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◎白村江戦以前・「常色の改革」・「天下立評」以降


Ⅴ・①『風雲急を告げる大陸の情勢』と『白村江戦い以前』


 川端 俊一郎著の『隋唐帝国の北東アジア支配と倭国の政変』によって、氏の外国史料に基づく当時の理解はその的確性において卓越している。
 しかし『何故「日本書紀」が九州王朝「倭国」を抹殺したのか、大和王朝「日本国」がどういう経緯で忽然と極東アジアに現れたのか』の説明になっていないのではないかと思う。



 若し、蘇我馬子(=有明子)をはじめとする蘇我氏こそが飛鳥・葛城の『秦国』王家であり、その『秦国』が母体・核となって大和朝廷「日本国」へ発展したと「仮定」した場合、その王朝史となる「日本書紀」が九州「倭国」を抹殺しただろうか?
 私は思うに『抹殺せずその「討伐経緯」をむしろ誇らしげに書き込んだ』だろう。
 これが、連邦国家の他の一員である出雲・加賀・吉備・尾張・毛野(常陸)であっても同様であったと考えます。


 「隋書」俀国伝中に、
 『明年(大業4年:608)、上、文林郎裴清を遣わして俀国に使いせしむ。
 百済を渡り、行きて竹島に至り、南に聃羅を望み、都斯麻国を経、迥かに大海の中に在り。
 又東して一支国に至り、又竹斯国に至り、又東して秦王国に至る。其の人華夏に同じ。以って夷州と為すも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。
 又十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す。』
 と記載あるように竹斯国(九州島)以東で目ぼしい国といえば秦王国だった、この秦王国さえも俀に附庸すると言っているが。
 この隋書でいう秦王国こそが飛鳥・葛城の『秦国』王家であり、蘇我氏であろう。この時点であっても、大和朝廷「日本国」という記述はどこにもみあたらない。

 なお、古田武彦氏は著書「失われた九州王朝」で竹斯国(=筑紫国)より東へ、秦王国と十余国を経て海岸に達するという。だから、この海岸が九州の東岸であることは疑えない。
 と言ってるが、私のは竹斯国(=九州島)であり「海岸」は常陸国(茨城県)の九十九里浜である。
隋書時代の視点はもっと広かったと思う。

 今、数えで7年に1度の諏訪大社の御柱祭でテレビが連日放映している。この「諏訪」は山口県東半分の「周防」の地名遷移といわれている。
 大和朝廷になって防府市が国衙であり、九州王朝時代は光市の「小周防」に国衙があったと言われている。周防湖(諏訪湖)を埋め開拓したのが秦氏であり秦国だともいい、果ては、この秦氏が東遷したとも言われている。

 あっそうそう「小周防」で思い出した、日本書紀の壬申乱以降を少しでも読んだことのある人は「吉野の宮に行幸した」と同じくらいの頻度で「広瀬と龍田の神とを祀った」という記事がある。秦国に関係するかもね


 日本書紀608年(推古16年9月11日)
〔ここに天皇「隋帝 唐帝 」を聘ふ。その辞に曰く
 「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す。使人鴻臚等の掌客裴世清等至りて久しき億ひ方に解けぬ。李秋薄冷尊如何に想ひ清悆此れ即ち常の如し。今大礼蘇因高・大礼乎那利等を遣わして往かしむ謹白具ならず」〕
 これは『秦国』の朝貢記事ではないだろうか


 日本書紀632年(舒明4年10月4日)
 〔高表仁に告げて「天子の命じた使が、天皇の朝廷に到来したと聞き迎えます」といった。
 高表仁 が答えて「風の寒い日に、船を飾り整えて迎えを賜い、歓びまた恐縮しています」といった。〕
 この時の朝廷とは『秦国』であり、この時唐国と同盟のよしみ誼を結んだだろう。


