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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 022 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(481) 『あの、大嘗蔡に備え天皇が「御禊」をするための仮屋「百子帳」の屋根は蒲葵で葺いたらしい』 2011年4月12日(火)

● jyoumonjn
 @tohyan あの、大嘗蔡に備え天皇が「御禊」をするための仮屋「百子帳」の屋根は蒲葵で葺いたらしい。オモロイ。


檳榔(びろう)は別名蒲葵(ほき)、コバ、アジマサとも呼ばれ…。《魚拓》
 RT @jyoumonjn あの、大嘗蔡に備え天皇が「御禊」をするための仮屋「百子帳」の屋根は蒲葵で葺いたらしい。


 北限が福岡県宗像市の沖ノ島ということは、大和盆地の知見じゃあないですね。大嘗祭は九州王朝「倭国」が始まりつーことですか。
 RT @jyoumonjn Wikipediaでは、東アジアの亜熱帯(中国南部、台湾、南西諸島、九州と四国南部)の海岸付近に自生し、北限は福岡県宗像市の沖ノ島。


 〔ビロウ - 暇つぶしWikipedia〕《魚拓》

 『ビロウ(Livistona chinensis、蒲葵、枇榔、檳榔)はヤシ科の常緑高木。漢名は蒲葵、別名ホキ(蒲葵の音)、クバ(沖縄)など。古名はアヂマサ。
 ビロウの名はビンロウ(檳榔)と混同されたものと思われるが、ビンロウとは別種である。
 葉は掌状に広がる。ワシントンヤシにも似るが、葉先が細かく裂けて垂れ下がるのが特徴である。東アジアの亜熱帯(中国南部、台湾、南西諸島、九州と四国南部)の海岸付近に自生し、北限は福岡県宗像市の沖ノ島。沖縄などでは庭木・街路樹に用いるほか、葉は扇や笠に利用し、また若芽を食用にする。淡島 自凝(おのごろ)島 檳榔(あぢまさ)の島も見ゆ 放(さき)つ島も見ゆ (古事記・仁徳天皇御製)
 ビロウにちなむ地名として、枇榔島(宮崎県門川町、鹿児島県志布志市、南大隅町)、蒲葵島(高知県大月町)などがある。
 古代天皇制においては松竹梅よりも、何よりも神聖視された植物で、公卿(上級貴族)に許された檳榔毛(びろうげ)の車の屋根材にも用いられた。天皇の代替わり式の性質を持つ大嘗祭(だいじょうさい)においては現在でも天皇が禊を行う百子帳(ひゃくしちょう)の屋根材として用いられている。民俗学の折口信夫はピロウに扇の原型を見ており、その文化的意味は大きい。扇は風に関する呪具(magic tool)であったからである。』


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(487) 『源融は、百人一首の河原左大臣で、嵯峨天皇第14皇子ですね。ちなみに私は、渡辺綱の子孫です。嵯峨源氏です』 2011年4月13日(水)

● xe33ba6c72tm61
 @tohyan 源融は、百人一首の河原左大臣で、嵯峨天皇第14皇子ですね。ちなみに私は、渡辺綱の子孫です。嵯峨源氏です。江戸時代は、織田有楽斎を藩祖とする大和国織田藩一万石の藩士だそうです。


そりゃ、また、すごいですね。何か言い伝えでもあるんでしょうか?RT @xe33ba6c72tm61 源融は、百人一首の河原左大臣で、嵯峨天皇第14皇子ですね。ちなみに私は、渡辺綱の子孫です。嵯峨源氏です。江戸時代は、織田有楽斎を藩祖とする大和国織田藩一万石の藩士だそうです。


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan 祖父母の話では、曾祖父は、いつも名刀、備前長船を大切にしていたらしいです。奈良県桜井に一族の墓があり、本家は、代々、織田藩の中老職を務めたらしいです。死んだ祖父は、居合道八段・範士でした。


スケート織田信成選手となんかつながりありますか?
 RT @xe33ba6c72tm61 祖父母の話では、曾祖父は、いつも名刀、備前長船を大切にしていたらしいです。奈良県桜井に一族の墓があり、本家は、代々、織田藩の中老職を務めたらしいです。死んだ祖父は、居合道八段・範士でした。


● xe33ba6c72tm61
 @tohyanスケート織田信成は、信長の七男・信高の子孫、旗本・高家で近江国二千石。織田有楽斎長益は、信長の弟で、一門です。渡辺綱は源頼光の四天王の筆頭、京、大江山の酒呑童子を退治し、羅生門の鬼の腕を切り落とした、武勇で知られ、四天王に、坂田金時がおり、足柄山の金太郎の成人です。


 事実なら1200年続いており、1代20年として貴方の約5・60代前のご先祖が渡辺綱ということですね。源氏は新羅からの渡来人と聞いていますが。
 RT @xe33ba6c72tm61 渡辺綱は源頼光の四天王の筆頭、京、大江山の酒呑童子を退治し、羅生門の鬼の腕を切り落とした、武勇で知られ


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan 源氏、平氏は、天皇の子や孫が、臣籍降下した際に、天皇から賜る姓です。源氏は、天皇と、みなもとが同じ、という意味らしいです。平氏は、平安京の平を、たいら、と読んだのが起源らしいです。有名なのは、清和天皇から分かれた清和源氏、桓武天皇から分かれた桓武平氏です。


 それは違うと思いますよ。系図上ですが、清和天皇は桓武天皇の同族子孫ですよね。若しそうだったら、なにも源氏と平氏名前が違うのって変だと思いません。参照『日本列島史抹殺の謎:鹿島昇』
 RT @xe33ba6c72tm61 清和天皇から分かれた清和源氏、桓武天皇から分かれた桓武平氏です。


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan 天皇には、皇太子以外に次男、三男、場合によっては、13男くらいまでいて、それぞれに、次男、三男がいるから、全員皇族にしてたら、財政が持たない。だから、天皇の孫やひ孫クラスは、賜姓源氏、賜姓平氏として臣籍降下。どの天皇から分かれたかで、清和源氏とか桓武平氏とか決。


 ならば、清和源氏とか桓武平氏だけでなく、もっとたくさんあって良いのでは^^
 RT @xe33ba6c72tm61 天皇には、皇太子以外<略>がいるから、全員皇族にしてたら、財政が持たない。<略>賜姓源氏、賜姓平氏として臣籍降下。どの天皇から分かれたかで、清和源氏とか桓武平氏とか決。


 以前にもここで書きましたが、韓国では系図が非常に大事にされてるといいます。ルーツが大切にされるんですね。日本にも同系の方々がいます。でもね、親は2人、その親は4人、またその親は8人、16人、と増えます。部落民とかのルーツは関係ないと思いますよ。
 RT @xe33ba6c72tm61


 系図が、ルーツが大切にされるんですね。それはそれで良いとして、親は2人、その親は4人、またその親は8人、と増えます。この系図に載ってない方の先祖は今どうかだと思いますよ。なにせ、今貴方の染色体そのものですし、お子さんがあれば直接影響しますから。
 RT @xe33ba6c72tm61


 私の血液型はAで、両親ともAです。女房もAですが、私の子供の一人にO型がいます。義母がO型と分りましたが、女房が浮気してない限り、私の知らない先祖にもO型がいるはずですよね。南アフリカの裕福な白人家庭にある日突然黒人が生まれることがあるってね。
 RT @xe33ba6c72tm61


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(489) 『「オナリ信仰」とは女性の姉妹は男の兄弟に対し「オナリ神」の守護神、即ちう女性の霊力(セジ)信仰である』 2011年4月13日(水)


