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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 039 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(713) 『古事記の序文』 2011年8月9日(火)

『古事記』序文の壬申大乱:古賀達也

天智天皇から天武天皇へバトンタッチ《魚拓》

古田史学会報no103【「筑紫なる飛鳥宮」を探る:正木裕氏投稿】

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以下は自分の学習の為に全文を抜粋・転載したものですので、詳細は該当頁をクリックしてそちらでお願いします。悪しからず。


『 古 事 記 の 序 文 』《魚拓》


 古事記の序文の一部を次に挙げました。この文には。句読点がついています。元の古事記には付いていません。「。」をつけますと、その場所で、言葉がきれることを表します。よって、読みやすいのですが、元々、ここで区切られるとは限りません。

 そこで、古事記の原文を読んだ人によって、「。」の位置が異となり、読み下し文が違ってきます。当然、古事記の読み方が違ってきます。


曁飛鳥清原大宮。御大八洲天皇御世。濳龍體元。?雷應期。聞夢歌而相纂業。投夜水而知承基。然天時未臻。蝉蛻於南山。人事共洽。虎歩於東國。皇輿忽駕。浚渡山川。六師雷震三軍電逝。杖矛擧威。猛士烟起。絳旗耀兵。凶徒瓦解。未移辰。氣?自清。乃放牛息馬。悌歸於華夏。卷旌?戈。?詠停於都邑。歳次大梁。月踵侠鍾。清原大宮。昇即天位。道軼軒后。徳跨周王。握乾符而六合。得天統而包八荒。乘二氣之正。齊五行之序。設神理以奬俗。敷英風以弘國。重加智海浩瀚。潭探上古。心鏡?]煌。明覩先代。於是天皇詔之。朕聞諸家之所?。帝紀及本辭。既違正實。多加虚僞。當今之時。不改其失。未經幾年。其旨欲滅。斯乃邦家經緯。王化之鴻基焉。故惟撰録帝紀。討覈舊辭。削僞定實。欲流後葉。時有舍人。姓稗田名阿禮。年是廿八。爲人聰明。度目誦口。拂耳勒心。勅語阿禮。令誦習帝皇日繼。及先代舊辭。然運移世異。未行其事矣。


 長すぎますので、もう少し減らします。

「曁飛鳥清原大宮。御大八洲天皇御世。濳龍體元。?雷應期。聞夢歌而相纂業。投夜水而知承基。然天時未臻。蝉蛻於南山。人事共洽。虎歩於東國。

 この部分の、読み下しを掲載します。

「飛鳥の清原の大宮に大八洲しらしめしし天皇の御世に曁(および)、濳龍元を体し、?(せん)雷期に応(こた)へき。夢の歌を聞きて業(わざ)を纂(つ)がむことをおもほし、夜の水(かわ)に投(いた)りて基(もとゐ)を承(う)けむことを知りたまひき。然(しか)れども天の時いまだ臻(いた)らずして、南山に蝉のごとく蛻(もぬ)け、人の事共給(そなわ)りて、東国に虎のごとく歩みたまひき」


 読み下しの意味はお解りでしょうか? この読み下し文は、中西 進著『天つ神の世界 古事記を読む1』の16ページに書かれてあるものです。この本は、古事記の解説本ですが、本の帯には、「はじめて古事記の文学性を鮮明にした画期的な労作、全四冊ここになる!」と書かれています。その1は、307ページに及ぶ膨大な論文になっています。


 私は、古事記は稗田阿禮と太安万侶が命をかけて完成させたものであると考えていますから、帯に書かれてある文学性の高いものであることが、本当であれば、私が間違っているか、中西氏が始めから解釈の仕方が間違っておられるのではないかと思います。

中西進氏の履歴


 中西進氏の偉大さを知りますと、私が「はじめから解釈の仕方が間違っておられる」と書くこと自体が間違っているようにも思えますが、私の思いを書きますので、そのつもりでお読みください。


 はじめに掲げました古事記の部分に対して、89行を使って解説しておられます。 本当であれば、読み下し文だけで、ある程度は内容が判らないといけないのですが、読者は判らないであろうから、丁寧に、説明をされています。あまりにも、完璧に解説しておられますので、その内容をここに、書くことができません。

 ご自分で読んでください。別の言い方をしますと、あらゆる膨大な知識がないと、古事記のこの部分は、読むことができないということになります。 では、中西進氏のこの本を読めばわかるのかと言いますと、古事記の原文より、一層理解できないものになっています。 「そりゃ、お前の頭がわるいのだろう」と言われれば、それまでなのですが、各言葉がどこで使われていたかを徹底的に調べて、そこではこういう意味に使ってあるから、古事記でもこうであろうという論法です。


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(714) 『(続) 古事記の序文』 2011年8月9日(火)  

 以下は自分の学習の為に全文を抜粋・転載したもので、詳細は該当頁をクリックしてそちらでお願いします。悪しからず。

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『 古 事 記 の 序 文 』 の 続 き で す


 例えば、「聞夢歌而相纂業」 の内の「夢歌」は、どこにも書いてありませんから、万葉集やその他に、「夢歌」を求めておられます。
 もう一つ、あげますと、「投夜水而知承基」の中の「水」は、ただの水ではなくて、川だと書いておられます。太安万侶は、難しい漢字の言葉は、どこかに書いてあり、それを使ったのであろうというように思われ、徹底して語句を探し求めておられます。


 古事記、全体を読みますと、そうとは限りません。土地などは、すべて地名があったとは限りませんから、情景を述べて、誰かから聞いたことを書き連ねています。

 ただ、序文は、格調高く書きたかったようです。と、同時に、本文と同様に、あまりにもあからさまに書きますと、古事記は没収されますので、当時の人が読んでも理解しにくいように書いたと思われます。

 ここに書かれてある前の部分は、番仁岐命にはじまって、神武天皇や崇神天皇などの歴代の功績を褒め称えた後に、上に書いた文章が書かれています。すなわち、天武天皇のことです。流れをみますと、理解できないことがいっぱいですが、壬申の乱のことを述べています。

 そして、途中を飛ばしますと、3行目に、「悌歸於華夏。卷旌?戈」と書いてあります。「悌」は意味がよく判りませんが、華夏(中国)に帰ったと書いてあります。「軍旗を巻いて矛を収めて」と書いてありますから、天武天皇の敵は、明らかに、中国人であったことが判ります。

 そして、その後に、「清原大宮。昇即天位」と書いてあります。「清原大宮で、即に、天つ位についた」という意味になるでしょうか?

