大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 024 》
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ
白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、
日本書紀の〔 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権
2010年 4月 2日 発行
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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ https://waikoku.sakura.ne.jp/yamato.html 2:32 PM Apr 2nd webから ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(510) 『『隋書』には当時の日本の君主は「多利思北孤」で奥さんもいると書いてあるので男王です』 2011年4月19日(火)
先に紹介の「古代史学会報no103」古田武彦氏講演の抜粋を以下転載します。
『 「2:男性と女性は同一人にあらず」
皆さんご存知のように『隋書』には当時の日本の君主は「多利思北孤」で奥さんもいると書いてあるので男王です。
「推古天皇」が女であり、「聖徳太子」が摂政であることは私の説でなくて『日本書紀』に書いてあることです。“男を女という”のが明治以降の日本の教科書の説なのです。
新憲法の核心部分に19条(思想及び良心の自由は、これを侵してはならない)があります。
そのような嘘が書かれた教科書をおとなしく130年間も使われてきたのが現在の日本人です。日本人の頭がおかしくなるのは当たり前です。
このような“建前と本音が矛盾する社会”を国家が公然と押し付けている現状を正して“本当のことは本当だ”と敢然と言える社会にすれば、自殺やうつ病はただちに減ってゆくと思います。(参考:『神の運命』古田武彦著、明石書店1996年発行)
(511) 『古田武彦氏の「飛鳥浄御原宮は筑紫小郡に存在した、九州王朝の宮である」』 2011年4月19日(火)
壬申の乱で長門以東天智近江朝に戦勝し、九州王朝「倭国」を再統合した明日香皇子の薩夜麻(=書紀天武天皇*大海人とは別人)が即位した
従来説の《天武天皇の宮殿「飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)」(672~694年)の北端とみられる石組み溝が出土した発掘現場》
先日、待望の「古田史学会報no103」が、送られてきた。中に、《私説で大和だと辻褄が合わなかったが、なるほど、そうだったのか》記事がある。《「筑紫なる飛鳥宮」を探る:正木裕氏投稿》である。天武2年(673)2月癸未(27日)天皇、有司に命ぜて壇場を設けて、飛鳥浄御原宮に即帝位す。
《大和だと辻褄が合わなかったが、なるほど、そうだったのか》の私説とやらの
以下、、
(526) 『古田史学会報no103【「筑紫なる飛鳥宮」を探る:正木裕氏投稿】①』
2011年4月26日(火)
壬申の乱で長門以東天智近江朝に戦勝し、九州王朝「倭国」を再統合した書紀天武天皇(=明日香皇子の薩夜麻)が即位した『飛鳥浄御原宮』の本来の場所がわかった。【注意:天武は2人いて、大海人とは別の天武です】
先日、待望の「古田史学会報no103」が、送られてきた。
《「筑紫なる飛鳥宮」を探る:正木裕氏投稿》
古田武彦氏は、その著『壬申大乱』において、「飛鳥」の地を福岡県小郡市に比定された。
一、2つの「飛鳥浄御原宮」記事
1、『書紀』の飛鳥浄御原宮造営記事
