大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 038 》
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ
白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、
日本書紀の〔 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権
2010年 4月 2日 発行
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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ https://waikoku.sakura.ne.jp/yamato.html 2:32 PM Apr 2nd webから ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(698) 『懸念は“ずべこう”の『日本書紀』が、「多治比真人嶋」の史実を、果たして正確に記述しているかなんですが』 2011年8月3日(水)
kagachi_ecm 大宰時代の丹比真人嶋は、あるいは志摩王とか呼ばれたりしてないですかね?八色の姓以前に「真人」なんですよね。 QT @tohyan ●『683年(天武12年:白鳳23年)春正月2日、筑紫太宰丹比真人嶋らが、三つ足の雀(=3種の神器) を〔九州王朝からプロト大和王朝へ〕貢上した。』
多治比真人嶋が志摩王とか呼ばれたか?はともかく『日本列島史抹殺の謎:佐治芳彦氏・吾郷清彦氏・鹿島昇氏共著』p241【多治比氏の失脚】で佐治芳彦氏は多治比一族はタジヒつまり蝮一族・サンカの祖先らしい。RT @kagachi_ecm 大宰時代の丹比真人嶋は、あるいは志摩王とか呼ばれたりしてないですかね?八色の姓以前に「真人」なんですよね。
丹比真人嶋が、志摩王と呼ばれたか、「真人」だったかについて、私は詳しくありません。
強いて言えば、私の『大和朝廷「日本国」出生秘話』の末尾項の
○『678年(天武7年:白鳳18年)12月この月筑紫〔福岡県〕の国で、〔筑紫〕大地震。』
懸念は“ずべこう”の『日本書紀』が、「多治比真人嶋」の史実を、果たして正確に記述しているかなんですが…。
【古代に真実を求めて(古田史学論集 第十二集)◎Ⅱ研究論文:藤原京と「大化改新」…正木裕著】の目次を、以下抜粋・転載します。
藤原京と「大化改新」…正木裕著
●第二章 「皇極紀」における「造営」記事
●第三章 何故「大化」は五〇年ずらされたのか
皇極元年は九州年号では命長三年にあたる。五〇年後は同朱鳥七年(持統六年)で、一見「年号」に対応性が無いようだが、持統天皇の治世で、「称制」は元年(687)~三年(689)だから、即位元年は持統四年(690)となる。従って、
以下、次表のように、
しかも「書紀年号六年・九州年号大化」の
また、文武元年(697)も九州年号常色元年(647)と、元年同士が対応する。
従って「大化」年号の五〇年ずれも、三四年遡上と同様に、九州年号に基づく盗用手法を示すものだ。この場合は近畿天皇家の持統即位年号から「九州年号・命長」へ、文武年号から「同・常色」への入れ替えが行われ、その結果「九州年号・大化元年」が「書紀大化元年」へ五〇年ずれたのだ。
Ⅳ 五〇年の記事移動が示すもの
九州年号同士の入れ替えで、九州王朝の過去の事績を白村江後に移動させた「三四年遡上」と異なり、
『「大化の五〇年ずれ」は持統・文武の「天皇の年」を九州年号と対応させ過去に移動させている事からも、移された「改新」の事績は、「近畿天皇家の事績」であり、出所は近畿天皇家の史書(資料)である可能性が大だ。』
第一章で述べたように、改新詔に続日本紀の文武即位の宣命等に見られる「宣命体」があることもその証だろう。
これは持統即位から文武即位の間に、九州王朝から近畿天皇家へ権力の移動があった証左となるのではないか。
■
以上で、正木裕氏は
(699) 『果たしてそうでしょうか?「近畿天皇家の事績」と飽く迄「見せかけた」だけではないでしょうか』 2011年8月3日(水)
Ⅳ 五〇年の記事移動が示すもの
九州年号同士の入れ替えで、九州王朝の過去の事績を白村江後に移動させた「三四年遡上」と異なり、
『「大化の五〇年ずれ」は持統・文武の「天皇の年」を九州年号と対応させ過去に移動させている事からも、移された「改新」の事績は、「近畿天皇家の事績」であり、出所は近畿天皇家の史書(資料)である可能性が大だ。』
第一章で述べたように、改新詔に続日本紀の文武即位の宣命等に見られる「宣命体」があることもその証だろう。
これは持統即位から文武即位の間に、九州王朝から近畿天皇家へ権力の移動があった証左となるのではないか。
■
以上で、正木裕氏は
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《参照》
なにが言いたいかですが、
本来は、高市天皇が新都・藤原京へ遷都、翌春「大化」改元し、「よっしゃ俺は頑張るぞー!」ってんで、「東国国司招集の詔」・「プロト大化改新詔」・「皇太子使使奏請曰」とやりすぎた為に、『後皇子尊(=高市天皇)が薨じた』と暗殺されたわけです。
それを新羅「毘曇の乱」をお手本に、先に「乙巳の変」をでっち上げ、高市天皇を殺ろした後に、「大化改新」があったことにしています。