このように読んでいきますと、全く、漢文を知らない私でも、おおよその流れはつかむことはできます。

 簡単に言いますと、天武天皇は、壬申の乱で、中国人と戦って勝ち、中国人は、軍旗を巻いて矛を収めて中国に帰ったことが判ります。「悌」の意味が判らなくても、自分で読む分には、なんら困りません。

 このように考えますと、

「曁飛鳥清原大宮。御大八洲天皇御世。濳龍體元。?雷應期。聞夢歌而相纂業。投夜水而知承基。然天時未臻。蝉蛻於南山。人事共洽。虎歩於東國」の部分は、

「飛鳥の清原の大宮において、天皇が大八洲を治めていた頃、なりを潜めていた龍(中国人)は姿を現わし、雷があちこちで鳴って、返事をし合うように活動をはじめました。


 天皇は、夢に描いていた理想的な天皇としての天命を引き継ごうと思われて、夜になると水辺に立っては、その基本となるものを知ろうとされました。然(しか)れども天の時いまだ臻(いた)らずして、南の山の方は、蝉の抜け殻のように鳴き声も聞こえませんが、人事は準備整っています。東の国では、虎がうろうろするように、中国人は活動を活発にしています」


 そこで、天皇は、いかに迅速に行動を開始し、中国人をやっつけたかを書いていると思います。


 そんな翻訳は、駄目だと言われそうですが、壬申の乱では、天武天皇が勝ったことはだれでも知っています。相手が、中国人であったことを誰も知らないために、翻訳がぎこちのないものとなっています。
「東の国では、虎がうろうろするように、中国人は活動を活発」とは、どう言うことかと言いますと、紀元前200年ころから、群馬県あたりから絹を運んでいた漢人が、度々の天皇による攻撃のために、 西、南の方の勢力は、どんどん、失われて行きました。 

 そこで、朝鮮人を滋賀県をはじめとして、東国に入植させたことが、日本書紀に書かれています。


 当時者でありました太安万侶は、それとなく、「虎歩於東國」と表現したのだと思います。


   古事記において、アマテラスとスサノオが、誓約をして勝負をする場面があります。ここの最後の所に、

「天菩比命の子、建比良鳥命、こは出雲国国造、上菟上国国造、下菟上国国造、伊自牟国造、津島縣直、近江国国造等が祖なり。

 次に天津日子根命は、凡川内国造、額田部湯坐連、倭田中直、山代国造、馬来田国造、道尻岐閇国造、周芳国造、倭淹知造、高市縣主、蒲生稲寸、三枝部造等が祖なり。」と書いた部分があります。

 みんな漢人ですから、気をつけなさいと太安万侶は、訳のわからないことを書いて注意するように書いています。

 この中に、東国が含まれることになります。この部分のことは、以前に書いていますので、読んでください。 
「古事記も教えてくれます」《魚拓》 


 太安万侶は、古事記が完成してから、精魂込めて、天武天皇に奉げるつもりで、序文を書きました。 


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(715) 『古事記も教えてくれます』 2011年8月10日(水)

『古事記の序文』

以下は自分の学習の為に全文を抜粋・転載したもので、詳細は該当頁をクリックしてそちらでお願いします。悪しからず。



『古事記も教えてくれます』


「今使訳所通三十国」この三十国は、何処だということで、式内社が多いところではないかと、No17で目星をつけてみました。是で確定とはいきませんので、別の所から、迫って見ます。

 古事記です。古事記に書いてあることは神話と嘘ばかりで、日本書紀が正しいという方も居られますが、私は逆だと思います。もし、原文を持っておられましたら、次のところを見てください。

 スサノオが高天原のアマテラスを襲撃する所があります。スサノオは、別れの挨拶に来ただけと弁明しますが、それが正しいかどうか誓約(ウケイ)で決めようとなります。なんだか訳のわからないことが書いてあります。アマテラスが、スサノオの持っていた剣を口にいれて噛みくだき、吹き出すと、タキリヒメとイチキシマヒメとタキツヒメが生まれた。次にスサノオが、アマテラスが身に着けている珠を口に入れて噛み砕き、ふきだすと、五人の男の神さんが生まれました。この結果、スサノオは私が勝ったから、私が正しかったと宣言します。
 訳がわからないのは、私だけかもしれませんが、誓約のことは、そのまま受け入れて理解することにしますが、その後も理解できません。その後に、前後と全く関係ない文章があります。


「天菩比命の子、建比良鳥命、こは出雲国国造、上菟上国国造、下菟上国国造、伊自牟国造、津島縣直、近江国国造等が祖なり。
次に天津日子根命は、凡川内国造、額田部湯坐連、倭田中直、山代国造、馬来田国造、道尻岐閇国造、周芳国造、倭淹知造、高市縣主、蒲生稲寸、三枝部造等が祖なり。」


 天菩比命と天津日子根命は、先の五人の神さんの内の二人ですので、全く関係ないことはありませんが、天菩比命の子である建比良鳥命は、今の出雲国国造、上菟上国国造、下菟上国国造、伊自牟国造、津島縣直、近江国国造の先祖ですよ。とか、天津日子根命は凡川内国造、額田部湯坐連、倭田中直、山代国造、馬来田国造、道尻岐閇国造、周芳国造、倭淹知造、高市縣主、蒲生稲寸、三枝部造等の先祖ですよと読む人に忠告するように、文脈を離れて掲載されています。日本書紀では、この部分は有りませんから、書紀の編集者は載せたくなかったのでしょう。 この文章の前後には、別の文章があったのですが、誰かが削除したために、宙に浮いた文章になっています。

 今は、このことの重大さは置いておきまして、「出雲国国造は、建比良鳥命の子孫ですから、着お付けなさい」と古事記の作者が何故言ったのかを考えてみたいと思います。それは、建比良鳥命が漢人であったか、高句麗人であったのでしょう。 

