大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 029 》
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ
白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、
日本書紀の〔 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権
2010年 4月 2日 発行
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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ https://waikoku.sakura.ne.jp/yamato.html 2:32 PM Apr 2nd webから ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(581) 『長谷寺の空中回廊跡、回廊が屈折する箇所の跡地が分りますか? RT縄文人: 三瀬村 杉神社なう…』 2011年5月17日(火)
● jyoumonjn
● jyoumonjn
● jyoumonjn
● jyoumonjn
● jyoumonjn
● jyoumonjn
● jyoumonjn
● jyoumonjn
◇
@jyoumonjn 『長谷寺考:米田良三著』背表紙の写真の写しで分りましょうか?
長谷寺の本殿はこの丸印内の舞台のところかと。初瀬川と杉神社の中間位の木立の中かなー。
ふぇー、長谷寺跡地訪問気付くの遅かりしか…、長谷寺の空中回廊跡、回廊が屈折する箇所の五角形跡地が分りますか?判別できますか?
● jyoumonjn
そうですか、1400年前の残影となると、よほどのイマジネーションが必要かも知れませんね。RT @jyoumonjn 今晩は、杉大明神、中山脚気地蔵には寄りましたが該当の場所不明でした。背振山からの頂望が目的でしたが黄砂で対馬方面みえませんでした。たぶん古代なら望めたと思うのですが
● jyoumonjn
帯隈山、巨勢川沿い、背振弁財天は背振神社か、竜田山は金山か背振山か、RT @jyoumonjn 本日のルート、帯隈山神護石、背振弁財天、背振山頂、杉神社、中山脚気地蔵、嘉瀬川ダムで所用時間七時間。道の駅で蒲鉾入手、焼酎の肴にRT @enomotoyuko @2000BMW740i
● jyoumonjn
● jyoumonjn
● jyoumonjn 「スピード落とせ」の標識って「蝸牛」のマークだったっけ?・・山道で妙に気になったので?
● jyoumonjn 亥の刻か・・山登りでクタビレマンボだから、離脱するか、みなさんオモロイ夢を~m(_ _)m
● jyoumonjn @NackeyKotetsu 娘(佐賀西高)は神崎駅から歩いて夜行で登らされたようでしたよ?今日は9合目まで車でしたが^-^)/
● jyoumonjn
もし、長谷寺の片鱗が今に残っておれば当然と言えば、当然でしょうか。見て見たいもの。RT @jyoumonjn 中山城あとの脚気地蔵の社は格天井の絵がなかなかのものだった…
● jyoumonjn
やっと、納得^^有難うございます。RT @jyoumonjn 背振神社はもとは山頂近くにあったらしい「弁財天」あと訂正(中山城⇒山中城)RT @tohyan 帯隈山、巨勢川沿い、背振弁財天は背振神社か、竜田山は金山か背振山か、
● jyoumonjn
● jyoumonjn
うん、こりゃーすごい! でも写真からは新しい最近の天井・絵に見えもするが…、さて内実はどうかな?
(587) 『祐徳稲荷だ。その社殿の木格子架台が将に、『源氏物語』玉鬘の巻絵に描かれてる長谷寺のそれに同じだ』 2011年5月19日(木)
そうだ思い出したJAFMate4月号の祐徳稲荷神社だ。その社殿の乗ってる木格子の架台が将に、『源氏物語』玉鬘の巻絵に描かれてる長谷寺の格子のそれだ。『DNA。あっそれはいえますね。また京都の清水寺の舞台にそっくりのお寺、唐津にありません』
● jyoumonjn
祐徳稲荷だ。その社殿の木格子架台が将に、『長谷寺考:米田良三著』の写真『源氏物語』玉鬘の巻絵に描かれてる長谷寺のそれに同じだ。 クリック⇒
なんともいやはや^^すごーい!『源氏物語』からここまで分るか『現代を解く・長谷寺考:米田良三著』
そうですか、1400年前の残影となると、よほどのイマジネーションが必要かも知れませんね。
● jyoumonjn
米田さん、どうやって分ったのでしょうね。しかも、それが空中回廊で結ばれていた。ハーバード大学所有の『源氏物語』玉鬘の絵に描かれている、なーんてね。RTよく分かります。次には状況を見ましょう。ただ記憶ではそのような気配はなかったと
現在の三瀬の谷に『源氏物語画帖:玉鬘』をコラージュしたもの』