 以下は、
● jyoumonjn
 〔おなり神と王権 2011.04.13]《魚拓》
からの転載ですので、ご承知おきください。



『おなり神と王権沖縄になんども訪れたことがある。その度に「女性が輝いているなぁ」と思うし、実際、沖縄の女性は「働き者」といわれている。
 その理由がおぼろげながらわかってくると、いま本土では消えてしまった多くの伝承や文化のモデルが僅かに残っているように思う。民俗そのものはなくなっていてもカタチを変えて暮らしや行いに影響を 与えているものだろう。

 そのひとつに「オナリ信仰」がある。簡単にいうと女性の姉妹は男の兄弟にたいして「オナリ神」として守護神になる、という女性の霊力(セジ)信仰である。例えば男性が戦に出たり、旅にでたりするとき
「テサージ」という手ぬぐいのような布を贈ったりしてるようだ。布には古来より魂が宿るというから、当然、オナリ神のセジは込められて守護神として守ってくれるという。

 沖縄で神事にはノロ(祝女)といわれる巫女の神託により行われるものですが男性の神官とノロの組み合わせは同様にオナリ神にあたいするものだと思う。その最高位のカタチが琉球王にたいするノロの最高神である「聞得大君」の制度があったようだ。
 琉球国を治めることに祭政分離の思想を持ち込み、巫女が神の神託を聴き、王が実際の政務を執行するという祭政分担の形式です。

 これですぐ気づくのは所謂、魏志倭人伝にいうところの邪馬台国の統治のしかたである。
 卑弥呼は鬼道をおこない、弟は政務を助けたということだ。これは倭国いらいの日本の国の統治権力が祭祀権と施政権とに、権威と権力が早期に分離していたことが、その後の天皇制もふくめた統治のあり方に影響してきたと言えないだろうか?

 倭国が隋に使者を送って答えたことに「倭王は天を兄とし、日を弟として天まだ明けざるときに政を聴き、日出れば理務をやめ弟に委ねる…」とある。
 これは兄弟がいて国を治めていたととられているが、ここでの「兄弟」という意は必ずしも男の兄弟という意味ではなく祭政分担をしてという意味に理解するほうが分かりやすい。
 易では十干十二支では「兄弟」を「え・と」として陰陽をしめしている。甲乙を「きのえ」「きのと」という。

 初の女性天皇の推古朝に、摂政として聖徳太子が登場してくるのは、自然なことで、これは男女という組み合わせをこえて祭祀権と施政権との組み合わせと考えると、太政天皇と天皇、または、天皇と皇太子という組み合わせの時代もありえたのではないかとも思う。
 また、このことが永いあいだの幕府政権を通じても天皇の地位が失われなかった希なる力でもあったと思う。

 今の憲法下での象徴天皇制も同じ構図といえなくはないだろう。
沖縄は日本の古文化の故里である。多くの民族学の研究者が当地を訪ねたのもそのためであろう。
 これからも是非「沖縄の女性」には輝きをもって日本の「オナリ神」として活躍してもらいたい。


《沖縄では神事にノロ(祝女)と言う巫女の神託により行われる、男の神官とノロも同じくオナリ神にあたいする》


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(490) 『桓武平安朝は扶余・百済系帰化人の王朝と踏んでいます。源平戦は新羅系源氏と百済系平氏の葛藤でしょう』 2011年4月13日(水)

● xe33ba6c72tm61
 @tohyan 血液型ですが、A型には、AO型とAA型があり、B型にもBB型とBO型があり、O型はOO型、AB型はAB型しかないです。だから、あなたの子どもさんがO型なら、貴方と奥さんは、どちらもAO型と考えられます。


ピンポーンです。 お・お詳しい ^・^);
 RT @xe33ba6c72tm61 貴方と奥さんは、どちらもAO型と考えられます。


 九州王朝「倭国」と天智近江朝及び大和朝廷「日本国」は倭人系の兄弟王家だと思います。が、桓武平安朝は扶余・百済系帰化人の王朝と踏んでいます。源平戦は新羅系源氏と百済系平氏の葛藤でしょう。
 RT @xe33ba6c72tm61 どの天皇から分かれたかで、清和源氏とか桓武平氏とか決まる。


● shado_666
 @tohyan @xe33ba6c72tm61 こんばんは。横から失礼します。文献に桓は韓の正字、とありますね。蘇我氏をどう捉えておいででしょうか?


 「日本書紀」には、隋書記載の「倭国」「秦国」がまったく無視・抹殺されています。「秦国」は今の近畿地域の飛鳥・葛城にあった蘇我氏の王家と考えています。
 RT @shado_666 @xe33ba6c72tm61 文献に桓は韓の正字、とありますね。蘇我氏をどう捉えておいででしょうか?


 「日本書紀」には、隋書記載の「倭国」「秦国」がまったく無視・抹殺されています。「秦国」は今の近畿地域の飛鳥・葛城にあった蘇我氏の王家と考えています。
 RT @shado_666 @xe33ba6c72tm61 文献に桓は韓の正字、とありますね。蘇我氏をどう捉えておいででしょうか?


● xe33ba6c72tm61
 @shado_666 @tohyan 蘇我氏が、百済系渡来人か日本人かは、私にはわかりませんが、仏教の普及や渡来人の積極的活用など大臣として、大連であり、神道寄りの物部氏を倒し、天皇の外戚として権力を握ったと思いま


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan @shado_666 私は、今の天皇は、あくまで神武天皇のY染色体をうけついでいるという考え方です。だから邪馬台国が九州であろうが畿内だろうが、卑弥呼は、日御子つまり太陽の子、つまり天照皇大神宮と一致する説です。


なーるほど、センター試験の模範的な回答です^^「能」の源融も何かの縁でしょうから気が向いたら私のホームページ
〔九州王朝「倭国」〕
へ、どうぞ。
 RT @xe33ba6c72tm61 @shado_666


● shado_666
 「蘇我氏は本来の倭国(九州王朝)の末裔だったのではないか」とのどなたかの説を知り興味深く思いました。いずれにしても入り乱れすぎて、どこからが「日本の王朝」と言えるのか議論が分かれそうですね
 RT @tohyan @xe33ba6c72tm61


唐は662年白村江で倭国と交戦したと明記しています。701年以降は日本国と交渉しています。若し、蘇我氏が倭国(九州王朝)を打倒したのなら、その自慢話の一つ二つはあると思うのですがどうでしょう^^
 RT @shado_666 「蘇我氏は本来の倭国(九州王朝)の末裔だったのではないか」


● xe33ba6c72tm61
 @shado_666 @tohyan 貴方の説が正しければ、日本人は、朝鮮に侵略されたことになってしまい、日本民族が朝鮮出身者の王朝に屈してしまったことになります。そんなことはないと思います。邪馬台国=やまと国=大和国と思いたいです。日本人には他国にはない、大和魂があります。


日本人として実に模範的な回答です。が、桓武天皇の名前は桓(=百済)族の武帝(=始祖王)という意味です。京都・鎌倉時代は大混血時代と言われています。
 RT @xe33ba6c72tm61 @shado_666 白村江敗戦で亡国の百済棄民が日本へ押し寄せ奥州征伐で実力を貯え奈良朝を打倒


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan 中国の諡法に、敵に勝ち遠方を服従させた事を桓という、とあります。また、武帝は、武力をもって国土を広げた皇帝や、戦乱を平定した皇帝に贈られる。とあります。始祖王には、高祖や太祖の諡号が贈られます。後漢や北魏の桓帝、斉の桓公は、百済と何の関係もありません。


 桓武天皇を貴方の理解で解釈すると『敵に勝ち遠方を服従させ、武力をもって国土を広げ、戦乱を平定した皇帝』となりますね。
 RT @xe33ba6c72tm61 敵に勝ち遠方を服従させた事を桓という、とあります。また、武帝は、武力をもって国土を広げた皇帝や、戦乱を平定した皇帝に贈られる。


