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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 018 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(428) 『ひところの落ち着きが戻って来た。ぼつぼつ、本来の〔倭国の遺跡スポットを訪ねてみよう〕が恋しくなった』 2011年4月2日(土)

 初瀬寺(=2本・杉神社)から、(初瀬川沿いに)三瀬峠を越えて住之江の《天王寺と(JR博多駅西隣の)住吉大社にお参りをする》に向かう道のりは記述どおりであり、現在の背振山地が竜田山(=金山)であったことがわかる。

 はーい みなさーん、待望の桜が咲く暖かい季節ななりましたよ、ぜひ、長谷寺の跡地探検へ行こうよ  


◎〔海の底 沖つ白波 竜田山 いつか越なむ妹があたり見む〕

(万葉集1-83)この歌の
〔竜田山(=金山)〕
は、地図でこの位置になるね。海が見えたのかな?


RT @2000BMW740i そのすぐ横にある「源氏物語」でいう住吉神社にお参りしてきました。
〔美野島(=田蓑島)〕
は住吉の南側に広がる町で美野島商店街など庶民的な美味しい店が多い。


『円地文子訳(新潮文庫)源氏物語 巻二「玉蔓」』を開いています。この玉蔓で「初瀬」が出る個所を拾ってみましょう。
 p401 ⇒「それにつづいて、御仏の中では大和の
 〔初瀬寺(=杉神社)〕
の観世音が、日本国中にあらたかな霊験をお示しになると、》 唐土(もろこし)までも評判されている 《 そうです。


 天照大神である卑弥呼と豊すき入姫である臺与は吉野ヶ里に埋葬されていた。その後何故か、卑弥呼を離して脊振山地を越えた伊勢の国に
〔伊勢神宮〕
として祭ったのだ。


『逆賊磐井は国父倭薈だ:米田良三著』第3章長谷寺の項に、筑後国風土記逸文「筑紫君磐井(=倭薈)」の
〔墓墳〕
あり、高さ7丈19.67m、周り6丈16.86mの多宝塔。


万葉集912〔泊瀬女の 造る木綿花 み吉野の 瀧の水沫に 咲きにけらずや〕
この歌は秋津川(=城原川?)の下流に
〔吉野宮〕
が位置しそこで歌われた。


〔淑人の よしとよく見て 好し言ひし 芳野よく見よ 多良人よく見〕

天武は『淑人(=倭王薩夜麻)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、
〔多良〕
人よく見(=あの時倭王薩夜麻が賛成してくれて良かった)』


〔反歌一首:集歌240〕
 久堅乃 天帰月乎 網尓刺 我大君者 蓋尓為有

〔古田現代語訳240〕
 〔天帰(=甘木)〕
の大王は「月」を(旗などの)しるしにし、それを御狩りに使われた網の前に、刺すように立てておられる。(亡き大王の柩の列の)そのありさまを見ると、まるで生きておられた時の行列と同じく、今も「きぬがさ」をたてておられるようだ。


〔宝満山(=御笠山)〕
の標高は829mで、『竜田山(=金山)』の標高は967mだ。思ったより急峻というか、海岸の福岡市街からの三瀬峠越えもキツそうだ。


 はーい みなさーん、待望の桜が咲く暖かい季節になりましたよ、ぜひ、
〔長谷寺=泊瀬寺=初瀬寺(=杉神社)〕
の跡地探検へドライブ行こうよ^^
 ついでに、
〔竜田山(=金山)〕
に登ってみるのはいかが?でしょ。唐津湾・対馬海峡がかすみにもやってるかも。


〔万葉集歌219〕

『(天數:天数ふ) (凡津子之:凡津の子が) (相日:逢ひし日に) (〔於保〕尓見敷者:おほに見しくは) (今叙悔:今ぞ悔しき)』


 筑後国風土記逸文に『独自豊前の上膳の県に遁れ、南の山の峻しき嶺の曲に終りき』倭国王倭薈(=磐井)は西暦531年2月7日宇佐駅館川西岸
〔小倉山(小高い丘陵)〕
に死す。


 〔大分県小倉山に東大寺〕
が造られ阿弥陀大仏完成に伴って阿弥陀信仰が成立し、》 後の東アジアへの拡がりを知れば、《 物語の始まる時期が隆盛を経過した時期と推定できる。

     小倉の池そばの倭国東大寺跡地
     〔戦後すぐの米軍上空写真〕
     〔写真からの僧坊区割り図〕


〔真実が解かれることを願って書いたとしか思えない箇所がある:2010年6月27日(日)〕

 〔薬師寺〕
東塔擦銘駢儷文(読み下し文)「其銘曰」
『巍巍(ぎぎ)たり蕩蕩(とうとう)たり、薬師如来。大いに誓願(せいがん)を發して、廣く慈哀を運(めぐ)らしたもう。猗與(いわい)聖王、冥助仰ぎ延(こ)い、爰(ここ)に靈宇を餝(かざ)り、調御を荘厳したもう。亭亭たり寶刹、寂寂たり法域、福は億劫に崇く、慶(よろこび)は萬齢に溢(あふ)れん。』


 源氏は明石の君に上京を促される。明石の君に入道(父)は京に住まいを「大堰川近く」に用意する。
近くに
〔桂殿(=桂離宮)〕
がある。「大堰」とは現在の「水城」であろう。
 桂殿の場所を「源氏物語」では『源氏は須磨、明石とわびしい日々を送られた。そこで明石の君と出会われ、姫君がお生まれになる。源氏は明石の君に上京を促される。明石の君に入道(父)は京に住まいを「大堰川の近く」「大堰」に用意する。近くに「桂殿」がある。「大堰」とは現在の「水城」であろう』


 『源氏物語』と『和泉式部日記』と『旧唐書』は同じ事件を三様に記録していることが分かります。尚、フィクションである『源氏物語』の記録性については、641年3月10日過ぎの明石の女御の御産に対応して、写実的著述である『紫式部日記』を著わしたことで、紫式部自身が特に重要と考えていたか。


 〔九州倭国の法興寺を法隆寺へ移築し〕
その跡地に
〔観世音寺〕
を造った。


 〔佐賀・神埼・吉野ヶ里だより〕
肥前国府へ続く「古代官道」は、吉野ヶ里の北墳丘墓の北を通り、河岸段丘を削って「神埼郡衙跡」に出、神埼郡衙から一直線に西へ佐賀市久保泉町、金立町、大和町「肥前国府」へ続く。


 いえね。
〔大和朝廷は、九州王朝「倭国」 の 【 同じ血族・分流 】である。倭国の遺跡スポットを訪ねてみよう
は、もともとは九州王朝「倭国」の跡地を訪ね、米田さんのお話を聞きながら確認できたら良いなってね始めました。

 米田良三氏がこれまで特定してきた跡地は、聖地小倉山・薬師寺・東大寺・磐井(=倭薈)の墓・法隆寺・三十三間堂・桂離宮・吉野宮・吉野ヶ里・伊勢神宮、今度発表の長谷寺、とても多くなってきました。

 でも我々素人は何故そこが跡地と特定できるのか。著書を単に読むばかりでは、そうかなーと思う訳で米田氏とともに現地を訪ね説明が聞けたらと思います。


 米田良三氏がこれまで特定の遺跡は、聖地小倉山・薬師寺・東大寺・磐井(=倭薈)の墓・法隆寺・三十三間堂・桂離宮・吉野宮・吉野ヶ里・伊勢神宮・長谷寺と、とても多くなってきました。ここ数日来で、その氏が特定の跡地あたりを、地図上に示してみたのですが、車一日の行程ではとても廻れませんよね^^


 九州北部にお住まいの方で、上記近辺の方は、現地を訪ね、遺跡の状況をツイート・ダイレクトメッセージして戴ければと思います。


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(438) 『弁財天を祀っているのは、農耕、特に田植え前にとっては水や太陽は大切なこととして祀っているのは習いか』 2011年4月4日(月)

縄文人さん @jyoumonjn
 〔 弁財天と水の祭り 〕《魚拓》
の引用転載ですので悪しからず。


《 弁財天と水の祭り 》 (2011.04.0415:51)

 四月になり各地では桜の開花から見ごろをむかえるところが多い。四月は旧暦ではまだ三月であり本来の上巳の節供「雛祭」はこの時期に行われていた。水ぬるみ花も咲くころに行われる「桃の節供」と呼ぶにはふさわしい。
 その他には、田植え前の予祝行事や、川遊びや山での水にまつわる行事が行われることがおおかった。
 佐賀県、神崎の仁比山神社の「御田祭」は13年ごとの申年の四月、初申の日から次の申の日までの13日間に渡って行われたようだ「仁比山神社」は山王様といわれ農業神として信仰されてきました。
 その他、背振山や他の小高い山でも「弁財天」を祭ってそこで飲食をしたり土をもらってきたりしたようです。

 この13という数字と申にかかわる行事を考えると、四月は寅卯辰の方局では春の終わりであり木気の墓でもあり、季節の転換を動かす土気を含む大切な辰月であるからだろう。
 辰は震でもあり農耕に大切な雨や水にかかわるものであり三合の支では「申子辰」で「水」墓でもあり水庫でもあるからだろう。
 流し雛、川遊びなど水にかかわる祀りが多いのも頷ける。申は水の始まりであるから申年の申の日はまさに、水の祀りを行うにはふさわしい日取りであったと思われる。
 四月の四と13は何れも金気をあらわす数であり、五行では金生水と「水」をたすける数に関係している。

