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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 006 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(228) 『「日韓併合」の真実:水間政憲著』 2010年9月19日(日)

 『「日韓併合」の真実:水間政憲著』日本は戦時中に労働力確保のため、多くの朝鮮人を内地へ強制連行し、それが今の在日韓国・朝鮮人の始まりであるーいまだにそう認識している日本人は多いのではないか。しかし実際は強制連行された人はほとんどいないことが、戦後の外務省の調査で明らかにされている。    

 この本は腹帯に《戦後の偏向報道が嘘のように、「大日本帝国下の朝鮮半島」を生き生きと描写した〔戦前の朝日新聞報道〕「創氏改名」「慰安婦」「土地収奪」「強制連行」などの“日帝”の犯罪的行為は本当にあったのか?膨大な報道資料を読み解くことで、「日韓併合」の実相に迫る!》 『「日韓併合」の真実:水間政憲著』である

 まえがき「新聞資料は生き生きと日韓併合の本当の現実を伝えている」あなたは、「近代朝鮮半島の歴史」と聞くと、つい条件反射的に暗い気分にさせられませんか。  それは戦後生まれの者にとっては、ごく一般的で自然な反応です。戦前の朝鮮半島の歴史を正しく伝える書物や資料がGHQ占領下で焚書され、国立国会図書館や国立公文書館にもほとんど残されていないこともあって、日本人はながい間、正しい情報から遮断されていたからです。テレビや新聞、そして歴史教科書など見るものすべて、日本が朝鮮半島を統治していた時代を、悪政の限りを尽くしていたと表現してきました。

 日本が統治していた時代の朝鮮半島の日常的な風景は、実際どうだったのか。それを本書で明らかにできるようになったのは、国立国会図書館で戦前の資料調査をしていた過程で、朝日新聞地方版のマイクロフィルムの中から「大阪朝日新聞・朝鮮版」がたまたま見つかったからです。戦後、謎に包まれていた1937(昭和12)から1945(昭和20)年8月までを含めて、戦前の朝鮮半島の実態がこの資料によって提示できるようになりました。 <以下略>

 さて、私は先にも書いたがハングルが残念ながら読めない。でもハングルのフォロワーが多のだ。何故だろう、きっと韓国の方々も、在日の2世・3世も「日韓併合」の真実 が知りたいのだ。さきに『韓国は日本人がつくった:黄文雄』を紹介したが、この著者は台湾出身であり、日韓双方に比較的中立的立場で著述されているものと思います。かなり激しい表現だとも思われますが。

 《思うに、何故在日は日本に帰化しないのか? 韓国に帰れないのか? はなはだ不思議なのです。》

 在日1世が日本に帰化しない・帰化したくてもできない。帰国しない・帰国できないのは、分かるような気がしないわけではない。私の田舎は山口県徳山ですが、確か中学の時「夜は猿に出会うから出歩くな」と親から友達は聞いた、と記憶している。猿ではなく仙崎辺りの海岸へ上陸した密航者の群れだろう。

 でも、在日2・3・4世が日本に帰化しない・帰化したくてもできない。帰国しない・帰国できないのということはないと思うのだ。帰ると、韓国の軍隊へ徴兵されるからだろうか、違うだろう。今も北へ2・3世は帰りたいのだろうか。思うに、彼等は「日韓併合」の真実を知り、決心したいのだろう。

 そういう意味で、戦後世代の日本人に限らず、在日の方々も、この 『「日韓併合」の真実:水間政憲著』、及び『韓国は日本人がつくった:黄文雄』の2冊はぜひ読んでいただきたい。

 こんなのがあった。
水間条項ー国益最前線 ジャーナリスト 水間政憲のブログです。
「捏造歴史認識を封じ込める
『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実』
〔韓国が主張する「七奪」は日本の「七恩」だった〕(発売開始!)」

《魚拓》

外務省はこのほど「在日朝鮮人の引揚に関するいきさつ」について発表した。(略)現在登録されている在日朝鮮人は総計61万人で、関係各省で来日の事情を調査した結果、戦時中に徴用労務者としてきた者は246人に過ぎず、現在日本に居住している者は犯罪者を除き、自由意志によって在留した者である。(「朝日新聞」1959年7月13日付け。写真①)

 国民徴用令は内地で1939年7月に施行され、朝鮮半島への適用は1944年9月から翌年3月までの7か月間で、内地へ強制連行された人数は、同じ制度で徴用された日本人よりはるかに少なかった。終戦から14年後に国内に留まっていたのは、わずか245人だったのである。

 では、自由意志で在留している韓国・朝鮮人は、いかなる理由で来日したのか。

《日中戦争勃発後も日本への密航者が続発》

 まず「朝日新聞・朝鮮版」を見て驚くのは、密航者や密航ブローカーが逮捕された記事の多いことだ。

(密航青年ご難 釜山でまんまとしてやられる)
「内地へ渡航せんとする家出青年を誘惑し密航手数料を搾取したうえ他人の発動機船の船倉に押し込めて逃走した大胆な密航詐欺犯人が二日釜山水上署に検挙された」(『大阪朝日・南鮮版』1938年11月3日付。写真②)  ー<以下略>ー


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(229) 『朝日新聞地方版のマイクロフィルムの中から「大阪朝日新聞・朝鮮版」がたまたま見つかったからです』 2010年9月20日(月)

