大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 014 》
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ
白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、
日本書紀の〔 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権
2010年 4月 2日 発行
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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ https://waikoku.sakura.ne.jp/yamato.html 2:32 PM Apr 2nd webから ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(358) 『その後、卑弥呼を離して脊振山地を越えた伊勢の国に伊勢神宮として祭った』 2011年3月2日(水)
天照大神である卑弥呼と豊すき入姫である臺与は吉野ヶ里に埋葬されていた。その後、卑弥呼を離して脊振山地を越えた
下記記事は《古代史獺祭》
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『<略>而難波朝廷天下立評給時仁 以十郷分弖 度會乃山田原立屯倉弖 新家連阿久多督領 礒連牟良助督仕奉支 以十郷分 竹村立屯倉 麻續連廣背督領 礒部眞夜手助督仕奉支 同朝廷御時仁 初太神宮司所稱神庤司 中臣香積連須氣仕奉支 是人時仁 度會山田原造御厨弖 改神庤止云名弖号御厨 即号大神宮司支<略>』
『列島合体から倭国を論ず:米田良三著』6伊勢神宮p208に、『現実の伊勢神宮は天武天皇が672年以降に造らせたものである』
考えられるのは、「皇太神宮儀式帳の難波朝廷天下立評給時(652年)に度會の山田原に御厨を造る」は、今の伊勢神宮といった本格的なものでなく、『小さい祠』程度のものだった。
一方、天照大神である卑弥呼と、豊すき入姫である臺与は吉野ヶ里に埋葬されていた。その後、天照大神である卑弥呼のみを離して脊振山地を越えた佐賀県神在(=伊勢国)に、垂仁天皇代(350-450年)に移し、(源氏物語に記載の)伊勢神宮として祭った。
これを更に、倭国王「薩夜麻」か、浄御原「大海人」かの天武天皇、「倭王高市」の「持統天皇」のいずれかが672年以降に現在地に伊勢神宮として移築した、とも考えられますね。
皇太神宮儀式帳に『有爾鳥墓村(うてとりつかのむら)に神庤(かむたち)を造りて、雑(よろづ)の神政行(かむことのことまろ)として仕え奉りき』とあります。米田良三氏は吉野ヶ里は環濠集落ではない。初代の卑弥呼を「象山」に埋葬の倭王墓列だと指摘されている。《有爾鳥“墓”村に神庤 》とは、この「象山」の事ではないだろうか?
念の為、【goo辞書】『神庤』を検索すると、
皇太神宮儀式帳『初神郡度會多氣飯野三箇郡本記行事』で、要は「難波朝廷天下立評給時仁度會山田原造御厨」記事でしょう。ということは、伊勢皇太神宮は古くて652年以降。どちらかといえば、大和朝廷の「古事記」「日本書紀」の道教思想の著述内容に併せて、720年前後に佐賀県神在(=伊勢国)から移築したと分ります。
〔伊勢皇太神宮は古くて652年以降。どちらかといえば、大和朝廷の「古事記」「日本書紀」の道教思想の著述内容に併せて、720年前後に佐賀県神在(=源氏物語に記載の伊勢国)から移築したと分ります〕
◎⇒ 正直言って、我ながら、この結論には驚きでした。八百万神代の古い時代といつのまにか刷り込まれてたのでしょう。
九州王朝「倭国」時代に、佐賀県の吉野ヶ里遺跡付近にあった「吉野離宮」、北へ行って山中の初瀬川沿いにあった「長谷寺」、更に北の海沿い加布里神在にあった「伊勢神宮」を。
