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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 100 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


“とうやん”@t0_yan 「つぶやき:twitter」

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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(a0001) 【壬申乱とは「唐の傀儡・倭国」と「長門以東・近江朝」の唐による倭国再統合戦だった】 2012年10月16日(火)




●ken(白人至上主義・世界植民地化反対)‏@kenkatap

【 壬申の乱 】

▼白村江の敗戦
▼天智天皇は即位以前の663年に百済の復興を企図し朝鮮半島へ出兵
▼新羅・唐連合軍と戦うことになったが、大敗により百済復興戦争は大失敗
▼百済難民を東国へ移住させ、都を奈良盆地の飛鳥から琵琶湖南端の近江宮へ移す


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

.@kenkatap

 眼にとまったので反論する。天智は白村江戦へ出征していない。いわば、「倭国」難波副都の守備隊長だった。出征したのは九州王朝「倭国」の白鳳王・薩夜麻である。

【 壬申乱とは「唐の傀儡・倭国」と「長門以東・近江朝」の唐による倭国再統合戦だった 】


●ken(白人至上主義・世界植民地化反対)‏@kenkatap

 @tohyan

 お、ありがとうございます。wikiをまとめたんですが、参考にしているのがこの文献らしいのです。どの辺の資料を追っていけば、真実に近いのでしょうか。原文まで読む気力はないのに知りたいという、やわな思考なんですが⇒北山茂夫『萬葉集とその世紀』 新潮社


●ken(白人至上主義・世界植民地化反対)‏@kenkatap

 @tohyan

 今リンク先を読ませていただいています。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

.@kenkatap

 手っ取り早く分かろうたって…今度の原発事故の隠蔽と同じで…ただ言えることは書紀は偽書だと言う事。

【 『墓誌の中の「僭帝一旦称臣」この「僭帝」とは九州王朝の天子、薩野馬のことではないでしょうか』 2012年2月25日(土) 】


●ken(白人至上主義・世界植民地化反対) ‏@kenkatap

 @tohyan

 そうですね。(´Д`)ハァ…では、2点だけ教えて下さい。一つは、▼郭務悰=藤原鎌足なんでしょうか?▼2つめは、白村江の戦いで百済の難民が大量に、日本に定住に関しては、どうなのでしょうか。


●山本 俊明  “ とうやん ” ‏@tohyan

 .@kenkatap

 そもそも、藤原鎌足はいたのかどうか不明です。その前に、大化改新自体が無かったと分かった。

【 (699)『果たしてそうでしょうか?「近畿天皇家の事績」と飽く迄「見せかけた」だけではないでしょうか』2011年8月3日(水) 】


●山本 俊明  “ とうやん ” ‏@tohyan

 .@kenkatap

 『郭務悰=藤原鎌足?』懐かしい命題ですね。

【 (165)『郭務悰⇒塔務悰⇒唐無双⇒藤腹無双⇒藤原不比等じゃないかなー』2010年7月16日(金) 】

【 No153 郭務悰という中国人 】《魚拓》


●ken(白人至上主義・世界植民地化反対) ‏@kenkatap

 @tohyan

 どうも、ありがとうございます。圧倒的に、知識不足で現段階で理解が難しいですが、少しずつ勉強させて頂きます。


●山本 俊明  “ とうやん ” ‏@tohyan

 .@kenkatap

 徒然に、つぶやいた中で、「古代史からみ」を抜き出し整理しました。

【 大和朝廷「日本国」出生秘話《つぶやき:「 古代 」目次編 a 》 】

 たったの2年半なのに、もうリンク切れが随所に発生してます。復元を試み中で、あしからず。




●山本 俊明  “ とうやん ” ‏@tohyan

 .@kenkatap

 以下はブログのPRです。

【 2012年10月16日(火) 壬申乱とは「唐の傀儡・倭国」と「長門以東・近江朝」の唐による倭国再統合戦だった 】




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(a0002) 【平清盛は、人柱を沈めて工事を、という意見をしりぞけ、かわりに諸人に一切経の経文を書かせた石を沈める】 2012年10月18日(木)




●山本 俊明  “ とうやん ” ‏@tohyan

 .@jyoumonjn

 あなたのブログを、久しぶりに読みました^^ この

【 水難と人柱 】《魚拓》

 によると、平清盛が神戸に造った「経ケ島」ってそう言う事だったのですね。

 いえね、昔の職場の先輩に「京ケ島」さんと言う方がおられて、確か、神戸の「経ケ島」がその由来だと。


《ご注意》下記は上記の抜粋ですので悪しからず

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【 水難と人柱 】

 平清盛の福原遷都に向け大輪田の泊まりの治水工事を急ピッチで進めた際に、難工事で死傷者が頻出し普請の将の兎丸が工期の順延を願い出たのですが、清盛は拒否しました。

 そこで負傷者の人足は、「自分はもう役に立たないから、人柱にしてでもいいから是非輪田の泊まりを完成させてほしい」と嘆願するが、清盛は、人柱を沈めてから工事をしようという意見をしりぞけ、そのかわりに諸人に一切経の経文を書かせた石を沈めることで、ようやく基礎を築くことができた。故に、この人工島を「経ケ島」と称したという。《ー以下略ー》


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●ジョウモンマン・国民の生活が第一‏@jyoumonjn

 いつもどもっ、言霊か廃仏希釈で変えたんですかね?

 RT @tohyan
【 水難と人柱 】《魚拓》
 …平清盛が神戸に造った「経ケ島」ってそう言う事だったのですね。昔の職場の先輩に「京ケ島」さんと言う方がおられて、確か神戸の「経ケ島」に由来だと


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 @jyoumonjn

 また・また、素直にわからんと^^「言霊か廃仏希釈で変えた」って?

 「経ケ島」と「京ケ島」では発音は同じだけど漢字が違う。もうかれこれ20数年前、本人から聞いた話故、当時は気にしてなかったけど、確かそう言ってた。  神戸からここ横浜迄、流れ流れて来たんだなー!って




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(a0003) 【壬申乱とは「唐の傀儡・倭国」と「長門以東・近江朝」の唐による倭国再統合戦だったと何故言えるか】 2012年10月19日(金) 




●山本 俊明  “ とうやん ” ‏@tohyan

 .@kenkatap

 壬申乱とは「唐の傀儡・倭国」と「長門以東・近江朝」の唐による倭国再統合戦だったと、

 何故言えるか。

【 『解読の結果『古事記』序文の内実は唐から解放・帰国の倭王・薩夜麻の「倭国再統合・倭王復位戦」である』2011年8月13日 】


 何故そう言えるか? そのキーワードとは、『古事記』序文の中にある

⑤「蝉蛻於南山」と、⑥「人事共洽」 ではないだろうか。


⑤「蝉蛻於南山(=南山に居た時、迷いから覚め、悟りの境地に達した)」 は、


 『 倭国軍の白村江敗戦後に唐が進駐・占領したであろう倭国の直轄地・九州島の混乱。及び、倭国軍の白村江敗戦後に、長門以東を直接支配の守備・残留倭軍(=日本余噍)即ち近江朝天智天皇の唐占領支配への抵抗、反乱。更には、日本国独立宣言。

 この事態をすみやかに、収拾できるのは、唐の都・長安に拘束中の 「この自分(=白鳳王「倭王」薩夜麻)しかいないという自覚・決心」 自分がやらないと誰ができるのだと悟った「蝉蛻」だったと言えようか。 』


⑥「人事共洽」は、【人事、共に給わる】で、「給う」は上位者が下位者に物を与える時に使う用語である。

 では、薩夜麻(=天武)に「軍勢を与えた」上位者とはだれか?であるが、それは唐の高宗である。

 ⇒ そこに、唐の高宗が、薩夜麻(=天武)に「軍勢を与えた」 のだ。


●山本 俊明  “ とうやん ” ‏@tohyan

 .@kenkatap

 今一つ別の観かたをしてみよう。それは、いわゆる
【 九州年号 】
についてである。

 この表の白鳳元年は西暦661年であり、白鳳24年の西暦684年迄続いている。途中白村江662年、壬申の乱672年も、絶えることなく24年間続いている。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 .@kenkatap

