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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 005 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(201) 『そして改めて、「倭国は、更えて日本と号す。」について』 2010年8月23日(月)

 「日本書紀継体紀527年(継体21正和2)8月1日天皇は親しく斧鉞をとって、物部麁鹿火大連に授けて『長門以東は朕がとろう。筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え。ひんぴんと報告しなくともよい』 といった。」

 ⇒いままで、この句の背景になった史実が思い浮かばなく思案してたが、

 〔「朕」の継体天皇が中大兄皇太子の天智天皇〕で、〔物部麁鹿火大連が大海人皇子の天武天皇だ〕としたらどうだろう。

 大宰府倭兄王家の白鳳王薩夜麻が、百済復活白村江戦で敗れ、自身は唐軍に捕らえられてしまった。 その直後の難波複都倭弟王家の中大兄皇太子と大海人皇子との会話だとすれば、九州王朝倭国の難波複都で留守居の守備部隊「中大兄皇太子と大海人皇子」が、唐国の占領から本土防衛に立ち上がったと分かる。

 662年9月以降の早い時期に、難波で白村江敗戦の報を受けた、難波副都の倭弟王家(=プロト大和朝廷、この時は近江朝)の中大兄皇太子(=のちの天智天皇)は弟の大海人皇子へ 「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え、ひんぴんと報告しなくともよい」 と指示した。

 大海人は難波から筑紫へ急行し、倭国大宰府倭兄王家の残存部隊を結集し、留守居王権として筑紫島を防衛・確保、百済倭敗残兵・避難逃亡民の受入れ、さらには戦後賠償交渉しただろう。中大兄は九州島を除く本州・四国を実効・直接支配下に治め、これが後のプロト大和「近江朝」の基盤となった、だろう。

 「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え、ひんぴんと報告しなくともよい」⇒これが、白村江敗戦直後のプロト大和朝廷の中大兄と大海人との会話だとすれば、天下立評后の中央集権化で出雲・加賀・吉備・『秦国』・尾張・毛野(常陸)が解体した直後の即ち『長門以東』である。

 『三国史記新羅本紀「文武王十年十二月:670年倭國更號日本自言近日所出以爲名」で、「倭国は、更えて日本と号す。自ら言うに、日出ずる所に近し、以て名とする」倭国が日本と国号を替えたとある。』⇒この記事が史実ならば「倭国王難波分家の弟王家の近江朝」が独立し、新羅へ遣使したことになる。

 この時点670年で、倭王の白鳳王・薩夜麻は唐の都に捕虜として拘留され、倭国の都大宰府は倭王不在であった。九州王朝倭国の旧来からの本領地の九州島は唐が進駐し、占領していたわけで、「倭国は、更えて日本と号す。」などできなかっただろう。近江朝が倭国の弟王家で、その先祖が安羅王とわかる。


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(202) 『若しD因子が縄文人ならば半島の縄文人男性は全て抹殺されたとなる』 2010年8月23日(月)

 〔日本人の源流を探して『第3部:弥生文化と渡来人の登場』04.長江中・下流域からの直接の渡来〕《魚拓》
韓国人・日本人のルーツかも。

 日本のどぶろく、韓国のマッコリは酒に弱い人種向けの酒といえよう。酒を飲んですぐ真っ赤になる日本人、マッコリ飲んで良い気分になる韓国人、いずれも世界中広しといえども珍しい遺伝形質らしくルーツは中国長江下流域らしい。先に大連での話通り、中国の遼寧・吉林・北華・蒙古のいずれも酒に強い。

 女性のミトコンドリアからは、半島・列島には、縄文人を先祖に持つ民族が均一に今も住んでいる。ところが、男性のY染色体は半島・列島が全くの別人種かの如く表象を示す。特にD因子が列島に4割近く居て、半島にはほとんど居ない。若しD因子が縄文人ならば半島の縄文人男性は全て抹殺されたとなる。

 日本人の多くは半島の歴史、それも白村江戦以降は全く知らない。そういった『縄文系男性が全て抹殺された』というような事件があったのだろうか? だが、Y染色体D因子からはあったとしかいえないのだ。列島の縄文系D因子は、白村江敗戦で半島の避難・亡命者は平和裏に列島に移住し混血した言っている。

 要するに、女性のミトコンドリアからは日韓双方が同一民族を表わし、男性のY染色体からは特にD因子から異民族を表わす。白村江戦以降、半島の男性に起こった事件とは何だったのだろうか。

 私の場合は『乾杯とは飲み干す意味だから飲みかけでテーブルに置くなって』初対面の見目麗しい若い女性から、いきなりのクレームでしたからね、参りました。RT@junjohnmat 乾杯攻撃から逃げて逃げて行き着いたのが大和だ。酒席の与太話ですが、中国での乾杯にそうとうまいつたらしい。

 瀋陽の宴会の鉄則として乾杯要員を必ず1~2人同行させる。飲めないときははっきりそう宣言して飲まない。 中国人の領導幹部たちはそうしてましたね。結構ドクターストップかかったえらいさん多かったです。飲めるとわかったら徹底的に攻められます。 あとは日式乾杯でという手。

 いやいや、そんなの有りですか知りませんでした。だいたい中国で楽しいって食べる・飲む。


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(203) 『山口県内の文献に見える逸年号「寺社由来」『熊毛宰判呼坂村熊毛神社』』 2010年8月23日(月)

 九州年号の存在を疑って居られる方々に九州王朝倭国のお膝元の九州島は除いてその周辺の場所例えば山口県にどのように残っているか。
『古代は輝いていたⅢ古田武彦著』の巻末資料Ⅳ「山口県内の文献に見える逸年号」を参考に見てみよう。

中でも「寺社由来」熊毛宰判呼坂村熊毛神社を参考迄に書き出す。


◎「人王27代継体天皇御宇『善記』元壬寅歳(522)」

◎「神鏡之光其咸、詔而『知僧』六年改『金光』元年也(570)」

◎「其後『賢称』六年辛丑(581)之八月十一日、遠見八幡之神鏡、亀井山大戸道太神之神木飛来」

◎「其後『鏡常』五年乙巳(585)六月晦日、従同帝奉幣之勅使参詣之時、玉扉自開」

◎「『勝照』元年乙巳(585)六月仕神託令閉戸」


 まだ沢山ありますが切りがないのでこの辺でやめます。 参考までにわたしの労作
『九州年号・書紀天皇対比表』
をご覧ください。

 なお、《神鏡之光其咸、詔而『知僧』六年改『金光』元年也(570)》 の『金光元年』は東大寺が奈良へ移築される前に、倭薈王の菩提を弔う為、倭国の都・大宰府の東方の宇佐・小倉山麓の小倉池側に初めて建立の「東大寺 」の正式名称 「金光明四天王護国の寺」 の 「金光」に由来しています。


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(204) 『女帝の推古・皇極・斉明・持統・元明・元正・孝謙・称徳を並べ立てたのは唐への恭順』 2010年8月24日(火)

 統一新羅の事大主義をいくじなしとか・属国主義だと言って韓国をいびるのは止めようではないか。振り返って日本はというと、百済の復活戦を「豊璋」にのせられたとは言え、白村江まで出向き唐に惨敗したわけで、倭国が696年滅亡したあと、日本書紀が720年編纂されて皇統譜にありもしない女帝の推古・皇極・斉明・持統・元明・元正・孝謙・称徳を並べ立てたのは唐への恭順以外の何者でもないだろう。よほど怖かったといえる。

 其の後、半島は地続きで束縛が解けず、列島は対馬海峡のお陰で菅原道真がその束縛から解放を宣言できたということだろう。渤海が高句麗の親戚筋だといっただけではない。

 だいたい、これらの女帝の何人が実在の人物だろう。また、かりに実在の人物としてその存在価値は何だっただろう。唐から派遣の要人を女性がもてなすということはだれもが想像できょう。
 唐招提寺って名前の寺があるが、鑑真とか、でも違うだろう。唐の要人を接待するそれも女帝がであろう。

 平城遷都1300年祭なんてやってるけど、聖武天皇が東大寺を新築したとか、嘘もいい加減にして欲しいものだ。倭国の小倉山に金光元年570完成の時は間口が11間であったものを、7間に狭めて移築・再建したものだ。大仏は山陽路を運び首上を盧舎那大佛に作り替え、塗金も無くて宇佐八幡に泣付いている。

 東大寺大佛は蓮の花の開いた蓮肉の上に坐り、蓮肉のまわりを蓮弁が取巻く。上段は仰蓮、下段は反り花、上段の蓮弁には阿弥陀如来が毛彫りで刻まれている。左手に輪宝文、胸に卍文が描かれ、薬師寺の薬師如来にも胸に卍文、掌に輪宝文、足の裏に瑞祥文が描かれ、法隆寺の壁画にも輪宝文が描かれていた。


