大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 013 》
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ
白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、
日本書紀の〔 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権
2010年 4月 2日 発行
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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ https://waikoku.sakura.ne.jp/yamato.html 2:32 PM Apr 2nd webから ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(346) 『白村江の会戦の年代の違いを検討する:中国山東省曲阜市 青木英利氏寄稿
』 2011年2月15日(火)
古田武彦氏が以前より、古代とはいえ極東の大会戦「白村江戦」の年次が「旧唐書」で662年、「日本書紀」で663年と、違うのは如何なものか?と指摘されていて、私も年表記入に迷っていたが、通説に従って663年としていた。
古田史学会報no102(2011年2月5日号)が数3日前に届けられ、『白村江の会戦の年代の違いを検討する:中国山東省曲阜市 青木英利氏寄稿』の記事を発見。でも、やっと今、読み終えた。
結論は《白村江の会戦の年代は662年が、正しい》とおっしゃられている。非常に、長い文章で、すぐに転載はしないが、古代史を研究する方々には、ぜひ、一読をお勧めしたい。
以下は、私がハタとひざを打つ「お気に入り」箇所の抜粋・転載です。
『それでは、何故、日本書紀は、間違ってる663年を記載したのかという問題に移る。
日本書紀は「唐朝に提出することを前提に」作られている。いわば、唐朝に提出する必要がなければ、卑弥呼の事績も、倭の五王の事績も前部大和の天皇の事績に書き換えることができた。全ての先行する史書も手に入っていた。倭国の文書は全て没収、禁書も徹底していたから簡単だった、はずだ。
ところが、先にも言ったとおり、「唐朝に提出することを前提に」作ったのだ。私は、独自の仮説として、唐からの要求で作ったと考えている。古事記も唐からの要求であった。古事記が提出されなかったのは、書き直しを要求されたからである。
この問題は、日本書紀の記載の仕方に、特別な書き方の峻別をしている。7世紀に限って言えば、
唐と倭国の戦闘、これは唐と倭国の外交の延長線上の問題でもある。大和は参戦せず、逆に大和の遣使は中国で戦後処理の密約をおこなっていたとなる。「唐は、百済のこの白村江の海戦に、大和は関わっていないことを百も承知だった。」
しかも、細かいことは、当事者でなかった大和に分りようがない、倭国から権力を簒奪した大和に、百済の遺臣が状況を細かく話して、気持ちを分かちあう姿勢は期待できない。一般に伝わっていた、日本人の英雄譚を中心に、再構成したのがこの白村江の合戦である。
従って、旧唐書に先立つ225年前に唐朝に提出した際、この部分は唐の当代の認識と大きく異なることは承知である。本来は、大和と唐朝との間の事件でないわけで、書く必要がないのだが、720年の時点では過去の歴史は誰もが広く知っている事なので、齟齬の無いように適当に書いたのだ。「662年なのは百も承知だが、故意に663年に書き換えて、唐朝に大和の無関与を暗に訴えたのである。」
それと、唐朝側の態度も、事を明確に証明している、このほうが重大である。
だから、日本書紀の作成を始めたのだ。仲麻呂の在唐期間の早い時期に、再度の提出がされたが、これは「倭国書」の提出に成っていないで、「大和天皇家の年紀」だったのである。中国の伝統の前王朝史を提出すべきなのに、「大和書」を提出したのである。
唐朝は、650年間、倭国が日本の朝廷であったことを知っている。大和は、720年の時点では紛れも無く日本の朝廷だが、公元前660年から引き続き日本の朝廷であった史実はない。夢物語に付き合うほど、唐朝は愚かではない。不快感と警戒心を大和に抱いたはずである。中国の中華思想が判断の基準である。
事実、仲麻呂の努力に関わらず、この常識はずれの史書は日本の「史書」として提出されてからも、一度も「史書」として評価されることは無かった。その何よりの証拠が、旧唐書の日本伝の内容である。提出されて200年も経過しているのに、日本書紀の四文字の表記も存在していない。日本書紀を最後まで「偽史書」としていた時代精神が旧唐書の精神である。
これは、新唐書が「旧唐書を自大主義・大唐主義・排外蔑視主義と
批判したこと」が、全般的には正解だったとしても、こと日本書紀に対する唐朝の判断に、この批判は当てはまらない。このことが最大の回答といえる。
事実は簡単な事情であるが、後代、新唐書の登場によって、この662年が663年に変更され、普及して今日に至っている。
このことが同時に、古代日本史の秘密を解明する鍵になった。年代問題は難しい前提の議論を必要としない、大衆承知の事実である。
《追記》
また、文武王の回想も国内の国民の窮状、唐軍への兵站の援助、国力の行き詰まり、戦況の危機的な実態、等どれもこれも具体的で、記録なしには回想を語れないことも明らかだ。
このように見てくると、当時の国家的な大事件の記録には基本的な誤りは無いと見ておかなければならない。むしろ、後代の解釈で、事実がねじ曲げられて伝わってきたと見て取ることが出来る。』
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『白村江の会戦の年代の違いを検討する:中国山東省曲阜市 青木英利氏寄稿』の6・結論で