 要するに壬申乱は天智亡き後の大友皇子を殺し、天武が即位する天皇位争奪戦といった“ちゃち”な内戦ではなく、唐が668年高句麗を滅ぼし厭戦気分の高まった戦線の撤収を図ったという事です。

 最後の倭国の征服は諦め、薩夜麻に九州倭国と長門以東近江朝の再統合を許したわけだ。


●ken(白人至上主義・世界植民地化反対)‏@kenkatap

 @tohyan

 ありがとうございます。これは知識のない私にも、わかりやすいです。




●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 .@kenkatap

 プロト(=本来の)大化改新(696年)高市天皇暗殺によって九州王朝倭国は実質的に滅亡します。

【 2012年10月19日(金)
   壬申乱とは「唐の傀儡・倭国」と「長門以東・近江朝」の唐による倭国再統合戦だったと何故言えるか 】


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 .@kenkatap

 厭戦気分のkenさんに、私がようやくたどり着いた『戦後史の正体』です^^

【 (925) 『淑人(唐・高宗)の、よしとよく見て、好し言ひし、芳野(郭務宗)よく見よ、多良人(倭王・薩夜麻)よく見』 2012年3月14日(水) 】


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 .@kenkatap

 プロト(=本来の)大化改新(696年)高市天皇暗殺によって九州王朝倭国は実質的に滅亡します。

【 さてここで、「大和朝廷の生い立ちから倭国滅亡迄の歴史的経緯の想定年表」をじっくり見てみようじゃないか 】




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(a00004) 【倭国から支配権を強奪した大和朝廷は、廃評建郡以降の班田を倭国の旧支配層に分け与えなかったのではないか】 2012年10月19日(金)




●安保 隆‏@AmboTakashi

 被差別部落出身者であるかどうかではなく、裏社会がマイノリティによる支配の一角として「部落」という要素を組みこみ、裏社会の手先として起用し、日本に害悪をもたらす動きをさせていることこそが問題なのです。

問題なのは…《魚拓》


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 .@AmboTakashi

 古代史大家のFさんは「部落民」は
好太王碑(こうたいおうひ) 《魚拓》
の守墓人の記述を例に、前方後円墳とか守墓人の子孫だろう。」という意見だが、私は思うに、それだと周りに守墓人が多すぎないだろうかと思うのだ。田舎の山口なんか、そんなに墓が無いにも関わらず部落民は一杯いる。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 .@AmboTakashi

 この部落民の居住地はというと、茨城・栃木・群馬以西だという事だ。このことは、九州王朝「倭国」の版図と一致する。

 プロト大化改新の高市天皇倭王暗殺で、倭国から支配権を強奪した大和朝廷は、廃評建郡以降の班田を倭国の旧支配層に分け与えなかったのが原因ではないか。




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(a0005) 【「古柳井水道」の事を「長門」と言ったという、書紀の《長門に城を築く》は即ち「石城山」の事である】 2012年10月24日(水)




●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 「古柳井水道」の事を「長門」と言ったという、書紀の《長門に城を築く》は即ち「石城山」の事である。


▼ 《 麻里布の浦考-1.「見れど飽かぬ」から比定地を解く 》《魚拓》

▼ 《 麻里布の浦考-2.「月読の光を清み」から遣新羅使船航路行程を解く 》《魚拓》


◆《ご注意》下記の写真は上記頁に採用の写しですので悪しからず。

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① 古柳井水道と旧熊毛湾(古墳時代の海岸線を現海抜の10m辺りとする)細線は現海岸線



② 旧熊毛湾口部空中写真(国土地理院 昭和56年撮影)



③ 玉の浦から長門の浦まで(『万葉集釈注8』の行程を修正)



④ 長門の浦から姫島(漂着経宿)まで(『万葉集釈注8』の行程を修正)



⑤ 古柳井水道と旧熊毛湾




(200) 『毛利長州藩の英雲公の「撫育方」制度の確立、撫育金の秘密裏の貯蔵であろう』 2010年8月21日(土)

(205) 『長門城及び屋島城は近江朝が九州王朝倭国から実質的に分離・独立したが為に必要になった』 2010年8月26日(木)

《情報ネットワーク INFACT》百済王家と天皇家をむすぶ「石城山城」の謎 《魚拓》




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(a0006) 【『東京国立博物館140周年 特別展「中国 王朝の至宝」』の「編鐘」 は、隣の出雲展の「銅鐸」のご先祖様だ】 2012年10月28日(日)




●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 『日中国交正常化40周年 東京国立博物館140周年 特別展「中国 王朝の至宝」』

【35 楚 編鐘 1具 戦国時代・前4~前3世紀 2002年 湖北省棗陽市九連墩2号墓出土 湖北省博物館】《魚拓》

 「編鐘」 は、隣の出雲展の「銅鐸」のご先祖様だ。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 先の12.10.26(金)に、『上野の森美術館で開催のツタンカーメン展』へ行った。
 その後『日中国交正常化40周年 東京国立博物館140周年 特別展「中国 王朝の至宝」』を見て、更に、隣の『出雲展』へと廻ったわけだ。
 ついでに、帰り途中下車して、話題の「東京駅」をみた。芸術の秋だ!!




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(a0007) 【平清盛は宋国の東シナ海に浮かぶ「普陀山」(現・浙江省/舟山群島/仏頂山)へ一度は行ってると思うのだが…】 2012年11月6日(火)




●日山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 なんとも、毎日「韓ドラ」見てる御仁の気が知れない。。。 “うるさーいッ!” のだ^^  年がら年中女性が “がなりたててる” そういえば、幼かった昔の山口の田舎でも、近所の韓国人の女性は、“けんか” でもないだろうに、あたり構わず “がなりたててた” なー。 “うるさーいッ!”


●三木竜一 ぽちまる‏@LongMikI

 @tohyan

 基本、「韓国人」「中国人」は声が大きい。うるさい!


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 .@LongMikI

 ありゃッ! 見てらっしゃったのね^^


●三木竜一 ぽちまる‏@LongMikI

 @tohyan

 何度もツイしているけど、ドラマなんか見ないよーw。冬ソナだけは10年前に見たけど。でももうご馳走様ですわん。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 .@LongMikI

 私はNHKBSの以前は『トンイ』を観てた。今は『王女の男』を観てる。いつも、「はらはら」させられる。背中に矢が刺さったから死んだと思うと、次回は生きてる。女房は、ヒロインだから死ぬはずが無い…という。平清盛よりは面白い。それでも、NHK受信料はペイしてない。


●三木竜一 ぽちまる‏@LongMikI

 @tohyan

 me neither(^_^)v


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 .@LongMikI

 平清盛は、宋国の東シナ海に浮かぶ「普陀山」(現・浙江省/舟山群島/仏頂山)へ一度は行ってると思うのだがきっと受けるよ。

▼ 【 2012年4月11日NHK-BSP「歴史ミステリー 平清盛の夢~海上神殿・厳島神社の謎を追う」 】


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 ふとした時見た洋画のテーマソングが50年たった今も。。。。

▼ 【 国境は燃えている 】


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 音楽といっても、レコード盤⇒ソノシート⇒カセットテープ⇒CD⇒SDと変わってる。。。 電蓄とか、そうだ、テープデッキで有名だった赤井電機の今は?レコード盤もほこりかぶって…今はいずこぞ? 


