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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 001 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(000a) 『九州王朝から近畿天皇家への権力移行期』 2010年2月18日(木)


『古賀達也の洛中洛外日記』 第240話 2010/01/11


《ご注意》下記は、上記の抜粋・転載ですのであしからず。
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――《途中略》――

4).天武紀の地震記事と九州王朝(川西市・正木裕)

 天武紀には天武七年(六七八)の筑紫大地震はじめ、十七回もの地震記事が記録され、『書紀』中でも群を抜く。筑紫大地震以降の十六回中十二回はその余震と見られる事、火山活動に伴う降灰・雷電が記されている事等から、『書紀』のこの部分は筑紫の記事、即ち九州王朝の記録と考えられる。この時期風水害や降雹記事もあり、白村江敗戦に追い討ちをかける、度重なる天災により筑紫の疲弊は甚だしかったと推測される。

 一方、『書紀』天武十三年(六八四)の白鳳大地震は、東海・東南海・南海地震の同時発生と考えられ、被災地は筑紫ではなく東海・近畿・四国であるから、これは近畿の記事である。

 そして、この年九州年号が「朱雀」と改元されており、近畿での地震被害が改元の契機であれば、九州王朝はこの時点で拠点を近畿、その中でも副都たる難波宮に移していた事となる。これは難波宮焼失の天武十五年に九州年号が「朱鳥」に改元されていることからも裏付けられる。

 この間に九州王朝の筑紫から難波への移転がおき、近畿天皇家への権力移行期である天武末期から持統期に、両者は地理的にも近接して存在していたと考えられるのではないか

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《転載は以上です。》


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(000b) 『「難波副都の九州王朝片方の王家」 と 「葛城〔秦国〕の取込み」』 2010年3月10日(水)

 
 ひょっとして、孝徳・斉明・天智・(持統の夫の)天武・持統・文武の系統は九州王朝が難波副都で評制を施行し、全国を実効支配した 倭国「両京制」の片方の王家だったのではないだろうか。いっぽう蘇我馬子(=有明子)をはじめとする蘇我氏こそが飛鳥地方の葛城『秦国』王家だったのでは、もとは前方後円墳だった封土が剥ぎ取られ石棺がむき出しの辱めを受けてる「石舞台」などは、九州王朝難波副都の王家に乗っ取られた証拠ではないだろうか。


 九州王朝倭国複都の難波副都は今まで見てきたように、649年(大化5年:孝徳5年:常色3年)10月、造複都難波京の詔が発せられ、同時に伊勢王等の諸国境界確定記事が続き、652年(書紀白雉3年:孝徳8年:白雉元年)「正月より是の月に至るまでに、班田すること既におわりぬ(立評の完成)」。「同年、2月(白雉改元儀式)」 「同年、秋9月、宮を造ることがまったく終わった(九州王朝難波副都完成)。その宮殿の形状は、とても論じつくせない。」と続く。


 いっぽう、九州王朝倭国は古田武彦氏が指摘するように、もともとが「両京制」の政治システムだったようですが、思うに、王家のいずれかが大宰府、いずれかが難波副都をと分かれて預かる形になったでしょう。大宰府を預かったのが薩夜麻(=白鳳王・高市皇子の父の天武天皇)であり、難波副都を預かったのが天智天皇〔=孝徳・斉明・天智・(持統の夫の)天武・持統・文武〕の系統だった。


 倭国は九州(筑紫島)を本拠に・出雲・加賀・吉備・葛城『秦国』・尾張・毛野(常陸)・任那等を含む連邦国家であったはずで、その個々の王国ごとに統治形態が違い、評制施行は大変な作業だったと思われるが、あにはからん、伊勢王等の諸国境界確定記事は産むが易しだったようだ。
 その後、難波副都は評制の班田収受が徐々に軌道に乗り、かたやその財政余力をかって、葛城『秦国』王家の蘇我氏の取り込みも謀った。そうこうするうちに、難波副都は大和朝廷へ発展したということでしょう。 


 大宰府は大陸の情勢が風雲急を告げ、薩夜麻は百済回復戦で出兵、白村江戦で破れ捕虜になった。
  難波副都は兵力の温存はできたものの倭国留守居王権として、唐国との戦後賠償交渉を繰り返し、白村江戦が本土決戦での敗戦でなかったので交渉は強気だったでしょう。
 一向に進まない戦後賠償交渉に業を煮やした唐国側は捕虜の薩夜麻(=天武天皇)を開放・投入し「壬申乱」を起し戦勝。薩夜麻は勝ったものの倭国は唐国の傀儡化と過酷な戦後賠償で疲弊。そのうえ、筑紫大地震が襲い、ついに、難波副都に助けを求めた。これが、「三つ足の雀(3種の神器)の貢上」となったのでしょう。



 すなわち、 『難波副都で評制を施行し財力を蓄えた九州王朝倭国の片方の王家〔=孝徳・斉明・天智・(持統の夫の)天武・持統・文武の系統〕が、飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取り込み発展したのが『日本国』・大和王朝・大和朝廷であった。』 ということです。

 このように考えると、九州王朝から大和王朝に実権が完全に移行したあとの文武天皇の大宝改元以降も、〔木簡「長屋親王宮鮑大贄十編」の出土からわかることは、高市皇子は実は即位していた。なので高市天皇の皇子の長屋は「親王」である。〕《魚拓》 での長屋親王とか、  〔橘諸兄は九州王朝王族の子孫だった。〕《魚拓》 の大宰府系と思われる九州王朝王族の生存・存続記事もあり得ることとなります。


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(001) 『日本書紀だけの「舒明から持統まで」』 2010年4月4日(日)

古事記では遠慮して書けなかったこと、隼人の乱が収まって、いっそのこと全部破棄してしまえってんで書き直したのが日本書紀。
舒明から持統までの大和朝廷の出生の秘密・その母体が九州王朝倭国難波副都の倭王家〔分家の弟王家〕だとわかる。
12:23 AM Apr 4th webから


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(002) 『年老いた女性・斉明は生まれ故郷での死を希望』 2010年4月4日(日)

斉明天皇って筑紫の朝倉宮に白村江の戦いの督戦の為に、わざわざ大和から九州へ行宮を移したと言われている。
明治天皇が日露戦争時広島に大本営を移したように。
でも、実態は年老いた女性が生まれ故郷で死にたがるように、夫に付いていった戦陣の難波副都から朝倉へ帰って亡くなったということだろう。
4:32 AM Apr 4th webから


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(003) 『平城京1300年祭と、「大仏開眼」』 2010年4月7日(水)

今、平城京1300年祭をやってる。大仏開眼とかね。
米田良三氏の説だと大仏は大分県の小倉山に、「東大寺 」の正式名称 「金光明四天王護国の寺」で示すように、「金光元年(西暦570年)」 に完成している。
その後752年に移築したものだ。なんとも切ないつらい話だ、いや聖武天皇かわいそう
8:18 PM Apr 6th webから


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(004) 『大和王朝の素性』 2010年4月10日(土)

古事記になくて日本書紀に記載の舒明・皇極・孝徳・斉明・天智・天武・持統の各天皇は、九州王朝倭国が難波副都でその強大な軍事力を背景に、巨大徴税システムである天下立評(=全国評制施行)した倭王家〔分家の弟王家〕である。
この倭王家が 母体・核となって蘇我氏を取込み発展したのが大和王朝だ。
9:05 PM Apr 9th webから


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(005) 『郡制施行(=建郡)は50年後の696年』 2010年4月10日(土)

日本書紀には大和朝廷が646年大化改新(=郡制施行)をしたと書いてある。
でもほんとうの郡制施行(=建郡)は50年後の696年にあったことなんだよね。
九州王朝倭国が652年天下立評(=全国評制施行)したことをカムフラージュしてたんだと最近わかってきた。
古田史学の会の一大研究成果だね
9:33 PM Apr 9th webから


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(006) 『天下立評の倭王家の一派が大和王朝だ』 2010年4月10日(土)

古事記になくて日本書紀(のみ)に記載の舒明・皇極・孝徳・斉明・天智・天武・持統の各天皇は、九州王朝倭国が難波副都でその強大な軍事力を背景に巨大徴税システムである天下立評(=全国評制施行)した652年から真実の大化改新696年までとほぼ一致している。
この倭王家の一派が大和王朝だと考えた。
9:50 PM Apr 9th webから


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(007) 『徴税には強大な軍事力が必要』 2010年4月10日(土)

巨大徴税システムである天下立評(=全国評制施行)・班田収受なんて、あとで税金もってかれちゃうんだよ、強大な軍事力を無くしてとてもなしえないよね。太閤検地を見るまでもなくだ。
9:59 PM Apr 9th webから