 次に、弁財天を祀っているのは、いまでは琵琶を抱えている尊像から音楽や習い事の神様とされているが、元来は、サンスクリットでは河川の神であり、インド神話では太陽女神ともいわれたようであるから、農耕、特に田植え前にとっては水や太陽は大切なこととして祀っているのは習いであろうと思う。
 水は風水では「蔵風得水」といわれ財を意味することから財産や商売、豊穣の神様までの利益を求めるようになってきたようである。

 何れにしてもこの辰月の神事は「水」と「農事」にかかわる祭りが多いことがわかります。
 申子辰は三合の水、4、9、13(4+9)は金気で水の祖、弁財天は河川の神様この働きを農事の祭りに、とりいれたものと推測可能です。
 辰月はまた易の卦においても沢天カイとあり、高いところに水があり溢れて下のものに恵みをもたらすという意味から小高い山に弁財天を祀ること、そしてその山に水をもとめて神事を行うことは合理的であるとも傍証できるようです。
 永い風習で消え去ろうとされているのもでも、本来は暮らしの中で五穀豊穣を願う周到な祈願として、伝わってきたものであったと思われる。

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    《うーん、私め、「今一」分ったようで分ってないな^^》


● satosonsatoson
 大和朝廷興味ありますね!始め九州から近畿に移って行ったのでは!


 こちらこそよろしく。『大和朝廷興味ありますね!始め九州から近畿に移って行ったのでは!』いえ、神武の昔でなく、白村江の10年前です。九州王朝「倭国」甘木王が、弟王家の伊勢王(=斉明天皇)に大宰府から難波副都に常駐を命じ、長門以東の出雲・吉備・秦国・尾張の附庸王家を解体し天下立評したのが初めかと。


● satosonsatoson
 もっぱら、井沢元彦さんの本を読んでいました。勿論、朝鮮から逃げて来た貴族でしょう。我々は朝鮮の神を拝んでいることと成ります。北へ北へと元々在った先住民の神と合併させられて今日に至ったのではと思います。


ふ・ふ・ふ、論外ですね^^


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(453) 『だからブルーシートはやめて!能など奉納して静かに愛で、心に刻みたい。』 2011年4月7日(木)

● TAIRANJU
 だからブルーシートはやめて!能など奉納して静かに愛で、心に刻みたい。これからは奇形の桜を見ることになるだろうけれど。 @tohyan: @jyoumonjn


 以下は
〔こんばんは。平安寿です。〕
からの引用です。悪しからず。


 おっしゃる通り。

 RT @TAIRANJU 『原発の高濃度汚染水が 垂れ流しになってる その時に 軽濃度?とか言って結局は汚染された水をドンドン排出 したら~ 汚染水を ドンドン沖に広めて行く事やん 一旦 こぼれたら 二度と拾い集める事はできひんのに‥』

 RT @TAIRANJU 『海の水は雲になって 雨になるのに〓地球に放射能の雨降るやんか~〓やむを得ない措置 って なにやねん?タンクローリ何十万台にでも水溜めたら いいやん~ 世界中から 日本産の魚が永久に嫌われるより まし 世界中から非難されるより ましやんか』


● tohyan
 『奇形の桜を見ることになるだろう』ですって、おっかねー^^能については「縄文人」の方から回答します。
 RT @TAIRANJU だからブルーシートはやめて!能など奉納して静かに愛で、心に刻みたい。これからは奇形の桜を見ることになるだろうけれど。 @tohyan @jyoumonjn


● TAIRANJU
 @tohyan 憂いて心が壊れそうな人がいます。希望ある事実でしか救うことができない。だから私は行動するしかない。リーダーを選び、軌道修正させていくしかない。民意の力で。この国は国民のものですが、この地球は人類のものではありません。


● TAIRANJU
 私は靖国神社で見る夜桜能が好きです。神々しい。奇形の桜もうありますよ。がくから変で花びら4枚。五角形を形成できない。
 @tohyan @jyoumonjn教えて下さい。能のこと。


● tohyan
 私は
〔よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞:古田武彦著〕
に淵源があると思う。
 RT @TAIRANJU @jyoumonjn @tohyan 「教えて下さい。能のこと。」


● tohyan
 観世音寺の古絵図右奥に舞殿が描かれてる
〔九州倭国の法興寺を法隆寺へ移築しその跡地に観世音寺を造った〕
 RT @TAIRANJU @jyoumonjn @tohyan 能のこと教えて下さい


● tohyan
 つまり、我々が日本の歴史教科書で教えられた「能」のはじまり・起源は室町時代という事ですが、九州王朝「倭国」の600年代前半の大宰府「法興寺」では、すでに『能』が舞われていた、ということです。
 RT @TAIRANJU @jyoumonjn @tohyan 「能のこと教えて下さい」


● tohyan
 あはっそういうこと。京大山中伸弥教授の「IPS細胞:田中幹人著」の研究を読むまでも無く、生命の輪廻ですよ^^小さい頃、中国で核実験すると傘差した。
 RT @TAIRANJU @jyoumonjn @tohyan がくから変で花びら4枚で、五角形を形成できない奇形の桜もうありますよ。


● jyoumonjn
 あんがと
 RT@tohyan @TAIRANJU
〔よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞:古田武彦著〕
に淵源があると思う
 RT @tohyan 「教えて下さい。能のこと。」


● tohyan
 いえね、「能」と「道教」の関係についてはまだですので、縄文人さんのほうからお願いします。
 RT @jyoumonjn あんがとRT@tohyan @TAIRANJU 〔よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞:古田武彦著〕に淵源があると思うRT @tohyan 「教えて下さい。能のこと。」


● jyoumonjn
 @tohyan @TAIRANJU いえ「幽玄能」としての様式までには東南アジア各地の伎楽、人形舞、追イ難、巫女舞、神楽などを経ていると思われるのでなんと申し上げるべきか・・ただ能舞台や音曲の仕掛けとしては徹底して陰陽五行と易経を敷いていると思われます。


● tohyan
 たはっ、チンプン・カンプンだす。
 RT @jyoumonjn いえ「幽玄能」としての様式までには東南アジア各地の伎楽、人形舞、追イ難、巫女舞、神楽などを経ていると思われるのでなんと申し上げるべきか…ただ能舞台や音曲の仕掛けとしては徹底して陰陽五行と易経を敷いてる @TAIRANJU


● tohyan
 ふぇー、よけいわからんこつなかとばい^^
 RT @jyoumonjn @tohyan @TAIRANJU 舞踊の共通原点をみると陰陽師の行った反閉(ヘンハ゛イ)の呪法だと発想すると腑に落ちる気がするのですが?すいまそん


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(465) 『もののふの 八十娘子らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子(かたかご)の花』 2011年4月8日(金)




かれんな花の
〔カタクリ〕《魚拓》
は 古く万葉集
 (19巻4143大伴家持)
   にも詠み込まれ、



もののふの
 八十娘子らが
  汲みまがふ

寺井の上の
 堅香子(かたかご)の花





● vege_fru え~そうなんだ。 山に咲く可憐な花。こっちでは、たけのこ畑の近くで群生してます。  RT @vegefruart_andy: @vege_fru 補足有難うございます。出先でしたのですいません。元祖片栗粉はこの
〔カタクリ〕《魚拓》
の地下茎(根っこ)ですね!しかも薬草としても使えるみたいですし。しか


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(470) 『舞踊の共通原点をみると陰陽師の行った反閉(ヘンバイ)の呪法だと発想すると腑に落ちる気がするのですが』 2011年4月9日(土)  

〔あさがた日記「剣舞と反閉(ヘンバイ)」2007年04月24日: 読書出典引用は「わが鬼剣舞の里」(門屋光昭著 トリョーコム)〕《魚拓》

「その反閉(←少し字が違うが)は、陰陽師や修験者の呪法の一つで、悪魔を踏み鎮め、邪気を祓う意味で行うものである。」 P324。

 門屋先生は私たち踊り手に、「反閉は”鎮踏”である」と言っていた内容は、この文章のなかにも出てくる。私ら踊り手は、その剣舞のもつ力強いイメージから「大地をバシッと踏みつける」が適当だと思っていたので…、意外だった。
 だから、武光先生の「足音高く踏み鳴らす」の説のほうがしっくりいく。本物の山伏の所作は、見たことはない。ただ、そんな気がするだけ…なのだが。門屋先生はその所作について、少年の日、息を詰めて垣間見た、榊鬼と呼ばれる鬼の「ヘンベ」であった…と、記している。

 愛知県北設楽郡に伝承される「花祭り」での榊鬼は、全身を赤布で包み、祭を催す宿に出かけるという。途中、新築の家や病人のいる家などに頼まれて、座敷にあがり、横になっているその家の方の体を踏みつけるというのだ。これを「ヘンベ」と称するのだという。
 この所作は、家の繁栄と悪気の追放を果たし、その威力は絶大であるという。そのとき、榊鬼の足もとは、”丹念に踏みつける”ものであり、”足音高く大地を踏む”ものではない…のだそーだ。しかし、どちらも陰陽師や修験者の呪法で、反閉であるとする。それとも、反閉にはふた通りあるのだろうか。