これ読んで見てくれますか
〔桓武天皇ご即位の謎〕
 RT @xe33ba6c72tm61 @shado_666 桓武天皇は『敵に勝ち遠方を服従させ、武力をもって国土を広げ、戦乱を平定した皇帝』となる。

H13.12.23日付け朝日新聞は、

「天皇陛下、W杯で交流に期待」
「韓国とのゆかり感じてます」
「桓武天皇の生母、百済王の子孫と続日本紀に」、

『天皇陛下は23日、68歳の誕生日を迎えた。これに先立って記者会見し、深刻化する経済情勢が国民生活へ与える影響を案じ、この1年の出来事を振り返った。日韓共催のサッカーワールドカップ(w杯)との関連で、人的、文化的な交流について語る中で「韓国とのゆかり感じてます」と述べた。「残念な」歴史にも触れ、両国民の交流が良い方向へ向かうよう願う気持ちを示した。
w杯の共同開催国、韓国に対する関心や思いを問われ、陛下は、同国からの移住者らによって文化や技術が伝えられたことに触れる中で
「私自身としては、桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。
武寧王は日本との関係が深く、このとき日本に五経博士が代々日本に招聘されるようになりました。
また、武寧王の子、聖明王は日本に仏教を伝えたことでしられております」
と語った。』とあります。


● shado_666
 @tohyan @xe33ba6c72tm61〔桓武天皇ご即位の謎〕は以前に拝読させていただきました^^ 桓の字の件は、檀君神話における天帝の名が桓因だったので、違和感なく思ってましたが、「敵に勝ち遠方を服従させた事を桓という」のは勉強になりました!


 あはっ私もです。
 RT @shado_666 @xe33ba6c72tm61 〔桓武天皇ご即位の謎〕は以前に拝読させていただきました^^ 桓の字の件は、檀君神話における天帝の名が桓因だったので、違和感なく思ってましたが、「敵に勝ち遠方を服従させた事を桓という」のは勉強になりました


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(495) 『2通りの帝王諡号を制定「文帝・武帝・明帝・元帝などの帝号と、高祖・太宗・世宗・宣宗などの廟号」である』 2011年4月15日(金)

下記は
〔三国志ですよ(*´∀`) 三国志や日頃の日記など気ままなブログです〕《魚拓》
からの引用・転載です。


2006.10.06 Friday

諡:

 諡 諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名号のことである。

「諡」の訓読み「おくりな」は、「贈り名」を意味する。


 国家が与える公の諡と、個人が付ける私諡に分けられるが、一般にいう諡は前者の方である。

 日本の仏教徒の戒名は受戒し仏弟子となり、世俗生活の俗名を離脱するためにつけるものであり、本来は生前に付け、時に追善のため臨終ないし死後につけたものであるが、「臨終ないし死後」に贈られることが一般化した結果、実質的な「忌み名」として用いられている。

「忌み名」も私諡の一種であり、そこから諡一般のことを諱(いみな)と言う場合もあるが、諱とは本来は個人の通称である字(あざな)に対する本名を意味し、本人に対する敬意として口に出すことを憚る名、のことで、本義は諡とは異なる。


 諡号を奉るという事については、王権継承から着目し、即位を正統化する儀式であることに本来の意義がある。


 立諡制度の起源は中国の周代中期(紀元前9世紀頃)といわれ、天子のみならず、諸侯・卿大夫・高官・名儒等に贈られ、時代が下って高僧も対象となった。


 初期の諡号には褒貶の義は無かったようだが、次第に生前の行跡に照らして追号されるようになった。中国の戦国時代に成立した『逸周書・諡法解』は諡法について定めた最初の書であり、長く諡号選定の準拠とされた。


 諡字は概ね、その意味を以って上(美諡)・中(平諡)・下(悪諡)に分けられる。

「神」「聖」「賢」「文」「武」「成」「康」「献」「懿」「元」「章」「景」「宣」「明」「昭」「正」「敬」「恭」「荘」「粛」「穆」「烈」「桓」「威」「貞」「節」「靖」「真」「順」「顕」「和」「高」「光」「英」「睿」「憲」「孝」「忠」「恵」「徳」「仁」「智」「慎」「礼」「義」「敏」「信」「清」「良」「謙」「純」「哲」

 等、死者への褒揚がこめられた字が名君賢臣に与えられた。

 これに対し、「野」「戻」「」「昏」「煬」「幽」「夷」等は悪諡として暴君奸臣に賜る事になっている。


 立諡制度は秦の始皇帝によって一時廃止されながらも、西漢以降中国の歴代王朝に踏襲され、日本には少なくとも天平宝字六年(762年)以前に、律令政治の成立と前後して輸入された。


帝王(中国)の諡号

 秦の始皇帝は「臣が君主の死後君主の業績を評価をすべきではない。始皇帝、二世皇帝...万世皇帝と自動的に決めるようにせよ」という意志を持ち、短時期ながら諡法を廃止した。

 しかし前漢の皇帝たちはこれを復活させ、さらに二通りの帝王諡号を制定した。文帝・武帝・明帝・元帝などの帝号と、高祖・太宗・世宗・宣宗などの廟号がある訳である。

 一般に言うと、隋以前は帝号を以って帝王の尊称としたが、唐宋以後は多く廟号を用いるようになった(帝号も無くなったわけではないが、唐の太宗の「文武大聖大広孝皇帝」のように長くなる傾向があり、呼びにくいので通常にはあまり用いられなくなった)。


 ほとんどの君主はこの両種類の諡を持っているが、例外として、末帝や廃帝には廟号が上られなかった。

 廟号を得るとは太廟(皇室の祭祀所)に位牌が祀られることを意味し、崇めるに足りなかった廃帝や、皇朝の末代にそのような待遇はされなかったのである。


 開国皇帝(王朝の初代)や王朝の繁盛に大いに尽くした皇帝には「某祖」、その他の皇帝たちには揃って「某宗」の廟号が奉られた。

 例えば、前漢の高帝劉邦は開国皇帝なので廟号は「太祖」、後漢の光武帝は創業に等しいので廟号は「世祖」とされたが、それ以外の漢代の帝王は皆「某宗」であった。

 清の初代ヌルハチは太祖高皇帝、初めて中原を支配した三代目順治帝は世祖章皇帝、その子で賢君の誉れ高かった康熙帝は聖祖仁皇帝とされ、稀に見る一代三祖となっている。

 ちなみに、日本でも教育勅語や玉音放送の中で「皇祖皇宗(初代と言われる神武天皇から続く万世一系の天皇家という意味か)」という定型の表現を用いている。


 帝王の諡字選定の原則も、臣下のそれと同様であったはずだが、唐宋以降、よほどの暴君でもない限り悪諡は避けられた。

 遊楽に耽けて危うく国を傾けそうになった宋の徽宗(実際に亡国)、明の武宗なども美諡を得た所以である。

 その一方で、後継者の都合によって「暴君」もしくは不適格とされた君主は死後、庶人として待遇されたり(例:魏の高貴郷公、南斉の東昏侯、金の海陵王ほか)、在位そのものが否定される場合(前漢の少帝弘、唐の少帝重茂、明の建文帝ほか)があった。


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(496) 『日本の「万世一系」はあくまで建前である、この「万世一系」は異民族支配をカムフラージュしたと言えよう』 2011年4月15日(金)

● shado_666
 畿内の王権が倭国(九州王権)を打ち負かし、その歴史を繰り入れたと考えています。 それまで蘇我氏が天皇記や国記を保管し、後に国記が中大兄皇子の手に渡った点を考えると、大化の改新こそがそれにあたるのではないかと。
 RT @xe33ba6c72tm61 @tohyan