 日本書紀647年(孝徳3年:常色元年)
 〔この歳、新羅が大臣大阿飡金春秋(のちの武烈王)らを遣わして、博士で小徳の高向黒麻呂、小山中の中臣連押熊を送ってきて、孔雀一羽、鸚鵡一羽を献上した。そこで春秋を人質とした。春秋は姿や顔が美しくよく談笑した。〕
 この647年は、新羅で正月毘曇が反乱を起こし、金春秋・金庚信が誅殺したいわゆる「毘曇の乱」と同年である。
 そんな余裕が金春秋にあったか疑わしいが、金春秋は新羅で647年正月「毘曇の乱」を収め、すぐその足で来たことになる。
 来たのは倭国か、秦国かということだが、「唐国・新羅・秦国の東西枢軸」への参入勧誘・交渉の為に唐の内意を受けて、『秦国』へ自ら赴いて来たというのが正解だろう。


 隋・唐がしつこく高句麗の侵略を繰り返し、やがては百済・倭国へとその矛先が向いてくると予想した九州王朝倭国は〔造複都難波京の詔:649年10月〕を発して難波宮に拠点(副都)を設け天下立評・『秦国』王家の蘇我氏の排除を計画・実行した。
 その際、「両京制」「兄弟王朝制」倭国は即断即決の為、王家を大宰府兄王家と難波副都弟王家に分担した。
 当初倭王は大宰府倭京と、副都・難波京を数度往復したであろうが、その後は、難波京に王家分家の弟王家が常駐することになったであろう。


 当然、唐は高句麗を屈服させた後に、半島を陸路で百済へ侵入すると想定してたはず、しかし、唐は山東半島から直接海路侵入してきた。
 百済は思わぬ侵略にあわてたことだろう。660年百済は壊滅した。
 その前の659年、倭国・ 日本国 秦国 の遣唐使が喧嘩・拘束されたのはその計画を本国に察知させない為だろう。


 「冊府元亀」に
 『(顕慶4年:659:高宗)10月、蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す』とある、蝦夷国人は大宰府倭国の使とともに入唐したのである。

 この記事に何故拘(こだわ)るかと言えば半島や唐との関係悪化に備えて、九州王朝倭国が「難波副都」を基点に更に東方の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化し後塵の憂いを除く、のも一つ目的だったとすれば、蝦夷国が倭国の使に随いて入朝は難波副都倭弟王家の成果である。
 と同時に、難波副都倭弟王家はこの時点では大宰府兄王家に「従たる存在」だったと分かります。


 倭国が難波副都で652年「天下立評」して以降、倭国は『秦国』王家の蘇我氏の取込みができなかったようで、660年百済壊滅の直前の659年、倭国・ 日本国 秦国 の遣唐使が喧嘩・拘束記事につながったのだろう。
 この時の「日本国」とは、唐国・新羅に唆(そその)かされて同盟・遣使の『秦国』で、この王家が蘇我氏だと考えると、白村江の戦い前後まで蘇我氏は健在で、難波副都倭弟王家の天智天皇は『秦国』のブロックのため白村江に出兵できなかった。
 否この時蘇我氏を打倒したのかもしれないが、その後に少なくとも滅ぼされたことになる。

 飛鳥寺・四天王寺・川原寺・山田寺は『秦国』を代表する寺社・仏閣である。
 白鳳地震の後どうも捨て置かれたみたいで、発掘調査で塀が倒れたままの状態とかで発見されている。
 『秦国』王家の蘇我氏がこの時点で滅亡していたと考えられる。確かに壬申乱以降、日本書紀に蘇我氏の名前が出て来ない。


 (なおここで注意したいのは、日本書紀は大宝元年 『日本国』 が成立以降、倭附庸国『秦国』と隋・唐の密使との外交秘史が、隋・唐の中国外交正史書に記載無いことを良いことに、『秦国』を 『日本国』 へ書き換えたものと推測できることである。)



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Ⅴ・②『難波朝廷天下立評給時』 と 『天子伊勢王こそ、評制創設の立て役者』

 わおっ。皇太神宮儀式帳」より抜粋「初郡度會多氣飯野三箇郡本記行事」条
・『難波朝廷天下立評給時』 の記事がネット上に有った、ありがたい。

 『確かに、『評制施行の史実』が、「木簡」だけでなく、「文書」でも確認できた“非常に有意義な一瞬”である、すごーい。
 そのうえ、更に、『評督領(こおりのかみ)』も併せて確認できる。


「古代史獺祭:皇太神宮儀式帳「初神郡度會多氣飯野三箇本記行事」フレーム」
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/koutaijinnguu_gishikichou/01_fr.htm