 『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実』は、朝日新聞地方版のマイクロフィルムの中から「大阪朝日新聞・朝鮮版」がたまたま見つかったからです。戦後、謎に包まれていた1937(昭和12)から1945(昭和20)年8月までを含めて、戦前の朝鮮半島の実態がこの資料によって提示できる。という。

 まえがきに『「大阪朝日新聞・朝鮮版」は、当時の朝鮮半島の空気まで読み取れるような記事が満載されており、数日前の新聞を読み進めるような陥ることでしょう。それは、戦後の日本人が育てられた原風景を感じさせられる日常が、随所に報道されているからです』左の頁に新聞の写真、右に説明文を書く。

 左の頁に新聞の写真、右に説明文を書く。 であるが、
〔大和王朝は(難波副都で「天下立評」した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ〕『Twitter その6』
に新聞を紹介までに載せます。

 戦前の朝鮮半島の歴史を正しく伝える書物や資料がGHQ占領下で焚書され、国立国会図書館や国立公文書館にもほとんど残されていず、日本人は長い間、正しい情報から遮断されてきた。テレビ・新聞・歴史教科書など全てが、日本が朝鮮半島統治時代を、悪政の限りを尽くしたとして来た。それにしても酷い。

『韓国は日本人がつくった:黄文雄』を証明するかのように当時の新聞フィルムが出てきたことで、フィルムを紹介しながら『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実:水間政憲著』は、書かれている。記事の写しをみると、今まさに、昨日のニュース記事を読んでる錯角におちいる。郷里の先輩を改めて尊敬!

 戦前の朝鮮半島の歴史を正しく伝える書物や資料がGHQ占領下で焚書されたことが、たった100年の歴史、それも科学の最先端を走る日韓両国民を相互不信に陥らせたことを思うと残念でたまらない。焚き書が如何に酷いか改めて思う。日本書紀編纂者達も、倭国・秦国・韓半島各国史書を焚き書したのだ。

 平家物語の「新羅三郎」こと「源義光」ですが、新羅の帰化人でしょう。源氏は新羅の花郎制度の元締め・源花だと言われている。新羅は半島東側で朝日の白日で白旗。百済は半島西側で夕日の赤日で赤旗。新羅・百済の帰化人は、要するに1300年前の在日と言うことだ。100年前の在日かどうかだろうて。


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(230) 『〔朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実〕〔韓国が主張する「七奪」は日本の「七恩」だった〕:水間政憲 著』 2010年9月21日(火)

 『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実』〔韓国が主張する「七奪」は日本の「七恩」だった〕:水間政憲著 も、いきなり、詳細説明に入らずー 目次 -を使うことにする。

 目次はその内容を端的に語っているはずだからだ。
それにしても朝日新聞の最近の論調は先輩の記事に小便をかけるかの如くだ。

まえがき  

第一章 近代化が進展した「大日本帝国下の朝鮮半島」
  朝鮮半島に残された日本の莫大な遺産/「処女列車は走る 試運転は上首尾」/本土と同等の教育を実施/「記念碑的建造物」としてソウルに残る日本建築  

第二章 「創氏改名」はどう報道されたのか
  創氏改名は決して強制ではなかった/約2割が自動的に性を氏として登録された/日本政府に協力的な「功績者」にも朝鮮名が/朝鮮半島統治の中枢でも日本名の強制はなかった  

第三章 戦前・戦後で矛盾する「慰安婦」報道
  慰安婦は当時合法だった売春婦のことだった/「喧嘩」や「話しかけ」ですら犯罪と認識される治安の良さ/朝鮮人娼妓の待遇改善に警察当局が動いていた 

第四章 新資料発掘!
「朝鮮人業者」強制連行の動かぬ証拠  

第五章 「強制連行」どころか、密航までして日本を目指した朝鮮人
戦時徴用された245人が強制連行の真実/日中戦争勃発後も日本への密航者が続出/あまりの渡航希望者の多さに取り締まりを緩和/炭鉱夫の「物凄い稼高」「旅館住ひ同様」の暮らし  

第六章 「言葉を奪った」どころか、ハングルを広め、教えたのは日本
  圧制の象徴・伊藤博文が韓国近代化教育の礎を築いた/そもそもハングルは教えられてなどいなかった/わざわざ2つの朝鮮語で放送されたラジオ  

第七章 朝鮮女性の人権を守ったのは日本だった 
日本によって女性にも戸主相続権が認められた/給料や休日を規定し、娼妓たちの権利を確保/警察が不正業者を摘発し、朝鮮人女性を護った  

第八章 朝鮮人たちは日本軍志願兵募集に殺到した 
志願兵制度導入前から朝鮮人の志願が殺到/当初7倍だった倍率は、5年後には50倍になった/徴兵制実施にともない皇居前で万歳奉唱も  

第九章 朝鮮農民の土地、地位、財産を守り育てた“日帝”の功績
農地収奪どころか農業の発展に貢献/小作農困窮の真犯人は「李氏朝鮮」だった/法整備により悪質な「舎音」を一掃/日本にも浸透する「農地収奪」神話

第十章 やっぱりあった!「竹島は日本領」を示す韓国の古地図
  韓国の地図でも竹島は“領土の外”/アメリカの“竹島は日本領”が世界の常識/謎の外国人が数百万円の現金払いで古地図を買占め  

