大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 018 》
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ
白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、
日本書紀の〔 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権
2010年 4月 2日 発行
《 前 へ 戻 る 《 ( つぶやき「古代」 その018 ) 》 次 へ 進 む 》
(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ https://waikoku.sakura.ne.jp/yamato.html 2:32 PM Apr 2nd webから ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(428) 『ひところの落ち着きが戻って来た。ぼつぼつ、本来の〔倭国の遺跡スポットを訪ねてみよう〕が恋しくなった』 2011年4月2日(土)
初瀬寺(=2本・杉神社)から、(初瀬川沿いに)三瀬峠を越えて住之江の《天王寺と(JR博多駅西隣の)住吉大社にお参りをする》に向かう道のりは記述どおりであり、現在の背振山地が竜田山(=金山)であったことがわかる。
はーい みなさーん、待望の桜が咲く暖かい季節ななりましたよ、ぜひ、長谷寺の跡地探検へ行こうよ
◎〔海の底 沖つ白波 竜田山 いつか越なむ妹があたり見む〕
(万葉集1-83)この歌の
RT @2000BMW740i そのすぐ横にある「源氏物語」でいう住吉神社にお参りしてきました。
『円地文子訳(新潮文庫)源氏物語 巻二「玉蔓」』を開いています。この玉蔓で「初瀬」が出る個所を拾ってみましょう。
天照大神である卑弥呼と豊すき入姫である臺与は吉野ヶ里に埋葬されていた。その後何故か、卑弥呼を離して脊振山地を越えた伊勢の国に
『逆賊磐井は国父倭薈だ:米田良三著』第3章長谷寺の項に、筑後国風土記逸文「筑紫君磐井(=倭薈)」の
万葉集912〔泊瀬女の 造る木綿花 み吉野の 瀧の水沫に 咲きにけらずや〕
〔淑人の よしとよく見て 好し言ひし 芳野よく見よ 多良人よく見〕
天武は『淑人(=倭王薩夜麻)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、
〔反歌一首:集歌240〕
〔古田現代語訳240〕
〔宝満山(=御笠山)〕
はーい みなさーん、待望の桜が咲く暖かい季節になりましたよ、ぜひ、
〔万葉集歌219〕
『(天數:天数ふ) (凡津子之:凡津の子が) (相日:逢ひし日に) (〔於保〕尓見敷者:おほに見しくは) (今叙悔:今ぞ悔しき)』
筑後国風土記逸文に『独自豊前の上膳の県に遁れ、南の山の峻しき嶺の曲に終りき』倭国王倭薈(=磐井)は西暦531年2月7日宇佐駅館川西岸
〔大分県小倉山に東大寺〕
小倉の池そばの倭国東大寺跡地
〔真実が解かれることを願って書いたとしか思えない箇所がある:2010年6月27日(日)〕
〔薬師寺〕
源氏は明石の君に上京を促される。明石の君に入道(父)は京に住まいを「大堰川近く」に用意する。
『源氏物語』と『和泉式部日記』と『旧唐書』は同じ事件を三様に記録していることが分かります。尚、フィクションである『源氏物語』の記録性については、641年3月10日過ぎの明石の女御の御産に対応して、写実的著述である『紫式部日記』を著わしたことで、紫式部自身が特に重要と考えていたか。
〔九州倭国の法興寺を法隆寺へ移築し〕
〔佐賀・神埼・吉野ヶ里だより〕
いえね。
米田良三氏がこれまで特定してきた跡地は、聖地小倉山・薬師寺・東大寺・磐井(=倭薈)の墓・法隆寺・三十三間堂・桂離宮・吉野宮・吉野ヶ里・伊勢神宮、今度発表の長谷寺、とても多くなってきました。
でも我々素人は何故そこが跡地と特定できるのか。著書を単に読むばかりでは、そうかなーと思う訳で米田氏とともに現地を訪ね説明が聞けたらと思います。
米田良三氏がこれまで特定の遺跡は、聖地小倉山・薬師寺・東大寺・磐井(=倭薈)の墓・法隆寺・三十三間堂・桂離宮・吉野宮・吉野ヶ里・伊勢神宮・長谷寺と、とても多くなってきました。ここ数日来で、その氏が特定の跡地あたりを、地図上に示してみたのですが、車一日の行程ではとても廻れませんよね^^
九州北部にお住まいの方で、上記近辺の方は、現地を訪ね、遺跡の状況をツイート・ダイレクトメッセージして戴ければと思います。
(438) 『弁財天を祀っているのは、農耕、特に田植え前にとっては水や太陽は大切なこととして祀っているのは習いか』 2011年4月4日(月)