 九州王朝「倭国」の倭薈王は文身點面だったという。ようするに刺青をいれてたのだ、どんな刺青をか、「胸に卍文、掌に輪宝文、足の裏に瑞祥文を描いていた」と思われる。薬師寺・東大寺・法隆寺に同じ刺青の阿弥陀如来があるのだ。何故か祖王の倭薈王を偲んで九州の地に3寺共が建立されていたからだ。

 左の写真は「逆賊磐井は国父倭薈だ:米田良三著」の本の中に掲載の写真を更に携帯で取り込んだもので「胸に卍文、掌に輪宝文、足の裏に瑞祥文を描いていた」かが、良く判読できないかもしれませんが、読者自身が実際に3寺を訪ね確認されては如何でしょう。

 この写真を見ると倭国の小倉山にあったときの大仏は柔和な顔立ちだったのでしょう。

 統一新羅の事大(=大に事つかえるの意)主義をいくじなしとか・属国主義だと言い韓国のいびるのは止めよう。白村江戦で勝ち残った統一新羅が嫌われ、負けて亡国の憂き目を見た百済が好かれる。それは1300年も前の戦争で、事大が言葉・制度を中華に似せ、属国というむごい歴史を歩まされたからだ。

 そして、それを知ってる者は口を噤み、百済の復活を夢見る。 〔確かに桓武天皇は百済並王(こにきし)の出身でもあるが〕 知らされていないものは、無邪気に日本の合邦の所為にする。日本人は触らぬ神にたたり無しで「曖昧な許しを乞う」、菅首相はその「曖昧な許しを乞う」ことでお茶を濁したのだ。


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(205) 『長門城及び屋島城は近江朝が九州王朝倭国から実質的に分離・独立したが為に必要になった』 2010年8月26日(木)

 667年天智6年3月19日、「プロト大和の近江朝(=難波副都倭弟王家)」が倭国から実質的に分離独立、筑紫都督府(=大宰府)の唐進駐占領軍が瀬戸内海を通って難波京を急襲すればひとたまりも無い、この侵略予防の為、暫時、難波京から近江京へ遷都。同時に、中大兄皇太子は天智天皇として即位。

 天下立評の為の難波京は好位置だった思うが、難波副都倭弟王家が近江朝として、九州王朝倭国から実質的に分離独立したとなると話は別だ。筑紫都督府(=大宰府)の唐進駐占領軍が敵として、瀬戸内海を通って難波京を急襲すればひとたまりも無い。667年天智6年11月、讃岐国山田郡の屋島城を築く。

 参照
『私の写真日記:屋島城跡』《魚拓》
:この屋島城は近年その存在が脚光を浴びていますが、先の『石城山遺跡は「長門城」であった』と同様、長門城及び屋島城は近江朝が九州王朝倭国から実質的に分離・独立したが為に必要になったと考えられます。

 〔蟹は甲羅に似せて穴を掘る〕 結局、自分もそうだったんだなー。耳にやさしいtwitterは聞いても気に入らないと耳ふさいじゃうからなー。

 私の場合、隋書・旧唐書の云う九州王朝「倭国」の滅亡経緯と、701年(大宝元年)文武5年(九州:大化7)正規に開闢する大和王朝「日本国」が、その助走期間(プロト大和朝廷)を何時から、どういう経緯を経て成立したか?「粗雑な構成」の日本書紀が垣間見せる史実らしき行間から、探ることです。

 参照
《百済王家と天皇家をむすぶ「石城山城」の謎》《魚拓》
 の「まえがき」には、『倭国に進駐してきた唐・新羅連合軍は、太宰府に筑紫都督府(占領軍司令部・GHQ)を構えて倭国支配を始めたが、やがて新羅は畿内にあった秦王国を併せて「日本国」をつくり日本列島の支配権を自分たちのものとした-これが奈良朝廷の実体であろう。』と書かれている。

 この松重正氏・鹿島昂氏の意見は、文武天皇が新羅の文武大王で、大化改新が新羅・毘曇乱の写しとするとさもありなん。然し、秦王国が日本国になっただろうか?

 すなわち、日本で一般的な、b遺伝子をもつイネは、朝鮮半島には存在せず、中国大陸の品種に存在する。したがって、日本のb遺伝子をもつイネの品種は、直接中国から渡来した品種に違いないというのである。⇒幼少のミギリ喰った山口の田舎の米は、まっことうまくなかったが、新潟米はなんでうまかと~

 いやー、twitterでだれかさんをフォローしたら、とたんに回覧板みたいなのがドッサッときだして・来るは来るは、で読みきれずに消化不良。当人の意見ではなくて、回覧板がほどんど、当人の意見がききたいのだが残念解除した。まー、政治家の毎朝の『おはようございます。』も同じようなものか。


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(206) 『法隆寺釈迦三尊の光背銘には九州年号『法興』が並行してあった』 2010年8月28日(土)

 法隆寺釈迦三尊の光背銘には、

『①法興元31年、歳次辛巳(621)12月、鬼前太后崩ず。
②明年(622)正月22日、上宮法皇、枕病して悆からず。
③干食王后仍りて、以て労疾し、並びに床に著く。
④時に王后・王子等、及び諸臣と与に、深く愁毒を懐き、共に相発願す。
⑤「仰いで三宝に依り、当に釈像を造るべし。尺寸の王身、此の願力を蒙り、病いを転じ、寿を延べ、世間に安住せんことを。若し是れ定業にして、以て世に背かば、往きて浄土に登り、早く妙果に昇らんことを」と。〔四字十句〕
⑥2月21日、癸酉、王后、即世す。
⑦翌日(2月22日)、法皇、登蝦す。
⑧癸未年(623)3月中、願の如く、釈迦尊像並びに挟侍及び荘厳の具を敬造しおわる。
⑨斯の微福に乗ずる、信道の知識、現在安穏にして、生を出で死に入り、三主の随奉し、三宝を紹隆し、遂に彼岸を共にせん。六道に普遍する、法界の含識、苦縁を脱するを得て、同じく菩提に趣かん。〔四字十一句〕
⑩使司馬・鞍首・止利仏師造る』

 以上で分かるように、法隆寺釈迦三尊の光背銘には九州年号『法興』が、九州年号 623年(癸未)の仁王元年と並行して『喜楽ー端正ー始大哭(始大)ー法興』があった。と、「古代は輝いていたⅢ:古田武彦著」は紹介している。

 なお、この九州年号『法興』が『法興寺』の起こりであり、異字同意の『法隆寺』の前身であると考える。

 法隆寺釈迦三尊の光背銘は、それにしてもすごいなー、というか何度読んでも飽きない。これって何なのだろう。不思議だー、気品があるというか。四字何句で韻を踏んでるとか・踏んでないとか、書く方からすれば窮屈だっただろうに。チンプンカンプンだが、美しーい、ん、否、気品があるんだな。きっと。


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(207) 『昼間の刺青は萎びて見るも無残でしたが、風呂に入るとお湯で光沢が出てきれいになるんですね』 2010年8月30日(月)

 昨夕宴会前に川崎駅近くの銭湯 政の湯へ。 周辺は特殊浴場ばかり。浴場は混んでいて、全身見事な彫りもんの方方。少し緊張する。しかし子連れで 『パパが洗ってあげる』と発言されていた。 刺青とぱぱのミスマッチに、緊張緩む。

 私が小学校へ上がる前、家の郎党に代わる代わる五右衛門風呂へ一緒に入れてもらってました。昼間の刺青は萎びて見るも無残でしたが、風呂に入るとお湯で光沢が出てきれいになるんですね。ボンはこんなもん入れるんじゃないぜ、って言われました。硫酸で消そうとしたとかね。

 九州王朝「倭国」の倭薈王(=筑紫君磐井)が「胸に卍文、掌に輪宝文、足の裏に瑞祥文」の刺青を描いていたという、やくざな王様だった。これが奇しくも薬師寺の薬師佛、東大寺の大仏、法隆寺の焼けた壁画に描かれている。この刺青から3寺は元々九州に地に建っていたのを奈良へ運び移築したと分かる。

 『本格的な浄土信仰が623年以前に上陸していたとも考えられますね。』⇒ いえ私はそこ迄言っていませんが、この九州年号見ただけで浄土信仰迄直感されるとはすごいです。米田良三氏は534年倭薈王を偲び「薬師寺東塔」は建立されており世界最古の木造建築だと言っていますよ。

 私は工学系で仏教のことはとんと知りません。「逆賊磐井は国父倭薈だ:米田良三著:定価2500円」は阿弥陀信仰のこと、薬師寺・長谷寺・東大寺・法隆寺のことを詳しく紹介しています。ぜひご購読されますようお勧めします。

 私は薬師寺の東院堂の方が古いと、どうでしょうね。まーいずれにしても書紀の言う仏教伝来日時等は葛城・飛鳥の秦国の史書の転記と想像してます。日本書紀が徹底して「倭国」「秦国」を無かったものとし、上宮皇(=法興皇)は聖徳太子に擬えて、秦国は日本へ置き換えてますね。

