大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 040 》
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ
白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、
日本書紀の〔 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権
2010年 4月 2日 発行
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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ https://waikoku.sakura.ne.jp/yamato.html 2:32 PM Apr 2nd webから ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(723) 『検証の結果について : 【 『古事記』序文の壬申大乱 古賀達也著 】 (1/6)』 2011年8月12日(金)
ここで、
と同時に、私なりに『古事記』序文を検証・解釈し、その結果を披露したい。
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『古事記』序文の壬申大乱 京都市 古賀達也著
■ はじめに
『日本書紀』編纂における最重点記事は「壬申の乱」である。『日本書紀』全三十巻中、天武紀の前半に当たる第二八巻全てを壬申の乱の記述に当てていることからも明かであろう。内容も日付や場所など詳細に記述されており、他の巻に比較してもその詳しさは群を抜いており、異様でさえある。こうした史料事実こそ、『日本書紀』編纂の眼目が壬申の乱の記述にあったことの現れと言っても過言ではない。
この異常に詳しい『日本書紀』壬申の乱の記述に基づき、多くの学者や歴史作家が所論を発表してきたことはご存じの通りであるが、それとは対照的に古田武彦氏はこの壬申の乱に対して、極めて慎重な姿勢をとり続けてこられた。著書だけでなく、講演会などでも多くを語られることはなかった。その理由は、「『日本書紀』の壬申の乱の記事は詳しすぎて、逆にあやしい。うっかり手を出すと大きな間違いを犯す。」というものであった。誠に鋭い洞察力と言わねばならない。
そもそも壬申の乱とは、天智の正統な後継者であった大友皇子に対する、天武による力づくの非道な政権簒奪以外の何ものでもない。この歴史事実を正当化することこそ、壬申の乱の記述にまるまる一巻を当てた天武の後継者達の最大の目的であった。従って、非道な「政権簒奪者」側自らの記述を史料としてそのまま信用すること自体が、不用心であり、学問的史料批判とはかけ離れてしまう可能性を危惧すべきこと、歴史研究者として当然取るべき姿勢だったのである。
■ 佐賀県「吉野」の発見
壬申の乱に対して慎重な姿勢を崩されなかった古田氏だったが、一転してその著書『壬申大乱』(注1)にて、真正面から取り上げられた理由の一つに、佐賀県「吉野」の発見にあった。持統紀に頻出する吉野を奈良県ではなく、佐賀県の吉野であり、本来は九州王朝の事績であったものを持統紀にはめ込んだものとされたのである。
更にもうひとつの理由(背景)があった。それは三森堯司氏の論文「馬から見た壬申の乱─騎兵の体験から『壬申紀』への疑問─」(注2)である。馬の専門家である三森氏は、『日本書紀』に記された壬申の乱での乗馬による踏破行路が古代馬のみならず品種改良された強靱な現代の馬でも困難であることを、科学的に立証された。すなわち、壬申の乱での天武等の行動記事は虚構だったことが証明されたのである。この三森論文の出現により、『日本書紀』の記述に基づいて壬申の乱を扱った従来の全ての論説が吹き飛んでしまった。この研究史的意義は重要である。
この三森論文の重要性に着目された古田氏は、壬申の乱の舞台の一つである吉野を佐賀県「吉野」とされ、壬申の乱全体像の見直しを行われた。そして、従来近畿を中心として理解されてきた「壬申の乱」のスケールを拡大し、九州と近畿を含む「壬申の大乱」であったとする説を先の『壬申大乱』にて発表された。この古田氏の業績により、多元史観の立場からの本格的な壬申の乱の研究が開始されたのであった。
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■ 検証の結果について:
『日本書紀』の「壬申の乱」で大海人皇子が挙兵した「吉野」が、佐賀の吉野ヶ里の「吉野」、熊本の「吉野」、近畿の「吉野」とあれこれ挙げられている。はて・さて?
以前に、われわれは、色々検討したが、例えば
『吉野、吉野ケ里とは葦野、葦野ヶ里という名にふさわしい⇒そもそも「葦は主として河川の下流域から汽水域上部、あるいは干潟の陸側に広大なヨシ原を作り、干潟では干潮時には干上がる水流の少ない所に育つ」らしい、ならば嘉瀬川でなく筑後川の名前にふさわしいと思います。RT @jyoumonjn』
なんか、これといった色よい場所が確定したわけではない。
そもそも、「葦は主として河川の下流域から汽水域上部、あるいは干潟の陸側に広大なヨシ原を作り、干潟では干潮時には干上がる水流の少ない所に育つ」らしい。河川が海に流れ込み淡水と海水が混じり合う汽水域の干潟だとどこでも吉野と呼ばれ得るのだ。であれば、近畿の「吉野」でないことも確かである。
(724) 『検証の結果について : 【 『古事記』序文の壬申大乱 古賀達也著 】 (2/6)』 2011年8月12日(金)
ここで、
と同時に、私なりに『古事記』序文を検証・解釈し、その結果を披露したい。
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■ 『古事記』序文の「壬申大乱」記事
