白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、
■ 『大和朝廷の生い立ちから倭国滅亡迄の歴史的経緯の想定年表』
日本書紀の〔
「隋書」俀国伝中に、『明年(大業4年:608年:推古16年)、上、文林郎裴清を遣わして俀国に使いせしむ。
と記載あるように竹斯国(=俀国直轄地:筑紫・九州島)以東で目ぼしい国といえば秦王国だった、この秦王国さえも俀に附庸すると言っているが、隋使は俀国の大宰府から更に東の秦王国まで訪れたのだ。
ということは、蘇我馬子(=巷苛有明子)の元は前方後円墳だった封土が剥ぎ取られ石棺がむき出しの辱めを受けてる「石舞台」などは、九州王朝倭国難波副都の倭王家 〔分家の弟王家〕 に乗っ取られた証拠だろう。
九州王朝倭国の〔造複都難波京の詔:649年10月〕は、予想される朝鮮半島や唐との関係悪化に備えて、
●倭国連邦の距離的中心地である大宰府東方の難波宮に拠点(副都)を別に設けることで、従来の連邦制と異なる中央集権的政策である「天下立評(=全国評制施行)」の完全実施と、
●倭国連邦の『秦国』が唐国・新羅の東西枢軸に参加し、倭国大宰府を背後から襲うのを防御・牽制・排除し、
●そこを基点に更に東方の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化し後塵の憂いを除く、
のが目的と思われ、東国経営の基地でもあり、宮殿というより軍事要塞といった趣のものだったでしょう。
649年(大化5年:孝徳5年:常色3年)10月、 〔造複都難波京の詔〕 が発せられ、同時に伊勢王等の諸国境界確定記事が続き、652年(書紀白雉3年:孝徳8年:白雉元年)「正月より是の月に至るまでに、班田すること既におわりぬ(立評:評制施行の完成)」。
いっぽう、九州王朝倭国は古田武彦氏が指摘するように、もともとが「両京制」・「兄弟王朝」の政治システムだったようで。
倭国は九州(筑紫島)を本拠に・出雲・加賀・吉備・『秦国』・尾張・毛野(常陸)・任那等を含む連邦国家であったはずで、その個々の王国ごとに統治形態が違い、連邦国家全国の「天下立評(=全国評制施行)」は大変困難な作業だったと思われる。
その後、中央集権国家の巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」は爾来強大な軍事力で支えられ継続して維持されたはずで、そのベース基地たる 「九州王朝難波副都」 は「天下立評(=全国評制施行)」の班田収受が徐々に軌道に乗り、かたやその財政余力をかって、飛鳥・葛城の『秦国』王家の蘇我氏の取り込みも謀った。
「大宰府倭兄王家」 は大陸の情勢が風雲急を告げ 〔参照:川端俊一郎著『隋唐帝国の北東アジア支配と倭国の政変』について〕、その白鳳王(=明日香皇子・筑紫君薩夜麻・天武天皇)は百済回復戦で出兵、白村江戦で破れ、あろうことか捕虜になって唐国の長安に連行・抑留されてしまった。
いっぽう、「天下立評(=全国評制施行)」の維持にかこつけて参戦しなかった、(というより『秦国』が唐国・新羅の東西枢軸に参加し、倭国大宰府を背後から襲うのをブロックする為にその兵力を動かせなかったと言うのが正解か)、中大兄皇子(=天智天皇)の 「難波副都倭弟王家」 は兵力の温存はできたものの倭国留守居王権として、唐国との戦後賠償交渉を繰り返し、白村江戦が本土決戦での敗戦でなかったので交渉は強気だったでしょう。
一向に進まない戦後賠償交渉に業を煮やした唐国側の郭務悰は、捕虜の筑紫君薩夜麻(=天武天皇・白鳳王)を開放・投入。
《 注意 》 天武天皇についての煩雑な表現をしているお詫びと、そのわけをここで説明しておく必要があろう。
日本書紀は、673年(天武2年:白鳳13年)2月27日の項に、
同じ天武天皇の皇子に 「尊」 ・ 「命」 の異なった「みこと」表記がされていて出典が違うことがわかる。
●大和朝廷:「難波副都倭弟王家」出身の 天武天皇(=大海人皇子・持統の夫・草壁皇子 「尊」 の父)