何を言いたいか。「『隋書』俀国伝中に、明年(大業4年:608年:推古16年)、上、文林郎裴清を遣わして俀国に使いせしむ。云々」と、『日本書紀』が「608年推古16年、天皇唐帝を聘ふ。云々」の同じ608年は隋であって唐ではない。朝貢天子国名を違えるはずはなく「年誤記」だろうとなる。
『「倭国」・主都大宰府:副都難波対比年表 』
唐朝への『日本書紀』提出で、氏の言う、
◎⇒倭国史を元号単位に切貼りし、倭国名を抹消し、大和に朝廷がずっとあった事にした、なんとも奇妙奇天烈なものだったといえる。
『白村江の会戦の年代の違いを検討する:中国山東省曲阜市 青木英利氏寄稿』は、
(347) 『古代の時代からの博多・福岡の歴史遺産の掘り起こし。福岡城・鴻臚館の復興も是非ご検討下さい』 2011年2月17日(木)
@2000BMW740i @so_takashima 古代の時代からの博多・福岡の歴史遺産の掘り起こし(古田史学などもご参考に)と情報発信もよろしくお願いします。福岡城・鴻臚館の復興も是非ご検討下さい。期待しています。
米田良三氏の源氏物語は筑紫が舞台だの☆住吉大明神は博多駅の南西にある住吉神社、☆田蓑島は住吉神社の南にある美野島ということもお願い
「新泉社」より発刊の米田良三著には以下の著作がある。
①『法隆寺は移築された』●大宰府から斑鳩へ
②『建築から古代を解く』●法隆寺・三十三間堂の謎
③『列島合体から倭国を論ず』●地震論から吉野ヶ里論へ
④『逆賊磐井は国父倭薈だ』●薬師寺・長谷寺・東大寺
⑤『続・法隆寺は移築された「源氏物語」は筑紫が舞台だ』
とはいえ、約10数年のブランクがあっての続巻である。若い方には前著を全くご存知無い方も多数あろうかと思われます。
この著作は、全く既存の観念を打ち破るもので、発刊当時は一部の方に「奇想天外」・「奇妙奇天烈」なものと受け取られたことも確かであろう。
私は、氏の約10数年のブランクはこの為の妨害によったと思えてくるのだ。
さて、氏の約10数年のブランクの間に、古田武彦氏を筆頭に「古田史学の会」の会員による地味な、が着実に、古代史の解明が進み、とりわけ、『日本書紀』の偽書ぶりが明らかになりました。ここに来て、米田良三氏のこれら著作が、決して「奇想天外」・「奇妙奇天烈」なものでないと分ってきたと言えます。
〔⑤『続・法隆寺は移築された「源氏物語」は筑紫が舞台だ』〕
本書は、ふんだんに「小倉百人一首」を引き合いに解明されていて、歌集としても、全く、新たな解釈の扉を読者に開いてみせていると、確信します。
例によって、
・・はじめに・・
米田良三著
うーん、〔「源氏物語」は九州王朝「倭国」の最盛期の一番華やかなりし頃の601年-653年の筑紫が舞台だ〕とすべきだと思うが、如何^^
2000BMW740i そのすぐ横にある住吉神社にお参りしてきました。美野島は住吉の南側に広がる町で美野島商店街など庶民的な美味しい店が多い地域です。
◎⇒雑餉隈(ざっしょのくま)のインター付近に営業所があって出張の折、博多のホテルに泊まりましたが、当時はそんなこと知らなくて、神社の西側は近江海の入り江だったとか。
2000BMW740i
(348) 『「源氏物語」は九州王朝「倭国」の最盛期の一番華やかなりし頃の601年-653年の筑紫が舞台だ』 2011年2月18日(金)
米田良三著
うーん、〔「源氏物語」は九州王朝「倭国」の最盛期の一番華やかなりし頃の601年-653年の筑紫が舞台だ〕とすべきだと思うが、如何^^
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以下は抜粋である。「源氏物語」から何がわかるか?
17・桐壺帝・更衣=上宮王・干食王后
P107『源氏物語』は「いずれの御時にか」に始まるが、先に示した倭薈王(いわいおう)死後の延喜帝(えんぎのみかど)・天慶帝(てんぎょうのみかど)・天暦帝(てんりゃくのみかど)・法興帝(ほうこうのみかど)の存在が明らかとなると、当時の読者はどの帝の話かは容易に理解できたことが推測できる。その時代に関わる記述は次の三つである(円地文子訳を用いる)
①花宴の巻に左大臣が源氏に「多くの年齢を重ねてまいりまして、聖天子の御代四代にお仕え申上げましたが」と話掛ける場面がある。
②明石の巻に明石入道が源氏に「私は延喜の帝の御直伝を弾き伝えまして、三代目に至っておりますが」と説明する場面がある。
③絵合せの巻に朱雀院(すざくいん)が「一年中のさまざまな節会の興味深い有様なのを、昔の名人がとりどりに描いたのに、延喜の帝が御手ずから行事の意味をお描きになったもの」を届ける場面がある。
④更に付け加えると、夕顔の巻に源氏が大弐の乳母を見舞う場面がある。源氏が見舞ってくれたことに感謝して乳母は、「もはや阿弥陀如来の御来迎も心残りなくお待ちいたされます」と挨拶し、
⑤若紫の巻では、源氏に対して僧都が「阿弥陀仏をおまつりしてある御堂に、お勤めをいたす刻限でございます。初夜の勤行をまだ勤めておりませぬ。済まして後、又参上いたします」と挨拶する。
阿弥陀信仰が生活の基調となっている世の中であることが分る。現代の常識からはそれがいつであるかは分らない。
だが、私が解いたように阿弥陀信仰が大分県の小倉山東大寺に造られた阿弥陀大仏の完成に伴って成立したことと、その後の東アジアへの拡がりを知れば、物語の始まる時期が隆盛を経過した時期に当ることが推定できる。東へ直線距離で65kmにある東大寺の大仏が存在する時代の京の生活である。
倭薈王はすでに阿弥陀如来と認識されており、①の左大臣のいう御代四代は延喜帝(えんぎのみかど)・天慶帝(てんぎょうのみかど)・天暦帝(てんりゃくのみかど)・法興帝(ほうこうのみかど)の四代と理解する以外にない。この時の帝、法興帝、つまり上宮王(じょうぐうおう)をモデルとしたのが桐壺帝ということになる。云々』
以下も抜粋である。「住友物語」から何がわかるか?