『書紀』では天武元年(672)是歳条に「飛鳥浄御原宮」の建設記事とその翌年2月条の同宮での天武の即位記事がある。
■天武元年(672)是歳、宮室を岡本宮の南に営る。即冬に遷りて居します。是を飛鳥浄御原宮と謂ふ。(略)天武2年(673)2月癸未(27日)、天皇、有司に命せて壇場を設けて、飛鳥浄御原宮に即帝位す。
しかし、この記事には不自然な点がある。それは、
①天武は天智10年(671)に吉野に隠棲しており、また、壬申乱の最中に天武が飛鳥浄御原宮を造営できるはずはない。
②乱が決着したのは元年9月。「行宮」ならいざ知らず、即位の式典を挙げうる大宮の建設に着手し、年内に移転するのは不可能。
この点、一般には「後飛鳥岡本宮の内郭を継承しながらエビノコ郭と外郭を造営した」等とされるが、それでも戦後の2~3ヶ月で造営できたとは到底思えず、「天武元年に飛鳥浄御原宮を造営した」とする記事は到底信頼できない。
従って、『書紀』の「天武2年2月に飛鳥浄御原宮で即位した」という記事を事実とすれば、天武は「既に存在していた飛鳥浄御原宮に遷り、即位した」と考えざるを得ないのだ。
2、「飛鳥浄御原宮」の命名記事
また、「飛鳥浄御原宮」の命名理由について『書紀』朱鳥元年に不可解な記事が存在する。
■朱鳥元年(686)秋7月。戊午(20日)、元を改めて朱鳥元年と曰ふ。朱鳥、此をば阿訶美苔利といふ。仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮と曰ふ。
「朱鳥(阿訶美苔利)に因んだと云うが、これではなぜ朱鳥が飛鳥浄御原宮となるのか、全くわからない。岩波『書紀』の注では「一種の嘉号」とするが、「嘉号」など幾らでも考えられる中で、何故「飛鳥浄御原」なのかの説明になっていない。
また朱鳥改元時に「宮号を正式に決めた」とも記すが、天武元年(672)から14年も名無しの宮だったはずはなく、その間の名称があったはずだが『書紀』に全く出てこないのは不自然だ。
一般的に考えれば「その間の名称」は「後飛鳥岡本宮」となるが、それなら堂々と「後飛鳥岡本宮」で即位し、朱鳥改元時に浄御原宮とした(改名した)とすればよい。また即位時点で宮号を改めたならそう書けば良いのであって、遥か後の「朱鳥改元」を理由にする必要は更々無い。
そのどちらとも矛盾するという事は、
①天武が即位した宮は、その時点で既に「飛鳥浄御原宮」と呼ばれて存在していた。
②『書紀』編者はその命名根拠を知らず、無理を承知で「朱鳥改元」を根拠とした。即ち『書紀』編者の牽強付会であった、と云わざるを得ない。
つまり、『書紀』における2つの「飛鳥浄御原宮」の不自然さは、「天武は既に存在していた飛鳥浄御原宮に遷り即位したが、『書紀』編者はその名の根拠が分らず、朱鳥改元に託けた事から生じたもの」と考えられる。
二、古田氏指摘の「筑紫小郡なる飛鳥」
「飛鳥浄御原宮」が、天武即位以前から存在していたというのは常識外であり、しかも直前の天智期は近江遷都時代で、「飛鳥」と名のつく宮は斉明以前に遡るはずだから尚更理解し難いだろう。
しかし、これを矛盾なく解決する考えがある。
それは古田武彦氏の「飛鳥浄御原宮は筑紫小郡に存在した、九州王朝の宮である」との説だ。
氏は『壬申大乱』他において、万葉集の明日香皇子に関する歌や、現地の遺存地名(飛鳥)、考古学的分析(小郡の遺跡群等)を通じ、「飛鳥」の地を福岡県小郡市に比定され、「飛鳥浄御原宮」は同所に存在した九州王朝の宮であると論じられた。
そして、明日香皇子は九州王朝の天子「筑紫君薩夜麻」の皇太子時代の名であり、白村江戦に際し唐に捕虜となり、天智期に帰国したとされる(注2)。
この考えに基づけば、彼に因む宮は斉明・天智期に既に存在した事になり、先の考察と時代的にも整合する。また筑紫小郡の現地名に因む宮名が『書紀』編者に理解できなかったのも当然といえる。
三、『古事記』から探る天武の即位宮
1、「壬申の乱」の性格