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

▼ 【 悲しみは星影と共に 】


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

▼ 【 Francis Lai 映画「ある愛の詩」  Love Story 】


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

▼ 【 La Playa(夜霧のしのび逢い)/Claude Ciari(クロード・チアリ) 】


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

▼ 【 ララのテーマ(Somewhere My Love) 】


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

▼ 【 シバの女王La Reine De Saba/Raymond Lefèvre et son Grand Orchestre 】


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

▼ 【 アイドルを探せLa Plus Belle Pour Aller Dancer /シルヴィ・バルタンSylvie Vartan 】


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

▼ 【 恋はみずいろ / オリーブの首飾り  ポール・モーリア 】




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(a0008) 【マツタケはシロの地表から発生し、シロが充分に発達していなければマツタケが発生しないとされている】 2012年11月7日(水)




●11月6日 山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 今日は、田舎の弟夫婦が山口・徳地町の『くり』『しいたけ』『わさび漬け』『こうなご』を送ってくれた。なんでも、友達が徳地町の「秋祭り」に誘ってくれたそうで、その折に、買ったそうだ。先日は
阿東町の「マツタケ」《魚拓》
を送ってくれたので、恐縮している^^


●11月6日 山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 幼い頃近くの山へよくマツタケを取りに行ったものだが最近は全然取れないと聞く。
【 松茸通販はあとうふるーつしょっぷへ! 】《魚拓》
で、『マツタケはシロの地表から発生し、シロが充分に発達していなければマツタケが発生しないとされている』手入れが必要と言う事か




【 松茸通販はあとうふるーつしょっぷへ! 】《魚拓》


《ご注意》
 下記は上記の抜粋・転載ですので、あしからず。


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◆松茸うんちく

 松茸は米の多い年は少ないが、米の少ない年は松茸が多い。
 このうんちくは、松茸の生える量と降水量がとても親密な関係にあることをものがたっています。梅雨時期から秋にかけて雨や台風が多い年は米は収穫量が少なくなるけれども、松茸は多く採れるということです。


◆松茸とはなんぞや?

 松茸(マツタケ)はキシメジ科キシメジ属キシメジ亜属マツタケ節のキノコの一種で、食用です。秋9月~11月にかけてアカマツやコメツガ、ツガなどの林地に生えます。
 現在のところ人工栽培することができず、自然に生えているものを秋に収穫します。
 過去には日本でも多く取れましたが、マツクイムシにより松林が激減したことや、乱獲と山林の開発、そして松の葉や枝を燃料として利用しなくなり松林が荒れたことにより収穫量が激減しています。そのため、高価で取引されています。高級食材としてのイメージがとても強い。
 最近では韓国や北朝鮮、カナダからの安い輸入物がスーパーマーケットなどで多く見られるが、日本産に比べると風味が落ちる。
 これは輸送中の時間の経過によって起きる事あり、新鮮であれば輸入物も国産も松茸の香りは何ら変わりはない。


◆松茸の独特の香りは?

 この香りの主成分はマツタケオールと桂皮酸メチルだが、特にマツタケ特有の香りを生んでいるのは桂皮酸メチルである。
 日本では一般に香りが良いとされ(独特の香りを嫌う人もいるが)、「土瓶蒸し」や「松茸ご飯」など香りを生かして食べることが多い。逆に欧米では香りが良くないとしてあまり好まれない。


◆松茸はどこに生えるの?

 松の根元付近に生えています。
 マツタケはマツ属 などの樹木の根と、外生菌根と呼ばれる器官を形成して共生している。
 マツタケの本体である土壌中の菌糸体が充分に発達していると、その場所の土壌が白くなる。このような菌糸体と土壌との白い粘土質のような砂の部分を「シロ」と呼びます。
 マツタケはシロの地表から発生し、シロが充分に発達していなければマツタケが発生しないとされている。
 なお、シロは細菌に弱いため、やせた土にしか生育できない(つまり腐葉土が増えるとシロは生えない)。
その点が、マツタケの収穫量が少なくなった理由の一つにもなっている。


◆松茸狩りについて

 マツタケを採るのは至難の業である。松茸が生える山や場所は大体決まっています。通常のキノコのように地表に顔を出て傘が開ききってしまえば、香りも味も極端に落ちる。このため、地表からわずか1~2cm程度、顔を出したところを見極め、根本から押し上げるようにして採取する。シロの場所を知らない人間が、やみくもに捜しても採取できない理由がこの点にある。
 それとマムシや最近は熊の出没にも注意が必要である。


============================ 《転載は以上です。》




●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 実は今、我が家の畑のネットを、「防風ネット」から「防虫ネット」へ張り替えている。これが結構大変で、「暇に任せて」の老人仕事である。別に、期限があるわけでもなく…、出来栄えがどうと言われる訳でもない…。ただ己れ自身の自己満足がその決め手である。秋晴れの空気の中、無心に張り替えている。


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 ツイッターは発信すると同時にブログにしてる。

【 大和朝廷は、九州王朝「倭国」 の 【 同じ血族・分流 】である。 】




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(a0009) 【九州王朝と大和王朝の交替? ⇒ 大和朝廷・奈良朝廷は、九州王朝「倭国」の一分派・分王家である】 2012年11月11日(日)




 今日「九州王朝 倭国」で検索してたら、その存在に関する「疑問」を非常にわかり易く説明されている
『 九州王朝と大和王朝の交替? 』《魚拓》
の頁に出くわした。

 はじめて知ったわけですが、『 新庄宗昭・日本古代史雑感 』の中の、この頁は、 2008-08-20 に記載されたようであるが、結果的に私の考えは、この新庄宗昭氏の疑問・指摘を、発展させたものだなーと、今つくづく共感している次第です。


《ご注意》下記は上記の抜粋・転載ですので、悪しからず

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『 九州王朝と大和王朝の交替? 』


 今日のテーマは「九州王朝と大和王朝の交替」に関する疑問です。

 古田史学によれば、九州王朝から大和王朝へ政権が遷った時期は西暦701年。大宝律令の出された時がそれに当たる、と論じられています。
 白村江の戦いで大敗した九州王朝は、その後衰微し、徐々に力を無くしていったということです。白村江の戦いが663年、それから701年まで38年。日本書紀には壬申の乱をはじめいろいろな出来事が出来しています。
 その中で,王朝の交替を臭わす記載は皆無です。これは何故か?という疑問です。

 701年が交替のときだという大きな根拠は「郡評」論争の歴史学会における決着です。郡、評とは当時の日本の地方の行政機関です。
 日本書紀が何と言おうと、古代の遺跡から出土する木簡群はそれとは別のことを語ります。歴史学ではこのような資料を「第1次資料」というのだそうです。その時のものがそのまま残っているわけですから、後世への作為はあり得ないわけです。
 この木簡が701年までは評木簡、701年以降は郡木簡と、きれいに分かれることが判ったのです。
 郡県制は大宝律令以降、全国に実施されたことが分かっているわけですが、評制については誰が制定したのか、我が国の歴史学会は不問です。古田武彦氏がこれは九州王朝の制定した制度であると論じたのです。つまり、新政府は大宝律令でもって郡県制を施行し、全国統治を宣言したことになるのです。


 それにしてもです。こんな晴れがましい政権交代を何故、日本書紀は黙っているのでしょうか?

