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◎九州王朝「倭国」が緊迫のアジア情勢から難波副都建設・「天下立評(=全国評制施行)」


Ⅳ・①『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。


 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城の『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和王朝『日本国』である。
 いわば、倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


 「隋書」俀国伝中に、『明年(大業4年:608年:推古16年)、上、文林郎裴清を遣わして俀国に使いせしむ。
 百済を渡り、行きて竹島に至り、南に聃羅を望み、都斯麻国を経、迥かに大海の中に在り。
 又東して一支国に至り、又竹斯国(=筑紫・九州島)に至り、又東して秦王国に至る。其の人華夏に同じ。以って夷州と為すも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。
 又十余国を経て海岸(=九十九里浜海岸)に達す。竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す。』

 と記載あるように竹斯国(=俀国直轄地:筑紫・九州島)以東で目ぼしい国といえば秦王国だった、この秦王国さえも俀に附庸すると言っているが、隋使は俀国の大宰府から更に東の秦王国まで訪れたのだ。
 この隋書でいう秦王国こそが飛鳥・葛城地方の『秦国』王家であり、蘇我氏であろう。

 ということは、蘇我馬子(=巷苛有明子)の元は前方後円墳だった封土が剥ぎ取られ石棺がむき出しの辱めを受けてる「石舞台」などは、九州王朝倭国難波副都の倭王家 〔分家の弟王家〕 に乗っ取られた証拠だろう。


 九州王朝倭国の〔造複都難波京の詔:649年10月〕は、予想される朝鮮半島や唐との関係悪化に備えて、

●倭国連邦の距離的中心地である大宰府東方の難波宮に拠点(副都)を別に設けることで、従来の連邦制と異なる中央集権的政策である「天下立評(=全国評制施行)」の完全実施と、

●倭国連邦の『秦国』が唐国・新羅の東西枢軸に参加し、倭国大宰府を背後から襲うのを防御・牽制・排除し、

●そこを基点に更に東方の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化し後塵の憂いを除く、

のが目的と思われ、東国経営の基地でもあり、宮殿というより軍事要塞といった趣のものだったでしょう。
 難波副都は当時の地図を見ると南から北へ伸びた半島の先端に位置し、その東は日下江の入江で今の大阪市街は葦で覆われた海の中である。
 まさに都というより軍事要塞・基地というのが当っている。

 649年(大化5年:孝徳5年:常色3年)10月、 〔造複都難波京の詔〕 が発せられ、同時に伊勢王等の諸国境界確定記事が続き、652年(書紀白雉3年:孝徳8年:白雉元年)「正月より是の月に至るまでに、班田すること既におわりぬ(立評:評制施行の完成)」。
 「同年、2月(白雉改元儀式)」 「同年、秋9月、宮を造ることがまったく終わった(九州王朝難波副都完成)。
 その宮殿の形状は、とても論じつくせない。」と続く。


 いっぽう、九州王朝倭国は古田武彦氏が指摘するように、もともとが「両京制」・「兄弟王朝」の政治システムだったようで。
 思うに、九州王朝倭国はこの非常事態に即断即決で対処の為に、兄弟王家のいずれかが大宰府、いずれかが難波副都をと分かれて預かる形になったでしょう。
「大宰府倭兄王家」 を預かったのが薩夜麻(=白鳳王・高市皇子の父の天武天皇)であり、 「難波副都倭弟王家」 を預かったのが天智天皇をはじめとする 〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇 だった。


 倭国は九州(筑紫島)を本拠に・出雲・加賀・吉備・『秦国』・尾張・毛野(常陸)・任那等を含む連邦国家であったはずで、その個々の王国ごとに統治形態が違い、連邦国家全国の「天下立評(=全国評制施行)」は大変困難な作業だったと思われる。
 太閤検地を思い出すまでもなく、当然強大な軍事力・軍事行動も必要だったと思われるが、あにはからん、伊勢王等の諸国境界確定記事は産むが易しで、2年ばかりで完了したようだ。

 その後、中央集権国家の巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」は爾来強大な軍事力で支えられ継続して維持されたはずで、そのベース基地たる 「九州王朝難波副都」 は「天下立評(=全国評制施行)」の班田収受が徐々に軌道に乗り、かたやその財政余力をかって、飛鳥・葛城の『秦国』王家の蘇我氏の取り込みも謀った。
 そうこうするうちに、 「難波副都倭弟王家」 は大和朝廷へ発展したということでしょう。


 「大宰府倭兄王家」 は大陸の情勢が風雲急を告げ 〔参照:川端俊一郎著『隋唐帝国の北東アジア支配と倭国の政変』について〕、その白鳳王(=明日香皇子・筑紫君薩夜麻・天武天皇)は百済回復戦で出兵、白村江戦で破れ、あろうことか捕虜になって唐国の長安に連行・抑留されてしまった。

 いっぽう、「天下立評(=全国評制施行)」の維持にかこつけて参戦しなかった、(というより『秦国』が唐国・新羅の東西枢軸に参加し、倭国大宰府を背後から襲うのをブロックする為にその兵力を動かせなかったと言うのが正解か)、中大兄皇子(=天智天皇)の 「難波副都倭弟王家」 は兵力の温存はできたものの倭国留守居王権として、唐国との戦後賠償交渉を繰り返し、白村江戦が本土決戦での敗戦でなかったので交渉は強気だったでしょう。
 弟王家「近江朝」の天智は本州・四国の連邦解体後の後釜に坐り、弟王家「近江朝」の中央集権国家を樹立しその独立宣言が新羅への「倭国」改めて「日本」と号すだ。