それでは「天武が筑紫なる飛鳥浄御原宮で即位した」との考えにはどんな根拠があるのだろうか。
天武は壬申の乱の勝利で政権を掌握し「清原の大宮『古事記』」「飛鳥浄御原宮『書紀』」で即位したとされる。実はこの宮が筑紫小郡付近に存在したと考えられる根拠が『古事記』序文の「壬申の乱」の記述にあるのだ。
古田武彦氏は、『壬申大乱』で、従来近畿での出来事とされてきた壬申の乱は、九州から近畿、東国まで巻き込んだ一大決戦であり、背後に「占領軍」たる唐の意向・天武への支援があったとされた。主な論点を挙げる(唐の支援については注3)。
①白村江以降唐の軍隊が筑紫、佐賀なる「吉野」に駐留していた。指揮官は郭務悰であった。
②天武は兵を挙げるについて、その吉野に赴き、唐の了解・支援をとりつけ、筑紫より出征した。
③従って近江朝の「近江京より、倭京に至るまでに、処処に候を置けり」とする「倭京」は筑紫となる。
更に古賀達也氏は「『古事記』序文の壬申大乱」(注4)で、天武が筑後川や高良山付近に雌伏していたこと、唐人に作戦を授けられたことを示し、古田説を補強された上で「壬申の乱の性格が、天武と唐による九州王朝近江遷都一派の殲滅戦としての位置付けが可能」とされた(注5)
2、『古事記』序文の「壬申の乱」
改めて『古事記』序文を見よう。
①飛鳥の清原の大宮に大八洲御しめしし天皇の御世に曁(いた)りて、潜龍(せんりゅう=太子、ここでは天武)元を體し、洊雷(せんらい同)期に應じき。
②夢の歌を開きて業を纂がむことを相(おも)ひ、夜の水に投(いた)りて基を承けむことを知りたまひき。
③然れども、天の時未だ臻(いた)らずして、南山に蝉蛻(せんせい=せみの抜け殻・世俗を超越する事)し、人事共給はりて、東國に虎歩したまひき。
④皇與忽ち駕して、山川を浚え渡り、六師雷のごとく震ひ、三軍電のごとく逝きき。城杖矛威(いきおい)を挙げて、猛士烟のごとく起こり、紅旗(こうき)兵を耀かして、凶徒瓦のごとく解けき。
⑤未だ浹辰(しょうしん)を移さずして、氣沴(きれい=妖気)自ら清まりき。乃ち、牛を放ち馬を息へ、悌(がいてい=やすらぐ)して華夏に歸り、旌(はた)を巻きて戈を戢(おさ)め、舞詠して都邑に停まりたまひき。
⑥歳大梁(たいりょう=酉年)に次(やど)り、月夾鍾(きょうしょう=2月)に踵(あた)り、清原の大宮にして、昇りて天位に即きたまひき。(神道体系古典編一『古事記』神道体系編纂会1977年12月本による)
①~③は古賀氏の分析どおり、「夜水」は筑後川の別名、「南山」は高良山と考えられ、天武の「筑後」雌伏を示し、④は壬申乱での天武の活躍を述べたものだが、問題は天武の帰還血を示す⑤だ。
3、天武は筑後に帰還し即位した
「華夏に歸り」とあり、大和飛鳥と考えられているが、天武の「蝉蛻」の地、即ち出陣地が「筑後」なら、帰還も「筑後」のはず。また、支援を受けた唐に報告しないとは考えづらく、そして、「華夏」は中国(当時なら唐)を意味する。更に『隋書俀(たい)国伝』では「其の人(俀国人)華夏に同じ」と記し、その「俀国」は阿蘇山がある九州であるはずだ。
■『隋書俀国伝』
従って「華夏に歸り」とは、三重の意味で「天武の出陣地であり、唐の駐留する、九州・筑後に帰る」となる。そして「都邑に停まり」とは『隋書』に「彼(俀国)の都」と記す九州に停まった事を意味する。
天武は乱後、「やすらか」な気持ちで筑紫に帰り、支援者たる唐・九州王朝に報告すると共に「都邑たる筑紫に留まった」のだ。そして「夜水」「南山」の地名からそこは筑後川や高良山周辺であるはずで、筑紫小郡付近はこれに良く適合する地域といえる。
4、『書紀』記事からも「天武帰還地は筑紫」
壬申の乱後の天武の帰還地については、わざわざ『古事記』序文を持ち出すまでもないかもしれない。『書紀』では乱終息後、最初の行事は「筑紫」での新羅の客金押寶等への応接であり、直後の論功行賞だったからだ。