@enomotoyuko あなたはスピリツアル旅行コーディネーターだそうですね。そこで、お願いがあります。
@enomotoyuko (続き) 磐井(=倭薈)の墓・法隆寺・三十三間堂・桂離宮・吉野宮・吉野ヶ里・伊勢神宮・長谷寺、とても多くなってきました。これらの跡地を訪ね散策して見てはいかがでしょう…。こういった企画は如何でしょう?ぜひ、検討してみていただきたいのですが。
3:59 PM Mar 25th
● enomotoyuko
なんともいやはや^^すごーい!『源氏物語』からここまで分るか『現代を解く・長谷寺考:米田良三著』
@enomotoyuko ご了解いただけるそうでありがとうございます。米田良三氏の「法隆寺は移築された」は一般の方々にはすごく突飛なものに映るのでしょう。が、近年古田武彦・古賀達也・正木裕など各氏の努力で日本書紀の解明が進み、九州王朝「倭国」の存在がはっきりしてきました。遺跡見学は論より証拠かと思います。
2011年5月10日 21:34:04
@jyoumonjn 旅行コーディネーター@enomotoyukoさんへ倭国の跡地を訪ね散策して見てはの企画は如何でしょう?と提言してあったのですが、3月25日にメッセージをくださってありがとうございます。ご連絡が遅くなってすみません。ぜひ、検討してみたいと思います。ありがとうございます。May10th
@jyoumonjn と検討了解の返事は頂いてるのですが、企画そのものが海・山知れず、一方、米田さんへ渡辺しょうぞうさん経由でこの企画どうだって聞くと、あまり乗り気でないみたいで、長谷寺考が完成後好評を得てからだ、今忙しいとか。遺跡見学は論より証拠かと思うのですが気後れもしてて、さてどんなものでしょう
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:『大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の名所であり、4月下旬~5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が満開になり、当寺は古くから「花の御寺」と称されている。また「枕草子」、「源氏物語」、「更級日記」など多くの古典文学にも登場する。中でも「源氏物語」にある玉鬘(たまかずら)の巻のエピソード中に登場する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っている。』
そうか『長谷寺』は、「枕草子」「源氏物語」「更級日記」など多くの古典文学にも登場する。中でも「源氏物語」にある玉鬘(たまかずら)の巻のエピソード中に登場する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っている。この「古典文学にも登場する」⇒だから辻褄あわせに、あとから植えたのだろう。
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● jyoumonjn
祐徳稲荷は唐津でなく鹿島市で、肥前浜の川沿い山手でしたね^^倭王薩夜麻が唐より解放帰国後壬申乱前まで一時身を寄せた多良町手前ですね。謂わんとされるのは、九州籠国長谷寺は平地に総やぐらで建っていた。ですか?RT @jyoumonjn これは背後が山腹の本殿でしょう(清水、長谷寺も)
● jyoumonjn
そんなに『とんでもない規模だ』なんですか?
● jyoumonjn
文面:倭国見学ツアーのアイデアは同感ですが、まだ無理だと考えます。
日付は2月9日、渡辺しょうぞう氏の立場で書かれている。
〔AB&JC PRESS〕
● jyoumonjn
私も同じ事考えてました。『源氏物語画帳』玉鬘の絵を見る限り「平地に櫓舞台をまわす造営」と見受けられますね。米田氏は初瀬は瀬でもあると書いてます。
● jyoumonjn
(588) 『奈良の現「長谷寺」は登廊の先に本殿が描かれるはずがそうでない。土佐光信が倭国秘蔵原画を模写したものと』 2011年5月21日(土)
● jyoumonjn
お言葉ですが『源氏物語画帖:玉鬘』は長谷寺詣でを描いているのは確かでしょう。それも、奈良の現「長谷寺」は登廊の先に本殿が描かれるはずがそうでない。土佐光信が倭国時代秘蔵原画を模写したものと想像します。
先にあなた自身がおっしゃったじゃないですか『とんでもない規模だ、実地イメージしないと』だと、そして、後に『平地に櫓舞台をまわす造営の場合の目的はなんだろうかと?』から『肉筆画で誇張もあるのでしょう。規模もふくめて…』は思考を断念したか?邪推でしょうね^^
そもそも、「源氏物語」玉鬘の巻のエピソード中に登場する二本の杉の『長谷寺』は、定説が10世紀後半成立したとする「枕草子」「源氏物語」「更級日記」「住吉物語」「大和物語」など多くの古典文学にも登場する。が、若し倭国時代7世紀前半に成立したとするとどうだろう
我々が中高生時代に教わった「日本史」「日本文学史」「日本美術史」「日本芸術史」って、いったいなんだったのだろうか?
