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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 007 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(247) 『大和王朝は難波副都で「天下立評」した九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』 2010年10月7日(木)

 九州王朝「倭国」は、いつ滅亡したか?それは日本書紀に書いてある。『696年〔持統10年(x持統x {高市天皇}即位7年):九州年号大化 2年〕7月10日、後皇子尊『x高市皇子x {高市天皇}』が薨じた。即ち「本来の大化改新」「プロト大化改新」で、九州王朝「倭国」の末王・高市天皇が藤原不比等、らに暗殺された時である。

 では、大和王朝「日本国」は、いつ発足・開闢したか?それは、「続日本紀」に書かれている。『697年〔文武元年:大化3年〕8月1日、(文武天皇が) x持統天皇から位を譲りうけてx {高市天皇を暗殺して}、皇位につかれた。『698年〔文武2年:大化4年〕11月23日、大嘗祭を行った。

 とはいえ、国として正式に発足・開闢したのは大宝律令制定以降と言えよう。 『701年〔大宝元年:文武5年:九州年号大化7年〕3月21日、対馬嶋が金を貢じた。そこで新しく元号をたてて、《 大宝元年 》 とした。 《 初めて 》 新令(大宝令)に基づいて、官名と位号の制を改正した。

 なんと言うことはない。日本書紀に書かれている時代は、九州王朝「倭国」の時代だったのである。  九州王朝「倭国」の時代を、さも、大和王朝「日本国」がずっと昔から奈良に都を置いて、全国を統治していたことにした。倭国・秦国の列島史、及び韓半島史を使ってでっちあげたものだったのですね。

 九州王朝「倭国」がどういう経緯で滅亡に至ったか?更に、大和王朝「日本国」が、いきなり、バトンタッチできたわけでなく、それには、いつ産声をあげて、どういう経緯で力強く成長したのかを解明したのが、、
《大和王朝は難波副都で「天下立評」した九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ》
である。


●〔 九州王朝「倭国」は、いつ滅亡したか?それは「日本書紀」に書いてある。〕

●〔 では、大和王朝「日本国」は、いつ発足・開闢したか?それは、「続日本紀」に書かれている。〕

●〔 なんと言うことはない。「日本書紀」に書かれている時代は、九州王朝「倭国」の時代だったのである。〕


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(248) 『「評」の淵源についての若干の考察(川西市・正木裕)』 2010年10月9日(土)

以下は、下記のHPよりの抜粋ですので、あしからず。

古賀達也の洛中洛外日記 第282話 2010/09/19
《孝徳紀「東国国司詔」の新展開》

他にも、古代史に興味のある方は、ぜひ必読をお勧めします。


3). 「評」の淵源についての若干の考察(川西市・正木裕)
「評」の淵源は、前漢代の「廷尉評(平)」にあり、後漢の光武帝は詔獄(警察・裁判)を所掌させ、魏・晋以後もその職は強化された。一方、「都督」の淵 源も光武帝代の督軍御史(督軍制)にあり、魏の曹丕は地方諸州の軍政を所掌する都督を初めて常設し、数万〜十数万の軍の指揮を執らせた。 この様に、金印を授かった後漢から、倭国が臣従した魏・晋朝にかけ都督と評は並存しており、そうした状況の下、倭国が都督—評督制を創設したことは想像に 難くない。

8). 東国国司詔の実年代(川西市・正木裕)
(1)『書紀』大化元年(六四五)八月の「東国国司招集の詔」の発せられた実年は、九州年号大化元年(六九五)であり、近畿天皇家が、九州王朝により任命されていた国宰の権限を剥奪・縮小し、律令施行に向け新職務を課す主旨。
(2)大化二年(六四六)三月の「東国国司の賞罰詔」は、文武二年・九州年号大化四年(六九八)に、近畿天皇家が、新政権への忠誠度や新職務の執行状況により、国宰を考査し処断・賞罰を行う旨の表明。
(3) 賞罰詔中に記す「去年八月」の詔とは、文武元年八月(六九七)の文武即位の宣命を指し、文武への忠誠と、国法遵守を命じたもので、これを基に賞罰が行われたと考えられる。


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(249) 『朕が天智で物部麁鹿火大連が大海人皇子の天武天皇だとしたらどうだろう』 2010年10月10日(日)

 『日本書紀継体紀527年(継体21正和2)8月1日天皇は親しく斧鉞をとって、物部麁鹿火大連に授けて「長門以東は朕がとろう。筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え。ひんぴんと報告しなくともよい」といった。』

 ⇒いままで、この句の背景になった史実が思い浮かばなく思案してたが、

 663年9月以降の早い時期に、難波で敗戦の報を受けたプロト大和朝廷の中大兄皇太子は大海人皇子へ「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え、ひんぴんと報告しなくともよい」といった。大海人皇子は筑紫へ渡り倭国の残存部隊の結集と留守居王権として筑紫島を確保。中大兄皇太子は九州島を除く本州・四国を実効・直接支配。

 朕が天智で物部麁鹿火大連が大海人皇子の天武天皇だとしたらどうだろう。大宰府倭兄王家の白鳳王薩夜麻が白村江戦で敗れ自身は唐の捕虜になった。その直後の難波複都倭弟王家の中大兄皇太子と大海人皇子との会話だとすれば、留守居の中大兄皇太子が、九州王朝「倭国」の本土防衛に立ち上がったと分かる。

 天皇は親しく斧鉞をとって、物部麁鹿火大連に授けて「長門以東は朕がとろう。筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え。ひんぴんと報告しなくともよい」といった。⇒今迄この句の背景になった史実が思い浮かばなく思案してたが、朕が天智で物部麁鹿火大連が大海人皇子の天武天皇だとしたらどうだろう。

 《古賀達也の洛中洛外日記》〔第275話2010/08/08 『先代旧事本紀』の謎〕

『・・・・例えば、物部氏の系譜記事が「天孫本紀」として扱われており、記紀とは取扱いが異なっています。物部氏が天孫族であるとするのが同書編纂の眼目とさえ思われるのです。