縄文人さん @jyoumonjn
《 弁財天と水の祭り 》 (2011.04.0415:51)
四月になり各地では桜の開花から見ごろをむかえるところが多い。四月は旧暦ではまだ三月であり本来の上巳の節供「雛祭」はこの時期に行われていた。水ぬるみ花も咲くころに行われる「桃の節供」と呼ぶにはふさわしい。
この13という数字と申にかかわる行事を考えると、四月は寅卯辰の方局では春の終わりであり木気の墓でもあり、季節の転換を動かす土気を含む大切な辰月であるからだろう。
次に、弁財天を祀っているのは、いまでは琵琶を抱えている尊像から音楽や習い事の神様とされているが、元来は、サンスクリットでは河川の神であり、インド神話では太陽女神ともいわれたようであるから、農耕、特に田植え前にとっては水や太陽は大切なこととして祀っているのは習いであろうと思う。
何れにしてもこの辰月の神事は「水」と「農事」にかかわる祭りが多いことがわかります。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《うーん、私め、「今一」分ったようで分ってないな^^》
● satosonsatoson
こちらこそよろしく。『大和朝廷興味ありますね!始め九州から近畿に移って行ったのでは!』いえ、神武の昔でなく、白村江の10年前です。九州王朝「倭国」甘木王が、弟王家の伊勢王(=斉明天皇)に大宰府から難波副都に常駐を命じ、長門以東の出雲・吉備・秦国・尾張の附庸王家を解体し天下立評したのが初めかと。
● satosonsatoson
ふ・ふ・ふ、論外ですね^^
(453) 『だからブルーシートはやめて!能など奉納して静かに愛で、心に刻みたい。』 2011年4月7日(木)
● TAIRANJU
以下は
おっしゃる通り。
RT @TAIRANJU 『原発の高濃度汚染水が 垂れ流しになってる その時に 軽濃度?とか言って結局は汚染された水をドンドン排出 したら~ 汚染水を ドンドン沖に広めて行く事やん 一旦 こぼれたら 二度と拾い集める事はできひんのに‥』
RT @TAIRANJU 『海の水は雲になって 雨になるのに〓地球に放射能の雨降るやんか~〓やむを得ない措置 って なにやねん?タンクローリ何十万台にでも水溜めたら いいやん~ 世界中から 日本産の魚が永久に嫌われるより まし 世界中から非難されるより ましやんか』
● tohyan
● TAIRANJU
● TAIRANJU
● tohyan
● tohyan
● tohyan
● tohyan
● jyoumonjn
● tohyan
● jyoumonjn
● tohyan
● tohyan
(465) 『もののふの 八十娘子らが 汲みまがふ 寺井の上の 堅香子(かたかご)の花』 2011年4月8日(金)
かれんな花の
もののふの
寺井の上の
● vege_fru え~そうなんだ。
山に咲く可憐な花。こっちでは、たけのこ畑の近くで群生してます。
RT @vegefruart_andy: @vege_fru 補足有難うございます。出先でしたのですいません。元祖片栗粉はこの
(470) 『舞踊の共通原点をみると陰陽師の行った反閉(ヘンバイ)の呪法だと発想すると腑に落ちる気がするのですが』 2011年4月9日(土)
〔あさがた日記「剣舞と反閉(ヘンバイ)」2007年04月24日: 読書出典引用は「わが鬼剣舞の里」(門屋光昭著 トリョーコム)〕・《魚拓》
「その反閉(←少し字が違うが)は、陰陽師や修験者の呪法の一つで、悪魔を踏み鎮め、邪気を祓う意味で行うものである。」 P324。
門屋先生は私たち踊り手に、「反閉は”鎮踏”である」と言っていた内容は、この文章のなかにも出てくる。私ら踊り手は、その剣舞のもつ力強いイメージから「大地をバシッと踏みつける」が適当だと思っていたので…、意外だった。
愛知県北設楽郡に伝承される「花祭り」での榊鬼は、全身を赤布で包み、祭を催す宿に出かけるという。途中、新築の家や病人のいる家などに頼まれて、座敷にあがり、横になっているその家の方の体を踏みつけるというのだ。これを「ヘンベ」と称するのだという。
〔あさがた日記「浄土信仰と鬼剣舞」2007年04月25日:読書出典引用は「わが鬼剣舞の里」(門屋光昭著 トリョーコム)〕・《魚拓》
「反閉の呪術的性格と念仏によって衆生済度する浄土信仰的性格とが結合したものが剣舞であると思う。」P235。と、門屋先生は述べている。そして、その浄土信仰的色彩が、より濃いものが大念仏剣舞であり、反閉の呪術的性格がより強くでているものが、この鬼剣舞なんだそーだ。
たしかに、仏道に帰依した鬼だの、里修験(村に定着した修験者)が伝えただの、いろいろなものが混在しているのが、それがいわゆる”民俗芸能”たる鬼剣舞の本質なのだろう。