 一向に進まない戦後賠償交渉に業を煮やした唐国側の郭務悰は、捕虜の筑紫君薩夜麻(=天武天皇・白鳳王)を開放・投入。
 筑紫君薩夜麻(=天武天皇・白鳳王)は帰国と同時に倭国白鳳王復位を宣言し、当時、唐が占領の筑紫都督府、及び近江朝の本州・四国に分裂していた倭国の再統合を要請した。
 その結果が「壬申乱」であろう。
「壬申乱」 を起した天武天皇(=薩夜麻・白鳳王・高市皇子命の父)の 「大宰府倭兄王家」 は、「難波副都倭弟王家」の中で当時孤立していたと思われる別の天武天皇(=大海人皇子・持統の夫・草壁皇子尊の父)の戦勝後の地位と、「難波副都倭弟王家」の将来を従来通りに保障・約束し、副官になるよう協力要請した。その結果、大友皇子(=天智天皇の皇子)の 「難波副都倭弟王家」 に戦勝。
「大宰府倭兄王家」 の天武天皇(=薩夜麻・白鳳王・高市皇子命の父)は「壬申乱」では勝ったものの、倭国のその後は唐国の傀儡化と過酷な戦後賠償でさらに疲弊。
 そのうえ、筑紫大地震が襲い、ついに、別の天武天皇(=大海人皇子・壬申乱時の協力者で副官・持統の夫・草壁皇子尊の父)の 「難波副都倭弟王家」 に助けを求めた。
 これが、あとで述べる 「三つ足の雀(3種の神器)の貢上」 となったのでしょう。

 《 注意 》 天武天皇についての煩雑な表現をしているお詫びと、そのわけをここで説明しておく必要があろう。

日本書紀は、673年(天武2年:白鳳13年)2月27日の項に、
●『〔天武〕天皇は、 —略— 帝位に即いた。正妃を立てて皇后とした。后は草壁皇子 「尊」 を生んだ。—略—』
○『天皇ははじめ、鏡王の —略—次に胸形君徳善の娘、尼子娘を納れて、高市皇子 「命」 を生んだ。—略—』

 同じ天武天皇の皇子に 「尊」「命」 の異なった「みこと」表記がされていて出典が違うことがわかる。
 同時に「二人で一役」の合成人間であることもわかります。

●大和朝廷:「難波副都倭弟王家」出身の 天武天皇(=大海人皇子・持統の夫・草壁皇子 「尊」 の父)
○九州王朝:「大宰府倭兄王家」出身の 天武天皇(=明日香皇子・薩夜麻・白鳳王・高市皇子 「命」 の父)

 日本書紀が天武天皇を、「二人で一役」の合成人間で記述することは、全編を通じて九州王朝「倭国」を抹殺するが為でしょう。
 しかし逆に、九州王朝「倭国」を抹殺してるよ、と教えてくれてもいます。
 さらに、このことは高市皇子 「命」 が九州王朝:「大宰府倭兄王家」の出身であることを、はからずも我々に教えてくれてもいます。

 〔参照:天武天皇は二人いた(日出島哲雄著)〕





 すなわち、 『白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城の『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和王朝『日本国』である。
 いわば、倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。
』 ということです。





 以下が「その順路のあらすじ」である。

※別紙 『 「倭国」の「大宰府主都」 : 「難波副都」対比年表 .html版 』『 同 .pdf版 』 と、併せて参照方お願いします。


■ 『大和朝廷の生い立ちから倭国滅亡迄の歴史的経緯の想定年表』


《歴史的経緯の説明》

①九州王朝「倭国」はある時期(たぶん「倭王武」477年頃)全国征伐し茨城県以西を間接付属王国支配。

②隋書俀国伝に、『又竹斯国に至り、又東して秦王国に至る。―竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す。』

③東へ倭に付属「秦王国」を訪れているのに、『書紀』には記載が無い。たぶん「日本国」へ書きかえた。

④九州王朝「倭国」が緊迫のアジア情勢から難波副都建設し天下立評。同時に倭国の分王家が常駐開始。

⑤倭国と秦王国からの遣使団が唐朝内で鉢合せ、付属秦王国の遣使を難詰し喧嘩。唐朝が両国使監禁。

⑥洲柔・白村江敗戦662年で唐が白鳳倭王を拘束・連行。これをネタに大宰府開城、筑紫島が被占領。

⑦白村江敗戦を知った難波副都守備隊が長門以東を防衛。天智天皇遷都即位、秦国接収、日本国独立。

⑧白鳳倭王薩夜麻が解放帰国。難波副都の大海人皇子の協力で倭国再統合戦の壬申乱を戦勝、復位。

⑨壬申乱戦勝は難波副都の大海人皇子の協力甚大「真人」位賜る。白鳳王崩御后、朱雀王に即位。

⑩筑紫倭王家の近畿遷都、白鳳王・朱雀王崩御后、高市天皇即位。大化改新に不満の軽皇太子が暗殺。

⑪難波副都の軽皇太子、筑紫倭王家の高市天皇暗殺后、文武天皇に即位。大和朝廷「日本国」開闢。


《注意》評制施行の天下立評そのものは、『常色の宗教改革(I「評」制は「誰」が「何時」施行したか):正木裕著』で言う、己酉(六四九大化五《九》常色三)であるが、時代区分としての灘波副都の完成年次の白雉元年652年とした。