でもこれって、みんなが知っちゃうとパニックになるかも…、今度の原発と同じだね。いつも不思議なんだけど、福島市民って放射能の知識ないのかなー。偉そうに、源氏物語講釈してるの見聞きすると、やれやれ知らぬが仏ってか。そうだ、今もテレビで長谷寺の宣伝してるよ^^
● jyoumonjn
うっ、いきなり、ディティールですか?「一女笠・壺装束の3人は乳母と振り返って三条に話しかける玉鬘である」で中央の黒い顔を正面に向けてる娘ですか?
『源氏物語』の玉鬘が「長谷寺」を訪れたのは634年らしいのですが、当時の九州王朝「倭国」の服制と倭国滅亡(倭王高市暗殺696年)後、701年大和朝廷開闢ですが、弟王家の大和朝廷が服制を改めたのが719年なのかな?
〔源氏物語イメージの美術史的研究活動(第10回国際日本学シンポジウム):渡辺 雅子著〕・《魚拓》
米田良三氏の著作をあれこれ読んでると、『源氏物語画帖』が欲しくなって、ネット検索したら
一般的に屏風絵の金雲の手法は存在を隠すことが目的であったり、省略するために使われるが、『源氏物語画帳』では同一の視点での角度の異なる情景を金雲で区切って描く手法が用いられている。玉鬘の巻も金雲により、画面を上下2つに分けている。
しかも「二本の杉」は画面中央にあり、上下の画面に一体の杉として描かれている。つまり、下の画面は玉鬘の一行を真下近く俯瞰して描いており、二本の杉の足元を初瀬川が蛇行する。また上の画面は同じ位置から二本の杉の先端の先に見える遠景を描いている。
『源氏物語画帖』に描かれた「杉の木の点在するゆるやかな坂」は雲井坂ではなかろうか。標高460mほどの山の鞍馬部を利用した緩やかな坂道となっており、標高400m前後の今原に降り立つ。京から初瀬に入る道は4つほどルートがあるが、この坂越えがメインであったと思われる。玉鬘も右近もこの坂を歩いて初瀬に入ったのだろう。
(589) 『清少納言は「軽の路」を牛車に乗ってたびたび通ったことが分る』 2011年5月22日(日)
吉野ヶ里から泊瀬に至る道は3つある。
①吉野ヶ里から岩屋を通り、大内峠を通る最短路であるが険しい「磐余いわれの路みち」。
清少納言は「軽の路」を牛車に乗ってたびたび通ったことが分る。
『はつせなどにまうでて、局つぼねする程、くれ階はしのもとに、車ひきよせて立てたるに、帯ばかりうちしたるわかき法師ばらの、足駄といふものをはきて、いささかつつみもなく、下おりのぼるとて、なにともなき経の端はしうち誦よみ、倶舎くさの頌ずなど誦ずしつつありこそ、所につけてはをかしけれ。『枕草子:120段』
● jyoumonjn
うぬっ、何か誤解が^^この関屋は
● jyoumonjn
(p125)『北山湖は近代ダムによる人工湖だが、ダムに沈んだ部分は国土地理院の地図から湿田であったことが分る。その部分が600年代には池であったこと、672年の日本(倭)国滅亡以降の泊瀬の施設の破壊により、土砂で池が埋まったであろうことは第一部(p54)に指摘したところだ。
池の名は『枕草子』38段にある贄野にえのの池と思われる。現在のダム辺に井堰(井手)が造られたと想定できる。
【泊瀬川流るる水尾の瀬を早み 井堤越す波の音の清けく(万ー1108)】
またこの池が水上交通として利用されるとととなる。高瀬の淀と呼ばれ、湖底に沈んだ関屋(現在の字関屋は異なる場所である)から初瀬の陣内橋辺(p36)まで舟が往来していた。
そのことは『枕草子』114段に記される。
「高瀬の淀に」とは、これをよみけるなめりと見えて。
『湖底に沈んだ関屋(現在の字関屋は異なる場所である)』だそうですね。
(590) 『ソメイヨシノは江戸の職人が吉野桜と言って品種が確定は明治。吉野はシロヤマザクラの品種のはず』 2011年5月22日(日)
行者といえば奈良時代ですよね。当時の桜苗木って種から育てたのですかね。種からだと山桜ですよね、吉野桜だと挿し木か接木ですがそんな技術あったのかな?