 古事記に記載されている国造は、24ですから、半分近くを、漢人が占めていたことになります。古事記が作られたときは、どの氏族の祖先が誰であるか、なかなか判らなかったのでしょう。梅沢伊勢三氏は、24の国造のうち、22が皇系氏で、独立氏数は、2としておられます。このことから、国造の人のうち、殆どの人は、自分は、天皇の血を引くのだと、自分たちの歴史書に書いていたのだと思われます。古事記の作者は、そうではないのだ、この人達の先祖は、天菩比命なのだとダメ押しをしたことになります。

 式内社の分布表で、式内社が多いところと上にあげた国造のいる所は、ほぼ一致しています。周芳の式内社は10社ですが、ここも漢人が国造だったのでしょう。



 古事記に書かれていて、日本書紀にも書かれている事柄は、多いのですが、このように、古事記に書かれていて日本書紀に書かれていない事柄は、漢人が知られたくないことが多いので、古事記と日本書紀を読むときは、大切になります。


「今使訳所通三十国」の記事は、魏志倭人伝にありますと紹介しましたが、実は「後漢書」にもあります。後漢書は、魏志倭人伝よりも後に、書かれたものですので、魏志倭人伝の記事をそのまま、使ったのだという意見は成り立ちません。このような考え方でいきますと、後に発刊された本は、すべて真似事で正しくないということになります。

「今使訳所通三十国」にある 「三十国」は後漢の時代に、すでに存在していたことになります。言い換えますと、後漢の時代に、すでに漢人が日本にやって来て、「三十国」を手中に収めていたといえます。

 このような状態は侵略とはいわないのでしょうか? このような状態に不満に思う天皇家では、征伐に繰り出すことになります。


 このような見方で、各征伐を眺めますと、天皇が相手とする敵は、すべて漢人ということになり、日漢戦争が延々と続くことになります。


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(716) 『【古代史獺祭(こだいし・だっさい)】の『古事記:上卷并序』を参照しょう^^』 2011年8月10日(水)


 そうだ、私には強い味方
【古代史獺祭(こだいし・だっさい)】があったのだ! この中の『古事記:上卷并序』
を参照しょう^^


 臣安萬侶言 夫混元既凝 氣象未效 無名無爲 誰知其形 然乾坤初分 參神作造化之首 陰陽斯開 二靈爲群品之祖 所以出入幽顯 日月彰於洗目 浮沈海水 神祇呈於滌身 故太素杳冥 因本而識孕土産嶋之時 元始綿 頼先聖而察生神立人之世 寔知懸鏡吐珠 而百王相續 喫釼切蛇 以萬神蕃息歟 議安河而平天下 論小濱而清國土 是以番仁岐命 初降于高千嶺 神倭天皇 經歴于秋津嶋 化熊出爪 天釼獲於高倉 生尾遮徑 大烏導於吉野 列攘賊 聞歌伏仇 即覺夢而敬神祇 所以稱賢后 望烟而撫黎元 於今傳聖帝 定境開邦 制于近淡海 正姓撰氏 勒于遠飛鳥 雖歩驟各異 文質不同 莫不稽古以繩風猷於既頽 照今以補典於欲絶


 曁飛鳥清原大宮 御大八洲天皇御世 濳龍體元 洊雷應期 聞夢歌而相纂業 投夜水而知承基 然天時未臻 蝉蛻於南山 人事共洽 虎歩於東國 皇輿忽駕 浚渡山川 六師雷震 三軍電逝 杖矛擧威 猛士烟起 絳旗耀兵 凶徒瓦解 未移浹辰 氣自清 乃放牛息馬 悌歸於華夏 卷旌戈 詠停於都邑 歳次大梁 月踵侠鍾 清原大宮 昇即天位 道軼軒后 跨周王 握乾符而六合 得天統而包八荒 乘二氣之正 齊五行之序 設神理以奬俗 敷英風以弘國 重加智海浩瀚 潭探上古 心鏡煌 明覩先代


 於是天皇詔之 朕聞諸家之所 帝紀及本辭 既違正實 多加虚僞 當今之時 不改其失 未經幾年 其旨欲滅 斯乃邦家經緯 王化之鴻基焉 故惟撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉 時有舍人 姓稗田名阿禮 年是廿八 爲人聰明 度目誦口 拂耳勒心 即勅語阿禮 令誦習帝皇日繼 及先代舊辭 然運移世異 未行其事矣


 伏惟皇帝陛下 得一光宅 通三亭育 御紫宸而被馬蹄之所極 坐玄扈而化照船頭之所逮 日浮重暉 雲散非烟 連柯并穗之瑞 史不絶書 列烽重譯之貢 府無空月 可謂名高文命 冠天乙矣


 於焉惜舊辭之誤忤 正先紀之謬錯 以和銅四年九月十八日 詔臣安萬侶 撰録稗田阿禮所誦之勅語舊辭 以獻上者 謹隨詔旨 子細採 然上古之時 言意並朴 敷文構句 於字即難 已因訓述者 詞不逮心 全以音連者 事趣更長 是以今或一句之中 交用音訓 或一事之内 全以訓録 即 辭理見 以注明 意况易解更非注 亦於姓日下謂玖沙訶 於名帶字謂多羅斯 如此之類 隨本不改 大抵所記者 自天地開闢始 以訖于小治田御世 故天御中主神以下 日子波限建鵜草葺不合尊以前 爲上卷 神倭伊波禮毘古天皇以下 品陀御世以前 爲中卷 大雀皇帝以下 小治田大宮以前 爲下卷 并録三卷 謹以獻上 臣安萬侶 誠惶誠恐頓首頓首


 和銅五年正月二十八日 正五位上勲五等太朝臣安萬侶謹上


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(717) 『古事記 上卷并序』 2011年8月10日(水)