●694年12月6日、高市天皇は「藤原宮の完成」と同時に遷都し、
《参照》
(700) 『「多治比真人嶋」の箇所について、『書紀』が小細工を弄していないかなのですが…』 2011年8月3日(水)
私が、私の『大和朝廷「日本国」出生秘話』の末尾項の
「うそっぱち」ばかりを並べてる『日本書紀』のまさか・まさか、「罠に嵌まってる:わなにはまってる」のじゃないかと、じつは心配しています。
○『678年(天武7年:白鳳18年)12月この月筑紫〔福岡県〕の国で、〔筑紫〕大地震。』
例えば上記の「多治比真人嶋」の箇所について、『書紀』が小細工を弄していないかなのですが…。
【古代に真実を求めて(古田史学論集 第十三集)】
『日本書紀』の「三四年遡上」と灘波遷都…正木裕著
●一 『日本書紀』「天武・持統紀」の「三四年遡上」
●二 灘波遷都と『書紀』の「三四年遡上」
●三 灘波遷都以前の『宮』について
【L】大化三年(647)是の歳に、小郡を壊ちて宮造る。天皇小郡宮に処して、礼法を定めたまふ。その制に曰く、「凡そ位有(たも)ちあらむ者は、要ず寅の時に、南門の外に、左右羅列なりて、日の初めて出ずるときを候ひて、庭に就きて再拝みて、乃ち庁に侍れ。若し晩く参む者は、入りて侍べること得ざれ。午の時に到るに臨みて、鐘を聴きて罷れ。其の鐘撃かむ吏は、赤の巾を前に垂れよ。其の鐘の台は中庭に起てよ」といふ。
天武十年(681)で不明とされた「新宮」も、大化三年(647)なら「小郡を壊ちて宮造る」と記すところから、「小郡の新宮(小郡宮)」を示す事となる。
5 天武十一年の「鐘」献上記事
しかも翌天武十一年の『書紀』中には、「鐘」が筑紫太宰から献上された記事がある。
【M】天武十一年(682)四月癸未(二十一日)に、筑紫太宰丹比真人嶋等、大きなる鐘を貢れり。
これは三四年遡上すれば大化四年(648)。「大化三年(647)是歳」記事中の「鐘の台は中庭に起てよ」という詔に、内容・時期ともぴたりと対応する。
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※⇒上記を正しいとすれば、「筑紫太宰丹比真人嶋」なる人物は大化四年(648)には、成人し執務していたということになる。
一方、『続日本紀』には、『701年〔大宝元年:文武5年:大化7年〕7月21日、この日、左大臣・正二位の多治比真人嶋が薨じた。とある。
そうなのだ、この人物「多治比真人嶋」は『日本書紀』・『続日本紀』のいずれにも跨って頻出するのだ。いったい、何歳で亡くなったのだろう、はて・さて…
以上、『書紀』「天武紀」に記す二つの「新宮」記事は、いずれも三四年遡上する。
6 「新宮」の正体と「筑紫小郡宮」
●四 灘波遷都の原因・背景
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では、『書紀』の次は「三四年遡上」説ではどうか?
●683年(天武12年:白鳳23年)春正月2日、百寮(官)が朝廷〔天皇〕を拝した。
(701) 『草原から来た天皇2(改訂版)<天武の死と大津即位>』 2011年8月4日(木)
とんでも説のこれ面白くない?
天武の死に関する記述は、政治的なできごとを地震などの自然現象で暗示する讖緯(しんい)的表現や、五行思想の知識がなければ理解できない暗号文のオンパレードである。
五行思想とは、中国の戦国時代に生まれ、各王朝の変遷を五行の推移に見立てたものである。
(702) 『多治比一族はタジヒつまり蝮一族・サンカの祖先らしい』 2011年8月4日(木)
※今日(8月4日)は、 twitter が全然使えなかった。
そうか、新バージョンへ切り替えたんですね^^
『日本列島史抹殺の謎:佐治芳彦氏・吾郷清彦氏・鹿島昇氏共著』p240
【多治比氏の失脚】
佐治: 次に律令公布の式典に参列した群臣のトップに左大臣多治比嶋があったという件です。
鹿島: 多治比真人は宣化天皇すなわち大伴歌の子孫になっています。この一族は白村江で破れた天の王朝の後継者だったとおもいます。
佐治: 歴代遣唐使の名を見ると、初代の犬上御田鍬以来圧倒的に非藤原系の豪族が多いですね。特命全権大使が天の王朝系の人々だったということは注目されてよいと思います。そして、彼らはいずれも光仁、桓武期に入って他の古代豪族大伴氏などと共に失脚している。彼らの利用価値を認めていた勢力、つまり唐勢力の低下と相関しているのかもしれません。
鹿島: 多治比氏と大伴氏は安羅国の王族です。安羅系は新羅体制に従属して新羅から来た金厳たちを支持したが、百済王氏と秦氏・藤原氏のクーデターで破れたというのが、蝦夷征伐の実態です。判りやすくいえば、蝦夷とは関東を根拠にしていた新羅軍であります。
吾郷: 桓武以前の段階で多治比氏が対外交渉では藤原氏より優位に立っていたという事実こそ、奈良時代の謎のヴェールを剥ぐ手掛りの一つになると思います。
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新羅「毘曇の乱」、更に、それをコピーしたであろう「大化改新」から分かることは、
●毘曇 ⇒蘇我入鹿 ⇒倭王:高市天皇、
●金春秋・豊璋 ⇒中大兄皇子・天智 ⇒軽皇太子(=文武天皇)、
●金庾信・郭務悰 ⇒中臣鎌足・藤原鎌足 ⇒藤原不比等
●多治比真人は宣化天皇すなわち大伴歌の子孫