〔 「皇太神宮儀式帳」より抜粋「初郡度會多氣飯野三箇郡本記行事」条 〕



一 初郡度會多氣飯野三箇郡本記行事   右従纏向殊城朝廷以來 至于難波長柄豐前宮御宇天萬豐日天皇御世 有爾鳥墓村造庤弖 爲雑政行仕奉支 而難波朝廷天下立評給時仁 以十郷分弖 度會乃山田原立屯倉弖 新家連阿久多督領 礒連牟良助督仕奉支 以十郷分 竹村立屯倉 麻續連廣背督領 礒部眞夜手助督仕奉支 同朝廷御時仁 初太宮司所稱庤司 中臣香積連須氣仕奉支 是人時仁 度會山田原造御厨弖 改庤止云名弖号御厨 即号大宮司支 近江大津朝廷天命開別天皇御世仁 以甲子年 小乙中久米勝麿仁 多氣郡四箇郷申割弖 立飯野宮村屯倉弖 評督領仕奉支 即爲公郡之 右元三箇郡攝一處 太宮仕奉支 所割分由顕如件




一、 初め郡(かむこおり)度會(わたらい)多氣(たけ)飯野(いいの)三箇郡の本記行事

  右は纏向殊城朝廷(まきむくのたまきのみかど=活目入彦五十狭茅‐垂仁天皇)より以來、難波長柄豐前宮(なにわのながらとよさきのみや)に御宇(あめのしたしらしらし)めしし天萬豐日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと=孝徳天皇)の御世に至るまで、有爾鳥墓村(うてとりつかのむら)に庤(かむたち)を造りて、雑(よろづ)の政行(かむことのことまろ)として仕え奉りき。

 而して、『難波朝廷(なにわのみかど=孝徳天皇)、天の下に評(こおり)を立て給いし時に、』以って十郷を分かちて度會(わたらい)の山田原(やまだのはら)に屯倉(みやけ)を立てて、新家連阿久多(にいのむらじ・あくた)が「督領(かみ)」に礒連牟良(いそのむらじ・むら)が「助督(すけ)」に仕え奉りき。

 以って十郷を分かち、竹村(たけのむら)に屯倉を立て、麻續連廣背(おうみのむらじ・ひろせ)が「督領(かみ)」に、礒部眞夜手(いそべのまやて)が「助督(すけ)」に仕え奉りき。

 同じき朝廷(みかど)の御時(おんとき)に、初め太宮の司の所、庤司(かむたちのつかさ)と稱(なづ)け中臣香積連須氣(なかとみのかつみのむらじ・すけ)仕え奉りき。

 この人の時に、度會の山田原に御厨(みくりや)を造りて、庤(かむたち)と云うを改め名づけて御厨(みくりや)と号(なづ)く。

 即ち大宮司と号(なづけ)き。

 近江大津朝廷(おおみのおおつのみかど)天命開別天皇(あめことひらかすわけのすめらみこと=天智天皇)の御世に、甲子の年を以って小乙中の久米勝麿(くめのかつまろ)に多氣の郡四箇の郷を申し割(わ)けて、飯野宮村(いいののたかみやのむら)に屯倉を立てて、『評督領(こおりのかみ)』に仕え奉りき。

 即ちこれを公郡(みかどのこおり)と爲す。 右のもと三箇の郡を一處に攝(す)え、太宮に仕え奉りき所の割分由(わけさだめたるゆえ)を顕(あらわ)すこと件(くだん)の如し。





 延暦23年(804)に成立した伊勢神宮の文書『皇太神宮儀式帳』の『難波朝廷天下立評給時』の記事が残されてたことで、九州王朝倭国の複都:難波朝廷で評制施行が、大和朝廷の郡制施行に先んじること約50年前にあったことが、木簡出土などで分かっていたものの、初めて文書でも裏付けられたということです。


 「郡制施行に先んじる、評制施行の史実が文書で裏付けられた」わけですが、このことは更に次の段階である「白雉年間の難波副都建設と評制の創設について:川西市 正木 裕」で述べられている段階へと展開します。