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(008) 『造複都難波京の詔』 2010年4月10日(土)

書紀683年記事は34年前の649年(大化5年:孝徳5年:常色3年)で10月、
〔造複都難波京の詔〕 が発せられ、同時に伊勢王等の諸国境界確定記事が続き、
652年(書紀白雉3年:孝徳8年:白雉元年)「正月より是の月に至るまでに、班田すること既におわりぬ(立評:評制施行の完成)」。
10:15 PM Apr 9th webから


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(009) 『天下立評できたのは九州王朝倭国しか考えられないね』 2010年4月10日(土)

この649年(大化5年:孝徳5年:常色3年)10月、 〔造複都難波京の詔〕 が発せられたわけだが、この時点で強大な軍事力を背景に天下立評(=全国評制施行)できたのは九州王朝倭国しか考えられないね。
10:21 PM Apr 9th webから


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(010) 『日本書紀って、いい加減な史書』 2010年4月10日(土)

まー、日本書紀って、いい加減な史書でどこまで信用して良いのやら分からないっていうのが本音ですが正木裕氏・古賀達也氏・古田武彦氏の研究で大分わかってきたってことかな。
九州元号で編纂された倭国史を元号単位に転記したってことかな。
10:34 PM Apr 9th webから


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(011) 『分かってしまえば、如何って事のない』 2010年4月10日(土)

分かってしまえば、どうって事のない手法だけど…、古田武彦氏・正木裕氏の研究成果は画期的で脱帽します。
ただ、どの記事は移動されていて、どの記事は正しいかは素人判断できないね。
コンピューターにぶっこんで書き直して欲しいね。
10:41 PM Apr 9th webから


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(012) 『倭国史を復元して欲しいね』 2010年4月10日(土)

そうだ、コンピューターにぶっこんで、日本書紀から倭国史を復元して欲しいね。
まー、特に舒明から持統天皇まではかなり正確に復元できると思うね。どうよ!
12:46 AM Apr 10th webから


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(013)  『ひどん(毘曇)の乱のコピー丸出し』 2010年4月10日(土)

日本書紀で、だいたい、物語風に書かれている箇所はいただけないね、というか、うさん臭いしね。
我々は「大化改新」って習ったけど、今は「乙巳の変」っていうんだってね、これなんか新羅であったひどん(毘曇)の乱のコピー丸出しだし、壬申乱だってまともに信じるとやけどするね。
1:04 AM Apr 10th webから


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(014) 『具体的に書くと御幣があった』 2010年4月11日(日)

日本書紀で、だいたい、物語風に書かれているところの「乙巳の変」とか「壬申乱」とかは、具体的に書くと色々御幣があったということだろうね。
だから最寄の記事を利用してさもそうであったかのごとく脚色したということだろう。
1:16 AM Apr 10th webから


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(015) 『隋唐帝国の北東アジア支配と倭国の政変』 2010年4月11日(日)

川端 俊一郎著の『隋唐帝国の北東アジア支配と倭国の政変』によって、氏の外国史料に基づく当時の理解はその的確性において卓越している。
しかし何故「日本書紀」が九州王朝「倭国」を抹殺したのか、大和王朝「日本国」がどういう経緯で忽然と極東アジアに現れたのか、の説明になっていないと思う。
11:14 PM Apr 10th webから


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(016) 『何故「日本書紀」は九州「倭国」を抹殺したのだろうか』 2010年4月11日(日)

馬子(=有明子)をはじめとする蘇我氏こそが飛鳥地方の葛城『秦国』王家であり、葛城『秦国』が母体・核となって大和朝廷「日本国」へ発展したと「仮定」した場合、
その王朝史となる「日本書紀」が九州「倭国」を抹殺しただろうか、
私は思うに抹殺せずその討伐経緯をむしろ誇らしげに書き込んだだろう
6:03 AM Apr 11th webから


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(017) 『隋書でいう秦王国こそが飛鳥・葛城『秦国』であり、蘇我氏であろう』 2010年4月11日(日)

「隋書」俀国伝中に、
『明年(大業4年:608年:推古16年)、上、文林郎裴清を遣わして俀国に使いせしむ。
百済を渡り、行きて竹島に至り、南に聃羅を望み、都斯麻国を経、迥かに大海の中に在り。
又東して一支国に至り、又竹斯国に至り、又東して秦王国に至る。其の人華夏に同じ。以って夷州と為すも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。
又十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す。』
と記載あるように竹斯国(九州島)以東で目ぼしい国といえば秦王国だった、この秦王国さえも俀に附庸すると言っているが。
この隋書でいう秦王国こそが飛鳥・葛城地方の『秦国』王家であり、蘇我氏であろう。
7:58 AM Apr 11th webから


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(018) 『秦王国と十余国を経て「海岸」に達するとは』 2010年4月11日(日)

古田武彦氏が著書「失われた九州王朝」で竹斯国(筑紫国)より東へ、秦王国と十余国を経て海岸に達するという。だから、この海岸が九州の東岸であることは疑えない。
と言ってるが、私のは竹斯国(九州島)であり「海岸」は常陸国(茨城県)の九十九里浜である。
隋書時代の視点はもっと広かったと思う。
9:42 AM Apr 11th webから


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(019) 『周防国が秦国だと言う説もある』 2010年4月11日(日)  

今、数えで7年に1度の諏訪大社の御柱祭でテレビが連日放映している。
この「諏訪」は山口県東半分の「周防」の地名遷移といわれている。
大和朝廷になって防府市が国衙であり、九州王朝時代は光市の「小周防」に国衙があったと言われている。
周防湖(諏訪湖)を埋め開拓したのが秦氏であり、周防国が秦国だと言う説もある。
10:06 AM Apr 11th webから


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(020) 『広瀬と龍田の神とを祀った』 2010年4月11日(日)

あっそうそう「小周防」で思い出した、日本書紀の壬申乱以降を少しでも読んだことのある人は「吉野の宮に行幸した」と同じくらいの頻度で
「広瀬と龍田の神とを祀った」《魚拓》
という記事である。秦国に関係するかもね
11:34 PM Apr 11th webから


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(021) 『〔造複都難波京の詔:649年10月〕』 2010年4月12日(月)

九州王朝倭国の〔造複都難波京の詔:649年10月〕は予想される朝鮮半島や唐との関係悪化に備え
●難波宮に拠点(副都)を設け、「天下立評(=全国評制施行)」の実施
●葛城『秦国』が唐国・新羅と同盟し倭国大宰府を背後から襲うのを防御・牽制・排除
●東方「蝦夷・粛慎」の皇化が目的と思われる。
8:22 AM Apr 12th webから


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(022) 『即断即決の為大宰府王家と難波副都王家に分担した』 2010年4月12日(月)

隋・唐がしつこく高句麗の侵略を繰り返し、やがては百済・倭国へとその矛先が向いてくると予想した九州王朝倭国は〔造複都難波京の詔:649年10月〕発して難波宮に拠点(副都)を設け天下立評・曽我氏の排除を実行した。
その際両京制倭国は即断即決の為王家を大宰府王家と難波副都王家に分担した。
9:36 AM Apr 12th webから


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(023) 『倭国・日本国の遣唐使が喧嘩・拘束』 2010年4月12日(月)

当然、唐は高句麗を屈服させた後に陸路半島の百済へ侵入すると想定してたはず、しかし、唐は山東半島から直接海路侵入してきた。百済は思わぬ侵略にあわてたことだろう。
660年百済は壊滅した。その前の659年、倭国・日本国の遣唐使が喧嘩・拘束されたのはその計画を本国に察知させない為だろう。
9:59 AM Apr 12th webから


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(024) 『「冊府元亀」蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す』 2010年4月12日(月)

「冊府元亀」に『(顕慶4年:659:高宗)10月、蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す』とある、蝦夷国人は大宰府倭国の使とともに入唐したのである。
660年百済壊滅の直前の659年、倭国・日本国の遣唐使が喧嘩・拘束の記事の「日本国」とは、唐国・新羅に唆されて同盟遣使の葛城『秦国』だろう。
1:14 PM Apr 12th webから


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(025) 『「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化』 2010年4月12日(月)

「冊府元亀」の『蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す』記事に何故拘るかと言えば半島や唐との関係悪化に備えて、九州王朝倭国が「難波副都」を基点に更に東方の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化し後塵の憂いを除く、のも一つ目的だとすれば、
蝦夷国が倭国の使に随いて入朝は難波副都倭王家の成果である。
2:40 PM Apr 12th webから


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(026) 『唐国・新羅に同盟遣使の葛城『秦国』王家の蘇我氏』 2010年4月12日(月)