 更には、「帝皇本紀」の継体天皇の項に「磐井の乱」が記されていないのです。すなわち物部氏の一人である物部麁鹿火の活躍が全く記されていません。物部氏の業績を特筆する同書に於いて、何とも不思議な現象ではないでしょうか。
 ちなみに物部麁鹿火は同書の「天孫本紀」に見え、安閑天皇の頃に大連となったとされています。
 『先代旧事本紀』にはこの他にも謎に満ちた記載があります。どなたか一緒に研究されませんか。きっと九州王朝と物部氏の関係が解き明かされるのではないかという予感をもっています。』

 以上は、古賀達也氏のHPの抜粋転載ですが。『更には、「帝皇本紀」の継体天皇の項に「磐井の乱」が記されていないのです。すなわち物部氏の一人である物部麁鹿火の活躍が全く記されていません。』とあります。

 わたしの、《朕が天智で物部麁鹿火大連が大海人皇子の天武天皇だとしたらどうだろう》と合せて考慮して欲しいのです。


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(250) 『しらぬひの 筑紫の綿は 身に付けて いまだは着ねど 暖けく見ゆ』 2010年10月13日(水)

 〔 しらぬひの 筑紫の綿は 身に付けて いまだは着ねど 暖けく見ゆ 〕

 白いつくしのように連なっている綿花、その栽培の盛んな筑紫の綿そのものを、身に着けたことはないが、運ばれていく仏像の周りには綿が詰められ、暖かそうである。仏像が強奪される、そしてそれに手を貸すのは自分である。そのことは堪え難いが、仏像が暖かそうに見えることだけが救いだ。

 沙弥満誓(さみのまんせい)は造筑紫観世音寺別当という職にあり、出家するまでは笠朝臣麻呂(かさのあそみまろ)と称した。

 法興寺を法隆寺へ移築し跡地に観世音寺のを再建する。当時中心伽藍の他の、例えば三十三間堂は残っていた。

 皆さんは、綿の花を見たことありますか?数年前、妻が振興会からもらったとかで、植えてて咲くのを見ました。大きな花で、咲く前のつぼみは、ちょうど”つくしんぼう”そっくりです。筑紫(=今の福岡県)に綿の栽培が伝来し、筑紫が綿の主産地だったのですね。この”つくし”と筑紫が掛詞なんですね。

 〔観世音寺の一幅の絵図から分かること〕《九州倭国の法興寺を法隆寺へ移築しその跡地に観世音寺を造った》
『京都の三十三間堂も、大宰府の観世音寺に建っていた』ということを知ってますか?


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(252) 『まぼろし の 邪馬壱(臺)国 は、どこか?』 2010年10月15日(金)

まぼろしの邪馬台国
を書いた故宮崎康平は、魏志倭人伝の国名を逆の順に読むように勧めているが、もしそうだと邪馬台国は、甘木市を中心とする扇状地(夜須郡、下座郡、上座郡)とならないか、とりわけ夜須川沿いの夜須町では?私のその都城推定地は、
「筑紫野市・馬市」
付近です、そこはかつて有明海の入り江が迫り港でもあって交易の要衝だった。


◎魏志倭人伝の以下記述を、

「東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰謨柄渠 有千戸 丗有王皆統屬女王國 郡使往來常所駐」 「東南至奴國百里 官曰馬 副曰奴母離 有二萬戸」 「東行至不彌國百里 官曰多模 副曰奴母離 有千家」 「南至投馬國水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬戸」

「南至邪馬壹【臺】國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬 次曰彌馬獲支 次曰奴佳 可七萬戸」 「自女王國以北其戸道里可得略載其旁國遠絶不可得詳」

「次有斯馬國 次有已百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有國 次有吾國 次有奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡」

 故宮崎康平は、魏志倭人伝の (奴国から始めて邪馬台国を1周して奴国へ戻る) 国名 を逆の順に読むように勧めているのだ。  


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(253) 『筑紫君薩夜麻(=天武天皇・白鳳王)の倭国白鳳王復位宣言』 2010年10月17日(日)

 白村江敗戦で捕獲の筑紫君薩夜麻(=天武天皇・白鳳王)は帰国と同時に倭国白鳳王復位を宣言し、当時唐が占領の筑紫都督府、及び近江朝の本州・四国に分裂していた倭国の再統合を要請した。これにより 『壬申の乱』(西暦672年:天武元年:白鳳12年) の発生。戦勝後倭国王としての復位する。

 白村江敗戦で倭国王薩夜麻を唐捕虜連行。倭国王不在の筑紫を唐占領。留守居の天智天皇が本州・四国の長門以東を直接支配。667年近江朝が倭国から分離独立・遷都。670年近江朝が倭国更えて日本を号す。白鳳王薩夜麻解放帰国。復位と同時に倭国再統一宣言。壬申大乱発生。大友皇子自殺近江朝滅亡。

 持統4年は持統即位元年だとするのだが、なんでこんな回りくどい表現するのか不思議だったが、
『これは「持統紀」が713年以降の、政治情勢の中で、「高市紀」の成り代わりだ』
で言う高市天皇元年相当なのだ。

 郷里山口県の神社・仏閣には多くの「九州年号」が残されている。九州内は徹底して消されたのだろうが、まさか周辺の周防・長門に残っていようとは、
『九州年号・書紀天皇表』
の「常色改革」以降を整理した。

 696年7月10日、高市天皇が崩御して、3ヶ月後の顕彰記事は異常だ。これから「高市天皇」暗殺の下手人は、 ★「丹比真人嶋」★「安倍朝臣御主人」★「大伴宿禰御行」★「石上朝臣麻呂」★「藤原朝臣不比等」★ の合計5人であり、もちろん、リーダーは「藤原朝臣不比等」だったと言えよう。

 703年4月1日、阿倍朝臣御主人が薨じた。正三位の石上朝臣麻呂らを遣わし物を贈って弔わせた。この時点で、「丹比真人嶋」「安倍朝臣御主人」「大伴宿禰御行」「石上朝臣麻呂」「藤原朝臣不比等」の5人のうち、倭国側の 「丹比真人嶋」 ・ 「安倍朝臣御主人」 ・ 「大伴宿禰御行」 が死に、即ち、大和王朝「日本国」側の石上朝臣麻呂」・「藤原朝臣不比等」が生き残っていることになる。

 ちょうど、今木健之著「本能寺の首謀者は秀吉である」の①宇喜多直家、②中川瀬兵衛、③椙原家次、④蒲生賢秀、⑤池田恒興、⑥丹羽長秀、⑦誠仁親王、⑧蒲生氏郷、の早死に・変死に、似ていないだろうか?

