大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 目次編 a1 》
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ
白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、
日本書紀の〔 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権
2010年 4月 2日 発行
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大和朝廷「日本国」出生秘話
昔(000a) 『九州王朝から近畿天皇家への権力移行期』
昔(000b) 『「難波副都の九州王朝片方の王家」 と 「葛城〔秦国〕の取込み」』
昔(001) 『日本書紀だけの「舒明から持統まで」』
昔(002) 『年老いた女性・斉明は生まれ故郷での死を希望』
昔(003) 『平城京1300年祭と、「大仏開眼」』
昔(004) 『大和王朝の素性』
昔(005) 『郡制施行(=建郡)は50年後の696年』
昔(006) 『天下立評の倭王家の一派が大和王朝だ』
昔(007) 『徴税には強大な軍事力が必要』
昔(008) 『造複都難波京の詔』
昔(009) 『天下立評できたのは九州王朝倭国しか考えられないね』
昔(010) 『日本書紀って、いい加減な史書』
昔(011) 『分かってしまえば、如何って事のない』
昔(012) 『倭国史を復元して欲しいね』
昔(013) 『ひどん(毘曇)の乱のコピー丸出し』
昔(014) 『具体的に書くと御幣があった』
昔(015) 『隋唐帝国の北東アジア支配と倭国の政変』
昔(016) 『何故「日本書紀」は九州「倭国」を抹殺したのだろうか』
昔(017) 『隋書でいう秦王国こそが飛鳥・葛城『秦国』であり、蘇我氏であろう』
昔(018) 『秦王国と十余国を経て「海岸」に達するとは』
昔(019) 『周防国が秦国だと言う説もある』
昔(020) 『広瀬と龍田の神とを祀った』
昔(021) 『〔造複都難波京の詔:649年10月〕』
昔(022) 『即断即決の為大宰府王家と難波副都王家に分担した』
昔(023) 『倭国・日本国の遣唐使が喧嘩・拘束』
昔(024) 『「冊府元亀」蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す』
昔(025) 『「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化』
昔(026) 『唐国・新羅に同盟遣使の葛城『秦国』王家の蘇我氏』
昔(027) 『「日本書紀」が何故、九州王朝「倭国」を抹殺したか』
昔(028) 『葛城『秦国』王家の蘇我氏の滅亡』
昔(029) 『九州王朝倭国は特異な兄弟王朝制度だった』
昔(030) 『白村江に出兵しなかったのは蘇我氏打倒の為か』
昔(031) 『倭国の留守居王権としての天智天皇』
昔(032) 『踏んだり蹴ったりの難波副都倭王家』
昔(033) 『「高市皇子」と「天皇」』
昔(034) 『高市皇子の死と藤原不比等の栄達』
昔(035) 『九州王朝倭国は696年(持統10年:大化2年)滅亡した』
昔(036) 『倭国の唐への悲惨な戦後賠償』
昔(037) 『「兄弟王朝」倭国と日本国』
昔(038) 『天武天皇の皇子に「尊」「命」 出典が違うのだ』
昔(039) 『九州倭国の倭王家「片方の弟王家」が「大和王朝」である』
昔(040) 『大和王朝は九州王朝倭国の「分家」だ』
昔(041) 『「高市天皇の暗殺」 と 「藤原不比等の栄達」』
昔(042) 『九州王朝倭国の倭王家「片方の弟王家」が大和王朝の前身である』
昔(043) 『「隋書」の時点でも大和朝廷「日本国」という記述はない』
昔(044) 『唐国と葛城『秦国』とが同盟の誼』
昔(045) 『620年(608年推古16年9月+12年?)葛城『秦国』朝貢か?』
昔(046) 『新羅の「ひどん(毘曇)の乱」』
昔(047) 『暗殺によるクーデターの自慢話「乙巳の変」』
昔(048) 『尽く文籍を市い、海に泛んで還る』