〔あさがた日記「浄土信仰と鬼剣舞」2007年04月25日:読書出典引用は「わが鬼剣舞の里」(門屋光昭著 トリョーコム)〕《魚拓》

「反閉の呪術的性格と念仏によって衆生済度する浄土信仰的性格とが結合したものが剣舞であると思う。」P235。と、門屋先生は述べている。そして、その浄土信仰的色彩が、より濃いものが大念仏剣舞であり、反閉の呪術的性格がより強くでているものが、この鬼剣舞なんだそーだ。  

 たしかに、仏道に帰依した鬼だの、里修験(村に定着した修験者)が伝えただの、いろいろなものが混在しているのが、それがいわゆる”民俗芸能”たる鬼剣舞の本質なのだろう。
 いずれにしても、かくし念仏の土地柄なので、浄土信仰との密接なつながりも、当然あったのだろう。その村人が、剣舞を踊り伝えたのだから…。私ら剣舞の衣装も古いものから新しいものへと、まったく違う時代背景のものが混在していると聞いたことがある。もっとも、いくつもの世代を超えて伝えられた、たいていの伝統芸能ってのは、そーゆーもんだろうけど。

 神様なのか、仏様なのか踊り組のなかには、ヘイソク(神官が御祓いなどにもちいる)を持って踊るところもあり、明治の廃仏毀釈以前の神仏習合の時代のなごりが、垣間見えるとも言われている。もちろん私たちも、神社に奉納し、お寺の本堂で念仏を唱える。
 普通に聞けば、どれもお経だ。だが、これまでお勉強してきたとおり、菩提寺である曹洞宗の教義と剣舞の念仏回向とは、似ているようで違うのがわかった…よーな気がする。(笑)
 たとえば、曹洞宗では「南無釈迦牟尼仏」と唱えるが、剣舞のごしゃらくは「南無阿弥陀仏」なのだナー。

 剣舞の秘伝書「念仏剣舞伝」には、大同3年(808)羽黒山の法印が、悪魔退散・衆生済度の念仏踊りを老僧から教えられたのが始まりとしている。羽黒山は山伏で有名なところ。山伏(修験者)は、いままでお勉強してきたように、密教系の系譜を持っている。そのままで十分、”即身成仏”(笑)なのだ。

 「鬼剣舞は、古くは西磐井地方に多く踊られ、(中略)確実な文献資料があまりにも少ないのである。」P236、と門屋先生も嘆いておられる。宗教的な関連は、なにもわからない。また、そのほうがいいとも思う。剣舞は剣舞で存在して欲しい…みたいな。

 今回いろいろ見てきて、趣味としての日本史が、おんもしれ~くなってきたのは事実だが。

 ちなみに、「巫女舞は優雅に鈴を振りながら神に祈る”舞”。”踊り”とは違い、決して足を上げたり、跳び上がったりはしないものだった。」だそーだ。(月刊 さんさん 2007年4月号)引用。もっとも、私らは巫女ではないが。(笑)

 ひるがえって、鬼剣舞を踊る…ということ。舞と踊り。う~ん。


〔神事の故事来歴(雑学の世界・補考)〕《魚拓》

 若水・産湯・花・鬼・鬼(双六)・韓国「トケビ」・祝詞・霊魂・雛祭り・桃・まじなひ・はちまき・七夕と盆祭・髯籠・鶏鳴と神楽・まとい・だいがく・幣束旗さし物・高御座・祭り・山のことぶれ・お札・絵馬・徒然草・神楽・太神楽…


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(471) 『【壺 齋 閑 話】能「融」(世阿弥の幽玄能)は世阿弥の傑作の一つである』 2011年4月10日(日)

【壺 齋 閑 話】 能「融」(世阿弥の幽玄能)《魚拓》

 能「融」は世阿弥の傑作の一つである。歴史上の人物源融が作ったという六条河原院を舞台に、人間の栄光と時の移り変わりを、しみじみと謡い語る。
 筋らしい筋はないが、月光を背景にして、静かに進行する舞台は、幽玄な能の一つの到達点をなしている。だがそれだけに、初めて能を見る人は退屈するかもしれない。

 源融は、平安時代の初期、九世紀前半に生きた人である。嵯峨天皇の皇子で、後にその子孫から、渡辺綱ら嵯峨源氏の系統が起こっている。風雅な人物だったらしく、後に様々な伝説が生じた。源氏物語の主人公光源氏は、源融をモデルにしたとの説もある。

 源融にかかわる逸話の中で最も名高いのは、京都六条河原なる邸宅の造営である。融はこの邸宅に、陸奥の絶景塩釜の風景をそっくり再現し、難波の海から汐水を汲んで来て池を満たした。能が題材とするのは、この院である。

 源融の建てた宇治の邸宅は、後に平等院となる。融の死後公達がそこで宴を開いた際、融の幽霊が現れて嘆いたという伝説もあり、今昔物語などに取り上げられている。また、能「百萬」の舞台となった嵯峨の清涼寺も、融が建てた別邸の跡である。源融の墓は今も、清涼寺の境内にある。

 六条河原院にまつわる話として、伊勢物語第八十一段に次のような一こまがある。

 ―むかし、左の大臣いまそがりけり。賀茂河のほとりに、六条わたりに、家をいとおもしろく造りて住み給ひけり。神無月のつごもりがた、菊の花うつろひざかりなるに、紅葉の千種に見ゆるおり、親王たちおはしまさせて、夜ひと夜酒飲みし遊びて、夜あけもてゆくほどに、この殿のおもしろきをほむる歌よむ。そこにありけるかたゐをきな、板敷の下にはひありきて、人にみなよませはててよめる。
塩竈にいつか来にけむ朝なぎに釣する舟はこゝに寄らなん となむよみけるは。みちの国にいきたりけるに、あやしくおもしろき所々多かりけり。わがみかど六十余国の中に、塩竈といふ所に似たるところなかりけり。さればなむ、かの翁さらにこゝをめでて、塩竈にいつか来にけむとよめりける。

 左の大臣とは左大臣源融をさす。かたゐをきなは誰ということでもなく、話を面白くするために挿入された人物像だろうか。

 世阿弥はこうした説話をも十分念頭に置いてはいただろうが、能を作るにあたっては、自分の創作を生かしたようである。前段では、塩釜の風景にまねて六条河原の院が作られたいわれを語り、後段では、融が幽霊となって現れ、昔の栄華をなつかしむという構成をとっている。

 なお、この曲のキリの部分は、通夜の席で故人を偲ぶ際に、よく歌われてきた。

 舞台にはまず、東国の僧が都へ向かうといって現れる。(以下、テキストは「半魚文庫」を活用。)

 ワキ詞「これは東国方より出でたる僧にて候。我いまだ都を見ず候程に。此度思ひ立ち都に上り候。
 下歌「おもひ立つ心ぞしるべ雲を分け。舟路をわたり山を越え。千里も同じ一足に。千里も同じ一足に。
 上歌「夕を重ね朝毎の。宿の名残も重なりて。都に早く。着きにけり都に早く着きにけり。
 詞「急ぎ候ふ程に。これは早都に着きて候。此あたりをば六条河原の院とやらん申し候。暫く休らひ一見せばやと思ひ候。

 そこへ、笑翁の面をつけ、汐汲み用の桶を両天秤に担いだ老人が現れる。

 シテ一セイ「月も早。出汐になりて塩釜の。うらさび渡る。気色かな。
 サシ「陸奥はいづくはあれど塩釜の。うらみて渡る老が身の。よるべもいさや定なき。心も澄める水の面に。照る月並を数ふれば。今宵ぞ秋の最中なる。実にや移せば塩釜の。月も都の最中かな。
 下歌「秋は半身は既に。老いかさなりてもろ白髪。
 上歌「雪とのみ。積りぞ来ぬる年月の。積りぞ来ぬる年月の。春を迎へ秋を添へ。時雨るゝ松の。風までも我が身の上と汲みて知る。汐馴衣袖寒き。浦わの秋の夕かな浦わの。秋の夕かな。

 翁の姿を不思議に思った僧は、海辺でもないのに何故汐を汲むのだと尋ねる。すると、翁は、ここ六条河原の院こそ、融の大臣が塩釜に似せて作ったところであり、自分がそこで汐を汲むのは不思議なことではないと答える。そして、かつての六条河原の院の様子などを話して聞かせる。