●多治比一族はタジヒつまり蝮一族、より具体的にいえば山窩(サンカ)の祖先です。そして祖神はニギハヤヒ系(火明の命)ですから蘇我氏ともつながりますね
●p314 第26代継体天皇(大伴談:安羅王)⇒第27代安閑天皇(大伴金村:安羅王・安)⇒第28代宣化天皇(大伴歌:安羅王)
《参照》
佐治:
吾郷:
鹿島:
(703) 『書紀大化五年:蘇我倉山田石川麻呂の謀反は、逆で大宝三年(703)の九州王朝系の重臣を粛清した出来事だ』 2011年8月5日(金)
【古代に真実を求めて(古田史学論集 第十二集)】
【「藤原宮」と大化の改新について I(移された藤原宮記事)…正木裕著】
●Ⅰ・はじめに
●Ⅱ・大化二年に「条坊」はなかった
●Ⅲ・「宮の東門」は藤原宮から
●Ⅳ・「詔の文体」も藤原宮期
●Ⅴ・「天皇朱雀門行幸」の登場人物も移されていた
■『書記』大化五年(六四九)三月の乙巳の朔辛酉(十七日)に、阿倍大臣薨せぬ。天皇、朱雀門に幸して、挙哀たまひて慟ひたまふ。
この朱雀門は藤原宮からなので、書記の『阿倍大臣』とは、「右大臣従二位阿倍朝臣御主人みうし」である。逝去は大化五年三月辛酉で同じ干支。同年四月に辛酉は無く、大宝三年(七〇三)閏四月「辛酉」朔の記事を、干支付きで大化五年に移せば三月辛酉(十七日)となる。
なお大化五年は九州年号「常色三年」にあたるので、より正確には「大宝三年記事を九州年号常色三年に移した」となろう。
書紀は藤原宮のみならず登場人物まで移し替えたのではないかと考えられる。
●Ⅵ・大化末年の粛清
書紀ではその直後大化五年三月、もう一人の大臣、蘇我倉山田石川麻呂が謀反の疑いで、一族はじめ田口臣筑紫ら家臣とともに粛清される。
一方「九州年号大化」は大宝三年(703)で終わり(大化九年)、704年から「大長」年号が始まる。
書紀大化五年に記す蘇我倉山田石川麻呂の謀反が言われなきもの、言いがかりであったことは書紀も認めている。これも、本来は大宝三年(703)の九州王朝系の重臣が粛清された出来事だったのではないか。
その根拠は「蘇我倉山田石川麻呂の謀反」記事中、律令を前提とした記事が随所に見られる事だ。
①律令制では、衛門府に所属して刑の執行にあたる伴部を物部という。
②律の五刑の一つである死刑には、絞・斬の二種がある。
③律では謀反の者は斬、その親子・家人・資財・田宅などは没官とした。
④「日向臣を筑紫大宰帥に拝す」とあるが、大宝令の施行とともに(大宰・惣領)は廃止され、大宰帥のみが残された。
これら記事は大宝律令を前提としたもので「朱雀門」同様、藤原宮時代の事となろう。
大宰府回帰を記念して、年号こそ大長と改めたが、それは九州王朝の最終章であったのかもしれない。
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●『書紀』696年〔
この記事以後に『書紀』で、九州王朝「倭国」のその後をうかがい知ることは、てっきり出来ないものと思っていた。
然し、上記【「藤原宮」と大化の改新について I(移された藤原宮記事)…正木裕著】を詳しく読むと、なんと『続日本紀』に書かれている「大宝三年(703)の九州王朝系重臣の粛清事件」が「九州年号常色三年(649年:大化五年)」に移植されている、と書かれているではないか。
すなわち、『書紀』大化五年:「蘇我倉山田石川麻呂の謀反は謀反ではなく」、逆で大宝三年(703)の「九州王朝系の重臣を粛清した出来事」だったのだ。
要するに、粛清の口実は、何でも良かったということか。
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《参照》
(704) 『大化二年(646)に『建郡の詔勅』を移したために、以後の書紀の記述で、評を郡に書き換える必要が生じた Ⅰ』 2011年8月6日(土)
【古代に真実を求めて(古田史学論集 第十二集)◎Ⅱ研究論文:藤原宮と「大化の改新」…正木裕著】と同じ内容のものが
●Ⅰ・はじめに
古賀達也氏は四月、五月の古田史学会関西例会において、
【大化二年(646)正月条の「改新の詔」は、持統天皇の九州年号大化二年(696)に発した「建郡」の詔勅が、書紀の大化二年(646)に移されたもの】であり、また同記事中の
【「凡そ京には坊毎に長一人を置け」以下の条坊制の創設記事は、六九四年十二月に遷居された「藤原宮(京)」についての記事だ】とされた。
本稿では大化期の書紀記事中の種々の「宮」に関する記事が、通説のいう子代離宮等の「難波の仮宮」ではなく、藤原宮と考えられる事、またこの【「記事移動」は登場人物にも及んでいる】事を示す。
●Ⅱ・大化二年に「条坊」はなかった
先ず古賀氏が指摘された、藤原京を示す条坊制の創設記事は次の通りだ。
A■大化二年(646)春正月甲子朔(略)初めて京師を脩め(略)凡そ京には毎坊(まちごと)に長一人を置け。四坊に令(うながし)一人を置け。戸口を按(かむが)へ検め、姦*しく非しきを督し察することを掌れ。(略)凡そ郡は四十里を以て大郡とせよ。三十里より以下、四里より以上を中郡とし、三里を小郡とせよ。
この条は、前年(大化元年)十二月の「難波長柄豊崎宮遷居」記事の直後にあるところから、一見前期難波宮の記事であるかのように見える。
しかし、その文章は、後掲の通り養老戸令、置坊長条とほぼ同じであるから、養老律令(757年制定)の基本とされる大宝律令(701年制定)の知識が無くては書けない事が広く認められている。 注(1)