昔(049) 『大和朝廷の天皇のもともとの古巣が筑紫だった』
昔(050) 『これは大嘗祭の大和朝廷初出記事ではない』
昔(051) 『倭国は特異な「兄弟王朝」システムだった』
昔(052) 『志士達に頼られた当の孝明天皇は佐幕攘夷だった』
昔(053) 『691年〔持統即位2年〕11月1日これが倭国王最後の大嘗祭である』
昔(054) 『九州王朝「倭国」が滅亡し、新たに、大和王朝「日本国」が誕生した』
昔(055) 『明治維新も天子暗殺を隠す、公表しないための万世一系だった』
昔(056) 『窮地に立った丹比真人嶋らは高市天皇を裏切っただろう』
昔(057) 『明治天皇は吉田松陰の教えの「南朝革命」を主張した』
昔(058) 『「万世一系の皇統譜」について』
昔(059) 『「 □ 武 」は王統初代を表わす』
昔(060) 『「武力革命」を防ぐ「選挙制度」「民主主義」は非常に大切だ』
昔(061) 『今の歴史教育は間違っている』
昔(062) 『岩倉具視と丹比真人嶋との働きが似てる』
昔(063) 『・ん、なこと言っても、、、分かる人いない』
昔(064) 『簡単に言うと686-652=34年後とした』
昔(065) 『九州倭国の34年前の史実を、大和王朝の歴史に見せかけた』
昔(066) 『倭国王が吉野ヶ里軍事基地へ閲兵に出向いた』
昔(067) 『34年繰り下げ/50年繰り上げの対照表』
昔(068) 『国内の行政・軍事関連はずらし、隋・唐との外交記事はずらしてない』
昔(069) 『倭国の附庸国・秦国との交渉は秦国の正史にあっても唐の正史に記載ない』
昔(070) 『608年:推古16年-略ー唐帝を聘ふ、唐の建国は618年』
昔(071) 『[天皇「唐帝」を聘ふ]まったく、間の抜けた記事書きやがって』
昔(072) 『周防での偉人は奇兵隊天皇・伊藤博文・児玉源太郎の3人』
昔(073) 『足利義満は後円融天皇の皇妃、三人の寵妃までも悉く陵辱』
昔(074) 『難波副都はまさに都というより軍事基地』
昔(075) 『683年造複都難波京詔は34年遡上説に従うと649年の出来事となる』
昔(076) 『「難波宮出土須恵器」と「伊予三島縁起の番匠初め」の紹介』
昔(077) 『「天下立評」為し得る勢力と言えば九州王朝倭国それも弟王家でしょう』
昔(078) 『「前期難波宮は九州王朝難波副都である」可能性が高い事柄の整理』
昔(079) 『又竹斯国に至り、又東して秦王国に至る。其の人華夏に同じ』
昔(080) 『本来は巷苛(蘇我)の伊奈米(稲目)ー有明子(馬子)ー善徳(蝦夷か)』
昔(081) 『大和王朝「日本国」が九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だったとはな』
昔(082) 『何故、国内的には「日本書紀」が九州王朝「倭国」を抹殺したのか』
昔(083) 『倭国は白村江敗戦よる唐国への戦後賠償費の支払いで疲弊・困窮した』
昔(084) 『舒明は接続詞の役目で難波副都倭弟王家に属さないかも』
昔(085) 『海外を古資彌凍国の「古資:こし:越」と言ったと思うが?』
昔(086) 『古資彌凍国は越水門国で、継体は任那の『越水門国』の出身となる?』
昔(087) 『古資彌凍国は現在の固城、書紀の古嵯、新羅以前小国名が小伽耶』
昔(088) 『倭薈王(=磐井)最後の場所は宇佐の小高い丘「小倉山」頂きだ』
昔(089) 『追慕の気持ちだけで、薬師寺・東大寺を建てるだろうか』
昔(090) 『そもそも継体天皇とは実在人物か、うたがわしい』
昔(091) 『500年代初頭の近畿に大和朝廷なるものは存在してなかった』
昔(092) 『「善記」以後の倭国史を以前に継体を置くことで倭国史・元号共々を抹殺した』
昔(093) 『日本には「日の出を意味する東」と「日辺に在る意味の南」の2つある』
昔(094) 『又聞く日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬ』
昔(095) 『倭薈(磐井)王・安羅の王安(日本の天皇)・小伽耶の継体天皇は別人』
昔(096) 『継体天皇が任那日本府王家遺族共々避難し、倭国を發倒(=再興)・継体した』
昔(097) 『継体天皇・越国・日本国・天皇に関する項の整理』