 ワキ詞「如何にこれなる尉殿。御身は此あたりの人か。
 シテ詞「さん候この処の汐汲にて候。
 ワキ「不思議やこゝは海辺にてもなきに。汐汲とは誤りたるか尉殿。
 シテ「あら何ともなや。さてこゝをば何処としろし召されて候ふぞ。
 ワキ「この処をば六条河原の院とこそ承りて候へ。
 シテ「河原の院こそ塩釜の浦候ふよ。融の大臣陸奥の千賀の塩釜を。都の内に移されたる海辺なれば。名に流れたる河原の院の。河水をも汲め池水をも汲め。こゝ塩釜の浦人なれば。汐汲となどおぼさぬぞや。
 ワキ詞「実に/\陸奥の千賀の塩釜を。都の内に移されたる事承りおよびて候。さてはあれなるは籬が島候ふか。
 シテ「さん候あれこそ籬が島候ふよ。融の大臣常は御舟を寄せられ。御酒宴の遊舞さまざまなりし所ぞかし。や。月こそ出でて候へ。
 ワキ「実に/\日の出でて候ふぞや。あの籬が島の森の梢に。鳥の宿し囀りて。しもんに移る月影までも。孤舟に帰る身の上かと。思ひ出でられて候。
 シテ詞「何と唯今の面前の景色が。御僧の御身に知らるゝとは。若しも賈島が言葉やらん。鳥は宿す池中の樹。
 ワキ「僧は敲く月下の門。
 シテ「推すも。
 ワキ「敲くも。
 シテ「古人の心。今目前の秋暮にあり。 地「実にやいにしへも。月には千賀の塩釜の。月には千賀の塩釜の。浦わの秋も半にて。松風も立つなりや霧の籬の島隠れ。いざ我も立ち渡り。昔の跡を。陸奥の。千賀の浦わを。眺めんや千賀の浦わを詠めん。

 翁は更に、融の死後相続するものもなく、院が荒れ果てていくのを嘆くとともに、かつての栄華を回想する。

 ワキ詞「塩釜の浦を都に移されたる謂御物語り候へ。
 シテ詞「嵯峨の天皇の御宇に。融の大臣陸奥の千賀の塩釜の眺望を聞し召し及ばせ給ひ。この処に塩釜を移し。あの難波の御津の浦よりも。日毎に潮を汲ませ。こゝにて塩を焼かせつゝ。一生御遊の便とし給ふ。然れどもその後は相続して翫ぶ人もなければ。浦はそのまゝ干汐となつて。地辺に淀む溜水は。雨の残の古き江に。落葉散り浮く松蔭の。月だに澄まで秋風の。音のみ残るばかりなり。されば歌にも。君まさで煙絶えにし塩釜の。うらさびしくも見え渡るかなと。貫之も詠めて候。
 地「実にや眺むれば。月のみ満てる塩釜の。浦さびしくも荒れはつる跡の世までもしほじみて。老の波も帰るやらん。あら昔恋しや。
 地歌「恋しや恋しやと。したへども歎けども。かひも渚の浦千鳥音をのみ。鳴くばかりなり音をのみ鳴くばかりなり。

 二人のやり取りは続き、六条河原の院からその周辺の名所へと話題が及ぶ。名所尽くしは「田村」や「熊野」などほかの能にも見られ、能の特徴の一つにもなっている。この時代にあっては、京都の名所を観客に語って聞かせる意味もあったようで、観客サービスの一つのあり方だったらしい。

 ワキ詞「如何に尉殿。見え渡りたる山々は皆名所にてぞ候ふらん御教へ候へ。
 シテ詞「さん候皆名所にて候。御尋ね候へ教へ申し候ふべし。
 ワキ「先あれに見えたるは音羽山候ふか。
 シテ「さん候あれこそ音羽山候ふよ。
 ワキ「音羽山音に聞きつゝ逢坂の。関のこなたにとよみたれば。逢坂山も程近うこそ候ふらめ。
 シテ「仰の如く関のこなたにとはよみたれども。あなたにあたれば逢坂の。山は音羽の峯に隠れて。此辺よりは見えぬなり。
 ワキ「さて/\音羽の嶺つゞき。次第々々の山並の。名所々々を語り給へ。
 シテ詞「語りも尽さじ言の葉の。歌の中山清閑寺。今熊野とはあれぞかし。
 ワキ「さてその末につゞきたる。里一村の森の木立。
 シテ詞「それをしるべに御覧ぜよ。まだき時雨の秋なれば。紅葉も青き稲荷山。
 ワキ「風も暮れ行く雲の端の。梢も青き秋の色。
 シテ詞「今こそ秋よ名にしおふ。春は花見し藤の森。
 ワキ「緑の空もかげ青き野山につゞく里は如何に。
 シテ「あれこそ夕されば。
 ワキ「野辺の秋風
 シテ「身にしみて。ワキ「鶉鳴くなる。
 シテ「深草山よ。
 地「木幡山伏見の竹田淀鳥羽も見えたりや。
 ロンギ地「眺めやる。其方の空は白雲の。はや暮れ初むる遠山の。嶺も木深く見えたるは。如何なる所なるらん。
 シテ「あれこそ大原や。小塩の山も今日こそは。御覧じ初めつらめ。なほ/\問はせ給へや。
 地「聞くにつけても秋の風。吹く方なれや峰つゞき。西に見ゆるは何処ぞ。
 シテ「秋も早。秋も早。半更け行く松の尾の嵐山も見えたり
 地「嵐更け行く秋の夜の。空澄み上る月影に。
 シテ「さす汐時もはや過ぎて。
 地「隙もおし照る月にめで。
 シテ「興に乗じて。
 地「身をば実に。忘れたり秋の夜の。長物語よしなやまづいざや汐を汲まんとて。持つや田子の浦。東からげの汐衣。汲めば月をも袖にもち汐の。汀に帰る波の夜の。老人と見えつるが。汐雲にかきまぎれて跡も見えず。なりにけり跡をも見せずなりにけり。

 (中入間)老人が月光の彼方に消えた後、間狂言が入る。狂言は、六条河原の院のいわれをひととおり語った後、僧に向かって読経をすすめるが、僧は読経をするでもなく、夢にまどろみながら、その続きを見たいと願う。

 後段のシテは前段とは打って変わり、中将面をつけた若者の颯爽とした姿で現れる。そして、若き頃の融を再現して、謡いかつ舞う。このコントラストが、一曲に変化をもたらしているところだ。

 ワキ待謡「磯枕。苔の衣を片敷きて。苔の衣を片敷きて。岩根の床に夜もすがら。猶も奇特を見るやとて。夢待ちがほの。旅寐かな。夢待ちがほの旅寐かな。
 後シテ出端「忘れて年を経し物を。又いにしへに帰る波の。満つ塩釜の浦人の。今宵の月を陸奥の。千賀の浦わも遠き世に。其名を残すまうちきみ。融の大臣とは我が事なり。我塩釜の浦に心を寄せ。あの籬が島の松蔭に。明月に舟を浮べ。月宮殿の白衣の袖も。三五夜中の新月の色。千重ふるや。雪を廻らす雲の袖。
 地「さすや桂の枝々に。
 シテ「光を花と。散らす粧。
 地「ここにも名に立つ白河の波の。
 シテ「あら面白や曲水の盃。
 地「浮けたり浮けたり遊舞の袖。

(早舞)

 ロンギ地「あら面白の遊楽や。そも明月の其中に。まだ初月の宵々に。影も姿も少なきは。如何なる謂なるらん。
 シテ「それは西岫に。入日のいまだ近ければ。其影に隠さるゝ。たとへば月の有る夜は星の薄きが如くなり。
 地「青陽の春の初には。
 シテ「霞む夕の遠山。
 地「黛の色に三日月の。
 シテ「影を舟にも譬へたり。
 地「又水中の遊魚は。
 シテ「釣と疑ふ。
 地「雲上の飛鳥は。
 シテ「弓の影とも驚く。
 地「一輪も降らず。
 シテ「万水も昇らず。
 地「鳥は。地辺の樹に宿し。
 シテ「魚は月下の波に伏す。
 地「聞くとも飽かじ秋の夜の。
 シテ「鳥も鳴き。
 地「鐘も聞えて
 シテ「月も早。
 地「影傾きて明方の。雲となり雨となる。此光陰に誘はれて。月の都に。入り給ふ粧。あら名残惜しの面影や名残惜しの面影。

 最後に、シテは月光に誘われるように退場する。この部分が、人のこの世からの退場を連想させるものであったためか、通夜の席でうたわれることともなった。

 筆者はかねて謡曲を趣味にし、数十人の仲間たちとサークル活動のようなことをしてきた。謡曲をたしなむ者には年配者が多いから、長い付き合いのうちには、亡くなる人もある。そんな折、我々は申し合わせて通夜の席を訪ね、遺族や僧侶の了解を得た上で、故人のためにこの曲をささげるのである。

 或る時、筆者のとりわけ親しくしていた人が亡くなった。面倒見のよい男で、サークルの世話焼きのようなことをしてくれていたが、比較的若くして亡くなった。自分の死の半年ほど前に会員が死んだときには、我々とともにこの曲を謡い、かつ告別の文をものしたりもしたのだったが、まさかその男が、こんなにも早く亡くなるとは、我々にも信じがたかった。

 その彼の死を見舞った通夜の席上でも、我々は祭壇の前に数列に並び、融のキリの一節を謡ったのだった。

 ―この光陰に誘はれて、月の都に入り給ふ装、あら、名残惜しの面影や、名残惜しの面影

 関連リンク: 能と狂言>能、謡曲への誘い

•能「屋島」(世阿弥の勝修羅物:平家物語)

•能「菊慈童」(枕慈童:邯鄲の枕の夢)