日本書紀が天武天皇を、「二人で一役」の合成人間で記述することは、全編を通じて九州王朝「倭国」を抹殺するが為でしょう。
すなわち、 『白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、
以下が「その順路のあらすじ」である。
※別紙 『 「倭国」の「大宰府主都」 : 「難波副都」対比年表 .html版 』 ・ 『 同 .pdf版 』 と、併せて参照方お願いします。
《歴史的経緯の説明》
①九州王朝「倭国」はある時期(たぶん「倭王武」477年頃)全国征伐し茨城県以西を間接付属王国支配。
②隋書俀国伝に、『又竹斯国に至り、又東して秦王国に至る。―竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す。』
③東へ倭に付属「秦王国」を訪れているのに、『書紀』には記載が無い。たぶん「日本国」へ書きかえた。
④九州王朝「倭国」が緊迫のアジア情勢から難波副都建設し天下立評。同時に倭国の分王家が常駐開始。
⑤倭国と秦王国からの遣使団が唐朝内で鉢合せ、付属秦王国の遣使を難詰し喧嘩。唐朝が両国使監禁。
⑥洲柔・白村江敗戦662年で唐が白鳳倭王を拘束・連行。これをネタに大宰府開城、筑紫島が被占領。
⑦白村江敗戦を知った難波副都守備隊が長門以東を防衛。天智天皇遷都即位、秦国接収、日本国独立。
⑧白鳳倭王薩夜麻が解放帰国。難波副都の大海人皇子の協力で倭国再統合戦の壬申乱を戦勝、復位。
⑨壬申乱戦勝は難波副都の大海人皇子の協力甚大「真人」位賜る。白鳳王崩御后、朱雀王に即位。
⑩筑紫倭王家の近畿遷都、白鳳王・朱雀王崩御后、高市天皇即位。大化改新に不満の軽皇太子が暗殺。
⑪難波副都の軽皇太子、筑紫倭王家の高市天皇暗殺后、文武天皇に即位。大和朝廷「日本国」開闢。
《注意》評制施行の天下立評そのものは、『常色の宗教改革(I「評」制は「誰」が「何時」施行したか):正木裕著』で言う、己酉(六四九大化五《九》常色三)であるが、時代区分としての灘波副都の完成年次の白雉元年652年とした。
このように考えると、九州王朝から大和朝廷に実権が完全に移行したあとの文武天皇の大宝改元以降も、
なぜか、私には永年不思議だった大和朝廷の天皇が筑紫に還りたい、とか戻りついた、とか言ってる次の記事
661年(斉明7年:白鳳元年)『4月、(斉明)天皇は朝倉〔福岡県朝倉郡朝倉町山田〕の宮に遷居した。
日本書紀が、九州年号で書かれた倭国史書を盗用して如何に改編したかについて、正木裕氏は、
〔日本書紀『持統紀』の真実—書紀記事の「三十四年遡上」現象と九州年号〕 の中で、その改編の手法のひとつを以下明らかにしている。 要は当時の日本は西暦は一般的でなく、「60年周期の干支」と「倭国の元号」(=九州年号)が史書編纂・編年の拠り所だったということです。
『書紀編集者は、九州年号 「白雉・白鳳期」 の記事の一部を編者の都合にあわせて切り取り、 「白雉を朱鳥」 に、 「白鳳を大化」 に各々元号を入れ替え、九州年号の朱鳥・大化期に貼り付けたのだ。
そうした上で、邪魔な九州王朝の「元号」を消去し、近畿天皇家の天皇の治世・年号にあわせて書紀を編纂した。
このような手法によって始めて 「34年前」 の事実が 「天武・持統期」 に近畿天皇家の事跡として記述出来る。
書紀編集者は、
「34年前」 の事実が 「天武・持統期」 に近畿天皇家の事跡として記述されている例としていちばん眼に付くのが、いわゆる、
『天武天皇の詔(複都制683年:天武12年:白鳳23年)で、12月17日、また詔して、
なお、加えて、
上記の天武天皇・詔は、正木裕氏の上記に記載の34年遡上説に従うと、これこそが、34年前の649年(大化5年:孝徳5年:常色3年)の出来事〔造複都難波京〕となり、その後は652年(書紀白雉3年:孝徳8年:白雉元年) 「正月より是の月に至るまでに、班田すること既におわりぬ(立評の完成)。
〔メモ:大化改新の詔646年(大化2年:孝徳2年:命長7年)の方が、これよりも古い出来事となるが、はたして
以下は古田史学の会の