神様なのか、仏様なのか踊り組のなかには、ヘイソク(神官が御祓いなどにもちいる)を持って踊るところもあり、明治の廃仏毀釈以前の神仏習合の時代のなごりが、垣間見えるとも言われている。もちろん私たちも、神社に奉納し、お寺の本堂で念仏を唱える。
剣舞の秘伝書「念仏剣舞伝」には、大同3年(808)羽黒山の法印が、悪魔退散・衆生済度の念仏踊りを老僧から教えられたのが始まりとしている。羽黒山は山伏で有名なところ。山伏(修験者)は、いままでお勉強してきたように、密教系の系譜を持っている。そのままで十分、”即身成仏”(笑)なのだ。
「鬼剣舞は、古くは西磐井地方に多く踊られ、(中略)確実な文献資料があまりにも少ないのである。」P236、と門屋先生も嘆いておられる。宗教的な関連は、なにもわからない。また、そのほうがいいとも思う。剣舞は剣舞で存在して欲しい…みたいな。
今回いろいろ見てきて、趣味としての日本史が、おんもしれ~くなってきたのは事実だが。
ちなみに、「巫女舞は優雅に鈴を振りながら神に祈る”舞”。”踊り”とは違い、決して足を上げたり、跳び上がったりはしないものだった。」だそーだ。(月刊 さんさん 2007年4月号)引用。もっとも、私らは巫女ではないが。(笑)
ひるがえって、鬼剣舞を踊る…ということ。舞と踊り。う~ん。
若水・産湯・花・鬼・鬼(双六)・韓国「トケビ」・祝詞・霊魂・雛祭り・桃・まじなひ・はちまき・七夕と盆祭・髯籠・鶏鳴と神楽・まとい・だいがく・幣束旗さし物・高御座・祭り・山のことぶれ・お札・絵馬・徒然草・神楽・太神楽…
(471) 『【壺 齋 閑 話】能「融」(世阿弥の幽玄能)は世阿弥の傑作の一つである』 2011年4月10日(日)
能「融」は世阿弥の傑作の一つである。歴史上の人物源融が作ったという六条河原院を舞台に、人間の栄光と時の移り変わりを、しみじみと謡い語る。
源融は、平安時代の初期、九世紀前半に生きた人である。嵯峨天皇の皇子で、後にその子孫から、渡辺綱ら嵯峨源氏の系統が起こっている。風雅な人物だったらしく、後に様々な伝説が生じた。源氏物語の主人公光源氏は、源融をモデルにしたとの説もある。
源融にかかわる逸話の中で最も名高いのは、京都六条河原なる邸宅の造営である。融はこの邸宅に、陸奥の絶景塩釜の風景をそっくり再現し、難波の海から汐水を汲んで来て池を満たした。能が題材とするのは、この院である。
源融の建てた宇治の邸宅は、後に平等院となる。融の死後公達がそこで宴を開いた際、融の幽霊が現れて嘆いたという伝説もあり、今昔物語などに取り上げられている。また、能「百萬」の舞台となった嵯峨の清涼寺も、融が建てた別邸の跡である。源融の墓は今も、清涼寺の境内にある。
六条河原院にまつわる話として、伊勢物語第八十一段に次のような一こまがある。
―むかし、左の大臣いまそがりけり。賀茂河のほとりに、六条わたりに、家をいとおもしろく造りて住み給ひけり。神無月のつごもりがた、菊の花うつろひざかりなるに、紅葉の千種に見ゆるおり、親王たちおはしまさせて、夜ひと夜酒飲みし遊びて、夜あけもてゆくほどに、この殿のおもしろきをほむる歌よむ。そこにありけるかたゐをきな、板敷の下にはひありきて、人にみなよませはててよめる。
左の大臣とは左大臣源融をさす。かたゐをきなは誰ということでもなく、話を面白くするために挿入された人物像だろうか。
世阿弥はこうした説話をも十分念頭に置いてはいただろうが、能を作るにあたっては、自分の創作を生かしたようである。前段では、塩釜の風景にまねて六条河原の院が作られたいわれを語り、後段では、融が幽霊となって現れ、昔の栄華をなつかしむという構成をとっている。
なお、この曲のキリの部分は、通夜の席で故人を偲ぶ際に、よく歌われてきた。
舞台にはまず、東国の僧が都へ向かうといって現れる。(以下、テキストは「半魚文庫」を活用。)
ワキ詞「これは東国方より出でたる僧にて候。我いまだ都を見ず候程に。此度思ひ立ち都に上り候。
そこへ、笑翁の面をつけ、汐汲み用の桶を両天秤に担いだ老人が現れる。
シテ一セイ「月も早。出汐になりて塩釜の。うらさび渡る。気色かな。
翁の姿を不思議に思った僧は、海辺でもないのに何故汐を汲むのだと尋ねる。すると、翁は、ここ六条河原の院こそ、融の大臣が塩釜に似せて作ったところであり、自分がそこで汐を汲むのは不思議なことではないと答える。そして、かつての六条河原の院の様子などを話して聞かせる。
ワキ詞「如何にこれなる尉殿。御身は此あたりの人か。
翁は更に、融の死後相続するものもなく、院が荒れ果てていくのを嘆くとともに、かつての栄華を回想する。
ワキ詞「塩釜の浦を都に移されたる謂御物語り候へ。