 「昼間の刺青は萎びて見るも無残でしたが、風呂に入るとお湯で光沢が出てきれいになる」これは知りませんでした。銭湯での会話のネタに使わせて貰います。

 今のはタツーと言うんですかね、ある狭い場所にハートとか入れてますが、当時のは背中一杯でしたね。若気の至りでっていうぐらいで、入れたときは肌もプリプリしてたでしょうが、私の見た頃は40-50代でしたでしょうから、まー萎びてたんでしょうね。


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(209) 『〔 大和朝廷「日本国」出生の秘話 』〕 
2010年8月31日(火)

 ホームページとは別に、ここでtwitterした内容を都度羅列していたが、使える内容をホームページに追加すると冗長になり困っていた。思い切ってアレンジした。
〔 大和朝廷「日本国」出生の秘話 〕

 日経平均年初来安値8824.06(-325.20)更新。やれやれ、日銀め!いい加減なことするな。まったく。


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(210) 『「評と郡」・「都督と評督」・「天下立評」における「わたしの理解」について』 2010年9月1日(水)

 九州王朝「倭国」王の 珍 が、438年、中国・宋に朝献し、自ら「使持節 都督 ・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍 倭国王」と称し、宋文帝によって「珍安東将軍倭国王」と認めらた時点で、既に「都督と評督」制が行われていたと分かる。

 この時点での九州王朝「倭国」の「都督と評督」制の実施範囲であるが、その直轄地の「筑紫(=九州)島」、のほかに半島の「任那」において施行されていた。

 また、この時代の本州・四国地区は、九州王朝「倭国」が征服途上であるが、征服後も直轄地ではなく、後に倭国附庸王国「出雲・加賀・吉備・『秦国』・尾張・毛野(常陸)」となる間接統治の連邦附庸王国制が採用されていたと考えられる。そのため、本州・四国地区については、その後も「都督と評督」制は採用されていなかった。

 その約200年後は、隋・唐がしつこく高句麗の侵略を繰り返し、やがては百済・倭国へとその矛先が向いてくると予想した九州王朝倭国の「天帰王(あまぎ・甘木)」が正木裕氏の言う「常色の改革」を推し進める一環として、「天下立評」があり、造複都「難波京」の建設詔649年10月が発せられ、652年「難波京」完成を祝って「白雉改元儀式」が大々的に挙行された。すなわち、本州・四国地区においても「都督と評督」制が採用された。「天下立評」とは、天下(=本州・四国地区)の立評(=評制施行)である。さらに、「天下立評」は「難波京」に常駐の九州王朝「倭国」の分家「難波副都倭弟王家」の一任で実施された。

 九州王朝「倭国」の末王「高市天皇」が、「プロト大化改新:696年」この評制を郡制へ改新しょうとしたが、想いなかばにして「プロト大和朝廷(=九州王朝「倭国」の分家「難波副都倭弟王家」)」の者にクーデターで暗殺されて、九州王朝「倭国」は696年滅亡する。

 この「郡制施行(=建郡)」は九州王朝「倭国」のあと、クーデターで実権を握った大和王朝「日本国」に引継がれ、開闢と同時の701年実施された。「プロト大和朝廷」は九州王朝「倭国」の分家「難波副都倭弟王家」であり、「常色の改革」の一環としての「天下立評」は自らの祖王の事績でもあったのだが、九州王朝「倭国」の抹殺と同時に、「天下立評」も無かったことにし、一足跳びに、「郡制施行(=建郡)」の「大化改新」へと置き換えたしまった。

 以上の〔「評と郡」「都督と評督」「天下立評」ついて〕は
 『古代史再発見第2回:王朝多元―歴史像―古 田 武 彦 :1998年9月26日(土)大阪・豊中解放会館』
を参照しています。

 あれっ・れ、も・もうGoogleに登録されている。これじゃとてもYahooは太刀打ちできない。「評と郡」「都督と評督」「天下立評」における「わたしの理解」ついては、つい2時間前にアップしたものだ。

 九州王朝倭国「天帰王」が「常色の改革」の一環として実施の「天下立評」が倭国の「出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野(常陸)」連邦附庸各王国へ与えたであろう衝撃の大きさが想像できます。この間一髪の「常色の改革」によってこそ、九州王朝倭国が分家ではあっても「プロト大和朝廷」として存続・継続し得たものと言えます。


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(211) 『米田良三著「法隆寺は移築された」』 2010年9月2日(木)

 当初、九州王朝「倭国」と大和王朝「日本国」が別系統の敵対する王朝という見方で、倭国の九州北部から奈良の地へ強奪・移築されたと考えていて、とてもショックを受けていました。が、大和王朝「日本国」が九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だと分かり、更に「移築」の言い出しっぺが九州王朝「倭国」の末王の高市天皇だとしたら納得できるというものだ。

 米田良三著「法隆寺は移築された」は、古代史を解明するうえで、すばらしくも画期的です。なんと 法隆寺は、九州王朝「倭国」の版図より「移築」されていた。 なお、この著書の中で移築元が、大宰府「観世音寺」だとする説については、その後、「異論」も出されているが、この「異論」に対しては、私は「九州倭国の法興寺を法隆寺へ移築し、その跡地に観世音寺を造った」と考えています。

 法隆寺の移築元の云々はさりながら、彼は「藥師寺」・「東大寺」が、宇佐八幡宮にほど近い倭国の聖地・「小倉山」より移築されたもの。「東大寺」の正式名称「金光明四天王護国の寺」の「金光」は「倭国の元号」であり、「金光元年(西暦570年)」に完成していると言い。また、『これまで世界最古の木造建築とされていた法隆寺(前身=法興寺)の創建は607年であり、これより73年前の534年に造られた「薬師寺東塔」が、これから世界最古の木造建築とされよう。』とも述べています。

 さらに、『今に残る、法隆寺・東大寺・薬師寺・長谷寺・法輪寺・法起寺・興福寺・東福寺・三十三間堂・桂離宮・吉野宮(吉野ヶ里からの移築)・伊勢神宮等々、これらあまたの建物が、九州倭国より移築されたものである。』 と述べています。

 確かに北部九州の、特に宇佐から大宰府、更に吉野ヶ里にかけて「虚空蔵寺・法鏡寺・相原・垂水・椿市・木山・上坂・天台寺・大分・塔之原・井上・観興寺・塔之塚・大願寺・晴気」などの「…廃寺跡」が数珠のごとく連なって残されてます、ごっそり倭国から大和へ移築されたのでしょう。それはまた何故?私に限らず興味の引かれるところです。


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(212) 『「源氏物語」 と 「桂離宮(=桂殿)」』 2010年9月2日(木)

 さらに信じられないとお思いでしょうが、平安時代を代表する 『「源氏物語」はもともと九州「倭国」を舞台にした作品で、平安時代に紫式部により今風に手を加えられ世に出たもの、「源氏物語」の本来の中心は京都ではなく、九州王朝の嘗ての都・太宰府都城であり、時空的にはさかのぼること法興寺(=観世音寺の前身)創建の西暦607年以降で、倭国が滅亡する672年までの間と限定できる。』 とものべています。

 「源氏物語」の舞台であるそのロケーションはというと、☆難波が現在の博多、☆住吉大明神は博多駅の南西にある住吉神社、☆田蓑島は、住吉神社の南にある美野島、☆難波の浦とは袖の湊、☆伊勢は加布里の隣・大石あたり(私は神在あたり)、☆須磨は今津湾の周船寺あたり、☆明石は須磨の隣・姪浜あたり、☆逢坂の関は関屋あたり、☆吉野は佐賀の遺跡のある吉野ヶ里あたりと比定されてる。紫式部と原著作との距離・方向・位置・気候の微妙な感覚差が伝わりましょうか。雪が降る情景の京都から吉野は無理でも、大宰府からは吉野ヶ里も降ってるとわかるその違いです。

 『「源氏物語」で桂殿はどのように語られているのか見てみよう。源氏は須磨、明石とわびしい日々を送られた。そこで明石の君と出会われ、姫君がお生まれになる。源氏は明石の君の上京を促される。明石の君のために入道(父)は京に住まいを用意する。その場所は「大堰川の近く」「大堰」と表現される。そしてごく近いところに「桂殿」がある。「大堰」とは現在の「水城」であろう。

 桂離宮(=桂殿)は、光源氏が教養を併せ持つ実在の皇子であり、皇子自らが建築・施行したものであり、ずっと後代「源氏物語」の愛読者であった八条宮智仁親王が徳川初期の1600年代に、大宰府水城(=大堰)で奇跡的発見から京都の桂川のほとりへ移築したもの。』 とのべています。

 思うに、源氏物語の原書は620-640年代の九州王朝「倭国」の最盛期に皇子の光源氏のお付きの供人、それも男によって書かれたものだろう、今の大宰府からは当時の倭国の都の大宰府を想像するのはかなり困難であるが、当時日本総人口が500-600万人といわれているから推して知るべきだろう。


