Ⅴ・①『風雲急を告げる大陸の情勢』と『白村江戦い以前』
川端 俊一郎著の『隋唐帝国の北東アジア支配と倭国の政変』によって、氏の外国史料に基づく当時の理解はその的確性において卓越している。
しかし『何故「日本書紀」が九州王朝「倭国」を抹殺したのか、大和王朝「日本国」がどういう経緯で忽然と極東アジアに現れたのか』の説明になっていないのではないかと思う。
若し、蘇我馬子(=有明子)をはじめとする蘇我氏こそが飛鳥・葛城の『秦国』王家であり、その『秦国』が母体・核となって大和朝廷「日本国」へ発展したと「仮定」した場合、その王朝史となる「日本書紀」が九州「倭国」を抹殺しただろうか? 私は思うに『抹殺せずその「討伐経緯」をむしろ誇らしげに書き込んだ』だろう。 これが、連邦国家の他の一員である出雲・加賀・吉備・尾張・毛野(常陸)であっても同様であったと考えます。
「隋書」俀国伝中に、
なお、古田武彦氏は著書「失われた九州王朝」で竹斯国(=筑紫国)より東へ、秦王国と十余国を経て海岸に達するという。だから、この海岸が九州の東岸であることは疑えない。
今、数えで7年に1度の諏訪大社の御柱祭でテレビが連日放映している。この「諏訪」は山口県東半分の「周防」の地名遷移といわれている。
あっそうそう「小周防」で思い出した、日本書紀の壬申乱以降を少しでも読んだことのある人は「吉野の宮に行幸した」と同じくらいの頻度で「広瀬と龍田の神とを祀った」という記事がある。秦国に関係するかもね
日本書紀608年(推古16年9月11日)
日本書紀632年(舒明4年10月4日)
日本書紀647年(孝徳3年:常色元年)
隋・唐がしつこく高句麗の侵略を繰り返し、やがては百済・倭国へとその矛先が向いてくると予想した九州王朝倭国は〔造複都難波京の詔:649年10月〕を発して難波宮に拠点(副都)を設け天下立評・『秦国』王家の蘇我氏の排除を計画・実行した。
当然、唐は高句麗を屈服させた後に、半島を陸路で百済へ侵入すると想定してたはず、しかし、唐は山東半島から直接海路侵入してきた。
「冊府元亀」に
この記事に何故拘(こだわ)るかと言えば半島や唐との関係悪化に備えて、九州王朝倭国が「難波副都」を基点に更に東方の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化し後塵の憂いを除く、のも一つ目的だったとすれば、蝦夷国が倭国の使に随いて入朝は難波副都倭弟王家の成果である。
倭国が難波副都で652年「天下立評」して以降、倭国は『秦国』王家の蘇我氏の取込みができなかったようで、660年百済壊滅の直前の659年、倭国・
飛鳥寺・四天王寺・川原寺・山田寺は『秦国』を代表する寺社・仏閣である。
(なおここで注意したいのは、日本書紀は大宝元年 『日本国』 が成立以降、倭附庸国『秦国』と隋・唐の密使との外交秘史が、隋・唐の中国外交正史書に記載無いことを良いことに、『秦国』を 『日本国』 へ書き換えたものと推測できることである。)
わおっ。皇太神宮儀式帳」より抜粋「初郡度會多氣飯野三箇郡本記行事」条
・『難波朝廷天下立評給時』 の記事がネット上に有った、ありがたい。
『確かに、『評制施行の史実』が、「木簡」だけでなく、「文書」でも確認できた“非常に有意義な一瞬”である、すごーい。
「古代史獺祭:皇太神宮儀式帳「初神郡度會多氣飯野三箇本記行事」フレーム」
〔 「皇太神宮儀式帳」より抜粋「初郡度會多氣飯野三箇郡本記行事」条 〕
一 初郡度會多氣飯野三箇郡本記行事 右従纏向殊城朝廷以來 至于難波長柄豐前宮御宇天萬豐日天皇御世 有爾鳥墓村造庤弖 爲雑政行仕奉支 而難波朝廷天下立評給時仁 以十郷分弖 度會乃山田原立屯倉弖 新家連阿久多督領 礒連牟良助督仕奉支 以十郷分 竹村立屯倉 麻續連廣背督領 礒部眞夜手助督仕奉支 同朝廷御時仁 初太宮司所稱庤司 中臣香積連須氣仕奉支 是人時仁 度會山田原造御厨弖 改庤止云名弖号御厨 即号大宮司支 近江大津朝廷天命開別天皇御世仁 以甲子年 小乙中久米勝麿仁 多氣郡四箇郷申割弖 立飯野宮村屯倉弖 評督領仕奉支 即爲公郡之 右元三箇郡攝一處 太宮仕奉支 所割分由顕如件
一、 初め郡(かむこおり)度會(わたらい)多氣(たけ)飯野(いいの)三箇郡の本記行事