P156『「住友物語」は文庫本などに無く、容易に読むことも出来ない古典であるが、吉海直人編著の「住友物語」(泉書院)を云々』
◎⇒ 私は、参考までにこの本『吉海直人編著の「住友物語」(泉書院)』を買った。
P160『「住友物語」の、③「はつせ」で霊夢を見た後の住吉への経路の描写
『さて、「仏の御しるしぞ」とて「夜の中に出て住吉と云う所尋ねみん」とて、御ともなる者に、「しょうじんのつゐでに、天王寺・住吉などに参らんと思うなり。をのをのかへりて此の由を申せ」と仰せられければ、「いかに、御ともの人なくては侍るべき」「捨て参らせて参りたらんに、よき事さぶらひなんや」としたひあひけれども、「じげんをかうぶりてれば、其のままになむ。ことさらに思うやうあり、いはんままにてあるべし。いかにいう共、ぐすまじきぞ」とて、みずいじん一人ばかりをぐして、じやうへのなへらかなるに、うす色の衣にしろきひとへきて、わらぐつ・はばきして、たつた山こえゆきかくれ給ひにければ、聞えわづらひて、御とものものは帰りにけり。』
(現代訳)
P166『5・竜田山は現在奈良県の生駒山地の一角に比定されているが、九州での元来の位置はこの「住吉物語」にしか書かれていない。
初瀬寺から三瀬峠を越えて住之江に向かう道のりは記述どおりであり、現在の背振山地が竜田山であったことがわかる。
「住友物語」の名前は知られるが内容はあまり知られていないのが現状であるが、それは竜田山の所在が分るために「住吉物語」が公にならなかったと考えるのは考えすぎだろうか。』
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以上はほんの一端ですが、うーんやっぱり、〔「源氏物語」や「住吉物語」は九州王朝「倭国」の最盛期の一番華やかなりし頃の600年-650年の筑紫が舞台だ〕とすべきだと、みなさんも思うでしょ^^
(349) 『杉神社(=初瀬寺・長谷寺)から、初瀬川沿いに三瀬峠を越えて(JR博多駅西隣の)住吉大社にお参りをする』 2011年2月19日(土)
初瀬寺(=2本・杉神社)から、(初瀬川沿いに)三瀬峠を越えて住之江の《天王寺と(JR博多駅西隣の)住吉大社にお参りをする》に向かう道のりは記述どおりであり、現在の背振山地が竜田山(=金山)であったことがわかる。はーいみなさーん、暖かくなって桜が咲く頃には、ぜひ、長谷寺の跡地探検行こうよね^^えっ待ちきれない・今日行くって?
◎〔海の底 沖つ白波 竜田山 いつか越なむ妹があたり見む〕(万葉集1-83)この歌の
RT @2000BMW740i そのすぐ横にある「源氏物語」でいう住吉神社にお参りしてきました。
『円地文子訳(新潮文庫)源氏物語 巻二「玉蔓」』を開いています。この玉蔓で「初瀬」が出る個所を拾ってみましょう。
〔大分県小倉山に東大寺〕
〔真実が解かれることを願って書いたとしか思えない箇所がある:2010年6月27日(日)〕
〔薬師寺〕
筑後国風土記逸文に『独自豊前の上膳の県に遁れ、南の山の峻しき嶺の曲に終りき』倭国王倭薈(=磐井)は西暦531年2月7日宇佐駅館川西岸
源氏は明石の君に上京を促される。明石の君に入道(父)は京に住まいを「大堰川近く」に用意する。近くに
桂殿の場所を「源氏物語」では『源氏は須磨、明石とわびしい日々を送られた。そこで明石の君と出会われ、姫君がお生まれになる。源氏は明石の君に上京を促される。明石の君に入道(父)は京に住まいを「大堰川の近く」「大堰」に用意する。近くに「桂殿」がある。「大堰」とは現在の「水城」であろう』
〔九州倭国の法興寺を法隆寺へ移築し〕
天照大神である卑弥呼と豊すき入姫である臺与は吉野ヶ里に埋葬されていた。その後何故か、卑弥呼を離して脊振山地を越えた伊勢の国に
『逆賊磐井は国父倭薈だ:米田良三著』第3章長谷寺の項に、筑後国風土記逸文「筑紫君磐井(=倭薈)」の
〔佐賀・神埼・吉野ヶ里だより〕・《魚拓》
万葉集912〔泊瀬女の 造る木綿花 み吉野の 瀧の水沫に 咲きにけらずや〕この歌は秋津川(=城原川?)の下流に
天武は『淑人(=倭王薩夜麻)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『〔多良〕人よく見(=あの時倭王薩夜麻が賛成してくれて良かった)』
〔万葉集歌219〕
『(天數:天数ふ) (凡津子之:凡津の子が) (相日:逢ひし日に) (〔於保〕尓見敷者:おほに見しくは) (今叙悔:今ぞ悔しき)』
〔反歌一首:集歌240〕
〔古田現代語訳240〕
〔宝満山(=御笠山)〕
はーいみなさーん、暖かくなって桜が咲く頃には、ぜひ、
えっ待ちきれない・今日行くって?でも、今はだめでしょ。雪が残ってるかもしれませんからね。
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いえね。
米田良三氏がこれまで特定してきた跡地は、聖地小倉山・薬師寺・東大寺・磐井(=倭薈)の墓・法隆寺・三十三間堂・桂離宮・吉野宮・吉野ヶ里・伊勢神宮、今度発表の長谷寺、とても多くなってきました。