■天武元年(672)9月。庚子(12日)に、倭京に詣りて、嶋宮に御す。壬卯(15日)に、嶋宮より岡本宮に遷りたまふ。(飛鳥浄御原宮遷居記事略)
古田氏指摘どおり「倭京」は筑紫であり、嶋宮・岡本宮・飛鳥浄御原宮遷居も筑紫であってこそ金押寶等を筑紫で応接できる。「船一隻賜ふ」のも、論功行賞も、金押寶帰国も、乱直後の記事は全て筑紫と考えるのが『書紀』の自然な解釈だ。
四、「清原の大宮」「浄御原宮」は小郡にあったのか
次に、筑紫小郡が「浄御原宮」の存在に相応しい地域といえるのか、文献的・考古学的に検証しょう。
1、文献的・考古学的に「筑紫小郡」が相応しい
Ⅰ、『書紀』に記す小郡
『書紀』で筑紫には大郡・小郡の存在が記される。
■天武2年(673)11月壬申(21日)に、高麗の邯子・新羅の薩儒等に筑紫の大郡に饗たまふ。禄(もの)賜ふこと各差有り。
■持統3年(689)6月乙巳(24日)に、筑紫の小郡にして、新羅の弔使金道那等に説たまふ。物賜ふこと各差有り。
筑紫大郡・小郡は何れも外国要人を迎えた式典の執り行われた場所だ。先述の新羅の客金押寶等を饗した「筑紫」も大郡・小郡の何れかと思われ、『書紀』上も、天武即位と同時期にこうした施設が筑紫小郡に存在した事が確認される。
《ご注意:下記は普通の地図には『字』迄表示、なので
Ⅱ、遺跡に見る小郡
現在『書紀』の「筑紫小郡」に比定されているのは福岡県小郡市だ。ここには、「小郡官衙遺跡」「下高橋遺跡」「上岩田遺跡」「薬師堂遺跡」等、概ね7~8世紀と見られる大型遺跡が集中し、「正倉院」跡まで発見されている。
特に、小郡市井上地区一帯(現在の岩田地区を含む旧御原郡)には井上廃寺・井上薬師堂遺跡等の大規模遺跡がある。わけても上岩田遺跡(Ⅰ期)は、約12万平米の規模を持ち、東西約18米、南北約15米、高さ約1米強の基壇と、その上の瓦葺き建物や、柵に囲まれた大型の建物群が確認されており、単なる官衙(評衙)とは考え難い。
遺跡には筑紫大地震(678)によると見られる亀裂倒壊の跡がある事から、7世紀中盤から後半にかけ存在した施設と考えられる。
また、「井上廃寺跡(井上山福田寺跡):小郡市大字井上字村囲」からは九州最古の白鳳前期とされる「山田寺瓦」が出土し、かって方2町程度の寺院域と七堂伽藍を有した大寺があったと推定され、小郡は重要な儀典が開催された場所との『書紀』の記述は考古学上も確認される(注6)
2、小郡井上地区の宮は「浄(清浄)」なる宮
また、井上廃寺に隣接する本山という台地上にある広大な「長者屋敷遺跡(未発掘)」は、長者堀に囲まれ、堀は井上地区「井尻」周辺の湧水に発し、上岩田遺跡の横の「蓮輪・池尻(何れも井上地区の地名)」を経て「飛鳥(飛嶋)」まで流れ込んでいたと考えられる(参照:『小郡市史』)。古田氏の指摘通り、井上地区周辺は水に囲まれた「浄い」土地であり、その地に立つ宮は清浄なる宮、「浄之宮」と称されても不思議はない。(詳細な内容については氏の『壬申大乱』を参照されたい)
3、井上地区は旧御原郡(みはらのこおり)
小郡の井上地区は御原郡(注7)にあったと述べたが、御原郡の初見は『肥前国風土記』の「御原郡姫社之社」であり、『和名抄』に「長柄・日方・板井・川口」で成るとあり7世紀には既に存在していたと考えられる。「日方」地名は「干潟」として井上地区の北に遺存し日方神社も同地に存する。南には「御原」地名も残っている。しかも字も三原でも美原でもなく「浄御原宮」と一致する「御原」なのだ。
(546) 『なんともいやはや^^すごーい!『源氏物語』からここまで分るか『現代を解く・長谷寺考:米田良三著』』 2011年5月6日(金)
なんともいやはや^^すごーい!『源氏物語』からここまで分るか『現代を解く・長谷寺考:米田良三著』
(573) 『恵比寿は七福神では純国産、日本代表で舶来神ではないからでは…蛇の化身、五行で木気、名は「三郎」』 2011年5月13日(金)