 そうだ、私には強い味方
【古代史獺祭(こだいし・だっさい)】があったのだ! この中の『古事記:上卷并序』
を参照しょう^^




古事記 上卷并序


 臣安萬侶(やすまろ)言(もう)す。 夫(そ)れ混元(こんげん)既(すで)に凝(こ)りて、氣象(きしょう)未だ效(あらわ)れず。 名も無く爲(わざ)も無し。 誰か其の形を知らん。 然れども乾坤(けんこん)初めて分れて、參神(さんしん)造化(ぞうけ)の首(はじめ)と作(な)り、陰陽(めお)斯(ここ)に開けて、二靈(にれい)群品(ぐんぴん)の祖(おや)と爲りき。 所以(このゆえ)に幽顯(ゆうけん)に出入して、日月目を洗うに彰(あらわ)れ、海水に浮沈して神祇(じんぎ)身を滌(すす)ぐに呈(あらわ)れき。 故(かれ)、太素(たいそ)は杳冥(ようめい)なれども、本に因(よ)りて土(くに)を孕(はら)み嶋を産みし時を識(し)れり。 元始は綿(めんばく)なれども、先聖に頼(よ)りて神を生み人を立てし世を察(し)りぬ。 寔(まこと)に知る、鏡を懸け珠を吐きて百王相續し、釼(つるぎ)を喫(か)み蛇(おろち)を切りて、萬神蕃息(はんそく)せしことを。 安(やす)の河に議(はか)りて天(あめ)の下を平らげ、小濱(おばま)に論(あげつら)いて國土(くに)を清めき。 是(ここ)を以(も)ちて番(ほ)の仁岐(ににぎ)の命(みこと)、初めて高千(たかちほ)の嶺(みね)に降(くだ)り、神倭(かむやまと)の天皇(すめらみこと)、秋津嶋を經歴したまいき。 化熊(かゆう)爪を出(いだ)して、天釼(てんけん)を高倉(たかくらじ)に獲(え)、生尾(しょうび)徑(みち)を遮(さえぎ)りて、大烏(たいう)吉野に導きき。 (まい)を列(つら)ね賊(あた)を攘(はら)い、歌を聞き仇(あた)を伏(したが)えたまいき。 即ち夢に覺(さと)りて神祇を敬(うやま)いたまいき。 所以(このゆえ)に賢后と稱(もう)す。 烟(けむり)を望みて黎元(れいげん)を撫(な)でたまいき。 今に聖帝と傳(い)う。 境(さかい)を定め邦(くに)を開き、近つ淡海(おうみ)に制(おさ)め、姓(かばね)を正し氏(うじ)を撰(えら)びて、遠き飛鳥(あすか)に勒(おさ)めたまいき。 歩驟(ほしゅう)各(おのおの)異り、文質同じくあらずと雖(いえど)も、古(いにしえ)を稽(かんがえ)て風猷(ふうゆう)を既に頽(すた)れたるに繩(ただ)し、今に照らして典を絶えんとするに補(おぎな)わずということ莫(な)し。


 飛鳥の清原(きよみはら)の大宮に大八洲(おおやしま)御(しら)しめしし天皇(すめらみこと)の御世に曁(いた)りて、濳龍(せんりょう)元を體し、洊雷(せんらい)期に應じき。 夢の歌を聞きて業を纂(つ)がんことを相(おも)い、夜の水(かわ)に投(いた)りて基(もとい)を承(う)けんことを知りたまいき。 然れども天の時未だ臻(いた)らずして南山に蝉蛻(せんぜい)し、人事共洽(そなわ)りて東國に虎歩したまいき。 皇輿(こうよ)忽(たちま)ちに駕(が)して山川を浚(こ)え渡り、六師(りくし)雷(いかづち)のごとく震え、三軍電(いなづま)のごとく逝(ゆ)きき。 杖矛(じょうぼう)威(いきおい)を擧げ、猛士烟(けむり)のごとく起り、絳旗(こうき)兵(つわもの)を耀(かがや)かして、凶徒瓦のごとく解けぬ。 未だ浹辰(しょうしん)を移さずして氣(きれい)自ずから清し。 乃ち牛を放ち馬を息(いこ)え、悌(がいてい)して華夏に歸り、旌(はた)を卷き戈を(おさ)め、詠(ぶえい)して都邑に停まりたまいき。 歳(ほし)大梁に次(やど)り、月、侠鍾(きょうしょう)に踵(あた)り、清原(きよみはら)の大宮に昇りて天つ位に即(つ)きたまいき。 道は軒后(けんこう)に軼(す)ぎ、は周王に跨(こ)えたまいき。 乾符(けんぷ)を握(と)りて六合(りくごう)を(す)べ、天統を得て八荒を包(か)ねたまいき。 二氣の正しきに乘り、五行の序(つぎて)を齊(ととの)え、神理を設(ま)けて俗(ならわし)を奬(すす)め、英風を敷きて國を弘(おさ)めたまいき。 重加(しかのみにあら)ず智海は浩瀚(こうかん)として潭(ふか)く上古を探(さぐ)り、心鏡は煌(いこう)として明らかに先代を覩(み)たまいき。


 是に天皇(すめらみこと)の詔(の)りたまいしく、「朕(わ)が聞けらく『諸家の(も)てる帝紀及び本辭、既に正實に違(たが)い、多く虚僞を加ふ』と。 今の時に當りて其の失(あやまり)を改めずば未だ幾年も經ずして其の旨滅びなんとす。 斯れ乃ち邦家の經緯、王化の鴻基(こうき)なり。 故(かれ)、惟(これ)帝紀を撰録し舊辭を討覈(とうかく)し、僞りを削り實(まこと)を定めて後の葉(よ)に流(つた)えんと欲(おも)う」とのりたまいき。 時に舍人(とねり)有り。 姓(うじ)は稗田(ひえだ)、名は阿禮(あれ)。 年は是れ廿八(にじゅうはち)。 人と爲り聰明にして、目に度(わた)れば口に誦(よ)み、耳に拂(ふる)れば心に勒(しる)す。 即ち阿禮に勅語(みことのり)して、帝皇(すめろき)の日繼(ひつぎ)及び先代の舊辭(くじ)を誦(よ)み習わしめたまいき。 然れども運(とき)移り世(よ)異(かわ)りて未だ其の事を行いたまわざりき。