でも我々素人は何故そこが跡地と特定できるのか。著書を単に読むばかりでは、そうかなーと思う訳で米田氏とともに現地を訪ね説明が聞けたらと思います。
米田良三氏がこれまで特定の遺跡は、聖地小倉山・薬師寺・東大寺・磐井(=倭薈)の墓・法隆寺・三十三間堂・桂離宮・吉野宮・吉野ヶ里・伊勢神宮・長谷寺と、とても多くなってきました。ここ数日来で、その氏が特定の跡地あたりを、地図上に示してみたのですが、車一日の行程ではとても廻れませんよね^^
九州北部にお住まいの方で、米田良三氏がこれまで特定の遺跡の《聖地小倉山・薬師寺・東大寺・磐井(=倭薈)の墓・法隆寺・三十三間堂・桂離宮・吉野宮・吉野ヶ里・伊勢神宮・長谷寺》の近辺にお住まいの方は、ぜひ、現地を訪ね、遺跡の状況をツイート・ダイレクトメッセージして戴ければと思います。
《渡辺様よりのメールでございます。》
『用件のみで失礼いたします。
が、―日新堂書店より、メールきましたが時期早々だと言われちゃった。―ぐっすん
(350) 『(再度)真実が解かれることを願って書いたとしか思えない箇所がある:2010年6月27日(日)』 2011年2月21日(月)
『時の権力者の都合で歴史を書き換える』⇒あなたは自分が言いたいことが何かをわかって言っていないようだ。『俺のとは違うなー』です。『日本書紀編者が早く正しい「倭国史」を復元してくれ』と言ってるようです。真実が解かれることを願って書いたとしか思えない箇所があります。
『はあ?日本書紀が偽書の類だといったのはあなたじゃないですか? 』⇒もちろん、偽書ですよ。でも、正木裕氏説のように 《 一定の法則 「 34遡上説 」 で読み解けば 》 「 元の倭国史が浮かび上がってくる 」 そんな感じかな。あなたもでしょうが、《 元の倭国史を知りたい方が巷に溢れています。》
日本書紀安閑天皇元年534閏12月4日天皇が三島に行幸時の記事中『(故)先〔天皇〕建顕・號垂鴻名・廣(大)配(乎)乾坤・光(華)象(乎)日月・長駕遠撫・横逸(乎)都外・宝境區域・充塞(乎)無限・上冠九垓・旁〔濟〕八表・制禮以告・成功作楽・以彰治定・福應充臻・祥慶符号・於往歳矣』
米田良三氏は著書中で、この『』内の記事で、()内の文字を外し〔〕を王、済に替え4字句にすると『先王建顕・號垂鴻名・廣配乾坤・光象日月・長駕遠撫・横逸都外・宝境區域・充塞無限・上冠九垓・旁済八表・制禮以告・成功作楽・以彰治定・福應充臻・祥慶符号・於往歳矣』駢儷(べんれい)文となる。
(読み下し文) 『先王に顕(あき)らかに建(もうしあ)げる・號(なづ)けて鴻名(こうみょう)を垂(のこ)さむことを・廣(ひろ)く乾坤(かんこん)に配し・光象(こうしょう)すること日月のごとくせむ・長駕(ちょうが)して遠く撫(いつく)しみ・横逸(おういつ)するに都を外(はるか)にす・宝(たま)をもって區域を鏡(て)らし・充塞(じゅうそく)すること限(かぎり)無(な)し・上は九垓(きゅうがい)を冠(おお)い・旁(かたわ)ら八表を済(とと)のう・禮を制して以て告げ・功を成して楽を作らむ・治定が彰らかになるを以って・福が應じ充(まこと)が臻(あつま)らむ・祥慶に符号して・往てに於けるごとき歳(とし)と矣(な)らむ』
上には塔を高く聳えさせ傍らには八つの表(人徳を褒めたたえた文を刻んだ石柱)を整えました。儀式を定め触れ示し楽境を造ることに努めます。政治が安定したことが世間に知れれば自然と幸せが起こり誠が集まります。喜ばしいことや愛でたいことが重なって以前のような幸せな世が再び訪れるでしょう。』
(口語訳)『先王に対して、明らかに申し上げます。あなたの偉大さを、何時までも記憶するために送り名をし、太陽の光が植物を育てるように、時間を掛けて全国に広く知らせます。車に乗って出掛けるほどの、都をはるかに離れた遠い場所に、鏡のように光り輝く区域を造り隅々まで充たし、悲しみます。上には塔を高く聳えさせ傍らには八つの表(人徳を褒めたたえた文を刻んだ石柱)を整えました。儀式を定め触れ示し楽境を造ることに努めます。政治が安定したことが世間に知れれば自然と幸せが起こり誠が集まります。喜ばしいことや愛でたいことが重なって以前のような幸せな世が再び訪れるでしょう。』
薬師寺東塔擦銘「維清原馭宇」天皇即位八年庚辰之歳建子之月以中宮不悆創伽藍而鋪金未龍駕騰仙大上天皇奉遵前緒成斯業照先皇之弘誓光後帝之玄功道濟郡正業傳曠劫式於高躅敢勒貞金
薬師寺東塔擦銘駢儷文「其銘曰」『巍巍蕩蕩・薬師如来・大發誓願・廣運慈哀・猗與聖王・仰延冥助・爰餝靈宇・荘厳調御・亭亭寶刹・寂寂法域・福崇億劫・慶溢萬齢』
薬師寺東塔擦銘駢儷文(読み下し文)「其銘曰」『巍巍(ぎぎ)たり蕩蕩(とうとう)たり、薬師如来。大いに誓願(せいがん)を發して、廣く慈哀を運(めぐ)らしたもう。猗與(いわい)聖王、冥助仰ぎ延(こ)い、爰(ここ)に靈宇を餝(かざ)り、調御を荘厳したもう。亭亭たり寶刹、寂寂たり法域、福は億劫に崇く、慶(よろこび)は萬齢に溢(あふ)れん。』