● shado_666
 九州王権も含め、王統の(民族的な)出自がどうかというのは、あまり追求しても仕方が無いような。島国で自然発生的に猿から進化したわけでもないでしょうから^^ 
 RT @xe33ba6c72tm61 @tohyan


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan 古代史は、いろんな説があって良いのでは、ロマンがあって。桓武天皇の母方が、百済系というのは知ってました。古代史は、証拠が少ないから、いろんな想像力を掻き立てられますね


 まー、貴方とこれ以上話しても進展ないでしょう、そういうことにしときますかね。RT ● @xe33ba6c72tm61
 古代史は、いろんな説があって良いのでは、ロマンがあって。桓武天皇の母方が、百済系というのは知ってました。古代史は、証拠が少ないから、いろんな想像力を掻き立てられますね

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● xe33ba6c72tm61
 『中国の諡法に、敵に勝ち遠方を服従させた事を桓という、とあります。また、武帝は、武力をもって国土を広げた皇帝や、戦乱を平定した皇帝に贈られる。とあります。
 始祖王には、高祖や太祖の諡号が贈られます。後漢や北魏の桓帝、斉の桓公は、百済と何の関係もありません。』
 と言うが、果たしてそうか? さらには、中国の諡法が日本のそれにぴったり当てはまるか、疑問である。


 日本の場合、「万世一系」の建前上、「皇祖」は初代「神武天皇」のみであり、続く以外の天皇は全て「皇宗」となり、「廟号」は必要ない、日本の天皇の場合は全て「帝号」ということになる。

 ところが、日本の「万世一系」はあくまで建前であると分っているので、この「万世一系」は異系氏族支配・異民族支配をカムフラージュしたものと言えよう。
 桓武天皇の名前は桓(=百済)族の武帝(=始祖王)という意味で、間違いないようだ。


〔諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名号のことである〕《魚拓》
(参考頁)
 RT @xe33ba6c72tm61 @shado_666


これは、分り易い
〔中国史雑学のコーナー〕
『天下統一王朝の皇帝の系譜表』

 皇帝は死後。生前の名前は諱(いみな)として用いない。生前の業績と批評・批判によって死後名を送られる。これを諡という(例:武帝)。

 諡号の付け方は決まりがあり、それを諡法という。一度、秦の始皇帝の時代に天下の主を評価するとは何事か!と廃止されたが、漢王朝が興ると復活した。

 生前よい業績を残した場合
「武」: 戦いに勝って争乱を治めた。
「桓」: 土地を開拓し、遠くまで征服した。


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan 普通、天皇は、今上天皇、または、明仁天皇と言い、死後、おそらく99%平成天皇と諡されるでしょう。これは、明治以後、一世一元号の慣例によります。これを除けば歴代で生前から諡号を名乗っていたのは後醍醐天皇だけです。他の天皇は今上帝とだけ呼ばれていました。諡は、死後追贈


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan また、桓武の諡は、遠方である東北のえみし(夷狄)を征夷大将軍坂上田村麿を派遣して武力で平定したという意味です。朝廷の勢力をさらに北に伸ばした、ということです。万世一系が作り話ならば、なぜ天皇家のみ、おおきみと呼ばれていたころより苗字がないのか?それは、初めから別格


 桓武が東北を平定と前後して、奈良の大和朝廷は滅亡しています。長岡京の兄を滅ぼし、京都に自らの桓武朝を開いたのですよ。
 RT @xe33ba6c72tm61 @shado_666 桓武の諡は、遠方である東北のえみし(夷狄)を征夷大将軍坂上田村麿を派遣して武力で平定したという意味です。


 日本の天皇で、「武」の付いてる天皇は、神武・天武・文武・聖武・桓武天皇です。貴方の説で納得行く説明ができますか?私のは聖武については今一説明できません。又天武は倭国王薩夜麻として、壬申乱で天智近江朝を再統合の結果の為か?
 RT @xe33ba6c72tm61 @shado_666


 詳しくは
〔九州王朝「倭国」〕
及び、
〔大和朝廷「日本国」出生秘話〕
を、読んでください。
あと、ブログ
〔倭国の遺跡スポットを訪ねてみよう〕
を読んで頂ければ幸いです。
twitterの140字内で説明するのは大変です。
 RT @xe33ba6c72tm61 @shado_666


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(497) 『10年ですが早良親王(崇道天皇)は即位し長岡京に都しています。その後、桓武が淡路島に幽閉し殺されてます』 2011年4月15日(金)

● xe33ba6c72tm61
 @tohyan 貴方の説は百済新羅のような重箱の隅をつつくような話ばかりで、卑弥呼の邪馬台国の政治や聖徳太子の政治、聖徳太子と蘇我氏の関係、大王(おおきみ)や大和朝廷のしくみである氏姓制度を無視している。大和朝廷を率いる大王は他の氏と区別する必要がない最高の氏なので名称がなかった


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan 奈良時代に桓武は、すでに即位してます。桓武が平城京を放棄したのは、天武系の影響の強い旧勢力や奈良の寺院の勢力から逃れようとしたのです。都を長岡京に移す事に反対した反藤原勢力が藤原氏の中心人物を長岡京で暗殺。これを機に桓武は、大伴氏ら旧勢力を徹底的に弾圧しました。


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan 皇太子早良親王も桓武に疑われて食を絶って死んだのです。その怨霊が桓武を悩ました。ついに、わずか十年間で、桓武は長岡京を捨て、都は平安京に移されることになった。まさしく怨霊、都を動かす!


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan いちいち読んでられません。この場で議論してください


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan 一通り目は通しましたが、荒唐無稽の少数意見ですね。


 10年ですが、早良親王(崇道天皇)は即位し長岡京に都しています。その後、桓武が淡路島に幽閉し殺されてます。
 RT @xe33ba6c72tm61 @shado_666 皇太子早良親王も桓武に疑われて食を絶って死んだのです。その怨霊が桓武を悩ました。ついに、わずか十年間で、桓武は長岡


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan あと、無断で私の発言をブログに載せるのは、なんかいやな感じがします。


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan 崇道天皇など存在しません。早良皇太子の怨霊を恐れて追贈しただけで、長岡京は、桓武です。


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan いちいち都が変わったから、王朝が変わったと考えてあるようですが、聖武天皇のように自然災害と天然痘が流行するなど、ノイローゼになり、平城京を捨て、恭仁京、難波京などに都を移していった天皇もいます。結局また、平城京に帰ってきます。


 最後に、再度お伺いします。日本の天皇で、「武」の付いてる天皇は、神武・天武・文武・聖武・桓武天皇です。貴方の説で納得行く説明ができますか?
 RT @xe33ba6c72tm61 @shado_666


 お久しぶりです。倭国の話は全くかみ合いそうにないですね。伽耶が倭国だったのは知ってますが、曽我家の話は創造もしなかった。深いですね。地名も、四国と九州と近畿に共通して残っているのも興味深い。詳しいなーと見入ってました。⇒確か、古賀達也氏の電話帳調査で、蘇我氏は大分県に多いと聞きました。


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan また、重箱の隅ですね。そんなのWikipediaやネットで、載ってます。自分で調べてください。九州から神武が東征して大和朝廷ができたのです。


 貴方の説「武帝は、武力をもって国土を広げた皇帝や、戦乱を平定した皇帝に贈られる」で。
 RT @xe33ba6c72tm61 @shado_666 また重箱の隅ですね。そんなのWikipediaやネットで載ってます。自分で調べてください。九州から神武が東征して大和朝廷ができたのです。


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan それではなく、聖武天皇がなぜ武なのかです。これには、例外的な経緯があり、それがネットに載ってます。あと倭=やまと。倭をやまと、と訓読みする説をとっています。