何より「条坊制」は藤原京から(除大宰府)であるので、条坊制についての記事を尊重すれば、A記事は藤原京遷都の694年以降の事実である。
また「郡」は藤原宮木簡により701年以前は全て「評」であることが確認されている事から、「浄御原令または大宝令により書き変えられた(岩波補注)」との説が有力だが、それでは「郡制は何時施行されたのか、何故その事が書かれていないのか、また何故わざわざ書き換えたのか」との謎は残ったままだった。
すなわち、「大化二年(646)正月のA記事中の『条坊制』施行は藤原京しかありえず、よって『書紀大化二年』ではなく『九州年号大化二年(696)』の記事と推測される。また『郡とせよ』とあるのは同時期の近畿天皇家(持統か)により発せられた『建郡の詔勅』となる。つまり、『書き換えられた』のではなく、そもそも『郡』と書かれていたものが、そっくり書紀大化二年に移されていた」ということだ。
大化二年に『建郡の詔勅』を移したために、以後の書紀の記述で、評を郡に書き換える必要が生じたのは当然の事となろう。
●Ⅲ・「宮の東門」は藤原宮から
●Ⅳ・「詔の文体」も藤原宮期
●Ⅴ・「天皇朱雀門行幸」の登場人物も移されていた
●Ⅵ・大化末年の粛清
…※…
《所感》
【『書紀』大化二年(646)正月条の「改新の詔」は、九州年号大化二年(696)に発した「建郡」の詔勅が、書紀の大化二年(646)にそっくり移されている】事を、みんなに早く知って欲しい。
…※…
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《参照》
(705) 『『書紀』編纂者達は、「宮の東の門」から、まさか、「けちが付く」とは思わなかっただろうて』 2011年8月6日(土)
【古代に真実を求めて(古田史学論集 第十二集)◎Ⅱ研究論文:藤原宮と「大化の改新」…正木裕著】と同じ内容のものが
●Ⅰ・はじめに
●Ⅱ・大化二年に「条坊」はなかった
●Ⅲ・「宮の東門」は藤原宮から
この記事が難波宮でない事について述べる。それは大化二年二月の天皇の「東門」行幸記事だ。
■大化二年(646)二月甲午朔、戊申(十五日)天皇、宮の東の門に幸す。蘇我の右大臣をして詔せしめて曰く「明神御宇日本根子天皇、集侍る卿等・臣・連・国造・伴造及び諸の百姓に詔はく(以下略・鐘匱の制)。
「宮の東の門」について、岩波注釈は「子代離宮」のこととしている。注(3)
しかし、考古学的には次の様に述べられている。
「平城宮東区朝堂院以前の時代には、東門が存在するかは不明でした。今回藤原宮朝堂院で確認したことにより、藤原宮以後、平城宮東区朝堂院(上層)以前に造営された後期難波宮(なにわのみや)朝堂院、平城宮東区朝堂院下層にも、東西の門が存在していた可能性を指摘できます。
一方、藤原宮造営以前の宮殿として前期難波宮がありますが、調査の結果からは門が存在する可能性は低く、現状では藤原宮朝堂院東門は朝堂院東西門の最も古い例といえます。」注(4)
「宮の東門」は前期難波宮にすら無いとされている。いわんや「離宮」にあるとするのは極めて無理があろう。発掘調査では藤原宮の十二の朝堂の外側に、北の大極殿院から伸びる回廊が巡らされていた。東門は北から二番目の朝堂院東第二堂南東に設けられており、天皇は回廊を渡り東門に幸したと思われる。
東第一堂には大臣が椅子に着座。最大の朝堂である第二堂では大臣に次ぐ納言・参事等の官僚が床に座り執務したと言われる。天皇の命で右大臣が東門付近の第二堂に参集した官僚に詔を発したとする書記の文言と藤原宮の遺跡状況は符号する。この記述は堂々たる朝堂院を備えた藤原宮での出来事として相応しく、「離宮」での事とは到底考えられないのだ。
ちなみに平安時代の資料によれば東門は「宣政門 せんせいほん」と呼ばれていた。政の詔を宣する場所であった事を示す名称だろう。
●Ⅳ・「詔の文体」も藤原宮期
●Ⅴ・「天皇朱雀門行幸」の登場人物も移されていた
●Ⅵ・大化末年の粛清
…※…
《所感》
『書紀』編纂者達は、「宮の東の門」から、まさか、「けちが付く」とは思わなかっただろうて。
①現状では藤原宮朝堂院東門は朝堂院東西門の最も古い例である。
②藤原宮の十二の朝堂の外側に、北の大極殿院から伸びる回廊が巡らされていた。東門は北から二番目の朝堂院東第二堂南東に設けられていた。
③東門は「宣政門 せんせいほん」と呼ばれていた。政の詔を宣する場所であった。
…※…
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《参照》
(706) 『改新の詔は歴代詔勅が「純粋の漢文」なのに『孝徳紀』だけが、和文脈を残す和化漢文「宣命大書体」だった』 2011年8月6日(土)
【古代に真実を求めて(古田史学論集 第十二集)◎Ⅱ研究論文:藤原宮と「大化の改新」…正木裕著】と同じ内容のものが
●Ⅰ・はじめに
●Ⅱ・大化二年に「条坊」はなかった
●Ⅲ・「宮の東門」は藤原宮から
●Ⅳ・「詔の文体」も藤原宮期
もう一つ。文体の問題がある。
この詔を始めとする改新の詔は「『皇極紀』までの歴代の詔勅が「純粋の漢文」なのに『孝徳紀』だけが、『続紀』宣命に繋がるような、和文脈を残す破格の和化漢文である 注(5)」とされる。
そして「金石文や木簡、また『持統紀』三年五月詔の惜辞、それから「宣命大書体」の出現や「人麻呂略体歌」の筆録年代についての研究からも、かかる表記の一般化は七世紀の後半、その中でも強いて言えば半ば近く。この判定はほぼ動かないのではあるまいか。(同)」とされ、岩波補注も「果たして、当時のものか、令による表現ではなかったのかという疑問が依然として濃厚である」と記す。