ふぇー驚きです。この移築はとんでもない作業だったでしょうね。だれがコンダクターだったか?たぶん藤原不比等だったでしょう。「古事記」「日本書紀」「移築・再配置」「地名遷移」、これらを全て承知でないと指揮できませんものね。それにしても、失敗は海沿い吉野ヶ里を、奈良山中にしたことかな^^
それにしても、吉野ヶ里遺跡は、「卑弥呼の墓」・「倭国王墓甕棺列」・「吉野宮」跡だったのを、くだらない『環濠集落遺跡』だとか言って、国民を欺き、改造しちまった。ということでしょう。馬鹿というか、もったいないというか、何んともいやはやです。
なお、皇太神宮儀式帳
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『続:法隆寺は移築された「源氏物語」は筑紫が舞台だ:米田良三著』25.小倉百人一首、2・隠国(こもりく)p173を引用します。
『住友物語』から明巻らかなように本来の竜田山は、九州の背振山地である。山並みを龍が伏せていると捉えた名称と思われる。その龍に守られた山国は隠国と呼ばれ、筑紫の京の奥座敷の位置にあった。
『小倉百人一首』に歌われる龍田、泊瀬の歌は次の3首である。
◎ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 からくれないゐに 水くくるとは
◎嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 龍田の川の 錦なりけり
◎憂かりける 人を泊瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを
龍田川は北山ダムの下流で長野峠からの流れと合流する。
吉野ヶ里の墳丘墓は「魏志」倭人伝に記される卑弥呼の墓の記述と一致することでも明らかなように、吉野ヶ里は日本(倭)国の時代の吉野である。
前の頁にもどるが、そのp154「隠国について」には、
(359) 『卑弥呼の墓の覆い屋は巨大な象を思わせる造りで象山(きさやま)と呼ばれ』 2011年3月4日(金)
更に、前の頁にもどるが、そのp102「16.源氏物語は筑紫起源」には、
『④卑弥呼の墓がある吉野の墓地公園には吉野離宮があり、泊瀬から流れてくる秋津川が園地を潤し、末端で瀧となって吉野川、現在の筑後川に注いでいた。吉野ヶ里の昔の姿は緑に潤った聖地である。
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(360) 『筑紫野市山中に「平等寺」の地名があり、現地には「昔立派な寺があって価値ある宝物が所蔵」の言い伝え』 2011年3月4日(金)
先ほど、TVKええじゃないか京都・宇治市へ『源氏物語の世界へ』をやっていた。つい、見入ってしまった。
さて、米田良三氏は宇治平等院をどう表現しているか、気になります。『続:法隆寺は移築された「源氏物語」は筑紫が舞台だ』
26.シンポジウム「法隆寺移築問題」3.『平等寺について』p128を引用します。
『福岡県の筑紫野市の山中に
<答え>
京都の『東福寺』は佐賀県武雄市の近郊から移築されたと考えられる。というのは質問と同様の言い伝えがあるからで、朝鮮で引き上げられた東福寺船も移築の船の1隻であった可能性がある。
『興福寺』は儀式中断の記録から北部九州から移築したことは疑えないがその元の場所は不明である。しかし、恐らく地元に同様の言い伝えが残っていると思われる。
筑紫野市の山中の「平等寺」が宇治の平等院であると断言出来ないが、『源氏物語』の舞台が筑紫の京であることは動かしがたく、宇治が筑紫野市辺であることは充分に考えられる所である。
平等院は主仏が阿弥陀如来であり、戸襖に描かれた障壁画は來迎図である。絵はほとんど消されており、このことからだけでも解体移築されたことは疑えない。また、平等院鳳凰堂が倭尺を使って造られていることは平面図の柱間寸法にすでに確かめている。』とある。
私にはなるほどと思えていますが、皆さんはどう感じられていますか?