山桜ですか。とすると、豊臣秀吉の時迄には突然変異を接木・挿し木で吉野全山を吉野桜で覆ったことになりますか。
● jyoumonjn
品種改良と言う意味でですが、秀吉の醍醐の花見ってどんなものだったのかと想像してですから…
● jyoumonjn
じょん・じょん、分かりもはん^^
● jyoumonjn
(591) 『517年に長谷観音が造られたとの言い伝えが現在の長谷寺にある』 2011年5月23日(月)
移築前の「倭国」長谷寺の全体像を理解する上で、『長谷寺考:米田良三著』のp136以降を抜粋引用し、以下転載する。
『517年に長谷観音が造られたとの言い伝えが現在の長谷寺にある。素直に観音像が彫刻された年次の伝承と捉えてみよう。
倭薈(奈良の帝)が吉野ヶ里近辺の奈良京に都を定めたのは514年から522年の寛平年間である。即位は510年であり、即位後の四年間は「やま」と呼ばれた現在の大宰府都城が都である。
514年に奈良(平城)に都を移し、秋には立田川辺に立たれたと思われる。構想を練ること1年、伝承のように彫刻の材料である巨木が存在して彫刻するのに500日程を要したのではなかろうか。
回廊は彫刻と同時進行で造られた可能性はあるが、観音像の納まる鞘堂である本堂は彫刻が完成してから造り始めたものと思われる。
そして倭国滅亡の672年以降に解体・移築されたのが現在の奈良の長谷寺本堂である。泊瀬観音像のために特別に造られた世界に唯一の建物であり、彫刻も建物も建物も500年代初頭に倭薈(奈良の帝)が造ったものが現存するのだ。
現在の富士村下合瀬の萬福寺にはおそらく「経蔵」が、三瀬村杠(ゆずりは)の善正寺には「鐘楼」が建っていたと思われる。後者は「尾上の鐘」と呼ばれる名鐘だが、現在は基壇の石垣と向いに松尾と言う地名が残るのみである。
「経蔵」と「鐘楼」は江戸時代の初めに移築されて現在、京都の知恩院にある。
<途中略>
ところで、立田川は泊瀬川に名称が変わる。現在は初瀬川である。『長谷寺縁起』には神河(みわかわ)に川上から宝塔が流れてきて瀬に泊まったので、神(みわ)を改め泊瀬としたと記す。立田川、龍田川、神河(みわかわ)、三輪川、泊瀬川、初瀬川は同一の川である。
造られた寺も泊瀬の御寺と称されていたが、やがて長谷寺と称されるようになる。「泊瀬の上の山寺」とも称された地形を素直に表現した名称「泊瀬の御寺」は理解できる。が、しかし長谷寺とどうして呼ばれるようになったのであろううか。
私は机上で「地形図を見て谷地形だと考え推論した」が、実際現地に立つと地図で見るように谷地形を感じることは出来ない。だらだらと続く綏勾配の傾斜地に水田や畑が連なる長閑(のどか)な田園風景である。いろいろな場所に立って見ても谷という感じを受けない。
民俗学の上野誠氏が述べられる「ハツセ」が長い谷のある場所であるという知識が一般化する場所とは考えがたい。現在の移築後の長谷寺の周囲の景観こそがふさわしいかもしれない。
いろいろ考えて次の結論に至った。三門の敷地は標高400mほどである。樽階(くれはし)は400m少々のレベルで道や水田や畑や泊瀬川を渡り、標高400mの山の上に立つ本堂の舞台につながる。
登廊でないことは『源氏物語画帖』で検討したが、水平を強調した開放廊下が造られたと考えたい。700m以上の長い回廊で、要所に地上に通じる階段が付けられている。樽階(くれはし)を歩けば、床の隙間から川面が見え、「泊瀬の全体の地形、高低差のある長い谷地形」を捉えられる。
さらに標高370mほどの贄野(にえの)の池が広がる。周囲を山に囲まれた自然の地形の中に2つの高さの異なる水平面を造り統一感が与えられる。非常に現代的な手法だが、当時すでに行われたのだ。そこで感じられるイメージから、泊瀬の御寺を長谷寺と称するようになったと考えたい。
もちろん述べてきたように、それを九州王朝「倭国王」倭薈(奈良の帝)が発想・意図されたことは疑えない。』
● jyoumonjn
残念ながらありません。ぜひ行って検証したいですね。縄文人さんは近くて良いですね。今はあなたのご見聞だけが頼りです。
(592) 『陣内橋辺で舟を降り、200mほど進むと陣内の樽橋くれはしである』 2011年5月23日(月)
● jyoumonjn
なんですか、その『貝野村』って?そんな話題いつ取り上げましたっけ?