660年百済壊滅の直前の659年、倭国・日本国の遣唐使が喧嘩・拘束記事の「日本国」とは、唐国・新羅に唆されて同盟遣使の葛城『秦国』で、この王家が蘇我氏 だと考えているので白村江の戦い前後まで蘇我氏は健在だったと言うことになり、
その後難波副都倭王家の天智天皇に滅ぼされたことになる。
2:56 PM Apr 12th webから


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(027) 『「日本書紀」が何故、九州王朝「倭国」を抹殺したか』 2010年4月13日(火)

何故国内的には「日本書紀」が九州王朝「倭国」を抹殺したのか、
対外的には、大和王朝「日本国」がどういう経緯で忽然と極東アジアに現れたのか、
改めてその説明をしなければならない。
about 16 hours ago webから


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(028) 『葛城『秦国』王家の蘇我氏の滅亡』 2010年4月13日(火)

飛鳥寺・四天王寺・川原寺・山田寺は葛城『秦国』を代表する寺社・仏閣である。
白鳳地震の後どうも捨て置かれたみたいで発掘調査で塀が倒れたままの状態とかで発見されている。葛城『秦国』王家の蘇我氏がこの時点で滅亡していたと考えられる。
確かに壬申乱以降、日本書紀に曽我氏の名前が出て来ない。
about 13 hours ago webから


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(029) 『九州王朝倭国は特異な兄弟王朝制度だった』 2010年4月13日(火)

古田武彦氏が「失われた九州王朝」で「兄弟王朝」に触れ九州王朝倭国が特異な兄弟王朝制度であった書く。
私は大宰府倭王家と難波副都倭王家がこの「兄弟王朝」だったと考えた訳です。
卑俗的に言えば本家と分家でしょうか、本家の大宰府王家が「倭国」で、分家の難波副都王家が大和王朝「日本」である。
about 12 hours ago webから


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(030) 『白村江に出兵しなかったのは蘇我氏打倒の為か』 2010年4月13日(火)

倭国が難波副都で「天下立評」652年したのち葛城『秦国』王家の蘇我氏の取込みができなかったようで
660年百済壊滅の直前の659年、倭国・日本国の遣唐使が喧嘩・拘束記事につながっただろう、葛城『秦国』のブロックのため白村江に出兵できなかった。
否この時蘇我氏を打倒したのかもしれない。
about 10 hours ago webから


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(031) 『倭国の留守居王権としての天智天皇』 2010年4月13日(火)

大宰府倭国が白村江に出兵・敗戦し白鳳王(=薩夜麻)が捕虜として長安へ連行された。
主を失った大宰府倭国の留守居王権として難波副都倭王家の天智天皇はリリーフピッチャーとして表に出ざるを得なかった。
まー白村江に出兵しなかったし、国内での敗戦でなかったので戦後賠償交渉は強気だっただろう。
about 10 hours ago webから


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(032) 『踏んだり蹴ったりの難波副都倭王家』 2010年4月13日(火)

●壬申乱672年で難波王家の大友皇子(=天智天皇の皇子)が大宰府王家の白鳳王(=天武天皇)に戦死
●白鳳王(=天武天皇)が683年別の天武天皇に渡した「3種の神器(=三つ足の雀)」を反故に、その白鳳王(=天武天皇)の皇子の高市皇子が大宰府から浄御原宮へ遷都し、即位して天皇になった。
about 9 hours ago webから


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(033) 『「高市皇子」と「天皇」』 2010年4月13日(火)  

●持統4年(690年朱鳥5年)10月29日高市皇子が、藤原の宮の〔予定〕地を観た。公卿、百寮〔官〕が従った。
●『同 持統4年12月19日天皇が、藤原に〔行〕幸して、宮地を観た。公卿、百寮〔官〕がみな従った。
この2つの記事は「高市皇子」と「天皇」のみが意図的に違えてあるようだ。
about 5 hours ago webから


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(034) 『高市皇子の死と藤原不比等の栄達』 2010年4月13日(火)

●持統10年(696年大化2年)7月10日、後皇子尊〔高市皇子〕が薨じた。
●同 持統10年10月22日、かりに、正広参〔正三位〕の位の右大臣丹比真人に、資人120人を賜った。-略ー直広弐〔従四位下〕藤原朝臣不比等に、ともに50人。〔高市皇子の死と藤原不比等の栄達は何を表わすか〕
about 4 hours ago webから


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(035) 『九州王朝倭国は696年(持統10年:大化2年)滅亡した』 2010年4月13日(火)

即ち、九州王朝倭国は大宰府王家の高市天皇の薨去で終焉を迎えたということだ〔持統10年(696年大化2年)7月10日、後皇子尊〔高市皇子〕が薨じた〕。
評制は700年をもって郡制に取って代わる。
その後隼人の乱が鎮圧する712年(和銅5年:元明6年:大長9年)を最後に完全に滅亡した。 
about 3 hours ago webから


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(036) 『倭国の唐への悲惨な戦後賠償』 2010年4月13日(火)

思うに、旧唐書の『日本国は倭国の別種なり、或いは言う、日本はもと小国、倭国の地を併せたり、或いは言う、尊大ぶって事実〔倭国から別(わか)れた国であること〕を伝えない』とは、
言い換えると、倭国と日本国とは、同じ倭族ですが、全くの別国です。で日本国は唐国への戦後賠償には応じられない。
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(037) 『「兄弟王朝」倭国と日本国』 2010年4月13日(火)

日本書紀の爾来1,300年の改竄・隠蔽の意図はどこにあったか。
倭国と日本国とは別々の国だと唐国に印象付け、過酷な『戦後賠償』を免れるためだったとしたら、その徹底ぶりたるやすごいではないか!。
「兄弟王朝」だからして倭国から日本国へ変わった革命的な何かはひとつも見受けられないわけだ。
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(038) 『天武天皇の皇子に「尊」「命」 出典が違うのだ』 2010年4月14日(水)

673年(天武2年:白鳳13年)
『ー略ー正妃を立てて皇后とした。后は草壁皇子「尊」を生んだ。-略ー』
『天皇ははじめ、鏡王のー略ー次に胸形君徳善の娘、尼子娘を納れて、高市皇子「命」を生んだ。-略ー』
同じ天武天皇の皇子に「尊」「命」の異なった表記がなされ出典が違うだ。合成人間である。
44 minutes ago webから


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(039) 『九州倭国の倭王家「片方の弟王家」が「大和王朝」である』 2010年4月16日(金)

東西枢軸国の唐国・新羅・葛城『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその強大な軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家「片方の弟王家」である。
日本書紀の 〔舒明・皇極・孝徳・斉明・天智・(持統の夫で、草壁尊の父の)天武・持統〕 の各天皇はこの倭王家「片方の弟王家」の出身である。
倭王家「片方の弟王家」が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、発展したのが大和王朝・「日本国」である。
約3時間前 webから


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(040) 『大和王朝は九州王朝倭国の「分家」だ』 2010年4月16日(金)

ぶっちゃけた話、早い話が、大和王朝は九州王朝倭国の「分家」だったということか。
640年代に倭国の半分の軍事力を割いて、倭国の難波副都で「天下立評」し、蘇我氏を打倒し、東北の「蝦夷」を皇化した。
この分家は本家の倭国大宰府王家を696年高市天皇を暗殺し、乗っ取った。ということだろう。
約1時間前 webから


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(041) 『「高市天皇の暗殺」 と 「藤原不比等の栄達」』 2010年4月16日(金)

696年高市天皇を暗殺したと何故考えるかというと、高市天皇の在位期間がそっくり持統天皇に置き換えられている。
7月10日高市の薨去の3月あとの10月22日に、クーデターに参加したと思われる丹比真人・安倍御主人・大伴御行・石上麻呂・藤原不比等が栄達している。これこそが大化の改新だ。
30分前 webから


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(042) 『九州王朝倭国の倭王家「片方の弟王家」が大和王朝の前身である』 2010年4月19日(月)

白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・葛城『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国は「難波副都」で、「天下立評」したが、その司令官が 倭王家「片方の弟王家」である。
日本書紀の 〔舒明・皇極・孝徳・斉明・天智・天武・持統〕 の各天皇はこの「弟王家」の出身で、大和王朝の前身である。
1分未満前 webから


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(043) 『「隋書」の時点でも大和朝廷「日本国」という記述はない』 2010年4月19日(月)

「隋書」俀国伝中に、『明年(大業4年:608年:推古16年)、上、文林郎裴清を遣わして俀国に使いせしむ。ー略ー又竹斯国に至り、又東して秦王国に至る。ー略ー又十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す』
竹斯国(九州島)以東で目ぼしい国といえば秦王国で、この時点でも大和朝廷「日本国」という記述はない。
5秒以内前 webから