● jyoumonjn
● jyoumonjn
『謎の新撰姓氏録:高橋良典著』のp50に、この恵比寿さまがアナグラで解説されてるかと思って見てるんですけどね、例の金比羅がインドのクンビーラ、大黒さんがマハーカーラ、閻魔大王がヤマ神、弁財天がサラヴァティー云々ですが無いなーRT @jyoumonjn 日本一恵比寿の多い街、佐賀市
● jyoumonjn
確かに、ウィクペディアに『七福神の一員で日本古来の唯一(その他はインドや中国由来)の福の神』とか、流石良くご存知です。RT @jyoumonjn 恵比寿は七福神では純国産、ニッポン代表で舶来神ではないからでは・・蛇の化身、蛭子神ともいわれ五行では木気の代表、名は「三郎」ですワン!
(574) 『知ると面白い祭りと伝承*CoolJapan*は陰陽五行で召上れ!【 楠と百済観音 (05/14)】』 2011年5月14日(土)
● jyoumonjn
おやっと、思えるブログ見っけ^^これは、いける。
以下は、引用転載ですので悪しからず。詳しくはリンク先をよろしく。
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『九州には巨木として崇められる「楠」の木が多い。樹齢も千年にもなるものもあり多くは街路樹や公園に植樹され年中緑の葉をつける常緑樹として景観を楽しませてくれる。
葉はツヤがありほのかな香りがし、春先に白い小さな花をつけ、実は黒い紫色のような大豆くらいの大きさを沢山つけて潰すと甘酸っぱい芳香をはなっている。
仏神の用材として用いたのはその香木としての用だけでなく、樹齢も久しく巨木となり神霊の依り代として古来より崇められてきたからに違いない。
それは出自が謎といわれつづけた法隆寺の「百済観音像」も七世紀ごろ九州の楠材を用いて造仏されたものといわれています。
「百済観音」は、上記に加えて、九州の楠材により作られていることから法隆寺に安置される以前の履歴として九州の地より移されたものであるとの指摘も多く、謎の解明がまたれるところである。
香木としての楠は海水などに強く、観音のご利益を造形する適材として用いられたこと、そして謎の「百済観音」と九州の楠の木のつながりは私たちに想像力をかきたてるものがある。加えていうならば左右に多く枝を広げる神木のカタチは、そのまま千手観音そのものに見えてくるから不思議である。』
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あれっ『続・法隆寺は移築された:米田良三著』読んでないって言ってましたよね。RT @jyoumonjn「百済観音」は、上記に加えて、九州の楠材により作られていることから法隆寺に安置される以前の履歴として九州の地より移されたものであるとの指摘も多く、謎の解明がまたれるところである。
同書p64「クスノキの材でつくられ、水瓶と蓮華座だけがヒノキであるから、明らかに我が国での製作である<略>」p110上宮王像は救世観音像と、千食王后像は百済観音像と呼ばれ、<略>千食王后が百済王室の一員であったとすれば、百済観音と慕ったことは必然である。RT @jyoumonjn
これをtwitterで説明するのは少々肩が懲りますね、『続・法隆寺は移築された「源氏物語」は筑紫が舞台だ:米田良三著』をぜひ読んで欲しいです^^要するに、九州王朝「倭国」の上宮王と千食王后(百済王室出身)は国際結婚だった。白村江百済復活戦序曲でもあった。RT @jyoumonjn
● jyoumonjn
なるほど、でも「緩やかにS字形に調えられた形状は北斗七星…」は法隆寺の柱がギリシャのエンタシス式でギリシャ芸術の伝播したが納得可RT @jyoumonjn 瓢は天にかかる「ひさかた」の源で半分に割ると北斗の形状で、且つ中の水はカンで北(子)を意味するのではと…他仏は六頭身のため?