 伏して惟(おも)うに、皇帝陛下(すめらみこと)、一を得て光宅し、三に通じて亭育(ていいく)したまう。 紫宸に御しては馬蹄の極まる所を被い、玄扈(げんこ)に坐(いま)して化は船の頭(へ)の逮(およ)ぶ所を照らしたまう。 日浮びて暉(ひかり)を重ね、雲散りて烟(けむり)にあらず。 柯(えだ)を連ね穗を并(あわ)す瑞(しるし)、史、書(しる)すこと絶えず。 烽(とぶひ)を列(つら)ね譯(えき)を重ぬる貢(みつぎ)、府、空(むな)しき月無し。 名は文命よりも高く、は天乙にも冠(まさ)りますと謂(い)いつ可(べ)し。


 焉(ここ)に於いて舊辭の誤り忤(たが)えるを惜しみ、先紀の謬(あやま)り錯(まじ)れるを正したまわんとして、和銅四年九月十八日を以ちて、臣安萬侶に詔(みことの)りして「稗田の阿禮が誦める勅語の舊辭を撰録して獻上せしむ」とのらししかば、謹みて詔旨(おおみこと)の隨(まにま)に子細に採り(ひろ)いつ。 然れども上古の時は、言(ことば)と意(こころ)と並(み)な朴(すなお)にして、文を敷き句を構うること、字に於きては即ち難し。 已(すで)に訓に因りて述べたるは、詞(ことば)心に逮(およ)ばず、全く音を以ちて連ねたるは、事の趣き更に長し。 是を以ちて、今、或は一句の中に音訓を交え用い、或は一事の内に全く訓を以ちて録(しる)しぬ。 即ち、辭理(じり)の見え(がた)きは注を以ちて明らかにし、意况(いきょう)の解り易きは更に注せず。 また、姓に於きて日下を玖(く)沙(さ)訶(か)と謂い、名に於きて帶の字を多(た)羅(ら)斯(し)と謂う。 此(かく)の如き類(たぐい)は本の隨(まにま)に改めず。 大抵(おおかた)に記す所は、天地(あめつち)の開闢(かいびゃく)より始めて、小治田(おはりだ)の御世に訖(おわ)る。 故、天御中主(あめのみなかぬし)の神より下(しも)、日子波限建鵜草葺不合(ひこなぎさたけうがやふきあえず)の尊より前(さき)を上つ卷と爲し、神倭伊波禮毘古(かむやまといはれびこ)の天皇(すめらみこと)より下、品陀(ほむだ)の御世より前を中つ卷と爲し、大雀(おおさざき)の皇帝より下、小治田(おはりだ)の大宮より前を下つ卷と爲し、并せて三卷を録して、謹みて獻上(たてまつ)ると。 臣安萬侶、誠惶誠恐頓首頓首。

 和銅五年正月二十八日 正五位上勲五等太朝臣安萬侶謹上


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(718) 『いわゆる『南山』とは、どこか?中国の終南山の異称。』 2011年8月10日(水)


goo辞書で【南山(なん‐ざん)】とは?《魚拓》

①、南の方角にある山。

②、【×垜/×堋/▽安土あずち〔あづち〕】:弓場で、的をかけるために、土または細かい川砂を土手のように固めた盛り土。南山(なんざん)。的山(まとやま)。 ⇒垜(あずち)

③、《「南山の寿」から》長寿を祝うこと。

④、高野山。比叡山(ひえいざん)を北嶺(ほくれい)とよぶのに対する。→北嶺

⑤、中国の「終南山」の異称。
  ・場所:中国、陝西(せんせい)省の西安の南東にある山。古来、詩によく詠まれた。南山。チョンナン‐シャン。
  ・地図:【終南山(しゅうなんざん))】

⑥、中国遼寧(りょうねい)省金州城の南にある小丘。日露戦争の激戦地。

⑦、大韓民国ソウル市の山。南山公園にある。高さ265メートル。ナムサン。

⑧、南山の寿
《「詩経」小雅・天保から》終南山が崩れないように生命や事業がいつまでも続くこと。人の長寿を祝う言葉。

⑨【南山宗(なんざんしゅう)】
 中国の律宗を代表する一派。開祖は終南山に住した道宣。弟子に多くの逸材が出て長く命脈を保ち、日本には鑑真(がんじん)がその教義を伝えた。

⑩、【南山大師(なんざんだいし)】
《南山すなわち高野山を開いたところから》空海の異称。


【終南山】
秦嶺山脈(しんれいさんみゃく)は、中国中部を東西に貫く山脈。中国語でチンリンシャンマイ(Qínlǐng Shānmài)、英語でQinling Mountains。

 西は甘粛省東部から東は河南省西部に及ぶ。平均海抜は2000~3000メートルであり最高峰太白山の海抜は3,767メートル。陝西省武功県から藍田県にわたる部分を終南山という。


【漢詩の世界「王維(盛唐)」『終南山(しゅうなんざん)』】《魚拓》

 王維(盛唐)

 太一近天都
 連山到海隅
 白雲廻望合
 青靄入看無
 分野中峰変
 陰晴衆壑殊
 欲投人処宿
 隔水問樵夫

終南山は天帝の都の近くまでそびえ、連山は海のほとりまで続いている。白雲はめぐりながめるうちに視界を閉ざし、青いもやはその中に入ると見えない。天と地の分かれ目は峰によって変化し、くもりと晴との天候は谷ごとに異なる。人家に投宿しようとして、川を隔てた向こう岸のきこりに声をかける。


【5、隋・唐・五代の道教の繁栄と国教化】《魚拓》

終南山の宗聖観の道教教団は、高玄派に似た経戒を伝えていた。王延や厳達は周・隋の時の著名な道士である。唐代の終南山の楼観の道士には岐暉・巨国珍・田仕文・尹文操などがいた。尹文操は唐の高宗の時の道士で、太上老君の奇談を作ることにも参与し、…


【道宣(どうせん、ピンイン:Dào xuān、596年 - 667年)】
は中国唐代の律宗の僧侶で、南山律宗の開祖。

『略歴』:<途中略>その後、各地に遊学し、武徳7年(624年)に終南山(南山)の浄業寺に住んで、講学と著述に励んだ。また、戒律の異本を渉猟して再び遊方に赴き、貞観9年(635年)には、律宗中の相部宗の祖である法礪のもとで学んだ。