● jyoumonjn
何がおっしゃりたいのか?チンプンカンプンですが^^
地図には表示ないが、ここが
今まで見てきて分るように『源氏物語』は九州王朝「倭国」の時代の作品である。
(600) 『謎の新撰姓氏録:高橋良典著によると「毘沙門天はインドのヴァイシュラーヴァナ=クベーラである」と言うが』 2011年5月25日(水)
● jyoumonjn
『謎の新撰姓氏録:高橋良典著』によると「毘沙門天はインドのヴァイシュラーヴァナ=クベーラである」と言うが、その妃とは?
いくらか物知りの人は、日本各地の金比羅さんのルーツがインドの財宝神クンビーラKumbhiraであることや、大黒さんのルーツがマハーカーラMahakalaにあって、マハーをその意味どおり大と表わし、カーラをその音に従って黒と表わしたこと、閻魔大王の閻魔が
インドの先住民に死をもたらしたヤマ神Yama Devaであったことを知っているはずだ。そしてインドの神々にかなり興味をもっている人は、おそらく、日本の弁財天(弁才天)がかってインドの北部を流れていたサラスヴァ川の源に君臨するヒマラヤの豊饒の女神
サラスヴァティーSarasvatiに、つまりサラスヴァ川のターラー女神(サラスヴァターラーSarasvatara)由来していることをご存知だろう。と『謎の新撰姓氏録:高橋良典著』p51に記載され、弁には「あらそふ」財には「たから」という意味がある、と。
若いことはすごい、年寄りからお願い。『謎の新撰姓氏録:高橋良典著』によると「毘沙門天はインドのヴァイシュラーヴァナ=クベーラである」ぜひ、この古本をお供に連れてってね。
九州王朝「倭国」系の酒に弱い日本人はb遺伝子の稲、及び甕棺墓埋葬文化をもって揚子江中流域から、秦の始皇帝に追われるようにして、黄海を渡海し、直接北部九州に着岸・移住したということになろう。
『日本人の起源』【第4部 邪馬台国から大和朝廷へ】(09.日本人の成立モデルを考える)の末尾には
図の左側を
倭人の先祖は揚子江中流域に居住の頃より土着の宗教(=道教)を祀っていた。「秦の役」を逃れ、黄海を突っ切って九州北部へ直接渡来。後、邪馬台国を経て倭国を建国。白村江戦で唐に捕縛連行の薩夜麻は唐の高宗に気に入られ道教の感化を受け帰国。壬申乱勝利後布教した。
日本の弁財天(弁才天)がかってインドの北部を流れていたサラスヴァ川の源に君臨するヒマラヤの豊饒の女神。弁には「あらそふ」財には「たから」という意味がある。この「あらそふたから」の音に注目してarasohutakaraとし、更にこれら配列を改めてみると
サラクホターラsarakuhotaaraとなる。これがサラスヴァターラーSarasvataraと結びつくことは、ターラーtaraをtaaraaと表わしたあと、最後のaをuに変えてサラスヴァsarasvaのsとvの間に移し(sarasuva)、サラスヴァの
sとvaをそれぞれkとhoに変えてみると分る(Sarasvataaraa⇒Sarasuvataara⇒Sarakuhotaara)。このことはインドのサラスヴァティー=サラスヴァターラーが、これとは逆の経過をたどって日本の弁財になったこと、つまり、
サラスヴァターラーが⇒サラクホターラ、⇒アラソフタカラと変化したあと弁財になったことを意味している。』と書く。何が言いたいか、このアナグラムが正しいなら、日本語「アラソフタカラ」が変化して「弁財」になったとなり、必ずしも中国を経由していないと言えないか。
● jyoumonjn
● shado_666
あくまで、『謎の新撰姓氏録:高橋良典著』説ですが、サラスヴァ川のターラー女神のことを、別名カーリーkaliとも呼んでいる。サラスヴァカーリーsarathuhokaaliiこれを入れ替えてarasohuhatalikiアラソフハタリキ
アラソフハタリキといえば、「争う働き」アラソフには弁舌や知恵、技量を争う意味の“弁”を、ハタリキにはそのような技量や知恵がおもてに表われる働きを意味する“才”をあて、「サラスヴァカーリー」を「弁才」と呼ぶようになったと書いています。
(603) 『弁財天の服装をみれば裸身ではなく隋唐風の衣裳であるから漢訳仏教経由と云うが果たしてどうか』 2011年5月26日(木)
斬新なアプローチがされている
● jyoumonjn
あれっアナグラム読んでくれていない^^中国でも弁財天と呼ぶのですか?隋唐風の衣裳って?二臂の妙音弁財天?