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(044) 『唐国と葛城『秦国』とが同盟の誼』 2010年4月19日(月)

632年(舒明4年10月4日)高表仁に告げて「天子の命じた使が、天皇の朝廷に到来したと聞き迎えます」といった。
高表仁が答えて「風の寒い日に、船を飾り整えて迎えを賜い、歓びまた恐縮しています」といった。
この時の朝廷とは葛城『秦国』であり、唐国と同盟のよしみ誼をこの時結んだだろう。
5秒以内前 webから


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(045) 『620年(608年推古16年9月+12年?)葛城『秦国』朝貢か?』 2010年4月20日(火)

葛城『秦国』朝貢か?
620年(608年推古16年9月+12年?)ここに天皇唐帝を聘ふ。
その辞に曰く「東の天皇敬みて西の皇帝に白す。使人鴻臚等の掌客裴世清等至りて久しき億ひ方に解けぬ。李秋薄冷尊如何に想ひ清悆此れ即ち常の如し。今大礼蘇因高・大礼乎那利等を遣わして往かしむ謹白具ならず」
10:13 AM Apr 20th webから


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(046) 『新羅の「ひどん(毘曇)の乱」』 2010年4月20日(火)

新羅の『ひどん(毘曇)の乱』は、
新羅が善徳王(632~647女帝)の時、和白の筆頭伊食毘曇が唐に唆されて、女王ではダメだといって廉宗と共謀し王位を狙い、647年正月反乱を起こし、
この時、王子の金春秋(=中大兄皇子)と重臣の金庚信(=中臣鎌足)が比曇(=蘇我入鹿)を誅殺した。
11:14 AM Apr 20th webから


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(047) 『暗殺によるクーデターの自慢話「乙巳の変」』 2010年4月20日(火)

696年7月10日の高市の薨去はクーデターによる暗殺だろう
(3ヶ月後の10月22日クーデターに参加の丹比真人・安倍御主人・大伴御行・石上麻呂・藤原不比等が顕彰されている)
「乙巳の変」は新羅『ひどん(毘曇)の乱』のコピーすることで、真実の「大化の改新」を臭わす意図があったと思える。
11:53 AM Apr 20th webから


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(048) 『尽く文籍を市い、海に泛んで還る』 2010年4月20日(火)

開元(713-741)の初、また使を遣わして来朝す。因って儒士に経を授けられんことを請う。四門助教趙玄黙に詔し、鴻臚寺に就いてこれに教えしむ。乃ち玄黙に闊幅布を遣り、以って束修の礼となす。題していう、白亀元年の調の布と。人またその偽なるかを疑う。この題得る所の錫賚、尽く文籍を市い、海に泛んで還る。
多治比真人県守が中国の書籍という書籍を買い漁り持還えったと書かれている。
然し、その割に中国及び半島の史書・外交記事と「日本書紀」とに、齟齬が多いのはどうしたわけだろう。大和朝廷には史書の類がまったく無かったのだろうか。
5:20 PM Apr 20th webから


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(049) 『大和朝廷の天皇のもともとの古巣が筑紫だった』 2010年4月22日(木)

●〔九州王朝難波副都完成の翌年653年(書紀白雉4年:孝徳9年:白雉2年)『この年、皇太子(中大兄皇子)が奏請して、「願わくは倭京に還りたいと思います」といった。(孝徳)天皇は許さなかった。・・・途中略・・・「倭の飛鳥(福岡県小郡市井上飛島)の河辺の行宮にうつり住んだ。・・・」』
●661年(斉明7年:白鳳元年)『4月、(斉明)天皇は朝倉〔福岡県朝倉郡朝倉町山田〕の宮に遷居した。6月伊勢王が薨じた。秋7月24日、(斉明)天皇は朝倉の宮で崩じた。8月1日、皇太子(中大兄皇子)は天皇の柩を移し奉って、磐瀬(福岡市三宅)の宮にもどりついた。・・・』〕
等々、大和朝廷の天皇が筑紫に還りたい、とか戻りついた、とか言ってるこれらの記事を読むにつけ、私には永年不思議だったのですが、〔(九州王朝難波副都へ)遠征中の彼等のもともとの古巣が筑紫だった〕 とすれば一挙に氷解し納得できます。
6:37 AM Apr 22nd webから


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(050) 『これは大嘗祭の大和朝廷初出記事ではない』 2010年4月22日(木)

673年(天武2年:白鳳13年)『12月5日、大嘗に侍し奉った中臣・忌部、および神官の人たち、ならびに播磨(悠紀)・丹波(主基)2国の郡司、また下働きの人夫らにことごとく禄を賜った』は、
大嘗祭の大和朝廷初出記事でなく、倭国白鳳王(=筑紫君薩夜麻・天武天皇)の即位記事が紛れ込んだのだろう。
8:04 AM Apr 22nd webから


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(051) 『倭国は特異な「兄弟王朝」システムだった』 2010年4月22日(木)

古田武彦氏は著書『失われた九州王朝』で、隋書「俀国伝」に、
〔使者は言う。「俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺して坐し、日出ずればすなわち理務を停め、云う『我が弟にゆだねん』」〕
を引き合いし倭国が特異な「兄弟王朝」システムだったと言う。
4:10 PM Apr 22nd webから


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(052) 『志士達に頼られた当の孝明天皇は佐幕攘夷だった』 2010年4月22日(木)

幕末、尊王の志士達に頼られた当の孝明天皇は公家にも疎んじられる佐幕攘夷だったというし、明治維新は南朝革命でもあったとも聞く。
大宰府倭王家の高市天皇も浄御原宮で難波副都倭王家の首謀者に暗殺されたと考えられ、その後、多治比真人嶋・藤原不比等、等々の華々しい栄達を続日本紀は記述している。
5:27 PM Apr 22nd webから


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(053) 『691年〔持統即位2年〕11月1日これが倭国王最後の大嘗祭である』 2010年4月23日(金)

690年〔持統4年(持統即位元年):朱鳥5年〕春正月1日-略-神璽の剣、鏡を皇后に上げ奉った。皇后は天皇位に即いた。-略-
691年〔持統5年(持統即位2年):朱鳥6年〕11月1日、大嘗。
「持統即位何年」というのは大宰府倭王家の高市天皇の在位であろう。これが倭国王最後の大嘗祭である。
10:09 AM Apr 23rd webから


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(054) 『九州王朝「倭国」が滅亡し、新たに、大和王朝「日本国」が誕生した』 2010年5月2日(日)

本家の「大宰府倭兄王家」の高市天皇が浄御原宮で、分家の「難波副都倭弟王家」に暗殺されたということは、分家が本家を乗っ取るクーデターであり、
だから、これこそが「大化の改新」だと言うに留まらず、
九州王朝「倭国」が滅亡し、新たに、大和王朝「日本国」が誕生したということである。


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(055) 『明治維新も天子暗殺を隠す、公表しないための万世一系だった』 2010年5月5日(水)

孝明天皇は岩倉具視が便所番を買収準備の堀河紀子邸で伊藤博文に刺殺。次に皇太子睦仁親王(京都明治天皇)も暗殺、「寄(奇)兵隊の天皇」大室寅之祐(東京明治天皇)にすり替わった。
大化の改新が九州王朝倭国を抹殺したと同様に、明治維新も天子暗殺を隠す、公表しないための万世一系だったのです。


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(056) 『窮地に立った丹比真人嶋らは高市天皇を裏切っただろう』 2010年5月5日(水)

筑紫太宰丹比真人嶋らは、「大きな鐘を貢上して助けを求めた」が納得して貰えず、 「三つ足の雀がいました」と打診し、三つ足の雀(=3種の神器) を九州王朝から大和王朝へ貢上した。
だがその経過にうとい高市天皇が約束を反古することとなり窮地に立った丹比真人嶋らは高市天皇を裏切っただろう。


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(057) 『明治天皇は吉田松陰の教えの「南朝革命」を主張した』 2010年5月5日(水)

孝明天皇暗殺の伊藤博文はそれがばれて明治天皇及び周辺に危害が及ぶのを極端に恐れた節がある。それが暗殺を隠す、公表しないための万世一系だったのだろう。
ハルピンで伊藤博文が暗殺され後、重石のとれた明治天皇は吉田松陰の教えの「南朝革命」を主張したが天皇周辺者には既に理解できなかった。


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(058) 『「万世一系の皇統譜」について』 2010年5月5日(水)