 このように考えると、九州王朝から大和朝廷に実権が完全に移行したあとの文武天皇の大宝改元以降も、
 〔木簡「長屋親王宮鮑大贄十編」の出土からわかることは、高市皇子は実は即位していた。なので高市天皇の皇子の長屋は「親王」である。〕
 での長屋親王とか、
 〔橘諸兄は九州王朝王族の子孫だった。〕
 の大宰府系と思われる九州王朝王族の生存・存続記事もあり得ることとなります。


 なぜか、私には永年不思議だった大和朝廷の天皇が筑紫に還りたい、とか戻りついた、とか言ってる次の記事
〔九州王朝難波副都完成の翌年653年(書紀白雉4年:孝徳9年:白雉2年)『この年、皇太子(中大兄皇子)が奏請して、「願わくは倭京に還りたいと思います」といった。
(孝徳)天皇は許さなかった。・・・途中略・・・「倭の飛鳥(福岡県小郡市井上飛島)の河辺の行宮にうつり住んだ。・・・・」』  

 661年(斉明7年:白鳳元年)『4月、(斉明)天皇は朝倉〔福岡県朝倉郡朝倉町山田〕の宮に遷居した。
 6月伊勢王が薨じた。秋7月24日、(斉明)天皇は朝倉の宮で崩じた。
 8月1日、皇太子(中大兄皇子)は天皇の柩を移し奉って、磐瀬(福岡市三宅 伊予国宇摩郡津根・長津)の宮にもどりついた。・・・』〕 も 〔遠征中の彼等のもともとの古巣が筑紫だった〕 とすれば一挙に氷解し納得できます。



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Ⅳ・②『日本書紀』 と 『白村江「以前34年」を「以降34年」に切り貼り』

 日本書紀が、九州年号で書かれた倭国史書を盗用して如何に改編したかについて、正木裕氏は、
 〔日本書紀『持統紀』の真実—書紀記事の「三十四年遡上」現象と九州年号〕
 の中で、その改編の手法のひとつを以下明らかにしている。
 要は当時の日本は西暦は一般的でなく、「60年周期の干支」と「倭国の元号」(=九州年号)が史書編纂・編年の拠り所だったということです。


 『書紀編集者は、九州年号 「白雉・白鳳期」 の記事の一部を編者の都合にあわせて切り取り、 「白雉を朱鳥」 に、 「白鳳を大化」 に各々元号を入れ替え、九州年号の朱鳥・大化期に貼り付けたのだ。

 そうした上で、邪魔な九州王朝の「元号」を消去し、近畿天皇家の天皇の治世・年号にあわせて書紀を編纂した。
「朱鳥」2年から9年までは「持統」元年から8年に、「大化」1,2年は「持統」9、10年に、というように。

 このような手法によって始めて 「34年前」 の事実が 「天武・持統期」 に近畿天皇家の事跡として記述出来る。

 書紀編集者は、
 〔白村江敗戦の翌年の天智3年(664)から、『日本書紀』の終わる持統11年(697)までの「34年間」に〕、
 〔白村江敗戦以前の「過去の歴史記事」〕
 を貼り付け、その間の歴史を改変・創造したことを意味する。』 と言う。


 「34年前」 の事実が 「天武・持統期」 に近畿天皇家の事跡として記述されている例としていちばん眼に付くのが、いわゆる、

 『天武天皇の詔(複都制683年:天武12年:白鳳23年)で、12月17日、また詔して、
 「およそ都城・宮室は、1ヶ処ではない、必ず2・3ヶ処を造る。それゆえ、先ず難波に都を造ろうと思う。
 そこで、百寮(官)は、それぞれ〔難波に〕行き、家地を請え」 と詔した』
 の〔造複都難波京〕683年時期です。

 なお、加えて、
 『飛鳥ともに難波京を都とした』 と前後の記事の状況から書くものがいるが、複都制(=両都制、両京制)採用は、広大な領土を有する国に多く採用されるので、これでは近すぎて複都の意味をなさない、あるとすれば 『大宰府ともに難波京を都とした』 だろう。


 上記の天武天皇・詔は、正木裕氏の上記に記載の34年遡上説に従うと、これこそが、34年前の649年(大化5年:孝徳5年:常色3年)の出来事〔造複都難波京〕となり、その後は652年(書紀白雉3年:孝徳8年:白雉元年) 「正月より是の月に至るまでに、班田すること既におわりぬ(立評の完成)。
 凡そ田は、長さ三十歩を段とす。十段を町とす。段ごとに租の稲一束半、町ごとに租の稲十五束。」
 「同年、2月(白雉改元儀式) 「同年、秋9月、宮を造ることがまったく終わった(九州王朝難波副都完成)。
 その宮殿の形状は、とても論じつくせない。」 へと続く、とのこと。
  (参照:白雉年間の難波副都建設と評制の創設について)