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(213) 『韓国と日本は対馬海峡を挟んで対岸にいる。しかし、世界のどんな人種よりも一番近しい』 2010年9月3日(金)

 〔日本人になった祖先たち:篠田謙一著〕は、『これまでの人類学の理論は弥生時代になって急に朝鮮半島との間に交流が生まれたような印象を与えるものでした。が、DNAの相同検索の結果を見る限り、朝鮮半島にも古い時代から縄文人と同じDNAを持つ人が住んでいたと考えるのが自然です。』という。

 韓国と日本は対馬海峡を挟んで対岸にいる。女性の遺伝子ミトコンドリアからは、ほぼ同じ民族である。男性のY染色体からは縄文人形質のDハプログループにおいて、日本人はその40%が温存し、半島人はそのほとんどを大陸系の人種に奪われて絶滅している。しかし、世界のどんな人種よりも一番近しい。

 お袋の、お袋の、またそのお袋と辿ってゆくと、韓国人と日本人は同じ民族となり。親父の、親父の、またその親父と辿ってゆくと、韓国人と日本人は異民族ということになる。女性は一生で産む子供の数は限られ、男性ははるかに多くの子孫を残せる。韓半島の征服者は女性を独り占めしたということだろう。

 朝鮮半島にも古い時代から縄文人と同じDNAを持つ人が住んでいたとすれば〔日本語の正体(:金容雲著)〕の言う『日韓語について多くの韓国人は「現韓国語がオリジナルで、現日本語はその変形だ」と誤解するひとが少なくありません。しかし音韻を増やした韓国語の方が大きく変わり、昔ながらの音韻範囲をほとんど維持してきた日本語の方が原型に近いものが多いのは事実です。』が納得できます。

 ただ副題の「倭の大王は百済語で話す」は九州王朝倭国の筑紫へ人質を送ったのは百済である、倭王が百済語を話すわけが無いだろう。新羅の金春秋が倭国・秦国へ来て、良く談笑したと言う、倭国語で話したのだ。

 さらに、その副題は『日本人はどれほど努力しても中国式の漢字がソリがあわず、むしろ王仁が伝えた訓読を日本式として確立する道を選んだのです』で、「漢字とソリがあわず」はもっともとして、「王仁が伝えた訓読」とは如何な方法だろう。

 漢文の返り点のことを言いたいのだろうか、「難波津の歌」を例に上げているが、「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」が法隆寺の五重塔の天井板に大工が「色は匂えど散りぬるを我が世・・」の前の手すさびを完成真近書いた。というが、この難波津は博多港であり、法隆寺へ移築される前に大宰府に法興寺が完成ま近の617年頃と知ってだろうか。

 『列島合体から倭国を論ず:米田良三著』第3章博多論「大鷦鷯(おおささぎ)の帝」の項に詳しい。大鷦鷯帝は仁徳天皇であり倭讃(いさん)のこと、この「難波津の歌」は聖帝倭讃を称える歌であり400年代初頭に作られ、歌の手習いの基本として600年代初めには工匠が落書きするほど広まっていた。

 『旧唐書:倭国伝』には、『地多女少男 頗有文字 俗敬佛法(=土地には、女が多く男が少ない。たくさん文字があり、習俗は仏法を敬う)』とある。このすこぶる文字多しとは、当時既に、ひらがな・カタカナ・サンカ文字・ハングルの元のアビル文字・漢字などが九州倭国、都の筑紫・大宰府にあったのだ。


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(214) 『土地には、女が多く男が少ない。たくさん文字があり、習俗は仏法を敬う』 2010年9月5日(日)

 歴史には詳しくないのですが、我が国自ら自国のことを倭と称したこともないし、卑弥呼なる人物が自ら卑弥呼と称したことはないのではないでしょうか。漢字が日本に紹介されていい意味の言葉でないことが分かったのではないでしょうか。古事記日本書紀には倭という漢字は使用されていないのでは

 『古事記日本書紀には倭という漢字は使用されていないのでは』⇒古事記は編纂后何故ボツにされたか、にも関わらず720年日本書紀の編纂の詔がだされたのか
『「持統紀」はなかった:飯田満麿著』
を参照方。

 『我が国が自国のことを倭と自称したこともない』⇒卑弥呼が自称したとは書かれていません。古田武彦氏は邪馬台国の臺は壱と書かれている。私は「やまいちこく」「やまゐこく」次の女王は壱与(ゐよ)ですが、壱が倭の自称の最初といっていますね。そのまま、自称を壱国のままだと良かったでしょうにね

 作家井沢元彦さんは、邪馬台国、倭国という言葉に解説されていますが、全面的に同意出来ます。博覧強記の松本清張まで邪馬台国がどこかに、存在していたと思っていたらしいことにいささか驚いています。i

 邪馬台国がどこかに、存在していたと思っていたらしいことにいささか驚いています。i ⇒おやおや存在してないとお考えのようですね^^世の中広いですからね。ということは、今迄一度も、私のtwitter読まれていないか、理解されていないかですね。私のホームページは九州王朝「倭国」ですよ。

 了解しました。いろいろとご教示ください。中国の史書は証拠や原典がはっきりせずなんとなく信頼性に疑問を持っています。

 『旧唐書:倭国伝』には、『地多女少男 頗有文字 俗敬佛法(=土地には、女が多く男が少ない。たくさん文字があり、習俗は仏法を敬う』とある。このすこぶる文字多しとは、当時既に、ひらがな・カタカナ・サンカ文字・ハングルの元のアビル文字・漢字などが九州倭国、都の筑紫・大宰府にあったのだ。

 鹿島昂氏は『司馬遷は儒者を代表して史書を作ったのだが〔儒者とはジュー、ユダヤ人である〕〔中国史はオリエント史の翻訳である〕〔中国史の黄帝とサルゴンは同一人である〕〔夏はウルク、ウル、殷はシュメールのイシン、周はアッシリア、晋はバビロン、秦はペルシャ、魯はイスラエルである〕』と書く。

 羽之が残した不滅の史書は「夏はウルクである」と記してあり、遼の滅亡後山東省のラマ寺に伝えられ、浜名寛祐によって鮮烈によみがえった。また朝鮮半島では先史時代にインドから中国大陸に渡来した人々が兵乱を避けて移住し、多くの史書を残していたが、そのなかから扶余以降の史書と共に「桓檀古記」が 作られた。

 もちろん、これらの史書によっても古代史のすべてを理解するためには神の恵みと優れた洞察力が必要であろう。然し、幸にもわれわれは、『史記』と『日本書紀』のみが史書であるという理解しがたい妄想にとらわれた人々が、排除し、理解しない、いくつかの高貴な史書をもっている。という。

 古代史の文献資料の参照はここが一番でしょうね。私はいつもお世話になっています。
古代史獺祭

 検討しましたが、やはり葛城飛鳥の秦国というのがどうも把握できませんです。困りました。

 検討しましたが、やはり葛城飛鳥の秦国というのがどうも把握できませんです。困りました。⇒隋書・旧唐書の正規外交文書に記載の『倭国』及び『秦国』は、大和王朝『日本国』が701年開闢しますが、その出生の経緯を日本書紀がなんとしても唐国に隠す必要があった為でしょう。

 鹿島昂は言う、『「桓檀古記」等の史書によっても古代史のすべてを理解するためには神の恵みと優れた洞察力が必要であろう。然し、我々は、『史記』と『日本書紀』のみが史書であるという理解しがたい妄想にとらわれた人々が、排除・理解しない、いくつかの史書をもっている』


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(215) 『「北朝」は滅亡していた!! 南北朝秘史』 2010年9月6日(月)

 『日本は万世一系の御皇室を頂き、歴史に断絶がない』⇒おい・おい ちゅうか、やれ・やれ ざんすね。
「北朝」は滅亡していた!! 《魚拓》

 更に、「明治天皇」は暗殺されていた《魚拓》
『裏切られた三人の天皇』・『明治維新の生贄』  


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(216) 『Jew =儒とはこじつけの最たるものではないでしょうか』 2010年9月7日(火)

 鹿島昂氏の本は書店で見かけたことがあります。トンでも本の典型ではないかと思っていました。Jew =儒 とはこじつけの最たるものではないでしょうか。モーゼの思想と儒学とは根本的に違うように思えるのですが。

 『Jew =儒とはこじつけの最たるものではないでしょうか』確かに一見こじつけと受け取られて最もと思いますよ。でもね、書紀が隠してる史実を大きな視点にたって解きほぐしたのは鹿島昂をおいて語れません。古田武彦氏が邪馬「臺」でなく、邪馬「壹」だと実証的にアプローチしたとは別方法ですが。

 早速のコメントありがとうございます。邪馬「臺」国か邪馬「壹」国がどうして重要なのか。吉田さんの書籍をみながら考えていました。熟読はしていないのですが。

 インドの神様のマハカラ神が大黒様、クンビーラ神が金比羅様で他にもありますが、イランペルシャの拝火教が阿蘇神社に伝わり、ユダヤ・キリスト・イスラムのその前に牛頭神の信仰が地中海にあって、それが日本の神道の起こりとか、アケメネスペルシャ大秦国の始皇帝が東征して秦を建国とかは壮大です。