 結局、「日本書紀」と「続日本紀」を単独に読むと分からないが、続けて読めば分かるのだ。「持統紀」が、「高市紀」の成り代わりであることから、高市は即位して高市天皇だった。696年7月10日、高市天皇が崩御して、3ヶ月後の顕彰記事は異常なことから、その「高市天皇」は暗殺されたと分かる。

 顕彰記事から暗殺下手人は、「丹比真人嶋」「安倍朝臣御主人」「大伴宿禰御行」「石上朝臣麻呂」「藤原朝臣不比等」の合計5人と分かる。703年4月1日、阿倍朝臣御主人が薨じたのを最後に、この時点で、下手人5人のうち、倭国側の「丹比真人嶋」「安倍朝臣御主人」「大伴宿禰御行」が死んでいる。

 即ち、大和王朝「日本国」側の石上朝臣麻呂」「藤原朝臣不比等」が生き残ったことになる。倭国側の高市天皇暗殺下手人は7年後の703年迄に次々と葬られ口封じされたことになる。あまり難しく読む必要ないのではないだろうか、ただ下手人の家人は知ってか知らずかそのまま大和朝廷で栄達したようだ。


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(254) 『〔「逆賊磐井は国父倭薈だ」米田良三著〕倭薈の死は筑後国風土記 逸文「磐井の墓」』 2010年10月20日(水)

〔「逆賊磐井は国父倭薈だ」米田良三著〕
倭薈の死は筑後国風土記 逸文「磐井の墓」に次のように記される。

「独自豊前の上膳の県に遁れ、南の山の峻しき嶺の曲に終りき」この倭薈最後の地がどこであるかは古代史学者の興味を引かなかったようである。次章で述べる「磐井の墓」の存在場所がいろいろと論じられたのとは対照的である。最後の地は倭国の連続する歴史の中で聖地として整備されている。

 大分県宇佐市の一画に位置しているのだが、現状は聖地を示すものは地上に何もないと言って良い状態である。 まず聖地の全体像と特異であった倭薈の風貌について話しをしたい。と言うのは、部分を詳しく説明してもその全体像が無くてはイメージさえ歪んでしまいそうだからだ。

さらに倭薈の風貌は徹底して消しさられており、特異な姿の再現は歴史探求の第一歩になると信ずるのである。まず結論を述べ、その後ゆっくりと説明することににしたい。


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(255) 『里山の復活といっても、みんな町へ引っ越してしまい』 2010年10月21日(木)

 @yui_maaru 里山の復活といっても、みんな町へ引っ越してしまい。持ち主の不明な狩場が身近にせまり、よそんちの狩場へ入り込まざるをえません。そこにはだれも秋に収穫しない栗や柿がたわわに実って採ってくれるの待っています。みかん・りんご・梨もです。でもやっぱり盗人みたいですね。

 江戸時代の大阪の商人が、米相場の推移を表わしのにチャートの「ろうそく:Candle」を考案したというが、世界の投資家が愛用するだけあって分かりやすいね。今ひとつは「一目均衡表」だよね、他にも「掛け売り」「手形」とかたくさんある。日本の相場が世界に先がけたことを誇りしたいね。

 思うに、中国の歴史は多くの異民族に征服・支配された歴史といえよう。秦・元・清は言うに及ばず、隋・唐も見ようによっては異民族支配だろう。漢民族とひとことに言っても何処から何処までがそうなのか、中国語を話すから中国人なのだ。ほとんどの国民は政治に対しては触らぬ神に祟りなしなのだろう。

 なんだか、天安門事件が再び起こりそうな雰囲気になってきた。


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(256) 『今一度伊勢王と甘木王のことを知りたくなって改めて見直している』 2010年10月25日(月)

 書紀は『668年(天智7年)6月伊勢王とその弟の王とが、日を接して薨じた(官位は未詳)』と記載している。先に『661年(斉明7年)4月、斉明天皇は朝倉宮に遷居した。6月伊勢王が薨じた。秋7月24日、斉明天皇は朝倉の宮で崩じた』とあり、「弟の王」と斉明とがさも同じと言わんばかりだ。

 今一つ可能性があるとすれば『668年6月伊勢王とその弟の王とが、日を接して薨じた』の記事の「その弟の王」とは、九州王朝倭国の天帰王(=甘木王・常色白雉王)のことか、狩猟の途中不慮の事故で亡くなったのが、661年白鳳へ改元時と同じなのだ。この場合、天帰王が伊勢王の弟だと検証を要す。

 九州王朝倭国の天帰王が「常色の改革」の一環に天下立評があり、その為に難波複都を造り、ある時期より倭王家分家の弟王家出身の伊勢王が難波複都に常駐し、天下立評を推進した。結果、倭国連邦各附庸王国が解体した。その立役者プロト大和「近江朝」の伊勢王が倭国の天帰王と同時期661年に崩じた。

 天武天皇が「九州王朝倭国王の薩夜麻・白鳳王・明日香皇子・高市皇子命の父親」であると同時に、「プロト大和近江朝の大海人皇子・持統天皇の夫・草壁皇子尊の父親」の合成人間である。一方皇極・斉明は善徳・真徳のコピーで元々は一人。桓武が後に追記したのが舒明の義慈王で孝徳はその王子孝である。

 斉明は「伊勢王」か「その弟王」と分かるので、「皇極・孝徳・斉明・伊勢王・その弟王」は元々は一人だった。たぶん伊勢王だったと私は思うが、良く天武は天智の弟なのに年長だと書かれてる。これって言い換えると、百済の義慈王とプロト大和の伊勢王が結婚して出来た子が天智・薩夜麻・大海人となる。