右は纏向殊城朝廷(まきむくのたまきのみかど=活目入彦五十狭茅‐垂仁天皇)より以來、難波長柄豐前宮(なにわのながらとよさきのみや)に御宇(あめのしたしらしらし)めしし天萬豐日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと=孝徳天皇)の御世に至るまで、有爾鳥墓村(うてとりつかのむら)に庤(かむたち)を造りて、雑(よろづ)の政行(かむことのことまろ)として仕え奉りき。
而して、『難波朝廷(なにわのみかど=孝徳天皇)、天の下に評(こおり)を立て給いし時に、』以って十郷を分かちて度會(わたらい)の山田原(やまだのはら)に屯倉(みやけ)を立てて、新家連阿久多(にいのむらじ・あくた)が「督領(かみ)」に礒連牟良(いそのむらじ・むら)が「助督(すけ)」に仕え奉りき。
以って十郷を分かち、竹村(たけのむら)に屯倉を立て、麻續連廣背(おうみのむらじ・ひろせ)が「督領(かみ)」に、礒部眞夜手(いそべのまやて)が「助督(すけ)」に仕え奉りき。
同じき朝廷(みかど)の御時(おんとき)に、初め太宮の司の所、庤司(かむたちのつかさ)と稱(なづ)け中臣香積連須氣(なかとみのかつみのむらじ・すけ)仕え奉りき。
この人の時に、度會の山田原に御厨(みくりや)を造りて、庤(かむたち)と云うを改め名づけて御厨(みくりや)と号(なづ)く。
即ち大宮司と号(なづけ)き。
近江大津朝廷(おおみのおおつのみかど)天命開別天皇(あめことひらかすわけのすめらみこと=天智天皇)の御世に、甲子の年を以って小乙中の久米勝麿(くめのかつまろ)に多氣の郡四箇の郷を申し割(わ)けて、飯野宮村(いいののたかみやのむら)に屯倉を立てて、『評督領(こおりのかみ)』に仕え奉りき。
即ちこれを公郡(みかどのこおり)と爲す。 右のもと三箇の郡を一處に攝(す)え、太宮に仕え奉りき所の割分由(わけさだめたるゆえ)を顕(あらわ)すこと件(くだん)の如し。
延暦23年(804)に成立した伊勢神宮の文書『皇太神宮儀式帳』の『難波朝廷天下立評給時』の記事が残されてたことで、九州王朝倭国の複都:難波朝廷で評制施行が、大和朝廷の郡制施行に先んじること約50年前にあったことが、木簡出土などで分かっていたものの、初めて文書でも裏付けられたということです。
「郡制施行に先んじる、評制施行の史実が文書で裏付けられた」わけですが、このことは更に次の段階である「白雉年間の難波副都建設と評制の創設について:川西市 正木 裕」で述べられている段階へと展開します。
伊勢王は孝徳期白雉改元記事に登場 :ー略ー天武・持統紀には、ー略ー伊勢王関連記事を34年遡上させてみると、
①(683年:白鳳23年)天武12年⇒(649年:常色3年)孝徳5年
また詔して、「およそ都城・宮室は、1ヶ処ではない、必ず2・3ヶ処を造る。それゆえ、先ず難波に都を造ろうと思う。そこで、百寮(官)は、それぞれ〔難波に〕行き、家地を請え」と詔した。》
②(684年:朱雀元年 )天武13年⇒(650年:常色4年)孝徳6年
是年、詔したまはく、伊賀・伊勢・美濃・尾張、四の国、今より以後、調の年に役を免し、役の年に調を免せ。》
③(685年:朱雀2年)天武14年⇒(651年:常色5年)孝徳7年
冬10月10日、軽部朝臣足瀬・高田首新家・荒田尾連麻呂を信濃に遣はして、行宮を造らせた。思うに束間の温湯に行幸しょうと考えたのであろうか。
12日、浄大肆泊瀬王・直広肆巨勢朝臣馬飼を、判官以下、并廿人を以て、畿内の役に任じた。
17日、伊勢王等、亦東国に向うことになり衣袴を賜わった。》
となり、次の伊勢王の白雉改元譚(古賀説では白雉3年・九州年号白雉元年)と見事に連続する。
④(686年:朱鳥元年)天武15年⇒(652年:白雉元年)孝徳8年
⑤(650年:常色4年)孝徳6年:書紀白雉元年⇒(652年:白雉元年)孝徳8年:書紀白雉3年
661年(斉明7年:白鳳元年)『4月、斉明天皇は朝倉宮に遷居した。6月伊勢王が薨じた。秋7月24日、斉明天皇は朝倉の宮で崩じた。』記事ではさらっと、6月に伊勢王が薨じ、ついで翌7月斉明天皇が崩じたとなっているが、この伊勢王という人物は斉明天皇と、ひょっとして、同一人物ではないか?