•翁:能にして能にあらず

•世阿弥の夢幻能(敦盛を例にとって)

•観阿弥の能

•観阿弥と大和猿楽(能と狂言:歴史の一齣)

•能「海人」(海士:龍女伝説と母の愛)

•能「百萬」(嵯峨女物狂:母子の生き別れと再会)

•能「羽衣」(天女伝説)

•高砂:世阿弥の脇能




● “ とうやん ” @t0hyan · 3時間 3時間前
.@sakenoichiza
お気に入りに感謝
【壺 齋 閑 話】能「融」(世阿弥の幽玄能)は世阿弥の傑作の一つである
能「融」(世阿弥の幽玄能)




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(472) 『【壺 齋 閑 話】能「鷺」:延年の舞とのかかわり』 2011年4月10日(日)


 〔【壺 齋 閑 話】能「鷺」:延年の舞とのかかわり〕《魚拓》


 能には鶴亀や猩々など動物を題材にしたジャンルのものがいくつかあるが、おおむねめでたさを祝う、祝祭的な雰囲気のものが多い。鷺もまたそのような祝祭的な雰囲気に満ちた能である。
 作者や典拠は定かではない。能以前に栄えた伝統的な芸能である延年の舞が進化したのだろうとする説が有力である。あるいは民衆芸能が昇華したものかもしれない。能の作品の中では素朴さを感じさせる逸品である。

 ストーリーといえるほどのものはない。延喜の御世に醍醐天皇が神泉苑で遊んでいるところを、鷺が飛んできた。帝はそれを捕まえるように大臣に命ずる。大臣はその宣旨を蔵人に伝えるが、蔵人は空を自由に飛びまわる鳥を捕まえるのは難しいことだと躊躇する。すると大臣は王土の下では、鳥でさえも王威に服するものだと蔵人を励ます。

 人の気配に気づいた鷺が逃げようとしたところを、蔵人は鷺に対して宣旨である旨を告げる。すると鷺は王威にひれ伏してなされるままになり、帝の前まで連れ出される。喜んだ帝は蔵人に五位の位を授与するとともに、鷺にも五位を授ける。ここから五位鷺の名が生まれたという具合に、一種の語源譚にもなっている。

 この能では、シテの鷺は少年あるいは還暦を過ぎた老人が直面で演じることとされている。例外的に壮年の俳優が演じる場合もあるが、その場合には延年という特殊な面をつける。

 以下に紹介するのは、先日NHKが放映した宝生流の能である。シテは近藤乾之助が演じていた。

 舞台にはまず間狂言が登場し、これから延喜の帝が神泉苑で夕涼みする旨を告げる。つづいて大勢の臣下を従えて延喜の帝が登場する。帝は子方である。(以下テクストは「半魚文庫」を活用)

 ワキ、ワキツレ一セイ「久方の。月の郡の明らけき。光も君の。恵かな。
 ワキ、ツレ、サシ「それ明君の御代のしるし。万機の政すなほにして。四季をり/\の御遊までも。捨て給はざる叡慮とかや。
 ツレ「まづ青陽の春にならば。
 ワキツレ「処々の花のみゆき。
 ツレ「秋に時雨の紅葉狩。
 ワキツレ「日数も積る雪見の行幸
 ツレ「寒暑時を違へされば。
 ワキツレ「御遊のをりも。
 ツレ「時を得て。
 ワキワキツレ上歌「今は夏ぞと夕涼。今は夏ぞと夕涼。松の此方の道芝を。誰踏みならし通ふらん。これは妙なるみゆきとて。小車の。直なる道を廻らすも同じ雲居や大内や。神泉苑に着きにけり。神泉苑に着きにけり。
 ツレサシ「面白や孤島峙つて波悠々たるよそほひ。誠に湖水の浪の上。三千世界は眼の前に盡きぬ。十二因縁は心の裏に空し。げに面白き景色かな。
 地「鷺の居る。池の汀は松ふりて。池の汀は松ふりて。都にも似ぬ。住居はおのづからげにめづらかに面白や。或は詩歌の舟を浮め。又は糸竹の。聲あやをなす曲水の。手まづ遮る盃も浮むなり。あら面白の池水やな。あら面白の池水やな。

 ここで鷺が舞台に出てくる。白鷺であるから衣装はすべて白づくめだ。直面の頭の上の冠には、鷺をかたどった飾り物がついている。

 鷺の姿を目に留めた帝が、とって参れと命ずる。以下上述したようなやり取りが続いて鷺は帝の前にひれ伏す。

 ツレ「いかに誰かある。
 ワキツレ「御前に候。
 ツレ「あの洲崎の鷺をりから面白う候。誰にても取りて参れと申し候へ。
 ワキツレ「畏つて候。いかに蔵人。あの洲崎の鷺をりから面白うおぼしめされ候ふ間。取りて参らせよとの宣旨にて候。
 ワキ「宣旨畏つて承り候さりながら。かれは鳥類飛行の翅。いかゞはせんと休らへば。
 ワキツレ「よしやいづくも普天の下。卒土のうちは王地ぞと。
 ワキ「思ふ心を便にて。  ワキツレ「次第々々に。
 ワキ「芦間の蔭に。
 地「狙ひより狙ひよりて。岩間のかげより取らんとすれば。この鷺驚き羽風を立てゝ。ぱつとあがれば力なく。手を空しうして。仰ぎつゝ走り行きて。汝よ聞け勅諚ぞや。勅諚ぞと。呼ばはりかくれば。此鷺立ち帰つて。本の方に飛び下り。羽を垂れ地に伏せば。抱きとり叡覧に入れ。げに忝き王威の恵。ありがたや頼もしやとて。皆人感じけり。げにや仏法王法の。かしこき時の例とて。飛ぶ鳥までも地に落ちて。叡慮に適ふありがたや。叡慮に適ふありがたや。猶々君の御恵。仰ぐ心もいやましに。御酒を勧めて諸人の。舞楽を奏し面々に。きぎの蔵人。召し出され様々の。御感のあまり爵を賜び。ともになさるゝ五位の鷺。さも嬉しげに立ち舞ふや。
 シテ「洲崎の鷺の。羽を垂れて。
 地「松も磯馴るゝけしきかな。

 舞 ここで鷺は喜びの舞を舞うが、他の作品にはない、特別の舞である。

 シテ「畏き恵は君朝の。
 地「畏き恵は君朝の。四海に翔る翅まで。靡かぬ方も。なかりければ。まして鳥類畜類も。王威の恩徳逃れぬ身ぞとて。勅に従ふ此鷺は。神妙々々放せや放せと重ねて宣旨を下されければ。げにかたじけなき宣命を。ふくめて。放せばこの鷺。心嬉しく飛びあがり。心嬉しく飛びあがりて。行くへも知らずぞなりにける。

 開放された鷺は喜び勇んで空中に飛び立ち、舞台から去っていくところで一曲が終了するといった具合である。


 私が言いたいのは、ここに登場の『延喜の帝が神泉苑で夕涼みする旨を告げる。つづいて大勢の臣下を従えて延喜の帝が登場。云々』の「延喜の帝」だ。
これは
〔米田良三著『続・法隆寺は移築された「源氏物語」は筑紫が舞台だ』〕
に記載の倭国王の一人だ。


 同書P107【17・桐壺帝・更衣=上宮王・干食王后】項に《『源氏物語』は「いずれの御時にか」に始まるが、先に示した倭薈王(いわいおう)死後の延喜帝(えんぎのみかど)・天慶帝(てんぎょうのみかど)・天暦帝(てんりゃくのみかど)・法興帝(ほうこうのみかど)の存在が明らかとなる、云々》


 〔倭国の遺跡スポットを訪ねてみよう〕2011年2月18日(金)「源氏物語」は九州王朝「倭国」の最盛期の一番華やかなりし頃の601年-653年の筑紫が舞台だ』〕
を参照


 つまり、私は
〔よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞:古田武彦著』〕
に淵源があると思う。
 RT @TAIRANJU @jyoumonjn @tohyan 「能のこと教えて下さい」


 観世音寺の古絵図右奥に舞殿が描かれてる
〔九州倭国の法興寺を法隆寺へ移築しその跡地に観世音寺を造った』〕
 RT @TAIRANJU @jyoumonjn @tohyan 能のこと教えて下さい


 くどいけど、我々が日本の歴史教科書で教えられた「能」のはじまり・起源は室町時代という事ですが、九州王朝「倭国」の600年代前半の大宰府「法興寺」では、すでに『能』が舞われていたということです。
 RT @TAIRANJU @jyoumonjn @tohyan 「能のこと教えて下さい」


● jyoumonjn
 @tohyan おはようございます。僅か一日で能起源論、すごいですね?ふむふむ(^0^)


 唐の高宗が道教を信奉していたのはご承知ですよね。そこへ白村江で捕虜になった倭王薩夜麻が連行され何故かすごく気に入れられた。唐高宗は薩夜麻へ道教を伝授。開放帰国後、大海人とで「壬申乱」に戦勝、天智近江朝を再統合する。RT @TAIRANJU @jyoumonjn @tohyan


 倭国王薩夜麻は大海人(天武天皇はこの2人1役)へ道教を伝授する。大海人は長門以東のプロト大和で、以前より伝わっていた道教を、本格的に国教化する。『道教と古代日本:福永光司著』を読むと天武天皇以降盛んになったと読める。
 RT @TAIRANJU @jyoumonjn @tohyan


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(473) 『この反閉(ヘンハ゛イ)と、よみがえる九州王朝幻の筑紫舞:古田武彦著の「ルソン足」とは同じかどうか?』 2011年4月10日(日)

● tohyan
 この反閉(ヘンバイ)と、よみがえる九州王朝幻の筑紫舞:古田武彦著の「ルソン足」とは同じかどうか?
 RT @TAIRANJU @jyoumonjn @tohyan 東南アジア各地の伎楽、人形舞、追イ難、巫女舞、神楽など舞踊の共通原点をみると陰陽師の行った反閉(ヘンバイ)の呪法だ。


● jyoumonjn
 絵馬からみると同じものかと、ただ採物に扇が見えるので年代は?洞窟で舞うのは御岳の呪術、アメノウズメと同類で火を剋す水の呪術かと @tohyan この反閉(ヘンハ゛イ)と、よみがえる九州王朝幻の筑紫舞:古田武彦著の「ルソン足」とは同じかどうか?