『万世一系の皇統譜』  について言えば、上記を知るまでもなく累代の天皇が同じ血脈で万世一系であるはずがありません。
この世界中広しと言えどもどこにそんな国がありましょうか?
『エチオピア王朝はシバの女王とソロモンの子孫といわれ』、これが世界一長寿の王朝でしたが先の革命で滅びましたね。


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(059) 『「 □ 武 」は王統初代を表わす』 2010年5月5日(水)

神武天皇・天武天皇・文武天皇・聖武天皇・桓武天皇 の「 □ 武 」は王統初代を表わすと言われている。それなりの分けがあったのでしょう。
「王統初代」はどうして発生するかを考えれば、実に簡単でしょう、暗殺・内乱・戦争等の武力による前王朝の討伐・転覆・クーデターでしょう。
それを、中国のいわゆる「天命による革命だ」という考え方で表現しても内実は変わりません。
禅譲ということもままあったかもしれませんが、古代におけるそのほとんどが武力転覆だったでしょう。

 ただこの方法だと、国家転覆したクーデターの下手人達(その子孫も含め)もいずれ・いつかは、逆の被害に遇うということでしょうから、おおっぴらに自慢するわけにも行かず「毘曇の乱」に事寄せて「大化革新」「乙巳の変」をでっち上げたということでしょうか。
 今の・現代の我々は「選挙制度」という方法を知っている。先日の自民党から民主党への政権交代も、昔だったら「武力革命」だったかもしれません。
 思うに 『万世一系の皇統譜』 とは、累代の天皇が同じ血脈ということでなく、日本(倭)民族の歴史的継続性の象徴だったのでしょうね。


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(060) 『「武力革命」を防ぐ「選挙制度」「民主主義」は非常に大切だ』 2010年5月5日(水)

古代における王朝の交代のほとんどが、暗殺・内乱・戦争等の武力による前王朝の討伐・転覆・クーデターでしょう。
然し、その国家転覆の下手人達(その子孫も含め)もいずれか・いつかは、逆の被害に遇うということでしょうから「武力革命」を防ぐには「選挙制度」による「民主主義」は非常に大切です。


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(061) 『今の歴史教育は間違っている』 2010年5月5日(水)

今の歴史教育は間違っている。
日本国民へ古代からの王朝の交代が、暗殺・内乱・戦争等の武力による討伐・転覆・クーデターの歴史だったと真実の歴史を教え、「くさい物にふた」をする『万世一系の皇統譜』で隠すのは止めよう。
「武力革命」を防ぐには「選挙制度」による「民主主義」が非常に大切です。


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(062) 『岩倉具視と丹比真人嶋との働きが似てる』 2010年5月7日(金)

(明治維新の)南朝革命での孝明天皇・岩倉具視・伊藤博文・明治天皇と、
(本来の)大化改新での高市天皇・丹比真人嶋・藤原朝臣不比等・文武天皇とが、何故かラップしてると思えるのだが…、それは岩倉具視と丹比真人嶋との働きが似てたからだろうか?
いやー、不思議だッ!


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(063) 『・ん、なこと言っても、、、分かる人いない』 2010年5月7日(金)

『(明治維新の)南朝革命と、(本来の)大化改新とが、ラップしてるが、それは岩倉具視と丹比真人嶋との働きが似てたからだろう 』、、、、、
・ん、なこと言っても、、、分かる人いないっチューの、、、ダハッ。


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(064) 『簡単に言うと686-652=34年後とした』 2010年5月7日(金)

正木裕氏は言う、
『書紀編集者は九州元号「白雉・白鳳期」の記事の一部を編者の都合にあわせて切取り
「白雉(元年652)を朱鳥(元年686)」に、
「白鳳(元年661)を大化(元年695)」に
各々元号を入替え、九州年号の朱鳥・大化期に貼付けた』
簡単に言うと686-652=34年後とした。


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(065) 『九州倭国の34年前の史実を、大和王朝の歴史に見せかけた』 2010年5月7日(金)

正木裕氏は言う「白雉(元年652)を朱鳥(元年686)」に、「白鳳(元年661)を大化(元年695)」簡単に言うと686-652=34年後とした。
こうすることで九州王朝倭国で34年前あった史実を、大和王朝日本国で34年後の史実に見せかけて歴史をでっちあげたっていうわけよ。分かる?


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(066) 『倭国王が吉野ヶ里軍事基地へ閲兵に出向いた』 2010年5月7日(金)

「34年後とした」でも良く解明できたよね!
元々は持統天皇が「吉野の宮に行幸した」記事の頻出を、「吉野桜の花見だ」と簡単に片付けられなくて、古田武彦氏が「倭国王が吉野ヶ里軍事基地へ閲兵に出向いた」とわかったのよね。
古賀達也氏は大化改新を50年前に前倒しした言ってる。対照表が必要よ。


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(067) 『34年繰り下げ/50年繰り上げの対照表』 2010年5月7日(金)

34年繰り下げ/50年繰り上げの対照表はこれを使うと良いよ。
『日本書紀年表〔書記天皇:九州年号の34年繰り下げ/50年繰り上げ対照表〕』


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(068) 『国内の行政・軍事関連はずらし、隋・唐との外交記事はずらしてない』  2010年5月7日(金)

日本書紀の記事は34年前に持ってったり、50年後にずらしたりすると、これがまた連続した史実に見えてくるから不思議だね。
まー、白村江戦い前後34年の68年間位かな?
国内の行政・軍事関連はずらしてあり、
大陸・半島の外交記事で隋・唐・百済・新羅・高句麗の史書に明記のものはずらしてない。


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(069) 『倭国の附庸国・秦国との交渉は秦国の正史にあっても唐の正史に記載ない』 2010年5月7日(金)

632年(舒明4年10月4日)ー略ー高表仁 が答えて「風の寒い日に、船を飾り整えて迎えを賜い、歓びまた恐縮しています」といった。
問題は、唐国と倭国との交渉は正史に記載されたが、倭国の附庸国・秦国との交渉は秦国の正史には記載されていても唐の正史に記載されない。密使の交渉事だから故。


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(070) 『608年:推古16年-略ー唐帝を聘ふ、唐の建国は618年』 2010年5月7日(金)

608年:推古16年〔ここに天皇唐帝を聘ふその辞に曰く「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す使人鴻臚等の掌客裴世清等至りて久しき億ひ方に解けぬ李秋薄冷尊如何に想ひ清悆此れ即ち常の如し。
今大礼蘇因高・大礼乎那利等を遣わして往かしむ謹白具ならず」〕唐建国618年以降で 干支+12年620年? 「おべっか」らしい^^


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(071) 『[天皇「唐帝」を聘ふ]まったく、間の抜けた記事書きやがって』 2010年5月7日(金)

唐の建国は618年だ。なのに、608年:推古16年〔ここに天皇 「唐帝」 を聘ふ〕 とはどういうこっちゃー! まったく、間の抜けた記事書きやがって。
中学の日本史の教育、今もって「日本書紀」の記事通り教えてんじゃないだろうな? ⇒ 《注記》「書紀」編纂者達はこの事は百も承知で「よいしょ」した。


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(072) 『周防での偉人は奇兵隊天皇・伊藤博文・児玉源太郎の3人』 2010年5月8日(土)

明治維新で、伊藤博文が何故一番出世したのか幼い私には不思議だった。
親戚の仏壇には、吉田松陰先生から来たはがきがあると父が良く自慢してたが、確かにその門下生ではあったが、ほとんどが萩近辺の長門出身であり周防呼坂出身の彼はとんと縁が無かったはず。
鹿島昇の本を見るまでは分からなかった。
曾祖父は花岡八幡宮にある国内最長「破邪の御太刀」(全長4・6メートル)国綱門下7人衆の一人で刀鍛冶だったそうだ。
その花岡八幡宮の石段下の向かいに父の友人の児玉金吾という方がいて毛利徳山藩児玉源太郎元帥の甥っ子だといってました。周防での偉人は奇兵隊天皇こと明治天皇と伊藤博文の3人。


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(073) 『足利義満は後円融天皇の皇妃、三人の寵妃までも悉く陵辱』 2010年5月8日(土)

足利義満は後円融天皇の正式な皇妃・通陽門院だけでなく、三人の寵妃までも悉く陵辱、その為に、後円融天皇は心身共にやつれ、36歳の若さで死んでしまいました。
勿論、全ての后妃を足利義満に犯された訳ですから、後円融天皇の血を引く者はおらず、後円融天皇の系統は、「断絶」してしまいました。
これは
『「北朝」は滅亡していた!! 南北朝秘史-其の壹- (1997.11.15)』《魚拓》
の抜粋ですが、史実を教えろと言っても『あまりにもひどくて』中学校では教えられんかもな。