 そんな例外が有るんですか、具体的にRLを貼り付けてくれませんか?
 RT @xe33ba6c72tm61 @shado_666 それではなく、聖武天皇がなぜ武なのかです。これには、例外的な経緯があり、それがネットに載ってます。あと倭=やまと。倭をやまと、と訓読みする説をとっています。


〔sideE~諡号考~〕《魚拓》

・「武」がつく天皇
 神武・武烈・天武・文武・聖武・桓武の6人。「武」は「周書」などによると、「武力が強い」「乱を治める」「法で民を治める」などの意味があるらしい。建国と東征神話の神武天皇、法に厳しかったとされる(自分には甘かったともされるが)武烈天皇、壬申の乱の勝者で飛鳥浄御原令を制定した天武天皇、大宝律令の文武天皇、藤原広嗣の乱を鎮圧して国分寺や東大寺で仏教国家を目指した聖武天皇、征夷大将軍をおいて東北征伐をして平安京に遷都した桓武天皇と、ほぼ字義通りの天皇が並ぶ。また、皆時代を画する治績を上げている(武烈除く)。簡単に言うと、「えらい」天皇だ(武烈除く)。


〔新説・日本の歴史第7弾『天皇諡号の真相:横浜市 井上友幸』〕・《リンク切れ》

『天武天皇、聖武天皇、桓武天皇というように「武」のが付く天皇は、何かにおびえながら一生を過ごした天皇と見られている。(武という字が付くのは、彼らの生涯の裏返しとも考えられる)すなわち、天武天皇は、中国の武力に脅されつつ、生涯を過ごした天皇であるし、聖武天皇は、精神的に弱く、物音一つで、都を替えたほどの病的な天皇であった。また、桓武天皇は、自分が天皇になるために、親王や内親王を何人か殺したため、生涯その怨霊に怯え続けた天皇である。』


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(498) 『聖徳太子をどうとらえるのか?古代史の核心です。推古天皇の皇太子にして、蘇我稲目の血をひき』 2011年4月16日(土)

● xe33ba6c72tm61
 @tohyan そんな些細なことより、聖徳太子をどうとらえるのか?古代史の核心です。推古天皇の皇太子にして、蘇我稲目の血をひき、大叔父に蘇我馬子を持ち、入鹿とは又従兄弟にあたり、蘇我馬子の娘を妻とする。憲法17条、冠位十二階を定め、小野妹子を隋に派遣。旧一万円札にまでなった。


 だから、それは私の頁〔九州王朝「倭国」〕に書いています。
 RT @xe33ba6c72tm61 そんな些細なことより、聖徳太子をどうとらえるのか?古代史の核心です。推古天皇の皇太子にして、蘇我稲目の血をひき、大叔父に蘇我馬子を持ち、入鹿とは又従兄弟にあたり、蘇我馬子の娘を妻とする。


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan 読みましたが、法隆寺が九州から移築されたとしか書かれてません。聖徳太子の政治史における偉大な功績について、触れられてません。 なぜ、それほどの人物が皇太子でありながら天皇になれなかったのか。また、聖徳太子の知恵、蘇我馬子の寝技、推古天皇の権威、この三頭政治につい


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan 聖徳太子が政治改革を断行。その後、蘇我えみし、入鹿の専横と腐敗があった。その証拠が、聖徳太子の子で、改革派朝廷勢力から信望を集めた山背大兄王を滅ぼしたこと。大化の改新は、聖徳太子の改革を支持するグループによる復古主義を理念としている。


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan 高市皇子が天皇で倭国最後の天皇?ありえません。高市皇子は持統天皇の下で、太政大臣 を務め、天武天皇の長男です。しかし、母方の身分が低いので、高市皇子の弟で、持統天皇を母とする草壁皇子を皇太子としたのです。ところが草壁皇子が死んだので、その子、文武天皇が即位した


● shado_666
 歴史(書)や宗教(書)は、勝ち残った方の権力者によって書き換えされていくものなので、ゼロか1かで考えないようにしてます。 (間違えちゃった。) 
 RT @xe33ba6c72tm61  @tohyan


● shado_666
 万世一系も、仮にそうだとしても結果としての産物なので、正当性を表すものではないと思います。もちろん(建築でも企業でも国家でも)古いものに対する敬意は持ち続けていますけれど。と、あたりさわりない模範解答をしてみる^^
 RT @xe33ba6c72tm61 @tohyan


● shado_666
 私は大阪住みですが、出自が九州人なので、とりあえず邪馬台国畿内説にがまんならない立場で(笑) RT @xe33ba6c72tm61 @tohyan


● shado_666
 まあ、金印にしても朝貢する立場だったことを表す証拠なので、それをもってエライのかといわれれば微妙ですが・・・ 
 RT @xe33ba6c72tm61 @tohyan

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 ●〔 九州王朝「倭国」は、いつ滅亡したか?それは「日本書紀」のおわりに書いてある。〕

『696年〔持統10年( 持統 {高市天皇}即位7年): 九州年号大化 2年〕7月10日、後皇子尊『 高市皇子 {高市天皇}』が薨じた。
 即ち 《本来の大化改新(=プロト大化改新)》 で、九州王朝「倭国」の末王・高市天皇が藤原不比等、らに暗殺された時である。


 ●〔 では、大和王朝「日本国」は、いつ発足・開闢したか?それは、「続日本紀」はじめに書かれている。〕

『697年〔文武元年:大化3年〕8月1日、(文武天皇が) 持統天皇から位を譲りうけて {高市天皇を暗殺して}、皇位につかれた。
『698年〔文武2年:大化4年〕11月23日、大嘗祭を行った。

 とはいえ、国として正式に発足・開闢したのは大宝律令制定以降と言えよう。
『701年〔大宝元年:文武5年:大化7年〕3月21日、対馬嶋が金を貢じた。そこで新しく元号をたてて、大宝元年とした。初めて新令(大宝令)に基づいて、官名と位号の制を改正した。


 ●〔 なんと言うことはない。「日本書紀」に書かれている時代は、九州王朝「倭国」の時代だったのである。〕

 九州王朝「倭国」の時代を、さも、大和王朝「日本国」がずっと昔から奈良に都を置いて、全国を統治していたかの如くした。倭国・秦国の列島史、及び韓半島史を使ってでっちあげたものだったのですね。ということは、これが取りも直さず 「日本書紀の正体」 だったというわけです。

 九州王朝「倭国」がどういう経緯で滅亡に至ったか?更に、大和王朝「日本国」が、いきなり、バトンタッチできたわけでなく、それには、いつ産声をあげて、どういう経緯で力強く成長したのかを解明したのが、

〔 大和朝廷「日本国」出生秘話 〕

《大和王朝は難波副都で「天下立評」した九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ》 である。


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(499) 『日本書紀そのものが、超ロングセラーな、ドギュメンタリータッチの小説ってとこでしょうか^^』 2011年4月16日(土)

 日本書紀そのものが、超ロングセラーな、ドギュメンタリータッチの小説ってとこでしょうか^^
 RT @xe33ba6c72tm61 @shado_666 聖徳太子が政治改革を断行。その後、蘇我えみし、入鹿の専横と腐敗があった。その証拠が、聖徳太子の子で、改革派朝廷勢力から信望を集めた…


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan 日本書紀は、天武の時に編纂に着手。奈良時代に完成、朝廷が正式に漢文で編集した歴史書。神話や伝説をまとめて、皇室を中心として天皇の権威は始めから続いてきたものだとしています。そのまま史実として信じるわけにはいきませんが、真実が含まれており、真実をさぐる手掛かりになる


 なぜか笏を持った聖徳太子のお札なくなりましたね。なにせ白村江が663年ですから。
 RT @xe33ba6c72tm61 @shado_666 書紀は奈良朝が唐へ報告の為漢文で編集の歴史書。そのまま史実として信じるわけにはいきませんが、真実が含まれており、真実をさぐる手掛かりになる。