貞観16年(642年)に南山の戻り、貞観19年(645年)に玄奘が帰朝すると、長安の弘福寺の訳場に招かれた。

永徽3年(652年)に、高宗の勅命によって西明寺が創建されると、上座に招かれた。同寺で『四分律』の注釈の執筆など、律の研究に没頭した。このことから後世の人々から南山律師と呼ばれるようになった。

乾封2年(667年)に亡くなり、唐の懿宗が咸通10年(869年)に澄照大師号を追贈した。

道宣の弟子は千人を数え、その教えを拡大させ、南山宗は一世を風靡し、現在の中国の僧侶も彼の四分律を学んでいる。法席を嗣いだのは周秀である。また、弟子の文綱系統からは鑑真が出ている。

『逸話』:唐の高宗が僧侶に対して、皇帝や親に対して跪拝するよう勅命を出した際、道宣は弟子と共にこれに反対し、ついに撤回させたことがある。


【魚山集注釈】《魚拓》

一、撰述と名称由来~注釈

(2)智生房長恵(1458~1524)、<途中略>『魚山集』を撰述するなど南山進流声明の流布伝承に貢献される。

(7)この故事は<途中略> 唐の西明寺道宣撰述に初めて見られる。この史書は唐三代高宗の代、龍朔元年(661)に完成したもので、漢明帝より唐高宗代の約六百年間の仏教故事を拾ったものである。同巻三六五頁下参照。


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(719) 『「潜龍」とは田んぼの中に潜む龍の姿。未熟で若い潜龍の時、力不足。時期整わず能力発揮できない時』 2011年8月10日(水)


【乾為天(けんいてん)】:『潜龍勿用(せんりゅうもちうるなかれ)』《魚拓》

キーワード:時期尚早、時を得ていない、大いに戒慎要す、たとえ自信があっても好機を待つべき、勢い任せで前進はNG、目上との関係を円滑になど。

解説&運勢:「潜龍」とは田んぼの中に潜む龍の姿。未熟で若い潜龍の時、力不足。時期整わず能力発揮できない時。会社でいえば新入社員。まだ自分で思っているほど実力はありません。いい格好をしても周囲の人も認めてくれません。このような時は、逸る気持ちを抑え、隠忍し、じっと我慢して力を貯え、時期を待つ時なのです。じっと耐えながら頑張る姿はきっと、有識者の目にとまるはずですから。(小凶)


【(2)お火舷祭と火事祭り②(ウ)鹿島神社の秋祭り】《魚拓》
には、

「潜龍随時・游雷應期」:神社のしめ石(写真4-1-20参照)に刻まれた文句は、漁民の守り神・農民の守り神を示しているのです。向かって右に、『潜龍随時(潜龍(せいりゅう)時に随(したが)い)』、左に、『游雷應期(游雷期(ゆうらいき)に應ず)』とあります。


【『古事記』序文の壬申大乱:京都市 古賀達也】
を引用・抜粋します。


【人事、共に給わる】

 南山で「人事共給」わる時を天武は待つといったが、原文は「人事共給」であり、これを岩波の古典文学大系の『古事記』では、「供給」と同義として、「そなわる」と読ませている。しかし、この読みは強引ではあるまいか。「共給」とあれば、「共に給わる」と読むのが普通であろう。人と事を共に給わった、である。

 ところが、この「給う」という語は上下関係を前提とした言葉であり、上位者が下位者に物を与える時に使う用語である。従って、これでは天武よりも上位者が下位者たる天武に軍勢を与えたという意味になり、通説では理解困難な読みとなるのだ。岩波の編者達が「共給」に「そなわる」という無理な訓を与えたのもこうした事情からであろう。

 なお、「給」には「たまう」と「たまわる」の両方の語義があるが、今回のケースの場合は「たまわる」と解さざるを得ない。主語を天武として「たまう」としたのでは、天武が最初から軍勢を持っていたことになるし、誰に与えたのかも不明である。やはり、ここは「たまわる」と読むほかない。天武よりも上位者が天武に軍勢をたまわったのである。

 この「人事、共に給わる」という読みは、一元史観では理解困難な読みであるが、多元史観、古田説に立脚すれば二つの可能性が考えられる。一つは、中国(唐)の筑紫進駐軍、郭務宗*が天武に援軍と近江朝打倒の承認を与えたという可能性。たとえば、『釈日本紀』に記された壬申の乱の時の天武と唐人による次の会話からは、唐との協力関係がうかがわれるのである。


 「既而天皇問唐人等曰。汝国数戦国也。必知戦術。今如何矣。一人進奏言。厥唐国先遣覩者以令視地形険平及消息。方出師。或夜襲、或昼撃。但不知深術。時天皇謂親王(以下略)」(『釈日本紀』)


 天武が唐人に戦術を問うたところ、唐ではまず先遣隊を派遣し地形や敵の状況などを偵察した上で軍を出し、夜襲や昼に攻撃を行うということを助言したとある。こうした記事から、郭務宗*帰国後も唐人の一部は天武軍に同行したようである。

 もうひとつは、九州王朝が与えたというケースだ。たとえば、壬申の乱の功臣に大分君恵尺がいる。九州は大分の実力者と推定されるが、こうした人物が天武に従ったことを考えると、九州王朝が天武に援軍をさしだしたとも考えられよう。いずれも、当時、天武よりも上位者である。現在の所、どちらが天武に援軍や承認を給わったのか断定できないが(唐と九州王朝の両者が天武を支持したという可能性もあろう)、天武より上位者が九州の地に存在したことは間違いないし、太安萬侶はその事実を知っていたのである。


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(720) 『「潜龍随時・游雷應期」:「濳龍體元・洊雷應期」どう違うのかな?』 2011年8月10日(水)


【(2)お火舷祭と火事祭り②(ウ)鹿島神社の秋祭り】には、

  【鹿島神社しめ石(写真4-1-20参照)「潜龍随時・游雷應期」】



 【(2)お火舷祭と火事祭り②(ウ)鹿島神社の秋祭り】
には、


「潜龍随時・游雷應期」:神社のしめ石(写真4-1-20参照)に刻まれた文句は、漁民の守り神・農民の守り神を示しているのです。向かって右に、『潜龍随時(潜龍(せいりゅう)時に随(したが)い)』、左に、『游雷應期(游雷期(ゆうらいき)に應ず)』とあります。


■ところで、「潜龍随時・游雷應期」:「濳龍體元・洊雷應期」どう違うのかな?