 もう、しっちゃか・めっちゃか、で。そもそも天智・天武の年齢を較べても詮無いことです。

 以上は、7月23日に登録したものですが、今一度伊勢王と甘木王のことを知りたくなって改めて見直している。


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(257) 『斉明天皇は九州のどこにいたか?』 2010年10月25日(月)

 tukuyomu 稚拙な質問ですが、斉明は九州北部にいた?(あるいはどこに)?と思いですか? rt @tohyan 斉明は「伊勢王」か「その弟王」と分かるので、「

 九州王朝難波副都完成の翌年653年(孝徳9年)『この年、皇太子(中大兄皇子)が奏請して、願わくは倭京に還りたいと思いますといった。(孝徳)天皇は許さなかった。<途中略>倭の飛鳥(福岡県小郡市井上飛島)の河辺の行宮にうつり住んだ。』RT @tukuyomu 斉明は九州のどこにいたか

 661年(斉明7年)『4月、(斉明)天皇は朝倉〔福岡県朝倉郡朝倉町山田〕の宮に遷居した。6月伊勢王が薨じた。秋7月24日(斉明)天皇は朝倉の宮で崩じた。8月1日皇太子(中大兄皇子)は天皇の柩を移し奉って、磐瀬(伊予国宇摩郡津根・長津)の宮にもどりついた。』RT @tukuyomu

 まー、別に日本書紀通りに読めばですが、先の2例です。古田武彦氏の『壬申大乱』を読めば、天帰王(=甘木王)は甘木市を中心にする扇状地に居たとなります。斉明天皇は癌だったのじゃないでしょうか?遠征中の難波から朝倉山田へ帰還中湯治してる。
RT @tukuyomu斉明は九州のどこにいたか

 『斉明天皇は朝倉〔福岡県朝倉郡朝倉町山田〕の宮に遷居』の前、難波宮を出発時に「征西の途に就く」とあるので、皆てっきり、白村江戦の督戦に出発したと勘違いするが、斉明天皇は朝倉への途次、磐瀬(伊予国宇摩郡津根・長津)宮で休息し、伊予温泉で湯治し故郷で崩御する。RT @tukuyomu

tukuyomu 沢山のコメント、、さんくすでした rt @tohyan まー、別に日本書紀通りに読めばですが、

 書紀通りに読むといっても、『願わくは{倭京}に還りたいと思いますといった』の倭京は、
九州年号の倭京元年(618戊寅)
でいう大宰府のことです。RT @tukuyomu 書紀通りに読めばですが。

 さらにまた、このtweetが他の読者に誤解されない為にも、注記する必要があります、「磐瀬の宮」は従来の「福岡市三宅」ではなく、「伊予国宇摩郡津根・長津の宮」となり、「倭の飛鳥の河辺の行宮」は「福岡県小郡市井上飛島」となります。RT @tukuyomu 書紀通りに読めばですが。


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(258) 『「胸に卍文、掌に輪宝文、足の裏に瑞祥文」の刺青を描いていたという』 2010年10月26日(火)

 九州王朝「倭国」の倭薈王(=筑紫君磐井)が「胸に卍文、掌に輪宝文、足の裏に瑞祥文」の刺青を描いていたという、やくざな王様だった。これが奇しくも薬師寺の薬師佛、東大寺の大仏、法隆寺の焼けた壁画に描かれている。この刺青から3寺は元々九州に地に建っていたのを奈良へ運び移築したと分かる。

 昨日、東大寺の大仏の右脚の内側から、明治以降に行方へ知れずになっていた、聖武天皇が愛用の「陽剣」「陰剣」が対になって、見つかった。とテレビが報道していた。小倉山の麓の池側に建っていた東大寺を解体し、木材は瀬戸内海大仏は山陽道をはるばる奈良まで運び、その挙句、頭部を挿げ替えたのだ。

 『Twitter その5』
にあげた写真小倉山に建ってたときの東大寺の大仏は柔和な顔立ちをしてるよね。なんと、大仏の前で所在なげに寝そべっている奴がいる。今のはいかめしい顔に造りかえられてる。


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(259) 『九州年号・書紀天皇表〔九州年号の34年繰り下げ/50年繰り上げ〕』 2010年10月26日(火)

 正木裕氏は言う。『九州王朝「倭国」の史書に記載されていた、

九州年号:白鳳元年(661辛酉:斉明7)の記事を⇒九州年号:大化元年(695乙未:持統即位6)へスライドし、

九州年号:白雉元年(652壬子:孝徳8)の記事を⇒九州年号:朱鳥元年(686丙戊:天武15 )にスライドさせた。』

 この正木裕氏の説を分かりやすくしょうと、わたしが苦心してHTMLで書き出したのが、
『九州年号・書紀天皇表〔九州年号の34年繰り下げ/50年繰り上げ〕』
です。
要は34年後にずらされている。

  @2000BMW740i @tohyan こんにちは。いつもつぶやきを楽しみにしています。tohyanさんは古田史学の会の会員でいらっしゃるのでしょうか?

 私は約10年前から、ずっと米田良三氏の法隆寺等移築論の信者です。古田史学会は最近になって、たまたま読んだ、『古代に真実を求めて:古田史学の会編』が面白くて、この3月入会した新入りです。
RT @2000BMW740i tohyanさんは古田史学の会の会員でいらっしゃるのでしょうか?