二人のやり取りは続き、六条河原の院からその周辺の名所へと話題が及ぶ。名所尽くしは「田村」や「熊野」などほかの能にも見られ、能の特徴の一つにもなっている。この時代にあっては、京都の名所を観客に語って聞かせる意味もあったようで、観客サービスの一つのあり方だったらしい。
ワキ詞「如何に尉殿。見え渡りたる山々は皆名所にてぞ候ふらん御教へ候へ。
(中入間)老人が月光の彼方に消えた後、間狂言が入る。狂言は、六条河原の院のいわれをひととおり語った後、僧に向かって読経をすすめるが、僧は読経をするでもなく、夢にまどろみながら、その続きを見たいと願う。
後段のシテは前段とは打って変わり、中将面をつけた若者の颯爽とした姿で現れる。そして、若き頃の融を再現して、謡いかつ舞う。このコントラストが、一曲に変化をもたらしているところだ。
ワキ待謡「磯枕。苔の衣を片敷きて。苔の衣を片敷きて。岩根の床に夜もすがら。猶も奇特を見るやとて。夢待ちがほの。旅寐かな。夢待ちがほの旅寐かな。
(早舞)
ロンギ地「あら面白の遊楽や。そも明月の其中に。まだ初月の宵々に。影も姿も少なきは。如何なる謂なるらん。
最後に、シテは月光に誘われるように退場する。この部分が、人のこの世からの退場を連想させるものであったためか、通夜の席でうたわれることともなった。
筆者はかねて謡曲を趣味にし、数十人の仲間たちとサークル活動のようなことをしてきた。謡曲をたしなむ者には年配者が多いから、長い付き合いのうちには、亡くなる人もある。そんな折、我々は申し合わせて通夜の席を訪ね、遺族や僧侶の了解を得た上で、故人のためにこの曲をささげるのである。
或る時、筆者のとりわけ親しくしていた人が亡くなった。面倒見のよい男で、サークルの世話焼きのようなことをしてくれていたが、比較的若くして亡くなった。自分の死の半年ほど前に会員が死んだときには、我々とともにこの曲を謡い、かつ告別の文をものしたりもしたのだったが、まさかその男が、こんなにも早く亡くなるとは、我々にも信じがたかった。
その彼の死を見舞った通夜の席上でも、我々は祭壇の前に数列に並び、融のキリの一節を謡ったのだった。
―この光陰に誘はれて、月の都に入り給ふ装、あら、名残惜しの面影や、名残惜しの面影
関連リンク: 能と狂言>能、謡曲への誘い
•能「屋島」(世阿弥の勝修羅物:平家物語)
•能「菊慈童」(枕慈童:邯鄲の枕の夢)
•翁:能にして能にあらず
•世阿弥の夢幻能(敦盛を例にとって)
•観阿弥の能
•観阿弥と大和猿楽(能と狂言:歴史の一齣)
•能「海人」(海士:龍女伝説と母の愛)
•能「百萬」(嵯峨女物狂:母子の生き別れと再会)
•能「羽衣」(天女伝説)
•高砂:世阿弥の脇能
◇
● “ とうやん ” @t0hyan · 3時間 3時間前
□
(472) 『【壺 齋 閑 話】能「鷺」:延年の舞とのかかわり』 2011年4月10日(日)
〔【壺 齋 閑 話】能「鷺」:延年の舞とのかかわり〕・《魚拓》
能には鶴亀や猩々など動物を題材にしたジャンルのものがいくつかあるが、おおむねめでたさを祝う、祝祭的な雰囲気のものが多い。鷺もまたそのような祝祭的な雰囲気に満ちた能である。
ストーリーといえるほどのものはない。延喜の御世に醍醐天皇が神泉苑で遊んでいるところを、鷺が飛んできた。帝はそれを捕まえるように大臣に命ずる。大臣はその宣旨を蔵人に伝えるが、蔵人は空を自由に飛びまわる鳥を捕まえるのは難しいことだと躊躇する。すると大臣は王土の下では、鳥でさえも王威に服するものだと蔵人を励ます。
人の気配に気づいた鷺が逃げようとしたところを、蔵人は鷺に対して宣旨である旨を告げる。すると鷺は王威にひれ伏してなされるままになり、帝の前まで連れ出される。喜んだ帝は蔵人に五位の位を授与するとともに、鷺にも五位を授ける。ここから五位鷺の名が生まれたという具合に、一種の語源譚にもなっている。
この能では、シテの鷺は少年あるいは還暦を過ぎた老人が直面で演じることとされている。例外的に壮年の俳優が演じる場合もあるが、その場合には延年という特殊な面をつける。
以下に紹介するのは、先日NHKが放映した宝生流の能である。シテは近藤乾之助が演じていた。
舞台にはまず間狂言が登場し、これから延喜の帝が神泉苑で夕涼みする旨を告げる。つづいて大勢の臣下を従えて延喜の帝が登場する。帝は子方である。(以下テクストは「半魚文庫」を活用)
ワキ、ワキツレ一セイ「久方の。月の郡の明らけき。光も君の。恵かな。
ここで鷺が舞台に出てくる。白鷺であるから衣装はすべて白づくめだ。直面の頭の上の冠には、鷺をかたどった飾り物がついている。
鷺の姿を目に留めた帝が、とって参れと命ずる。以下上述したようなやり取りが続いて鷺は帝の前にひれ伏す。
ツレ「いかに誰かある。
舞 ここで鷺は喜びの舞を舞うが、他の作品にはない、特別の舞である。
シテ「畏き恵は君朝の。
開放された鷺は喜び勇んで空中に飛び立ち、舞台から去っていくところで一曲が終了するといった具合である。