 山崎豊子の『不毛地帯』『沈まぬ太陽』とか読んだ事ありますか?日本書紀は、ちょうどそんな感じだと思った方が良いかと思いますよ^^
 RT @xe33ba6c72tm61 @shado_666 そのまま史実として信じるわけにはいきませんが、真実が含まれており、真実をさぐる手掛かりになる。


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan ねつ造は、やめてください。旧札は、聖徳太子や伊藤博文、岩倉具視など日本国に顕著な功績のあった政治家を採用していましたが、最近は政治家に片寄るのは、良くないので、文化人などを用いているのです。聖徳太子は、旧札では、一万円と五千円に用いているほどの大功労者です。


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan そうは思いません。なぜなら、日本書紀を撰上したのは、高市皇子の弟、舎人親王だからです。


 肝心なこと何にも分ってないんですね。なぜか笏を持った聖徳太子⇒笏は下級官僚が、式次第とかのせて読む携帯の台ですよ。
RT @xe33ba6c72tm61 @shado_666 ねつ造は、やめてください。


 たぶん、藤原不比等が首謀者でしょう。九州系の協力者は利用されたあげく暗殺・抹殺されたみたいですよね。
 RT @xe33ba6c72tm61 @shado_666 そうは思いません。なぜなら、日本書紀を撰上したのは、高市皇子の弟、舎人親王だからです。


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan 日本書紀と同時期に古事記も撰上されています。万葉がなをもちいて太安麿が書いてうます。


何故か古事記は不採用になってお蔵入り江戸時代だか再発見。あわてて、日本書紀が編纂されています。天武天皇の時では有りません。そんなことも?
 RT @xe33ba6c72tm61 @shado_666 日本書紀と同時期に古事記も撰上されています。万葉がなをもちいて太安麿が書いてうます。


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan 白村江が663年、だからなんですか?百済の滅亡が660年、661年中大兄が百済再興軍を率い九州へ行っていますが、なにか?


真実は662年です。奈良朝は白村江に関わりがないと、暗に間違って663年と書いて唐へ訴えてるわけよ。
 RT @xe33ba6c72tm61 @shado_666 白村江が663年、だからなんですか?百済の滅亡が660年、661年中大兄が百済再興軍を率い九州へ行っていますが、なにか?


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan あなたこそわかってない。天皇でも笏を持つのですよ。ただ、身分の高い人は象牙の笏、低い人は木笏をもつのです。また、重箱の隅ですよ。


やれ・やれだねー^^中国昔の高句麗の官吏の家から、そっくり同じ肖像がみつかってるんですよ。
 RT @xe33ba6c72tm61 @shado_666 あなたこそわかってない。天皇でも笏を持つのですよ。ただ、身分の高い人は象牙の笏、低い人は木笏をもつのです。また、重箱の隅ですよ。


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(500) 『ある人が出世すると先祖の系図を、後から高貴な天皇・皇室にくっつけて偉ぶっただけさ、だれでも良かった』 2011年4月16日(土)

● xe33ba6c72tm61
 @tohyan まず、高句麗は朝鮮であって中国ではない。奈良朝は、元明天皇から、つまり710年からであって白村江と何の関係もない。天智系が百済系、天武系が新羅系といいながら、高市皇子が最後の日本人天皇、文武から異民族と言っており、支離滅裂。高市も天武系。


 何・何?変なことわめいてるな。高句麗は時期にもよるが、北朝鮮と中国東北部にあった国。奈良朝は文武天皇の正規に大宝元年701年から。
 RT @xe33ba6c72tm61 まず、高句麗は朝鮮であって中国ではない。奈良朝は元明天皇から、つまり710年からであって白村江と何の関係もない。


 何を読んだのかな?天智・天武共、九州王朝「倭国」の出先・難波副都の執政官。高市皇子が最後の倭国の王で、文武は天武の孫だよ。
 RT @xe33ba6c72tm61 天智系が百済系、天武系が新羅系といいながら、高市皇子が最後の日本人天皇、文武から異民族と言っており支離滅裂。高市も天武系


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan 源氏は新羅系、平氏は百済系と言いながら、桓武平氏、嵯峨源氏とあるが、桓武と嵯峨は親子である矛盾。仁明には源氏と平氏と両方いるのはなぜか。仁明は嵯峨の息子なのに。新羅系王朝であるはずの天武系に源氏がいないのはなぜか。源氏物語を書いた紫式部は、藤原道長の娘に仕えていた


 それは貴方が言ってることだろうが、ある人が出世すると先祖の系図を、後から高貴な天皇・皇室にくっつけて偉ぶっただけさ、だれでも良かった。
 RT @xe33ba6c72tm61嵯峨源氏とあるが、桓武と嵯峨は親子である矛盾。仁明には源氏と平氏と両方いるのはなぜか。仁明は嵯峨の息子なのに。


 鹿島昂説を言ってるのかな?天武は倭国の弟王家だから源氏でないのは当たり前。源氏物語は大宰府の話で本の題名だよ、源氏・平氏となんら関係ない。
 RT @xe33ba6c72tm61 新羅系王朝であるはずの天武系に源氏がいないのはなぜか。源氏物語を書いた紫式部は藤原道長の娘に仕えていた


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan確かに高句麗は朝鮮半島と満州の一部を含むので、貴方が正しい。源氏平氏も織田信長以降は貴方のいうとおり、詐称がほとんど。でも難波副都とか九州王朝とかは、貴方が勝手に言ってるだけ。教科書に書いてない。文部科学省のお墨付きがない、教科書検定に引っ掛かる。と言いたい訳です。


 おやっ、えらい素直になったな。要するに貴方の家系は源氏で、韓国の慶州あたりからの移民と言う事。
 RT @xe33ba6c72tm61 でも難波副都とか九州王朝とかは、貴方が勝手に言ってるだけ。教科書に書いてない。文部科学省のお墨付きがない、教科書検定に引っ掛かる。と言いたい訳です。


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan違います。源氏というのが詐称で、日本人だということです。足利時代までの源氏平氏は本当に天皇の子孫、戦国時代以後は詐称です。源氏が渡来人というのは、貴方が勝手に言ってる。あと奈良時代が文武からとか、高市天皇とかも教科書検定に引っ掛かる、公のお墨付きがない少数意見です


うそつけ^^ 元々同じ日本人ならば、源氏・平氏の区別は必要ないでしょう。
 RT @xe33ba6c72tm61 違います。源氏というのが詐称で、日本人だということです。足利時代までの源氏平氏は本当に天皇の子孫、戦国時代以後は詐称です。源氏が渡来人というのは、貴方が勝手に言ってる。


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan うそじゃない。足利や武田や京極や細川は源氏、だが渡来人じゃない。徳川が源氏、織田が平氏、というのは偽物です。大体渡辺綱は平安前期の人物。彼は嵯峨源氏だが、それが江戸まで繋がるはずないでしょ。 奈良時代は710年から。高市皇子は天武天皇の長男で、持統帝の太政大臣です


《渡辺綱》 については、『日本列島史抹殺の謎:佐治芳彦・吾郷清彦・鹿島昂共著』p77『源平武士のルーツ』以降の頁に詳しい。これも、偏見と言えばそうかもしれない。
 RT @xe33ba6c72tm61 大体渡辺綱は平安前期の人物。彼は嵯峨源氏だが、それが江戸まで繋がるはずないでしょ。


 貴方は『続日本紀』を読んだことないのですか?天武天皇は「2人1役」って知っていますか?九州倭国王「薩夜麻」と後1人は大海人皇子です。で、高市皇子は「薩夜麻」の皇子です。
 RT @xe33ba6c72tm61 奈良時代は710年から。高市皇子は天武天皇の長男で、持統帝の太政大臣です