三森論文からも明らかなように、基本的に信頼できない『日本書紀』の壬申の乱の記述に対して、新たな史料批判の対象として注目されるのが『古事記』序文である。太安萬侶により編纂された『古事記』には、元明天皇に対して出された上表文の形式を持つ、序文が付されているが、その序文中に壬申の乱にふれた部分がある。その記述は『日本書紀』の「壬申の乱」よりも成立が早い。同時に、上表文でもあることから、当時の大和朝廷内の共通の認識と利害に立った記述であることを疑えない。従って、『日本書紀』の記述よりも、基本的に史料価値が高いと思われ、『日本書紀』と『古事記』序文の「壬申の乱」の記述に相違点があれば、疑うべきは『日本書紀』の方である。
こうした理解と方法論に立って、『古事記』序文の史料批判を試み、「壬申大乱」の真実を追究したのが本稿である。
『古事記』序文中、壬申の乱に対応する記事は次の部分である。便宜上、訳文には個別記事毎に番号を付した。
曁飛鳥清原大宮御大八州天皇御世、濳龍體元、水存*雷應期。開夢歌而相纂業、投夜水而知承基。然、天時未臻、蝉蛻於南山、人事共給、虎歩於東國。皇輿忽駕、浚渡山川、六師雷震、三軍電逝。杖矛擧威、猛士烟起、絳旗耀兵、凶徒瓦解。未移浹辰、氣珍*自清。乃、放牛息馬、豈*悌歸於華夏、卷旌貮*戈、舞*詠停於都邑。歳次大梁、月踵夾鍾、清原大宮、昇即*天位。
(訳文)
(1) 飛鳥の清原の大宮に大八州御しめしし天皇の御世に曁りて、濳龍元を體し、[水存]雷期に應じき。
(2) 夢の歌を開きて業を纂がむことを相せ、夜の水に投りて基を承けむことを知りたまひき。
(3) 然れとども、天の時未だ臻らずして、南山に蝉蛻し、人事共給はりて、東國に虎歩したまひき。
(4) 皇輿忽ち駕して、山川を浚え渡り、六師雷のごとく震ひ、三軍電のごとく逝きき。杖矛威を擧げて、猛士烟のごとく起こり、絳旗兵を耀かして、凶徒瓦のごとく解けき。
(5) 未だ浹辰を移さずして、氣珍*自ら清まりき。乃ち、牛を放ち馬を息へ、豈*悌して華夏に歸り、旌を卷きて戈を貮*め、舞詠して都邑に停まりたまひき。
(6) 歳大梁(酉年)に次り、月夾鍾(二月)に踵り、清原の大宮にして、昇りて天位に即きたまひき。
このように序文の約十五パーセントを壬申の乱に関する記述が占めていることからも、太安萬侶ら大和朝廷官僚や序文を上表された元明天皇も、壬申の乱を重要視していたことがうかがわれる。
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■ 検証の結果について:
古賀達也氏は、上記文中に『このように序文の約十五パーセントを壬申の乱に関する記述が占めていることからも、太安萬侶ら大和朝廷官僚や序文を上表された元明天皇も、壬申の乱を重要視していたことがうかがわれる。』とされているが、はて・さて?
思うに、『古事記』序文のこの部分が「壬申の乱」の事を“たぶん”書いてるのだろうであって、必ずしも、「壬申の乱」の事だと断定はできない。『古事記』序文のこの部分に「壬申大乱」の「壬申」が明記されているわけではないのだ。
(725) 『検証の結果について : 【 『古事記』序文の壬申大乱 古賀達也著 】 (3/6)』 2011年8月12日(金)
ここで、
と同時に、私なりに『古事記』序文を検証・解釈し、その結果を披露したい。
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■ 『日本書紀』と序文の相違
『古事記』序文や『日本書紀』に特筆大書された壬申の乱であるにもかかわらず、その両者には重大な相違が散見される。それも枝葉末節ではなく、壬申の乱勃発の大義名分にかかわる部分である。
『日本書紀』によれば、壬申の乱勃発の大筋は、出家して吉野に入った天武(大海人皇子)を近江朝の大友皇子が亡き者にしようとしたため、やむなく天武は東国に逃れ、挙兵したという事になっている。すなわち、壬申の乱勃発の責任は大友皇子側にあり、とする。この一点こそ天智の正統な後継者である大友皇子を死に追いやった大義名分なのである。天武の後継者が自らの為に編纂した『日本書紀』の目的から見ても、そう書かざるを得ないことは、よく理解できる。
ところが、『古事記』序文では様相が全く違ってくるのだ。先の訳文を見ていただきたい。天武はまず、「(2) 夢の歌を開きて業を纂がむことを相せ、夜の水に投りて基を承けむことを知りたまひき。」 とあるように、天皇となることを占い、「夜の水」に至って自らが皇位を継ぐべきことを知った。そしてその後、「(3) 然れとども、天の時未だ臻らずして、南山に蝉蛻し、人事共給はりて、東國に虎歩したまひき。」とある。ようするに、南山(通説では奈良県吉野)に入る前に天下をとることを決めていたと記されているのだ。そして、その地(南山)でようやく「人事共給はり」、東国に入り挙兵したのである。
『古事記』序文の記すところ、壬申の乱は最初から皇位簒奪をはかった天武によるものであり、そのために南山に入ったのである。従って、ここでの天武は命を狙われる被害者ではなく、終始一貫して加害者として記されているのである。そして、その大義名分は、せいぜい「占いの結果」であり、これでは到底世間は納得すまい。しかし、太安萬侶は序文でそのように記している。
『日本書紀』と『古事記』序文のいずれが真実であろうか。当然、『古事記』だ。『日本書紀』の壬申の乱の経緯はできすぎている。また、『日本書紀』の大義名分が真実であったのなら、『古事記』序文のように自らに不利に書き換えなければならない理由はない。その逆なら、ありうる。また、元明天皇への上表文たる序文に、わざわざ嘘を書く必要性もない。従って、『古事記』序文の記すところが、壬申の乱の真実により近いと考えざるを得ないのである。すなわち、天武は近江朝を滅ぼすために南山に入ったのである。
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■ 検証の結果について:
古賀達也氏が、おっしゃるとおり、『古事記』序文のこの部分の記述が「壬申の乱」の事だとして、『天武は近江朝を滅ぼすために南山に入ったのである。』とされてるが、はて・さて?