 古田武彦氏は言います。「百済も倭国九州王朝も中国周王朝(南朝)に朝貢臣従していた。白村江の戦いの後、唐は中国南朝系統の歴史を抹殺した。朝鮮半島も百済王族の墳墓までが完全に破壊尽くされた。倭国がそのままであたはずはない。九州王朝系統の史書をはじめ墳墓までも削平されてしまったであろう。
 新しく政権を担った大和は当然、唐に臣従するしかない。2000−4000人という唐の軍隊が進駐してきている。その環境の中で、史書編纂が進むとすれば、南朝系の歴史は無かったことになる。完全抹殺の理由はここにある」と。

 完全犯罪ですね。しかしです。そんな完全犯罪が可能でしょうか? もちろん、いろいろな状況証拠があって日本書紀が嘘をついていることは歴然としています。抹殺と言っても、どうしても書き換えなければならないところは書き換えるが、大和に関係のないところは黙って削除したであろうから。従って、矛盾だらけで意味の通じない部分が出来するわけです。これはこれで面白いテーマです。また別にお話ししたいと思いますが。私の視点はもう少し違うところにあるのです。

 完全に敵対する関係であれば、「政権を取った!」とどこかで吠えてもいいでしょう。しかし、事実は評から郡への変換のように、なし崩し的に書き方だけを替えています。
 もっと前から郡であったかのように。つまり、九州王朝の事蹟は抹殺するのではなく、自分たちの事蹟として移し替えているに過ぎないのです。
 このことから垣間見えることは、かれら大和の政権にとってこのできごとは政権奪取!というようには見えていなかった、あるいはそうとは理解していなかったのではないか?そういうことなのです。

 禅譲だろうか? あるいはひょっとして九州から政権主体がごっそりやってきたのではないのか?など考えては見るのですが。


 白村江の戦い直前には斉明天皇が九州へ助成に出ます。戦いの後、天武天皇が九州を往復します。九州の政権と大和の政権とは何らかの親近性のある関係がありそうな気配です。白村江の戦い直前に始まる第1次難波宮建設は九州王朝の避難先ではないかとも読める古文書もあります(古田古代史学会報・古賀氏)。

 そんなこんなを考えていると、この時代がわけのわからない迷宮入り状態になってくるのです。

 また、整理して書きたいと思います。

                        (2008-08-20)


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《転載は以上です。》


◇◇


《600-655年》
▼ 【 (805) 『『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」 (その14)』 2011年10月21日(金) 】


《608年》
 「隋書」俀国伝(大業4年:608年:推古16年)の記述から、当時の倭国は、九州島を直接支配し、長門以東は秦王国を筆頭に附庸する間接支配の地方分権制であった。
 当時、倭国に附庸する秦王国は有ったが大和王国・大和王朝・大和朝廷なるものは、日本に存在していなかった。


《632年》
▼ 【 (642) 『「源氏物語」薄雲の巻は源氏32歳632年、突如太政大臣、次に式部卿の死が語られ、冷泉帝が嘆かれる』 2011年6月18日(土) 】


《645年》
▼ 【 (671) 『唐が高句麗攻撃の報に接し、周辺国に動揺が走った。富国強兵策の「常色の改革」の一環の「天下立評」を実施』 2011年7月14日(木) 】


《649年
▼ 【 (112) 『「白雉年間の難波副都建設と評制の創設」へと次々展開する』 2010年5月29日(土) 】


《659年》
▼ 【 (779) 『唐への使節団が、倭人連邦宗主国「倭国」からと、附庸王国「秦国」からとの二つが送られ「もめごと」に発展』 2011年9月16日(金) 】


《662年》
▼ 【 (346) 『白村江の会戦の年代の違いを検討する:中国山東省曲阜市 青木英利氏寄稿』 2011年2月15日(火) 】


《666年》
▼ 【 (681) 『【唐人の計】で、薩夜麻の「封禅の儀への参加」を、薩夜麻の「倭国への解放・帰国」に“すりかえ”ている』 2011年7月22日(金) 】


《670年》
▼ 【 (686) 『天智が近江で即位し、内外に「日本」と言う名を宣言したとなっていますが、それが認められたかどうか怪しい』 2011年7月25日(月) 】


《672年》
▼ 【 (729) 『解読の結果『古事記』序文の内実は唐から解放・帰国の倭王・薩夜麻の「倭国再統合・倭王復位戦」である』 2011年8月13日(土) 】


《672年》
▼ 【 (924) 『勘違いするな。『古事記・序文』の“どこにも”「壬申の乱」とか、「吉野に入った」とかは、書かれていない』 2012年3月12日(月) 】


《672年》
▼ 【 (a0003) 【壬申乱とは「唐の傀儡・倭国」と「長門以東・近江朝」の唐による倭国再統合戦だったと何故言えるか】 2012年10月19日(金) 】


《684年》
▼ 【 (000a) 『九州王朝から近畿天皇家への権力移行期』 2010年2月18日(木) 】


《696年》
▼ 【 (666) 『『書紀』大化元年八月「東国国司招集の詔」は「倭国」が発し、「東国国司の賞罰詔」は大和朝廷が発したもの』 2011年7月7日(木) 】


《696年》
▼ 【 (667) 『この見落としかねない何気ない記事を軸に“どんでん返し”の九州「倭国」から大和朝廷へ王朝交代が起こった』 2011年7月8日(金) 】


《713年》
▼ 【 (737) 『日本側に無い『開元初年(713)の粟田真人を正使とする遣唐使』では、何が交渉されたのだろうか?』 2011年8月18日(木) 】


《720年》
▼ 【 (806) 『「日本書紀」七二〇年編纂完了後、唐朝では国史編纂資料中から、倭国史五十四年分が抜き取られたのである』 2011年10月22日(土) 】




 以上、倭国史の主な流れが分かる記事を、かいつまんで、拾ってみた。ここでも、「大和王朝」・「近畿王朝」という表現をしているが、正しくは「大和朝廷」、あるいは「奈良朝廷」という表現の方が分かりやすい。

 文武天皇を初代とする「奈良朝廷」、あるいは「大和朝廷」は、「倭国」が「天下立評」の為に、その難波副都に派遣・駐留の一分派・分王家であると考えざるを得ないからである。  要するに、大和朝廷・奈良朝廷は、九州王朝「倭国」の一分派・分王家である。




九州王朝「倭国」の「甘木王(=明日香皇子、常色・白雉王)』が647年即位してすぐ、唐・新羅・『秦国』同盟に対抗の為「常色の改革」を発表するが、その一環として「天下立評」し、複都難波京を築き、倭王分家弟王家の伊勢王が常駐する。  この伊勢王が大和朝廷の始祖王で、皇極・斉明天皇は伊勢王と同一人物だろう。




 以下は、
【 (666) 『『書紀』大化元年八月「東国国司招集の詔」は「倭国」が発し、「東国国司の賞罰詔」は大和朝廷が発したもの』 2011年7月7日(木) 】
の一部抜粋です。


①九州王朝「倭国」の天子・高市天皇は灘波京焼失后、弟王家の近畿天皇家から借りて兄弟王家同居の飛鳥浄御原宮から、倭国の自らの新都・藤原京完成后直ちに遷都し、晴れて九州年号を「朱鳥」から「大化」へ改元(695年)した。


②九州年号大化元年(六九五)八月、九州王朝「倭国」の筑紫兄王家が、弟王家の近畿天皇家へ全面委任していた長門以東の「評制の施行・維持・管理」を見直しし、近畿天皇家により任命されていた国宰の権限を剥奪・縮小し、新律令施行に向け新職務を課す主旨の「東国国司招集の詔」を九州王朝「倭国」の天子・高市天皇の自らが発した。《これは、正木裕氏が指摘の8). (1)項ー『書紀』大化元年(六四五)八月の記事》


③更に、九州年号の大化2年(696)正月一日、九州王朝「倭国」の天子・高市天皇は、藤原宮で「廃評建郡(=評制を廃し、郡制を施行)」の『大化改新の詔』を宣言した。なお、藤原宮で全国へ公布された「建郡」の詔書には大化年号が書かれていた。


④長門以東の「評制の施行・維持」を全面委任されていた弟王家の近畿天皇家にとって、上記見直しは「やりすぎ」であり、甚だ不利な内容であり、筑紫兄王家側の重臣にも同情者があった。