昔(098) 『継体天皇は九州王朝倭国の倭薈(=磐井)王に反逆してでの事だろうか』
昔(099) 『倭国王倭薈は宇佐市の駅館川西岸の 小倉山に死亡』
昔(100) 『安羅国王家が日本府と称し、その王が天皇を号した』
昔(101) 『任那は九州倭国の直轄地でも大和朝廷の出先機関でもない』
昔(102) 『農耕民族は太陽信仰であり、狩猟遊牧民族は北極星などの星信仰』
昔(103) 『倭人は遊牧民族では無く、航海民族だった』
昔(104) 『「日出づる所に近し」と「日辺に在る」とは字義が違う』
昔(105) 『大和王朝「日本国」の前史「日本書紀」が九州「倭国」を抹殺したわけ』
昔(106) 『日本書紀のからくりだ!九州元号で倭国史書をコピペした』
昔(107) 『九州倭国の天下立評・蝦夷懐柔の前進基地で大和王朝のうぶすな』
昔(108) 『意図的に34年の時間を操作する書物が史書であるはずはない』
昔(109) 『年・元号の使用は公用は止めて、私用に限るべきだ』
昔(110) 『皇太神宮儀式帳 「難波朝廷天下立評給時」』
昔(111) 『郡制施行に先んじる、評制施行の史実が文書で裏付けられた』
昔(112) 『「白雉年間の難波副都建設と評制の創設」へと次々展開する』
昔(113) 『九州王朝難波副都の天子伊勢王こそ、評制創設の立て役者』
昔(114) 『思ったより高度な測量技術が古代にあったと言うことらしい』
昔(115) 『日本が「日辺にある」の南から「日出づる所に近し」の東へなった』
昔(116) 『継体天皇は九州倭国の倭薈(=磐井)王をほんとうに継体したか』
昔(117) 『九州王朝の「常色の改革」こそ大和朝廷「日本国」の起源だろう』
昔(118) 『そもそも、大和王朝「日本国」はいつ発生したか?が問題だ』
昔(119) 『「常色の大改革」を推し進めた倭国王とはどんな「王」だったか』
昔(120) 『持統が大嘗したのでなく、遷都后の高市だったとわかる』
昔(121) 『なんと法隆寺は、九州王朝「倭国」の版図より「移築」されていた』
昔(122) 『大和王朝「日本国」・「天皇」の系譜』
昔(123) 『倭⇒俀(大倭)⇒大倭(俀)⇒大和と変化し、大和を“やまと”と呼んだ』
昔(124) 『「長谷寺」・「藥師寺」・「東大寺」の故里』
昔(125) 『王家と軍隊だけでは、「国」はできません』
昔(126) 『何で今の天皇家苗字がないんでしょうね?』
昔(127) 『連邦制各附庸王国が解体し、大和朝廷の前身へ統合・強大化した』
昔(128) 『多利思北孤だけのことかもしれませんが、仏教に帰依したみたいで』
昔(129) 『白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し』
昔(130) 『倭国の弟王家が大和朝廷なら、なんで九州年号は知らないと言ったか』
昔(131) 『九州王朝倭国は暗殺された高市天皇を最後に696年亡んだ』
昔(132) 『休戦協定成立后、郭務悰・唐の駐留軍は本国へ引揚げたか』
昔(133) 『壬申の乱の意味合いっていうのが、変わってくる』
昔(134) 『「大宰府倭兄王家」と「難波副都倭弟王家」の白村江戦後』
昔(135) 『「高市天皇」暗殺が、「乙巳の変」のモデルになっている』
昔(136) 『高市天皇の皇子:長屋親王は、結局は「長屋王の変」で抹殺された』
昔(137) 『「偽書」じゃない歴史書なんてこの世の中に存在しない』
昔(138) 『九州王朝倭国「天帰王(あまぎ・甘木)」の「常色の改革」以降』
昔(139) 『真実が解かれることを願って書いたとしか思えない箇所がある』
昔(141) 『これから「倭の国王は百済語で話す」の著者金容雲先生を取材します』
昔(143) 『日本書記は、讖緯説の物差しと元嘉歴の時間歴よったのでは?』
昔(144) 『出雲大社は解慕漱を祭っているのでは?』
昔(145) 『軍事権・祭祀権を独占し、藤原氏独裁の思想が語られている』
昔(146) 『四分暦と儀鳳暦と余り定数の違わぬ景初暦が使われなかったか』
昔(147) 『金容雲(キムヨンウン)氏の著書「日本語の正体」(日本語版)』
昔(148) 『日本=百済に思えるのは錯覚なのか妄想なのか?』
昔(149) 『鮮卑族李朝が占領の韓半島を百済・桓武の子孫の明治天皇が取戻した』