@2000BMW740i @tohyan 僕はtohyanさんのつぶやきを見て、ネット検索する中で古田史学を知り、先週入会しました。よろしくお願いします。

 じゃ、私の方が先輩ということで^^法隆寺が移築されたとすると、だれが、いつ、どうして、と知りたくなります。古田史学の会のとりわけ、正木裕氏・古賀達也氏・飯田満麿氏がそのヒントを示してくれています。松本清張の推理小説「点と線」と同じです。@2000BMW740i 先週入会しました。

 日本書紀を読むとき、全ての記事が史実で正しいと解釈し読み解こうとして来ました。そうすると、いたるところで矛盾や齟齬にでくわし面食らってきました。それは有名な先人も同じ過ちを犯して来たといえます。然し、正木裕氏の説に従えばある倭国史等の記事断片が切り貼りして残されているとなります。

 日本書紀は、700年以前の九州王朝「倭国」及び「秦国」の存在を亡き者にし、代わりに、さも奈良に中央集権国家の大和王朝「日本国」が有史以来ずっとそこにあったものとして、ありもしない国を作り出したものです。唐への期日もあって、倭国史・秦国史・百済史、他の史書を切り貼りしたのでしょう。

 〔九州王朝「倭国」及び「秦国」の存在を亡き者にし〕のひとつが、九州年号「善記」を建元した『倭薈王』即ち、倭国(ゐこく)の薈王(わいおう)をどう表現したか、『筑紫君磐井(つくしのきみいわい)』とし、白村江戦時でとらわれの身となった白鳳王の文武天皇を『筑紫君薩夜麻』と矮小化したのだ。


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(260) 『いえ上陸地は有明海に注ぐ佐賀市、嘉瀬川で間違いありません』 2010年10月30日(土)

 jyoumonjn いえ上陸地は有明海に注ぐ佐賀市、嘉瀬川で間違いありません。唐津市はただの姉妹都市です。紛らわしくすみません。 RT @m_kinugawa そうでしたか。唐津となると有明海ではなく、長崎県をぐるりと回って、唐津上陸したのでしょうか・・

 縄文人さんはじめまして。九州王朝「倭国」を探求するうえで、この嘉瀬川は興味が尽きません。特にその上流に初瀬・長谷・泊瀬という場所があって其処に奈良へ移築前の長谷寺が建ってたと米田良三氏は言います。RT @jyoumonjnいえ上陸地は有明海に注ぐ佐賀市、嘉瀬川で間違いありません。

 雷山の麓で今は北山ダムが邪魔してますが、その湖水のすぐ上流に三瀬村があります。私のホームページの下方に彼の手書きの地図を載せています。杉神社より下流の松尾村辺りでしょうか。横浜からは遠いのですね。RT @jyoumonjnいえ上陸地は有明海に注ぐ佐賀市、嘉瀬川で間違いありません。

 jyoumonjn ありがとうございます、筑後、嘉瀬川流域は縄文から弥生への遺跡も多く又大和王権と深い綾部神社もあり、機会あれば当ってみます。 RT @tohyan 九州王朝「倭国」を探求するうえで、嘉瀬川は興味が尽きません。その上流に初瀬・長谷・泊瀬という場所があって其処に奈良へ移築前の長谷寺が

 あれ!大和王権と深い綾部神社ですか、私には初耳です、詳しく教えて頂けませんか? RT @jyoumonjn大和王権と深い綾部神社もあり、機会あれば当ってみます。

 万葉集912〔泊瀬女の 造る木綿花 み吉野の 瀧の水沫に 咲きにけらずや〕
この歌は秋津川(=嘉瀬川)の下流に吉野宮が位置しそこで歌われた歌だそうです。秋津川は初瀬と呼ばれた背振山地から、吉野ヶ里の脇を流れ吉野川(=筑後川)に合流する。RT @jyoumonjn 筑後、嘉瀬川流域は

該当の古名の川は城原川かと思います。調べてみます RT @tohyan この歌は秋津川(=嘉瀬川)の下流に吉野宮が位置しそこで歌われた歌だそうです。秋津川は初瀬と呼ばれた背振山地から、吉野ヶ里の脇を流れ吉野川(=筑後川)に合流する

 なるほど、私の曲解かも知れません。『初瀬川(=嘉瀬川)、秋津川(=城原川)、更に、吉野川(=筑後川)だ』とおっしゃるのですね。ぜひ、調べてください。〔逆賊磐井は国父倭薈だ:米田良三著〕第3章長谷寺p99に記載@jyoumonjn該当の古名の川は城原川かと思います。調べてみます

 古田武彦氏の「壬申大乱」読み直してみると。以前の確か10月末tweetは、『吉野川(=嘉瀬川)、秋津川(=城原川)、だ』となるんですね。これで良いでしょうか? 現地を訪ねるべきなんでしょうね^^        @jyoumonjn該当の古名の川は城原川かと思います。調べてみます

 jyoumonjn ありがとうございます。綾部神社は「旗あげ神事」で有名ですがもとは「漢部神社」かと推古天皇下、来目皇子に従った渡来人、忍海漢人に命じ兵器を作らせたことで漢部の郷と「肥前風土記」。他、三瀬は北山ダム、来年には隣接し嘉瀬川ダムが竣工予定ですがこの分野を学びお役にたてればと思います。

 jyoumonjn 『綾部神社は「旗あげ神事」で有名です』 ⇒ 本来そこにあっただろう歴史が消されてはなんとも早ですね。 『三瀬は北山ダム、来年には隣接し嘉瀬川ダムが竣工予定です』 ⇒ 知らずして多くの遺跡が湖底に沈んでしまううのかと思うと残念ですね。


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(261) 『長門以東は朕がとろう。筑紫以西は汝がとれ』 2010年10月31日(日)

 「日本書紀継体紀527年(継体21正和2)8月1日天皇は親しく斧鉞をとって、物部麁鹿火大連に授けて 『長門以東は朕がとろう。筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え。ひんぴんと報告しなくともよい』 といった。」  ⇒いままで、この句の背景になった史実が思い浮かばなく思案してたが、について再度。

 「いままで、この句の背景になった史実が思い浮かばなく思案してたが」⇒私の仮説が正しければ、500年代初頭の近畿に大和朝廷なるものは存在してない。あったとすれば「秦国」だけである。継体の出身地は越国(=福井県)ではなく、「弁辰古資彌凍国」今風に「越水門国」・「越港国」は現在の固城。