【 古賀達也氏の『洛中洛外日記』第196話 2007/11/16 「大化改新詔」50年移動の理由 】 のそっくり転載です。
「難波朝廷天下立評給時」 記事から倭国史改編手法のひとつ 「50年前移動」
—————〔「大化改新詔」50年移動の理由〕—————
『延暦23年(804)に成立した伊勢神宮の文書 『皇太神宮儀式帳』
太宰府政庁よりもはるかに大規模な朝堂院様式を持つ前期難波宮であれば、中央集権的律令制としての 「天下立評」 を実施するのにまったく相応しい場所と言えるのではないでしょうか。
九州年号の大化2年(696)、大和朝廷が藤原宮で郡制施行(改新の詔)を宣言した事実を、『日本書紀』編纂者達は50年遡らせることにより、九州王朝の評制施行による中央集権的律令体制の確立を自らの事業にすり替えようとしたのです。
このように考えたとき、「大化改新詔」が50年遡らされた理由が説明できるのですが、しかしまだ重要な疑問が残っています。
これは大変な難問ですが、わたしは次のような仮説を考えています。
しかし、この仮説にも更なる難問があります。それなら何故、藤原宮で出された「改新詔」に他王朝の年号である大化が使用されたのかという疑問です。
Ⅳ・④『「 評 と 郡 」 ・ 「 都督 と 評督 」 』 と 『 天 下 立 評 』
以下は、
『古代史再発見第2回:王朝多元―歴史像―古 田 武 彦 :1998年9月26日(土)大阪・豊中解放会館』 からのまったくの転載ですので、悪しからず。
◎〔九:郡と評〕
それでは国内の方にその現れはないかというと、あるわけです。
有名なテーマとして、戦後歴史学界の最大の論争と言うべき郡評論争です。
「大化改新の信憑性について」という発表である。
『日本書紀』はおかしい。これには問題があるのではないか。特に大化改新のところで盛んに「郡」と書かれている。郡司という形で出てきている。
これに対して議長の坂本太郎さんは、「今の発表は、私としては承伏しかねる。
それは最終的に奈良県の藤原宮の木簡(荷札)で決着が付いた。
ところがこのように決着を見たのですが、私のほうから見ると、まだ本当の決着は付いていないと私は考えています。
なぜかと言いますと、坂本太郎さん自身が言ったとおり、「事実問題としては井上君の言ったとおりであると思うが、しかしなぜ『日本書紀』がそれを郡と書き換えなければならなかったのか私には分からない。」と言われた。
そういう問題が残っている。坂本太郎さんは非常に正直な方である。
なぜ正直かということを知っているかというと、わたしはお世話になった坂本太郎氏にもよく本をお送りした。
その正直な坂本太郎さんが、今の論争が決着したと認めた後、しかしわたしには、まだ疑問が残っている。
しかし私は思いますが、現実は「評」であるということを我々は荷札で分かったわけですが、当時の『日本書紀』の編集した人は端(はな)から承知していた。
その「評」という制度はとうぜん一人の人間が気まぐれに言い出したのではなくて、当然権力が施行したと考えなくてはならない。
「評」という制度を真に施行したのは誰か。この場合には、近畿天皇家以外に施行したのは誰か。そういうふうに論理に絞られてくる。
その中国側の史料によれば、倭国は七〇一年で滅亡した。志賀島の金印以来の倭国を滅亡して、その分家であった日本国が併呑したと書いている。
◎〔十:都督と評督〕
しかも郡の場合には郡司という役職はあるが、評の場合は「評司」という言葉はない。
先ほど説明しました『宋書』をご覧下さい。
■太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表獻方物讃死弟珍立遣使貢獻自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王
・・・
■二十八年加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故并除所
・・・
■順帝昇明二年遣使上表曰
・・・
■開府儀同三司其餘咸假授以勸忠節詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王・・・