〔メモ:大化改新の詔646年(大化2年:孝徳2年:命長7年)の方が、これよりも古い出来事となるが、はたして
     どうしてこうなったのだろうか?〕



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Ⅳ・③『書紀編纂手法・50年前へ移動』 と 『大化改新詔』

 以下は古田史学の会の
  【 古賀達也氏の『洛中洛外日記』第196話 2007/11/16 「大化改新詔」50年移動の理由 】
 のそっくり転載です。

 「難波朝廷天下立評給時」 記事から倭国史改編手法のひとつ 「50年前移動」
  が明らかになって、ようやく、
 『郡評論争』・『大化改新詔』・『九州王朝難波副都説』 がみえてきました。


—————〔「大化改新詔」50年移動の理由〕—————

 『延暦23年(804)に成立した伊勢神宮の文書 『皇太神宮儀式帳』
 の 「難波朝廷天下立評給時」 という記事から、それは 「難波朝廷」 の頃というだけではなく、前期難波宮九州王朝副都説の成立により、文字通り九州王朝難波副都で施行された制度と理解できます。

 太宰府政庁よりもはるかに大規模な朝堂院様式を持つ前期難波宮であれば、中央集権的律令制としての 「天下立評」 を実施するのにまったく相応しい場所と言えるのではないでしょうか。
 そして、この点にこそ『日本書紀』において、大化改新詔が50年遡らされた理由が隠されています。

 九州年号の大化2年(696)、大和朝廷が藤原宮で郡制施行(改新の詔)を宣言した事実を、『日本書紀』編纂者達は50年遡らせることにより、九州王朝の評制施行による中央集権的律令体制の確立を自らの事業にすり替えようとしたのです。
 その操作により、九州王朝の評制を当初から無かったことにしたかったのです。
 『日本書紀』編纂当時、新王朝である大和朝廷にとって、自らの権力の権威付けのためにも、こうした歴史改竄は何としても必要な作業だったに違い有りません。

 このように考えたとき、「大化改新詔」が50年遡らされた理由が説明できるのですが、しかしまだ重要な疑問が残っています。
 それは、何故『日本書紀』において前王朝の年号である大化が使用されたのか、この疑問です。
 九州王朝の存在を隠し、その業績を自らのものと改竄するのに、なぜ九州年号「大化」を消さなかったのでしょうか。

 これは大変な難問ですが、わたしは次のような仮説を考えています。
 藤原宮で公布された「建郡」の詔書には大化年号が書かれていた。この仮説です。
 恐らくは各地の国司に出された建郡の命令書にも大化2年と記されていたため、この命令書が実際よりも50年遡って発行されたとする必要があり、『日本書紀』にも「大化2年の詔」として、孝徳紀に記されたのではないでしょうか。

 しかし、この仮説にも更なる難問があります。それなら何故、藤原宮で出された「改新詔」に他王朝の年号である大化が使用されたのかという疑問です。
 わたしにはまだわかりませんが、西村秀己さん(古田史学の会全国世話人、向日市)は次のような恐るべき仮説を提起されています。
「藤原宮には九州王朝の天子がいた」 という仮説です。
 すなわち、「大化改新詔」は形式的には九州王朝の天子の命令として出されたのではないかという仮説です。
 皆さんはどう思われますか。わたしには、ここまで言い切る勇気は今のところありません。
 これからの研究課題にしたいと思います。』




【『日本書紀』の「大化改新」記事は、「倭国史本来の(=プロト)大化改新」を、故・鹿島昂氏が指摘した新羅『毘曇(ひどん)の乱』の顛末に沿うように、「登場人物、及び、事件の発生順序(下図★*印参照)」を、“巧妙に”差し替え、“ブロック単位でそっくり”Just五〇年前へ転載したものである。】







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Ⅳ・④『「 評 と 郡 」 ・ 「 都督 と 評督 」 』 と 『 天 下 立 評 』

 以下は、
 『古代史再発見第2回:王朝多元―歴史像―古 田 武 彦 :1998年9月26日(土)大阪・豊中解放会館』
 からのまったくの転載ですので、悪しからず。


◎〔九:郡と評〕


 それでは国内の方にその現れはないかというと、あるわけです。

 有名なテーマとして、戦後歴史学界の最大の論争と言うべき郡評論争です。
 井上光貞氏とお師匠さんである坂本太郎さんの論争です。
 当時若い講師か助教授であった井上光貞氏は、日本最大の歴史学会である東大の史学会で研究発表された。議長は恩師である坂本太郎さん。

 「大化改新の信憑性について」という発表である。

 『日本書紀』はおかしい。これには問題があるのではないか。特に大化改新のところで盛んに「郡」と書かれている。郡司という形で出てきている。
 しかし金石文やちょっとした系図などで見ると、どうも7世紀後半に「郡」という制度が存在した形跡はない。
 逆に「評」という制度が存在したことが伺われる。
 そうすると『日本書紀』の「大化改新の詔勅」に問題が在るのではないか。そういう発表が有った。