● jyoumonjn
 @tohyan @TAIRANJU 扇の祖形はビロウの葉で、沖縄の御岳では陽物の象徴として使用したのでは?


● jyoumonjn
 @tohyan 洞窟の前で、3、5、7人立ての舞を奉納するのは陽数、扇(ビロウ)も陽物としての陰陽交合、一は二を生じ二は三を生じ、三は総てを生ず、生命の再生呪術では?


● jyoumonjn
 @tohyan 神降ろしには八白土気の神木としての松は欠かせない、能が舞台にあがるまえは山車に松を飾って奉納した(松拍子マツハ゛ヤシ)⇒舞台の松、橋がかりの松(神の顕現する艮の装置)


● tohyan
 ①陽物(=扇の祖形がビロウの葉)とは?②3、5、7の奇数は陽数か?
 RT @TAIRANJU @jyoumonjn @tohyan 洞窟の前で、3、5、7人立ての舞を奉納するのは陽数、扇(ビロウ)も陽物としての陰陽交合、一は二を生じ二は三を生じ、三は総てを生ず、生命の再生呪術では?


● tohyan
 ③洞窟で舞うのは御岳の呪術「御岳」とは?④アメノウズメって確かサンカの神様じゃなかったと?
 RT @TAIRANJU @jyoumonjn @tohyan 絵馬からみると同じものかと、ただ採物に扇が見えるので年代は?洞窟で舞うのは御岳の呪術、アメノウズメと同類で火を剋す水の呪術かと


● tohyan
 これ見ても
〔ビロウとシュロの違いは今もって分らない〕《魚拓》
 RT @TAIRANJU @jyoumonjn @tohyan 扇の祖形はビロウの葉で、沖縄の御岳では陽物の象徴として使用したのでは?


● tohyan なるほど、これはなんとなく分ったような気がする^^
 RT @TAIRANJU @jyoumonjn @tohyan 神降ろしには八白土気の神木としての松は欠かせない、能が舞台にあがるまえは山車に松を飾って奉納した(松拍子マツハ゛ヤシ)⇒舞台の松、橋がかりの松(神の顕現する艮の装置)


● TAIRANJU
 能楽師さんにきいてみますよ。観世流の。
 RE @tohyan: @jyoumonjn


● jyoumonjn
 @tohyan 「御嶽」と書くべきかと琉球朝の霊廟、「ビロウ(蒲葵)」はja.wikipedia.org/wiki/ 絵馬は馬扇のかわり⇒扇(陽物)洞窟は陰、沖縄のお墓は御嶽のカタチ?


● jyoumonjn
 @tohyan 天孫降臨の場で猿田彦(火)はおおせの様に対峙してるはずと・・そこでアメノウズメが胸じホトを露にして踊る(水)で水剋火により路をひらいたのでは?


● jyoumonjn
 @tohyan 追記:蒲葵はその葉の形が扇に似ているからではなくそれは象徴で本質はその幹のほうに陽物としての働きが隠されて(長形の扇)


● tohyan
 「御嶽」は琉球朝の霊廟ですって、聞いてよかった。
 RT @TAIRANJU @jyoumonjn @tohyan 「御嶽」と書くべきかと琉球朝の霊廟、「ビロウ(蒲葵)」はja.wikipedia.org/wiki/ 絵馬は馬扇のかわり⇒扇(陽物)洞窟は陰、沖縄のお墓は御嶽のカタチ?


● tohyan
 なんで、そんなに陰・陽にこだわるんでしょう^^屁理屈じゃないかと思うけど。
 RT @TAIRANJU @jyoumonjn @tohyan 天孫降臨の場で猿田彦(火)はおおせの様に対峙してるはずと・・そこでアメノウズメが胸じホトを露にして踊る(水)で水剋火により路をひらいたのでは?


● jyoumonjn
 @tohyan こだわりは私ではなく時代の信仰では「なぜ称名念仏」を信仰したのでしょう?^^何故悪人正機説なんでしょう?


● tohyan
 米田良三氏によると、倭薈王の阿弥陀如来信仰を新興の大和朝廷は禁じています。そして、その頃、道教が盛んになってる。
 RT @TAIRANJU @jyoumonjn @tohyan こだわりは私ではなく時代の信仰では「なぜ称名念仏」を信仰したのでしょう?^^何故悪人正機説なんでしょう?


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(474) 『【神事の故事来歴】■呪詞及び祝詞』 2011年4月10日(日)

〔【神事の故事来歴】■呪詞及び祝詞〕  

 延喜式の祝詞を、世間では、非常に古いものだと考へて居る。或は、高天原から持ち来されたものゝやうにも云うてゐるが、さうでは無く、自分は悉、平安朝の息がかゝつてゐると思ふ。かう言ふのは、祝詞の性質として為方の無い事で、第一、祝詞が我々に訣るといふのは、それが新しいからである。併し全部が、平安朝時代の新作だといふのでは無く、大体平安朝の初め、百年ばかりの間に、今我々が見るやうな風のものに固定したのである。

 祝詞は、その時代々々の改作を受けてゐるので、新古入り混つてゐる。昔の人が、その時の気分次第で、文章を変へて行つたのであるから、その文章は継ぎはぎである。今でも、学問の無い人は、かしこまるといふ言葉を、あらたまつて云ふ時には、かしこまゐるだと思うて、さう云うて、平気でゐる事があるが、祝詞にも、かうした間違ひがある。

 何故かういふ風になつたか。それには原因がある。これを頭に入れておかねば、祝詞は釈けない。この間違ひの筋道を辿つて行かなければ、ほんとうの事は得られない。先輩達が、講義をしてゐる所を見ると、祝詞は訣るものだと思はれる。併し、我々には、出来るだけ訣らうとしてゐるが、とても訣らない。が、簡単に解いて行けば、何でも無く、解けるのである。此延喜式祝詞にも、かういふ改作やそれに伴ふ間違ひがあつて、或は国家組織以前からの言葉が、其中に織り込まれてゐるとも思はれる。その中に、段々時代が移つて行くに連れて、その時代々々の特徴を示すものも見えるが、それが、平安朝のはじめに、大きな変化を蒙つた、と考へねばならぬ。

 この延喜式祝詞は、祝詞の固定したものであるが、中には、祝詞とは云へないものも混つてゐる。延喜式の祝詞の巻を略して、祝詞式とも云ふが、此を普通には、中臣ノ祝詞と、斎部ノ祝詞との二つに分けてゐる。勿論、宮廷に於ける、公のものばかりである。さうすると、平安朝の宮中に仕へてゐた、昔からの伝統ある官吏、或は其部下である中臣・斎部の二家で、此宮中の祝詞を持つてゐたといふ事になる。

 一方地方の国々・村々の祝詞は、何処で持つてゐ、どうなつたかといふと、惜しい事には、只今では、全部滅びて了うてゐて訣らない。時々、昔の祝詞だといふものが出て来るが、大抵は、偽物である。然も其祝詞が、完全なものなので、祝詞の間違ひ方を知つてゐるものが、検査した時、その完全な点が、却つて不完全を示してゐる。 で、此地方の国々・村々の祝詞が、何故滅びたか。其は、口伝せられて、秘密であつたが為である。祝詞を伝へてゐる者が、秘密にしておいて、伝へない中に死になどして、全部滅びたものと思はれる。又昔の祝詞は、今の様に、書き物に書いて読むのでは無く、口伝へであつた故、保存せられないで、云ふ人の気持ちで変つたり、毀れたりしても滅びたのである。宮中の祝詞でも、中臣・斎部のもの以外に、まだあつた筈である。中臣・斎部のものは、表向きの、他人が聞いても差し支へないものであつて、内らの、秘密に属するものは、隠してあつた。事実、祝詞を見ると、天つ祝詞と書いてあるものも、其秘密である天つ祝詞の文章は、省いてあつた。今の人は、今日残つてゐる様な文字に書いたものが、其儘読まれた、と考へてゐる様であるが、昔は文字に書いて無くて読まれるものも、中にはあつたのである。