『大化の改新は無かった』で、吾郷 : 鹿島先生の「倭と王朝」の比定表では、舒明が百済の末王義慈、皇極が新羅女王善徳、孝徳が百済の義慈王の王子孝、斉明が新羅女王真徳、天智が孝の弟豊璋という。
その中で鹿島昇氏は「原本では皇極、斉明と続いていて、女帝の皇極のモデルもやはり新羅の女帝の善徳王、女帝の斉明のモデルが新羅の女帝の真徳王であった。のちにその間に孝徳が入ったということになります」と言う。
「古賀事務局長の洛中洛外日記 2008/03/01第164話」〔白雉年号と伊勢王〕
今、伊勢王で検索してたら、〔『伊勢物語』9段の暗号〕というページを見つけた。
私の「皇極・孝徳・斉明・天智・天武」の和風諡号に 「天□□」 を持つ5代が九州王朝倭国の分家・弟王家の出身であり、大和王朝「日本国」の前身ということだが、「伊勢王」が「皇極、孝徳、斉明」の1人3役ということからして、「伊勢王・天智・天武」の3代が 、本来のプロト大和朝廷ということになる。
九州王朝「倭国」の「甘木王(=明日香皇子、常色・白雉王)』が647年即位してすぐ、唐・新羅・『秦国』同盟に対抗の為「常色の改革」を発表するが、その一環として「天下立評」し、複都難波京を築き、倭王分家弟王家の伊勢王が常駐する。
《 メモ 》
少し、いったん整理をしよう。
九州王朝倭国の(博多駅九大付近の上塔里に居住したであろう)「利」王が薨去后、次王の「天帰王(あまぎ・甘木)」が正木裕氏の言う「常色の改革」を推し進める一環として、天下立評があり、複都「難波京」の建設詔649年が発せられ、652年「難波京」完成を祝って「白雉改元儀式」が大々的に挙行された。
当初「天帰王(あまぎ・甘木)」は大宰府と複都「難波京」を数度往復したであろうが、唐が高句麗をしつこく攻撃を繰り返すという、風雲急を告げる状況で「兄弟王朝」の弟王家出身の「伊勢王」が、天下立評・東国蝦夷皇化の為、倭国軍の約半分を率い「難波京」へ常駐することになったであろう。
難波副都への弟王家と軍隊の常駐ですが、これは何の為か倭国連邦附庸国(出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野)の王・王家・貴族を天下立評での中央集権システムの上級官僚へと取り込む為でしょう。
結果どうなったか、各附庸国は各々少なからずの軍隊持っていたでしょうから、この軍隊を取り上げ、付近の倭国地区官衙の軍隊へ嵌め込んだでしょう。
相続できないから、倭国連邦構成国の各附庸国王家はいつしかバラバラに解体され、大和朝廷が50年后郡制を施行した頃はもう無かったのではないでしょうか。
天下立評は中央集権的巨大徴税制度であり、従来の倭国附庸国「出雲・加賀・吉備・『秦国』・尾張・毛野(常陸)」連邦制とはそぐわないものであった。
661年「天帰王(あまぎ・甘木)」の「常色・白雉王」が狩の途中不慮の死を遂げ、「明日香皇子・薩夜麻」が大嘗祭もせずにそそくさに「白鳳王」として即位、白村江戦へ自ら出征するも663年敗戦し、途中不幸にも捕虜・連行された。
日本書紀を読むと、中大兄皇子が白村江戦を指揮したと一見受け取れますが、倭国王薩夜麻のように白村江に出向いて陣頭指揮したとは書かれていないのです。
『661年斉明7年:白鳳元年9月、皇太子は長津(
古田史学会報no94「娜大津の長津宮考」合田洋一著で『釈日本紀』に、
倭弟王家の斉明天皇は661年斉明7年正月6日難波副都を出発。8日大伯(岡山県邑久おおく郡)。14日伊予熟田津の石湯(道後温泉)。3月25日御船はもどって娜大津に至った。磐瀬行宮に居た。天皇はこれを改めて長津といった。4月天皇は朝倉の宮に遷居した。7月24日天皇は朝倉の宮で崩じた。
娜大津の長津宮の比定地は伊予国宇摩郡だとする合田洋一氏はさらに、長津宮は宇麻国津根・長津の村山神社(現・四国中央市)だと言う。
『661年斉明7年:白鳳元年正月6日御船は征西して、はじめて海路に就いた』
661年(斉明7年)のその後はというと、
『(斉明紀に)661年斉明7年、冬10月7日天皇の棺は海を帰り行った。
上記の日付は、「斉明天皇の巻末」と「天智天皇の巻頭」との記事が、日付順に突合せてある。
●(天智紀に)9月皇太子は長津宮にはべっていた。
《 メモ 》
|