私が言いたいのは、ここに登場の『延喜の帝が神泉苑で夕涼みする旨を告げる。つづいて大勢の臣下を従えて延喜の帝が登場。云々』の「延喜の帝」だ。
同書P107【17・桐壺帝・更衣=上宮王・干食王后】項に《『源氏物語』は「いずれの御時にか」に始まるが、先に示した倭薈王(いわいおう)死後の延喜帝(えんぎのみかど)・天慶帝(てんぎょうのみかど)・天暦帝(てんりゃくのみかど)・法興帝(ほうこうのみかど)の存在が明らかとなる、云々》
〔倭国の遺跡スポットを訪ねてみよう〕2011年2月18日(金)「源氏物語」は九州王朝「倭国」の最盛期の一番華やかなりし頃の601年-653年の筑紫が舞台だ』〕
つまり、私は
観世音寺の古絵図右奥に舞殿が描かれてる
くどいけど、我々が日本の歴史教科書で教えられた「能」のはじまり・起源は室町時代という事ですが、九州王朝「倭国」の600年代前半の大宰府「法興寺」では、すでに『能』が舞われていたということです。
● jyoumonjn
唐の高宗が道教を信奉していたのはご承知ですよね。そこへ白村江で捕虜になった倭王薩夜麻が連行され何故かすごく気に入れられた。唐高宗は薩夜麻へ道教を伝授。開放帰国後、大海人とで「壬申乱」に戦勝、天智近江朝を再統合する。RT @TAIRANJU @jyoumonjn @tohyan
倭国王薩夜麻は大海人(天武天皇はこの2人1役)へ道教を伝授する。大海人は長門以東のプロト大和で、以前より伝わっていた道教を、本格的に国教化する。『道教と古代日本:福永光司著』を読むと天武天皇以降盛んになったと読める。
(473) 『この反閉(ヘンハ゛イ)と、よみがえる九州王朝幻の筑紫舞:古田武彦著の「ルソン足」とは同じかどうか?』 2011年4月10日(日)
● tohyan
● jyoumonjn
● jyoumonjn
● jyoumonjn
● jyoumonjn
● tohyan
● tohyan
● tohyan
● tohyan なるほど、これはなんとなく分ったような気がする^^
● TAIRANJU
● jyoumonjn
● jyoumonjn
● jyoumonjn
● tohyan
● tohyan
● jyoumonjn
● tohyan
(474) 『【神事の故事来歴】■呪詞及び祝詞』 2011年4月10日(日)
延喜式の祝詞を、世間では、非常に古いものだと考へて居る。或は、高天原から持ち来されたものゝやうにも云うてゐるが、さうでは無く、自分は悉、平安朝の息がかゝつてゐると思ふ。かう言ふのは、祝詞の性質として為方の無い事で、第一、祝詞が我々に訣るといふのは、それが新しいからである。併し全部が、平安朝時代の新作だといふのでは無く、大体平安朝の初め、百年ばかりの間に、今我々が見るやうな風のものに固定したのである。
祝詞は、その時代々々の改作を受けてゐるので、新古入り混つてゐる。昔の人が、その時の気分次第で、文章を変へて行つたのであるから、その文章は継ぎはぎである。今でも、学問の無い人は、かしこまるといふ言葉を、あらたまつて云ふ時には、かしこまゐるだと思うて、さう云うて、平気でゐる事があるが、祝詞にも、かうした間違ひがある。
何故かういふ風になつたか。それには原因がある。これを頭に入れておかねば、祝詞は釈けない。この間違ひの筋道を辿つて行かなければ、ほんとうの事は得られない。先輩達が、講義をしてゐる所を見ると、祝詞は訣るものだと思はれる。併し、我々には、出来るだけ訣らうとしてゐるが、とても訣らない。が、簡単に解いて行けば、何でも無く、解けるのである。此延喜式祝詞にも、かういふ改作やそれに伴ふ間違ひがあつて、或は国家組織以前からの言葉が、其中に織り込まれてゐるとも思はれる。その中に、段々時代が移つて行くに連れて、その時代々々の特徴を示すものも見えるが、それが、平安朝のはじめに、大きな変化を蒙つた、と考へねばならぬ。
この延喜式祝詞は、祝詞の固定したものであるが、中には、祝詞とは云へないものも混つてゐる。延喜式の祝詞の巻を略して、祝詞式とも云ふが、此を普通には、中臣ノ祝詞と、斎部ノ祝詞との二つに分けてゐる。勿論、宮廷に於ける、公のものばかりである。さうすると、平安朝の宮中に仕へてゐた、昔からの伝統ある官吏、或は其部下である中臣・斎部の二家で、此宮中の祝詞を持つてゐたといふ事になる。
一方地方の国々・村々の祝詞は、何処で持つてゐ、どうなつたかといふと、惜しい事には、只今では、全部滅びて了うてゐて訣らない。時々、昔の祝詞だといふものが出て来るが、大抵は、偽物である。然も其祝詞が、完全なものなので、祝詞の間違ひ方を知つてゐるものが、検査した時、その完全な点が、却つて不完全を示してゐる。