 逆に聞きますが、もし史実を日本書紀が語っているとすれば、なぜ古事記を無き物にする必要があったのでしょうね。古事記の記載内容と同じか正しければ、別に隠す必要も無かったわけでしょうし。古事記に記載無く、日本書紀に記載ある箇所は嘘でしょう、壬申乱とかは従軍記者が書いたみたいに詳細です。

 九州王朝「倭国」の甘木王(=常色王・白雉王)が、645年唐が隋の敗退後、再度しつこく高句麗を攻撃したと聞くに及んで、こりゃー大変だ、高句麗の後は百済・倭国と攻撃されるとして、647年即位後来るべき対唐戦争に備え思い切った処置をした。これが「常色の改革」で難波京造都・天下立評である。

 この「天下立評」以降、伊勢王の倭国分家の弟王家が倭王の代理で難波京に常駐した。この伊勢王の分家が「近江朝」であり、浄御原京の「天武朝」であり「プロト大和朝」である。日本書紀はこの辺の史実を34年ずらして「ちら・ちら」っと書ているが、「常色の改革」以前は半島・列島史の切り貼りだろう。

 『続日本紀』によると、714年2月10日令撰修 国史(=『日本書紀』)とあり、この年に編集開始、その完成は『日本書紀』撰上の720年とある。この6年間で、持統天皇以前をでっち挙げたことになる。右往左往の大変な作業だっただろう。だれに見せる為か、当然、唐朝の王にである。漢文だった。

 『持統紀はなかった:飯田満麿著』
は言う、
〔特筆すべきは、「新唐書:東夷伝」に神武以降光孝まで58代の日本国天皇名を記載している事である。
 このように他国の王朝歴代の王名表を正史中に記載する場合、その原資料は当然相手国の奉呈した国書中の記載による筈である。
 『新唐書』の場合、これは恐らく長安(701)の粟田真人奉呈の国書、によったと推定される。この時の日本国王名表は、当然和風諡号だった。これは「唐」側として、甚だ意思疎通に欠けるもので、不満の意が表明されたと思われる。
 この事態を受けて、「近畿王家」は大陸の風に倣って急遽漢風諡号を制定した。これは「唐」側に記録されている、開元初年(713)の粟田真人を正使とする遣唐使によって報告されたと推定される。
 但しこの開元初年の遣使記録は日本側には記録されていない〕

 たぶん、こうだろう『九州王朝「倭国」と大和王朝「日本国」が兄弟王朝でない』と言うが、若しそうならお前達の歴史書があろう次回持参せよと。

 〔「近畿王家」は大陸の風に倣って急遽漢風諡号を制定した。これは「唐」側に記録されている、開元初年(713)の粟田真人を正使とする遣唐使によって報告されたと推定される。〕

 漢風諡号王名表に留まらず、歴史書はどうした?持ってきただろうそれを出しなさい。なんだ持ってきてないのか。やっぱり、倭国・日本国は兄弟王朝だろう。ならば、白村江戦後賠償金を払え。いえ、違います兄弟王朝では有りません。次回には必ず。で、翌年の日本書紀編纂指令714年がでたのだろう。

 『古事記・日本書紀についてはまだ解明されていない部分が多いのでしょうね。歴史学者は何をもって推測したり断定するのでしょうか。』
 ⇒ 、これ以上解明のしょうがありませんがね、虚構の実態があからさまになるだけです。後は、大量の移築物件・大量の天皇前方後円墳の言い訳をどうするかですが。 @hoshikuzu『「桓檀古記」は確かに面白いのですけれど、偽書扱いですよね。』⇒おっしゃるとおりですが、同じような意見がありここに纏めました。
『Jew =儒とはこじつけの最たるものではないでしょうか』


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(217) 『〔新唐書「日本」は言う〕』 2010年9月9日(木)

 日本古倭奴也 去京師萬四千里 直新羅東南在海中島而居 東西五月行南北三月行 國無城郭聯木爲柵落 以草茨屋 左右小島五十餘皆自名國而臣附之 置本率一人検察諸部 其俗多女少男 有文字尚浮屠法 其官十有二等 其王姓阿毎氏

 自言初主號天御中主 至彦瀲凡三十二丗 皆以尊爲號 居筑紫城  彦瀲子神武立 更以天皇爲號徙治大和州 次曰綏靖 次安寧 次懿 次孝昭 次天安 次孝靈 次孝元 次開化 次崇神 次垂仁 次景行 次成務 次仲哀 仲哀死 以開化曽孫女神功爲王 次應神 次仁 次履中 次反正 次允恭 次安康 次雄略 次清寧 次顯宗 次仁賢 次武烈 次繼體 次安閑 次宣化 次欽明 欽明之十一年 直梁承聖元年 次海達 次用明亦曰目多利思比孤 直隋開皇末始與中國通 次崇峻 崇峻死 欽明之孫女雄古立 次舒明 次皇極

 其俗椎髻無冠帶 跣以行幅巾蔽後 貴者冒錦 婦人衣純色長腰襦結髪于後 至煬帝 賜其民錦綫冠飾以金玉 文布爲衣 左右佩銀長八寸 以多少明貴賤

 太宗貞觀五年 遣使者入朝 帝矜其遠 詔有司毋拘歳貢 遣新州刺史高仁表往諭 與王爭禮不平不肯宣天子命而還 久之 更附新羅使者上書

 永徽初 其王孝即位改元曰白雉 獻虎魄大如斗碼碯若五升器 時新羅爲高麗百濟所暴 高宗賜璽書 令出兵援新羅 未幾孝死 其子天豐財立 死 子天智立 明年 使者與蝦人偕朝 蝦亦居海島中 其使者鬚長四尺許珥箭於首 令人戴瓠立數十歩射無不中 天智死 子天武立 死 子總持立

 咸亨元年 遣使賀平高麗 後稍習夏音惡倭名更號日本 使者自言國近日所出以爲名 或云日本乃小國爲倭所并故冒其號 使者不以情故疑焉 又妄夸其國都方數千里 南西盡海 東北限大山 其外即毛人云

 ざっと見ただけで見慣れない天皇名が挙げられている。次の天皇名である。「海達 目多利思比孤 天豐財(?斉明天皇) 總持(?持統天皇)」 これらは、その時迄にはまだ揉めてて決めかねていたのだろう。

 〔新唐書「日本」は〕 ・・次皇極」 で一旦文を終え、『永徽初 其王孝即位 (略) 未幾孝死 其子天豐財立 死 子天智立 明年 使者與蝦人偕朝 蝦亦居海島中 其使者鬚長四尺許珥箭於首 令人戴瓠立數十歩射無不中 天智死 子天武立 死 子總持立』と「プロト大和朝廷」を簡潔に述べる。

 和風諡号に天□を持つ5代の天皇とは、皇極:天豊財重日足姫(あまとよたからいかしひたらしひめ)・孝徳:天万豊日(あまよろずとよひ)・斉明:天豊財重日足姫(あまとよたからいかしひたらしひめ)・天智:天命開別(あまみことひらかすわけ)・天武:天淳中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)である。

 私はこの日本書紀の言う、「皇極:天豊財重日足姫(あまとよたからいかしひたらしひめ)」「孝徳:天万豊日(あまよろずとよひ)」「斉明:天豊財重日足姫(あまとよたからいかしひたらしひめ)」の天皇3代は本来1代であり、天下立評の立役者「伊勢王」その人であろう。プロト大和朝廷の初代である。

 重ねて言う。私はこの日本書紀が言う、「皇極・孝徳・斉明」の天皇3代は本来1代であり、天下立評の立役者「伊勢王」その人であろう。プロト大和朝廷の初代である、と。ということは、大和王朝「日本国」の初代である。


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(218) 『「プロト大和朝廷」は、江戸時代の京都が大宰府で、江戸城が難波京に相当します』 2010年9月9日(木)

 日本書紀が言うところの、『神武天皇の東征以降、持統天皇の譲位696年迄の間、大和にずっと天皇がいて、中央集権国家の大和朝廷「日本国」を統治した』を、皆さんが何故信じるのか私には不思議です。それはあたかも、有史以来、天皇が東京にずっと居て、日本全国を統治していると同じことでしょう。

 『大和朝廷「日本国」出生の秘話 : 大和王朝は難波副都で「天下立評」した九州王朝倭国の倭王家分家の弟王家だ』
で私が言う「プロト大和朝廷」は、江戸時代の京都が大宰府で、江戸城が難波京に相当します。

《倭⇒俀(大倭)⇒大倭(俀)⇒大和》と変化し、大和 を“やまと”と呼んだ。でも、なぜ、大和 を“やまと”呼んだか分からない、“やまと”とはとても読めない。661年(斉明7年)『4月、斉明天皇は朝倉〔福岡県朝倉郡朝倉町山田〕の宮に遷居した。この“山田”が、昔“やまと”だったのでは?