 これに対して議長の坂本太郎さんは、「今の発表は、私としては承伏しかねる。
 しかし私は議長だから主張する立場にないので、改めて論文を持って反論して答えたい。」と言った。その後両者の間で論文における論争が始まった。それで日本中の学者がどちらかに付いてという感じで一大論争になった。
 それで結論は若いお弟子さんの方の井上光貞氏のほうが、勝ったというか正しかった。

 それは最終的に奈良県の藤原宮の木簡(荷札)で決着が付いた。
 それを見ると七〇一年を境にしまして、それから前は「評」しか出てこない。郡はその後しか出てこない。そのことが非常にハッキリしてきた。
 そればかりではなく静岡県浜松市浜松駅(旧貨物駅)の伊場の木簡からも同じく七世紀末までは「評」、それ以後が「郡」で出てきた。同じ形で次々出てきた。
 木簡そのものは、くだらんと言えば言えるが、荷札ですから用済みになったら捨てるものである。
 それであるだけにイデオロギーに関係しないから、実用にたてば良い。そういう立場から見ますと、木簡というのは非常に正直な史料とみても、そう間違いはない。
 その正直な史料である木簡が全て七世紀末迄は「評」、以後が「郡」になっていますから、井上光貞氏の言うとおりが正しい。そういう形でドラマチックな結論を見た。
 私が『「邪馬台国」はなかった』を出す四・五年前です。決着を見たのです。


 ところがこのように決着を見たのですが、私のほうから見ると、まだ本当の決着は付いていないと私は考えています。

 なぜかと言いますと、坂本太郎さん自身が言ったとおり、「事実問題としては井上君の言ったとおりであると思うが、しかしなぜ『日本書紀』がそれを郡と書き換えなければならなかったのか私には分からない。」と言われた。

 そういう問題が残っている。坂本太郎さんは非常に正直な方である。

 なぜ正直かということを知っているかというと、わたしはお世話になった坂本太郎氏にもよく本をお送りした。
 そうすると葉書で返事を下さって、「あなたの本を頂きました。今読み終わってたいへん困っています。」という返事を送ってこられた。
 普通そういうことを書かない。「本を送って頂いてあり難うございます。参考にさせて頂きます。」というような当たり障りのない返事を書く人が多いではないですか。正直な人でないとそういう書き方をしない。


 その正直な坂本太郎さんが、今の論争が決着したと認めた後、しかしわたしには、まだ疑問が残っている。
 なぜ『日本書紀』が現実に「評」であるものを「郡」と書き直したか、私には理解できない。
 その通りである。そういう坂本さんのぼやきにもかかわらず、そういうことを現在の学界は無視して、孝徳天皇の時から評制が開始された。これが正しいと、現在の学界では位置付けている。そういう処理をして現在に至っている。

 しかし私は思いますが、現実は「評」であるということを我々は荷札で分かったわけですが、当時の『日本書紀』の編集した人は端(はな)から承知していた。
 『日本書紀』は七二〇年に作られた。二〇才の青年は赤ん坊だから知らないけれども、四〇才の人は二〇年「評」の中で生活している。五〇才の人は三〇年間「評」の中で生活している。
 そんな年の連中が『日本書紀』を作っているわけでしょう。みんな自分たちが子供の頃は評であったことを、満場一致だれもが知っていることである。何回も出てきますからね。
 それをみんな「評」を「郡」に書き変えたのか。ついうっかり書き換えたでは済まない。
 やはり「評」という制度の存在を隠したかった。故意というか、うっかりミスでは有り得ない。何回も出てくる。
 その故意は、「評」という制度の存在を隠すための、そういう故意である。そう考えなければならない。そういうことは論理の筋道からして当然ではないか。


 その「評」という制度はとうぜん一人の人間が気まぐれに言い出したのではなくて、当然権力が施行したと考えなくてはならない。
 その「評」という制度を隠したという事は、とうぜんその制度を施行した権力を隠すということの目的以外には有り得ない。
 つまり七〇一年以前には、七〇二年以後の近畿天皇家とは別の権力が存在した。そのことが無いような顔をして、『日本書紀』を作らなければ、ならなかった。
「評」という制度が出ていては都合が悪かった。だからずっと「郡」でしたという建て前、(「郡」は孝徳天皇からでしたという建て前)――読んだ方は、みんな嘘だと知っている。言ったら駄目よ。――そういう建て前の本を作った。

 「評」という制度を真に施行したのは誰か。この場合には、近畿天皇家以外に施行したのは誰か。そういうふうに論理に絞られてくる。
 論理的に考えて見て七〇一年以前に、近畿天皇家ではない権力中心が――制度を相当広範囲に施行するというのは、権力がなかったら存在しない。
 静岡県浜松市まで広がって出てくる。もちろんまた九州にも系図などで出てくる。そういう広範囲に施行されている――、絶対に権力が施行したに決まっている。私がそう言っても想像ではない。想像かもしれんが、万に一つの疑いのない想像です。
 その権力を近畿天皇家は隠している。『日本書紀』は隠そうとして書かれている。こうならざるを得ない。それは何者かといえば、言うまでもない。先ほどの中国の歴史書にある倭国である。
 中国側はなにも近畿天皇家に遠慮したり、ゴマをすったり、遠慮する必要は何もない。