以上、改新の詔勅は、その文体から、六四五年当時としては不自然である一方、七世紀末の九州年号大化期(六九五以降)、すなわち藤原宮完成(六九四末)以後の詔勅であれば無理なく理解できるのだ。
従って、この詔勅は考古学上も、国語学上も藤原宮で発せられたもので、それが書紀大化年間(六四五~六四九)に移されたものだとと考えられる。
●Ⅴ・「天皇朱雀門行幸」の登場人物も移されていた
●Ⅵ・大化末年の粛清
…※…
《所感》
①ウィキペディアによると、
宣命・祝詞[1]などの文体を宣命体といい、その表記法である宣命書とは、体言・用言の語幹を大きな字で書き、助詞・助動詞・用言の活用語尾などは、一字一音の万葉仮名で小さく右に寄せて書く方法である。「を」には「乎」、「の」には「乃」、「は」には「波」などを一定して使っている。ただし、宣命体には2種類ある。助詞なども含めてすべて大字で書かれる宣命大書体と、上述のように助詞などを小字で書き分ける宣命小書体である。
②又、
古くから,大王・天皇の命令は「御言宣り(詔)」と言われるように口頭で伝えられていた。その命令を,「宣命体」と呼ばれる方法で書き記したものを「宣命」と呼ぶ。
文献に見える「宣命体」は,自立語や活用語(動詞・形容詞など)の語幹(活用しない部分)を大字で,付属語(助詞・助動詞など)や活用語尾を小字で表記し,日本語の語順通りに書記する方法(「宣命小書体」と呼ぶ)とされていた。
しかし,藤原宮跡から出土した木簡は,文献に見える最古の宣命である『続日本紀』に収められた文武天皇即位の詔(697年)とほぼ同時代のものでありながら,すべて同じ大きさの文字で記されていた(「宣命大書体」と呼ぶ)のである。
<途中略>
しかし,それらの文献は後の時代に書写されたものが多く,果たして奈良時代やそれ以前の書記方法を,本当に正しく伝えているのか疑問視する声もあった。
近年相次ぐ,文字を記した木簡の出土は,日本語の書記方法に対する定説を崩し始めたところである。
…※…
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《参照》
(707) 『推薦 《藤原京の生活2:木簡》 「評」は郡の前身で、七〇一年以後は「郡」と書くようになる』 2011年8月7日(日)
@manreki 家持くん(高岡市万葉歴史館)
当初、高岡市がなんで?「藤原京」の紹介をしてるんだろう…と訝(いぶか)ったが、大伴家持を突き進めて行くと「藤原京」までやってきてしまったとか。
九州王朝「倭国」の長門以東「天下立評」の前進基地・複都「前期灘波宮:652年」。時間を置いて「筑紫大地震:678年」で壊滅的被災后、大宰府から「前期灘波宮」への遷都:684年。消失で飛鳥浄御原宮(借り宮)への遷都、藤原京の完成・遷都:694年、大化改新:696年、乙巳変(高市天皇暗殺)を理解するうえで、藤原宮出土の「木簡」は非常に興味がある。ここは、それを要領良く紹介されていますね。以下は抜粋・転載ですので、悪しからず。
■ 木簡
木札に文字などを記したものを木簡(もっかん)と呼ぶ。
古く文字は紙ではなく木に記されたが,現在でも私たちの身の回りには,入り口の表札や経木・卒塔婆など,木に文字を書くことは行われている。
古代において木に文字を記すことは,東西を問わずに行われたことで,紀元前6世紀末に始まるローマ帝国時代の遺物にも,文字を記した木簡があるという。
東洋でもっとも古い木簡は,中国で見つかったものだが(紀元前4世紀から紀元3世紀ころか),日本で発見されている古いものは,紀元7世紀後半から8世紀のものである。また,中国では竹簡(ちくかん)と呼ばれる竹に記したものが見つかっているが,日本では見つかっていない。
日本全国から,現在までに約17万点にものぼる木簡が発見されていて,藤原宮跡からは約6700点の木簡が出土している。これらの木簡は,当然藤原京時代のものが多いが,それ以外に遷都以前の史料の乏しい飛鳥時代のものも含まれている。
史料そのものが現存しない律令制確立期の浄御原令と大宝令の条文や,清書されてしまった『日本書紀』や『続日本紀』の直接の資料が発見される可能性もあることは特に注目される。
すべての木簡が歴史的に貴重な情報を伝えてくれるわけではないが,記録に残らなかった当時の情勢や生活を知るために大変重要な資料であることに間違いはない。
● 己亥年十月上挾国阿波評松里
(藤原宮跡北面外濠出土・奈良県橿原考古学研究所附属博物館蔵)
己亥年は六九九年(文武三)。
● 受被給薬車前子一升 西辛一両 久参四両 右三種
(藤原宮跡出土・奈良県橿原考古学研究所附属博物館蔵)
受け給はる薬〈車前子一升 西辛一両 久参四両 右三種〉、
「多治麻内親王」は天武皇女である但馬皇女。和銅元年六月三品で薨じている。
■ 紀年木簡
年時の記された木簡を「紀年木簡」と呼ぶ。
● 〈加尓評久々利五十戸
(奈良県飛鳥池遺跡出土)
藤原京以前の飛鳥浄御原宮の時代の木簡である。
● 〈若佐國小丹生評
(藤原宮跡出土)
荷札木簡。庚子(こうし・かのえね)年は七〇〇年(文武四)。
翌七〇一年以後は「大宝」という年号を用いるようになるが、その前年まで干支を用いていたことが判明する。
● 大寶三年十一月十二日御野国楡皮十斤
(藤原宮跡出土)