 こんなわけで、中臣・斎部が、公に扱ふ祝詞以外に、各役所で扱うたものが、どれだけ消失してゐるか訣らない。宮中の政は皆、神様の為事で、所謂まつりごとであつて、それは皆、一々、祝詞や呪詞を伴うてゐたのである。消失したものゝ中でも、殊に、一番神に近い、宮廷の巫女達(平安朝では内侍)のものは、殆、無くなつて了うた。次に、此祝詞の不完全なのは、返し祝詞・返り申しの欠けてゐる事である。祝詞は唱へたゞけではいけないので、唱へられた神の返事が、必要なのである。此が、今の祝詞には残つてゐない。

 鎮火祭(ホシヅメノマツリ)、この祝詞には、うつかりして、天つ祝詞を書き出してあるが、他は皆、天つ祝詞を以て申すとありながら、天つ祝詞は省いてある。省いてはあるが、文章はわかつてゐる。実に変なものである。日本の文章は、皆こんなものである。江戸の歌謡類もさうで、殊に、長唄に於いて甚しい。これには、その文の一方をなしてゐる、役者の言葉が省いてあつて、地の文章ばかりだからである。日本には、かうした芸術が行はれてゐるのである。

 以上説いた所によつて、大体延喜式祝詞に関する、値打ちの定め方がきまつた訣である。即、延喜式祝詞は、元の姿とは非常に、意味が変つてゐて、祝詞以外のものをも含んでゐるのである。


 祝詞には、三種類の内容がある。此祝詞といふ語については、昔からいろいろの説があるが、私は、かう考へてゐる。即のるといふ事は、天皇、或は、国々の君が、神様の資格で、高い処に上つて命令する事である。此のりを発する場所を「宣処(ノリト)」と云うた。即、信仰的に設けた、一段高い座なのである。此処で唱へる言葉が、のりとごとであつた。其を、次第に略して、のりとといふ様になつた。のりとと言ふだけで、既に其中に、ごとの意が含まれてゐるので、のりとごとのごとは、のりとの意味を、忘れて後の附加である、といふのは間違ひである。

 祝詞は、最初は天皇がなさるものであつた。処が、日本には、代役の思想があつた為に、後、中臣が専唱へるやうになつた。天皇御自身が、既に代役であつて、神漏岐・神漏美の御言持ちとして、此国に降つてゐられるのである。御言持ちとは、その神漏岐・神漏美の命令を、伝達するものなのである。何々の命といふみことは、此御言持ちの略せられたもので、後、尊い人を意味する言葉だ、と思ふやうになり、更に、日本紀に命・尊などゝ区別する様になつてから、元の意味は、全く忘れられてしまうた。さてかうした、代役の思想が行き亘つてゐた為に、段々、上から下に及んで行つて、遂に中臣が、専属に、天皇の仰つしやる事を代つて云ふやうになつた。かうして、中臣祝詞が出来たのである。


 此と、斎部祝詞と云はれてゐるものとは、全く別であつて、斎部のものは、祝詞では無い、寿詞(ヨゴト)である。天皇の仰つしやるのりとごとに対する御返事、即(すなはち)返し祝詞・返り申しを古い言葉で、寿詞といふ。毎年、初春に奏する寿詞は、約束をきりかへるものであつた。

 服従を誓ふことは、実は、一度でよかつたのであるが、其を確実にする為に、いつとなく毎年繰り返すやうになつて、後の朝賀の式にまで発達した。此式では、まづ天皇よりの詔詞があり、此に対して、群臣中の、二三の大きな家の氏ノ上が、全体を代表して出て(元は、家々で出たものである)、今年も俺に服従しろ、といふ意味の御言葉に対して、叛かぬといふ事を申し上げる。此が寿詞である。

 寿詞のよは、時代によつて変遷もあつたが、いのち・寿命などの意で、又魂を意味する。此を唱へると、唱へかけられた人に、唱へた方の魂が移るのである。此唱へ言の、最小限度のものが、諺である。とにかく、唱へ言をすると、其言葉の中についてゐる魂が、先方にくつ附く。家々には、大切な魂があるが、此が寿詞を唱へると、天皇の御体にうつゝて行く。それ故天皇は、国々村々の魂を沢山持つてゐて、其勢力は、非常に強くなる。かうした所から、天皇が不要の魂を、臣下に与へるといふ様な事も出て来た。かう考へて来ると、返り申しであり、魂を先方の身体にくつ附ける言葉である寿詞は、祝詞と同一のものでない事が訣る。

 延喜式祝詞は、祝詞・寿詞、其他のものが混つてゐるために、訣らぬ処が多い。祝詞は、上から下に対して云ふものである。寿詞は、下から上に対して云ひ、其と共に、服従を誓ふ。天皇に寿詞が無く、氏々に此があるのは、此故である。又寿詞は、氏々の家が、天皇の御祖先と交渉を始めた来歴を、云ひかへれば、自分々々の家の為事の始め、本縁を説明するものである。此意味で室ノ寿詞は、真の意味の寿詞ではない。ともかく何時でも、誓ひ、服従する時に唱へるのが、寿詞である。処が、学者達は、寿詞は祝詞の古いものだ、と説明してゐるが、私は、さうは思はない。


 次に、もう一種の祝詞がある。それは鎮詞・護詞・鎮護詞などゝ書かれるいはひごとである。これが、ごちやごちやになつて、祝詞の中に混つてゐる。斎部の祝詞は皆、此鎮詞である。いはふといふ言葉は、今、神をいはひこめる等いふのと、略同じ意味である。これはいむから出てゐる。いむは、単に慎むといふ意で、いまはるとなると、その上に、身の周りを浄める意味が出て来る。いはふは周囲を浄めて中に物を容れる、又はくつ附けるといふ意味である。即(すなはち)魂をくつ附けて、離さぬやうにするのである。鎮詞といふのは、その言葉なのである。それ故、鎮詞・鎮護詞などゝ書かれてゐるのである。

 鎮詞は、不思議なもので、その発達によつて、祝詞や、寿詞の古格が乱れた。祝詞と、鎮詞との区別は、大体左の如きものである。

祝詞  ┌→イ
 a─→a’│→ロ
 └→ハ
鎮詞  ┌→イ
 a─→b│→ロ
 └→ハ
aは天皇、a’は中臣、bは斎部、イロハは中臣・斎部それぞれの命令をきくもの

 祝詞は、天皇の資格で、その御言葉のとほりに、中臣が云ふのであるが、鎮詞は、少し趣きが違ふ。氏族の代表者が、ほんとうに服従を誓うた後、其下に属してゐる者に、俺もかうだから、お前達も、かうして貰はなければならぬ、といふやうな命令の為方である。ちようど、掏児や博徒の親方が、其手下に、警察の意嚮を伝へるといつたやうな具合のものである。それ故、此は御言持ちでは無く、自分の感情に、飜訳して云ふのである。だから鎮詞は、祝詞の言葉の命令的なるに対し、妥協的である。其で鎮詞は、大抵の場合は、土地の精霊が、自由に動かぬやうに、居るべき処に落ちつける言葉になつてゐる。即いはひ込めてしまふ詞である。此は、祝詞の意志を、中間に立つ者が、飜訳して云ふのであつて、多くの場合は、被征服者の中の、代表者が云ふ言葉である。これを司つたのが、山の神で、山の神は、土地の精霊の代表者であつた。

 祝詞には、以上説明したやうな、三種類の区別があるが、此を延喜式の祝詞に当て篏めて見ると、どれも此も、厳重に、此区別には合はない。殊に、出雲国造神賀詞(カムヨゴト)と、中臣寿詞とは、寿詞と云ひながら、頻りに、自分から鎮詞を述べてゐる。此頃既に、寿詞と鎮詞とが、ごちやごちやに考へられてゐた事が訣る。


 国々の神が、位を貰ふといふ不思議を、仏教では、王は十善・神は九善などゝ説明してゐるが、此は、当然なことであつた。天皇は天津神の子孫であつて、同時に、祝詞を唱へる時だけは、その天津神であつた。故に、天皇は神であると共に、人間であつた。天皇のおつしやる御言葉が、精霊或は、精霊から成り上りの神に対して、高いものから、低い者に云ひ下す言葉になるのは、当然であつた。それで神の位が段々昇進するのは、かうした、信仰から来た自然であつて、次第に、天津神に近づかされるのである。処が、延喜式などを見ると、已(すで)に変な所が見える。天皇が、神に対して、非常に丁寧である。天皇が、祝詞を下されるといふ考へが、変化して来てゐるのである。即、ほんとうの祝詞では無くなつて来てゐる。それで延喜式祝詞が、古い祝詞で無い事は、此によつても明らかである。

 天つ祝詞は、高天原から伝つてゐるものだ、といふ信仰を以て、唱へ伝へられて来てゐる。唯今、天つ祝詞といふ言葉の這入つてゐるものは、主として、斎部祝詞であるが、これは鎮詞に属するものである。斎部は、天皇に対する雑役に与つてゐた。又中臣大祓詞、これは、斎部祝詞に似てゐるが、此中に、天つ祝詞といふ言葉がある。此天つ祝詞といふ言葉は、常に「あまつのりとの太のりとごと」と続く。此中の「太」は、単に、天つ祝詞の美称と考へられて来てゐるが、私は、壮重なのりとに於いて、唱へられる言葉、即天つ宣(ノ)り処(ト)に於ける、壮重なのりとごとゝ解する方がよいとおもふ。天つ祝詞を唱へる個処は、動作を伴ふところであるらしい。其動作をするのが、斎部の役人達であつた。これを唱へると、不思議なことがあらはれて来る。