以上は米田良三著「逆賊磐井は国父倭薈だ」の第2章「薬師寺」に記載されている。『薬師寺東塔の屋根の上の擦銘と、「日本書紀」の中に書き込まれた駢儷文が照合されるということは無きに等しい。真実が解かれることを願って組み立てられた、この2つの文の存在こそが、倭国の歴史の実在を証明する。』
(351) 『従来の連邦制と異なる中央集権的政策である「天下立評(=全国評制施行)」の完全実施』 2011年2月22日(火)
九州王朝倭国の〔造複都難波京の詔:649年10月〕は、予想される朝鮮半島や唐との関係悪化に備えて、
●倭国連邦の距離的中心地である大宰府東方の難波宮に拠点(副都)を別に設けることで、従来の連邦制と異なる中央集権的政策である「天下立評(=全国評制施行)」の完全実施と、
●倭国連邦の『秦国』が唐国・新羅の東西枢軸に参加し、倭国大宰府を背後から襲うのを防御・牽制・排除し、
●そこを基点に更に東方の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化し後塵の憂いを除く、
のが目的と思われ、東国経営の基地でもあり、宮殿というより軍事要塞といった趣のものだったでしょう。難波副都は当時の地図を見ると南から北へ伸びた半島の先端に位置し、その東は日下江の入江で今の大阪市街は葦で覆われた海の中である。まさに都というより軍事要塞・基地というのが当っている。
649年(大化5年:孝徳5年:常色3年)10月、 〔造複都難波京の詔〕 が発せられ、同時に伊勢王等の諸国境界確定記事が続き、652年(書紀白雉3年:孝徳8年:白雉元年)「正月より是の月に至るまでに、班田すること既におわりぬ(立評:評制施行の完成)」。「同年、2月(白雉改元儀式)」 「同年、秋9月、宮を造ることがまったく終わった(九州王朝難波副都完成)。その宮殿の形状は、とても論じつくせない。」と続く。
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従来の連邦制と異なる中央集権的政策である「天下立評(=全国評制施行)」について、この政策の持つ革命性を訴える学者を私は知らない。「否、郡制だった。否、評制だった」のやり取りばかりが目につく。むしろ、評制の施行以前と以後が、どう変わったかだろう。「出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野」等の長門以東の附庸王国を解体し、九州王朝「倭国」が直接支配に乗り出した事だ。
今、民主党に要求されているのはマニフェストの実行もさることながら、連邦制の確立だろう。如何にして、連邦制に移行するか、できるかだろう。警察・徴税・行財政を州政府のもとにし、上納金で中央政府は運営され、外交・軍備だけが主任務となる。そう、天下立評とは、真反対のことが要求されている。
九州王朝「倭国」の五王【讃・珍・斉・興・武】の時代、とりわけ、武王〔日本神話の英雄ヤマトタケルには「日本武尊(日本書紀)〕と「倭建命(古事記)〕の二つの漢字表記がある〕時代に、九州王朝「倭国」は関東以西を武力制圧統一した。が、その土地の旧有力者を温存したゆるい地方自治制度だった。
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645年、唐高宗が高句麗攻撃。647年、九州王朝「倭国」に甘木王「常色王」即位し、即位后、唐の侵略に対抗する為「常色の大改革」を次々断行する。直轄地の筑紫(=九州島)は早くから評制施行済みだったが、
長門以東は連邦附庸国「出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野」の地方分権支配だったのだ。
これを中央集権制の天下立評すべく、649年、造複都・難波京の詔を発し。652年、天下立評、難波副都完成、白雉改元儀式。天下立評で「プロト大和」開祖・伊勢王が難波副都常駐。
倭国内では、大宰府と難波副都で権力の2重構造が発生。
その後白村江戦前後までに、天下立評に伴い、倭国連邦附庸王国の「出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野(常陸)」等が解体を余儀なくされる。
同時に難波副都倭弟王家が台頭する。
645年、《唐高宗が高句麗攻撃》の報がすべての始まりだったのだ。
なお、これまで、このtwitterで書いた西暦年は、正木裕氏の下記記事を参照しています。
○〔日本書紀『持統紀』の真実—書紀記事の「三十四年遡上」現象と九州年号〕
○〔日本書紀、白村江以降に見られる「三十四年遡上り現象」について〕
以上で分かるように、正木裕氏は、日本書紀が、九州年号で書かれた倭国史書を盗用し、如何に改編したかについて、その改編の手法の
(352) 『九州年号「白鳳」について云えば、ちょうど「昭和」にそっくり同じだ』 2011年2月23日(水)
《九州年号「白鳳」について云えば、ちょうど「昭和」にそっくり同じだ》と思うのだが、さて、みなさんはどうお思いだろうか?