 伊勢王は孝徳期白雉改元記事に登場 :ー略ー天武・持統紀には、ー略ー伊勢王関連記事を34年遡上させてみると、


①(683年:白鳳23年)天武12年⇒(649年:常色3年)孝徳5年
 《12月13日、諸王五位伊勢王・大錦下羽田公八国・小錦下多臣品治・小錦下中臣連大嶋、并判官・録史・工匠者等を遣はして、天下に巡行きて、諸国の境堺を限分ふ。然るに是の年、限分ふに堪へず。12月17日詔して、「文武の諸官人および幾内の有位の人らは、四季の初めの月(1・4・7・10月)の1日に、必ず朝廷に参内せよ。ー略ー。


 また詔して、「およそ都城・宮室は、1ヶ処ではない、必ず2・3ヶ処を造る。それゆえ、先ず難波に都を造ろうと思う。そこで、百寮(官)は、それぞれ〔難波に〕行き、家地を請え」と詔した。


②(684年:朱雀元年 )天武13年⇒(650年:常色4年)孝徳6年
 《冬10月3日、伊勢王等を遣して、諸国の堺を定めしむ。 ー略ー 

 是年、詔したまはく、伊賀・伊勢・美濃・尾張、四の国、今より以後、調の年に役を免し、役の年に調を免せ。》


③(685年:朱雀2年)天武14年⇒(651年:常色5年)孝徳7年
 《秋7月、(中略)27日、詔して、「東山道は美濃より東、東海道は伊勢より東の諸国の有位の人等に、並に課役を免じる」といった。

 冬10月10日、軽部朝臣足瀬・高田首新家・荒田尾連麻呂を信濃に遣はして、行宮を造らせた。思うに束間の温湯に行幸しょうと考えたのであろうか。

 12日、浄大肆泊瀬王・直広肆巨勢朝臣馬飼を、判官以下、并廿人を以て、畿内の役に任じた。

 17日、伊勢王等、亦東国に向うことになり衣袴を賜わった。》

 となり、次の伊勢王の白雉改元譚(古賀説では白雉3年・九州年号白雉元年)と見事に連続する。


④(686年:朱鳥元年)天武15年⇒(652年:白雉元年)孝徳8年
 《春正月ー略ー伊勢王亦実を得。》


⑤(650年:常色4年)孝徳6年:書紀白雉元年⇒(652年:白雉元年)孝徳8年:書紀白雉3年
 《2月ー略ー15日ー略ーこのとき、左大臣、右大臣〔の2人〕がつき従って輿の前部を持ち、〔伊勢王:後に追加した?〕、三国公麻呂、倉臣小屎〔の2人が〕、輿の後部を持って、御座の前に置いた。》


 661年(斉明7年:白鳳元年)『4月、斉明天皇は朝倉宮に遷居した。6月伊勢王が薨じた。秋7月24日、斉明天皇は朝倉の宮で崩じた。』記事ではさらっと、6月に伊勢王が薨じ、ついで翌7月斉明天皇が崩じたとなっているが、この伊勢王という人物は斉明天皇と、ひょっとして、同一人物ではないか?


『大化の改新は無かった』で、吾郷 : 鹿島先生の「倭と王朝」の比定表では、舒明が百済の末王義慈、皇極が新羅女王善徳、孝徳が百済の義慈王の王子孝、斉明が新羅女王真徳、天智が孝の弟豊璋という。


 その中で鹿島昇氏は「原本では皇極、斉明と続いていて、女帝の皇極のモデルもやはり新羅の女帝の善徳王、女帝の斉明のモデルが新羅の女帝の真徳王であった。のちにその間に孝徳が入ったということになります」と言う。
 「毘曇の乱」の善徳王・真徳王の写しが「乙巳の変」の皇極・斉明であれば、その本元が評制創設の天子伊勢王であったとしてもおかしくない。


 「古賀事務局長の洛中洛外日記 2008/03/01第164話」〔白雉年号と伊勢王〕
 従来、疑問とされてきた天武紀に現れる伊勢王記事が、34年遡り現象により、孝徳期へと移動しうることが、正木さんの研究で判明していましたから、白雉年間の天子としての伊勢王の姿が見えてきたのでした。
 難波副都で活躍した九州王朝の天子伊勢王こそ、評制創設の立て役者ではなかったかと考えているのですが如何でしょう。と、


 今、伊勢王で検索してたら、〔『伊勢物語』9段の暗号〕というページを見つけた。
 思ったより高度な測量技術が古代にあったと言うことらしいが、このほかにも暗号についての膨大なページがあってとても読み切れない。