 日本書紀の古嵯、新羅以前の小国名が小伽耶である。そもそも継体は実在してたのか。実に疑わしい。そこで、若し「朕」の継体天皇が中大兄皇太子の天智天皇で、物部麁鹿火大連が大海人皇子の天武天皇だとしたらどうだろう。大宰府倭兄王家の白鳳王薩夜麻が白村江戦で敗れ自身は唐の捕虜になった。

 その直後の、663年9月以降の早い時期に、難波で白村江敗戦の報を受けた、難波副都倭弟王家(=プロト大和朝廷)の中大兄皇太子(=のちの天智天皇)は弟の大海人皇子へ「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え、ひんぴんと報告しなくともよい」と指示した。

 倭王が白村江戦で敗れ唐の捕虜になり、倭王が不在になったのだ。その直後の難波複都倭弟王家の中大兄皇太子と大海人皇子との会話だとすれば、実にその状況が納得できるのだ。他に『長門以東は朕がとろう。筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え。ひんぴんと報告しなくともよい』状況は考えられない。

 ということは逆に、《継体天皇が中大兄皇太子の天智天皇で、物部麁鹿火大連が大海人皇子の天武天皇だ》ということになる。  

 その後、中大兄皇太子の天智天皇は本州・四国を近江朝として独立し、近江遷都・即位し、「倭国更えて日本国を号す」のだ。壬申乱で近江朝は潰え一時的だが確かに「継体」したのだ。

《物部麁鹿火大連が大海人皇子の天武天皇だ》からは、
〔古賀達也の洛中洛外日記〕第281話 2010/09/19『筑後の物部氏』
が気になる。

 《継体天皇が中大兄皇太子の天智天皇で、物部麁鹿火大連が大海人皇子の天武天皇だ》の中の『物部麁鹿火大連が大海人皇子の天武天皇だ』から、「大海人皇子の天武天皇の出身地」「天智・天武が兄弟か否か」「大海人皇子の天武天皇が壬申乱で、何故薩夜麻に協力し近江朝を打倒したか」を解明できないか?

 とりわけ、「大海人皇子の天武天皇が壬申乱で、何故九州王朝「倭国」の筑紫君薩夜麻こと白鳳王に協力し、天智天皇の大友皇子の近江朝を打倒したのか」は、ぜひ解明したい命題であろう。分かれば、天武系が先祖供養・皇族祭祀から外されているわけも類推できるのではないか。

 更に、〔唐から捕虜開放され帰国の九州王朝「倭国」の筑紫君薩夜麻こと白鳳王は、天智天皇の大友皇子の近江朝を打倒し壬申乱に勝利したにも関わらず、自分は筑紫(=九州島)の旧直轄地の領土に甘んじ。大海人皇子の天武天皇に長門以東の本州・四国の領土を、何故大海人皇子の天武天皇に委ねたのか?〕だろう。

 唐から捕虜開放され帰国の九州王朝「倭国」の筑紫君薩夜麻は、天智天皇の大友皇子の近江朝を打倒し壬申乱に勝利したのち、倭王「白鳳王」に復位。然し、自分は筑紫(=九州島)の旧直轄地の領土に甘んじ。大海人皇子の天武天皇に長門以東の本州・四国の領土を、何故大海人皇子の天武天皇に委ねたのか?

 天武天皇の和風諡号は天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)であるが、この中の「真人(まひと)」は倭国内の身分であり、この「真人」を天武に与えた上位者は復位した后の薩夜麻こと「白鳳王」であろう。九州王朝内の「真人」は、その後の鎌倉・室町・徳川時代の将軍職に近かったのだろうか。


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(262) 『真実は明確なほど、忘れ去られている』 2010年11月3日(水)

『「古田史学」とは、もとよりわたし自身の命名ではないけれど、

 〔一つは『人間の論理(=道理)』を根本におくこと、一つはその立場から、すべての用例(文献・考古学的出土物・その他)をひとつひとつ逐一再検証する労を労を惜しまないこと。〕この2点につきよう。

 毀誉褒貶は学問にとって浮雲の如しだ。関与するところではないのである。このような立場に立つ限り、課題は“山”のように生まれ、存在し、やがて消え、また生まれ、尽きる日はないのである。』


 これは古田武彦氏が[古田史学会報]ー100号記念に寄せてーの抜粋である。『真実は明確なほど、忘れ去られている。』とも書かれている。


 同会報に触れられている、日本列島には「被差別部落」のある領域と、無い領域があって、無い領域は東北及び沖縄であると。

 私が思うに、この「被差別部落」のある領域とは、九州王朝「倭国」の版図ではないかと。
 ひょっとして、「被差別部落民」は「倭国」の支配階級の王族・貴族だったのではないか?


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(264) 『万人の眼前に輝く「真実の歴史」こそ、人々の認識の外におかれている』 2010年11月7日(日)

 古田史学会報100号記念に寄せて『忘れ去られた真実(抜粋):古田武彦』

 真実は明確なほど、忘れ去られている。万人の眼前に輝く「真実の歴史」こそ、人々の認識の外におかれている。最近、それを痛感することが多い。
 今回はその一例として福沢諭吉の『学問のすすめ』冒頭の、著名の一句の源由を論じよう。

 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」。

 明治五年二月刊行の本書が世に出てより、何回となく、識者によって「解説」せられてきた。
 それによれば、右の一句の源由(=いわれ)は、外国にあり、となし。フランスの人権宣言、アメリカの独立宣言等が、その「引用母体」とされてきたのである。これが通説だった。「定説」とさえ思われてきた。

 しかし、わたしはこれに反対した。『東日流外三郡誌』や『東日流六郡誌』のなかにおびただしく、右と同類の思想が出現している。それも「質」も「量」も、右の一句以上にゆたかに存在するのだ。
 「もとより、天は人をして上下に造りしなく、光明は無辺に平等なれば、いか でやおのれのみ、以って満足に当らんや(中略)よって、わが一族の血には、人の上に人を造らず、人の下に人を造ることなかりき」(『総 東日流六郡誌 全』155ページ)
 「吾らが奥州にては古来より一族の血脈に於て、人の上に人を造らず、亦人の下に人を造るなし」(『東日流外三郡誌』五巻、682~83ページ)右はそれぞれ『日之本将軍安倍安国状』(秋田孝季書)及び「秋田水月抄」』(秋田孝季)からの掲載であった。他にも二十四個所にわたる「同類の思想」が出現している。
 その史料事実を、わたしは(藤田友治氏と共に)これを示した。(『真実の東北王朝』、駸駸堂、1990/六月刊行)。