漢籍に疎い(うとい)吾が輩としては、辛い試練かもしれん知れないな。


古田史学会報no103【「筑紫なる飛鳥宮」を探る:正木裕氏投稿】
で正木裕氏は、

三、『古事記』から探る天武の即位宮・項の、

2、『古事記』序文の「壬申の乱」・項の、

①飛鳥の清原の大宮に大八洲御しめしし天皇の御世に曁(いた)りて、潜龍(せんりゅう=太子、ここでは天武)元を體し、洊雷(せんらい同)期に應じき。

とあって、【『潜龍(せんりゅう』 ⇒ 「太子」 】と解されている。


いっぽう、
【乾為天(けんいてん)】:『潜龍勿用(せんりゅうもちうるなかれ)』《魚拓》
の占い?頁では、

「潜龍」とは田んぼの中に潜む龍の姿。未熟で若い潜龍の時、力不足。時期整わず能力発揮できない時。会社でいえば新入社員。まだ自分で思っているほど実力はありません。いい格好をしても周囲の人も認めてくれません。このような時は、逸る気持ちを抑え、隠忍し、じっと我慢して力を貯え、時期を待つ時なのです。じっと耐えながら頑張る姿はきっと、有識者の目にとまるはずですから。

とあって、【「潜龍(せんりゅう」 ⇒ 「未熟者」 】と解されている。


同じ【潜龍(せんりゅう】 でも「太子」と「未熟者」と解釈が違っているのだ。私は「未熟者」と解釈しょう。


で、「濳龍體元」とは、⇒ 「はじめに、私は「未熟者」だった。

⇒ 『倭王・薩夜麻は、血気にはやり即位もそこそこに、州柔戦へ出征し、まぬけにも・まんまと捕われたしまった。(少し飛躍しすぎかな^^)』


■「游雷應期」⇒ 「 游 」:泳ぐ、遊ぶ ⇒ 游(=じっと我慢して力を貯え)、好機が来たら、雷の如く轟くぞ(暴れるぞ)。


■「洊雷應期」⇒「 洊 」:しきりに、たびたび ⇒ 私の漢籍では、なんとも落着かない…。本当に古事記・序文は「洊雷應期」と書かれているのだろうか?

 ◎鹿島神社のしめ石(写真)の「潜龍随時・游雷應期」の方が原型だと思われて仕方が無いのだが…。



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(721) 『『古事記』序文の検証の結果について (1/2)』 2011年8月11日(木)


 さて、ここで『濳龍體元 洊雷應期 聞夢歌而相纂業 投夜水而知承基 然天時未臻 蝉蛻於南山 人事共洽 虎歩於東國』について、私なりの解釈を試みてみる。


【古代史獺祭(こだいし・だっさい)】『古事記:上卷并序』
参照


『古事記:上卷并序』

<はじめ・途中まで略>

「曁飛鳥清原大宮 御大八洲天皇御世 濳龍體元 洊雷應期 聞夢歌而相纂業 投夜水而知承基 然天時未臻 蝉蛻於南山 人事共洽 虎歩於東國」 皇輿忽駕 浚渡山川 六師雷震 三軍電逝 杖矛擧威 猛士烟起 絳旗耀兵 凶徒瓦解 未移浹辰 氣自清 乃放牛息馬 悌歸於華夏 卷旌戈 詠停於都邑 歳次大梁 月踵侠鍾 清原大宮 昇即天位 道軼軒后 跨周王 握乾符而六合 得天統而包八荒 乘二氣之正 齊五行之序 設神理以奬俗 敷英風以弘國 重加智海浩瀚 潭探上古 心鏡煌 明覩先代


ここでは、やはり分かり易い
【『古事記』序文の壬申大乱:京都市 古賀達也】
を引用・抜粋します。

(訳文)
① 飛鳥の清原の大宮に大八州御しめしし天皇の御世に曁りて、濳龍元を體し、[水存]洊雷期に應じき。
② 夢の歌を開きて業を纂がむことを相せ、夜の水に投りて基を承けむことを知りたまひき。
③ 然れとども、天の時未だ臻らずして、南山に蝉蛻し、人事共給はりて、東國に虎歩したまひき。

④ 皇輿忽ち駕して、山川を浚え渡り、六師雷のごとく震ひ、三軍電のごとく逝きき。杖矛威を擧げて、猛士烟のごとく起こり、絳旗兵を耀かして、凶徒瓦のごとく解けき。
⑤ 未だ浹辰を移さずして、氣珍*自ら清まりき。乃ち、牛を放ち馬を息へ、豈*悌して華夏に歸り、旌を卷きて戈を貮*め、舞詠して都邑に停まりたまひき。
⑥ 歳大梁(酉年)に次り、月夾鍾(二月)に踵り、清原の大宮にして、昇りて天位に即きたまひき。


 なかでも、とりわけ『古事記:上卷并序』の解釈で注目されるのが下記記述である。

「曁飛鳥清原大宮 御大八洲天皇御世 濳龍體元 洊雷應期 聞夢歌而相纂業 投夜水而知承基 然天時未臻 蝉蛻於南山 人事共洽 虎歩於東國」

 飛鳥の清原(きよみはら)の大宮に大八洲(おおやしま)御(しら)しめしし天皇(すめらみこと)の御世に曁(いた)りて、濳龍(せんりょう)元を體し、洊雷(せんらい)期に應じき。 夢の歌を聞きて業を纂(つ)がんことを相(おも)い、夜の水(かわ)に投(いた)りて基(もとい)を承(う)けんことを知りたまいき。 然れども天の時未だ臻(いた)らずして南山に蝉蛻(せんぜい)し、人事共洽(そなわ)りて東國に虎歩したまいき。


①、「潜龍」とは田んぼの中に潜む龍の姿。未熟で若い潜龍の時、力不足。時期整わず能力発揮できない時。会社でいえば新入社員。まだ自分で思っているほど実力はありません。いい格好をしても周囲の人も認めてくれません。このような時は、逸る気持ちを抑え、隠忍し、じっと我慢して力を貯え、時期を待つ時なのです。じっと耐えながら頑張る姿はきっと、有識者の目にとまるはずですから。


②、「聞夢歌而相纂業」の「夢歌而」はかな文字で(むかし=昔)と、読んでみてはどうだろう?