 私の「皇極・孝徳・斉明・天智・天武」の和風諡号に 「天□□」 を持つ5代が九州王朝倭国の分家・弟王家の出身であり、大和王朝「日本国」の前身ということだが、「伊勢王」が「皇極、孝徳、斉明」の1人3役ということからして、「伊勢王・天智・天武」の3代が 、本来のプロト大和朝廷ということになる。


 九州王朝「倭国」の「甘木王(=明日香皇子、常色・白雉王)』が647年即位してすぐ、唐・新羅・『秦国』同盟に対抗の為「常色の改革」を発表するが、その一環として「天下立評」し、複都難波京を築き、倭王分家弟王家の伊勢王が常駐する。
 この伊勢王が大和朝廷の始祖王で、皇極・斉明天皇は伊勢王と同一人物だろう。


《 メモ 》
 日本書紀には『668年(天智7年)6月伊勢王とその弟の王とが、日を接して薨じた(官位は未詳)』と記載している。
 先に『661年(斉明7年)4月、斉明天皇は朝倉宮に遷居した。6月伊勢王が薨じた。秋7月24日、斉明天皇は朝倉の宮で崩じた』とあり、「その弟の王」と「斉明天皇」とが、まるで、さも同じと言わんばかりだ。



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Ⅴ・③『九州王朝倭国「天帰王(あまぎ・甘木)」の「常色の改革」以降』

 少し、いったん整理をしよう。


九州王朝倭国の(博多駅九大付近の上塔里に居住したであろう)「利」王が薨去后、次王の「天帰王(あまぎ・甘木)」が正木裕氏の言う「常色の改革」を推し進める一環として、天下立評があり、複都「難波京」の建設詔649年が発せられ、652年「難波京」完成を祝って「白雉改元儀式」が大々的に挙行された。


 当初「天帰王(あまぎ・甘木)」は大宰府と複都「難波京」を数度往復したであろうが、唐が高句麗をしつこく攻撃を繰り返すという、風雲急を告げる状況で「兄弟王朝」の弟王家出身の「伊勢王」が、天下立評・東国蝦夷皇化の為、倭国軍の約半分を率い「難波京」へ常駐することになったであろう。


 難波副都への弟王家と軍隊の常駐ですが、これは何の為か倭国連邦附庸国(出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野)の王・王家・貴族を天下立評での中央集権システムの上級官僚へと取り込む為でしょう。


 結果どうなったか、各附庸国は各々少なからずの軍隊持っていたでしょうから、この軍隊を取り上げ、付近の倭国地区官衙の軍隊へ嵌め込んだでしょう。
 当初倭国地区官衙の長官は各附庸国の王が就任したでしょうから、以前の命令・指示系統と変わらなかったでしょうが、次世代へ相続は出来なかった。


 相続できないから、倭国連邦構成国の各附庸国王家はいつしかバラバラに解体され、大和朝廷が50年后郡制を施行した頃はもう無かったのではないでしょうか。
 明治維新の廃藩置県で各旧藩主は華族だ・貴族院議員だとおだてられ下にも置かれなかったでしょうが、戦後は廃れて観る影もありませんね。


 天下立評は中央集権的巨大徴税制度であり、従来の倭国附庸国「出雲・加賀・吉備・『秦国』・尾張・毛野(常陸)」連邦制とはそぐわないものであった。
 各附庸国の王や軍を地区の国衙官庁・軍の官僚制へ組み込み、各附庸国は自然と解体した。
 結果、弟王家は九州を除く、四国・本州を直接実効支配する。こととなり、約10年で弟王家は筑紫の倭兄王家をしのぐ勢いに。


 661年「天帰王(あまぎ・甘木)」の「常色・白雉王」が狩の途中不慮の死を遂げ、「明日香皇子・薩夜麻」が大嘗祭もせずにそそくさに「白鳳王」として即位、白村江戦へ自ら出征するも663年敗戦し、途中不幸にも捕虜・連行された。



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Ⅴ・④『娜大津の磐瀬宮は伊予国宇摩郡津根・長津の村山神社:合田洋一著』