大宝三年は七〇三年。年月日を文の冒頭に書く最後の例である。以後は年月日を末尾に書くようになる。
…あしひきの この片山の もむ楡を 五百枝剥ぎ垂れ 天照るや 日の異に干し さひづるや 唐臼に舂き 庭に立つ 手臼に舂き…(巻十六・三八八六)
■ 呪符木簡
「急々如律令」の呪句や、道教的信仰に基づく符淨(日・鬼の文字や星辰などを組み合わせた呪文)を記した木簡を「呪符木簡」と呼びます。その多くは中世のものですが,7世紀前半~後半のものが出土し始めています。
●【表】
年齢三十五歳の人の、その年の禁忌の八卦占いの結果を書いたもの。平安時代初頭に成立した『日本霊異記』には平城京の率川神社の前に相八卦占いがいたことが記されている(中巻二十四)が、藤原京の時代から占い師がいたのである。
●【裏】
(藤原京右京九条四坊出土・橿原市教育委員会蔵・複製)
この人の宮仕えの良日は□月十一日が「吉」だという。
「十一日庚寅木開」は、七〇五年(慶雲二)三月十一日庚寅と推定されている。「卯辰間」は午前六時から午前九時の間。
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●【表】
(藤原京右京九条四坊出土・橿原市教育委員会蔵・複製)
四方の神である「大神龍王」は、中世の呪符木簡では知られていたが、この木簡によって藤原京の時代から信仰があったことが判明した。
●【裏】
(藤原京右京九条四坊出土・橿原市教育委員会蔵・複製)
裏側には五行思想にもとづいた五方の神と絵が描かれている。足にひもが結ばれていると見ると申年生まれ二十九歳の色黒の婢の麻佐女ともう一人の婢はいけにえにされたと考えることもできる。この絵で身代わりにしたという説もある。
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※ また、以下では「藤原京の生活1」・「藤原京の市」が紹介されていますのでよろしく。
◆藤原京─新益京─
◆藤原宮の瓦(軒丸瓦・軒平瓦)
◆東市と西市
(708) 『「天武11年4月21日筑紫太宰丹比真人嶋らが大きな鐘を貢上した」を三四年遡上の時、「嶋」では若すぎないか』 2011年8月7日(日)
先に、『日本書紀』が、例えば下記の
●『682年(天武11年:白鳳22年)4月21日、筑紫太宰丹比真人嶋らが、大きな鐘を貢〔上〕した。』
ここで、正木裕氏の意見を聞いてみましょう。
【古代に真実を求めて(古田史学論集 第十三集)】
『日本書紀』の「三四年遡上」と灘波遷都…正木裕著
●三 灘波遷都以前の『宮』について
4 大化三年の小郡宮造営記事
【L】大化三年(647)是の歳に、小郡を壊ちて宮造る。天皇小郡宮に処して、礼法を定めたまふ。その制に曰く、「凡そ位有(たも)ちあらむ者は、要ず寅の時に、南門の外に、左右羅列なりて、日の初めて出ずるときを候ひて、庭に就きて再拝みて、乃ち庁に侍れ。若し晩く参む者は、入りて侍べること得ざれ。午の時に到るに臨みて、鐘を聴きて罷れ。其の鐘撃かむ吏は、赤の巾を前に垂れよ。其の鐘の台は中庭に起てよ」といふ。
天武十年(681)で不明とされた「新宮」も、大化三年(647)なら「小郡を壊ちて宮造る」と記すところから、「小郡の新宮(小郡宮)」を示す事となる。
5 天武十一年の「鐘」献上記事
しかも翌天武十一年の『書紀』中には、「鐘」が筑紫太宰から献上された記事がある。
【M】天武十一年(682)四月癸未(二十一日)に、筑紫太宰丹比真人嶋等、大きなる鐘を貢れり。
■……
※⇒上記を正しいとすれば、「筑紫太宰丹比真人嶋」なる人物は大化四年(648)には、成人し執務していたということになる。
■……
「天武11年4月21日筑紫太宰丹比真人嶋らが大きな鐘を貢上した」を三四年遡上の時、「嶋」同一人とすれば、若すぎないか?言い換えれば、そんな大役を、若造のくせにですよ、まかせられたのだろうか?という疑問です。
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今気付いたことだが、『古田史学会報no103(2011年4月5日)』の
(註9)「筑紫太宰丹比真人嶋」とあるが、「丹比 嶋(志摩・志麻)〔624~701〕」を指すなら大化期では若年に過ぎる。
『書紀』で丹比氏が真人を授けられたのは天武一三年。岩波注は「真人は追記か」とするが、父「多治比古王(丹比公麻呂)」の潤色か。
丹比公麻呂は「摂津職」に任じられているが、古賀氏は、「『日本後紀』によれば摂津職は666年以前から存在する九州王朝の職と考えられ、副都灘波宮が存する摂津を所掌した」とする。
( 「九州王朝の白鳳六年『格』古賀事務局長の洛中洛外日記第171話2008年4月」 よる )
と注記されている。
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若し、父「摂津職」「丹比公麻呂」の「鐘の貢上」行為を、「筑紫太宰丹比真人嶋」の行為にしたのならば、何故かということになるが、
思うに、父「摂津職」「丹比公麻呂」の行為大化四年(648)を、三四年遡上して、天武十一年(682)をしたのち、前後の筑紫太宰丹比真人嶋」の記事との整合性が無いことに気付いたが為に、『書紀』編者が添削修正したということになろうか。
kagachi_ecm 九州の鋳造技術の東漸は観世音寺鐘と妙心寺鐘が天武~持統朝に考えられ嶋の時代です。多治比氏の本貫が河内鋳物師の里であることも関連が?