 と言うのは、朝倉宮〔福岡県朝倉郡朝倉町山田〕の場所は、筑後川が日田盆地から急流を抜け、平らになってほっとするところ、日田に向かう今で言う“山口”であり、将に、“山門”“山戸”なのだ。そんな付近に、古い地名とか資料がないものだろうか。付近の方それこそ“ツイート”して欲しいな、お願い。

 「壬申大乱:古田武彦著」によれば、この「山田」には付近には麻底良山という「香未山(=神山)」があり、その山頂には「朝倉市杷木町志波5458麻底良布(まてらふ)神社」には、明日香皇子が祭られているという。筑後川対岸は浮羽(うきは)である。このあたりが、確かに伊勢王の出身地であろう。


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(220) 『日本書紀が列島史・半島史を切り貼りし、万世一系の皇統譜をでっちあげた』 2010年9月12日(日)

 天下立評の立役者「伊勢王」が、大和王朝「日本国」の初代であり始祖王である。ということは、「伊勢王」の以前に日本書紀が書き残すの歴史は、いったいどこの国の歴史かだろう。書紀編纂着手が714年で、720年朝廷上程の短期間に史書をでっち上げられない。で、もとになった史書を転記したのだ。

 日本書紀という偽史をでっちあげるには、だれしもが思い浮ぶだろうが、最寄りの秦国史、倭国史、安羅史、加羅史、新羅史、百済史、高句麗史、等々の列島史・半島史を、縦・横に結んででっちあげただろうということだ。ここで、『日本列島史抹殺の謎』:佐治芳彦・吾郷清彦・鹿島昂・共著が生きてくる。

 日本書紀が列島史・半島史を切り貼りし、万世一系の皇統譜をでっちあげたは、唐朝からの日本国史提出要求が元だったろうことは、先に書いた通りだ。但し、大和王朝「日本国」が九州王朝「倭国」の兄弟王朝であることは、絶対に気取られてはならないことだった。故に、倭国史も秦国史も抹殺されたのだ。

 例えば『この時、百済軍は広州を出発して秋風嶺や素沙峙など小白山脈の峠を越えて卓淳国(大邱)に集結し、洛東江流域を制圧して、さらに知異山南麓の河東地方を経て、康津に到着したことがわかる。済州島やそこへ渡る港の康津を<南蛮>といってるのも、遠征軍が日本軍ではなく、北の百済軍だからだ。』

 以上は『任那日本府はなかった:泊勝美著』の③百済軍の大進撃▼神功紀の主役を百済軍として読んでみると(16項)〔60p〕に書かれている。もちろん任那日本府は、即ち安羅(=日本)にあった倭人連合国府としてあったわけだが、百済軍の任那征服記事を神功皇后のさも遠征かの如く書きかえたのだ。

 当時の読者が南韓の地理に疎かったとはいえ、『洛東江上流の卓淳国(大邱)に集結し、半島南西の港町で済州島北岸のトムタレ(康津)に到着した』この神功皇后が朝鮮に派遣した軍隊の集結場所、進撃路、進撃地点はどうみても奇妙である、と言うのだ。これは神功皇后でなく百済軍の史実の転記であると。


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(221) 『古田武彦氏を囲む古田史学の会による長年の研究成果がようやくあらわれてきた』 2010年9月12日(日)

 全てはここから始まる
【 古賀達也の洛中洛外日記第240話 2010/01/11 】


《ご注意》下記は、上記の抜粋・転載ですのであしからず。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 《 4).天武紀の地震記事と九州王朝(川西市・正木裕) 天武紀には天武七年(六七八)の筑紫大地震はじめ、十七回もの地震記事が記録され、『書紀』中でも群を抜く。筑紫大地震以降の十六回中十二回はその余震と見られる事、火山活動に伴う降灰・雷電が記されている事等から、『書紀』のこの部分は筑紫の記事、即ち九州王朝の記録と考えられる。この時期風水害や降雹記事もあり、白村江敗戦に追い討ちをかける、度重なる天災により筑紫の疲弊は甚だしかったと推測される。

 一方、『書紀』天武十三年(六八四)の白鳳大地震は、東海・東南海・南海地震の同時発生と考えられ、被災地は筑紫ではなく東海・近畿・四国であるから、これは近畿の記事である。

 そして、この年九州年号が「朱雀」と改元されており、近畿での地震被害が改元の契機であれば、九州王朝はこの時点で拠点を近畿、その中でも副都たる難波宮に移していた事となる。これは難波宮焼失の天武十五年に九州年号が「朱鳥」に改元されていることからも裏付けられる。

 この間に九州王朝の筑紫から難波への移転がおき、近畿天皇家への権力移行期である天武末期から持統期に、両者は地理的にも近接して存在していたと考えられるのではないか。》

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《転載は以上です。》


 このかすかな手ごたえが分りましょうか?まー、鈍感な方は何を聞いても馬耳東風でしょうが、この古田武彦氏を囲む古田史学の会による長年の研究成果がようやくあらわれてきた。倭国史書を下敷きに九州年号を置換えて切り貼りする。例えば、明治39年の事件を昭和39年の事件にする等の方法でである。

「倭国史書を下敷きに九州年号を置換えて切り貼りする」こうした方法だと、新たに記事を作り出すわけでなく、別に作り出してあった「天皇万世一系皇統譜」へ貼り付けるだけで良く、楽に早く手分けしてでっちあげれたわけです。ただ当時はパソコンが無く、消し込みが雑で重複記事が多数発生しています。

 日本書紀にはこうした一定の規則的な擬史性があると分ると、今もツイートが絶えない日本書紀の信憑性が別の意味を持ってきます、書紀の記載内容だけでの解釈が、なんともお粗末に思えてきます。『「桓檀古記」は擬史だ』とする「日本書紀」擁護派の立場も、「史記」擁護派の立場と同じになって来ます。

 開元(713-741)の初、また使を遣わして来朝す。因って儒士に経を授けられんことを請う。四門助教趙玄黙に詔し、鴻臚寺に就いてこれに教えしむ。乃ち玄黙に闊幅布を遣り、以って束修の礼となす。題していう、白亀元年の調の布と。人またその偽なるかを疑う。この題得る所の錫賚、尽く文籍を市い、海に泛んで還る。

 多治比真人県守が中国の書籍という書籍を買い漁り持還えったと書かれている。然し、その割に中国及び半島の史書・外交記事と「日本書紀」とに、齟齬が多いのはどうしたわけだろう。大和朝廷には史書の類がまったく無かったのだろうか。

 『開元(713-741)の初、また使を遣わして来朝す。因って儒士に経を授けられんことを請う。四門助教趙玄黙に詔し、鴻臚寺に就いてこれに教えしむ。<略>尽く文籍を市い、海に泛んで還る』とあるが、この遣唐使の派遣記事を「続日本紀」は書いていない。日本書紀編纂の意図がばれるからだろう。


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(222) 『倭国王分家の弟王家が難波副都に常駐し、「天下立評」を推進した』 2010年9月13日(月)

 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・秦国の侵略に対抗する為、九州王朝倭国「甘木王」が「常色の改革」を思い立ち、その一環に「天下立評(=全国評制施行)」「難波副都建設」がある。倭国王分家の弟王家が難波副都に常駐し、その軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評」を推進した。

 倭国王分家の弟王家が難波副都で「天下立評」を推進する過程で、本州・四国で倭国連邦を構成の「出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野(常陸)等の各附庸王家」は解体、実質、弟王家の直轄領となる。倭国兄王家が白村江で敗戦しその混乱を統制した弟王家の天智は本州・四国を分離独立「近江朝」とする。

 隋書・旧唐書の云う九州王朝「倭国」の滅亡経緯と、701年(大宝元年:文武5年:九州年号「大化」7年)正規に開闢する大和王朝「日本国」が、その助走期間(プロト大和朝廷)を何時から、どういう経緯を経て成立したのか?「粗雑な編集」の日本書紀が垣間見せる史実らしき行間からその真実を探る。

 「日本国」が「倭国」の弟王家であると唐朝に悟られては、白村江敗戦の戦後賠償金肩代わりを免れないとし、倭国史・秦国史とも抹殺されたのだろう。倭国が筑紫(=九州)島であるのは自明で、では次に大国の秦王国はどこか「出雲・加賀・吉備・尾張・毛野(常陸)」でないとすれば飛鳥・葛城の他に無い。

 古事記では遠慮して書けなかったこと、隼人の乱が収まって(倭国滅亡)、いっそのこと全部破棄してしまえってんで書き直したのが日本書紀である。皇極・孝徳・斉明・天智・天武の和風諡号に「天□□」を持つ5代の各天皇は、九州王朝「倭国」の難波副都に常駐の倭王家〔分家の弟王家〕出身だとわかる。