⑤結果、『696年〔持統10年(持統即位7年):大化2年〕7月10日、後皇子尊『高市皇子⇒高市天皇』が薨じた⇒高市天皇を暗殺した(=プロト乙巳の変)。


⑥筑紫兄王家の高市天皇暗殺后、弟王家の近畿天皇家は、九州王朝「倭国」の筑紫兄王家の立場へと、そっくり入れ替わって、次の「東国国司の賞罰詔」を宣した。




 以上の経過をたどって、九州王朝「倭国」の高市天皇によってプロト大化改新「廃評建郡(=郡制施行)」の詔は発せられたが、同年7月の高市天皇の暗殺クーデターで実権を握った大和王朝「日本国」に引継がれ、開闢と同時の701年実施された。

 「プロト大和朝廷」とは九州王朝「倭国」の分家「難波副都倭弟王家」であり、「常色の改革」の一環としての「天下立評」の執行は自らの祖王の事績でもあったのだが、九州王朝「倭国」の抹殺と同時に、「天下立評」も無かったことにし、“一足跳びに”、「郡制施行(=建郡)」の「大化改新」へと置き換えたしまったのだ。


 上記で言う、

 「この木簡が701年までは評木簡、701年以降は郡木簡と、きれいに分かれることが判ったのです。」


 これとまったく“同期する”史書が、『日本書紀』であり、『続日本紀』である。

 と言う事は、『日本書紀』は九州王朝「倭国」の史書であり、『続日本紀』は九州王朝「倭国」の一分派・分王家である大和朝廷・奈良朝廷の史書であると言えよう。

 もちろん、その内容は正木裕氏の指摘通り、“ずたずたに”切り裂かれているのだが…。




 先ずは、

【 「 持統紀 」 はなかった、本来は 「 高市紀 」 だった : 飯田満麿著 】
を引用参照します。


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『7.⑨高市皇子の薨去と藤原不比等の台頭』

 「朱鳥」年間の「倭国王」が高市皇子だったとすれば、その治世期間(686年ー694年)と『日本書紀』の高市皇子薨去記事(696年)の間に「差異」がある。

 この「差異」を解明する推量は、694年に至って俄かに発病した高市は、後継を指名し、この時、退位したと考えられる(しかしそれが誰かは不明である)。その後、病が重篤となり696年7月薨去(崩御)した。この様に考えれば一応の理解は得られる。
 とあります。


―《途中略》―


〔追記〕
 当論文の核心を為す「高市天皇説」については、当会代表・水野孝夫氏、同じく会員・伊東義彰氏との、所謂「古代史談義」のなかで、そのヒントを得た。
 わたしを含めてこの三人はお互いの住まいが近いこともあって、しばしば会合し、飛鳥地方の探訪や、発掘調査報告会参加など、密接な関係を持っている。
 そのようなある日、水野代表から

「高市皇子は天皇だった可能性が在ります」

 と聞いたときは、意表を突かれ愕然とした。これまでわたしは高市皇子の存在を何ら顧慮してこなかったから当然の事だ。


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 が、その前に、飯田満麿氏の記述を少し補いましょう。

【九州年号】
から、
 ●「白鳳(661-684年)」は倭王の薩夜麻の在位。
 ●次の九州年号「朱雀(684年-686年)」は倭王の大海人皇子の在位。
 ●九州年号「朱鳥(686年-694年)」更に、藤原京遷都後の九州年号「大化(695年-696年7月暗殺秘匿?-703年)」は倭王の高市天皇(薩夜麻の皇子)の在位。

 一方、
【 天武天皇は二人いた。 日出島哲雄 】
ということで、
 ●壬申の乱直後の白鳳12年(672年)は倭王の薩夜麻の天武天皇が在位し、
 ●「朱雀(684年-686年)」は倭王の大海人皇子の天武天皇が在位した。
 ●持統即位元年(690年)は両朝が高市皇子の高市天皇即位、軽皇子(=のちの文武天皇)の皇太子即位で合意がなった時と分かる。




 飯田満麿氏が、「九州年号」は都城が遷都した場合も「改元」された、と知っておられたら、この「差異」のとらえ方が違っていたと思います。

 高市天皇は退位したのではなく、新都・藤原京に遷都・大化改元後、ますます“意気軒昂した”であろうことはあきらかです。

 翌年の696年の正月に廃評建郡の「プロト(本来の)大化改新」の詔を発しています。

 そして、それがもとで、軽皇子(=のちの文武天皇)の皇太子、藤原不比等等の一派に「プロト乙巳の変」で暗殺されてしまいます。


 上記で「持統即位元年(690年)は両朝が高市皇子の高市天皇即位、軽皇子(=のちの文武天皇)の皇太子即位で合意がなった時と分かる。」と書きましたが、下記の〔皇太子使使奏請曰(696年3月20日)〕に当てはめると、その文意がすんなりと理解できるものと考えます。


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【 (666) 『『書紀』大化元年八月「東国国司招集の詔」は「倭国」が発し、「東国国司の賞罰詔」は大和朝廷が発したもの』 2011年7月7日(木) 】

 の中で、

《 〔皇太子使使奏請曰(696年3月20日)〕 の本旨の現代訳 》

臣(軽皇子=のちの文武天皇)は恭しんで(高市)天皇が詔する所を承け、答え奉って、

 『天に双つの日は無く、国に二人の王は無い。是れ故に天下を兼ね併わせて、万民を使う可くは、唯だ天皇ののみ。
 とりわけ、皇族の入部(=子代部・名代部)及び、豪族の所する封戸と民をもって、仕丁にえらび充当することは、前の〔大化の改新の詔の〕処分に従いましょう。それ以外は、私的に駆役するのを恐れます。それ故に、入部五百二十四口、屯倉一百八十一所を献上します。』

 と言った。】


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 以上如何でしょう?

天に双つの日は無く、国に二人の王は無い。…』

 ⇒ (逆に言うと、696年3月20日の当時は)

 『天に双つの日があり、国に二人の王が居た。…』

 と、こんな“大それた物言い”から、少なくとも、〔皇太子使使奏請曰〕は、「中大兄皇子が孝徳天皇に奏請した事(646年3月20日)」でないことだけは確かでしょう。




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(a0010) 【『漂泊の宇治平等院鳳凰堂:米田良三著』にある「宇治平等院境内古図」の甲図および、乙図について】 2012年11月29日(木)




 下記は、

▼ 【 2012年3月30日(金)
速報 !!『宇治平等院』の九州王朝「倭国」時代の所在地が分かった『漂泊の宇治平等院鳳凰堂:米田良三著』 】

 の続報です。


◇◇◇◇◇◇◇◇


 みなさん「10円硬貨」で、おなじみの
世界遺産「宇治平等院鳳凰堂」《魚拓》
ですけど、私は、もう50余年前になりますが、中学の修学旅行で一度拝観しただけですが…。

 先生が素晴らしい、々、というので、期待の「鳳凰堂」は確か雨上がりで「鳳凰堂」の前の池が濁っていて、あまり好印象でなかった思い出があります^^


 ところで、

▼ 『 京都・宇治 世界遺産 「平等院」 』《魚拓》
のホームページの「平等院について」には、次のようにその「沿革」が説明されている(以下は抜粋・引用です)。

―――――――――――――――――――――――――――――――


「沿革」
1000年の歴史


 ときの権力者、関白藤原道長が左大臣源重信の婦人から譲り受けた別業をその子頼通が、永承7年(1052)にこれを仏寺に改め、平等院としました。

 永承7年は末法初年に当たるとされ、末法思想が貴族や僧侶らの心をとらえ、極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行していました。

 その翌年の天喜元年(1053)には平等院の阿弥陀堂(鳳凰堂)が落慶し、堂内には、平安時代の最高の仏師定朝によって制作された丈六の阿弥陀如来坐像が安置され、華やかさを極めたとされています。

 約1000年前に建立された建造物や仏像が今に伝えられ、世界遺産にも登録されております。

―――――――――――――――――――――――――――――――


 この上記「沿革」に対し、米田良三氏はその著

▼ 『 宇治平等院の倭国時代の所在地がわかった 』

 で、次のように元々は「 福岡県 筑紫野市 俗明院 」に建ってたものを移築したものだ、と言っています。


《ご注意》以下は上記からの抜粋・転載ですので悪しからず。

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 速報にある宇治平等院の倭国時代の所在地発見の経緯を述べています。