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(074) 『難波副都はまさに都というより軍事基地』 2010年5月10日(月)

わたしの仮説である
『大和王朝は(難波副都で「天下立評」した)九州王朝倭国の王家「片方の弟王家」だ』
の難波副都は当時の地図を見ると南から北へ伸びた半島の先端に位置し、その東は日下江の入江で今の大阪市街は葦で覆われた海の中である。
まさに都というより軍事基地というのが当っている。(注記 ⇒?対岸の尼崎市難波かも)


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(075) 『683年造複都難波京詔は34年遡上説に従うと649年の出来事となる』 2010年5月10日(月)

日本書紀の天武天皇(683年:天武12年:白鳳23年)、10月詔して、『およそ都城・宮室は、1ヶ処ではない、必ず2・3ヶ処を造る。それゆえ、先ず難波に都を造ろうと思う。と詔した』
正木裕氏の34年遡上説に従うと、34年前の649年(大化5年:孝徳5年:常色3年)の出来事となる。
【なにわ歴史散策】《魚拓》
に『蘇我氏の支配が終わったあとの難波遷都で創られた前期難波宮』とあるこの記事は逆で、この前期難波宮を基地に、秦国王家の蘇我氏を「壬申乱」頃迄にやっと打倒・征服したことになろう。


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(076) 『「難波宮出土須恵器」と「伊予三島縁起の番匠初め」の紹介』 2010年5月10日(月)

寺井論文で紹介の前期難波宮から出土の須恵器とは、「平行文当て具痕」のある須恵器で、「分布は旧国の筑紫に収まり、早良平野から糸島東部にかけて多く見られる」とされ、福岡県北部の九州王朝の中枢領域から出土の須恵器です。
されば九州王朝中枢領域の人々が前期難波宮の建築に関係したこととなる。
「伊予三島縁起」の中に『孝徳天王位。番匠初』の記事があり、孝徳天皇代に番匠が初まるという意味です。「番匠」とは王都や王宮の建築のために各地から集められる工人で。九州から前期難波宮建設に集められた「番匠」の伝承が縁起に残され「番匠の初め」は書紀になく、九州王朝独自史料によるだろう。
以上『寺井論文で紹介の前期難波宮から出土の須恵器』及『「伊予三島縁起」の中に「孝徳天王位。番匠の初め」』記事は古賀達也氏が。
『前期難波宮と番匠の初め』
で九州王朝倭国の難波宮建設の実態を詳しくを紹介している。


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(077) 『「天下立評」為し得る勢力と言えば九州王朝倭国それも弟王家でしょう』 2010年5月11日(火)

古賀達也氏は洛中洛外日記の中で『延暦23年(804)に成立した伊勢神宮の文書『皇太神宮儀式帳』の「難波朝廷天下立評給時」という記事から、それは「難波朝廷」の頃というだけではなく、前期難波宮九州王朝副都説の成立により、文字通り九州王朝難波副都で施行された制度と理解できます』と言う。
この「難波朝廷天下立評給時」記事は、古賀達也氏が
洛中洛外日記の『第196話「大化改新詔」50年移動の理由』
の中で述べているものですが、これをヒントに更に「天下立評」は強大な軍事力を伴い実施されたはずで当時の状況を想定し為し得る勢力と言えば九州王朝倭国だったしそれも弟王家でしょう。


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(078) 『「前期難波宮は九州王朝難波副都である」可能性が高い事柄の整理』 2010年5月11日(火)


ここで、古賀達也氏が洛中洛外日記の中で「前期難波宮は九州王朝難波副都である」ことを証明するとして挙げている数々の事柄を整理しよう。

①難波副都完成が白雉改元、焼失が朱鳥改元、九州王朝では建都や遷都に伴って九州年号を改元した。

②太宰府「政庁跡」は北側に天子がいる正殿(紫宸殿・大極殿)が位置する北朝系の様式であり、難波宮もまた北朝系様式の宮殿である。

③「日本書紀」の『天武12年条(683)難波に複都を造る詔』は、34年前に遡った649年に九州王朝が出した難波副都建設の詔勅を盗用したもので、その後、前期難波宮は九州年号の白雉元年(652)に完成している。

④「難波宮」の名称は、太宰府と同じ筑前にあれば、より具体的な地名を付した宮名が必要だが、はるか遠くの近畿の難波であれば、「難波宮」で十分である。

⑤「副都の定義」とは、首都に問題が発生し、首都機能の維持が困難な際、統治機構が移動し、統治行政可能な都市が副都。倭国天子は太宰府と難波宮を必要に応じ往来、両都を使い分けたか。

⑥寺井誠氏論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号)に前期難波宮から北部九州の須恵器が出土と指摘している。

⑦「伊予三島縁起」の中に『孝徳天王位。番匠初』の記事がある。

等々であるが、「前期難波宮は九州王朝難波副都である」ことに先ず間違いないであろう。

⇒ 《注記》:対岸の尼崎市に難波という地名が有ると分かって動揺している。
①大宰府から山陽大路を経たとすると、②また古代に港湾はこちらが盛んだった。③大阪だとすると、後背の奈良に敵の秦国があったことになる。



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(079) 『又竹斯国に至り、又東して秦王国に至る。其の人華夏に同じ』 2010年5月11日(火)

「明年、上、文林郎裴清を遣わして俀国に使いせしむ。百済を渡り、行きて竹島に至り、南に聃羅を望み、都斯麻国を経、迥かに大海の中に在り。又東して一支国に至り、又竹斯国に至り、又東して秦王国に至る。其の人華夏に同じ。以って夷州と為すも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。又十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す。」

いやー、流れるような良い文章だよね、何度読んでも厭きないね。ふっ! 私だけか・・・。でも秦王国って、ほんとはどこだったのかなー? あーぁ知りたいな。 「あれ、こいつら、俺達中国人と同じだー、いやー台湾の出か?いやー、よう分からん。聞いてもわからんだろうて、ブツブツ。」・・・ なーんちゃって。


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(080) 『本来は巷苛(蘇我)の伊奈米(稲目)ー有明子(馬子)ー善徳(蝦夷か)』 2010年5月11日(火)

元興寺丈六光銘に曰く「ー略ー名は等与刀己禰禰大王(聖徳太子)、および巷苛(蘇我)の伊奈米(稲目)の大臣の子、有明子(馬子)の大臣、ー略ー巷苛(蘇我)有明子(馬子)の大臣の長子、名は善徳(蝦夷か)、領導となり以って元興寺に建つ」本来は伊奈米(稲目)ー有明子(馬子)ー善徳(蝦夷か)。


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(081) 『大和王朝「日本国」が九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だったとはな』 2010年5月12日(水)

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(082) 『何故、国内的には「日本書紀」が九州王朝「倭国」を抹殺したのか』 2010年5月15日(土)

中国の史書に大和王朝「日本国」が記述されるようになったのは西暦700年代に入ってからだ、それまでは、九州王朝「倭国」と「秦国」だけが出てくる。
『何故国内的には「日本書紀」が九州王朝「倭国」を抹殺したのか、対外的には、大和王朝「日本国」がどういう経緯で忽然と極東アジアに現れたのか』


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(083) 『倭国は白村江敗戦よる唐国への戦後賠償費の支払いで疲弊・困窮した』 2010年5月15日(土)

●『678年(天武7年:白鳳18年)12月この月筑紫の国で、筑紫大地震』
●『682年(天武11年:白鳳22年)4月21日、筑紫太宰丹比真人嶋らが、大きな鐘を貢上した』
●『682年(天武11年:白鳳22年)8月13日、筑紫太宰が、「三本足の雀がいました」といった』
●『683年(天武12年:白鳳23年)春正月2日、百寮(官)が朝廷〔天皇〕を拝した。筑紫太宰丹比真人嶋らが、三つ足の雀(=3種の神器) を〔九州王朝から大和王朝へ〕貢上した。』
・・・筑紫大地震で九州倭国は更に困窮し切羽詰って大きな鐘、果ては王権の象徴の『三つ足の雀(=3種の神器)』迄、〔九州王朝から大和王朝へ〕貢上したと日本書紀に書かれている。
地震だけでここまで疲弊・困窮しないだろう。
白村江敗戦での唐国への戦後賠償費の支払いが如何に大変だったかが分かるというものだ。
朱鳥元年の借用証文棒引きも焼け石に水だっただろう。


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(084) 『舒明は接続詞の役目で難波副都倭弟王家に属さないかも』 2010年5月16日(日)

『古賀達也の洛中洛外日記』第263話 2010/05/09
「古代天文学」の近景の中に
『α群に天文観測記録がないのはなぜか。α群に属する皇極・孝徳・斉明・天智の時代30年間は観測しなかったのか。』
手元の日本書紀(下)山田宗睦訳のあとがきから、
・舒明はβ群
・皇極・孝徳・斉明・天智はα群
・天武上・天武下はβ群
・持統はα群となり、
α群は倭国外交史、百済史に詳しい中国人が書き、
β群は筑紫史益など倭国人書いたとなる。
そうか、舒明は接続詞の役目で難波副都倭弟王家に属さないかも。


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(085) 『海外を古資彌凍国の「古資:こし:越」と言ったと思うが?』 2010年5月16日(日)

継体はαに属すが、生まれが越国三国坂中井となている。日本書紀では越国は現在の福井県ということになっている。
でも私には福井県では当時の状況から今一つしっくり来ないのだ。
さて、ここで
『国名でみる三韓の地域性について:pikupopodemi記す』《魚拓》
は非常に参考になる。
この中で言う、弁辰古資彌凍国(ベンシンコシミト)こそが継体の生まれ故郷ではないだろうか?