で、此地方の国々・村々の祝詞が、何故滅びたか。其は、口伝せられて、秘密であつたが為である。祝詞を伝へてゐる者が、秘密にしておいて、伝へない中に死になどして、全部滅びたものと思はれる。又昔の祝詞は、今の様に、書き物に書いて読むのでは無く、口伝へであつた故、保存せられないで、云ふ人の気持ちで変つたり、毀れたりしても滅びたのである。宮中の祝詞でも、中臣・斎部のもの以外に、まだあつた筈である。中臣・斎部のものは、表向きの、他人が聞いても差し支へないものであつて、内らの、秘密に属するものは、隠してあつた。事実、祝詞を見ると、天つ祝詞と書いてあるものも、其秘密である天つ祝詞の文章は、省いてあつた。今の人は、今日残つてゐる様な文字に書いたものが、其儘読まれた、と考へてゐる様であるが、昔は文字に書いて無くて読まれるものも、中にはあつたのである。
こんなわけで、中臣・斎部が、公に扱ふ祝詞以外に、各役所で扱うたものが、どれだけ消失してゐるか訣らない。宮中の政は皆、神様の為事で、所謂まつりごとであつて、それは皆、一々、祝詞や呪詞を伴うてゐたのである。消失したものゝ中でも、殊に、一番神に近い、宮廷の巫女達(平安朝では内侍)のものは、殆、無くなつて了うた。次に、此祝詞の不完全なのは、返し祝詞・返り申しの欠けてゐる事である。祝詞は唱へたゞけではいけないので、唱へられた神の返事が、必要なのである。此が、今の祝詞には残つてゐない。
鎮火祭(ホシヅメノマツリ)、この祝詞には、うつかりして、天つ祝詞を書き出してあるが、他は皆、天つ祝詞を以て申すとありながら、天つ祝詞は省いてある。省いてはあるが、文章はわかつてゐる。実に変なものである。日本の文章は、皆こんなものである。江戸の歌謡類もさうで、殊に、長唄に於いて甚しい。これには、その文の一方をなしてゐる、役者の言葉が省いてあつて、地の文章ばかりだからである。日本には、かうした芸術が行はれてゐるのである。
以上説いた所によつて、大体延喜式祝詞に関する、値打ちの定め方がきまつた訣である。即、延喜式祝詞は、元の姿とは非常に、意味が変つてゐて、祝詞以外のものをも含んでゐるのである。
祝詞には、三種類の内容がある。此祝詞といふ語については、昔からいろいろの説があるが、私は、かう考へてゐる。即のるといふ事は、天皇、或は、国々の君が、神様の資格で、高い処に上つて命令する事である。此のりを発する場所を「宣処(ノリト)」と云うた。即、信仰的に設けた、一段高い座なのである。此処で唱へる言葉が、のりとごとであつた。其を、次第に略して、のりとといふ様になつた。のりとと言ふだけで、既に其中に、ごとの意が含まれてゐるので、のりとごとのごとは、のりとの意味を、忘れて後の附加である、といふのは間違ひである。
祝詞は、最初は天皇がなさるものであつた。処が、日本には、代役の思想があつた為に、後、中臣が専唱へるやうになつた。天皇御自身が、既に代役であつて、神漏岐・神漏美の御言持ちとして、此国に降つてゐられるのである。御言持ちとは、その神漏岐・神漏美の命令を、伝達するものなのである。何々の命といふみことは、此御言持ちの略せられたもので、後、尊い人を意味する言葉だ、と思ふやうになり、更に、日本紀に命・尊などゝ区別する様になつてから、元の意味は、全く忘れられてしまうた。さてかうした、代役の思想が行き亘つてゐた為に、段々、上から下に及んで行つて、遂に中臣が、専属に、天皇の仰つしやる事を代つて云ふやうになつた。かうして、中臣祝詞が出来たのである。
此と、斎部祝詞と云はれてゐるものとは、全く別であつて、斎部のものは、祝詞では無い、寿詞(ヨゴト)である。天皇の仰つしやるのりとごとに対する御返事、即(すなはち)返し祝詞・返り申しを古い言葉で、寿詞といふ。毎年、初春に奏する寿詞は、約束をきりかへるものであつた。
服従を誓ふことは、実は、一度でよかつたのであるが、其を確実にする為に、いつとなく毎年繰り返すやうになつて、後の朝賀の式にまで発達した。此式では、まづ天皇よりの詔詞があり、此に対して、群臣中の、二三の大きな家の氏ノ上が、全体を代表して出て(元は、家々で出たものである)、今年も俺に服従しろ、といふ意味の御言葉に対して、叛かぬといふ事を申し上げる。此が寿詞である。
寿詞のよは、時代によつて変遷もあつたが、いのち・寿命などの意で、又魂を意味する。此を唱へると、唱へかけられた人に、唱へた方の魂が移るのである。此唱へ言の、最小限度のものが、諺である。とにかく、唱へ言をすると、其言葉の中についてゐる魂が、先方にくつ附く。家々には、大切な魂があるが、此が寿詞を唱へると、天皇の御体にうつゝて行く。それ故天皇は、国々村々の魂を沢山持つてゐて、其勢力は、非常に強くなる。かうした所から、天皇が不要の魂を、臣下に与へるといふ様な事も出て来た。かう考へて来ると、返り申しであり、魂を先方の身体にくつ附ける言葉である寿詞は、祝詞と同一のものでない事が訣る。