①、思うに、「南山」という地名が、当時の日本国内にあったかのごとく書かれている。
②、更に、天武は大海人皇子だという前提で、壬申乱とは『日本書紀』の皇位継承戦という虚構へ結果的に誤誘導されてるようだ。
(726) 『検証の結果について : 【 『古事記』序文の壬申大乱 古賀達也著 】 (4/6)』 2011年8月12日(金)
ここで、
と同時に、私なりに『古事記』序文を検証・解釈し、その結果を披露したい。
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■ 夜水と南山
『日本書紀』の壬申の乱の記事が虚構であることは、すでに述べたとおりであるが、そうであれば『古事記』序文の記事も『日本書紀』の記述とは切り離して、再検討が必要である。古田氏が指摘されたように、壬申の乱の吉野を佐賀県吉野とするならば、『古事記』序文に見える「夜の水」や「南山」も九州の地と考えるべきであろう。通説では「夜の水」を名張の横河とするが、原文の「夜水」は河名の漢文風表記と考えるべきではあるまいか。例えば、中国では河の名称として「洛水」「漢水」と言うように、「夜水」を日本風に言えば「夜川」となろう。このような名を持つ川が九州にあるだろうか。ある。九州第一の大河、筑後川は「一夜川」という別名を持つ。たとえば、江戸時代の筑後地方の地誌『筑後志』には次のように記されている。
「●一夜川 是も亦筑後川の異称なり、俚俗の傳説に、普光山観興寺の佛像を刻む所の異木、往昔、豊後國の山渓より流れ出て、一夜にして此川に到り。大城の邑に止りぬ。爰を以て一夜川と名くと。按ずるに、例の浮屠の妄説にして、論ずるに足らず。一夜川の名實未だ詳ならず。」(『筑後志』)
室町時代の連歌師宗祇(一五〇二没)の著書『名所方角抄』にも「一夜川、千とせとも俗に筑後川ともいう也」と記述されている。この一夜川こそ夜水と表記するにふさわしい川名である。
近畿から九州に落ちのびた天武はこの一夜川(夜水)に至り、自らの運命を「夢の歌」として聞いたのだ。それは大友皇子や九州王朝に替わって自らが「天位」につくことを告げていた。しかし、「天の時未だ臻らずして、南山に蝉蛻し」た。この南山も当然九州だ。しかも、夜水(筑後川)の近くでなければならない。そのような山はあるか。これも、ある。筑後川を渡るとそこには「曲水の宴」の遺構を持った筑後国府がある。そして、その先には有名な高良山神籠石山城が屹立している。この高良山こそ、九州王朝の都大宰府のほぼ真南に位置しており、南山と呼ばれるにふさわしい山である。高良山神籠石に籠もり、天武は時を待った。「人事共給」わる時を。
このように、壬申の乱とは従来考えられていたような近畿内部の争乱ではなく、九州を発端として近畿や東国(東海地方)をも巻き込んだ、列島の覇者の地位を賭けた大乱だったのである。壬申大乱である。
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■ 検証の結果について:
古賀達也氏が、おっしゃるとおり、『古事記』序文のこの部分の記述が「壬申の乱」の事だとして、「南山」の場所は国内どこか?、そして、それは「吉野」のことか?、「夜水」を固有名詞とされてるが、はて・さて?
上記で、古賀達也氏はせっかく、『古事記』序文の記事も『日本書紀』の記述とは“切り離して”、云々…とされたにも関わらず、
思うに、古賀達也氏は『古事記』序文のこの部分を、「何が・何でも」、『日本書紀』の「壬申の乱」に結び付けたいらしい。
《参照①》
この《参照①》で書いたように、
③「投夜水而」とは、素直に「夜の川に“どんぶり”飛び込んで」で良いだろう。
④先に【いわゆる『南山』とは、どこか?】で調べたわけですが、私は『南山』とは、中国の【終南山(しゅうなんざん))】:中国、陝西(せんせい)省の西安の南東にある山。古来、詩によく詠まれた。南山。チョンナン‐シャン。のことであると素直に考えます。
『古事記』序文の「南山」・「夜水」が、中国であるとすれば、『日本書紀』天武紀・上巻のどこにも、その名が無いのも頷・うなづけます。
(727) 『検証の結果について : 【 『古事記』序文の壬申大乱 古賀達也著 】 (5/6)』 2011年8月12日(金)
ここで、
と同時に、私なりに『古事記』序文を検証・解釈し、その結果を披露したい。
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■ 人事、共に給わる
南山で「人事共給」わる時を天武は待つといったが、原文は「人事共給」であり、これを岩波の古典文学大系の『古事記』では、「供給」と同義として、「そなわる」と読ませている。しかし、この読みは強引ではあるまいか。「共給」とあれば、「共に給わる」と読むのが普通であろう。人と事を共に給わった、である。
ところが、この「給う」という語は上下関係を前提とした言葉であり、上位者が下位者に物を与える時に使う用語である。従って、これでは天武よりも上位者が下位者たる天武に軍勢を与えたという意味になり、通説では理解困難な読みとなるのだ。岩波の編者達が「共給」に「そなわる」という無理な訓を与えたのもこうした事情からであろう。
なお、「給」には「たまう」と「たまわる」の両方の語義があるが、今回のケースの場合は「たまわる」と解さざるを得ない。主語を天武として「たまう」としたのでは、天武が最初から軍勢を持っていたことになるし、誰に与えたのかも不明である。やはり、ここは「たまわる」と読むほかない。天武よりも上位者が天武に軍勢をたまわったのである。
この「人事、共に給わる」という読みは、一元史観では理解困難な読みであるが、多元史観、古田説に立脚すれば二つの可能性が考えられる。一つは、中国(唐)の筑紫進駐軍、郭務宗*が天武に援軍と近江朝打倒の承認を与えたという可能性。たとえば、『釈日本紀』に記された壬申の乱の時の天武と唐人による次の会話からは、唐との協力関係がうかがわれるのである。
「既而天皇問唐人等曰。汝国数戦国也。必知戦術。今如何矣。一人進奏言。厥唐国先遣覩者以令視地形険平及消息。方出師。或夜襲、或昼撃。但不知深術。時天皇謂親王(以下略)」(『釈日本紀』)
天武が唐人に戦術を問うたところ、唐ではまず先遣隊を派遣し地形や敵の状況などを偵察した上で軍を出し、夜襲や昼に攻撃を行うということを助言したとある。こうした記事から、郭務宗*帰国後も唐人の一部は天武軍に同行したようである。
もうひとつは、九州王朝が与えたというケースだ。たとえば、壬申の乱の功臣に大分君恵尺がいる。九州は大分の実力者と推定されるが、こうした人物が天武に従ったことを考えると、九州王朝が天武に援軍をさしだしたとも考えられよう。いずれも、当時、天武よりも上位者である。現在の所、どちらが天武に援軍や承認を給わったのか断定できないが(唐と九州王朝の両者が天武を支持したという可能性もあろう)、天武より上位者が九州の地に存在したことは間違いないし、太安萬侶はその事実を知っていたのである。
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■ 検証の結果について:
古賀達也氏が、おっしゃるとおり、『古事記』序文のこの部分の記述が「壬申の乱」の事だとしても、内実は、唐から解放・帰国後の倭王・薩夜麻の「倭国再統合戦」であり、「倭王復位戦」であると解釈せざるを得ないのだが、はて・さて?