③、「投夜水而」とは、素直に「夜の川に“どんぶり”飛び込んで」で良いだろう。


④、先に【いわゆる『南山』とは、どこか?】で調べたわけですが、私は『南山』とは、中国の
【終南山(しゅうなんざん))】
:中国、陝西(せんせい)省の西安の南東にある山。古来、詩によく詠まれた。南山。チョンナン‐シャン。のことである
と素直に考えます。


⑤、「人事共洽」は、古賀達也氏の先の
【人事、共に給わる】
が正解と考える。
では、薩夜麻(=天武)に「軍勢を与えた」上位者とはだれか?であるが、それは唐の高宗である。と考える。


⑥、「虎歩於東國」の東國とは、「海東諸国記」の東国であり、中国唐から見た東国、即ち、倭国、のちの我が日本国である


⑦、「虎歩於東國」の虎歩は、先の
【天智が近江で即位し、内外に「日本」と言う名を宣言したとなっていますが、それが認められたかどうか怪しい】
で、

 ―この中の『あるひとは、「虎に翼を着けて放した」といった。』のある人とは唐朝の軍参謀のだれかが、薩夜麻の倭国への解放・帰国を評し、『それさえも、危惧したエピソードが語られている』と思う


結論は「南山が吉野ではなく、夜水が筑後川でもない」となったが、はて・さて?


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(722) 『『古事記』序文の検証の結果について (2/2)』 2011年8月11日(木)


さて、次いで、
『未移浹辰 氣沴自清 乃放牛息馬 悌歸於華夏 卷旌貮戈 儛詠停於都邑』

について、私なりの解釈を試みてみる。


【古代史獺祭(こだいし・だっさい)】『古事記:上卷并序』
参照


『古事記:上卷并序』

<途中略>

曁飛鳥清原大宮 御大八洲天皇御世 濳龍體元 洊雷應期 聞夢歌而相纂業 投夜水而知承基 然天時未臻 蝉蛻於南山 人事共洽 虎歩於東國 皇輿忽駕 浚渡山川 六師雷震 三軍電逝 杖矛擧威 猛士烟起 絳旗耀兵 凶徒瓦解 未移浹辰 氣沴自清 乃放牛息馬 悌歸於華夏 卷旌貮戈 儛詠停於都邑 歳次大梁 月踵侠鍾 清原大宮 昇即天位 道軼軒后 跨周王 握乾符而六合 得天統而包八荒 乘二氣之正 齊五行之序 設神理以奬俗 敷英風以弘國 重加智海浩瀚 潭探上古 心鏡煌 明覩先代


ここでは、やはり分かり易い
【『古事記』序文の壬申大乱:京都市 古賀達也】
を引用・抜粋します。

(訳文)
① 飛鳥の清原の大宮に大八州御しめしし天皇の御世に曁りて、濳龍元を體し、洊雷期に應じき。
② 夢の歌を開きて業を纂がむことを相せ、夜の水に投りて基を承けむことを知りたまひき。
③ 然れとども、天の時未だ臻らずして、南山に蝉蛻し、人事共給はりて、東國に虎歩したまひき。
④ 皇輿忽ち駕して、山川を浚え渡り、六師雷のごとく震ひ、三軍電のごとく逝きき。杖矛威を擧げて、猛士烟のごとく起こり、絳旗兵を耀かして、凶徒瓦のごとく解けき。

⑤ 未だ浹辰を移さずして、氣沴自ら清まりき。乃ち、牛を放ち馬を息へ、悌して華夏に歸り、旌を卷きて戈を貮め、舞詠して都邑に停まりたまひき。

⑥ 歳大梁(酉年)に次り、月夾鍾(二月)に踵り、清原の大宮にして、昇りて天位に即きたまひき。


 次いで、『古事記:上卷并序』の解釈で注目されるのが下記記述である。

「未移浹辰 氣沴自清 乃放牛息馬 悌歸於華夏 卷旌貮戈 儛詠停於都邑」

 未だ浹辰(しょうしん)を移さずして氣沴(きれい)自ずから清し。 乃ち牛を放ち馬を息(いこ)え、悌(がいてい)して華夏に歸り、旌(はた)を卷き戈を貮(おさ)め、儛詠(ぶえい)して都邑に停まりたまいき。


⑧、【浹辰(しょうしん)】⇒〔「浹」:ひとめぐり、「辰」:子(ね)~亥(い)の12日〕⇒「12日間ひとめぐり」

⑨、【氣沴自清】⇒〔「気」:目に見えない働き、気配、雰囲気、「沴」:そこなう、わざわい、「清」:静か、平らか、穏やか〕⇒「周り災いの雰囲気が穏やかになった」

⑩、【悌歸於華夏】⇒〔「」:楽しむ、やわらぐ、(=凱)戦勝を祝う軍楽、「悌」:仲良くする、やわらぐ、「悌」:やわらぎたのしむ、「於華夏」:中国の当時は唐に〕⇒「《郭務悰・唐軍は》仲良く戦勝を祝う軍楽を楽しんで、唐へ帰えっていった」

⑪、【卷旌貮戈】⇒〔「旌」:旗、さおに飾りのついた旗〕⇒「戦旗を卷き、戈を貮(おさ)め」

⑫、【儛詠停於都邑】⇒「唐より解放・帰国の《倭王・薩夜麻は》唐高宗への戦勝報告を郭務悰らへ託して、儛詠(ぶえい)して都邑に停まりたまいき」

ここで、注意しなければならないのは、⑩、⑫の文には主語が書かれていない。私は敢えて、⑩《郭務悰・唐軍は》、⑫《倭王・薩夜麻は》とした。


※『古事記:上卷并序』は、天武天皇(=倭王・薩夜麻)の事を思ったより素直に表現しているようだ。編纂後に『日本書紀』が「倭国」「秦国」を消して、「壬申乱」が九州の史実であるにも関わらず、近畿の史実だと書き直すなんて想像すらも出来なかったはずだからだ。




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