 その中国側の史料によれば、倭国は七〇一年で滅亡した。志賀島の金印以来の倭国を滅亡して、その分家であった日本国が併呑したと書いている。
 併呑した側が郡制であって、併呑された側が評制であったと考えざるを得ない。


◎〔十:都督と評督〕


 しかも郡の場合には郡司という役職はあるが、評の場合は「評司」という言葉はない。
 金石文その他で出てくるのは、「評督」という言葉である。だから違いがある。
 『日本書紀』を「評」という言葉をただ「郡」に書き直せば良いという訳にはいかない。役職名が違う。
 ところが「督」という言葉は見覚えがある言葉である。何が見覚えがあるかというと「都督」という言葉で出てくる。

 先ほど説明しました『宋書』をご覧下さい。


■太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表獻方物讃死弟珍立遣使貢獻自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王 ・・・

■二十八年加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故并除所 ・・・

■順帝昇明二年遣使上表曰 ・・・

■開府儀同三司其餘咸假授以勸忠節詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王・・・


 『宋書』に倭王は中国側から見ると都督であると何回も出ている。倭王は都督であったことは疑いがない。「都督」がいたところを中国側が歴史書でどう読んでいるかというと「都督府」という。
 中国側で天子のもとの役所を「府」という。京都府とか、大阪府というのはその流れである。

 それでは日本で「都督府」が存在した形跡がある場所があるかといえば、一つだけある。文献的には『日本書紀』天智紀に出てるのですが、「筑紫都督府」という言葉が出てくる。筑紫は当然福岡県です。


日本書紀 巻第廿七 天命開別天皇 天智天皇 六年春二月壬辰朔戊午。 ・・・

十一月丁巳朔の乙丑に、百済鎮将劉仁願、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聰等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。


 それでは現実の場所に「都督府」という名が残っている所はあるか。これも一つだけ在る。福岡県の太宰府に行かれると遺跡があって、その前に大きな石碑が建っていて、そこに「都督府楼跡」として出てくる。
 普通現地の人はこれは「都府楼」と言っている。これが「都督府」の略形であることは疑いがない。例として中世文書でも太宰府は太府と略するのと同じ形である。「都督府」のことを「都府」と呼び、建物のことを「都府楼」と言っている。

 『日本書紀』にある「筑紫都督府」に一致している。

 これに対して大和都督府とか近江都督府等は、文献にもないし、現実にそんな呼び方も全く残っていない。
 ということは日本で都督府があったと見られる所は全国で一カ所で、福岡県太宰府市の筑紫都督府だけである。

 これも意地悪ではないが、いろいろお世話になっている岩波古典大系での「筑紫都督府」のところの注釈が凄い。
 これは『日本書紀』を作る原本があって、その原本が写し間違えて、それを又そのまま写し間違えたものである。想像に想像を重ねている。『日本書紀』の原本などは誰も見ていない。
 ところが『日本書紀』のまた元が、写し間違いをして「筑紫都督府」と書いて、それをそのまま写し間違ったのだろう。これは「書いてあるけど信用するな。」
 と書いてある。あんな注釈、よくも書けたなあ。という気がする。一度帰ってご覧下さい。もちろんこれは苦し紛れとしか言いようがない。

 「筑紫都督府」というのは、中国が使いを送ってきた。捕虜を返す場所の記録として「筑紫都督府」という名称があったことは疑いがない。書かれて残っているとおりである。現在も名前が残っている。ということは、あそこに都督が居たということになる。

 大和に都督が居るのに、筑紫に都督府があるとしたらおかしい。
 「都督」というのは中国で使って東アジアでは有名な政治用語です。出来上がった述語です。
 「都督」という言葉、これが元になって出来たのであろう言葉である「評督」というは、東アジア・中国・朝鮮にはないメイド・イン・ジャパンの言葉である。メイド・イン・倭国の言葉ですが、このメイド・イン・倭国の言葉を造るうえで、元になっているのが「都督」という言葉と考えるのは、それほど無理がない。

 つまり私が言いたいことは、「評督」という言葉が各地で出てくるが「評」という言葉は関東から九州まで出てくる。
 そこの長官が「評督」で、それを統括する長官が居ないということは有り得ない。みんなが自発的に勝手に名前を付けました。それでは、九州から関東まで同じ名前が付かない。そういうことはあり得ない。それを統一した場所がどこかというと「都督府」である。

 各地の評の長官が評督、評督が数ある中でそれを統括したのが都督である。その都督が居たところが都督府。こう考えるのが一番筋が通った考え方である。
 都督となるとメイドイン・ジャパンではない、中国の言葉である。倭王でないと名乗れない。倭王でない人間が私も「都督」と名乗りたいと言っても勝手に名乗れるものではない。
 となりますと今述べた評制の中心は今の九州・都督府である。このように考える。

 そのことは『旧唐書』に書いてある事と一致している。倭国というのは志賀島の金印の以来の国が、全部倭国であり、白村江もその倭国と闘った。それを倒した。
 それを分家である日本国が併合して統一の王者となったことを、それを倭国を倒した方の唐が承認した。則天武后が承認した。こう言っている。その話ときちんと合う。