第十一章 朝鮮文化と文化史を守った総督府
  半島の美術品の海外流出を防止/ユネスコ世界遺産は日本が甦らせた/高麗青磁の復活に人生を捧げた日本人  

第十二章 「張作霖爆破」で始まった奇妙な報道
  タイミングよすぎる「怪しい支那人」報道/馬賊の非道、日本の被害を繰り返し伝えた/“支那人は張作霖の死をすこぶる喜んでいる”

第十三章 「写真展」と「自慢話」で埋まった満州事変報道
激化した中国人と韓国人の対立/日本軍大尉殺害事件と朝鮮人迫害を重ねた/張作霖爆殺事件の時と酷似した報道パターン  

第十四章 半島の緑化に努めた日本人の美意識 

あとがき


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(231) 『まさか、特捜の主任検事が証拠品改ざんだって』 2010年9月21日(火)

 新外務大臣に前原外務大臣が横滑りになると、中国へは日本が尖閣を断固守るとの意思が示されることになる。前原は、民主党党首時代、北京で中国の軍備増強に関して、中国政府高官と喧々諤々の論争をしたことがあり、評価できる実績。安全保障に関しては、現民主党政権内ではベストの選択。

 厚生労働省の村木厚子元局長(54)に無罪判決が言い渡された文書偽造事件で、大阪地検特捜部の前田恒彦主任検事(43)が元係長上村勉被告(41)=虚偽有印公文書作成・同行使の罪で公判中=から証拠品として押収したフロッピーディスク(FD)の更新日時を改ざんしていたことが21日分かった。

 まさか、特捜の主任検事が証拠品改ざんだって。やれやれ特捜もやってくれるな。まー元々、米国進駐占領軍の下働きをしてた機関だったと言うし、ユダヤの手先だともうわさが絶えなかったわけだが。ということは、彼らにとって改ざんなんていうのは、日頃からやってたことで、お・お、恐ッ! ここは解散

 秋夕とは、旧暦の8月15日のことで、毎年その前後1日ずつが祝日になる。親戚一同が集まって先祖の墓参りをしたり、秋の収穫に感謝する習わしで、起源は古く新羅時代(B.C.56~668)に始まったと伝えられている。昔から、一年で月が最も明るく輝く旧暦の8月15日には盛大なお祭りが行われていた。この時期に秋夕風習が形成され、次第と名節になり今に伝わったと言われている。

 山口の田舎では、「中秋の名月」という満月の今日、すすきを生け、団子を盛って、夜の満月を観て、子供ながら美しいなーと感じた。韓国ではチュソク(秋夕)と言うらしい。日本のお盆に相当するらしく、前後3日間はお休みするとのこと。最近、ソウルの知人に教えてもらった。日本と大分違うなと思う。


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(232) 『古代ローマと秦の始皇帝の焚書(ふんしょ)坑儒(こうじゅ)』 2010年9月22日(水)

 目次はその内容を端的に語っているはずだからだ。それにしても朝日新聞の最近の論調は先輩の記事に小便だhttp://geocities.yahoo.co.jp/gl/waikoku『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実』〔韓国が主張する「七奪」は日本の「七恩」だった〕:水間政憲著

 昨日NHKBShで、古代ローマと秦の始皇帝云々をやってて、その中で、焚書(ふんしょ)坑儒(こうじゅ)を語ってた。自分がアケメネス・ペルシャ(大秦国)出身だからか、以前にそこにいた民族の歴史を奪ったのだ。「戦前の朝鮮半島の歴史を正しく伝える書物や資料がGHQ占領下で焚書され」と同じだ。

 ツイッターの楽しみ方募集 ツイッターはすごい勢いで増えていますが、初心者が圧倒的です。面白さがよくわからない、つぶやきに飽いてきた人が多いです。皆さんの参考になるよう私流ツイッターの楽しみ方を募集します。「Twの楽しみ」で返信して下さい。

 テーマを決めて、日々少しずつ、tweetしてます。その自分のtweetをブログにし、更にまとめてホームページに反映するようにしてます。同じこと言ってるつもりですが日々徐々に変わってるみたいですね、それにテーマもひと段落したかなー。RT @eigoman「Twの楽しみ」

 わたしもそうです。今までの特捜のした検挙のなかにもこうしたでちあげがなかったかと疑わざるを得ませんね。国民の信頼を裏切る大変なことをしてくれました。 RT @kojima_keiko12改ざん 首脳部が把握しながらも放置¨ いったい、何所を、誰を、信用したらいいの、本当に腹がたつ

 『朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実』〔韓国が主張する「七奪」は日本の「七恩」だった〕:水間政憲著』は、その“まえがき”の中で、「戦前の朝鮮半島の歴史を正しく伝える書物や資料がGHQ占領下で焚書され、云々」と書いている。『焚書』は日本帝國弱体化の為に米国側にぜひとも必要だった。

 今度の「特捜の主任検事が証拠品で押収したフロッピーディスク(FD)の更新日時改ざん」も、「戦前の朝鮮半島の歴史を正しく伝える書物や資料がGHQ占領下で焚書され、云々」も相手に対する情報操作であり内実は同じである。日本書紀編纂時焚書を指示したのは藤原不比等であろうが焚書は許せない。

 そうでしたか「能見堂跡」ねー、知りませんでした。京急が駅上の造成地拡販の為でしょうから、中野さんもガンジーを要求されたんですね、で「能見堂跡」駅ってのはどうです?RT @n_kensaku 能見台は金沢文庫駅裏の「能見堂跡」からだと思います。金沢八景が「能く」「見えた」場所です。