延喜式祝詞は、祝詞・寿詞、其他のものが混つてゐるために、訣らぬ処が多い。祝詞は、上から下に対して云ふものである。寿詞は、下から上に対して云ひ、其と共に、服従を誓ふ。天皇に寿詞が無く、氏々に此があるのは、此故である。又寿詞は、氏々の家が、天皇の御祖先と交渉を始めた来歴を、云ひかへれば、自分々々の家の為事の始め、本縁を説明するものである。此意味で室ノ寿詞は、真の意味の寿詞ではない。ともかく何時でも、誓ひ、服従する時に唱へるのが、寿詞である。処が、学者達は、寿詞は祝詞の古いものだ、と説明してゐるが、私は、さうは思はない。
次に、もう一種の祝詞がある。それは鎮詞・護詞・鎮護詞などゝ書かれるいはひごとである。これが、ごちやごちやになつて、祝詞の中に混つてゐる。斎部の祝詞は皆、此鎮詞である。いはふといふ言葉は、今、神をいはひこめる等いふのと、略同じ意味である。これはいむから出てゐる。いむは、単に慎むといふ意で、いまはるとなると、その上に、身の周りを浄める意味が出て来る。いはふは周囲を浄めて中に物を容れる、又はくつ附けるといふ意味である。即(すなはち)魂をくつ附けて、離さぬやうにするのである。鎮詞といふのは、その言葉なのである。それ故、鎮詞・鎮護詞などゝ書かれてゐるのである。
鎮詞は、不思議なもので、その発達によつて、祝詞や、寿詞の古格が乱れた。祝詞と、鎮詞との区別は、大体左の如きものである。
祝詞
┌→イ
祝詞は、天皇の資格で、その御言葉のとほりに、中臣が云ふのであるが、鎮詞は、少し趣きが違ふ。氏族の代表者が、ほんとうに服従を誓うた後、其下に属してゐる者に、俺もかうだから、お前達も、かうして貰はなければならぬ、といふやうな命令の為方である。ちようど、掏児や博徒の親方が、其手下に、警察の意嚮を伝へるといつたやうな具合のものである。それ故、此は御言持ちでは無く、自分の感情に、飜訳して云ふのである。だから鎮詞は、祝詞の言葉の命令的なるに対し、妥協的である。其で鎮詞は、大抵の場合は、土地の精霊が、自由に動かぬやうに、居るべき処に落ちつける言葉になつてゐる。即いはひ込めてしまふ詞である。此は、祝詞の意志を、中間に立つ者が、飜訳して云ふのであつて、多くの場合は、被征服者の中の、代表者が云ふ言葉である。これを司つたのが、山の神で、山の神は、土地の精霊の代表者であつた。
祝詞には、以上説明したやうな、三種類の区別があるが、此を延喜式の祝詞に当て篏めて見ると、どれも此も、厳重に、此区別には合はない。殊に、出雲国造神賀詞(カムヨゴト)と、中臣寿詞とは、寿詞と云ひながら、頻りに、自分から鎮詞を述べてゐる。此頃既に、寿詞と鎮詞とが、ごちやごちやに考へられてゐた事が訣る。
国々の神が、位を貰ふといふ不思議を、仏教では、王は十善・神は九善などゝ説明してゐるが、此は、当然なことであつた。天皇は天津神の子孫であつて、同時に、祝詞を唱へる時だけは、その天津神であつた。故に、天皇は神であると共に、人間であつた。天皇のおつしやる御言葉が、精霊或は、精霊から成り上りの神に対して、高いものから、低い者に云ひ下す言葉になるのは、当然であつた。それで神の位が段々昇進するのは、かうした、信仰から来た自然であつて、次第に、天津神に近づかされるのである。処が、延喜式などを見ると、已(すで)に変な所が見える。天皇が、神に対して、非常に丁寧である。天皇が、祝詞を下されるといふ考へが、変化して来てゐるのである。即、ほんとうの祝詞では無くなつて来てゐる。それで延喜式祝詞が、古い祝詞で無い事は、此によつても明らかである。
天つ祝詞は、高天原から伝つてゐるものだ、といふ信仰を以て、唱へ伝へられて来てゐる。唯今、天つ祝詞といふ言葉の這入つてゐるものは、主として、斎部祝詞であるが、これは鎮詞に属するものである。斎部は、天皇に対する雑役に与つてゐた。又中臣大祓詞、これは、斎部祝詞に似てゐるが、此中に、天つ祝詞といふ言葉がある。此天つ祝詞といふ言葉は、常に「あまつのりとの太のりとごと」と続く。此中の「太」は、単に、天つ祝詞の美称と考へられて来てゐるが、私は、壮重なのりとに於いて、唱へられる言葉、即天つ宣(ノ)り処(ト)に於ける、壮重なのりとごとゝ解する方がよいとおもふ。天つ祝詞を唱へる個処は、動作を伴ふところであるらしい。其動作をするのが、斎部の役人達であつた。これを唱へると、不思議なことがあらはれて来る。
天つ祝詞は、大体に短くて、諺に近いものである。即、神の云うた事のえつせんすのやうなものである。が私は、天つ祝詞が、祝詞の初めだとは思はない。ずつと昔からの、祝詞の諸部分が脱落して、一番大事なものだけが、唱へられてゐたのが、天つ祝詞であるとおもふ。一寸考へると、単純から複雑に進むのが、当然の様に思はれるが、複雑なものを単純化するのが、我々の努力であつた。それで、極めて端的な命令の、或は呪ひの言葉が、天つ祝詞であつたが、其が段々、世の中に行はれて来ると、諺になる。故に私は、此と諺との起原は、同一なものだと考へてゐる。だから諺は、命令的である。元はその句は、二句位であつて、三句に成ると、諺では無く、歌になつた。古事記・日本紀などを見ても、諺は、二句を本体としてゐる。それで、今の諺の発達の途には、天つ祝詞があるわけである。