(575) 『瓢は天にかかる「ひさかた」の源で半分に割ると北斗の形状で、且つ中の水はカンで北(子)を意味するのでは』 2011年5月15日(日)
● jyoumonjn
なるほど、でも「緩やかにS字形に調えられた形状は北斗七星…」は法隆寺の柱がギリシャのエンタシス式でギリシャ芸術の伝播したが納得可RT @jyoumonjn 瓢は天にかかる「ひさかた」の源で半分に割ると北斗の形状で、且つ中の水はカンで北(子)を意味するのではと…他仏は六頭身のため?
あれ・待てよ、ということは『続・法隆寺は移築された「源氏物語」は筑紫が舞台だ:米田良三著』は、既に読んで居られるということですか、なら話は簡単ですね。良かった^^RT @jyoumonjn たぶん他の資料からでしょうが・・瓢は天にかかる「ひさかた」の源で半分に割ると北斗の形状で、
いまから、キーウィーの受粉をしに畑に行ってきます。終わったら、ぶどうの花房のジベレリン液浸しをやってきます。浮きフロート今朝三菱横浜工場から福島原発に回航らしい。まったく、寒流の下流域の茨城・福島漁民の、ひいて国民の困惑を無視してる。そう、思いません。RT @jyoumonjn
● jyoumonjn
うへっ、いえね全く趣味ではじめた箱庭です。教科書通りにやるよう努力していますが、農業とは年一度の試練だなーと、感じるこの頃です。でも、唯一気が晴れます。RT @jyoumonjn 良いですね立派な農園をおもちで
(577) 『『魏志倭人伝』に記された樹木名は、クス、シイ、タブ、クヌギ、カシ、カエデなど、西日本の一般的な樹木だ』 2011年5月16日(月)
『 楠 』は山口の小学校の校庭に大木があった。
〔『魏志倭人伝』に記された樹木名は、クス、シイ、タブ、クヌギ、カシ、カエデなど、西日本の森や林を、構成する極めて一般的な樹木である。〕・《魚拓》
⇒ このホームページの結論は邪馬台国の位置が近畿説だそうで、大阪湾岸だそうだが、まー植生の着眼点は非常に良かったのに、残念なことに「牽強付会」ということだろう。
以下は、抜粋転載ですので悪しからず。
Ⅰ(1)魏志倭人伝に記された植物
要旨
『魏志倭人伝』の内容は大きく分けて、以下の三つに分けることができる。
最初が、倭の地理的記述、次に、倭の社会、風俗や自然、産物についての記述、最後は、魏と邪馬台国との外交の記録である。
『其木有、枏(だん)・杼(ちょ)・予樟(よしょう)・(じゅう)・櫪(れき)・投(とう)・橿(きょう)・烏号(うごう)・楓香(ふうこう)。其竹、篠(じょう)・(かん)・桃支(とうし)。有、薑(きょう)・橘(きつ)・椒(しょう)・何(じょうか)・不知以為滋味』と記す。
枏(だん)はクスノキである。
楠(くすのき)の異体字である。クスノキは、樟(しょう)ともいい樟脳の原料を採る。
<略>
予樟(よしょう)とはタブノキのことである。
<略>
次に竹の類についての記述がある。
魏志倭人伝では「其の竹」として篠、、桃支」を記す。
また『有、薑(きょう)・橘(きつ)・椒(しょう)・何(じょうか)・不知以為滋味(もつてじみとなすをしらず)』として、食用となる植物名を記す。
これらの樹木から想像できる森は、現在西日本に広く見られる、クスノキ、シイ、タブノキ、カシなどの常緑広葉樹を主体とし、一部コナラ、カエデなどの落葉広葉樹を含む、森である。
現在このような森が見られるのは、北は、関東地方の太平洋岸に面した一部地域を含み、主として中部地方以西の、内陸部山岳地帯を除いた地域に多い。南は九州本島まで。亜熱帯に属す種子島や屋久島、沖縄は含まれない。次のページに現在の植生範囲を図で示す。
(578) 『植物名は中国と日本では結構異なります。字だけ先に入ってきて、そこにあった植物に当てはめた為注意が必要』 2011年5月16日(月)