 谷津坂の「谷(凹)」のイメージが悪かったのでしょう。それで「台(凸)」のつく駅名をこじつけたのだと思います。子どもたちは「谷津坂村(『八墓村』のもじり)」とか言って面白がりましたが、そういうことも含めて懐かしいのです。 @tohyan そうでしたか「能見堂跡」ねー、(以下略)

 津山30人殺しの実話を聞き大きなショックを受けた横溝正史は、この事件をモデルに『八つ墓村』書いたそうですね。念の為
馬込文学マラソン
を覗いてみてみましたがRT @n_kensaku子供達は「谷津坂村」を八墓村ともじって面白がった。

 n_kensaku 金田一耕助が居候していた割烹旅館「松月」は、馬込文学圏(東京都大田区大森駅周辺)にある設定のようです。「松月」の出てくる『黒猫亭事件』あたりをいつか取り上げようと思っています。 @tohyan 津山30人殺しの実話を聞き大きなショックを受けた横溝正史は、この事件をモデル(以下略)

 あなたのホームページhttp://designroomrune.com/瀟洒で美しい画面ですね!あまり小説は読まない無粋ものなので申し訳ありませんが山本周五郎位ですか。
RT @n_kensaku 田一耕助が居候していた割烹旅館「松月」は、馬込文学圏(東京都大田区大森駅周辺)にある

 n_kensaku ありがとうございます!1作家1作品に限っての読書なので私もあまり読んでいません。周五郎いいですよね。『樅ノ木は残った』を再読中です
RT @tohyan あなたのホームページhttp://designroomrune.com/瀟洒で美しい画面ですね!あまり小説は読まない(以下略)


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(233) 『日本府・天皇を最初に名乗ったのは安羅国王』 2010年9月24日(金)

 始めて天皇を名乗った天武天皇は、天智王の弟ではなかったため日本書紀を編纂し血脈を偽装したという加持将一氏の小説面白かったですよ。RT @tohyan: 日本書紀で、だいたい、物語風に書かれているところの「乙巳の変」とか「壬申乱」とかは、具体的に書くと色々御幣があったということだろ

 面白そうですね、でも私は日本府・天皇を最初に名乗ったのは安羅国王で、その約140年後近江朝の天智が倭国から本州・四国を独立させ、日本国・天皇を名乗ったものでたぶん天智が安羅の血筋だったと思う
RT @tetsumura始めて天皇を名乗った天武天皇は、天智王の弟ではなかったため<略>

 更に「壬申乱」について言えば、
大友皇子と鞠智城(壬申の乱は九州)日出島哲雄著《魚拓》
がもとでそれを近江に置き換え、本来の近江の戦争は消したものと思ってます。
RT @tetsumura「壬申乱」とかは

 tetsumura 加持氏の小説は、主人公の歴史小説家が身の危険を冒しながら禁断の歴史を謎解いていくもので、大胆な新説が売り。歴史研究家の方の書評を聞いてみたいです。 RT @tohyan: 面白そうですね、でも私は日本府・天皇を最初に名乗ったのは安羅国王で、その約140年後近江朝の天智が倭国から

 その本の題名が記載されてないのですが、「舞い降りた天皇(上)(下): 加治 将一著」で間違いないですか? RT @tetsumura 加持氏の小説は、主人公の歴史小説家が身の危険を冒しながら禁断の歴史を謎解いていくもので、大胆な新説が売り。歴史研究家の方の書評を聞いてみたいです。

 tetsumura その本も面白かったのですが、「失われたミカドの秘紋」です。RT @tohyan: その本の題名が記載されてなかったのですが、「舞い降りた天皇(上)(下): 加治 将一著」で間違いないですか?
 RT @tetsumura 加持氏の小説は、主人公の歴史小説家が身の危険を冒しなが

 失われたミカドの秘紋 エルサレムからヤマトへ 「漢字」がすべてを語りだす! [単行本]加治 将一 (著)  の方ですか? あちゃまです・もう、注文しちゃいました。読んで面白ければ考えます・です。
RT @tetsumura その本も面白かったのですが、「失われたミカドの秘紋」です。

 「隋書」俀国伝中の『其の人華夏に同じ。以って夷州と為すも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。』の部分は若し「隋書」俀国伝がいわゆる、偽書と疑うとすれば考えられなくも無い。何故なら『昔中国の先人が移民占領して築いた国であり中国人の子孫の支配地だ』とも受け取れる文章に思えるからだ。


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(234) 『新羅の法興寺は647年頃完成し、毘曇の乱に同時期である』 2010年9月24日(金)

 新羅の『法興寺』は647年頃完成し、毘曇の乱に同時期である。毘曇の乱が647年で、これをそっくりコピーした乙巳の変(=大化の改新)が645年に起こったことになっている。コピーした方が年次が古いというのも変な話だが(笑)私が危惧するのは、九州倭国の「法興寺」と混乱してないだろうか?

