など、古代日本前期を語る隠れたキーパーソンである。天智、大友、天武、麻呂、不比等の人間関係を、定恵の存在が繋ぐ。
韓智興:石上麻呂の幼名。定恵と共に渡唐(653)、西漢大麻呂の讒言で冤罪(659)を受けるが、伊吉博徳の弁明により許され帰国(655)。博徳は、倭種(混血児)と記す。事績から考え、父は物部大連の末裔、母は百済系の貴族娘だろう。定恵の死後、博徳を頼り、後に「壹伎史韓國」を名乗った。
壹伎韓國:石上麻呂の前身。壬申の乱時、近江将として参戦、郭務宗軍と百済残兵を率いて大伴吹負を撃破。その後、務宗軍を撃って大海人軍に帰し、和解を図るが大友は自死を選ぶ。それが矛盾だらけの日本書紀天武元年(672)7月23日条の真相。この条は当初、石上麻呂の前身記だったと推定できる。
参照:天武元年(672)7月23日条◆(中略)大友皇子走無所入。乃還隱山前。以自縊焉。時左右大臣及群臣皆散亡。唯物部連麻呂。且一二舍人從之(中略)近江將壹伎史韓國之師也(中略)河内國司守來目臣塩篭有歸於不破宮之情。以集軍衆。爰韓國到之。密聞其謀而將殺塩篭。々々知事漏。乃自死焉。
参照(続き):(中略)到當麻衢與壹伎史韓國軍戰葦池側。時有勇士來目者。拔刀急馳直入軍中。騎士繼踵而進之。則近江軍悉走之。追斬甚多。爰將軍令軍中曰。其發兵之元意非殺百姓。是爲元凶。故莫妄殺。於是。韓國離軍獨逃也。(後略)※両來目記は矛盾。「莫妄殺」発言は、吹負でなく韓國のもの。
郭務宗(宗は当て字):百濟將軍朝散大夫上柱國として2度来朝(654&665)。その後、羅唐戦争の緒戦に敗れ、百済残兵や倭兵捕虜を連れて、天智朝へ亡命を図る(671)。朝廷は対応に苦慮したが受入れを決定、反郭派の大海人皇子は吉野に逃れた。これが壬申の乱を勃発させる真の原因だった。
時の大海人軍将。壬申記は、対唐・対新羅外交からの配慮から、歴史的事実が曲げて記される。彼は韓國軍の内紛、百済兵等の帰順により漁夫の利を得たが、戦いに一度も勝っていない。口先だけの愚将だった。天武も褒賞の代わりに「吹負」の名を与え、軽蔑の意を表している。
大伴吹負:壬申の乱(672)時の大海人軍将。壬申記は、対唐・対新羅外交からの配慮から、歴史的事実が曲げて記される。彼は韓國軍の内紛、百済兵等の帰順により漁夫の利を得たが、戦いに一度も勝っていない。口先だけの愚将だった。天武も褒賞の代わりに「吹負」の名を与え、軽蔑の意を表している。
10月23日
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