〔大和王朝は難波副都で「天下立評」した九州王朝倭国の倭王〔分家の弟王家〕だ〕呟き〔大和朝廷は、九州王朝「倭国」 の 【 同じ血族・分流 】である。
米田良三著『続・法隆寺は移築された「源氏物語」は筑紫が舞台だ』
(361) 『「干食王后が百済王室の一員であった」とすれば、百済観音と慕ったことは必然である』 2011年3月5日(土)
『続:法隆寺は移築された「源氏物語」は筑紫が舞台だ』17.桐壺帝・更衣=上宮王・干食王后p110を引用します。
『<略>上宮王像は救世観音像と、干食王后像は百済観音像と呼ばれ、各々現在法隆寺東院夢殿と西院百済観音堂に安置される。生前、世の中を救った上宮王を救世観音と慕ったように、「干食王后が百済王室の一員であった」とすれば、百済観音と慕ったことは必然である。
つまり、私は国際結婚が行われたと考える。『源氏物語』の桐壺帝の寵愛や、更衣の気苦労はその現実を的確に表現していると考える。
物語は更衣の父の「按察大納言」の遺言を記述する。「この人を宮仕えにさし出す願いを必ず遂げさせるように。男親が亡くなったからと言って、意気地なく志を挫いてはならぬぞ」との遺言にしたがって入内したとある。
また後に明石女御が東宮の男御子をもうけた時、明石入道はこれまで祈り続けてきた悲願のいわれと、住吉の御社へのお札参りを指示した文を娘の明石の君に送り、自らは消息を絶つ。
◎「明石入道の父である大臣と、按察大納言は“兄弟”である。」という事は、
「子孫が王権につくことが明石入道の祈願の目的であったのだ。」そして、それは、
なぜ、そのように王権にこだわったかを物語は明らかにしない。
『続:法隆寺は移築された「源氏物語」は筑紫が舞台だ』19.清水の御寺・観世音寺 p119 を引用します。
『後に聖徳太子のモデルにされるその「上宮王と、百済王室出身の干食王后との愛の結晶である光源氏」が『源氏物語』の主人公である。源氏は晩年次のように述べる。
「私は、現世の果報から言えば、不足に思うことなどほとんどない「高貴な身分」に生まれながら、一方では他人の味わわない不本意な運命を負わされたものだ、と思うことが絶えない。これも、この世の
はかなさ、辛さを精に知らそうとして、仏などが予め定め置かれた我が宿命ののでもあろう」
平安京都の朝廷で、光源氏と貴族女性との恋愛物語とばかり解釈してたので、遂に、米田さんもいかれちまったか、なーんちゃって。「ま・まさか、法隆寺が大宰府で造られ、光背の法興王の上宮王が桐壺帝、干食王后が更衣で百済王室のゆかりだった。で故に百済観音か、むしろ倭国王朝史そのものだったとは。」
『壬申大乱:古田武彦著』で九州王朝「倭国」の「甘木の王者」が狩りの途次に661年没した、と解明している。百済滅亡がその前年の660年である。この「甘木王」は百済復活戦に賛同でなく、その家臣のストレスを「狩り」で紛らせていた。とも解釈できよう、干食王后・百済派の暗殺も考えられよう。
百済復活戦に賛同の干食王后・百済派は、「狩り」で紛れて「甘木王」を暗殺した。証拠は無いがそう解釈したほうが辻褄が合う。その後白鳳王「薩夜麻」が即位。「甘木王」が推進した「天下立評」の難波副都の天智は百済復活戦に参戦を拒否し、唯一快く参戦してくれたのが群馬県「上毛野君稚子」だった。
九州王朝「倭国」甘木王が弟王家の「伊勢王」を難波副都へ派遣・常駐させ「天下立評」を長門以東で実施したが、当時、群馬辺「上毛野」は蝦夷征討将軍「上毛野君稚子」の前進基地だった。従って、評制採用可能な状況でなく、難波副都「伊勢王」の管轄外で、倭王「甘木王」の直轄地だったと考えられる。
(362) 『この時点、九州王朝「倭国」の都「大宰府」で倭国元号とは別に、西暦が移入され既に認識されていた』 2011年3月7日(月)
『源氏物語』をこれから読まれる方は、光源氏の御歳に、例えば18歳に「定数600」を加えた西暦の618年が、今将に進行中の出来事の紅葉賀(大宰府法隆寺の落成式)であり、完成間近の五重塔の天井裏に大工が落書きのハレー彗星を幼子の紫式部(当時6歳)も夜空を見上げてたしなめられたとすれば、また別の真実の「倭国」の姿、歴史が、源氏出生の西暦601年-薨去653年の倭国史が『源氏物語』を通して垣間見ることが出来ましょうに。特に、下記は趣き(いとおかし)がありますね。