思うに、古賀達也氏は上記で、なぜ、薩夜麻の「倭国再統合戦」であり、「倭王復位戦」であると、表現されなかったのだろうか?
思うに、
⑤「人事共洽」は、古賀達也氏の先の【人事、共に給わる】が正解と考える。
では、薩夜麻(=天武)に「軍勢を与えた」上位者とはだれか?であるが、それは唐の高宗である。と考える。
《参照①》
「未移浹辰 氣沴自清 乃放牛息馬 悌歸於華夏 卷旌貮戈 儛詠停於都邑」
未だ浹辰(しょうしん)を移さずして氣沴(きれい)自ずから清し。 乃ち牛を放ち馬を息(いこ)え、悌(がいてい)して華夏に歸り、旌(はた)を卷き戈を貮(おさ)め、儛詠(ぶえい)して都邑に停まりたまいき。
⑩、【悌歸於華夏】⇒〔「」:楽しむ、やわらぐ、(=凱)戦勝を祝う軍楽、「悌」:仲良くする、やわらぐ、「悌」:やわらぎたのしむ、「於華夏」:中国の当時は唐に〕⇒「《郭務悰・唐軍は》仲良く戦勝を祝う軍楽を楽しんで、唐へ帰えっていった」
⑪、【卷旌貮戈】⇒〔「旌」:旗、さおに飾りのついた旗〕⇒「戦旗を卷き、戈を貮(おさ)め」
⑫、【儛詠停於都邑】⇒「唐より解放・帰国の《倭王・薩夜麻は》唐高宗への戦勝報告を郭務悰らへ託して、自分のみは儛詠(ぶえい)して都邑に停まりたまいき」
ここで、注意しなければならないのは、⑩、⑫の文には主語が書かれていない。私は敢えて、⑩《郭務悰・唐軍は》、⑫《倭王・薩夜麻は》とした。
(728) 『検証の結果について : 【 『古事記』序文の壬申大乱 古賀達也著 】 (6/6)』 2011年8月12日(金)
ここで、
と同時に、私なりに『古事記』序文を検証・解釈し、その結果を披露したい。
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■ おわりに
『古事記』序文における壬申の乱の記述は、大変慎重かつ巧妙に書かれている。『日本書紀』のような虚構に満ちた記述ではなく、上表文として恐らくは大和朝廷内周知の歴史認識(九州王朝の先住と王朝の交代)に基づいて記されているのであろうが、九州王朝の存在を直接的には見えない文章表現としている。それでいながら、「夜水」や「南山」などというギリギリの表現で壬申大乱のスケールを記していると言えよう。
壬申大乱の勝者、天武は「天位」に即位した後、事実上の列島内第一実力者として、本格的な王朝体制の構築を開始する。律令や条坊制を持つ藤原京など、天武紀には様々な事業の開始記事で飾られている。この時期、九州王朝との力関係や大義名分上の関係など、まだまだ不明な問題が多いが、間違いなく言えるのは、国内的には壬申大乱こそ、大和朝廷が列島の代表者となった画期点の一つだったことである。その証拠に、大和朝廷は八世紀半ば時点でも、壬申の乱の功臣やその遺族を顕彰し続けた事実が上げられる。(注3) これからは、そうした視点から壬申大乱の更なる研究が望まれるであろう。
〔補〕南山を高良山のこととする本稿の結論に関連して、『高良記』の次の記事が注目される。
高良玉垂命が壬申の乱の翌年にあたる白鳳十三年(六七三)二月八日に発心し、仏門に入った記事と思われるが、この直後の二月二七日に天武が即位している。偶然とは思われず、何らかの関連性があったのではあるまいか。なお、歴代の玉垂命が倭の五王であったとする拙論(「九州王朝の筑後遷宮─高良玉垂命考─」、『新・古代学』第4集所収。一九九九年、新泉社)を発表しているので、参照されたい。
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■ 検証の結果について:
古賀達也氏が、おっしゃるとおり、『古事記』序文のこの部分の記述が「壬申の乱」の事だとして、上記に『壬申大乱の勝者、天武は「天位」に即位した後、事実上の列島内第一実力者として、本格的な王朝体制の構築を開始する。』とされている。
私には、再検証を通じて、『古事記』序文のこの部分の内実は、唐から解放・帰国後の倭王・薩夜麻の「倭国再統合戦」であり、「倭王復位戦」であると解釈せざるを得ないのだが、はて・さて?
■
思うに、古賀達也氏は上記で、なぜ、薩夜麻の「倭国再統合戦」であり、「倭王復位戦」であると、表現されなかったのだろう。
それは、『壬申大乱の勝者、天武は「天位」に即位した後、事実上の列島内第一実力者として、本格的な王朝体制の構築を開始する。』とあるように、この「壬申乱」の時にこそ、九州王朝「倭国」が滅び、実質的に、近畿の大和朝廷が開闢したのだと考えられた。
それに、
敢えて付言すれば、九州王朝「倭国」が滅びた時期はこの『書紀』が言う「壬申の乱」ではない。もう少し後である。
その後、678年(天武7年)発生の
■
(729) 『解読の結果『古事記』序文の内実は唐から解放・帰国の倭王・薩夜麻の「倭国再統合・倭王復位戦」である』 2011年8月13日(土)
■ 『古事記:上卷并序(抜粋)』
曁飛鳥清原大宮 御大八洲天皇御世 ①濳龍體元 (洊)②游雷應期 ③(開)聞夢歌而相纂業 ④投夜水而知承基 然天時未臻 ⑤蝉蛻於南山 ⑥人事共洽 ⑦虎歩於東國 皇輿忽駕 浚渡山川 六師雷震 三軍電逝 杖矛擧威 猛士烟起 絳旗耀兵 凶徒瓦解 未移浹辰 氣沴自清 乃放牛息馬 ⑧悌歸於華夏 ⑨卷旌貮戈 ⑩儛詠停於都邑 歳次大梁 月踵侠鍾 清原大宮 昇即天位 道軼軒后 跨周王 握乾符而六合 得天統而包八荒 乘二氣之正 齊五行之序 設神理以奬俗 敷英風以弘國 重加智海浩瀚 潭探上古 心鏡煌 明覩先代
■ 解釈の要点
①「潜龍」とは田んぼの中に潜む龍の姿。未熟で若い潜龍の時、力不足。時期整わず能力発揮できない時。このような時は、逸る気持ちを抑え、隠忍し、じっと我慢して力を貯え、時期を待つ時なのです。
「濳龍體元」とは、「はじめに、私は「未熟者」だった。
②「游雷應期」の「游(ゆう)」:泳ぐ、遊ぶ
③「聞夢歌而相纂業」の「夢歌而」は、かな文字で(むかし=昔)と、読んでみてはどうか^^
④「投夜水而」とは、素直に「夜の川に“どんぶり”飛び込んで」で良いだろう。
⑤「蝉蛻於南山」の南山は、中国の【終南山】の異称。
また、コトバンク(KOTOBANK)で【蝉蛻】とは?