『二中歴』の『白鳳二十三年・辛酉・対馬銀採・観世音寺東院造』で云うように、西暦661年から684年の23年間の長期間に亘って使用された元号である。
この時の「倭国王」は薩夜麻と分ったわけで、即位の翌年、大嘗祭も儘ならず、662年洲柔・白村江戦へ出征、捕われて唐へ拘束・連行。671年開放・帰国(この間は空位か)。672年、壬申大乱勝利、倭国再統合、倭国王復位、大嘗祭。678年、筑紫大地震を経て、684年、白鳳王「薩夜麻」崩御まで。
一方の「昭和」はご承知の通り、1926年から1989年の64年間の長期間に亘る。いずれも、世界大戦を挟む負け戦だ。どうです、九州年号「白鳳」と「昭和」は、良く似てるでしょ。それに、日本は世界大戦に2度も敗戦しているってね。それも、チャンコロとヤンキーにね^^
(353) 『帰結は《「倭国王」高市の自らが遷都に伴って、寺社仏閣の移築命令を出した》となる』 2011年2月24日(木)
「日本国」が「倭国」の弟王家であると唐朝に悟られては、白村江敗戦の戦後賠償金肩代わりを免れないとし、隋書の倭国・秦国とも抹消されたのだろう。倭国が筑紫(=九州)島であるのは自明で、では次の2番目に大国の秦国はどこか?出雲・加賀・吉備・尾張・毛野でないとすれば飛鳥・葛城の近畿の他に無い。
ここで、若し「日本国」が、隋書の「倭国」に扶養した「秦王国」の後身であれば、今まで頭の上がらなかった「倭国」を征服したわけで、「日本書紀」にその旨の自慢話の一つ・二つあっても良いと思いますが、「倭国」「秦王国」いずれの名前さえもが、記載されていません。それは何故でしょう。私は、「日本国」が「倭国」の弟王家だったからだ、と考えています。
〔法隆寺移築説の原点である観世音寺・考:米田良三論〕の「3.観世音寺の鐘」項中段には、『672年5月以降は、扶桑国軍(大和朝廷)により観世音寺が解体・移築され云々』の文中にある《扶桑国軍(大和朝廷)》なる実態は何か、今一気になる所です。
米田良三氏の『続・法隆寺は移築された「源氏物語」は筑紫が舞台だ』の「2.達磨落とし」の
と書かれていて、《 筑紫が都である「倭国」は、672年に奈良周辺の「扶桑国(=大和朝廷)」軍に滅ぼされる。》と要約されましょう。
が、然し、私が上記でも指摘の通り、《 倭国年号「白鳳」が684年迄続いていて、壬申乱ではむしろ、近江朝に戦勝し倭国は再統合を果たす。かろうじて再復活し生きのびていて、大化2年(=696年)高市暗殺で滅亡した。》となります。
『倭国は大化2年(=696年)高市暗殺で滅亡した』と前に書きましたが、九州年号「大化」はこの後も続いていて、大化9年703年迄。更に「大長」元年704年から、大長9年712年迄続きます。このことは、倭国は696年に滅亡していないとなり、《 正しくは政権の中枢から外された。》という事です。
ということは、この米田良三氏の要約の《 筑紫が都である「倭国」は、672年に奈良周辺の「扶桑国(=大和朝廷)」軍に滅ぼされた》は間違っている。では何故、米田氏は間違ったのか?たぶん、《こんな無謀な移築命令を出すのは、倭国の敵方の大和に違いない》といった発想が根底にあるのでしょう。
事実はどうだったのか?正木裕氏の九州年号の解明から、684年の白鳳地震の直前に、九州王朝「倭国」は、大宰府から難波副都へ遷都した(白鳳から朱雀へ改元)。2年後、遷都先の難波京が焼失し、大和朝浄御原へ再遷都を余儀なくされ同居した(朱雀から朱鳥へ改元)。藤原京を造って遷都(朱鳥から大化へ改元)と分って来た。
そうです、もうお分かりでしょう。九州王朝「倭国」は、678年筑紫大地震で大宰府が被災し、大宰府から難波副都へ遷都し、遷都直後684年白鳳大地震を被災、686年難波京焼失で浄御原へ、更に694年暮れ新都藤原京へと遷都を余儀なくされている。「倭国王」高市天皇の自らが遷都に伴って、寺社仏閣の移築命令を出したのでしょう。
《「倭国王」高市の自らが遷都に伴って、寺社仏閣の移築命令を出した》の帰結ですが、移築命令を出した当のご本人が、696年「プロト大化改新」で暗殺されてしまった。新政権「大和朝廷」は自らの新都平城京を造るに当たって、「倭王」高市の移築命令の撤回はせずに筑紫から大和への移築を続行したのです。
新政権の大和朝廷「日本国」が「倭国」の弟王家だった。と考えれば、この「移築命令はまんざら不満でもなかった」でしょう。同じ父祖の地・筑紫からの誇り高き建物だったからです。ひきかえ、附庸国「秦国」蘇我氏の建物が白鳳地震で倒壊しても、再建されず捨て置かれたわけも分るような気がしますね。
なお、「倭国」は、筑紫地震ののち、大宰府から難波副都へ684年の白鳳地震の直前に遷都しますが、「倭国王」甘木王は白雉改元儀式で大宰府から難波副都への行幸はあっても居住せず、また、弟王家の伊勢王も恐れ多いものとして居住せず、北区の豊崎神社の「難波長柄豊碕宮」にもっぱら居住したと考えます。
孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」は「前期難波宮」とは別にあって、淀川口の三角州だった北区の
なお、
何が言いたいか、「倭国」の難波副都は、大宰府から難波副都へ684年に遷都する迄、「倭王」の居住しない特殊な都だったのでしょう。常に、空き家だったのでその気になれば、いつでも遷都できたのでしょう。
○参照
第163話「前期難波宮の名称」で言及しましたように、『日本書紀』に記された孝徳天皇の難波長柄豊碕宮は前期難波宮ではなく、前期難波宮は九州王朝の副都とする私の仮説から見ると、それでは孝徳天皇の難波長柄豊碕宮はどこにあったのかという問題が残っていました。ところが、この問題を解明できそうな現地伝承を最近見いだしました。
それは前期難波宮(大阪市中央区)の北方の淀川沿いにある豊崎神社(大阪市北区豊崎)の創建伝承です。『稿本長柄郷土誌』(戸田繁次著、1994)によれば、この豊崎神社は孝徳天皇を祭神として、正暦年間(990-994)に難波長柄豊碕宮旧跡地が湮滅してしまうことを恐れた藤原重治という人物が同地に小祠を建立したことが始まりと伝えています。
正暦年間といえば聖武天皇が造営した後期難波宮が廃止された延暦12年(793年、『類従三代格』3月9日官符)から二百年しか経っていませんから、当時既に聖武天皇の難波宮跡地(後期難波宮・上町台地)が忘れ去られていたとは考えにくく、むしろ孝徳天皇の難波長柄豊碕宮と聖武天皇の難波宮は別と考えられていたのではないでしょうか。その上で、北区の豊崎が難波長柄豊碕宮旧跡地と認識されていたからこそ、その地に豊崎神社を建立し、孝徳天皇を主祭神として祀ったものと考えざるを得ないのです。
その証拠に、『続日本紀』では「難波宮」と一貫して表記されており、難波長柄豊碕宮とはされていません。すなわち、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮の跡地に聖武天皇は難波宮を作ったとは述べていないのです。前期難波宮の跡に後期難波宮が造営されていたという考古学の発掘調査結果を知っている現在のわたしたちは、『続日本紀』の表記事実のもつ意味に気づかずにきたようです。
その点、10世紀末の難波の人々の方が、難波長柄豊碕宮は長柄の豊崎にあったという事実を地名との一致からも素直に信じていたのです。ちなみに、豊崎神社のある「豊崎」の東側に「長柄」地名が現存していますから、この付近に孝徳天皇の難波長柄豊碕宮があったと、とりあえず推定しておいても良いのではないでしょうか。今後の考古学的調査が待たれます。また、九州王朝の副都前期難波宮が上町台地北端の高台に位置し、近畿天皇家の孝徳の宮殿が淀川沿いの低湿地にあったとすれば、両者の政治的立場を良く表していることにもなり、この点も興味深く感じられます。
(354) 『「茅原大墓古墳」で、盾に人の頭を乗せた4 世紀末ごろの「盾持ち人埴輪」が見つかった』 2011年2月27日(日)
〔茅原大墓(ちはらおおはか)古墳」で、盾に人の頭を乗せた4 世紀末ごろの「盾持(たても)ち人(びと)埴輪(はにわ)」が見つかった。〕・
《魚拓》
まだ、こういった発掘をもったいぶってやってるのか?