 しかしいわゆる「通説」側に立つ論者はこれを“受け入れず”に今日に至っていた。周知の通りだ。


 わたしも上記を読んで、福沢諭吉の『学問のすすめ』の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」はフランスの人権宣言、アメリカの独立宣言等が、その「引用母体」とばかり思っていた。

 それが、『東日流外三郡誌』や『東日流六郡誌』のなかに、「もとより、天は人をして上下に造りしなく光明は無辺に平等なれば、いか でやおのれのみ、以って満足に当らんや(中略)よって、わが一族の血には、人の上に人を造らず、人の下に人を造ることなかりき」、「吾らが奥州にては古来より一族の血脈に於て、人の上に人を造らず、亦人の下に人を造るなし」等々が源由だと知って驚き、探究心も湧く。


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(265) 『新羅本紀「阿麻来服」と倭皇天智帝:西井健一郎氏』 2010年11月8日(月)

 同古田史学会報100号記念には、わたしの主張する
〔大和朝廷「日本国」出生秘話〕
にとって非常に有益な投稿記事がある。中でも『新羅本紀「阿麻来服」と倭皇天智帝:西井健一郎』は示唆に富みありがたい。

『 一、「阿麻」とは誰か

 三国史記・新羅本紀・卷第六・文武王・上
〔古代史獺祭〕
『八年春、阿麻來服、遣元器與淨土入唐、淨土留不歸、元器還、有勅、此後禁獻女人』との記述が冒頭に載る。

 つまり、「阿麻」という国や地域か、、「阿麻」王かその姓を名乗る豪族かが新羅に降伏を申し入れにきた、との記事である。続けて解すれば「降伏を申しいれに来たので、新羅の役人を二人、唐朝へ報告に行かせた」ととれる。

  しかし、文武王妃とその前後に「阿麻」と戦った記事はない。この文武王八年は西暦668年、書紀では天智七年に当る。なお同王十一年七月条の大王報書に、この八年に唐が倭国を攻めるためといって船を修理させたが、実は新羅を攻めるためとの情報が入り、『百姓聞之、驚懼不安』との記事がある。

 この「阿麻」とは何者か。この七世紀当時「アマ」として極東に知られているのは、あるいは記録に残るのは、九州王朝の王の姓「阿毎」である。隋書俀国伝(岩波文庫「中国正史日本伝1」)に『自魏至于齊梁代與中國相通開皇二十年俀王姓阿毎字多利思比孤號阿輩雞彌』とある。それは魏史倭人伝にみる卑弥呼以来の九州王朝の当主、タリシホコの姓だ。旧唐書も『倭国者古倭奴國也・・。其王姓阿毎氏』と記す。

 ならば、降伏を求めた「アマ氏」は663年に白村江で敗北を喫した倭国王、九州王朝の当代の主だったとも考えられる。百済の残党軍を支援した九州王朝は白村江で唐・新羅連合軍と戦い将兵を失ったが、同王朝はその後も九州に残存していた。・・・』云々とある。


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 さてここで、
〔九州年号・書紀天皇表〕
を見て欲しい。前年の667年、『唐が筑紫占領、近江朝独立・遷都、③唐・法聡遣倭』、該当年668年は『天智即位(前年の遷都と同時か?)・高句麗滅亡』とある。

 で、「阿麻」をどう捕らえるかであるが。九州倭国は倭王が捕虜拘束の身で、直轄地の筑紫(九州島)は筑紫都督府(=大宰府)に唐軍が駐留占領されていた。長門以東の本州・四国を、難波副都の天智が白村江敗戦以降、兵を結集独立を確保した。前年の667年には近江朝は遷都・即位・倭国から独立した。

 私は『書紀の皇極・孝徳・斉明・天智・天武・の和風諡号に「天□□」を持つ5代の天皇は倭王家〔分家の弟王家〕の出身である』と考えている。「阿麻」は「天」であろう。難波副都倭弟王家の近江朝は、筑紫倭国から独立を期に翌668年新羅へ「阿麻」国を号し、その後670年改めて「日本」国を号したのだ。


①663年、白村江敗戦、唐が倭王「白鳳王」薩夜麻を捕獲・捕虜連行。
②664年頃、天智が天下立評地「長門以東」を倭王不在で直接支配。
③665-6年頃、唐が倭王直轄地の筑紫占領。
④667年、「長門以東」の近江朝が独立・遷都・天智即位。
⑤668年、高句麗滅亡・新羅本紀「阿麻(天=近江朝仮名)来服」記。
⑥670年、天智天皇の近江朝が「倭国」更えて「日本」号す。

以上を整理すると、倭国弟王家の近江朝は667年、倭国から分離独立し、翌年668年、とりあえず、隣国の新羅へ近江朝の仮名「阿麻(=天)」国として、その独立を報告したことになる。


 『新羅本紀「阿麻来服」』で言えることは、日本書紀が全巻を通じ隋書記載の「倭国」及び「秦国」を徹底的に抹消していることだ。更に正木裕氏が言うように書紀が倭国史を切貼りし、その上別名置換等の添削し編纂している為、元々の記事は平凡な記事だったものが、あらぬ解釈の混乱に陥ってしまうのだ。

 〔新羅本紀「阿麻来服」と倭皇天智帝:西井健一郎〕の中で、氏は『ならば降伏を求めた「アマ氏」は663年に白村江で敗北を喫した倭国王・九州王朝の当代の主だったとも考えられる』と言うが、倭国難波副都常駐の弟王家も当然「アマ氏」である。天智は白村江后長門以東を独立させ、国交開設使を新羅へ派遣したのだ。