『第二十九番:法興寺』

 獅子山(サジャサン)の南のふもとにある寺院で、韓国の5大寂滅宝宮の一つであり、代表的な仏教聖地でもある。
 新羅時代、慈蔵律師(チャジャンユルサ)が中国の唐の清涼山で修行していた時、文殊菩薩から釈迦如来の真身舎利と袈裟を授かり、643年に帰国した後、法興寺(ポプフンサ)を建立してこの真身舎利を奉安した。
 寂滅宝宮の裏には舎利塔と慈蔵律師が修行していたとされる土窟がある。
 釈迦の真身舎利を奉安している韓国の5大寂滅宝宮の一つである。

法興寺の松林には天然記念物のクマゲラが生息している。

〒232-941 江原道寧越郡水周面法興里422-1 (033)374-9177 http://www.bubheungsa.or.kr/

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『寧越法興寺』

 お釈迦様の眞身舍利を奉安した、韓国5大寂滅宝宮(靈鷲山通度寺、雪嶽山鳳頂庵、太白山淨巖寺、五台山中台庵、獅子山法興寺)の一つで、新羅の真徳王647年頃に慈蔵律師によって興寧寺として創建され獅子山寺→獅子山寂滅寶宮と改称しました。法興寺の寂滅寶宮の裏山にお釈迦様の眞身舍利を奉安し、舍利搭の横には慈蔵律師が修道した土窟があります。

韓国5大寂滅宝宮は
 ①慶南靈鷲山の通度寺寂滅宝宮(金剛階段に真身舎利を奉安して戒律根本の仏宝宗刹)
 ②江原道雪岳山の鳳頂庵寂滅宝宮(真身舎利を奉安した五層石塔)
 ③江原道太白山の淨岩寺寂滅寶宮(真身舎利を奉安した水瑪瑙塔)
 ④江原道寧越獅子山の法興寺寂滅宝宮(真身舎利を奉安した宝塔)
 ⑤江原道五台山の中台庵寂滅宝宮(仏舎利を安置した場所が分からなくて法堂の後ろに仏塔だけが立てられている。)

寂滅宝宮について

 寂滅宝宮と言うのは 'あらゆる煩悩妄想が寂滅した貴重な宮'でお釈迦の真身舍利を奉安した殿閣を言います。宝宮は釈迦が悟りを得た後、最初の寂滅道場会を開いた印度(インド)の馬摩竭陀國(マガダ国)の伽耶城の南側にある菩提樹の金剛座から始まります。

 韓国に舍利信仰を伝えたのは“慈臧律師”で、中国に留学した慈蔵律師は終南山で文殊菩薩を親見して世尊の衣鉢と真身舍利100果を仕えて帰国した真身舍利と頂骨を分けて奉安した所が “5大寂滅宝宮(靈鷲山通度寺、雪嶽山鳳頂庵、太白山淨巖寺、五臺山中台庵、獅子山法興寺)”です。

 寂滅宝宮は仏様の体から出た仏舍利を仕える所なので、釈迦牟尼が常在していらっしゃることを意味します。なので、法堂には別に仏像を奉安しないで仏壇だけあるのが寂滅宝宮の外形的特徴です。したがって寂滅宝宮は本来丘模様の階段を積んで仏舍利を奉安することで釈迦様がいつも寂滅の法を説していることを象徴しました。

 現在、韓国で寂滅宝宮の扁額を掲げた殿閣は本来真身舍利の礼拜場所として使われました。
 はじめには、舍利を安置した階段を向けて庭で礼拜しましたが、便宜によって殿閣を建てることによってその用途がかわりました。その殿閣は法堂ではない礼拜場所の目的で嘯とられたので、仏像を安置しないでした。
 ただ真身舍利が奉案された方に礼拜行為をするために仏壇を用意しました。


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(235) 『壬申の乱の瀬田の戦いの場所は熊本県大津町の瀬田である』 2010年9月25日(土)

 壬申の乱では、瀬田の戦いで大分君稚臣が活躍する。

 大分君稚臣が活躍する瀬田は、滋賀県の瀬田では不自然であり、熊本県菊池郡大津町瀬田は納得できる。
 大津町瀬田と外牧の間の内牧橋-内牧橋の北から西の瀬田観音-瀬田観音付近の白川。

 滋賀県の瀬田唐橋は、瀬田長橋とも云われる。大分君稚臣は甲を重ねて刀を抜いて瀬田の橋を渡っている。甲を重ねて刀を抜いて長橋を渡りきれるであろうか。これは壬申の乱の最大の疑問といってよい。

 熊本県菊池郡大津町瀬田と外牧の間の内牧橋ならば、甲を重ねて刀を抜いて渡ることが信じられる長さである。
 壬申の乱の瀬田の戦いの場所は熊本県大津町の瀬田である。

 以上の瀬田の橋での戦いの比較は
大友皇子と鞠智城(壬申の乱は九州)日出島哲雄著《魚拓》
に書かれているものであるが、私も熊本がもとで、それを近江に置き換え、本来の近江の戦争は抹消したものと思ってます。


『大友皇子と鞠智城(壬申の乱は九州)日出島哲雄著』には、更に書かれているものであるが、菟田、大野、三重は、吉野からの天武天皇の逃亡先である。この東には海部郡がある。菟田、大野、三重に逃げた人物は大海人皇子だと思ってよい。

 ところが、吉野から菟田、大野、三重に行くには、近江宮(天子宮)と瀬田の近くを通るのである。

 「天武紀」上では、天皇と書かれた人物は、菟田、大野、三重に逃れた後に不破に入る。その後に瀬田の戦いがある。これは無理である。菟田、大野、三重から不破(鞠智城か高良山神籠石)に行くためには、瀬田と近江宮(天子宮)を通るのが最も楽であり、他の道は非常に困難なのである。菟田、大野、三重に行った大海人皇子と、不破(鞠智城か高良山神籠石)に入った天皇(高市皇子の父親)は、別人なのである。