【▼蝉▼蛻(せんぜい)】(名)スル
(1) セミの抜け殻。転じて、外形のみで中身のないこと。
「蝉蛻於南山」:「
★ 私が、この「蝉蛻於南山(=南山に居た時、迷いから覚め、悟りの境地に達した)」を、今にして振り返ると、次のようだったと思うのだが。はて・さて…
『 倭国軍の白村江敗戦後に唐が進駐・占領したであろう倭国の直轄地・九州島の混乱。及び、倭国軍の白村江敗戦後に、長門以東を直接支配の守備・残留倭軍(=日本余噍)即ち近江朝天智天皇の唐占領支配への抵抗、反乱。更には、日本国独立宣言。この事態をすみやかに、収拾できるのは、唐の都・長安に拘束中のこの自分(=白鳳王「倭王」薩夜麻)しかいないという自覚・決心の「蝉蛻」だった。 』
(だれに師事したか?たぶん唐高宗の紹介で、南山律宗の開祖の【道宣】だっただろう。)
⑥「人事共洽」は、【人事、共に給わる】で、「給う」は上位者が下位者に物を与える時に使う用語である。
⑦「虎歩於東國」の東國とは、「海東諸国記」の東国であり、中国・唐から見た東国、即ち、倭国、のちの我が日本国である。虎歩とは、「虎に翼を着けて放した」と唐朝の軍参謀が、薩夜麻の倭国への解放・帰国を評した。
⑧「悌歸於華夏」〔「」:楽しむ、やわらぐ、(=凱)戦勝を祝う軍楽、「悌」:仲良くする、やわらぐ、「悌」:やわらぎたのしむ、「於華夏」:中国の当時は唐に〕
⑨「卷旌貮戈」〔「旌」:旗、さおに飾りのついた旗〕
⑩「儛詠停於都邑」
■ まとめ
※以上、漢籍不如意の私ではあるが、私なりに解読を試みた結果、上記の『古事記』序文の内実は、唐での拘束、唐から解放の倭王・薩夜麻の帰国后の「倭国再統合戦」であり、「倭王復位戦」であると解釈せざるを得ない。
『書紀』のいわゆる“すりこみ”で天武天皇というと、すぐに大海人皇子と思う「くせ」が付いています。ところが、天武天皇とは、倭王・薩夜麻と、大海人皇子の2人1役の合成人間だと分ってきましたから、いずれの事績かは都度判断する必要があります。『古事記』序文の内実は、倭王・薩夜麻の事です。
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tohyan■ まとめ ※以上、漢籍不如意の私ではあるが、私なりに解読を試みた結果、上記の『古事記』序文の内実は、唐から解放の倭王・薩夜麻の帰国后の「倭国再統合戦」であり、「倭王復位戦」であると解釈せざるを得ない。この結果はお祖父さんへぜひ伝えて欲しい。 @takehikofuruta via web 2011.08.13 23:08
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(730) 『また、支援を受けた唐に報告しないとは考えづらく、そして、「華夏」は中国(当時なら唐)を意味する』 2011年8月15日(月)
■ 以上
3、天武は筑後に帰還し即位した
「華夏に歸り」とあり、大和飛鳥と考えられているが、天武の「蝉蛻」の地、即ち出陣地が「筑後」なら、帰還も「筑後」のはず。また、支援を受けた唐に報告しないとは考えづらく、そして、「華夏」は中国(当時なら唐)を意味する。更に『隋書俀(たい)国伝』では「其の人(俀国人)華夏に同じ」と記し、その「俀国」は阿蘇山がある九州であるはずだ。
は、「奇妙奇天烈」「牽強付会」のそしりは免れないな…^^
■ 何故、「奇妙奇天烈」「牽強付会」のそしりは免れないか?それは、
【『古事記』序文の壬申大乱:京都市 古賀達也著】
の上記2説には、古田武彦氏がせっかく『壬申大乱』で言及した、
【解読の結果『古事記』序文の内実は唐から解放・帰国の倭王・薩夜麻の「倭国再統合・倭王復位戦」である】
といった「首尾一貫性が無い」と分かるからである。それとも、
それにしても、ま・まさに、「支離滅裂」である。
■ 繰り返す、『書紀』のいわゆる“すりこみ”で天武天皇というと、すぐに大海人皇子と思う「くせ」が付いています。ところが、天武天皇とは、倭王・薩夜麻と、大海人皇子の2人1役の合成人間だと分ってきましたから、いずれの事績かは都度判断する必要があります。『古事記』序文の内実は、倭王・薩夜麻の事です。
『古事記』序文の天武天皇の内実が、倭王・薩夜麻の事だと知って、『道教と古代日本:福永光司著』を読むと、更に理解と興味が深まる。なーんちゃって^^
【防人について(実は九州にも「東国」があるからです):今井俊圀著】
そうか、逆に、
ということは、「壬申の乱」の「東国」とか「虎に翼を着けて放した」とかは、無視して考えて良いということだ。
【「不破道を塞げ」とは、鞠智城と他の城の高良山神籠石・水城などを結ぶ道を大友皇子が通れなくせよだった】
「葦は主として河川の下流域から汽水域上部、あるいは干潟の陸側に広大なヨシ原を作る。汽水域の干潟だとどこでも吉野と呼ばれ得るのだ。
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《おわび》
『「壬申の乱」が
(731) 『続)また、支援を受けた唐に報告しないとは考えづらく、そして、「華夏」は中国(当時なら唐)を意味する』 2011年8月16日(火)
■ くどいかも知れないが…、
3、「倭王・薩夜麻 x
『「華夏に歸り」とあり、x