 日本人は単一民族だと良く言われますが、廻りの人良く観てください。環太平洋系の眼がパッチリの彫りの深い顔立ち、細面ののっぺら顔の韓国系。ウラジオストックあたりのオロチョン系。樺太アイヌ系の人。混血しているとはっきり分ります。いつしたと思いますか?
 RT @xe33ba6c72tm61


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(504) 『壬申乱で長門以東天智近江朝に戦勝し、九州王朝「倭国」を再統合の薩夜麻が即位した〔プロト飛鳥浄御原宮〕』 2011年4月17日(日)

壬申の乱で長門以東天智近江朝に戦勝し、九州王朝「倭国」を再統合した明日香皇子の薩夜麻(=書紀天武天皇*大海人とは別人)が即位した
〔プロト飛鳥浄御原宮〕

従来説の《天武天皇の宮殿「飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)」(672~694年)の北端とみられる石組み溝が出土した発掘現場》
〔飛鳥京跡157次調査・現地説明会 2007.2.11(日)〕《魚拓》

〔従来説の飛鳥浄御原宮〕

〔伝板葺宮跡〕

〔藤原宮跡〕

〔難波宮跡〕

〔難波豊崎宮跡〕


 先日、待望の「古田史学会報no103」が、送られてきた。中に、《私説で大和だと辻褄が合わなかったが、なるほど、そうだったのか》記事がある。《「筑紫なる飛鳥宮」を探る:正木裕氏投稿》である。天武2年(673)2月癸未(27日)天皇、有司に命ぜて壇場を設けて、飛鳥浄御原宮に即帝位す。

《大和だと辻褄が合わなかったが、なるほど、そうだったのか》の私説とやらの
〔倭国の遺跡スポットを訪ねてみよう〕
ブログを振り返ってみよう。

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2010年11月18日(木)

大和王朝は難波副都で「天下立評」した九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ②

●〔何が言いたいか、それは斉明天皇・天智天皇・天武天皇が「難波副都倭弟王家」の出身だということだ。〕

 647年、九州王朝「倭国」に甘木王「常色王」即位し、即位后、唐の侵略に対抗する為「常色の大改革」を次々断行する。直轄地の筑紫(=九州島)は早くから評制施行済みだったが、長門以東は連邦附庸国「出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野」の地方分権支配だったのだ。

 これを中央集権制の天下立評すべく、649年、造複都・難波京の詔を発し。652年、天下立評、難波副都完成、白雉改元儀式。天下立評で「プロト大和」開祖・伊勢王が難波副都常駐。

 倭国内では、大宰府と難波副都で権力の2重構造が発生。その後白村江戦前後までに、天下立評に伴い、倭国連邦附庸王国の「出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野(常陸)」等が解体を余儀なくされる。同時に難波副都倭弟王家が台頭する。

 662年 663年、百済復活戦・白村江戦へ出兵。白村江敗戦で倭国白鳳王薩夜麻が唐に捕獲連行。

 664年、その白村江敗戦后早い時期に、留守居の難波副都の天智天皇が、倭王不在の倭国長門以東(=本州・四国)を唐から守備・防衛・直接支配する。
 665年、倭国直轄地の筑紫(=九州島)大宰府は、唐進駐軍に占領され、筑紫都督府と呼ばれる。

 667年、天智近江朝(=倭国難波副都倭弟王家)は、長門以東(=本州・四国)を分離・独立させ、近江遷都・天智が即位する。
 668年には高句麗が滅亡している。同668年、新羅本紀に「阿麻(=近江朝の仮名)来服」と言わしめ、「長門以東の天智近江朝が倭国から独立」のニュースは新羅から唐へ急報されただろう。
 670年、更に、天智天皇の近江朝が「倭国」更えて「日本」号す。  「近江朝(=難波副都倭弟王家)」が「倭国」から分離独立したことを、唐国は認めるたくなかったのだ。
 唐は九州筑紫都督府占領軍を帰任させる前に、捕虜の倭国王「薩夜麻」を解放・復位させ倭国の再統合の為の「壬申の乱」を計画・実行したのだろう。  というのは、672年「壬申の乱」が起きるその前年
 671年に、倭国白鳳王薩夜麻が帰国している。ということは、「壬申の乱」が、
 671年、天智天皇崩御后の近江朝大友皇子と吉野朝天武天皇の跡目争いといった小さなものでなく、唐の倭国再統合戦だったということだ。熊本県大津町内牧瀬田橋戦も含め、記述外の戦がどうだったかだ。
 672年、壬申大乱で天智近江朝は滅亡し、潰えてしまう。

 壬申乱に戦勝、唐筑紫占領軍が引揚げ后は、
独立した「筑紫(=九州島)」統治大宰府「倭国」と、「長門以東(=本州・四国)」統治の「真人(=征東将軍)」浄御原宮「天武朝(=難波副都倭弟王家)」とに、取って代わる。

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(508) 『嵯峨天皇が自分の息子が多くて財政 難のため親王でない息子大勢を源氏にし、甥たちを平氏にした』 2011年4月18日(月)

● xe33ba6c72tm61
 @tohyan 賜姓皇族になぜ源氏と平氏の二種類あるのか、それは嵯峨天皇が自分の息子が多くて財政 難のため親王でない息子大勢を源氏にし、甥たちを平氏にした。つまり、桓武から見れば孫にあたるのが平氏。つまり、臣籍降下の時点で、天皇の直系は源氏、傍系は平氏。源氏の方が格上らしいです


そんなに単純じゃないでしょ?
 RT @xe33ba6c72tm61 嵯峨天皇が自分の息子が多くて財政 難のため親王でない息子大勢を源氏にし、甥たちを平氏にした。つまり、桓武から見れば孫にあたるのが平氏。つまり、臣籍降下の時点で、天皇の直系は源氏、傍系は平氏。源氏の方が格上らしいです


〔ウィクペディア嵯峨天皇〕
を見ましたね?河原左大臣源融は河原者即ち乞食?
 RT @xe33ba6c72tm61 嵯峨天皇が自分の息子が多くて財政 難の為


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan なぜ信長が平氏にこだわったか、それは武士の政権は、平氏(清盛)→源氏(頼朝)→平氏(北条執権)→源氏(足利氏)というように、交互に変わるというように、当時考えられてたから、足利に取って変わる意思表示として、自分は平氏だ、と名乗ったのです。誰でも良くはないのです。


それは、混血が終わったずうと後の話です。源平藤橘といっても、藤橘は身近の荘園にあってばれ易かったからでしょう。ちなみに藤原は唐原で中国系移民と言います
 RT @xe33ba6c72tm61 足利に取って変わる意思表示として、自分は平氏だ、と名乗ったのです。誰でも良くはないのです。


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan 徳川家康が源氏を名乗ったのは、当時、源氏でなければ、征夷大将軍になれない、という不文律があり(頼朝、足利は源氏)、将軍になるために源氏を名乗ったのです。ただ単に偉ぶるだけでなく信長、家康共に武士世界の常識を意識していたのです。


それはそうかも知れませんね。でも、家康は幼名が竹千代です。『日本列島史抹殺の謎:佐治芳彦・吾郷清彦・鹿島昂共著』p140『長田族について』に詳しく書かれています。家康はどっちでも将軍になったでしょう。
 RT @xe33ba6c72tm61 信長、家康共に武士世界の常識を意識していた


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan 源氏物語の主人公、光源氏も桐壺帝の第二皇子で、この論法にあてはまります。清和源氏の初代、経基は、実は陽成帝の皇子。しかし、陽成帝のイメージが良くないので、陽成の父、清和から分かれたと、うそぶいているのです。桓武平氏の祖、高望は桓武のひ孫です。