この 「はにわ」 どっかの “幼稚園児” が作ってたの見た気がするな^^ まったくー
(355) 『「天下立評(=全国評制施行)」が、如何に革命的だったか?その結果が「大和朝廷」の誕生なのだと言える』 2011年3月1日(火)
これまでの倭国の附庸王国に支えられた連邦制と全く異なる「天下立評(=全国評制施行)」が、如何に革命的だったかを訴える学者を私は知らない。「否、郡制だった。否、評制だった」のやり取りばかりが目につく。
むしろ、評制の施行以前と以後とが、どう変わったかだろう。積極的に、「出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野」等の長門以東の附庸王国を解体し、九州王朝「倭国」がこの中央集権的政策「天下立評(=全国評制施行)」で直接支配に乗り出した事だ。
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.takehikofuruta @tohyan 新年おめでとうございます。孫のおかげでつぶやき拝見。うれしく思っています。去年から今年にかけて、新発見の連続です。やがてお目にかけます。ありがとう!
4:33 PM Jan 3rd Tweetie for Macから tohyan宛
.takehikofuruta @tohyan 壬申大乱の件、あなたのご想像の通りです。柿本人麻呂がこの地帯、吉野ヶ里の東にあたる於保に来たときのことを歌った歌が見つかりました。吉備の釆女が死んだとき彼の作った歌(万葉集)です。
4:43 PM Jan 3rd Tweetie for Macから tohyan宛
.takehikofuruta @tohyan 嘉瀬川の件。柿本人麻呂が歌った吉野川は、嘉瀬川のことです。私はそう理解しています。できれば現地で嘉瀬川の全体を観察していただければ幸いです。どうぞ。(壬申大乱のテーマです)
4:46 PM Jan 3rd Tweetie for Macから tohyan宛
.takehikofuruta バイブルに関する新発見がありました。ヨーロッパ人やアメリカ人には思いもつかぬ新世界です。1月下旬には東京古田会に掲載。なお、中国の文字の成立についても、まったく新しい発見にあいました。
4:49 PM Jan 3rd Tweetie for Macから
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正月早々、古田武彦先生に『壬申大乱の件、おまえの想像の通りだ』とお褒め頂き有頂天になりましたが、私の『壬申大乱』に関する意見のどこの部分かは明示されてませんからねー^^拡大解釈しすぎてはと思いつつも。RT @takehikofuruta『壬申大乱の件、あなたのご想像の通りです。』
『壬申乱』の拡大解釈かもしれないが、《 倭国年号「白鳳」が684年迄続いていて、倭国は662年洲柔・白村江で敗戦后、壬申乱ではむしろ、天智近江朝に戦勝し倭国は再統合を果たす。かろうじて再復活し生きのびていて、大化2年(=696年)「倭王」高市の暗殺で政権の中枢から蹴落とされ滅亡した。》のだ。
662年白村江戦で唐の対戦国は大和朝廷の日本国ではなく、明らかに倭国である。後の701年の遣唐使は、明らかに大和朝廷の日本国である。若し、倭国が滅亡したとすると、その間であることは確かである。が、壬申乱ではない。一方、木簡の発掘から、評制は700年まで、郡制は701年以降である。
この倭国の歴史・滅亡が、何故、分らなかったのか? 私なりに書き出してみた。
①「隋書」記載の『倭国』、『秦国』が「日本書紀」から、全て抹殺されていること。
②「常色の改革」、「難波複都造の詔」、「天下立評」、「白雉改元儀式」、「吉野閲兵行幸」、等が、『34年后の出来事』として記述されていること。
③大和朝廷は、「倭国王甘木王」の「天下立評」を遂行の為、「難波副都へ常駐」を命令された「倭国弟王家伊勢王の子孫一族」である。
④「倭国」は662年洲柔・白村江で敗戦し、唐が倭国白鳳王「薩夜麻」を捕獲・連行したこと。
⑤白村江敗戦後、唐支配の筑紫都督府に対し、「伊勢王皇子天智」の近江朝が「長門以東天下立評地」を、「阿麻国(=天国)」⇒「日本国」として分離独立させたこと。
⑥壬申乱は唐の監督下で、倭国「薩夜麻」の白鳳王『復位』をだしに、倭国の筑紫筑紫都督府・近江朝「日本国」の『再統合戦』だったこと。
⑦倭国王「薩夜麻」と浄御原「大海人」とが、「天武天皇」の一人に併せられていて、二人一役に記述されていること。
⑧「684年白鳳地震」の直前に、『倭国』は「大宰府から難波副都へ遷都していた」こと。
⑨「倭王高市」は690年即位し、「持統天皇」は「倭王高市」の『書換え』であること。
⑩645年「大化改新」は、695年『廃評建郡詔』の「本来のプロト大化改新」のコピーであること(木簡出土で明確になった)。
⑪「プロト大化改新」の『東国国司召集詔』で天武朝の恨みを買った「倭王高市は696年暗殺された」こと。
⑫645年「乙巳の変」は、「倭王高市の696年暗殺事件」のコピーであること。
ざっと、こんなものかな^^