これを、「南山は、中国の【終南山】の異称」とする「 終南山 」説で、置き換えてみよう、
『「 華夏に歸り 」とあり、倭王・薩夜麻 の「 蝉蛻 」の地、即ち出陣地が「 終南山 」なら、帰還も「 終南山 」のはず。また、支援を受けた唐に報告しないとは考えづらく、そして、「 華夏 」は中国(当時なら唐)を意味する。』
そうすると、この中の
『 また、支援を受けた唐に報告しないとは考えづらく 』
の指摘がクローズアップする。
その回答が、下記のとりわけ「 都邑に停まりたまいき 」の「 停 」に表わされている。
即ち、
⑧「悌歸於華夏」〔「」:楽しむ、やわらぐ、(=凱)戦勝を祝う軍楽、「悌」:仲良くする、やわらぐ、「悌」:やわらぎたのしむ、「於華夏」:中国の当時は唐に〕
⑨「卷旌貮戈」〔「旌」:旗、さおに飾りのついた旗〕
⑩「儛詠停於都邑」
唐高宗との“首尾よく行けば帰って来なくて良いぞ”という約束だったのではないだろうか。
※このように、「南山は、中国の【終南山】の異称」とする立場で、『古事記:上卷并序』を解釈すると、実にすんなりとスムースに解釈できるのである。
(732) 『そうだ、「清原の大宮にして、昇りて天位に即きたまひき」の即位後はどうだったのか?』 2011年8月16日(火)
■
Ⅶ) 【道軼軒后 跨周王 握乾符而六合 得天統而包八荒 乘二氣之正 齊五行之序 設神理以奬俗 敷英風以弘國 重加智海浩瀚 潭探上古 心鏡煌 明覩先代】:
道は軒后(けんこう)に軼(す)ぎ、は周王に跨(こ)えたまいき。 乾符(けんぷ)を握(と)りて六合(りくごう)を(す)べ、天統を得て八荒を包(か)ねたまいき。 二氣の正しきに乘り、五行の序(つぎて)を齊(ととの)え、神理を設(ま)けて俗(ならわし)を奬(すす)め、英風を敷きて國を弘(おさ)めたまいき。 重加(しかのみにあら)ず智海は浩瀚(こうかん)として潭(ふか)く上古を探(さぐ)り、心鏡は煌(いこう)として明らかに先代を覩(み)たまいき。
■
この箇所を
『道は黄帝に勝り、徳は周王を越えている。三種の神器を得て天地四方を統べ、天津日嗣を得て荒遠の地をも覆った。陰陽の正しい気に乗り、五行の秩序を整え、神道を施し良い風俗を勧め、優れた教化を布いて国に広めた。それだけでなく、その智は海のごとき広く、深く上古を研究し、鏡のような御心は明らかに輝き、はっきりと先代を見極めている。』
■
また同じ箇所を、
『道は中国の黄帝より優れ、徳は周王を越えている。三種の神器を得て天地四方を統一し、天津日嗣を得て国の八方の果てまで行き渡った。陰陽の正しい気に乗り、五行の秩序を整え、神の道理を施し良い風俗を勧め、優れた教化を布いて国に広めた。それだけでなく、その智は海のごとき広く、深く上古を探求し、鏡のような御心は明らかに輝き、はっきりと先代を見ておられる。』
■
なんか、少し褒めすぎじゃないかなー、それに、急に「道教」っぽく、なっている。
(733) 『「南山は、中国の【終南山】の別名」とする説での『古事記:上卷并序』解釈の“ まとめ ”』 2011年8月17日(水)
■ 『古事記:上卷并序(抜粋)』
曁飛鳥清原大宮 御大八洲天皇御世 ①濳龍體元 (洊)②游雷應期 ③(開)聞夢歌而相纂業 ④投夜水而知承基 然天時未臻 ⑤蝉蛻於南山 ⑥人事共洽 ⑦虎歩於東國 皇輿忽駕 浚渡山川 六師雷震 三軍電逝 杖矛擧威 猛士烟起 絳旗耀兵 凶徒瓦解 未移浹辰 氣沴自清 乃放牛息馬 ⑧悌歸於華夏 ⑨卷旌貮戈 ⑩儛詠停於都邑 歳次大梁 月踵侠鍾 清原大宮 昇即天位 道軼軒后 跨周王 握乾符而六合 得天統而包八荒 乘二氣之正 齊五行之序 設神理以奬俗 敷英風以弘國 重加智海浩瀚 潭探上古 心鏡煌 明覩先代
【『古事記』序文の壬申大乱:京都市 古賀達也】
■ 『古事記』序文の壬申大乱:古賀達也氏【 訳文 】
Ⅰ) 飛鳥の清原の大宮に大八州御しめしし天皇の御世に曁りて、濳龍元を體し、洊雷期に應じき。
Ⅱ) 夢の歌を開きて業を纂がむことを相せ、夜の水に投りて基を承けむことを知りたまひき。
Ⅲ) 然れとども、天の時未だ臻らずして、南山に蝉蛻し、人事共給はりて、東國に虎歩したまひき。
Ⅳ) 皇輿忽ち駕して、山川を浚え渡り、六師雷のごとく震ひ、三軍電のごとく逝きき。杖矛威を擧げて、猛士烟のごとく起こり、絳旗兵を耀かして、凶徒瓦のごとく解けき。
Ⅴ) 未だ浹辰を移さずして、氣珍*自ら清まりき。乃ち、牛を放ち馬を息へ、悌して華夏に歸り、旌を卷きて戈を貮め、儛詠して都邑に停まりたまひき。
Ⅵ) 歳大梁(酉年)に次り、月夾鍾(二月)に踵り、清原の大宮にして、昇りて天位に即きたまひき。
■ 「南山は、中国の【終南山】の別名」とする説での『古事記:上卷并序』解釈での要点
①「潜龍」とは田んぼの中に潜む龍の姿。未熟で若い潜龍の時、力不足。時期整わず能力発揮できない時。このような時は、逸る気持ちを抑え、隠忍し、じっと我慢して力を貯え、時期を待つ時なのです。
②「游雷應期」の「游(ゆう)」:泳ぐ、遊ぶ
③「聞夢歌而相纂業」の「夢歌而」は、かな文字で(むかし=昔)と、読んでみてはどうか^^
④「投夜水而」とは、素直に「夜の川に“どんぶり”飛び込んで」で良いだろう。
⑤「蝉蛻於南山」の南山は、中国の【終南山】の異称。
また、コトバンク(KOTOBANK)で【蝉蛻】とは?