昔(150) 『そもそも百済は義慈王・豊璋で息絶えたわけで子孫がいたのか』
昔(151) 『三つ足の雀=八咫烏=高句麗古墳出土の三足鳥と同じですよね?』
昔(152) 『古代結負制の復元と代制の起源:新井宏氏』
昔(153) 『難波宮と難波長柄豊崎宮(第268話 2010/06/19)古賀達也氏』
昔(154) 『日本人でお酒に弱い人は、もしかしたら中国南部から来た集団かも』
昔(155) 『「博多人は酒豪」から解く日本人のルーツ』
昔(156) 『読んで眺めていたのでは駄目なので、根気良く読解け』
昔(157) 『日本人になった祖先たち―DNAから解明するその多元的構造』
昔(158) 『難波長柄豊崎宮は分家・弟王家の伊勢王の都と言うより「住居」』
昔(159) 『日本書紀は天武天皇を、「二人で一役」の合成人間で記述する』
昔(160) 『1300年に及ぶ「事大主義と属国根性が染みついた民族性」』
昔(161) 『三国史記新羅本紀文武王10年天智9年670年倭国更えて日本と号す』
昔(162) 『なんとも言えない匂いに悪酔いしそうだった。後から聞くと「香草」だと言ってた』
昔(163) 『錦川上流の広瀬付近の向畑に
昔(165) 『郭務悰⇒塔務悰⇒唐無双⇒藤腹無双⇒藤原不比等じゃないかなー』
昔(166) 『娜大津の磐瀬宮は伊予国宇摩郡津根・長津の村山神社:合田洋一著』
昔(167) 『継体紀の「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ」とは』
昔(168) 『高杉晋作はフランス語のゲリラを訳して奇兵隊と造語』
昔(169) 『大和王朝「日本国」がどういう経緯で忽然と極東アジアに現れたのか』
昔(170) 『長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。
昔(171) 『ともかく美しいのだ。日本ってこんなに緑豊かなのだって、ひとりほくそ笑んでしまう』
昔(172) 『天武天皇は二人いた(日出島哲雄著)』
昔(173) 『6月伊勢王とその弟の王とが、日を接して薨じた』
昔(175) 『磐瀬宮は従来説では(福岡市三宅)、合田説では (伊予国宇摩郡津根・長津)』
昔(176) 『倭国史の九州年号で白雉の記事を34年后の朱鳥へと置換えを知らずいきなりは無理』
昔(177) 『「難波副都倭弟王家」の「近江朝」が倭国から実質的に分離独立』
昔(178) 『(683年:白鳳23年)天武12年⇒(649年:常色3年)孝徳5年12月13日』
昔(179) 『白村江敗戦后すぐに「近江朝」の天智は本州・四国を直接支配下に置いた』
昔(180) 『唐国へ立ち向かった高句麗・百済・倭国の独立心』
昔(181) 『熊野本宮大社なう、三つ足烏である八咫を祭っている』
昔(182) 『金春秋は唐・新羅・秦国の東西枢軸へ参入勧誘の為に秦国へ赴いた』
昔(183) 『九州王朝「倭国」が在ったことは、周辺国が認めていることだ』
昔(184) 『九州王朝系の「格」の痕跡の「発見」記事の紹介』
昔(185) 『隋書・伊予温湯碑・元興寺丈六光銘・やつらの舞・筑紫舞の何れも捨てがたい』
昔(189) 『「常色の改革」の一環としての難波副都での「天下立評」がその発端』
昔(190) 『秀吉が朝鮮戦役では、加藤清正の寅退治が有名だ』
昔(192) 『百済3史は日本書紀編者がでっち上げた史書であるか』
昔(194) 『「韓国は日本人がつくった:黄文雄著」を読み勉強しよう』
昔(195) 『いまNHKで『韓国人の70%なぜ日本が嫌い』を放映してる、非常に興味がある』
昔(196) 『伊勢王が大和朝廷の始祖王で、皇極・斉明天皇は伊勢王と同一人物だろう』
昔(197) 『長江中・下流域からの直接の渡来:日本のイネに半島にない遺伝子があった』
昔(198) 『「隋書」俀国伝中に、記載の『俀国』『秦王国』のいずれもが、
昔(199) 『中国の航空母艦充実の動きは原油ルート確保の他に海外制覇でしょう』
昔(200) 『毛利長州藩の英雲公の「撫育方」制度の確立、撫育金の秘密裏の貯蔵であろう』
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