 私の場合、隋書・旧唐書の云う九州王朝「倭国」の滅亡経緯と、701年(大宝元年)文武5年(九州:大化7)正規に開闢する大和王朝「日本国」が、その助走期間(プロト大和朝廷)を何時から、どういう経緯を経て成立したか?「粗雑な構成」の日本書紀が垣間見せる史実らしき行間から、探ることです。

 696年〔持統即位7年:大化2年〕7月10日、後皇子尊『x高市皇子x 0高市天皇o』が薨じた。この記事は、倭国側の暗殺下手人:丹比真人嶋・安倍朝臣御主人・大伴宿禰御行。大和側の暗殺下手人:石上朝臣麻呂・藤原朝臣不比等。らによって倭国最後の王「高市天皇」が暗殺・薨去したもので、645年乙巳皇極4年6月12日の「乙巳の変」のモデルになっていると考えるものです。

 本来の倭国最後の王の高市天皇の暗殺696年「プロト大化改新」があって、これを新羅で実際にあった『毘曇の乱647年』をモデルに書き換えたのが「乙巳の変」である。善徳が皇極へ真徳が斉明へ置換されている。

 古田武彦氏・古賀達也氏・正木裕氏等の「古田史学の会」の方々のあくなき地味な探求・努力に、ただ・ただ、頭が下がります、改めて敬意を表します。 これら「日本書紀」の記事の「くせ」を解き明かす方法は、従来の方法と違って多元史観に基づかないと解明できなかったでしょう。九州年号もそのひとつですね。


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(223) 『秦王国はどこか「出雲・加賀・吉備・尾張・毛野(常陸)」ないとすれば飛鳥・葛城の他に無い』 2010年9月17日(金)

 tohyan 「日本国」が「倭国」の弟王家であると唐朝に悟られては、白村江敗戦の戦後賠償金肩代わりを免れないとし、倭国史・秦国史とも抹殺されたのだろう。倭国が筑紫(=九州)島であるのは自明で、では次に大国の秦王国はどこか「出雲・加賀・吉備・尾張・毛野(常陸)」ないとすれば飛鳥・葛城の他に無い。 8:13 PM Sep 13th webから

@n_kensaku リツイート感謝^^

n_kensaku @tohyan ご返信ありがとうございます。“歴史”っていろいろ操作されてきたものなんでしょうね。

@n_kensaku『ご返信ありがとうございます。“歴史”っていろいろ操作されてきたものなんでしょうね。』 ⇒ 残念ながら、古事記が江戸時代になって発見されて、本居宣長によって解釈されるまで隠されていた。等から、倭国史、百済3書をはじめ多くの史書が焚書されたと考えざるを得ません。

n_kensaku そうなんですか! 『古事記』など、考えてみたら日本人にとって最重要な書籍についても、全く無智な自分に気づきました。少しは関心をもっていこうと思います。 RT @tohyan 残念ながら、古事記が江戸時代になって発見されて、本居宣長によって解釈されるまで隠されていた。等から・・・

n_kensaku なるほど
RT @tohyan ということは、蘇我馬子(=巷苛有明子)の元は前方後円墳だった封土が剥ぎ取られ石棺がむき出しの辱めを受けてる「石舞台」などは、九州王朝倭国難波副都の倭王家 〔分家の弟王家〕 に乗っ取られた証拠だろう。

@n_kensaku 日本書紀が偽書である、というか。当時、中国・朝鮮半島・日本列島にあった史書を寄せ集めて切り貼りした文書である。と知った上で「まんが本」を楽しむというか、おとぎ話を聞くとか、昔・むかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。程度の内容でしょう。

@n_kensaku ここでtweetしたぶんは更に転記してまとめています。わたしの「つぶやき」というより「ねごと」ですけどね。
『倭国の遺跡スポット・ジオログ』
 ⇒ 【大和朝廷は、九州王朝「倭国」 の 【 同じ血族・分流 】である。】

n_kensaku 日本書紀にはそのような特徴があるのですね。ログの紹介もありがとうございます。 RT @tohyan 日本書紀が偽書である、というか。当時、中国・朝鮮半島・日本列島にあった史書を寄せ集めて切り貼りした文書である。と知った上で「まんが本」を楽しむというか、おとぎ話を聞くとか(以下略)

tohyan @n_kensaku 鹿島昂氏は「日本列島史抹殺の謎」の中で「日本書紀」が歴史を偽造した、つまり偽書であることは、議論の余地がないくらいはっきりしています。そもそも、卑弥呼・倭の五王・阿毎多利思比孤の遣使のことを書いていない。中国との交渉をいっさい書かない偽造文書だからだと書く。

n_kensaku まずは「日本書紀」も「古事記」も“物語”を楽しみたいと思います。昨晩、福永武彦氏の現代語訳を注文しました。 RT @tohyan 鹿島昂氏は「日本列島史抹殺の謎」の中で「日本書紀」が歴史を偽造した、つまり偽書であることは、議論の余地がないくらいはっきりしています。・・・

そうですね、先ずはそれが良いでしょう。古事記は眠たくなります。日本書紀は古代中国の朝廷に紛れ込んだ錯覚に陥ります。同じ記事が重複して出て来ますが切り貼り時のミスでしょう、読まないことにはRT @n_kensaku まずは「日本書紀」も「古事記」も“物語”を楽しみたいと思います。


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(224) 『古田武彦氏は同時代の赤壁戦いから確か70m位だと書かれてたはず』 2010年9月17日(金)

 windows7y @tohyan
★“古代史ブログ”邪馬台国参考書(13)
を上筆しました。 こんばんは。宜しければブログへのコメントもお願いします。

@windows7y 「周王朝では1里=75~90mの短里」⇒まー、古代の外人の文書がどれだけ正確か?陳寿が自ら測ったか?倭人から聞いて書いたか?その状況は今のGPSの時代ではないのでね。古田武彦氏は同時代の赤壁戦いから確か70m位だと書かれてたはず。私は馬市が邪馬壹国だ説ですが

@windows7y 以前は10年位前に書いたホームページですが、真剣に考えてましてね。
投馬国は宮崎の妻ではとね。
『まぼろしの邪馬壱国(邪馬台国)は、どこか?:宝満川からの陸揚げ地点か?』

@windows7y “古代史ブログ”邪馬台国参考書(13)を上筆。ブログへコメントもお願いします。⇒『薑・橘・椒・蘘荷あるも、以て滋味となすを知らず』実に身近に倭人とともに生活してないと分からない文章ですよね。我が家のミョウガ食したばかりですがひょっとして彼が先祖に教えたかも。

   『薑・橘・椒・蘘荷あるも、以て滋味となすを知らず』 ⇒ 薑:「薑(はじかみ)」とは生姜の古名。橘:タチバナは、ミカン科ミカン属の常緑小高木。椒:山椒 (さんしょう)。蘘荷:みょう‐が〔茗荷は当て字〕のことらしい、当時の倭人は生姜・ミカン・山椒・みょうが滋味となすを知らずってか?

windows7y @tohyan 執筆者に聞きましたら「邪馬台国がどこか?と云うより、その方は中国史書のルールを勉強されずに“邪馬台国”を論じられているみたいですね」とのたまわってました(笑)。

@windows7y 執筆者に聞きましたら「邪馬台国がどこか?と云うより、その方は中国史書のルールを勉強されずに“邪馬台国”を論じられているみたいですね」とのたまわってました(笑)。 ⇒ 執筆者ってだれのことですか?又、その方ってだれのことですか?具体的に書けない事情でも有る?

windows7y 具体的に書けない理由でもあるのではないですか?“その方”とは貴方みたいですよ。 RT @tohyan: @windows7y 「その方は中国史書のルールを勉強されずに“邪馬台国”を論じられ‥執筆者ってだれのことですか?又、その方ってだれのことですか?具体的に書けない事情でも有る?