西洋人を「毛唐:けとう」と呼び、唐人を「からひと」ともいう。
北の土地を表す「任那:みまな」に倭人が居住の頃は「伽耶」と呼び、韓人に追い出されて以降「加羅」とよぶ。
筑紫の倭人から海外のことを「加羅:から」と言った。それが、唐の時代になっても「から」とよんだのだそうだ。
私は「加羅:から」のまたそれ以前の海外を古資彌凍国の「古資:こし:越」と言ったと思うだが・・・・、はてさて?


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(086) 『古資彌凍国は越水門国で、継体は任那の『越水門国』の出身となる?』 2010年5月16日(日)

この古資彌凍国の「古資:こし」は「越」であり「彌凍:みと」は「水門」あるいは「水戸」であろう。
現代風に書けば『越水門国』となろうか?継体天皇の出生地であろう、継体は任那の『越水門国』の出身ということになる。
当事、任那は風雲急を告げ国家存亡の危機にいたわけで俄然現実味を帯びてきた。


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(087) 『古資彌凍国は現在の固城、書紀の古嵯、新羅以前小国名が小伽耶』 2010年5月16日(日)

『ちびねこホームページ邪馬臺国試論(第一回)』
の弁辰の項途中に紹介の
『平凡社・東洋文庫の三国史記・三国志・日本書紀の新羅・加羅諸国比定図』
で、弁辰古資彌凍国は現在の固城、日本書紀の古嵯、新羅以前の小国名が小伽耶。
継体天皇の出身地と思われる「越水門国」に将にぴったりだ。


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(088) 『倭薈王(=磐井)最後の場所は宇佐の小高い丘「小倉山」頂きだ』 2010年5月17日(月)

「筑後国風土記」に
〔俄(にわ)かにして、官軍動発し、襲わんと欲する間、勢の勝たざるを知り、独りみずから豊前の国、上膳の県に遁れて、南山峻嶺の曲に終わる。是に於いて、官軍追尋して蹤を失ふ。〕
筑後国の人が言う官軍とは倭王である倭薈(いわい=磐井)王の軍隊であろう。
「俄かに動発」とは、急に内紛・内乱・叛乱が起こったと言う意味だろう。
ここには継体はどこにも出ない。

倭王である倭薈(いわい=磐井)王は、百済・新羅から侵略される「倭国の故地:任那」の救援要請に如何対応したのだろうか?
官軍動発:官軍が叛乱するとはどういった状況だったのだろう
①救援を渋った②矢継ぎ早の増発を指示した③負けそうなのは官軍の弱さの所為となじった③負け戦と分かっている、死にたくない。・・・

「俄かに動発」とは、叛乱のきっかけ・元になったこととはいったい、何だったのだろうか、さっぱり分からない。
ただ、はっきりしているのは米田良三氏がいうように「倭薈(いわい=磐井)王が、南山峻嶺の曲に終わる。」その場所が大分県宇佐市の西の小高い丘「小倉山」の山頂付近である。
今は跡形もなくなっているが、東のふもとには奈良へ移築後の「薬師寺」が虚空蔵寺遺跡の上に建っていた。
また、西の麓の「小倉の池」のそばには移築後の「東大寺」が建っていた。
そう、倭薈(いわい=磐井)王への追慕の気持ちがそうさせたのである。


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(089) 『追慕の気持ちだけで、薬師寺・東大寺を建てるだろうか』 2010年5月17日(月)

倭薈(いわい=磐井)王と、日本書紀の継体天皇との関係は嫡子でない、養子などが倭国王を継体したということになる。
であれば。その叛乱のあと、倭国民の倭薈への追慕の気持ちだけで、宇佐の「小倉山の東麓に「薬師寺」、西麓に「東大寺」を建てるということがありえようか?継体は任那王だったか。


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(090) 『そもそも継体天皇とは実在人物か、うたがわしい』 2010年5月19日(水)

わたしの仮説が正しければ、500年代初頭に近畿に大和朝廷なるものは存在してない。
あったとすれば「秦国」だけである。
継体の出身地は越国(=福井県)ではなく、弁辰古資彌凍国、今風に「越水戸国」・「越水門国」は現在の固城、日本書紀の古嵯、新羅以前の小国名が小伽耶である。
そもそも継体は実在してたのか。実に疑わしい。


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(091) 『500年代初頭の近畿に大和朝廷なるものは存在してなかった』 2010年5月19日(水)

大和王朝「日本国」は、九州王朝「倭国」の大化7年を(建元でなく)改元し大宝元年701年名実ともに発足した。
640年代後半になってその前身と考えられる「難波副都倭弟王家」が出現する。
私の仮説が正しければ、500年代初頭の近畿に大和朝廷なるものは存在してない。継体はダメ押しだろう。


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(092) 『「善記」以後の倭国史を以前に継体を置くことで倭国史・元号共々を抹殺した』 2010年5月19日(水)

九州王朝「倭国」の倭薈(いわい=磐井)王が九州年号創始・建元は、「善記」(522壬寅):継体16年。途中「正和」(526丙午):継体20年の改元を経て。
倭薈(いわい=磐井)王が、「にわかに(倭国の)官軍が動発し襲われた」が為の死亡・改元が「發倒」(531辛亥):継体25年である。

日本書紀編者は当時の日本が西暦は一般的でなく、
「60年周期の干支」と「倭国の元号」(=九州年号)が史書編纂・編年の拠り所で、
「倭国年号」で編纂の倭国史書を元に大和王朝「日本国」史をでっち上げ(正木裕氏)のち、
「善記」以後の倭国史を以前に継体を置くことで倭国史・元号共々を抹殺した。


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(093) 『日本には「日の出を意味する東」と「日辺に在る意味の南」の2つある』 2010年5月22日(土)

新羅の地名は日の出を意味する「シラヒース」で韓半島東部を表す。
安邪:安羅:阿羅:咸安の安:アンには韓国語で下部・陰部の意味で韓半島南部だと思うが、安羅が南部の代わりに、お日様に一番近い、故に日本府を名のったとしてもおかしくない。
旧唐書「日辺に在るを以って名と為す」同じではないか。

三国史記新羅本紀文武王10年670天智9年に倭国更えて日本と号す。自ら言う「日出づる所に近し」と以って名と為す。即ち東部を言う。
一方旧唐書には「その国日辺に在るを以て故に日本を以て名と為す」この「日辺にある」とは太陽に近い即ち南部を言うだろう。
日本には東と南との意味の2つある。


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(094) 『又聞く日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬ』 2010年5月22日(土)

任那日本府」とは、筑紫から見て倭人連合の北の人・土地という意味と、韓半島南部の倭人連合国の宗主国:安邪という意味だろう。
この安邪の日本府で百済本紀531年(継体天皇25年)「日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬ」の事件があったか。
最初に日本を名乗ったのはこの安邪であろう。

531年(継体25年)「太歳辛亥の3月軍進みて安羅に至り、乞乇城を営む。この月高麗、其の王安を殺す。
(同じ内容の事を) 又聞く日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬ」
この安邪(安羅)の南に弁辰古資彌凍国「越水戸国」小伽耶があり、ここの継体天皇が534(継体28年)歳次甲寅に崩ず。


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(095) 『倭薈(磐井)王・安羅の王安(日本の天皇)・小伽耶の継体天皇は別人』 2010年5月22日(土)
  

鹿島昇は「日本書紀」の皇統譜は、百済と安羅の王朝を縦につないでいますから、同じ時代が2重に書かれていることがあります。
例えば、継体ー安閑ー宣化というのは安羅王で、アメタリシヒコになるのですが、
欽明ー敏達ー用明は実は百済王の東城ー武寧ー聖明のことで、
2つ王統は並行していたわけです。