 新羅本紀「阿麻来服」記とは、倭国難波副都常駐弟王家の近江朝天智は白村江后、倭国から長門以東を、667年分離独立させ、翌年668年、とりあえず、隣国の新羅へ近江朝の仮名「阿麻(=天)」国(弟王家も当然「アマ氏」である)として、その独立宣言報告使・国交開設使を新羅へ派遣したのだ。

 逆に私はこの新羅本紀「阿麻来服」記を知って、倭国難波副都常駐弟王家の近江朝天智は、白村江后倭国から長門以東(本州・四国)を667年分離独立させ、翌年668年とりあえず、隣国の新羅へ近江朝の仮名「阿麻(=天)」国として、その独立宣言報告使・国交開設使を新羅へ派遣したと確信するのだ。


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(266) 『〔薩夜麻の「冤罪」II:正木裕〕書紀では「筑紫」が完全にカットされている』 2010年11月11日(木)

 以下は
〔薩夜麻の「冤罪」II:正木裕〕
に記載の一部抜粋ですので悪しからず。

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 『<途中略>「善隣国宝記」は相国寺の僧瑞渓周鳳が文明二年(一四七〇年)に著わした外交書で、うち海外国記(海外記)は一二世紀頃の勘申(朝廷で諸事の先例・典故を調べ上奏する)からの引用であり、もとは逸文であるが「天平五年(七三三年)春文撰」とされている(岩波補注二六の五)。「撰」は記事を集めて編集することだから、原資料はそれ以前に成立し、(海外国記中に出てくる)博徳の記録も含んでいたと推測されている(岩波同)。 この様に、七二〇年の書紀の成立と時期を接しており、書紀によく引用される博徳の記録も含んでいることから、海外国記(原資料)が書紀編纂の基礎資料のひとつであったろうことは疑いが無い。ここで書紀・海外国記両記事をよく見ていただきたい。



天智三年(664年:白鳳4年)の郭務宗*遣使記事の「原資料」復元


①(海):四月・唐使「対馬」に至る。対馬で応接。
②(書):五月・表函と献物を進る。
③(海):九月・博徳ら筑紫で表函への対応を告げる。
④(書):一〇月・唐使を発て遣す宣勅。使者に饗賜。
⑤(海):一二月・博徳唐使に牒書一函授く。
⑥(書):一二月・唐使帰還。

 書紀・海外国記は見事に相互補完していることが分かる。従って天智三年の郭務宗*遣使記事については、共通の原資料から切り分けられたものである事が理解できるだろう(或いは、原資料→海外国記を編纂→書紀に切り取りといった順か)。 しかも書紀では ★「筑紫」★ が完全にカットされている。

 海外国記を読めば、全て筑紫での出来事だという事が一目瞭然だ。九州王朝の存在を浮かび上がらせる「筑紫」は書紀編者によって隠されたのだ。それだけではない。この「切り分け」には、更に大きな秘密が隠されているのだ。<途中略>』

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以上《書紀では★「筑紫」★が完全にカットされている》とわかる。


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(267) 『封禅の儀で倭王と倭国の体面が保てるよう尽くした事』 2010年11月11日(木)

 大伴部博麻の恩賞のもととなった行動とは、「博麻が、筑紫君薩夜麻の封禅の儀への参加を知り、自ら身を売ることによって、氷連老らが倭王薩夜麻に謁見し、その消息と「天意」を倭国(本朝)に報告すること。そして、封禅の儀で倭王と倭国の体面が保てるよう尽くした事」だ。

 これこそ博麻の「厥の朝を尊び国を愛ひて、己を売りて忠を顕ずる」行動、「朝=天子」への献身・忠節だったのだ。「薩夜麻は部下を奴隷に売って、自分だけ帰還した」などとんでもない濡れ衣、冤罪だった。

 以上は
〔薩夜麻の「冤罪」I:正木裕〕
の抜粋引用です。大伴部博麻恩賞とはそういうことだったのですね。


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(268) 『郭務悰⇒塔務悰⇒唐無双⇒藤腹無双⇒藤原不比等じゃないかなー』 2010年11月11日(木)

 郭務悰⇒塔務悰⇒唐無双⇒藤腹無双⇒藤原不比等じゃないかなー。ただ720年に薨去してるので、白村江戦の663年当時は57年前の話となり、85才で亡くなったとして28才の若造になる。そんな若造に唐国が全権大使で熊津都督府から倭国の筑紫都督府へ派遣するかなー、このからくりぜひ知りたい。

 倭国王最後の高市天皇の皇子:長屋親王は684年誕生-729年3月16日薨去。母は天智天皇の皇女の御名部皇女(元明天皇の同母姉)であった。長屋親王は平城京遷都後台頭の藤原不比等の娘を妻としていた。717年石上麻呂が死去、藤原不比等が720年に没、729年3月「長屋王の変」で自害した。

 倭国王最後の高市天皇の暗殺が696年7月、長屋親王は684年生れで当時12才だ、12才だと判断力もあり、父の暗殺を知らなかったのだろうか。藤原不比等の娘を妻にしていたということは、大和側の石上麻呂・藤原不比等に監視されていただろうし、結局は「長屋王の変」で抹殺されたということか。

 以下は、
〔守常ブログデーター集〕《魚拓》
の中の転載である。また、ここにも藤原不比等が出てくる。

 『天武天皇は壬申の乱を正当化する史書を必要としたし、その皇后の持統天皇は万世一系で孫の文武天皇に、また元明天皇も孫の聖武天皇に皇位を譲る熱望があった。

 それが、天照大御神が皇孫の瓊瓊杵尊に天孫降臨という神話を作らせたというのである。そして天照大御神には外祖父の高皇産霊神があるが、聖武天皇には外祖父の藤原上比等がいた。

 全く同じ形体であり、聖徳太子の作られたものに追加して、藤原氏の祖先神である武甕槌神、経津主神及び天児屋根命が軍事権祭祀権を独占し、藤原氏独裁の思想が暗々裡に語られているというのである。

その神話には藤原上比等の意志が強く働いていると云うのである』


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