大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 目次編 e 》
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ
白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、
日本書紀の〔 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権
2010年 4月 2日 発行
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大和朝廷「日本国」出生秘話
◇◇◇◇◇
(2013.03.28-2013.12.31)
◇◇◇◇◇
(2014.01.01-2014.02.28)
「う・ら・ば・か・り」の1年が、今、将に暮れようとしている。
急速に、米の植民地に順化されようとしてる日本・日本人を
佐藤洋一郎氏の『DNAが語る稲作文明』こそ、倭国の源流でしょ!
「難波朝廷」「天下立評」給時(=難波朝廷、天の下に評を立て給いし時)
大和朝廷の「はしり」は、「難波朝廷」である。
続》英国ロスチャイルドの日本を
ある時期上流と下流に分かれて逃れたのだろう。
ヒマラヤの「ネパール人」や「ブータン人」は日本人と「そっくり」同じだと感じる。
大阪城隣りの難波京は山陽大路が淀川を跨ぎ不便である。尼崎市内だろう!
大和朝廷「はしり」の「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」の場所が、
南北300m、東西400mにわたる広大な範囲に遺物が散布している。
この尼崎という土地が、大宰府から山陽大路・瀬戸内海の東端に位置し、
何故か?大阪府と兵庫県にまたがっていた事に注目しょう。
【「摂津」という語が津を管轄するという意味である事から、
九州「倭国」の都の大宰府を起点に難波副都を終点にしたはずで 山陽道は【唯一の大路】であった
九州王朝「倭国」は「天下立評」の為に難波副都を造り、
武庫川の河口に有っただろう武庫水門の両河川に囲まれた国道2号線の北側か
尼崎市の「尼」は
⇒「難波の葦野」「ちどり鳴」って尼崎市の難波だよね。
【〔藻鹽草 五水邊〕で、「攝州」と記載されてる「猪名野湊」・「難波湊」・「武庫水門」】
難波朝廷以前の『書紀』が記す日本国対唐外交史は全てが「でっち上げ」でなく
倭国「難波朝廷⇒近江朝廷⇒大和朝廷」分家の軽皇太子一派が、
12月3日〔倭種〕韓智興の従者、西漢大麻呂が我が〔日本国の〕客を讒言した
讒言でなく唐の朝見の席に宗主国〔倭種〕の許可なく
「〔中国〕国家は、来年に、必らず海東〔朝鮮〕を征伐する。汝ら倭客は、東に帰ることはできぬ」
『日本書紀(下):山田宗睦 原本現代訳』
・己未の年〔斉明五年〕七月三日、 「難波の三津の浦」から〔出〕発した。
難波の「三津の浦」の場所が、「はっきり」しない。
▼【 倭国の服属国の秦王国(=日本国)が使節団を自発的に派遣したでなく
「当時全く存在しなかった」か、「よほど弱小国だった」かだ。
「秦王国」の当時華々しく堂々の外交記録を借用し、
「朝命(天子の命)」を達し終えてより、さらに“旅行に出よう”と言い、 その準備(武装による警戒)を俀王に要求した
日本列島から、二つの国が隋と国交した。
ついに西京〔長安〕に、〔日、倭〕別の処に幽置した
当時の「奈良湖・河内湖」を知らないのかもね
【 「秦王国」が奈良盆地にあったとして、
『書紀』は「秦王国」をその昔の「日本国」にすり替えた
『日本書紀(下)山田宗睦 原本現代訳』
だから誰しも日本とは「日出づる所に近し」と思っている。 然し、旧唐書は「日辺に在る」と記す
「日出づる所に近し」とは【東】を、
九州「倭国」の「難波副都」の倭王家分家の弟王家だった
近隣史書が認める九州王朝「倭国」が問題ではなく、
唐で当時盛況の「道教」を受け入れる素地があった事になる
稲のDNAは弥生人が韓半島経由でなく、
秦王国外交に倣い「冊封・恭順」に挿げ替えている
初の中央集権「日本国」の仮想前史が『古事記』で、
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「倭国」は“根こそぎ”東遷した@t0_yan·19分
『古事記』と共に、白鳳倭王・薩夜麻が「道教」の移入と同時に編纂を命じた
【「天下立評・廃評建郡」で初の統一中央集権国家「日本国」の
『古事記』と共に、倭王薩夜麻が「道教」の移入と同時に編纂を命じた
とりわけ「県風土記」は、『古事記』と共に、
以前(2014/02/19)グーグルアースで大和川流域「亀の瀬」を見た時、
南北を「JR東海道線」「阪急神戸線」で囲んだ境界の内側にあったと思う
難波の殆どが「標高△1m~+1m」現「2国」は当時の「山陽大路」ではないと言う事か、残念!
「大陸との交流の窓口大宰府を結ぶ為」の大路だは違う
古代の山陽道が他にはない「大路」だった。それは何故か?
「難波朝廷」が、大和朝廷の「はしり」とは初めて聴く
『書紀』がどのように倭国史を改竄したか、正木裕氏は明らかにしている
《大和朝廷の生い立ちから倭国滅亡迄の歴史的経緯の想定年表》
地方豪族に軍事力無力化の「郡」制へ変えたのは、 高市天皇の大化改新「廃評建郡」も唐の命令だと分かる
700年以前の出土木簡は全て「評」である。
私見は、天下立評の難波副都⇒武庫の庄遺跡付近
高市皇子が(東遷直後の680年代初頭に)住んでいた「難波」と、
始)大和朝廷の「はしり」は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」に始まる。
世界わが心の旅 スコットランド 響き合うアイヌの心
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(2014.03.01-2014.04.22)
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(2014.04.22-2014.06.30)
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(2014.07.04-2015.10.17)
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(2015.11.07-2017.12.16)
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