● jyoumonjn
● jyoumonjn
そうだとして、何をおっしゃりたいのか、皆目分りません。聖武が盧舎那仏へ改鋳する前の阿弥陀仏の東大寺が大分県宇佐市小倉山に完成を記念して九州王朝「倭国」が「金光」に改元した元号570年です。
アナグラムは確かに「むずい」が、高橋良典氏はこれを知らないと新撰姓氏録は理解できないとしている。で、まとめておこう。(サラスヴァターラー:Sarasvatara)⇒(サラクホターラ:sarakuhotaara)⇒(アラソフタカラ:arasohutakara)⇒日本語の「あらそふ」には“弁”を「たから」には“財”を当て嵌め『弁財』とした。ターラー神の別名カーリー(サラスヴァカーリー:sarathuhokaalii)⇒(アラソフハタリキ:arasohuhataliki)⇒日本語の「争う働き」とし、アラソフには“弁”を、ハタリキには“才”をあて『弁才』とした。
宇佐市の西小倉山の丘に倭王「倭薈」が倭軍のクーデターで追い詰められ、これまでと自刃した。東の麓の山本に建てたのが薬師寺、西の麓の上元重に金光元年570年に建てたのが東大寺である。倭薈王をモデルに東大寺の阿弥陀大仏は鋳造されたが、奈良に移築時に頭・首上を挿替え現在の盧舎那仏とした。
『謎の新撰姓氏録:高橋良典著』をネットで買おうと思ってAmazonを覗くと中古でプレミヤがついてるのか¥2,780ーだって、私が買った時¥1,200ーだったのに^^新撰姓氏録は自分の姓のゆかりを知るのに一番良いはずだが…、これが何がなんだか分らない。まー古代史をかじった人は分る。
父に倭武王(=書紀:仲哀天皇)、母に気長足姫尊(=書紀:神功皇后)を持つ、この倭薈王(=書紀:応神天皇)は阿弥陀如来として祭られている。薬師寺の薬師如来は改名で本来は阿弥陀如来であり、東大寺の盧舎那仏もすげかえ前は阿弥陀如来である。胸に卍文、掌に輪宝文、足裏に瑞祥文ですぐわかる。
英国のラフカディオ・ハーンが日本で小泉八雲を名乗ったのは結婚相手の小泉節子の姓によっただけか(ラフカディオ・ハーン:Lafcadio Hearn)⇒(カイドファ・ラヘンル:Caidofa Lahenr)⇒(Caizoma Yakemo)⇒(Coizumi Yakumo)⇒小泉八雲
(604) 『わたつ海の そこともしらず わびぬれば すみよしとこそ あまはいひけれ』 2011年5月27日(金)
重要文化財
指定名称:紙本著色住吉物語絵巻
継母にいじめられて住吉に逃れた姫君を、彼女に恋こがれる三位の中将が長谷寺の観音の夢告によって訪ねあて、めでたく結ばれて都に帰ったのち、父と対面して幸福に暮らすという『住吉物語』を絵画化した、現存最古の絵巻の残欠である。