● shado_666
その意味でこの頁は良いかと思いのです。
『魏志倭人伝』に記された樹木名は、いずれも西日本の、平野部や低山地域に多い樹木である。図は、クス、シイ、タブ、クヌギ、カシなどの、おおまかな生育範囲を示す。と
● shado_666
そのくせ、
白村江戦(662年)は唐・新羅・百済・九州王朝「倭国」の戦争で、この敗戦で九州王朝「倭国」の一部の筑紫は敗戦後占領され、残りの長門以東は天智の守備防衛で、唐の占領を免れ、天智近江朝の『日本国』として一旦独立します。が、唐は画策し拘束の白鳳倭王薩夜麻を解放
帰国した倭王薩夜麻は復位と倭国再統合を宣言します。この再統合戦が壬申乱(672年)です。筑紫小郡『飛鳥浄御原宮』で即位します。筑紫大地震(678年)をそこで被災、その後余震(13回)が続き、白鳳地震(684年)の直前に難波京へ遷都。運悪く、又被災します。RT @shado_666
遷都の翌・翌年(686年)難波京が炎上。で、近畿の『飛鳥浄御原宮』へ遷都、最後の倭王「高市」が690年即位。694年近畿の浄御原京⇒倭国藤原京へ遷都。695年倭国が藤原京遷都記念で「大化」改元。696年建郡「本来の大化改新」発詔、倭王高市暗殺、倭国滅亡。RT @shado_666
天下立評、白村江敗戦、長門以東「日本国」独立、倭王薩夜麻帰国、壬申乱、筑紫大地震、白鳳大地震、持統は高市、本来の大化改新は廃評建郡、本来の乙巳の変で最後の倭王高市天皇を暗殺(696年)、倭国の滅亡。以上で倭国が684年迄筑紫と分り邪馬台国は筑紫でしょう。RT @shado_666
おっと、横道に反れてしまった。百済観音はその名から、百済から贈られたと言われてるが、そうではなく、その材料がクスノキで九州で彫刻されたものと分り、純国産。更に源氏物語から救世観音の上宮倭王が桐壺帝で、更衣の千食王后が百済王室出身で百済観音と慕われたのだ。RT @shado_666
(579) 『危険なものって知ってたら許るして無かった。それに、今も、原発奴隷(部落民)が酷い目に合ってるでしょ』 2011年5月17日(火)
● RyosukeGaryu
ちょ・ちょっと、すこし言い過ぎじゃないかなー。そんな事実とか、証拠とかが、ありますか?RT @RyosukeGaryu 今も、作業で、原発奴隷(部落民)が、酷い目に合ってるでしょ。そんなの人として耐えられないよ。
● RyosukeGaryu
うーん、原発はそうだったのですか。RT @RyosukeGaryu ありますよ。 裏社会では有名な話です。
● RyosukeGaryu
部落民差別は696年プロト大化改新の倭王暗殺で大和朝廷が実権を握ると、九州王朝「倭国」の支配者階級で反抗的な者に「班田」を与えなかった為?RT @RyosukeGaryu 部落民の問題から溯る話しだから人種差別や格差社会の問題もあります。部落民は大昔からあるって母が言ってました。
部落差別で古田武彦氏は「差別は東北・沖縄には無い。いわば、嘗て九州王朝「倭国」の支配領域に満遍なく広がっている」といった主旨の話を最近にも語られ、更に福沢諭吉の「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」はルソーでなく、津軽三郡誌が出典だと。RT @RyosukeGaryu
若し、倭武王(=日本武尊)・神武が九州から日本全国を征服したのなら、九州には差別が無いはず。大和朝廷を滅ぼし、京都王朝を開いた桓武天皇が差別を始めたとしたら東北にも差別があるはず。そうすると、倭国弟王家の大和朝廷が倭国を消すと同時に差別を始めたと。RT @RyosukeGaryu
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