仕様
 B5版 縦書き 20行×42字 50ページ
 Canon PIXUS Print File
 1部 1000円(送料を含む)

 米田良三 著 渡辺しょうぞう 編集
 AB&JC PRESS 発行 受注制作


まえがきより

 筑紫野市の山中にある「平等寺」の地を流れる山口川の流域に、平等院最勝院が蔵する境内古図の平等院を合わせパズルのごとく探し置く作業をした。

 ただ一か所のみ平等院の存在した可能性のある場所を明治33年陸軍測量の地図の上に見つけることが出来た。

 しかし、地図にはそれ以上に正確な地勢を読むことは不可能であり、現在の地図からも過去を読み取る術がなかった。

 かつて磐井の墓や東大寺伽藍跡を探し出す際にお世話になった、戦後に米軍が撮影した航空写真を国土地理院に求めることになった。

 郵送されてきた写真に平等院の境内の存在を確かめ得た。


もくじ

1.常識である千年前頃つくられた『源氏物語』………06

2.最勝院の古図二点…………………………………10

3.喜撰法師……………………………………………15

4.『日本書紀』の記述…………………………………20

5.鳳凰堂の創建………………………………………24

6.『万葉集』と『古今集』と『源氏物語』………………29

7.宇治平等院鳳凰堂…………………………………32

8.鳳凰堂仏後壁………………………………………46


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

《転載は以上です》


◇◇


現「宇治平等院鳳凰堂」

▼ 【 地図:移築後の 「宇治平等院鳳凰堂」 現・所在地 】

▼ 【 平等院「 所在地及びアクセス 」 】《魚拓》

▼ 【 佐藤弘弥の(日本化した浄土思想の象徴)「宇治平等院鳳凰堂」考 】《魚拓》




米田良三氏が推定の九州王朝「倭国」時代の「宇治平等院鳳凰堂」


▼ 【 地図:米田良三氏が推定の九州王朝「倭国」時代の 「宇治平等院鳳凰堂」 所在地 】


▼ 【 山城の塔跡 】《魚拓》に掲載の


 ■ 【 X:「宇治平等院境内古図」甲図(最勝院蔵) 】





 ■ 【 D:「宇治平等院境内古図」乙図(最勝院蔵) 】





 この小冊子「漂泊の宇治平等院鳳凰堂:米田良三著」には、
『D:「宇治平等院境内古図」乙図』……12頁
『X:「宇治平等院境内古図」甲図』……13頁
 なるものが、記載されている。

 さらに、この冊子の“はじめに”の途中には、次のように書かれている。


《以下はその抜粋です。》

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 平等院は主仏が阿弥陀如来であり、戸襖に描かれた障壁画は来迎図である。絵はほとんど消されており、このことからだけでも解体移築されたことは疑えない。
 また、平等院鳳凰堂が倭尺を使って造られていることは平面図の柱間寸法にすでに確かめている。

 平等院最勝院に蔵する境内古図は現在の平等院の境内と明らかに異なるが、移築論という概念のない時代の建築史家福山敏男氏は古図が江戸初期の終わりごろか江戸中期の初めごろに作られたとし、建築位置の異なるものは誤りであるとすべきとした。
 理由を「この境内図は建武三年(1336)正月の兵火で多くの建物を失ってから後に、年数を重ねて、昔の堂塔の位置がわからなくなってから、多くは想像によって、復元的に作り上げたものとするほかない」と述べている。

 しかし、この古図は建築の配置図のように、建物や樹木のイメージを的確に捉えた姿図を、正確な位置に描いている。
 一つ一つの写実的な絵が空間を表現しており、観世音寺古図と同じ手法が使われている。

 周りは東に水を湛えた川が流れ、北と西は道路である。
 現在の平等院と異なるところは築地で囲まれた矩形の境内であること、鳳凰堂が池の中の島に建つこと、境内に五重塔が立つこと、回廊で囲まれた中心伽藍と鳳凰堂が橋で繋がっていることなどである。

 この古図の持つリアリティは福山敏男氏がいうような想像のものではあり得ない。
 移築前の姿を実写していると考えるのが妥当である。
 東を流れる川を渡る橋が描かれており、渡った先が平等院の小三門であるが、その橋には宇治橋と書き込みがある。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

《転載は以上です》


 ところがである、印刷がまずい為なのか、肝心な古図の書き込みが細かく判読できないのだ。
 それで、思い立ってネットで検索すると上図を得たということなのだが、残念なことに、上図も判読は覚束ない。。。。たはッ^^


 言えることは、
■ 【 観世音寺古図 】
同様、ここにも“貴重な”
■ 【 X:「宇治平等院境内古図」甲図(最勝院蔵) 】
及び、
■ 【 D:「宇治平等院境内古図」乙図(最勝院蔵) 】
が存在する、と知ったことである。




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(a0011) 【親父と花岡八幡下の児玉金吾さんは萩焼の規格落ち品を買ってきては、選挙の買収に余念が無かったが…】 2012年12月5日(水)




●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 高村坂彦(現自民党の高村正彦の親父であるが、当時小学生の私の記憶が正しければ、親父と花岡八幡下の児玉金吾さんは萩焼の規格落ち品を買ってきては、選挙の買収に余念が無かった。にも拘らず、本人は何度も何度も衆院選挙に挑戦、度に落選した。当時は、岸信介、佐藤栄作、受田新吉が盤を張ってたのだ。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 続1)その後は一旦国政を諦め徳山市長を歴任。のちに、そこを基盤に念願の衆院議員になった。その地盤は息子の高村正彦へ引き継がれ今日に至っている。兄儀一は正彦の色紙を持ってたのでなんらかの応援をしてたのだろう。今度、飯田哲也氏がこの高村正彦氏に挑戦するわけである。保守の牙城が崩せるか?


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 続2)先日、自民党総裁選で安倍晋三が代表になった時、傍に高村正彦が座っているではないか、因縁浅からずの仲のはずだが…、恩讐の彼方というわけか?岸信介が総理大臣でインドのネール首相と会った時、象牙のミニュチア帆船を貰ったらしく、その帆船が、田布施の佐藤歯科医院に飾ってあったらしい。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 続3)その帆船を見た親父は豪い気に入ったらしく“すごい・すごい”と飲む度に言ってた。印鑑屋に丁稚奉公してた親父にとって象牙は水牛以上に貴重品だったのだ。今その帆船はどうなってるのだろう。明治天皇の息子の昭和天皇が同郷の岸信介に非常に信頼を寄せていただろうことは、十分に推測できる。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 続4)親父の友達の花岡八幡下の児玉金吾さんは、徳山藩出身の明治の児玉源太郎陸軍大将の甥っ子と聞いている。あの日露戦争で乃木希典をかばって、203高地攻略に成功した児玉源太郎である。で、私も7年前大連へ行った折、なんとしても203高地へ行って見たかったのだが、通訳が快く連れて行ってくれた。




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(a0012) 【かれら大和政権にとって政権奪取!と見えていなかった。或いはそうと理解していなかったのではないか】 2012年12月8日(土)




●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 私のブログ『大和朝廷「日本国」出生秘話《つぶやき:「古代」》』で、今、比較的多く読まれているのは、


 ▼ 【 035:本来の大化改新 】 の中の後半

▼ 【 (666) 『『書紀』大化元年八月「東国国司招集の詔」は「倭国」が発し、「東国国司の賞罰詔」は大和朝廷が発したもの』 2011年7月7日(木) 】
 以降、