【▼蝉▼蛻(せんぜい)】(名)スル
(1) セミの抜け殻。転じて、外形のみで中身のないこと。
「蝉蛻於南山」:「
★ 私が、この「蝉蛻於南山(=南山に居た時、迷いから覚め、悟りの境地に達した)」を、今にして振り返ると、次のようだったと思うのだが。はて・さて…
『 倭国軍の白村江敗戦後に唐が進駐・占領したであろう倭国の直轄地・九州島の混乱。及び、倭国軍の白村江敗戦後に、長門以東を直接支配の守備・残留倭軍(=日本余噍)即ち近江朝天智天皇の唐占領支配への抵抗、反乱。更には、日本国独立宣言。この事態をすみやかに、収拾できるのは、唐の都・長安に拘束中のこの自分(=白鳳王「倭王」薩夜麻)しかいないという自覚・決心の「蝉蛻」だった。 』
(だれに師事したか?たぶん唐高宗の紹介で、南山律宗の開祖の
⑥「人事共洽」は、【人事、共に給わる】で、「給う」は上位者が下位者に物を与える時に使う用語である。では、薩夜麻(=天武)に「軍勢を与えた」上位者とはだれか?であるが、それは唐の高宗である。
⑦「虎歩於東國」の東國とは、「海東諸国記」の東国であり、中国・唐から見た東国、即ち、倭国、のちの我が日本国である。虎歩とは、「虎に翼を着けて放した」と唐朝の軍参謀が、薩夜麻の倭国への解放・帰国を評した。
⑧「悌歸於華夏」〔「」:楽しむ、やわらぐ、(=凱)戦勝を祝う軍楽、「悌」:仲良くする、やわらぐ、「悌」:やわらぎたのしむ、「於華夏」:中国の当時は唐に〕
⑨「卷旌貮戈」〔「旌」:旗、さおに飾りのついた旗〕
⑩「儛詠停於都邑」
■ 「南山は、中国の【終南山】の別名」とする説での『古事記:上卷并序』解釈の“ まとめ ”
Ⅰ) 飛鳥の清原の大宮に大八州御しめしし天皇の御世に曁りて、①濳龍元を體し(倭王・薩夜麻は、血気にはやり即位もそこそこに、州柔戦へ出征し、まぬけにも・まんまと捕われてしまった)、②洊雷期に應じき(じっと我慢して力を貯え、好機が来たら、雷の如く轟くぞ)。
Ⅱ) ③夢の歌を開きて(むかし=昔先祖の開き帝位)業を纂がむことを相せ(倭国の復興を想い)、④夜の水に投りて(夜の川に“どんぶり”飛び込んで)基を承けむことを知りたまひき(どうしたら良いかと苦悩した)。
Ⅲ) 然れとども、天の時未だ臻らずして、⑤南山に蝉蛻し(南山に居た時、
Ⅳ) 皇輿忽ち駕して、山川を浚え渡り、六師雷のごとく震ひ、三軍電のごとく逝きき。杖矛威を擧げて、猛士烟のごとく起こり、絳旗兵を耀かして、凶徒瓦のごとく解けき。
Ⅴ) 未だ浹辰を移さずして、氣沴自ら清まりき。乃ち、牛を放ち馬を息へ、⑧悌して華夏に歸り(《郭務悰・唐軍は》我が薩夜麻軍と、仲良く戦勝を祝う軍楽を楽しんで、唐へ帰えっていった)、⑨旌を卷きて戈を貮め(戦旗を卷き、戈を貮(おさ)め)、⑩儛詠して都邑に停まりたまひき(唐より解放・帰国の《倭王・薩夜麻は》唐高宗への戦勝報告を郭務悰らへ託して、自分のみは儛詠(ぶえい)して都邑に停まりたまいき)。
Ⅵ) 歳大梁(酉年)に次り、月夾鍾(二月)に踵り、清原の大宮にして、昇りて天位に即きたまひき。
(734) 『「南山は、中国の【終南山】の別名」とする立場で、『古事記:上卷并序』を、改めて見てみよう』 2011年8月17日(水)
※このように、「南山は、中国の【終南山】の別名」とする立場で、『古事記:上卷并序』を解釈すると、実にすんなりとスムースに解釈できるのである。私は、この立場を【終南山】説と呼ぶことにする。
「南山は、中国の【終南山】の別名」とする立場で、『古事記:上卷并序』を、改めて見てみよう。
序文の「曁飛鳥清原大宮 御大八洲天皇」とは、一般に、天武天皇のことだと言われている。然し、大海人皇子の天武天皇だと、『あれっ、いつ大海人皇子は唐の長安へ行ったんだっけ?そんなの、聞いてないよ、少なくとも『書紀』には書いてないよなー』、ってなりますよね。
もちろん、我々は、「天武天皇とは、倭王・薩夜麻と、大海人皇子の2人1役の合成人間だと」知っていますからね、すぐ、もう一人の倭王・薩夜麻のことだと分かりますがね…。
なにせ、白村江戦の前哨戦の州柔戦で捕われて長安へ連行・拘束されたわけで、少なくとも『壬申大乱:古田武彦著』の読者は、この天武天皇は、倭王・薩夜麻だと、すぐ理解できるでしょう。
でも、じゃー、『歳大梁(酉年)に次り、月夾鍾(二月)に踵り、清原の大宮にして、昇りて天位に即きたまひき。』の「飛鳥清原大宮」は近畿の「飛鳥浄御原宮」のことだよね?ってなります。
ところが、『壬申大乱:古田武彦著』で「飛鳥浄御原宮」が筑紫小郡宮のことではないか?と考えられたことから、それが正しいならば、逆に、近畿の「飛鳥浄御原宮」って何よ?ってなことになってきます。
《 まだ、一杯あります。》
● 唐の高宗が甚くご満悦だったという倭の酋長(倭王・薩夜麻)の人物像って?薩夜麻の性格なり、振る舞いなりの、何が唐高宗を甚くご満悦にさせたか?とか…。
〔参照〕
〔参照〕
〔参照〕
● 倭王・薩夜麻が「終南山」に居た時は、俗世間から超然とした修行中だった。だれに師事したか?たぶん唐高宗の紹介で、南山律宗の開祖の【道宣】だっただろう。
● 南山律宗の唐招提寺の鑑真は、何度も今の上海あたりから日本へ渡海を試み、5~6度の船の難破とかで失敗したにも関わらず、敢えて入朝した動機は何だったのか?