とありますが…、
【大化三年(647)なら「小郡を壊ちて宮造る」と記すところから、「小郡の新宮(小郡宮)」を示す】という結論は、当然九州の福岡県小郡市(井上)の小郡宮、強いて言えば「筑紫・浄御原宮」なわけで、その時点での「多治比氏の本貫が河内鋳物師の里である」可能性は薄いのではないか。
(710) 『「小郡の新宮」結論は、当然九州の福岡県小郡市(井上)の小郡宮、強いて言えば「筑紫・浄御原宮」であろう』 2011年8月8日(月)
kagachi_ecm 大宰時代の丹比真人嶋は、あるいは志摩王とか呼ばれたりしてないですかね?八色の姓以前に「真人」なんですよね。 QT @tohyan ●『683年(天武12年:白鳳23年)春正月2日、筑紫太宰丹比真人嶋らが、三つ足の雀(=3種の神器) を〔九州王朝からプロト大和王朝へ〕貢上した。』
tohyan 多治比真人嶋が志摩王とか呼ばれたか?はともかく「日本列島史抹殺の謎」p241で佐治芳彦氏は多治比一族はタジヒつまり蝮一族・サンカの祖先らしい。RT @kagachi_ecm 大宰時代の丹比真人嶋は、あるいは志摩王とか呼ばれたりしてないですかね?八色の姓以前に「真人」なんですよね。
kagachi_ecm すいません「タジヒつまり蝮一族・サンカ」が不勉強で解りません、できれば、ご教示ください<(_ _)> QT @tohyan 多治比真人嶋が志摩王とか呼ばれたか?はともかく「日本列島史抹殺の謎」p241で佐治芳彦氏は多治比一族はタジヒつまり蝮一族・サンカの祖先らしい。
tohyan タジヒつまり蝮(まむし)一族・サンカです。大名の前に齋藤道三は「まむし」と呼ばれ蝮を獲って生業にしてた。鹿島昇氏は、確かパンジャブから西に向ったのがジプシーで、東に向ったのがサンカだと言っています。RT @kagachi_ecm 「タジヒつまり蝮一族・サンカ」が不勉強で解りません
kagachi_ecm 宣化の子孫では?精神面がサンカという意味ですか? RT @tohyan: タジヒつまり蝮(まむし)一族・サンカです。大名の前に齋藤道三は「まむし」と呼ばれ蝮を獲って生業にしてた。鹿島昇氏は、確かパンジャブから西に向ったのがジプシーで、東に向ったのがサンカだと言っています。
tohyan 『漂泊の民の山窩の謎:佐治芳彦著』を読まれると良いかと^^私のブログ の【懸念は“ずべこう”の『日本書紀』が、「多治比真人嶋」の史実を、果たして正確に記述しているかなんですが】 RT @kagachi_ecm
kagachi_ecm 早速のお返事ありがとうございます。多治比嶋が志摩王だとしても九州にいたからと言って九州王朝とは限らないんですね。百済の滅亡や新羅の枝族?天の王朝とはどこのことですか?多治比嶋の年齢は杖をもらったのを基準にするらしいですよ。
tohyan 天の王朝とはどこのことですか⇒うん、この場合は九州王朝でしょう。私の説だと大和も分家ですから同じ天の王朝です。いえね、若造のくせにですよ、大化四年(648)丹比真人嶋等、大きなる鐘を貢れり。RT @kagachi_ecm 天の王朝とはどこのことですか?多治比嶋の年齢は杖を準にする
kagachi_ecm 多治比王の存在を考えてみては?九州の鋳造技術の東漸は観世音寺鐘と妙心寺鐘が天武~持統朝に考えられ嶋の時代です。多治比氏の本貫が河内鋳物師の里であることも関連が? RT @tohyan いえね、若造のくせにですよ、大化四年(648)丹比真人嶋等、大きなる鐘を貢れり。
tohyan なるほど、でも今そんなことはどうでも良いのです。いつ、九州王朝「倭国」が滅亡したかを確認中なのですから。RT @kagachi_ecm
kagachi_ecm 志摩王が三種の神器を没収されて終わった訳ではないんですね? RT @tohyan なるほど、でも今そんなことはどうでも良いのです。いつ、九州王朝「倭国」が滅亡したかを確認中なのですから。
kagachi_ecm 多治比氏(九州王朝)にとって難波宮(摂津職)の掌握は重要。真人と公の違いから麻呂を志摩王の息子とは考えられないか? RT @tohyan 父「摂津職」「丹比公麻呂」の行為大化四年(648)を、三四年遡上して、天武十一年(682)にしたのち、
tohyan まったく意味が通じませんが…? RT @kagachi_ecm 多治比氏(九州王朝)にとって難波宮(摂津職)の掌握は重要。真人と公の違いから麻呂を志摩王の息子とは考えられないか?RT @kagachi_ecm 志摩王が三種の神器を没収されて終わった訳ではないんですね?
kagachi_ecm 理解できないのは理解する必要のない情報だからですよ(*^_^*)ただ、多治比真人氏のキャラが甘く感じます。 RT @tohyan まったく意味が通じませんが…?
tohyan 「キャラが甘い」って…またまた、意味が通じませんが…? RT @kagachi_ecm ただ、多治比真人氏のキャラが甘く感じます。
tohyan とおっしゃっていますが、はて・さて?RT @kagachi_ecm 多治比王の存在を考えてみては?九州の鋳造技術の東漸は観世音寺鐘と妙心寺鐘が天武~持統朝に考えられ嶋の時代です。多治比氏の本貫が河内鋳物師の里であることも関連が?