 日本書紀を読むと、中大兄皇子が白村江戦を指揮したと一見受け取れますが、倭国王薩夜麻のように白村江に出向いて陣頭指揮したとは書かれていないのです。
 『661年斉明7年:白鳳元年9月、皇太子は長津( 那津・博多港 伊予国宇摩郡 )の宮にはべっていた』とあるだけで、更に、長津は伊予にあったと言う説さえ最近出てきた。


 古田史学会報no94「娜大津の長津宮考」合田洋一著で『釈日本紀』に、
 「皇太子遷居于長津宮。斉明天皇紀曰。七年三月。御船還至于娜大津。居于磐瀬行宮。天皇改此名曰長津。兼方案之。于娜者。伊豫國宇麻郡也。長津宮者。伊豫國也。」
 とあって、娜大津の長津宮の比定地は伊予国宇摩郡だと紹介する。


 倭弟王家の斉明天皇は661年斉明7年正月6日難波副都を出発。8日大伯(岡山県邑久おおく郡)。14日伊予熟田津の石湯(道後温泉)。3月25日御船はもどって娜大津に至った。磐瀬行宮に居た。天皇はこれを改めて長津といった。4月天皇は朝倉の宮に遷居した。7月24日天皇は朝倉の宮で崩じた。


 娜大津の長津宮の比定地は伊予国宇摩郡だとする合田洋一氏はさらに、長津宮は宇麻国津根・長津の村山神社(現・四国中央市)だと言う。
 斉明は老いて正月14日道後温泉で病気とかを2ヶ月湯治し、戻って3月25日長津宮で休養し、4月天皇は朝倉の宮に遷居した。7月24日天皇は朝倉の宮で崩じた。


 『661年斉明7年:白鳳元年正月6日御船は征西して、はじめて海路に就いた』
 と書紀は記すが、こんな旅が果たして征西といえるだろうか?
 「斉明老人が筑紫の田舎で死にたいと懇願するので、いたわって中大兄皇子は道後温泉で2ヶ月湯治させ、少し戻って長津宮で休養し、4月朝倉の宮。7月24日朝倉宮で崩じた」


 661年(斉明7年)のその後はというと、
 ●(斉明紀に)7月24日斉明天皇が朝倉宮で崩じた。
 ●(天智紀に)この月、皇太子は長津宮に遷居した。だんだんと海外の軍政務をとった。
 ●(斉明紀に)8月1日皇太子は天皇の柩を移し奉って、磐瀬の宮に戻りついた。
 ●(天智紀に)9月皇太子は長津宮にはべっていた。
 ●(斉明紀に)冬10月7日天皇の棺は海を帰り行った。
 ●(斉明紀に)10月23日天皇の柩は、戻って難波に泊まった。


 『(斉明紀に)661年斉明7年、冬10月7日天皇の棺は海を帰り行った。
 このとき皇太子はある所に停泊して、天皇を―云々―した。』何が言いたいか?
 要するに、何しに朝倉宮へ行ったのと聞けば、「朝倉宮で崩じる」為だったとしか言えない。
 それも筑紫朝倉宮は長居せず、柩を埋葬せず難波へ持ち帰っている。
 結局、往復して難波宮へ戻った来ただけなのだ。


 上記の日付は、「斉明天皇の巻末」と「天智天皇の巻頭」との記事が、日付順に突合せてある。
 この難波宮と朝倉宮の往復での還り途次、9月皇太子は長津宮にはべっていた。
 『職冠を百済の王子豊璋に授けた。云々』以降の記事が続くのだ。
 還り途次の長津宮で白村江戦までの事件・史実が記入されている。


 ●(天智紀に)9月皇太子は長津宮にはべっていた。
 ●(斉明紀に)冬10月7日天皇の棺は海を帰り行った。
  ( 同 上 )冬10月23日天皇の柩は、戻って難波に泊まった。
 結局、「長津宮にはべっていた」のは9月初めから10月7日迄。
 10月23日戻って以降、近江に遷都する 667年(天智6年)3月19日迄は難波に居た。ということのなる。


《 メモ 》
 なお、気がかりなのは、この同じ年の 〔661年斉明7年:白鳳元年〕 には、九州王朝「倭国」の甘木王(常色王:白雉王)が狩の途中に不慮の事故で崩じ、明日香皇子が白鳳王に即位していることだ、これとの関連性が今の私には分からない。



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