『宋書』に倭王は中国側から見ると都督であると何回も出ている。倭王は都督であったことは疑いがない。「都督」がいたところを中国側が歴史書でどう読んでいるかというと「都督府」という。
それでは日本で「都督府」が存在した形跡がある場所があるかといえば、一つだけある。文献的には『日本書紀』天智紀に出てるのですが、「筑紫都督府」という言葉が出てくる。筑紫は当然福岡県です。
日本書紀 巻第廿七 天命開別天皇 天智天皇 六年春二月壬辰朔戊午。
・・・
十一月丁巳朔の乙丑に、百済鎮将劉仁願、熊津都督府熊山県令上柱国司馬法聰等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府に送る。
それでは現実の場所に「都督府」という名が残っている所はあるか。これも一つだけ在る。福岡県の太宰府に行かれると遺跡があって、その前に大きな石碑が建っていて、そこに「都督府楼跡」として出てくる。
『日本書紀』にある「筑紫都督府」に一致している。
これに対して大和都督府とか近江都督府等は、文献にもないし、現実にそんな呼び方も全く残っていない。
これも意地悪ではないが、いろいろお世話になっている岩波古典大系での「筑紫都督府」のところの注釈が凄い。
「筑紫都督府」というのは、中国が使いを送ってきた。捕虜を返す場所の記録として「筑紫都督府」という名称があったことは疑いがない。書かれて残っているとおりである。現在も名前が残っている。ということは、あそこに都督が居たということになる。
大和に都督が居るのに、筑紫に都督府があるとしたらおかしい。
つまり私が言いたいことは、「評督」という言葉が各地で出てくるが「評」という言葉は関東から九州まで出てくる。
各地の評の長官が評督、評督が数ある中でそれを統括したのが都督である。その都督が居たところが都督府。こう考えるのが一番筋が通った考え方である。
そのことは『旧唐書』に書いてある事と一致している。倭国というのは志賀島の金印の以来の国が、全部倭国であり、白村江もその倭国と闘った。それを倒した。
それを中国側の史料、後代史料とは言えない唐が滅んだ直後に書かれた『旧唐書』でも、そのように言っているし、(唐が滅んで)百年近く経って編纂された『新唐書』も同じ立場に立っている。
率直に言って、私は天皇家のことを良く言うとか悪く言うとか、まったく無関係で、天皇家が素晴らしいということが史料を追跡してわかった場合は遠慮無く言いますし、そんなイデオロギーとはまったく無関係である。
そんなことには関係なく、筋道として日本と最も関係が深かった白村江で闘ったその中国が『旧唐書』『新唐書』を通じて書いていることを、ウソだという言い方が出来る資格のある人はどんな日本人にも、学者にも、いないと思う。
わたしが今日言いたかったことは「七〇一」という問題でございます。「七〇一」を前提にしない日本の歴史は疑わしい。はっきり言ってインチキである。
死んだら何とかなると思って、そういう思惑からイエスは処刑された。本居宣長も江戸幕府は勝手に町医者に言わせ放しにしていた。学問というのは朱子学で、国学を学問とは江戸幕府は一回も認めなかった。
――体制を握っていたら宣伝力は抜群であるから――そう考えて最後は宣伝力で勝負するという態度に、ついつい出てしまう。わたしは、そう思っております。しかし、それは終わりに近づいていると理解しています。
以上は、
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◎「評と郡」・「都督と評督」・「天下立評」における「わたしの理解」について
九州王朝「倭国」王の 珍 が、438年、中国・宋に朝献し、自ら「使持節 都督 ・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍 倭国王」と称し、宋文帝によって「珍安東将軍倭国王」と認めらた時点で、既に「都督と評督」制が行われていたと分かる。
この時点での九州王朝「倭国」の「都督と評督」制の実施範囲であるが、その直轄地の「筑紫(=九州)島」、のほかに半島の「任那」において施行されていた。