 及び、

▼ 【 040:古事記序文 】

▼ 【 059:禰軍墓誌 】


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 上記の中で、

▼ 【 040:古事記序文 】 と、

▼ 【 059:禰軍墓誌 】 とは、

▼ 【 壬申乱とは「唐の傀儡・倭国」と「長門以東・近江朝」の唐による倭国再統合戦だった 】

 ことを裏付けている。




●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 私も、約11年前に書いた頁の
【平成天皇『韓国とのゆかり』発言と系図】
の中には、鹿島説を参考に、

①.壬申の乱以前は九州王朝『倭国』が政権をとっていたこと。

②.九州王朝が『白村江の敗戦』を契機におよそ10年後に滅亡したこと。

 と、九州王朝『倭国』が、「壬申の乱」前後に滅亡したものと考えていたのです。


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 が、然し、もしそうだとすると、
【王朝多元6:古田武彦著】
でいう

『…それは最終的に奈良県の藤原宮の木簡(荷札)で決着が付いた。それを見ると七〇一年を境にしまして、それから前は「評」しか出てこない。郡はその後しか出てこない。』

 と食い違ってくる。

 即ち、九州王朝『倭国』は、「壬申の乱」で滅亡したのではなく、七〇一年を境にして滅亡したのだ。


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 では、
『壬申の乱』
とは何だったかと言うと、くどいけれども、

▼ 【 壬申乱とは「唐の傀儡・倭国」と「長門以東・近江朝」の唐による倭国再統合戦だった 】

 という事で決して皇位簒奪といった矮小なものでないのだ。




●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 今一つ理解を要すのは、

『 九州王朝から近畿天皇家への権力移行期 』で引用の
【 4).天武紀の地震記事と九州王朝 】
で、正木裕氏が指摘する

 『 この間に九州王朝の筑紫から難波への移転がおき、近畿天皇家への権力移行期である天武末期から持統期に、両者は地理的にも近接して存在していたと考えられるのではないか 』

 である。




●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

▼ 『《高市天皇が》【改新の詔】を宣して、《軽皇子の皇太子が》使いを使わして奏請【皇太子使使奏請】したのだ』

 での

▼ 『軽皇子とは、はたして「文武天皇」のことか、「孝徳天皇」のことか?』

 は、「文武天皇」(のこと)だと分かる。


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 以上を踏まえ、 

▼ 【『書紀』「大化改新」は「本来の(=プロト)大化改新」を五〇年前へ「例外を別にそっくり」移動したものだ】

▼ 【大和朝廷の生い立ちから倭国滅亡迄の歴史的経緯の想定年表】

 を読まれると分かり易いかと…。


◇◇


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 以上が、
『九州王朝と大和王朝の交替?』
で「提起の疑問」への回答である。

▼ 【2012年12月8日(土)
  かれら大和政権にとって政権奪取!と見えていない、或いはそうと理解していなかったのでは?⇒に対する回答】




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(a0013) 【来年は巳年で、鎌倉の「銭洗い弁天」への初もうでが良いとか。オイラはいつもの大和町の弁財天^^】 2012年12月25日(火)




●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 .@jyoumonjn

 来年は巳年で、鎌倉の「銭洗い弁天」へ1月3日の初もうでが良いとか^^


●ジョウモンマン・【国民の生活が第一】‏@jyoumonjn

 おはようございます。それはいいですね?
日本三大弁財天、オイラはいつもの大和町の弁財天にいきます^^

 RT @tohyan 来年は巳年で、鎌倉の「銭洗い弁天」へ1月3日の初もうでが良いとか^^


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

.@jyoumonjn

「日本三大弁才天」
オイラはいつもの
「大和町の弁財天」
ってっここですかね?

 ここだと車ですか、車だと込みますね。元祖・長谷寺の途中ですね^^私は一度は行って見たい場所なんですがね…


●ジョウモンマン・【国民の生活が第一】‏@jyoumonjn

 間違いないですが小さな社ですよ?山龍の看板もかかってます^^

 RT @tohyan
「大和町の弁財天」
ってっここですかね?ここだと車ですか、車だと込みますね。元祖・長谷寺の途中ですね^^私は一度は行って見たい場所なんですが…


●ジョウモンマン・【国民の生活が第一】‏@jyoumonjn

 @tohyan 背振山の麓には、六所弁財天がありますよ~役小角ゆかりの^^ただ今頃は雪で・・


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 .@jyoumonjn 以前に、教えてもらいました。きれいな格子の天井のですよね。でも歴史的には新しい!と確かケチ付けはずかと…^^ 

 『六所弁財天がありますよ~役小角ゆかりの^^』⇒

 役小角ってそれこそ奈良・平城京時代の大阪の話ですよね、背振山の麓に縁が有るって知りませんでした。


●ジョウモンマン・【国民の生活が第一】‏@jyoumonjn

 @tohyan あれは脚気地蔵ですよ^^


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

.@jyoumonjn あじゃ~


●ジョウモンマン・【国民の生活が第一】‏@jyoumonjn

 @tohyan 背振神社は、下社が麓で上社は背振山の頂上近くにあり小角の像が鎮座しています祠ですが一般は自衛隊の通信基地のため立ち入りできません!


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

.@jyoumonjn な・なんと、無粋な。。。。。。!?


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 .@jyoumonjn 背振山の麓、ただ今頃は雪で…。意外と高所でどぶろく作ってましたもんね。

『三瀬の民宿『具座』のご主人に、初瀬川のほとりが「長谷寺」の跡地だと、そっと、耳打ちしたい衝動に』

 横浜も今朝ばかりは氷点下1℃富士山の雪が美しい!


●ジョウモンマン・【国民の生活が第一】‏@jyoumonjn

 @tohyan 北山スキー場もありますよ!苗場より営業開始は早かった・・・人工降雪機もかりて^^


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 .@jyoumonjn スキー場まであるんですか? (ボソッと、ほんまかいのー。較べられる苗場もかわいそう・なーんちゃって^^)


●ジョウモンマン・【国民の生活が第一】‏@jyoumonjn

 正確に言えば、金網の外に拝礼用の祠が設けられ敷地内に小角の像が鎮座中^^

 RT @tohyan な・なんと、無粋な。。。。。。!?


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 .@jyoumonjn この地図
【背振山】
からすると、南東の峰に自衛隊がいるように見えるけど、違うんですね。


●ジョウモンマン・【国民の生活が第一】‏@jyoumonjn

 レーダーが頂上にあり基地が少し下で細長い敷地で金網に囲まれて・・
RT @tohyanこの地図http://mapfan.com/index.cgi?MAP= …【背振山】からすると、南東の峰に自衛隊がいるように見えるけど、違うんですね。


◇◇


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 .@jyoumonjn そうか、レーダー基地は
【丸い建屋】
で、すぐ近くの「金網の外に拝礼用の祠が設けられ敷地内に小角の像が鎮座中」という事ですかね。でもなんで、ここに役小角が?

 「昔の人は遠目が効いた」と言いますがここから、日本海は無理ですよね。


●ジョウモンマン・【国民の生活が第一】‏@jyoumonjn

 黄砂のない時代なら見えるはずですよ

 RT @tohyan http://mapfan.com/index.cgi?MAP= …【丸い建屋】「金網の外に拝礼用の祠が設けられ敷地内に小角の像が鎮座中」という事ですかね。でもなんで、ここに役小角が?昔の人は遠目が効いたと言いますがここから、日本海は無理ですよね。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 .@jyoumonjn なるほど、黄砂ですか…、中国西部の砂漠は有史以来、東へ東へと、ドンドン広がっていると聞きますからね、古代は今ほど黄砂は九州上空迄やって来てなかったのかもしれませんね。中国の満州へ2度行きましたが、雨の少ない気候は、家とかも古いまま腐らず残りますが、汚い!?