 日本書紀の「天武紀」下には、草壁皇子、大津皇子、弓削皇子、舎人皇子の父親と、十市皇女、高市皇子、忍壁皇子の父親は別人であることが容易に分かる箇所がある。
 これは
【天武天皇は二人いた】《魚拓》
を参照。

 他にも熊本県には、『日本書紀』に出てくる地名が多い。壬申の乱に関する地名を調べてみると。
 ①島宮は熊本県菊池市七城町清水の島宮か熊本市島町。
 ②百済は熊本県八代市坂本町百済来。
 ③瀬田は熊本県菊池郡大津町瀬田
 ④山前は熊本県菊池市七城町山崎か熊本県宇城市豊野町山崎。菊池市七城町山崎は鞠智城の南である。宇城市豊野町山崎の近くには古い寺址と伝えられている浄水寺がある。
 ⑤稗田は熊本市稗田。
 ⑥龍田は熊本市龍田。
 ⑦菟田は大分県豊後大野市清川町宇田枝。
 ⑧大野は大分県豊後大野市大野町。
 ⑨三重は大分県大野郡三重町。
 ⑩越は熊本県合志市。
 ⑪大坂は熊本市河内町岳の大坂。
 ⑫尾張は熊本県山鹿市小原(おばる)か菊池市旭志小原(おばる)。
 ⑬美濃は福岡県久留米市の耳納山とその近く。耳納山の近くには高良山神籠石がある。
 ⑭天智紀に出てくる蒲生野は熊本県山鹿市蒲生。


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(236) 『九州王朝「倭国」は、いつ滅亡したか?』 2010年9月25日(土)

 九州王朝「倭国」は、いつ滅亡したか?それは日本書紀に書いてある。

◎『696年〔持統10年( 持統 高市即位7年):大化2年〕7月10日、後皇子尊『 x高市皇子x ・o高市天皇o』が薨じた。

 即ち「プロト大化改新」で、九州王朝「倭国」の末王・高市天皇が藤原不比等らに暗殺された時である。


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 では、大和王朝「日本国」は、いつ発足・開闢したか?それは、「続日本紀」に書かれている。

◎『697年〔文武元年:大化3年〕8月1日、(文武天皇が)x持統天皇から位を譲りうけてx(高市天皇を暗殺して)、皇位につかれた。

◎『698年〔文武2年:大化4年〕11月23日、大嘗祭を行った。


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とはいえ、国として正式に発足・開闢したのは大宝律令制定以降と言えよう。

◎『701年〔大宝元年:文武5年:大化7年〕3月21日、対馬嶋が金を貢じた。

◎そこで新しく元号をたてて、大宝元年とした。

初めて新令(大宝令)に基づいて、官名と位号の制を改正した。


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 なんと言うことはない。日本書紀に書かれている時代は、九州王朝「倭国」の時代だったのである。

 九州王朝「倭国」の時代を、さも、大和王朝「日本国」がずっと昔から奈良に都を置いて、全国を統治していたことにした。

 倭国・秦国の列島史、及び韓半島史を使ってでっちあげたものだったのですね。


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 九州王朝「倭国」がどういう経緯で滅亡に至ったか? 更に、大和王朝「日本国」が、いきなり、バトンタッチできたわけでなく、それには、いつ産声をあげて、どういう経緯で力強く成長したのかを解明したのが、

《大和王朝は難波副都で「天下立評」した九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ》

である。

参照
『これが倭国王最後の大嘗祭である』 と 『高市天皇の薨去はクーデターによる暗殺だ』


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(238) 『吉野ヶ里遺跡は九州王朝倭国の歴代の王墓だった。長江中流域に甕棺のルーツがある』 2010年9月26日(日)



 吉野ヶ里の堀は堀ではなく参道だという説がある。その参道の両脇には甕棺が規則正しく埋葬されていたというではないか。初代の卑弥呼の円墳には屋根が架かっており、それを遠望すると、象が背に笠をしてるようだったと。吉野ヶ里遺跡は九州王朝倭国の歴代の王墓だった。長江中流域に甕棺のルーツがある。



〔甕棺墓の源流は長江中流域か〕《魚拓》

甕棺墓の文化は、北部九州の極めて限られた地域で、弥生前期後葉から弥生後期初頭までの限られた期間、盛行した文化であることが分かる。



 吉野ヶ里遺跡は環濠集落だというもとに発掘されたが、果たしてそうだろうか、『環濠とされたV字断面は水路であり、丘陵に水を導き甕棺墓が列状に埋葬された墓地公園と離宮は緑に潤っていた。また内堀とされた部分は墓地公園中の参道である。』と「列島合体から倭国を論ず:米田良三著」で書いている。

 ①墓地について、志波屋四の坪地区は長さ600mに及ぶ800基以上の墓を発掘した。これ「以外の地区でも、吉野ヶ里丘陵地区Ⅱ区やⅢ区、吉野ヶ里Ⅰ区~Ⅲ区、吉野ヶ里丘陵地区Ⅴ区などで、甕棺墓を主体とする大規模な墳墓が列状に埋葬された墓地を発掘した。いずれの墓地も数百の墳墓からなる墓地であるが、これらの長大な簿列の中央には、墓道らしい空白地が設けられ、甕棺は、その両側に二列になって、整然と埋置されている。」そして「大規模な墓地でも小規模な墓地でも、周辺にもっと墓地が拡大するに充分な余地があるにも関わらず、墓域は拡大されず、累々と墳墓がつくられ続けている」