@windows7y 『その方”とは貴方みたいですよ。』 ⇒ 何、私ですって? こりゃ、また、光栄だこと^^  ???「邪馬台国がどこか?と云うより、その方は中国史書のルールを勉強されずに“邪馬台国”を論じられているみたいですね」???  いつ、そんなこと論じたっけね・・・・・・

tohyan @windows7y 宜しければブログへのコメントもお願いします。  ⇒ コメント書いてくれって言うので、書いて返すと、この言いぐさかよ 〔具体的に書けない理由でもあるのではないですか?“その方”とは貴方みたいですよ。〕その方は中国史書のルールを勉強されずに“邪馬台国”を論じられ

koyuki_y777 @tohyan 昨日の貴方の言動・・お里が知れますよ。。

koyuki_y777 @tohyan 話しの流れでは「ブログにコメントを!!」と言われているのにtwitterに入れてきて注意をされたことに文句を言う‥どうなんでしょうね。‥と私は思いました。URL拝見しましたが、古田氏の受け売りですね。比較しましたが貴方のお怒りの理由がわかりました。‥と感じました。

tohyan なるほど、でも何故ブログにいれなかったかは想像してください。ならばそう言えば良いこと、それにしても「中国史書のルールを勉強されずに」かRT @koyuki_y777「話しの流れでは「ブログにコメントを!!」と言われているのにtwitterに入れてきて注意をされたことに文句を言う」

koyuki_y777 @tohyan古田氏の考えを否定されたことがあの怒りですか?ご自分のことは相手が評価するものなのだから感謝こそすれ反論しなくても良いのではないでしょうか?彼は古田説と違い、貴方のURLを見たところ古田氏の受け売りに‥私は感じました。陳寿が相手ですよ。自分と陳寿の戦いなのでは‥。

koyuki_y777 @tohyanすいません。返信は結構です。生意気言いました。それでは。

tohyan おや・おや私は『まぼろしの邪馬台国:宮崎康平著』説です。ただ古田氏の短里説でないとこの場合も成り立たないと思いますがね。
RT @koyuki_y777「彼は古田説と違い、貴方のURLを見たところ古田氏の受け売りに‥私は感じました。陳寿が相手ですよ。自分と陳寿の戦いなのでは‥。」

tohyan 陳寿・陳寿って?で、あなたは陳寿の何と戦っているのですか?私は当時の時代の日本が実にリアルに鮮明に書かれていると思いますが。日本人にとって唯一の生活史ですね、陳寿もそれを微笑えましく見ていた。
RT @koyuki_y777 「陳寿が相手ですよ。自分と陳寿の戦いなのでは‥。」


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(225) 『法隆寺釈迦三尊の光背銘には、『①法興元31年、歳次辛巳(621)』 2010年9月17日(金)

 「隋書」俀国伝中に、『明年(大業4年:608年:推古16年)、上、文林郎裴清を遣わして俀国に使いせしむ。百済を渡り、行きて竹島に至り、南に聃羅を望み、都斯麻国を経、迥かに大海の中に在り。又東して一支国に至り、又竹斯国(=筑紫・九州島)に至り、又東して秦王国に至る。

 其の人華夏に同じ。以って夷州と為すも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。又十余国を経て海岸(=九十九里浜海岸)に達す。竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す。』この隋国は618年に滅亡する。 その4年后の622年(聖徳太子のなぞり元の)九州王朝「倭国」の上宮法皇が亡くなるのだ。

 法隆寺釈迦三尊の光背銘には、『①法興元31年、歳次辛巳(621)12月、鬼前太后崩ず。②明年(622)正月22日、上宮法皇、枕病して悆からず。③干食王后仍りて、以て労疾し、並びに床に著く。⑥2月21日、癸酉、王后、即世す。⑦翌日(2月22日)、法皇、登蝦す。<途中略>』

「隋書」俀国伝中の「又竹斯国(=筑紫・九州島)に至り、又東して秦王国に至る。」の『俀国』『秦王国』を無き者にするため、九州王朝「倭国」の「開皇二十年、王、姓は阿毎、字は多利思比孤、號は阿輩彌、使を遣して闕に詣る」の上宮法皇を、聖徳太子になぞって、でっちあげるまでしているのだ。

 法隆寺釈迦三尊の光背銘はいわゆる金石文であり、法隆寺が九州王朝「倭国」の法興元に建てられた「法興寺」を移築したことを証明するものだ。明治神宮が明治天皇を祭ると同じ動機だろう。法隆寺釈迦三尊の光背銘は、由来を正しく知っている寺僧によって密かに守られて、現在まで生きながらえている。


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(226) 『歴史偽造の本家本元は中国で日本へは半島経由入った』 2010年9月18日(土)

 おや・おや私は『まぼろしの邪馬台国:宮崎康平著』説です。ただ古田氏の短里説でないとこの場合も成り立たないと思いますがね。
RT @koyuki_y777「彼は古田説と違い、貴方のURLを見たところ古田氏の受け売りに‥私は感じました。陳寿が相手ですよ。自分と陳寿の戦いなのでは‥。」

koyuki_y777 @tohyan貴方の説をいずれ聞かせてください。私は入院中で検査してます。体調の良い時にでもお願いします。くれぐれも返信は結構です。

koyuki_y777 @tohyan追伸:人の説はいりません貴方が検証された説です。「春秋を継ぐ」「前史を継ぐ」を基本に読まれていますよね。返信は要りませんので、ごめんなさい。

陳寿・陳寿って?で、あなたは陳寿の何と戦っているのですか?私は当時の時代の日本が実にリアルに鮮明に書かれていると思いますが。日本人にとって唯一の生活史ですね、陳寿もそれを微笑えましく見ていた。
RT @koyuki_y777 「陳寿が相手ですよ。自分と陳寿の戦いなのでは‥。」

koyuki_y777 @tohyan意味がわらリませんか?では。

「春秋を継ぐ」「前史を継ぐ」って、何ですかそれ? それに全然興味もありません、興味あるのは「日本書紀は偽史である。更に歴史偽造の本家本元は中国で日本へは半島経由入った」と鹿島昂氏は言っています。
RT @koyuki_y777 『「春秋を継ぐ」「前史を継ぐ」を基本に読まれていますよね。』


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(227) 『最初は鹿島昂氏の秦国が日本国の前身かとも考えましたが』 2010年9月18日(土)

 shangrilagrove @tohyan こんにちは。HP拝見しました。興味深い所が多々ある内容でした。時間がある時に、じっくり拝見します。

 うわー、そんなこと言ってくれた人、あなたが初めてです。最初は鹿島昂氏の秦国が日本国の前身かとも考えましたが、倭国が「常色の改革」の一環で難波副都建設・天下立評したと分かり、倭国の弟王家が「プロト大和朝廷」だと考えた。
RT @shangrilagrove 興味深い所が多々ある内容でした。

 「きっこ」 さんが、ボロクソ・ぼろくそに言ってた藤原紀香の“チャンス”を土曜よる9時から毎週観てる。確かに、ぎこちない、でもそれが面白い^^・・・・・・そういえば、近頃、マージャン・競馬、やってないなー・・・・・・・・・・・

 大連のとある会社を工場見学してたら、ある現場で、すごい“大声の恐い”日本語で怒鳴ってる人に出会った。廻りの中国人らは、“シュン”として聞いていた。で、私は通訳の中国人へ聞いた。中国人は日本語がわかるのって、通訳氏曰く、雰囲気でわかるのだろうって。あとで同じグループの先輩だった。

 あら、そうですか?私もその口でした。もう40年位前隣の富岡に住んでいましたよ。かつての同僚が今も近くに住んでいます。山口県徳山市今は周南市ですが”山”は入り江を表すと言います。とRT @n_kensakuもうずいぶん前の話だが、京浜急行の谷津坂駅が急に能見台駅に変わり、頭にきた。

そうですか! わたしは谷津坂(能見台)から富岡まで電車に乗って、6年間富岡小学校に通いました。1〜2年の頃は富岡八幡の崖下まで海でした。RT @tohyan あら、そうですか?私もその口でした。もう40年位前隣の富岡に住んでいましたよ。かつての同僚が今も(以下略)

 おや・おや、海では2-3度泳ぎました。東京よりは海苔の養殖してて、孫文上陸の浜という石碑があったと思います、伊藤博文の別荘もあった。RT @n_kensakuわたしは谷津坂(能見台)から富岡まで電車に乗って、6年間富岡小学校に通いました。1〜2年の頃は富岡八幡の崖下まで海でした。

n_kensaku ヘボンが海水浴をしたかで、海水浴発祥の地になっています。
孫文上陸は初耳!

【孫文上陸地点を探す ~富岡・慶珊寺~】《魚拓》

RT @tohyan おや・おや、海では2-3度泳ぎました。(以下略)

tohyan よく見つけましたね。当時寺の前は湾曲の小道で、せり出した崖の海岸になってて、夜は千葉の灯が遠望できました。深川門前仲町の富岡八幡は本宮がそこの八幡だって地元の方は自慢してましたが、えって言うほどみすぼらしかった。いまは手入れされてますが。RT @n_kensaku 孫文上陸は初耳

 日本の明治維新を感じた、孫文・周恩来が中国の再建を夢見たと思うともっと大事にしたいものです。インドのネール、インドネシアのスカルノも植民地から独立を勝ち得たわけで、明治維新はすごかった。RT @n_kensaku 孫文上陸の浜という石碑があったと思います、伊藤博文の別荘もあった。

n_kensaku 海がある頃は雰囲気がありましたね。長浜の検疫所ではよく遊んだものです。横浜金沢の富岡八幡の方が本宮なのですね。孫文のこととかもあり、横浜金沢は興味深い! RT @tohyan よく見つけましたね。当時寺の前は湾曲の小道で、せり出した崖の海岸になってて、夜は千葉の灯が(以下略)

谷津坂から平潟湾にかけて16号線沿いには赤松があって、八景の弁天島なんかも風向明媚でしたね。但し上り坂の療養所の前は息を止めて足早に歩きましたが^。^谷津坂駅の上は山でした。架橋がかかってから開けたんじゃ。それにしても、能見台ってどういう意味でしょうねRT @n_kensaku








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