tohyan 【大化三年(647)なら「小郡を壊ちて宮造る」と記すところから、「小郡の新宮(小郡宮)」を示す】という結論は、当然九州の福岡県小郡市(井上)の小郡宮、強いて言えば「筑紫・浄御原宮」なわけで、その時点での「多治比氏の本貫が河内である」可能性は薄いのでは。 @kagachi_ecm
(711) 『いわゆる通説擁護? の「入鹿殺しの乙巳の変は動かせない:斎藤里喜代著」』 2011年8月8日(月)
ここで、「乙巳の変」のいわゆる通説を擁護すると思われる興味ある投稿があった【古田史学会報】no103(2011年4月5日)p14の以下を抜粋・転載する。
■ 『入鹿殺しの乙巳の変は動かせない:小金井市 斎藤里喜代著』 2011年8月8日(月)
【古田史学会報】no100号の「禅譲・放伐論争シンポジウム・要旨」を興味深く読ませていただきました。日本書紀の大化が、五〇年遅れた六九五年になることは、何の問題も起きません。
①、しかし、入鹿殺しの乙巳の変は、日本書紀の編者は大化としないで皇極四年としています。
②、しかし、九州年号大化が六九五年~七〇三年であることは間違いなく、日本書紀の大化が孝徳紀の大化の方が架空であること間違いありません。
③、そして、皇極四年の入鹿殺し乙巳の変の「乙巳」は続日本紀の次の記事によって、乙巳を動かせられません。
④、皇極四年の乙巳の変(六四五年)には倉山田麻呂臣が「三韓の調」の表文を読み唱ぐところがあり、重要なキーワードです。
これを五十年遅らせた六九五年にしたら、新羅以外は滅亡してありません。百済は六六三年に滅亡し、高句麗も六六八年に滅亡したことになっています。やはり乙巳の変は、大化の詔と一緒に五〇年遅らすことは無理のようなきがします。
「十二門」も重要なキーワードかもしれませんが、「三韓の調」も重要なキーワードです。
この①・②・③・④の史料事実をクリアしないと入鹿殺しの乙巳の変は六九五年には持っていけないのではありませんか。僭越ながら疑問点を書き連ねましたので、よろしくご検討ください。
(二〇一〇年十二月十七日記)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《参照》
(712) 『答論:『入鹿殺しの乙巳の変は動かせる』…斎藤里喜代さんにお応えする…:西村秀己著』 2011年8月8日(月)
以上『入鹿殺しの乙巳の変は動かせない:小金井市 斎藤里喜代著』投稿に対し、回答のあった【古田史学会報】no104(2011年6月5日)p6の以下を抜粋・転載する。
■『乙巳の変は動かせる』…斎藤里喜代さんにお応えする…:向日市 西村秀己著
会報一〇三号に斎藤里喜代さんから「入鹿殺しの乙巳の変は動かせない」という稿が寄せられた。キーワードは①乙巳年≠大化、②三韓、③乙巳功田、である。なるほど、もっともなご指摘と言えよう。特に「乙巳功田」については以前から、古賀達也氏からも批判を受けてきた。以下、それに対する考察を披露する。諸賢のご批判を仰ぎたい。
先ず、①であるが、これは論証抜きに年代を動かすな、ということであろうから、特別の問題はない。ただひとつ言えることは、日本書紀の構造は「乙巳の変をきっかけに大化改元を行った」のであるから、ワンセットと考えても差し支えがないように思われる。
次に、②である。確かに六九五年には「三韓」は存在しない。これはこの文章が百済滅亡より降ることを禁止する。
Ⅰ:乙巳の変は六四五年で変わらないが、日本書紀の執筆者が存在しない「十二門」を書き加えた。
Ⅱ:六九五年に起こった事件を五十年遡らせた。その際、例えば「新羅」を「三韓」に書き換えた。
勿論、あり得るのはⅡである。つまり、「三韓」と「十二門」はこの場合史料性が対等ではないのである。
それでは、難問の③に移ろう。確かに続日本紀天平宝字元年(757年)十二月壬子(9日)条には「大織冠藤原内大臣、乙巳の年の功田一百町は大功にして大功にして世々に絶えず」「贈大錦上佐伯連古麻呂が乙巳の年の功田…功推されるる所有れども、大と称ふこと能はず。令に依るに上功なり。三世に伝ふべし」とある。鎌足はいい。「先朝定むる所」と細注にあるからだ。問題は古麻呂である。内容を吟味すれば、元来「下功(子に伝えるのみ)」か「中功(孫まで伝える)」であったものを、「大功(永世)」にして欲しいという嘆願があり、検討した結果「上功(曾孫まで伝える)」」にした、というもののように考えられる。ところが乙巳年からこの年まで百十二年もある。仮に乙巳年に古麻呂二十才でその曾孫まで全員が六十才まで生存し(当時とすれば先ずあり得ない)且つ、その世代交代が二十五年とすれば(実際はもっと短いであろうから、これはかなり良い条件だ)古麻呂の曾孫死亡まで百十五年である。つまり、天平宝字元年は曾孫死亡予定年まであと三年。(つまり、元々「中功」だったとしても、それが失効して二十二年も経っている)相当好条件で計算しても、この年古麻呂を「上功」にする意味がほとんどないのである。これが実は「六九五年功」であればリアリティがある。
次に、先に述べたように乙巳年からこの年まで百十二年であるから、当然、この間にもうひとつの乙巳年(705年)が挟まる。とすれば、この条の「乙巳年」は例えば「先の乙巳年」という表現でなくてはならないのではあるまいか。
そして、最後に「乙巳の変」の重要性である。
しかし、これが六九五年のことであれば、これを皮切りに政変劇が進行したと考えられるので、大いに意味があることになる。
<以下続く>
更に、九州王朝との政変劇の功労者は、紀・続紀ともに何処にも存在しない。勿論、九州王朝そのものを抹殺したのだから、建前上その功労者を書くわけにはいかない。しかし、論功は行われたはずでそれが形を変えて紀・続紀に記入されたのではあるまいか。例えば、この「乙巳年功」としてである。
稿末に最も重要なことを述べさせて戴きたい。そもそも九州王朝を抹殺した日本書紀を近畿天皇家は正史とした。従って、その後の記録は日本書紀に矛盾しないように書かれている(ミスはあり得るが)筈である。
つまり、『日本書紀』と『続日本紀』は少なくとも九州王朝史抹殺に関しては共犯関係にある。正確に言えば『続日本紀』は、『日本書紀』の事後従犯なのだ。その『続日本紀』の証言をもとに、『日本書紀』の記事の正当性を証明することは出来ないのである。
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《参照》
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