また、この時代の本州・四国地区は、九州王朝「倭国」が征服途上であるが、征服後も直轄地ではなく、後に倭国附庸王国「出雲・加賀・吉備・『秦国』・尾張・毛野(常陸)」となる間接統治の連邦附庸王国制が採用されていたと考えられる。
その約200年後は、隋・唐がしつこく高句麗の侵略を繰り返し、やがては百済・倭国へとその矛先が向いてくると予想した九州王朝倭国の「天帰王(あまぎ・甘木)」が正木裕氏の言う「常色の改革」を推し進める一環として、「天下立評」があり、造複都「難波京」の建設詔649年10月が発せられ、652年「難波京」完成を祝って「白雉改元儀式」が大々的に挙行された。
九州王朝「倭国」の末王「高市天皇」が、「プロト大化改新:696年」この評制を郡制へ改新しょうとしたが、想いなかばにして「プロト大和朝廷(=九州王朝「倭国」の分家「難波副都倭弟王家」)」の藤原不比等の同調者にクーデターで暗殺されて、九州王朝「倭国」は696年滅亡する。
この「郡制施行(=建郡)」は九州王朝「倭国」のあと、クーデターで実権を握った大和朝廷「日本国」に引継がれ、開闢と同時の701年実施された。
九州王朝倭国「天帰王」が「常色の改革」の一環として実施の「天下立評」が倭国の「出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野(常陸)」連邦附庸各王国へ与えた衝撃が想像できます。
漢委奴国・邪馬壹国(x邪馬臺国)・親魏倭国・委国・倭国・大倭国・俀国はどこか?しかも、この科学の時代に今もなお何故わからないのでしょう?
それは九州王朝『倭国』の主だった史実を、『日本書記』が抹殺し・隠しているからでしょう。とてもまともな史書とはいえませんね、いわゆる偽書の類でしょう。
九州王朝『倭国』は
『白村江の戦い』(西暦662年)
に敗れる迄、九州(筑紫島)を本拠に・出雲・加賀・吉備・『秦国』・尾張・毛野(常陸)・任那等を含む連邦国家で、日本列島及び半島最南部を代表する政権だった。
(参照):連邦制を彷彿させるものとしては、古田武彦氏が著書『よみがえる九州王朝』で「幻の筑紫舞」を紹介している。
私はこの連邦国家の構成員であった飛鳥・葛城の『秦国』が、唐・新羅に唆(そその)かされ白村江の戦いで倭国を裏切ったものと思います。
日本書紀は白村江敗戦後の九州王朝「倭国」から大和朝廷「日本国」への政権交代を語ろうとしないわけですが。
九州王朝『倭国』が白村江の敗戦を期に、マッカサーの厚木飛来同様、唐軍2千人規模ではあるも、数度の筑紫都督府(=大宰府)進駐。
倭国白鳳王・薩夜麻不在での留守居倭王権の混乱・政権建直しで近江朝の独立(=天智天皇の遷都・即位)・倭国の戦後賠償・レジスタンス抵抗・唐のジレンマ。
更に10年后の、捕虜になって洗脳された筑紫君薩夜麻(=明日香皇子、白鳳王661-684年、天武天皇)の唐よりの解放・帰還。
九州王朝『倭国』は白村江の敗戦を期に一気に衰弱し、さらに『壬申の乱』を経て、最期の本来の『プロト大化改新』をとどめに滅亡に至った。
その後は中央集権国家の大和朝廷『日本国』が701年開闢したと理解できよう。
ただこの大和朝廷『日本国』もいきなり出来たわけではなく、その約50年前に前身の『プロト大和朝廷(=難波副都倭弟王家)』が出来るきっかけは、九州王朝「倭国」の天帰王(甘木王)が実施した「常色の改革」の一環としての難波副都での「天下立評」がその発端でしょう。
日本の古代史云々を語る者は、何はさて置き、
『何故、国内的には「日本書紀」が九州王朝「倭国」を抹殺したのか、対外的には、大和朝廷「日本国」がどういう経緯で忽然と極東アジアに現れたのか』
を明らかにしなければならない、と私は考えます。もうそのほとんどが、ほぼ明らかになっているのでしょう。
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Ⅳ・①『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』