1巻と4幅が現存し、模本によれば、嘉永元年(1848)当時はこれらが1巻の巻物であった。当館所蔵の1巻1幅は物語後半の一部で、中将が住吉で姫を探しあてて結ばれる場面と二人の婚礼を祝う酒盛(1巻)、噂を聞いて都から訪ねて来た中将の友人達との管弦(1幅)に相当する。中将と姫君の一行が都へ帰る場面の絵と、これに続く帰京後の段の詞書が個人蔵となっている。わずか三行分ながら伝存した詞書は貴重である。
東博本1巻は詞をはさまない長大な画面に時間の異なる五場面を連続して描いている。こうした描写形式は、段落式とも呼ばれる平安時代の物語絵巻の伝統から離れて、むしろ、説話絵巻の画面展開に通ずる。なお静嘉堂文庫美術館にこれとは異なる2巻本が伝来している。
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『住吉物語:吉海直人編著』p111【36、長谷寺の霊夢】を抜粋転載します。
『春秋過ぎて、九月ばかりに 「はつせ」 に籠りて、七日と云う夜もすがらおこなひて、暁方すこしまどろたる夢に、やんごとなき女そばむきてゐたり。さしよりて見れば、我が思ふ人也。うれしさせんかたなくて、
「いづくにおはしますにか。かくいみじきめを見せ給ふぞ。いかばかりか思ひなげくとしり給へる」といえば、
うちなきて、「かくまでとは」思はざりしを。いとあはれにぞ」と云ひて、「今は帰りなん」といへば、そでをひかへて、
【わたつ海の そこともしらず わびぬれば 「すみよし」 とこそ あまはいひけれ】
と云ひて立つを、ひかへて帰さずとみて、打おどろきて、ゆめとしりせばかなしかりけり。
さて、『佛の御しるしぞ』とて『夜の中に出て 「住吉」 と云ふ所尋ね見ん』とて、御ともなる物に、しやじんのついでに、 「天王寺・住吉」 などに參らんと思ふなり。
をのをのかへりて此の由を申せ」と仰せられければ、「いかに、御ともの人なくては侍るべき」「捨て参らせて参りたらんに、よき事さぶらひなんや」としたひあひけれども、「じげんをかうぶりたれば、そのままになむ。ことさらに思ふやうあり。いはんままにてあるべし。
いかにいふ共、ぐすまじきぞ」とて、みずいじん一人ばかりをぐして、じやうへのなへらかなるに、うす色の衣にしろきひとへきて、わらぐつ・はばきして、
「たつた山」 こえゆきかくれ給ひにければ、聞えわづらひて、御とものものは帰りにけり。』
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『続・法隆寺は移築された:米田良三著』p165に掲載の〔「源氏物語」「住吉物語」の舞台になった頃の九州王朝「倭国」の中枢部復元図〕が非常に分りやすいので転載します。
『住吉物語:吉海直人編著』【長谷寺の霊夢】には、「はつせ・長谷寺」、「たつた山こえ」、「天王寺・住吉」、ここには無いが「京」の4地点が出てくる。
では、『住吉物語:吉海直人編著』【長谷寺の霊夢】に記載の「はつせ・長谷寺」、「たつた山こえ」、「天王寺・住吉」、ここには無いが「京」の4地点は、さて、どこか?