 それを中国側の史料、後代史料とは言えない唐が滅んだ直後に書かれた『旧唐書』でも、そのように言っているし、(唐が滅んで)百年近く経って編纂された『新唐書』も同じ立場に立っている。
 だいたい中国の中でも唐ほど、日本と関係が深かった国はない。その唐が『新唐書』・『旧唐書』を通じて一致して言っていることを、日本が『日本書紀』『古事記』に合わないから、あれは嘘だよと言ってみても、私は「夜郎自大」というか「手前味噌」としか言いようがないと思う。

 率直に言って、私は天皇家のことを良く言うとか悪く言うとか、まったく無関係で、天皇家が素晴らしいということが史料を追跡してわかった場合は遠慮無く言いますし、そんなイデオロギーとはまったく無関係である。

 そんなことには関係なく、筋道として日本と最も関係が深かった白村江で闘ったその中国が『旧唐書』『新唐書』を通じて書いていることを、ウソだという言い方が出来る資格のある人はどんな日本人にも、学者にも、いないと思う。
 天皇家の御用学者だから、それを守らなければ我々は食べていけないと言うのなら、それはもうおしまいで、仕方がない。しかしそれは本当の学問ではなく、国際的に通用するべき学問でもない。わたしはそう思います。

 わたしが今日言いたかったことは「七〇一」という問題でございます。「七〇一」を前提にしない日本の歴史は疑わしい。はっきり言ってインチキである。
 残念ながら現在の教科書や学者の本は、皆いかがわしい立場に立って書かれていると、言わざるを得ない。そういうことをはっきり言うから、古田を相手にしなければ、いずれ死ぬからという期待に胸を躍らせていると思う。しかしわたしは「それは思い間違いだ。」と思う。わたしの言うことが無理無体なら、死んだらもちろん消え去るであろう。
 しかしわたしの言うことが筋が通っているなら、わたしが死んだらよけい始末に負えなくなる。生きているときは「あんな奴が言うことは信用できるか。あんな奴が井上光貞先生や津田左右吉先生より偉いと思うか。」と問われるだけだが。(両方とも)死んでしまえば、いずれ劣らぬ死んだ人間ですから、残るのは論理だけの勝負ということにならざるをえない。(それで競争しなければならなくなる。)大体今までの歴史上もそうである。

 死んだら何とかなると思って、そういう思惑からイエスは処刑された。本居宣長も江戸幕府は勝手に町医者に言わせ放しにしていた。学問というのは朱子学で、国学を学問とは江戸幕府は一回も認めなかった。
 ところが亡びたのは国学ではなくて朱子学である。歴史のどれを取ってみても、その道理は一貫している。それは明らかである。体制側にいると、それが分からない。あいつさえ死ねば何とか成る。はかない望みを持つ。


――体制を握っていたら宣伝力は抜群であるから――そう考えて最後は宣伝力で勝負するという態度に、ついつい出てしまう。わたしは、そう思っております。しかし、それは終わりに近づいていると理解しています。


 以上は、
 『古代史再発見第2回:王朝多元―歴史像―古 田 武 彦 :1998年9月26日(土)大阪・豊中解放会館』
 の引用・転載です。


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◎「評と郡」・「都督と評督」・「天下立評」における「わたしの理解」について


 九州王朝「倭国」王の 珍 が、438年、中国・宋に朝献し、自ら「使持節 都督 ・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍 倭国王」と称し、宋文帝によって「珍安東将軍倭国王」と認めらた時点で、既に「都督と評督」制が行われていたと分かる。


 この時点での九州王朝「倭国」の「都督と評督」制の実施範囲であるが、その直轄地の「筑紫(=九州)島」、のほかに半島の「任那」において施行されていた。


 また、この時代の本州・四国地区は、九州王朝「倭国」が征服途上であるが、征服後も直轄地ではなく、後に倭国附庸王国「出雲・加賀・吉備・『秦国』・尾張・毛野(常陸)」となる間接統治の連邦附庸王国制が採用されていたと考えられる。
 そのため、本州・四国地区については、その後も「都督と評督」制は採用されていなかった。


 その約200年後は、隋・唐がしつこく高句麗の侵略を繰り返し、やがては百済・倭国へとその矛先が向いてくると予想した九州王朝倭国の「天帰王(あまぎ・甘木)」が正木裕氏の言う「常色の改革」を推し進める一環として、「天下立評」があり、造複都「難波京」の建設詔649年10月が発せられ、652年「難波京」完成を祝って「白雉改元儀式」が大々的に挙行された。
 すなわち、本州・四国地区においても「都督と評督」制が採用された。「天下立評」とは、天下(=本州・四国地区)の立評(=評制施行)である。
 さらに、「天下立評」は「難波京」に常駐の九州王朝「倭国」の分家「難波副都倭弟王家」の一任で実施された。


 九州王朝「倭国」の末王「高市天皇」が、「プロト大化改新:696年」この評制を郡制へ改新しょうとしたが、想いなかばにして「プロト大和朝廷(=九州王朝「倭国」の分家「難波副都倭弟王家」)」の藤原不比等の同調者にクーデターで暗殺されて、九州王朝「倭国」は696年滅亡する。