 ②墳丘墓について、「墳丘頂部は、甕棺墓が分布している南北27m、東西15mの長方形の平坦面になっており、その周囲は傾斜面となって南北40m、東西25mの範囲に盛り土がなされている」「墳丘墓内には14基以上の甕棺墓が残っていることが判明した。それらのすべての甕棺墓は、弥生時代中期前半から中頃のものですべて炭素で黒くぬられていた」そして紀元前1世紀に造られたとしている。

 ③弥生時代最大級の宮殿について、吉野ヶ里丘陵地区Ⅵ区の北内郭に、柱間が3間x3間(約12.5m四方)の群を抜く巨大な建物跡が発掘された。「この建物跡が、北内郭といった特別な区画内に、単独に近い状況で存在することは、この建物が重要で、特殊なものであったことをしめしているとみてよい。したがって、吉野ヶ里遺跡内の中枢的な建物、宮殿あるいは祭殿ではないかと考えている」以上は『吉野ヶ里遺跡:七田忠昭・小田富士雄共著:読売新聞社』抜粋。

 とまあ、筑後川・宝満川沿いに甕棺墓が集中するのだ。

 「列島合体から倭国を論ず:米田良三著」によれば、天照大神である卑弥呼と豊耜入姫命である壹与は吉野ヶ里に埋葬されていた。その後どのような理由からか、卑弥呼を離したのだ。そして脊振山地を越えた伊勢の国に伊勢神宮として祭ったのである。その後更に三重県伊勢市に天下立評頃に移築したとなる。


①日本で一般的なb遺伝子をもつイネは、朝鮮半島には存在せず、直接中国から渡来した品種に違いない。

②吉野ヶ里遺跡は九州王朝倭国の歴代の王墓であり、その北部九州に限られた甕棺墓は長江中流域の屈家嶺文化~石家河文化期にルーツがある。

③中国南部から離れるほど、お酒に弱い人は少なくなる。


 これらから、九州王朝「倭国」系の酒に弱い日本人はb遺伝子の稲、及び甕棺墓埋葬文化をもって揚子江中流域から、秦の始皇帝に追われるようにして、黄海を渡海し、直接北部九州に着岸・移住したということになろう。


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(241) 『巻向遺跡が「邪馬台国」の女王卑弥呼の宮殿であるかのような報道がなされましたが』 2010年10月2日(土)

   《earthfilm 時の窓“日本国の初期形成”邪馬台国の候補地奈良県桜井市の纒向遺跡。当遺跡は3~4世紀の集落跡。東西約2㌔、南北約1.5㌔。日本最古の巨大前方後円墳で大王墓とされる箸墓古墳など古墳出現期のもの集中。現在、95%が未発掘。今後、全容解明に向けて国の支援が望まれる!》 ⇒ おい・おい!

 巻向遺跡が「邪馬台国」の女王卑弥呼の宮殿であるかのような報道がなされましたが、これは学問的に全くナンセンスです。
〔古賀達也の洛中洛外日記〕第237話『巻向遺跡は卑弥呼の宮殿ではない』

 まー、正直どうころんでも、纒向遺跡が「邪馬台国」の候補地でないことは、はっきりしてるよね^^ でも、そう言わんと国の予算が取れないもんね。ブラジルへ移民して成功した方のお墓みたいなもんでしょう。RT @earthfilm“日本国の初期形成”邪馬台国の候補地奈良県桜井市の纒向遺跡。

 参考『吉野ヶ里の秘密』光文社 1章「邪馬台国」にトドメを刺(さ)す 古田武彦

 〔古賀達也の洛中洛外日記〕第237話 2009/12/06『巻向遺跡は卑弥呼の宮殿ではない(1)』

 ここからはじめようよ!
 『古賀達也の洛中洛外日記』
 古田史学の会のブロクです。
当会のホームページは難しいとの声が多いので、やさしく解説することを目的に、古賀事務局長が始めました。

 『古賀達也の洛中洛外日記』は、古田史学の会のブロクです。当会のホームページは難しいとの声が多いので、やさしく解説することを目的に、古賀事務局長が始めました。この日記を見て、考えることがございましたら、
「新・古代学の扉」
を覗こうよ

 実のところ私にもわからないのです。飛鳥・葛城の「秦国」王家として想定の蘇我氏は、『法興6年10月我が法王大王が〔葛城臣〕と伊予温泉に遊ぶ』・『隋書に〔秦王国あり〕』・『皇極元(642)年蘇我大臣蝦夷が葛城の高宮に祖廟を建て〔やつらの舞を舞った〕』・『筑紫舞に〔難波津より上りし翁〕』・『元興寺丈六光銘に曰く〔巷苛(蘇我)〕の伊奈米・有明子』等々の記事から、 《「秦国」王家の蘇我氏》 は、私が逆算して想定の合成造語です。日本書紀に「倭国」が抹殺・抹消されているということは、隋書の「倭国に附庸する」の「秦国」も消されてと考えます。編者達も色々相談したでしょう。