びっくりした、『住吉物語:吉海直人編著』を転載してる最中に、Amazonからメールがきて『「吉海 直人」関連の吉海 直人の『住吉物語』またはその他の本をチェックされた方に 『住吉物語』の世界 (新典社選書42)の発売について、ご案内いたします』だってさ。結局、買ってしまった^^
◎〔海の底 沖つ白波 竜田山 いつか越なむ妹があたり見む〕(万葉集1-83)
(605) 『こも枕 高瀬の淀に 刈る菰の かるともわれは 知らで頼まむ』 2011年5月28日(土)
以下は、岩波文庫『枕草子:池田亀鑑校訂(底本は三巻本)』を引用抜粋転載します。
『【114】卯月のつごもりがたに、初瀬にまうで(長谷寺に詣づと)て、「淀のわたり」といふものをせしかば、舟に車を下記すゑて、菖蒲・菰などの末のみじかく見えしをとらせたれば、いとながかりけり。
菰積みたる舟のありくこそ、いみじうをかしかりしか。
『高瀬の淀に⇒【こも枕 高瀬の淀に 刈る菰の かるともわれは 知らで頼まむ:業平(古今和歌六帖巻六)】』 とは、これをよみけるなめりと見えて。
三日かへりしに、雨のすこし降りし程、菖蒲刈るとて、笠のいとちひさき着つつ、脛いとたかき男・童などのあるも、屏風の絵に似ていとをかし。』
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清少納言は「軽の路」を牛車に乗ってたびたび通ったことが分る。『枕草子:114段』のように関屋で車ごと舟に乗せ、高瀬の淀を渡り、陣内橋辺で舟を降り、200mほど進むと陣内の樽橋くれはしである。
『はつせなどにまうでて、局つぼねする程、くれ階はしのもとに、車ひきよせて立てたるに、帯ばかりうちしたるわかき法師ばらの、足駄といふものをはきて、いささかつつみもなく、下おりのぼるとて、なにともなき経の端はしうち誦よみ、倶舎くさの頌ずなど誦ずしつつありこそ、所につけてはをかしけれ。『枕草子:120段』
● jyoumonjn
うぬっ、何か誤解が^^この関屋は
● jyoumonjn
(p125)『北山湖は近代ダムによる人工湖だが、ダムに沈んだ部分は国土地理院の地図から湿田であったことが分る。その部分が600年代には池であったこと、672年の日本(倭)国滅亡以降の泊瀬の施設の破壊により、土砂で池が埋まったであろうことは第一部(p54)に指摘したところだ。
池の名は『枕草子』38段にある贄野にえのの池と思われる。現在のダム辺に井堰(井手)が造られたと想定できる。
【泊瀬川流るる水尾の瀬を早み 井堤越す波の音の清けく(万ー1108)】
またこの池が水上交通として利用されるとととなる。高瀬の淀と呼ばれ、湖底に沈んだ関屋(現在の字関屋は異なる場所である)から初瀬の陣内橋辺(p36)まで舟が往来していた。
そのことは『枕草子』114段に記される。
卯月のつごもりがたに、初瀬にまうでて、淀のわたりといふものをせしかば、舟に車をかきすうゑて、菖蒲・菰などの末のみじかく見えしをとらせたれば、いとながかりけり。菰積みたる舟のありこそ、いみじうをかしかりしか。
「高瀬の淀に」とは、これをよみけるなめりと見えて。
3日かへりしに、雨のすこし降りし程、菖蒲刈るとて、笠のいとちひさき着つつ、脛いとたかき男の童などのあるも、屏風の絵に似ていとおかし。<以下略> 』
『湖底に沈んだ関屋(現在の字関屋は異なる場所である)』だそうですね。枕草子が倭国時代の著作と分るように敢えて、長文引用しました。
(606) 『椿市上空から南方を俯瞰し、そこから長谷寺本殿までは、なだらかな平坦地で、初瀬川「二本の杉」を描く』 2011年5月28日(土)
ハーバード大学美術館蔵『源氏物語画帖』玉鬘を良く見ると、椿市(今の地名:宿)上空から南方を俯瞰しており、そこから長谷寺本殿までは、なだらかな平坦地だったと分る。初瀬川の途中に「二本の杉」が描かれている。明らかに本殿は平坦な地形にやぐら格子の建物で、
いやーごめん。
まッ、要は『源氏物語画帖』玉鬘の描く長谷寺参詣は、現奈良の長谷寺を描いたものではないという事だ。
通説は
『源氏物語画帳』玉鬘は移築前の長谷寺を描いているとすると、〔長谷寺は727年開山としている〕 ⇒ これは九州から近畿への移築開山年次だろうから、〔源氏物語は900年代初頭の著作〕とする通説が間違っていて、芋ずる式に源氏物語・住吉物語・更級日記・枕草子・土佐日記・大和物語・伊勢物語が九州倭国の著作となる。
〔長谷寺ご本尊は、右手に錫杖、左手に水瓶を持って方形の大盤石という台座に立つ、いわゆる長谷寺式十一面観世音菩薩です。像高三丈三尺六寸1018.0cm。我が国で最大のクスノキ木造仏。〕
百済観音と同じくクスノキの大木・まさに10mを越す気長足姫尊(=神功皇后)を直接刻んだもの。米田良三氏は長谷寺観音像は517年に造られていて、現存するもので最古であるばかりか、大きさも日本一どころか世界一の木造彫刻だと言う。本尊像の拝観できる6月30日迄のお参りをぜひお勧めする。
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