●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 おおッ! 初瀬寺(=長谷寺)の故地「松尾」

▼ 【 2012年12月25日(火)
  来年は巳年で、鎌倉の「銭洗い弁天」への初もうでが良いとか。オイラはいつもの大和町の弁財天^^ 】




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(a0014) 【大和朝廷(=奈良朝廷)日本国は701年から始まった。その前史は非常に短く九州王朝「倭国」の649年以降だ】 2012年12月27日(木)




●ramni@ramusa   ‏@ramni2

 @tohyan

 フォローありがとうございます。

 お書きになってる古代史のブログ、とても興味深く、面白いです^^*。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 .@ramni2

 奈良朝廷(=大和朝廷)と言うのは、701年から始まった。

 その前史は非常に短く、九州王朝「倭国」の649年(常色3年)10月、 〔造複都難波京の詔〕で常駐することになった弟王家がその始まりである。

 軽皇太子(=のちの文武天皇)が、倭王・高市天皇(=後皇子尊)を暗殺(696年)し乗っ取った。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 .@ramni2

 書紀を読むと608年日本国が唐へ遣使し既に存在したかのように見えるが、内実は隋書で倭国の扶養王国「秦国」からの便乗遣使を、さも、日本国が交渉したかのごとく記載している。

 この秦国は白村江前後に、弟王家の近江朝天智に降伏させられ、天智・天武へと歴史をつないでいる模様。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 .@ramni2

 『秦国』の歴史を日本国の歴史に置き換えた為に、隋書の『秦国』は書紀に記載されていない。

《ご参考》

▼ 【 『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」(その1) 】
 から、

▼ 【 『日本書紀』における「我が日本国」の「対唐外交史」(その14) 】
迄。


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 .@ramni2

『古代史のブログ、とても興味深く、面白いです^^*。』 ⇒

 いやーッ、そう言われたのは、あなたが初めてでして“調子に乗って”書いています。

 本人は「非常に興味深く、面白いはずだ」と自画自賛しているのですが、これまで「誰ーれ」もこの件に触れてくれなかったわけですね。


●ramni@ramusa   ‏@ramni2

 @tohyan

 お知らせありがとうございます^^実はある時期、小林恵子著「古代史興亡」にハマりまして、ユーラシアから俯瞰した、大胆かつ壮大な推論が愉快で、3回続けて読み、合わせて関連した本等,漁ってみましたが結局、整理出来ない複雑さ^^*。

 今後共、ブログ楽しみに読ませて頂きます♪


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 @ramni2

 「漁ってみましたが結局、整理出来ない複雑さ^^*」 ⇒ おっしゃる通りでしょう、私もそうでしたから。

 然し、古田武彦氏が暦法から書紀編纂の“ からくり ”「持統天皇の吉野詣では34年前の出来事だった」に気づきました。
 更に、その説の解明を古賀達也・正木裕の両氏が進展させました。




●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 白村江戦以前の歴史は、『秦国』の歴史を、さも、日本国の歴史のように扱っている。この為に、隋書に記載の『秦国』は書紀に記載されていない。

▼ 【 大和朝廷(=奈良朝廷)日本国は701年から始まった。その前史は非常に短く九州王朝「倭国」の649年以降だ 】




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(a0015) 【そもそも「大和」って…。米田良三氏は吉野ヶ里の付近に「奈良の都」があったと書いていますが】 2012年12月27日(木)




●12月25日ジョウモンマン・【国民の生活が第一】‏@jyoumonjn

 年賀状なんとか今日であげないと・・・(>_<)離れます!


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 .@jyoumonjn もう、年賀状書き終えられましたか? 私は、昨日やっと終わりました。「葉書きゼザインキット」とやらが、2-3ヶ月前にメール紹介があってインストールしてあったのですが、“いざ”使おうと開くと、前の「筆まめ」に登録の住所録が引き出せなくって参りました。焦りました^^


●ジョウモンマン・【国民の生活が第一】‏@jyoumonjn

 おはようございます。追い込まれて25日に投函しました^^、わりと締め切り守るタイプでして♪

 RT @tohyan もう、年賀状書き終えられましたか? 私は、昨日やっと終わりました。…


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 .@jyoumonjn

 やッそれはすごい!前々から律義な方とは思っていましたが…今度で更に確信するに至りました^^

 25日は私との付き合いで年賀状に時間が割けなかったかと思いますが…

▼ 【 来年は巳年で、鎌倉…オイラはいつもの大和町の弁財天^^ 】


●ジョウモンマン・【国民の生活が第一】‏@jyoumonjn

 @tohyan

 ははっそうでした^^・・

 初詣には南南東の弁天も加えまして末次の中島に弁財天合祀してる中島神社ってのがみつかりました。

 本庄神社、中島神社、祐徳稲荷あたりと大和の弁天に^^(七福神の紅一点)


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 .@jyoumonjn

 この大和町の弁天様ですけど、佐賀県にも大和町ってあるんですね。そもそも「大和」って「山口」と同じじゃないですかね。

 米田良三氏は吉野ヶ里の付近に「奈良の都」があったと書いていますが。私のはここの
【奈良橋】
辺りでないかと


●ジョウモンマン・【国民の生活が第一】‏@jyoumonjn

 このポイントだと甘木でかなり吉野ヶ里とは離れてますね?

 RT @tohyan そもそも「大和」って「山口」と同じじゃないですかね。米田良三氏は吉野ヶ里の付近に「奈良の都」があったと書いていますが。私のはここのhttp://mapfan.com/index.cgi?MAP= …【奈良橋】辺りでないかと


●ジョウモンマン・【国民の生活が第一】‏@jyoumonjn

 @tohyan

 肥前国大和村S30年、河上、春日、松梅が合併した町名(ウィキ)^^

 筑後にも大和町が(変ったかな)ありますね?


●山本 俊明  “ とうやん ”‏@tohyan

 .@jyoumonjn

 九州王朝「倭国」とはいっても、何故か大和朝廷「日本国」を大和王朝とは言いづらい。

 何故か、奈良朝廷・大和朝廷の方が通りが良い。

 私は九州のどこかに「奈良」とか「大和」とかの地名があって、そこを領地にしていた部族が移動すると同時に「地名遷移」したと考えています。




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(a0016) 【この伊藤博文夫妻二人のハネムーンの舞台「南部町の料亭 紅屋( 紅喜 )」 こそ先輩の母方の曽祖父夫妻だった】 2012年12月31日(月)




●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 ここで、

【『これが奇縁となって二人は知り合い、彼女の世話で南部町の料亭紅屋(紅喜)の土蔵に隠れることになる』 2012年7月6日】

 取り上げたためか、

【明治維新の生贄】

 が、一時は7千円台だったが、やっと2,502円(になった。で、昨日、追加しておいた。)


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 (そんなある日、)伊藤(博文)は路上で長府藩士らに見つかって咄嗟に亀山八幡宮の境内に逃げ、そこのお茶子のお梅が境内のゴミを捨てる溜用の穴に伊藤を入れてその上に腰を下ろ(してかくまった。)…

【『これが奇縁となって二人は知り合い、彼女の世話で南部町の料亭紅屋(紅喜)の土蔵に隠れることになる』 2012年7月6日】


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 この伊藤博文夫妻の二人のハネムーンの舞台を提供した 「南部町の料亭紅屋(紅喜)」 こそ、“な・なんと”先輩の母方の曽祖父夫妻だと知った。

【『これが奇縁となって二人は知り合い、彼女の世話で南部町の料亭紅屋(紅喜)の土蔵に隠れることになる』 2012年7月6日】


●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

 お正月はネットで「目からうろこ」の“古代史三昧”って如何でしょうね^^

▼ 【 大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 目次編 a 》 】

《 ま・まさか、大和王朝「日本国」が九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だったとはな 》




●山本 俊明  “ とうやん ” @tohyan

▼ 【 2012年12月31日(月)
 この伊藤博文夫妻の二人のハネムーンの舞台「南部町の料亭紅屋(紅喜)」 こそ先輩の母方の曽祖父夫妻だった 】


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