 お・おッー、強い味方。米田良三氏は伊勢神宮の移築前は加布里(私は神在)にあったと言います。RT @2000BMW740i 知人に山本さんの『九州王朝「倭国」』のリンク先を教えました。ひとりでも多くの方に知らせていきましょう。ちなみに私が今住んでいる所は昔の伊都国、周船寺辺りです。


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(242) 『強制起訴の後に無罪になった場合、誰がどう責任をとるのだろうか』 2010年10月4日(月)

 amneris84 小沢氏の場合、強制起訴されても無罪になる可能性が高いのではないか。けれども、被告人となることは、時間的にも金銭的にも相当の負担を強いられ、政治家としての活動も限られる。そうしたことについて、強制起訴の後に無罪になった場合、誰がどう責任をとるのだろうか。

 深読みかもしれないが、強制起訴の空白に、ピーナツ疑惑で政界復帰が危ぶまれていた田中角栄元総理と袂を分かち、1985年に創世会を旗揚げした竹下登のような人物が現れて、過去の人物にするだろう。RT @amneris84 強制起訴の後に無罪になった場合、誰がどう責任をとるのだろうか。


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(243) 『蘇我臣蝦夷らが、誅されるに臨んで、ことごとく天皇記、国記、珍宝を焼いた』 2010年10月5日(火)

さらに、日本書紀:乙巳の変の箇所には次のように書かれている。

『皇極4年(645年)6月(12日、韓人が蘇我臣入鹿またの名鞍作を大極殿で誅殺<詳細略>。)

 翌13日蘇我臣蝦夷らが、誅されるに臨んで、ことごとく天皇記、国記、珍宝を焼いた。船史恵尺(ふねのふひとえさか)は、すばやく焼かれる国記を取って、中大兄に奉献した。この日、蘇我臣蝦夷及び鞍作の屍を墓に葬るを許した』と書かれ、特に「誅されるに臨んで、ことごとく天皇記、国記、珍宝を焼いた」と記す。

 大臣である、別に残って良いではないか。では何故、蘇我臣蝦夷は天皇記、国記を全て焼く必要があったか。乙巳変の蘇我臣入鹿は「プロト大化改新」の倭国王・高市天皇だからだ。

 696年〔持統即位7年:大化2年〕7月10日、後皇子尊『 高市皇子 高市天皇』が薨じた。この記事は、倭国側の暗殺下手人:丹比真人嶋・安倍朝臣御主人・大伴宿禰御行。大和側の暗殺下手人:石上朝臣麻呂・藤原朝臣不比等。らによって倭国最後の王「高市天皇」が暗殺・薨去したもので、これこそが「本来の大化改新」「プロト大化改新」である。

 645年乙巳皇極4年6月12日の「乙巳の変」はこの「プロト大化改新」及び新羅「毘曇の乱」がモデルになっている、と考えるものです。

 「プロト大化改新」は、九州王朝「倭国」の滅亡した日でもある、のです。

 この「プロト大化改新」説は、私が“はじめて”のようだ。
今までの歴史家は、この事実に気付かなかったのだろうか。
知ってて、知らないふりしてたのだろうか?・・・・不思議だー!
ようやく、九州王朝「倭国」が、日本書紀に読めてきた。
日本書紀編纂の意図も、期せずに読めてきた。


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(246) 『朝日新聞」1959年7月13日付けの記事でしょうから、写真をご参照』 2010年10月7日(木)

 @tohyan 統計上は労働契約でも、実際の「募集」現場でおこなわれた不法行為は民間業者(もちろん朝鮮人もいた)によるものだった(ここには統計はない)が被害者からすると「日本」となるのは自然。国の記録といものの読み方注意は貴兄の古代史資料への姿勢とも通じるものと思いますが。

 何についておっしゃってるのか分かりませんが、たぶん、
「朝日新聞」1959年7月13日付けの記事でしょうから、写真をご参照。
RT @junjohnmat 被害者からすると「日本」となるのは自然

 junjohnmat @tohyan  省略しすぎました。失礼。黄氏著作と外務省の統計についての感想でした。

 朝日新聞切抜きは発行日が昭和34年1959.07.13日となっており、私が当時小学5年であり、この前後から近所に住む韓国人帰国が盛んになり、お別れに家に挨拶に見えました。北へは少し遅れて中学1年1961年頃と記憶してます。RT @junjohnmat 外務省の統計についての感想

 私のホームページ見て戴けましたか。著者のホームページには写真は駄目となっていても、内容が具体的には書かれていず、といって著書を具体的に紹介するには、てっとり早く。おっかなびっくりでして、著書の中の戦前の半島での朝日新聞記事の写真をぜひ見て欲しいのですRT @junjohnmat

 junjohnmat @tohyan  HP拝見しました。強制連行の有無と大半帰国後の残存者の理由とは直接関係しないと思います。大阪猪飼野などの早くからの定着者は経済難民だったでしょうから。60年以降の「帰国」は「地上の楽園」志向で、大半は戦後帰国していたと思います。戦乱をさけ密入国も多かったでしょう

 朝鮮動乱では600万人の方が亡くなったと言います。無条件降伏したからといって、朝鮮総督府は即日開放するのでなく、治安を含め適切に米占領軍に引継ぐべきだったし、そうしてれば、今日の南北の分断は無かったものと考えます。RT @junjohnmat 戦乱をさけ密入国も多かったでしょう








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