<前引用>
このことは『源氏物語』と『和泉式部日記』から明らかになります。唐からの一団は冊封関係を強いる使いであったため、王子である為尊親王は拒否をし、高表仁と言い争いになり、切られてしまいます。傍にいた太政大臣(現在の総理大臣)と式部卿(現在の外務大臣)も巻き添えを食うことになります。
事件は博多駅辺にあった高津の宮に唐の使節を迎えての会談の場で起こったと考えられます。強大な国家唐が意図して起こしたと考えられる外交事件です。
そうです、まさに、う・嘘ッそうです。信じられますか^^(あなたのその頭で・否失礼)
これが事実なら、この時点、九州王朝「倭国」の都「大宰府」で倭国元号とは別に、西暦が移入され既に認識されていた。光源氏の出生が601年で、653年薨去をと言うより、その年齢を語ることで、倭国に今将に起こっている歴史的事実を書き残したことになり、倭国史を『源氏物語』は隠し伝えている。と言えます。
(363) 『小袖で登るわけではないが、主には方位の感覚をと、高松塚、キトラにみえるような敦煌に嵌っているはずだ』 2011年3月7日(月)
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(373) 『歴史は教える、九州王朝「倭国」の滅亡の直接の引き金が『筑紫大地震(678年)推定震度「7.1以上」』である』 2011年3月13日(日)
歴史を振り返るに、歴史は教える、九州王朝「倭国」の滅亡の直接の引き金が、筑紫全域を襲った『(水縄活断層系を起震断層とする) 筑紫大地震(678年:天武7年:白鳳18年)推定震度は「7.1以上」』の発生である。これによって、『倭国王権』は、居た堪れずに、大宰府から難波へ逃げ出すようにしての遷都しただろうことをである。
更に、この筑紫大地震(678年:天武7年:白鳳18年)発生後、余震と思える書紀の記事12回を経てのち、四国・近畿・東海を襲った、いわゆる大型東南海地震の 『 (震源が室戸岬沖とされる) 白鳳大地震(684年:天武13年:白鳳24年)・マグニチュード 8.4』 が発生するのである。
古賀達也洛中・洛外日記の『天武紀の地震記事と九州王朝(川西市・正木裕)』
『天武紀には天武七年(六七八)の筑紫大地震はじめ、十七回もの地震記事が記録され、『書紀』中でも群を抜く。筑紫大地震以降の十六回中十二回はその余震と見られる事、火山活動に伴う降灰・雷電が記されている事等から、『書紀』のこの部分は筑紫の記事、即ち九州王朝の記録と考えられる。この時期風水害や降雹記事もあり、白村江敗戦に追い討ちをかける、度重なる天災により筑紫の疲弊は甚だしかったと推測される。
一方、『書紀』天武十三年(六八四)の白鳳大地震は、東海・東南海・南海地震の同時発生と考えられ、被災地は筑紫ではなく東海・近畿・四国であるから、これは近畿の記事である。
そして、この年九州年号が「朱雀」と改元されており、近畿での地震被害が改元の契機であれば、九州王朝はこの時点で拠点を近畿、その中でも副都たる難波宮に移していた事となる。これは難波宮焼失の天武十五年に九州年号が「朱鳥」に改元されていることからも裏付けられる。
この間に九州王朝の筑紫から難波への移転がおき、近畿天皇家への権力移行期である天武末期から持統期に、両者は地理的にも近接して存在していたと考えられるのではないか』
即ち、唐、高句麗侵略に端を発した倭国の「常色の改革」、一環の天下立評、難波副都建造、附庸王国解体、白村江敗戦、天智近江朝の唐・倭国からの独立、壬申大乱、倭国再統合、薩夜麻復位、筑紫大地震、大宰府から難波京遷都、白鳳大地震、難波京焼失、浄御原京同居、藤原京遷都、元大化改新、倭国滅亡、をである。
まさに、地震「お・お・怖ッ」である。
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