● 『古事記』序文の天武天皇の内実が、倭王・薩夜麻の事だと知ると、『道教と古代日本:福永光司著』の中の天武天皇のことを読むと、大海人皇子として記載の箇所が、ほんとうにそう?って興味が沸きます。
(735) 『「南山は、中国の【終南山】の別名」とする説での『古事記:上卷并序』解釈の■ 最終総まとめ ■』 2011年8月17日(水)
■ 『古事記:上卷并序(抜粋)』
曁飛鳥清原大宮 御大八洲天皇御世 ①濳龍體元 (洊)②游雷應期 ③(開)聞夢歌而相纂業 ④投夜水而知承基 然天時未臻 ⑤蝉蛻於南山 ⑥人事共洽 ⑦虎歩於東國 皇輿忽駕 浚渡山川 六師雷震 三軍電逝 杖矛擧威 猛士烟起 絳旗耀兵 凶徒瓦解 未移浹辰 氣沴自清 乃放牛息馬 ⑧悌歸於華夏 ⑨卷旌貮戈 ⑩儛詠停於都邑 歳次大梁 月踵侠鍾 清原大宮 昇即天位 道軼軒后 跨周王 握乾符而六合 得天統而包八荒 乘二氣之正 齊五行之序 設神理以奬俗 敷英風以弘國 重加智海浩瀚 潭探上古 心鏡煌 明覩先代
■ 「南山は、中国の【終南山】の別名」とする説での解釈の■ 最終総まとめ ■
Ⅰ) 【曁飛鳥清原大宮 御大八洲天皇御世 ①濳龍體元 (洊)②游雷應期】:
飛鳥の清原の大宮に大八州御しめしし天皇の御世に曁りて、①濳龍元を體し(倭王・薩夜麻は、血気にはやり即位もそこそこに、州柔戦へ出征し、まぬけにも・まんまと捕われてしまった)、②洊雷期に應じき(游:じっと我慢して力を貯え、好機が来たら、雷の如く轟くぞ)。
Ⅱ) 【③(開)聞夢歌而相纂業 ④投夜水而知承基】:
③夢の歌を開きて(むかし=昔先祖の開き帝位)業を纂がむことを相せ(倭国の復興を想い)、④夜の水に投りて(夜の川に“どんぶり”飛び込んで)基を承けむことを知りたまひき(どうしたら良いかと苦悩した)。
Ⅲ) 【然天時未臻 ⑤蝉蛻於南山 ⑥人事共洽 ⑦虎歩於東國】:
然れとども、天の時未だ臻らずして、⑤南山に蝉蛻し(南山に居た時、
Ⅳ) 【皇輿忽駕 浚渡山川 六師雷震 三軍電逝 杖矛擧威 猛士烟起 絳旗耀兵 凶徒瓦解】:
皇輿忽ち駕して、山川を浚え渡り、六師雷のごとく震ひ、三軍電のごとく逝きき。杖矛威を擧げて、猛士烟のごとく起こり、絳旗兵を耀かして、凶徒瓦のごとく解けき。
Ⅴ) 【未移浹辰 氣沴自清 乃放牛息馬 ⑧悌歸於華夏 ⑨卷旌貮戈 ⑩儛詠停於都邑】:
未だ浹辰を移さずして、氣沴自ら清まりき。乃ち、牛を放ち馬を息へ、⑧悌して華夏に歸り(《郭務悰・唐軍は》我が薩夜麻軍と、仲良く戦勝を祝う軍楽を楽しんで、唐へ帰えっていった)、⑨旌を卷きて戈を貮め(戦旗を卷き、戈を貮(おさ)め)、⑩儛詠して都邑に停まりたまひき(唐より解放・帰国の《倭王・薩夜麻は》唐高宗への戦勝報告を郭務悰らへ託して、自分のみは儛詠(ぶえい)して都邑に停まりたまいき)。
Ⅵ) 【歳次大梁 月踵侠鍾 清原大宮 昇即天位】:
歳大梁(酉年)に次り、月夾鍾(二月)に踵り、清原の大宮にして、昇りて天位に即きたまひき。
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Ⅶ) 【道軼軒后 跨周王 握乾符而六合 得天統而包八荒 乘二氣之正 齊五行之序 設神理以奬俗 敷英風以弘國 重加智海浩瀚 潭探上古 心鏡煌 明覩先代】:
道は軒后(けんこう)に軼(す)ぎ、は周王に跨(こ)えたまいき。 乾符(けんぷ)を握(と)りて六合(りくごう)を(す)べ、天統を得て八荒を包(か)ねたまいき。 二氣の正しきに乘り、五行の序(つぎて)を齊(ととの)え、神理を設(ま)けて俗(ならわし)を奬(すす)め、英風を敷きて國を弘(おさ)めたまいき。 重加(しかのみにあら)ず智海は浩瀚(こうかん)として潭(ふか)く上古を探(さぐ)り、心鏡は煌(いこう)として明らかに先代を覩(み)たまいき。
上記箇所を、
『道は中国の黄帝より優れ、徳は周王を越えている。三種の神器を得て天地四方を統一し、天津日嗣を得て国の八方の果てまで行き渡った。陰陽の正しい気に乗り、五行の秩序を整え、神の道理を施し良い風俗を勧め、優れた教化を布いて国に広めた。それだけでなく、その智は海のごとき広く、深く上古を探求し、鏡のような御心は明らかに輝き、はっきりと先代を見ておられる。』
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