 この「郡制施行(=建郡)」は九州王朝「倭国」のあと、クーデターで実権を握った大和朝廷「日本国」に引継がれ、開闢と同時の701年実施された。
 「プロト大和朝廷」とは九州王朝「倭国」の分家「難波副都倭弟王家」であり、「常色の改革」の一環としての「天下立評」は自らの祖王の事績でもあったのだが、九州王朝「倭国」の抹殺と同時に、「天下立評」も無かったことにし、“一足跳びに”、「郡制施行(=建郡)」の「大化改新」へと置き換えたしまった。


 九州王朝倭国「天帰王」が「常色の改革」の一環として実施の「天下立評」が倭国の「出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野(常陸)」連邦附庸各王国へ与えた衝撃が想像できます。
 この間一髪の「常色の改革」によってこそ、九州王朝倭国が分家ではあっても「大和朝廷」として存続・継続し得たと言えます。



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Ⅳ・⑤『漢委奴国・邪馬壹国・親魏倭国・委国・倭国・大倭国・俀国はどこか? 存在したか?』

 漢委奴国・邪馬壹国(x邪馬臺国)・親魏倭国・委国・倭国・大倭国・俀国はどこか?しかも、この科学の時代に今もなお何故わからないのでしょう?
 それは九州王朝『倭国』の主だった史実を、『日本書記』が抹殺し・隠しているからでしょう。とてもまともな史書とはいえませんね、いわゆる偽書の類でしょう。

 九州王朝『倭国』は 『白村江の戦い』(西暦662年) に敗れる迄、九州(筑紫島)を本拠に・出雲・加賀・吉備・『秦国』・尾張・毛野(常陸)・任那等を含む連邦国家で、日本列島及び半島最南部を代表する政権だった。


(参照):連邦制を彷彿させるものとしては、古田武彦氏が著書『よみがえる九州王朝』で「幻の筑紫舞」を紹介している。
〔肥後の翁(西山村光寿斉):加賀の翁(光寿):都の翁(筑紫):難波津より上りし翁(若光寿):尾張の翁(和光):出雲の翁(右寿):夷の翁(佳光也)〕演ずる「七人立」の「西山村にしやまむら流、舞の会」をである。


 私はこの連邦国家の構成員であった飛鳥・葛城の『秦国』が、唐・新羅に唆(そその)かされ白村江の戦いで倭国を裏切ったものと思います。
 そもそも、その『秦国』は新羅(旧名:秦韓)の移民・植民地だったのではとも思ってます。
 高句麗・百済・九州倭国を 「南北枢軸国」 とすると、唐・新羅・『秦国』は 「東西枢軸国」 であり、倭国連邦・連合分断の楔(くさび)だったわけです。
 では、この『秦国』が大和朝廷「日本国」へ発展したのでしょうか?


 日本書紀は白村江敗戦後の九州王朝「倭国」から大和朝廷「日本国」への政権交代を語ろうとしないわけですが。
 先の日米の太平洋戦争敗戦後の米軍の進駐・占領を思えば想像に難くないわけで、認めたくないかもしれませんが、日本は白村江敗戦と、太平洋戦争敗戦の「敗戦による進駐・占領」を2度経験しているのです。


 九州王朝『倭国』が白村江の敗戦を期に、マッカサーの厚木飛来同様、唐軍2千人規模ではあるも、数度の筑紫都督府(=大宰府)進駐。
 当然、破壊示威・略奪暴行もあったでしょう。

 倭国白鳳王・薩夜麻不在での留守居倭王権の混乱・政権建直しで近江朝の独立(=天智天皇の遷都・即位)・倭国の戦後賠償・レジスタンス抵抗・唐のジレンマ。


 更に10年后の、捕虜になって洗脳された筑紫君薩夜麻(=明日香皇子、白鳳王661-684年、天武天皇)の唐よりの解放・帰還。
 筑紫君薩夜麻(=天武天皇・白鳳王)は帰国と同時に倭国白鳳王復位を宣言し、当時、唐が占領の筑紫都督府、及び近江朝の本州・四国に分裂していた倭国の再統合を要請した。
 これにより 『壬申の乱』(西暦672年:天武元年:白鳳12年) の発生。
 倭国王としての復位するも、唐の倭国傀儡政権化・いっそうの過酷賠償による疲弊。


 九州王朝『倭国』は白村江の敗戦を期に一気に衰弱し、さらに『壬申の乱』を経て、最期の本来の『プロト大化改新』をとどめに滅亡に至った。

 その後は中央集権国家の大和朝廷『日本国』が701年開闢したと理解できよう。


 ただこの大和朝廷『日本国』もいきなり出来たわけではなく、その約50年前に前身の『プロト大和朝廷(=難波副都倭弟王家)』が出来るきっかけは、九州王朝「倭国」の天帰王(甘木王)が実施した「常色の改革」の一環としての難波副都での「天下立評」がその発端でしょう。


 日本の古代史云々を語る者は、何はさて置き、

『何故、国内的には「日本書紀」が九州王朝「倭国」を抹殺したのか、対外的には、大和朝廷「日本国」がどういう経緯で忽然と極東アジアに現れたのか』

 を明らかにしなければならない、と私は考えます。もうそのほとんどが、ほぼ明らかになっているのでしょう。
 ようするに、要点を見逃してる、なにか決め手に欠けてるというか、そのほんの些細なことを見落としていないだろうか。
 では、この過程・経緯・顛末を詳しく調べてみようではないか。



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