口頭の詞章には、歌と、唱詞と、語詞と、三通りあつた。唱詞は、所謂祝詞で、長い語詞の中(ウチ)のものが脱落して、後に残つた、有力な部分が、歌である。唱ふには、したがふといふ意味があつて、相手に命令して、自分と同じ動作をさせる事が、其力であつた。徇は、したがふと訓むが、となふとも、訓み伝へられて来てゐる。
以上の三種類のものは皆、声楽的に異つてゐる。唱詞は、声楽的に歌や語詞とも別な要素を持ち、又別の効果を持つてゐた。我々は、延喜式に、祝詞としてある三種類のものを、唱詞といふ言葉で総括して行きたい。
(475) 『わかりました。反閉(ヘンバイ)と、幻の筑紫舞での「ルソン足」とは同じなのですね』 2011年4月10日(日)
わかりました。反閉(ヘンバイ)と、幻の筑紫舞での「ルソン足」とは同じなのですね。あと、採物の扇を使うか使わないかで年代が分るのでしょうか?
● jyoumonjn
なるほど、そこまで詳しく分るのですね。ところで、米田良三氏が言う源氏物語は600年代前半の倭国大宰府だ説を信じればですが、源氏絵巻にある女御のもつ扇はなんと見る?
● jyoumonjn
「檜扇」って、ヒノキだったのですか?なんだか重そうですね^^そもそも、扇ってなんに使ったのでしょう?顔隠す為、それとも涼むため?
● jyoumonjn
邪気祓いの呪物ですか、ならば、常に携帯しなくても良いと思うのですが、また、ケッタイな使い方ですね、女性に扇を向けtらぞっとしせんか?
(477) 『延喜式の祝詞を、世間では、非常に古いものだと考へて居るが、さうでは無く平安朝の息がかゝつてゐると思ふ』 2011年4月11日(月)
出雲・加賀・吉備・秦国・尾張等の各附庸王国が成立する以前を考えてみよう。日本の場合、こっちの浜辺、向こうの入り江、あっちの山あいの村と、各々が異なる言葉を話し、土着血族も異なったといわれている。当然、その土俗信仰も異なったはずである。
ところがそこへ、弥生農耕の発達である。弥生米作農耕は貯蔵を可能にし、貧富の差を生みだしたのだ。有力者が勃興し、有力者は近隣を征服し、征服者は自らの神をその隷属者へ押し付けたはずである。
ということで、長門以東の出雲には出雲大社、吉備には吉備津彦神社、尾張には熱田神宮といった土地氏族長信仰が、各附庸王国ごとに盛んだった筈である。ところがそこへ、唐が高句麗攻撃の報告である。倭国の甘木王が「常色の改革」の一環で「天下立評」を難波副都で652年宣言するやいなや、状況は一変する。以降の各附庸王国はみるみる衰退し解体した。当然、土地氏族長信仰も主人を失ったことだろう。
倭国の「天下立評」、大和朝廷の「廃評建郡」は土俗信仰の宗教の世界へも当然及んだはずだ。ちょうどそこへ、倭国史を改編・編集して成立した「古事記」「日本書紀」の登場である。これをもとに、土俗宗教そのものも中央集権化したと思われる。
結果として、
かう言ふのは、祝詞の性質として為方の無い事で、第一、祝詞が我々に訣るといふのは、それが新しいからである。併し全部が、平安朝時代の新作だといふのでは無く、大体平安朝の初め、百年ばかりの間に、今我々が見るやうな風のものに固定したのである。』
(479) 『扇は本来的には邪気祓いの呪物(顔、口隠す、一遍聖絵に見える。冬でも用いた、あと巫女の神降ろしの呪具)』 2011年4月11日(月)
● jyoumonjn
邪気祓いの呪物ですか、ならば、常に携帯しなくても良いと思うのですが、また、ケッタイな使い方ですね、女性に扇を向けtらぞっとしせんか?
● jyoumonjn
あんね、先生に聞いてるんだから^^源氏絵巻に女御はみんな持ってるよ。携帯電話みたいに。
● jyoumonjn
それを言うなら、“幹”じゃなく“葉脈”が槍のように尖っているとか、で、霊になる?
仮に、この見たことがない「びろう」の葉脈の形が、火炎というか、墓場の青白い火の玉と見たのか、古代人がその形に霊性を感じるものなのか不思議です。RT、“幹”じゃなく“葉脈”だったとして、霊になるものなのか?
■
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
~~
《 前 へ 戻 る 《 ( つぶやき「古代」 その018 ) 》 次 へ 進 む 》
|
ここは、 ”と う や ん” twitter @t0_yan 山本 俊明 のホームページ です 。 |