 天つ祝詞は、大体に短くて、諺に近いものである。即、神の云うた事のえつせんすのやうなものである。が私は、天つ祝詞が、祝詞の初めだとは思はない。ずつと昔からの、祝詞の諸部分が脱落して、一番大事なものだけが、唱へられてゐたのが、天つ祝詞であるとおもふ。一寸考へると、単純から複雑に進むのが、当然の様に思はれるが、複雑なものを単純化するのが、我々の努力であつた。それで、極めて端的な命令の、或は呪ひの言葉が、天つ祝詞であつたが、其が段々、世の中に行はれて来ると、諺になる。故に私は、此と諺との起原は、同一なものだと考へてゐる。だから諺は、命令的である。元はその句は、二句位であつて、三句に成ると、諺では無く、歌になつた。古事記・日本紀などを見ても、諺は、二句を本体としてゐる。それで、今の諺の発達の途には、天つ祝詞があるわけである。

 口頭の詞章には、歌と、唱詞と、語詞と、三通りあつた。唱詞は、所謂祝詞で、長い語詞の中(ウチ)のものが脱落して、後に残つた、有力な部分が、歌である。唱ふには、したがふといふ意味があつて、相手に命令して、自分と同じ動作をさせる事が、其力であつた。徇は、したがふと訓むが、となふとも、訓み伝へられて来てゐる。

 以上の三種類のものは皆、声楽的に異つてゐる。唱詞は、声楽的に歌や語詞とも別な要素を持ち、又別の効果を持つてゐた。我々は、延喜式に、祝詞としてある三種類のものを、唱詞といふ言葉で総括して行きたい。  


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(475) 『わかりました。反閉(ヘンバイ)と、幻の筑紫舞での「ルソン足」とは同じなのですね』 2011年4月10日(日)

 わかりました。反閉(ヘンバイ)と、幻の筑紫舞での「ルソン足」とは同じなのですね。あと、採物の扇を使うか使わないかで年代が分るのでしょうか?
 RT @TAIRANJU @jyoumonjn @tohyan 絵馬からみると同じものかと、ただ採物に扇が見えるので年代は?


● jyoumonjn
 @tohyan 私見では絵馬をみるかぎり扇は紙、か檜扇に見えるので宇知波と阿布岐を区別した言葉は平安期~かとそれまでは団扇状の翳「サシハ」(高松塚壁画)か蒲葵扇かと、但し平城宮址より檜扇の変形は出ている(木簡に似るが)


 なるほど、そこまで詳しく分るのですね。ところで、米田良三氏が言う源氏物語は600年代前半の倭国大宰府だ説を信じればですが、源氏絵巻にある女御のもつ扇はなんと見る?
 RT @jyoumonjn 私見では絵馬をみるかぎり扇は紙、か檜扇に見えるので宇知波と阿布岐を区別した言葉は平安期~


● jyoumonjn
 @tohyan 絵巻そのものの年代は別に、描かれている公家の女房装束には「檜扇」ですね?夏には紙扇だったと思われる。


「檜扇」って、ヒノキだったのですか?なんだか重そうですね^^そもそも、扇ってなんに使ったのでしょう?顔隠す為、それとも涼むため?
 RT @jyoumonjn 絵巻そのものの年代は別に、描かれている公家の女房装束には「檜扇」ですね?夏には紙扇だったと思われる。


● jyoumonjn
 おはです。扇は本来的には邪気祓いの呪物(顔、口隠す、一遍聖絵に見える。冬でも用いたため、あと巫女の神降ろしの呪具、^^)
 RT @tohyan そもそも、扇ってなんに使ったのでしょう?顔隠す為、それとも涼むため?


 邪気祓いの呪物ですか、ならば、常に携帯しなくても良いと思うのですが、また、ケッタイな使い方ですね、女性に扇を向けtらぞっとしせんか?
 RT @jyoumonjn おはです。扇は本来的には邪気祓いの呪物(顔、口隠す、一遍聖絵に見える。冬でも用いたため、あと巫女の神降ろしの呪具、^^)


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(477) 『延喜式の祝詞を、世間では、非常に古いものだと考へて居るが、さうでは無く平安朝の息がかゝつてゐると思ふ』 2011年4月11日(月)

 出雲・加賀・吉備・秦国・尾張等の各附庸王国が成立する以前を考えてみよう。日本の場合、こっちの浜辺、向こうの入り江、あっちの山あいの村と、各々が異なる言葉を話し、土着血族も異なったといわれている。当然、その土俗信仰も異なったはずである。


 ところがそこへ、弥生農耕の発達である。弥生米作農耕は貯蔵を可能にし、貧富の差を生みだしたのだ。有力者が勃興し、有力者は近隣を征服し、征服者は自らの神をその隷属者へ押し付けたはずである。


 ということで、長門以東の出雲には出雲大社、吉備には吉備津彦神社、尾張には熱田神宮といった土地氏族長信仰が、各附庸王国ごとに盛んだった筈である。ところがそこへ、唐が高句麗攻撃の報告である。倭国の甘木王が「常色の改革」の一環で「天下立評」を難波副都で652年宣言するやいなや、状況は一変する。以降の各附庸王国はみるみる衰退し解体した。当然、土地氏族長信仰も主人を失ったことだろう。


 倭国の「天下立評」、大和朝廷の「廃評建郡」は土俗信仰の宗教の世界へも当然及んだはずだ。ちょうどそこへ、倭国史を改編・編集して成立した「古事記」「日本書紀」の登場である。これをもとに、土俗宗教そのものも中央集権化したと思われる。




 結果として、
〔【神事の故事来歴】■呪詞及び祝詞〕
で、『延喜式の祝詞を、世間では、非常に古いものだと考へて居る。或は、高天原から持ち来されたものゝやうにも云うてゐるが、さうでは無く、自分は悉、平安朝の息がかゝつてゐると思ふ。

 かう言ふのは、祝詞の性質として為方の無い事で、第一、祝詞が我々に訣るといふのは、それが新しいからである。併し全部が、平安朝時代の新作だといふのでは無く、大体平安朝の初め、百年ばかりの間に、今我々が見るやうな風のものに固定したのである。』
と指摘された所以だろう。


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(479) 『扇は本来的には邪気祓いの呪物(顔、口隠す、一遍聖絵に見える。冬でも用いた、あと巫女の神降ろしの呪具)』 2011年4月11日(月)



● jyoumonjn
 おはです。扇は本来的には邪気祓いの呪物(顔、口隠す、一遍聖絵に見える。冬でも用いたため、あと巫女の神降ろしの呪具、^^)
 RT @tohyan そもそも、扇ってなんに使ったのでしょう?顔隠す為、それとも涼むため?


邪気祓いの呪物ですか、ならば、常に携帯しなくても良いと思うのですが、また、ケッタイな使い方ですね、女性に扇を向けtらぞっとしせんか?
 RT @jyoumonjn おはです。扇は本来的には邪気祓いの呪物(顔、口隠す、一遍聖絵に見える。冬でも用いたため、あと巫女の神降ろしの呪具、^^)


● jyoumonjn
 あれ~御守り身につけたりはずしたりするんだ?扇子で結界をつくるのはなぜかなぁ?
 RT @tohyan 邪気祓いの呪物ですか、ならば、常に携帯しなくても良いと思うのですが


あんね、先生に聞いてるんだから^^源氏絵巻に女御はみんな持ってるよ。携帯電話みたいに。
 RT @jyoumonjn あれ~御守り身につけたりはずしたりするんだ?扇子で結界をつくるのはなぜかなぁ?RT @tohyan 邪気祓いの呪物ですか、ならば、常に携帯しなくても良いと思うのですが


● jyoumonjn
 扇の霊性に近くなりましたね?本質は葉ではなく幹。
 RT @tohyan http://www.miyazaki-c.ed.jp/jimu-hr/main/birou.htm 檳榔(びろう)は別名蒲葵(ほき)、コバ、アジマサとも呼ばれ…。
 RT @jyoumonjn あの、大嘗蔡


 それを言うなら、“幹”じゃなく“葉脈”が槍のように尖っているとか、で、霊になる?
RT @jyoumonjn 扇の霊性に近くなりましたね?本質は葉ではなく幹。
 RT @tohyan 檳榔(びろう)は別名蒲葵(ほき)、コバ、アジマサとも呼ばれ…。
 RT @jyoumonjn あの、大嘗蔡


 仮に、この見たことがない「びろう」の葉脈の形が、火炎というか、墓場の青白い火の玉と見たのか、古代人がその形に霊性を感じるものなのか不思議です。RT、“幹”じゃなく“葉脈”だったとして、霊になるものなのか?
 RT @jyoumonjn 扇の霊性に近くなりましたね?本質は葉ではなく幹。




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