〔大和王朝は(難波副都で「天下立評」した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ〕
「天下立評(=全国評制施行)」が、如何に革命的だったか?その結果が「大和朝廷」の誕生なのだと言える。
(356) 『福永光司著「道教と古代日本」(1)「天皇」「真人」の項に「古代日本の天武・持統の頃云々」』 2011年3月1日(火)
.jyoumonjn ありがとうございます、いつもご高説を拝見してます。ツイッターの範囲で(^^RT @tohyan もっと激しく ゲロtweetして欲しい RT @jyoumonjn 北辰とは北極星、太一のことで天皇大帝のシンボルとして中国皇帝の時代から習合されていた。伊勢神宮の祭神は天照と太一で
9:25 PM Nov 26th, 2010 webから tohyan宛
.jyoumonjn @tohyan いろいろありがとうございます。思うには北辰を北極星と北斗七星を含んでしまうと別物に?内宮は北辰で外宮は北辰に奉仕する北斗の役目かと・・
9:34 PM Nov 27th, 2010 webから tohyan宛
.jyoumonjn @tohyan 仏教も神道もどちらも中国を経由ですから相互に影響を受け・・特に道教の神学のほうが大きいかと?権現も現人神も仏教用語ですが、明神(アキツカミ)も道教系と考えれば修行によって神となったものとも・・ちょっと無理がありますか?(福永光司「道教と古代日本」)
2011年2月11日 15:00:20 webから tohyan宛
jyoumonjn 「道教と古代日本」読み直しました。やはり仏教が漢訳された時点で既に習合してたということ。それに日本は不当に道教を隠蔽し、日本古来の神道に粉飾したという実感が
1:45 PM Feb 14th
jyoumonjn それに日本は不当に道教を隠蔽し、日本古来の神道に粉飾したという実感が ⇒なるほど、「道教と古代日本」をまだ読んでいませんが、道教に“一般的になじみがない”ことを思えば、『日本は不当に道教を隠蔽』してるからかもしれませんね。何故でしょう?
2:26 PM Feb 14th
jyoumonjn 道教という言葉に偏見もっても、頭から足のつま先まで道教的であることを気づかせない?
3:29 PM Feb 14th
.tohyan 昨日夕方ポストに本が入ってました。読み始めたばかりですが、やはり、神道というか、道教というのは比較的新しいんですね。RT @jyoumonjn 恐縮です。仏教より先に浸透したものと思っています。RT @tohyan 福永光司「道教と古代日本」この本発注しました。読んでみます^^
2011年2月18日 9:08:32 webから
jyoumonjn @tohyan おはようございます。わざわざありがとうございます、通読されましたら・・読後感などツイート願えたら幸いです。
2011年2月18日 13:15:14 webから tohyan宛
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他にかまけて^^p78(1)「天皇」「真人」の項に『古代日本の天武・持統の頃云々』とありますが、倭国王「薩夜麻」と浄御原「大海人」とが「天武」の二人一役。「持統」は「倭王高市」の『書換え』をご存じないのでは。
〔ウィキペディア:唐〕
『皇室の李氏は李耳(老子)を祖とすると称していたので、道教は唐代を通じて厚い保護を受け、道先仏後という原則が定められていた。
私は倭国王「薩夜麻」が唐で拘束中に、唐高宗との接触・感化を受け日本へ帰り、更に「大海人」へ伝授したのではと思うのですが。
jyoumonjn @tohyan お忙しいと存知ますのでゆっくり古代道教の敷衍過程をお楽しみください。また漢訳仏教の時点にて古代中国思想との習合が既になっていたこともどうかと?・・
うっ・否、おっしゃるように、と思いますが、特に「古事記」「日本書紀」編纂当時720年代の思想的背景が、その後の日本の宗教思想に強く影響したのではないか「天皇」「真人」「朱雀」「朱鳥」読み応えがあります。RT @jyoumonjn漢訳仏教の時点にて古代中国思想との習合が既になっていた。
jyoumonjn 問題はそれを隠しオリジナル神道のように装った?RT @tohyan 特に「古事記」「日本書紀」編纂当時720年代の思想的背景が、その後の日本の宗教思想に強く影響したのではないか「天皇」「真人」「朱雀」「朱鳥」読み応えがあります
まだ、1/3しか読んでいませんで、言われんとする内容が良く掴めていませんが、神社へお参りして神主さんがあげる祝詞って、あれ「古事記」の記述内容と同じですよね。同じと、私には聞こえるんですが、違いましょうか?RT @jyoumonjn 問題はそれを隠しオリジナル神道のように装った?
あはっ、まだそこまで行っていません。この古事記の歴史書とは別に、宗教思想書の性格があるとは全く知りませんでしたね。RT @jyoumonjn 祝詞もたくさんあると思いますがそのまま古事記の記述と同じ、古事記そのものが淮南子「天文訓」そっくりであることは驚くにあたらないと思います。
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