それはまたすごい新説。恐れ入りました^^
 RT @xe33ba6c72tm61 源氏物語の主人公光源氏も桐壺帝の第二皇子でこの論法にあてはまります。清和源氏の初代、経基は、実は陽成帝の皇子。しかし、陽成帝のイメージが良くないので、陽成の父、清和から分かれたと、うそぶいているのです。


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan 源氏や平氏は、武士の棟梁のイメージが強いですが、公家にも多く、村上源氏の久我家は、五摂家七清崋の清崋家に入っています。清崋家とは、太政大臣まで出世可能で、近衛大将を兼任できる家柄です。五摂家は、藤原道長の嫡流。久我以外の清崋家は、道長の叔父、藤原公季の子孫です。


まー、如何でも良い話かと^^
 RT @xe33ba6c72tm61 公家にも多く、村上源氏の久我家は、五摂家七清崋の清崋家に入っています。清崋家とは、太政大臣まで出世可能で、近衛大将を兼任できる家柄です。五摂家は、藤原道長の嫡流。久我以外の清崋家は、道長の叔父、藤原公季の子孫です。


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan 公家の家格は、以下大臣家(太政大臣まで出世可能だが、近衛大将を兼任できない)、羽林家(大納言まで、武官)、名家(大納言まで、文官)、半家(最も身分が低い、著しい功績で中納言、文官、武官)があり、賜姓源氏は、羽林家が多くいます。たいてい、村上源氏です。


これもどうでも良い話です。
 RT @xe33ba6c72tm61 公家の家格は、以下大臣家(太政大臣まで出世可能だが、近衛大将を兼任できない)、羽林家(大納言まで、武官)、名家(大納言まで、文官)、半家(最も身分が低い、著しい功績で中納言、文官、武官)があり、賜姓源氏は、羽林家が多


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan 松平氏は、はじめ藤原を名乗っていたのですが、家康が将軍になりたくて、新田氏系清和源氏の傍系得川氏から、系図を買いとって、徳川と名乗ったので、産まれたときは、藤原です。


だから、松平竹千代だっちゅうの。長田・塩田・潮田・千代田城・仙台・永田町^^
 RT @xe33ba6c72tm61 松平氏は、はじめ藤原を名乗っていたのですが、家康が将軍になりたくて、新田氏系清和源氏の傍系得川氏から、系図を買いとって、徳川と名乗ったので、産まれたときは、藤原です。


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(509) 『うろおぼえですが、嵯峨天皇は書道の大家で空海の友だちでしたよね。好色で、子だくさん』 2011年4月18日(月)   

● TAIRANJU
 気になる話だなぁー
RT @tohyan: そんなに単純じゃないでしょ?
 RT @xe33ba6c72tm61 嵯峨天皇が自分の息子が多くて財政 難のため親王でない息子大勢を源氏にし、甥たちを平氏にした。


あのね、色街って昔あったそうですよ。そこで白拍子とか、丸山とか、源氏名とか、いわゆる源氏にちなむ言葉があったけど、決して源氏は高級なイメージではないですよ。しずか御前とかもその類いでしょ。屋島の戦いで扇射落した新羅三郎は新羅出身でしょ。
 RT @TAIRANJU 気になる話だなぁー


● kitonisda
 うろおぼえですが、嵯峨天皇は書道の大家で空海の友だちでしたよね。好色で、子だくさん。天皇のお兄さんが父桓武天皇の長兄平城天皇で、藤原薬子というかなり奔放な年上の愛人がいた...。娘を天皇に輿入れさせて、そのままベッドを奪った女性。あの時代は自由だったようで。
 RT @tohyan


あはっ実に羨ましい^^
 RT @kitonisda うろおぼえですが、嵯峨天皇は書道の大家で空海の友だちでしたよね。好色で、子だくさん。天皇のお兄さんが父桓武天皇の長兄平城天皇で、藤原薬子というかなり奔放な年上の愛人がいた...。娘を天皇に輿入れさせて、そのままベッドを奪った女性。


台湾・香港・上海とかの江南・青海とか黄海沿岸・朝鮮半島沿岸・ウラジオストックとか沿海州のいずれを出港しても、船が難破しない限り日本列島に着岸します。民族の坩堝、はきだまりとか謂われる所以です。特に白村江662年半島での戦乱は列島へ移民を夢見た。
 RT @xe33ba6c72tm61


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan 例えば、足利尊氏でも源尊氏なの。近衛忠熙でも藤原忠熙なの。 北条時宗でも平時宗なの。みんな源平藤橘だから、区別するために足利とか、近衛とか北条とか名乗ってるの。だから、松平竹千代=藤原竹千代、徳川家康=源家康なの。もちろん。徳川改姓後は、松平=源なのです。


鹿島昂氏は足利義満が北朝の若い天皇を座敷牢に幽閉、その天皇の后・側室を全て手篭め、天皇は狂死。その女性が産んだ子を次の天皇にした。明が足利義満を日本国王と言った所以です。是を知った民衆が起こしたのが応仁乱と言いますよ。
 RT @xe33ba6c72tm61 足利尊氏でも源尊氏なの。


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan 確かに古代史に関しては、貴方の言ってることも、もしかしたら本当かもしれない。万系一世もうそかも知れません。でも百済から白村江から逃げてきた人間の子孫が、桓武天皇として、日本に君臨できるだろうか。疑問です。難民の子孫が天皇?日本人が簡単に受け入れるのか。


白村江敗戦后倭国は唐占領九州と唐の征服を阻止した長門以東天智近江朝に分断します。で、百済棄民は天智に身を寄せ、天智の系図をいじくって子孫に納まった。
 RT @xe33ba6c72tm61 百済白村江から逃げてきた人間の子孫が、桓武天皇として日本に君臨できるだろうか難民の子孫が天皇?


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan 列島に来た人は普通、大陸や朝鮮半島にいられなくなって日本に嫌で来たじゃないかな?日本人が大陸に夢を持つならわかるけど。貴方の論法なら日本人系が、中国や朝鮮の皇帝になってもいいはず。元はモンゴル、清は満州族の王朝ですが。日本人系の王朝があったら教えて。


好き?で日本に来たは戦前の半島人でしょう。当時の日本は夢が有ったらしい^^日本から大陸へは源義経がジンギスカンになった。ポーランドへの元寇で博物館の盾に笹リンドウ紋が描かれている(源=元)。豊臣秀吉かな。
 RT @xe33ba6c72tm61 日本人が大陸に夢を持つならわかるけど。


半島の白村江戦後が、どういう状況か貴方は想像できますか?唐・新羅連合軍が百済・高句麗を打ち滅ぼし、唐の軍門に降ります。その後、唐を新羅が半島から追い出したのです。RT @xe33ba6c72tm61 列島に来た人は普通、大陸や朝鮮半島にいられなくなって日本に嫌で来たじゃないかな?


● xe33ba6c72tm61
 @tohyan鹿島昇って何者?日本国王は源氏長者と征夷大将軍を兼ねた人の事。義満が日本国王を名乗ったは事実。法皇の称号を得ようとし失敗。南朝後亀山帝を騙して、北朝後小松帝に譲位させ、三種の神器を譲らせ、騙されたと後亀山は吉野で南朝再興を目指した。現在、南朝子孫は熊澤を名乗ってる


良くご存知。では明治維新が南朝革命でもあったのもご存知ですよね。明治天皇は南朝の子孫大室寅之助だと。
 RT @xe33ba6c72tm61 南朝後亀山帝を騙して、北朝後小松帝に譲位させ、三種の神器を譲らせ、騙されたと後亀山は吉野で南朝再興を目指した。現在、南朝子孫は熊澤を名乗ってる




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