531年(継体25年)「太歳辛亥の3月軍進みて安羅に至り、乞乇城を営む。この月高麗、其の王安を殺す。
(同じ内容の事を) 又聞く日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬ」で、
百済本紀はこの「安羅の王安」と「日本の天皇」とが同じだと言うが、更に日本書紀編者は「日本の天皇」と「継体」を同一視したと書いている。

倭薈(磐井)王が「にわかに官軍が動発し襲われた」が為の死亡が「發倒」(531辛亥)継体25年であり、同531年(継体25年)太歳辛亥の3月、安羅の王安を殺す。
又聞く日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨と、この安羅の南の小伽耶の継体天皇が534(継体28年)歳次甲寅に崩ずは別事件だ。


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(096) 『継体天皇が任那日本府王家遺族共々避難し、倭国を發倒(=再興)・継体した』 2010年5月22日(土)

倭薈(磐井)王がにわかに官軍・動発し襲われ死亡し、同時期、任那日本府の安羅王安が殺され(日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨)、
南の弁辰古資彌凍国「越水戸国」小伽耶の継体天皇が任那日本府王家の遺族を連れて筑紫倭国へ渡海避難し、倭国を發倒(=再興)・継体した。
任那日本府遺族が倭弟王家だ。

531年(継体25年)「太歳辛亥の3月軍進みて安羅に至り、乞乇城を営む。この月高麗、其の王安を殺す。又聞く日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬ」で、
百済本紀はこの「安羅の王安」と「日本の天皇」とが同じだという。
ということは最初に日本・天皇を称号したのは任那日本府の安羅王だということになる。

百済本紀(欽明5年:544年3月)それ任那は安羅を以て兄とす。唯其の意にのみ従う。
安羅人は日本府を以て天とす。唯其の意にのみ従う。
日本書紀の欽明紀「安羅を以て父とす。日本府を以て本とするなり」倭人が韓人に韓半島から将に追い出されようとした時期に当っていよう。


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(097) 『継体天皇・越国・日本国・天皇に関する項の整理』 2010年5月23日(日)

継体天皇・越国・日本国・天皇に関するtwitterは、わたしのホームページ、
九州王朝「倭国
『継体天皇は越国:福井県の出身か』 と『日本には東と南の字義が2つある』 の項に分かり易く整理しました。


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(098) 『継体天皇は九州王朝倭国の倭薈(=磐井)王に反逆してでの事だろうか』 2010年5月23日(日)

継体天皇の「継」の字義が同じ発音の「つぐ」であっても、「嗣ぐ」は同じ血縁者が嗣ぐであり、「継ぐ」は他人が・非血縁者が継ことだ。
継体天皇は九州王朝倭国の倭薈(=磐井)王に反逆してでの事だろうか?
小倉山の東麓に薬師寺、西麓の小倉の池の傍に東大寺が建ってたことからとてもそうは思えない。


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(099) 『倭国王倭薈は宇佐市の駅館川西岸の 小倉山に死亡』 2010年5月24日(月)

逆賊磐井は国父倭薈だ
に紹介しましょう。

倭国王の倭薈は宇佐市の駅館川西岸の小倉山(小高い丘陵)に死亡する
の現地地図を覗いてみよう

まー、勿体ないなって思うな・・・・大分県や宇佐市は、こんな 埋もれた遺跡を、手付かずに・・・放ってるってことに・ね。


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(100) 『安羅国王家が日本府と称し、その王が天皇を号した』 2010年5月24日(月)

任那連合国群の代表が安羅国であり、その王家が日本府と称し、その王が天皇を号したといえます。
注意しなければならないのは、日本国ではなく日本府といってることでしょう。天皇は北極星・北辰を意味し北斗七星をグループに従えていることでしょう。
まさに、任那七ヶ国の代表にぴったりの称号ですね
任那は日本・韓国でその見方が違い、任那が亡んで彼の地に取残された倭人はその後、韓人と同化したものと言えます。
韓国語が分からないので斟酌はしませんが、
「任那」について : 韓舜根
を参考迄に紹介します。


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(101) 『任那は九州倭国の直轄地でも大和朝廷の出先機関でもない』 2010年5月24日(月)

北斗七星の任那七ヶ国倭人連合《魚拓》
の代表が安羅国であり、
その王家が日本府と称し、
その王が
北極星・北辰を意味する天皇《魚拓》
を号したといえます。
けっして、九州王朝倭国の直轄地でも、ましてや後代の大和王朝日本国の出先機関でもありません。
半島南部に占拠の倭人が韓人に追い詰められ最後の砦と踏ん張ってた分けです。

韓国南部の洛東江流域は高低差さが無く、その流域面積は広く早くから稲作が盛んでしたが、個々の村落はその河川に分断され経済・政治の発達が阻害され、比較的平野に恵まれた百済・新羅に侵略されます。
しかし、洛東江支流が西から東へ流れる以南は川筋に守られ任那小国家群が独立を保ったのでしょう。


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(102) 『農耕民族は太陽信仰であり、狩猟遊牧民族は北極星などの星信仰』 2010年5月25日(火)

我々農耕民族は太陽信仰であり日本のアマテラス大神がそうでありエジプト、メキシコも同じである。
狩猟民族、牧民は星信仰である。その証拠にイスラム系の国旗にはすべて星と月のマークが入っている。
アッシリアやバビロンの砂漠の遊牧民は磁石がなく北極星を頼りにした。
砂漠で方向を間違えることは死を意味するので北極星を守り神とした。
北極星信仰は遊牧民からインドに伝わり大蔵経の密教に取り入れられ、古代中国で道教、儒教、陰陽道等の星信仰と習合し、紀元後500年~600年日本に渡来し、妙見信仰ともいわれた。
〔注意 : 以上は
『北辰祭ー我が家に伝わる1600年の伝承』・《リンク切れ》
より抜粋転載したものである)


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(103) 『倭人は遊牧民族では無く、航海民族だった』 2010年5月25日(火)

うーん、遊牧民族が北極星信仰(=妙見信仰)というのは分かる。
が、倭人は遊牧民族では無く、農業・兼漁労民族、強いて言えば航海民族だったといえよう。航海民族も北極星信仰(=妙見信仰)をもっていただろうか?
まーそれにしても、海が荒れている時は星どころではないが・・・・よう、わからんな。


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(104) 『「日出づる所に近し」と「日辺に在る」とは字義が違う』 2010年5月25日(火)


日本( ひのもと ) の 『( もと )で辞書を引くと、同じ( もと )でも、

( 本 : 主となるもの・中心・よりどころ )
( 元 : 物事のおこり・はじめ・起源 )
( 下 : あたり・そば・かたわら )』、

いっぽう、

『辺 ( へ ) : ほとり・近く・そば )』 だ。


三国史記新羅本紀文武王10年670に、
『倭国更えて日本と号す。自ら言う 「 日出づる所に近し 」 と以って名と為す。』
 と記述し、

一方旧唐書には
『その国 「 日辺に在る 」 を以て故に日本を以て名と為す』
 と記述している。

明らかに字義が違うと思うが、日本の遣使者達は当地でどう説明したのか、はてさて。


新羅は「白日」で「日の出の国」であり、日本は「日出づる所に近し」で同義異字である。
遣唐使は同様に唐朝の官人へ言ったと思うが、彼らは以前に安羅が日本府を号した時「日辺に在る」からと言ったというが、あなた方はその日本を踏襲したいんでしょう。ならば、「日辺に在る」が正しいのじゃないの。


「日出づる所に近し」とは、【 東 】をあらわす。「日辺に在る」とは、【 南 】を表わす。安羅が日本府を号した時の「日辺に在る」は、韓半島の最南端にあったからだろう。
たぶん、近江朝天智天皇が言っただろう『倭国更えて日本と号す。自ら言う「日出づる所に近し」と以って名と為す。』東の国という事だ。


面白いことに、

【 旧唐書 】では、『…其の國、以って日辺に在り。故に日本を以って名と爲す。』
     と 【 南 】 を言い、

【 新唐書 】では、
『…日本と號す。使者自ら言う、國、日出ずる所に近きを以って名と爲すと。 』
     と 【 東 】 を言う。



▼ 百済本紀で500年代初頭に「 日本府 」を称した安羅王の安、

▼ その約150年後、三国史記新羅本紀文武王10年670年『(長門以東の)倭国更えて 日本 と号す』の天智天皇、

▼ 更に31年後、旧唐書『その国「日辺に在る」を以て故に 日本 を以て名と為す』の701年の大和朝廷の文武天皇の各王族は同じ係累と考えられる








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