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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 002 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(105) 『大和王朝「日本国」の前史「日本書紀」が九州「倭国」を抹殺したわけ』 2010年5月26日(水)

 若し、蘇我有明子をはじめとする蘇我氏が葛城『秦国』王家であり、その葛城『秦国』が母体・核となって大和朝廷「日本国」へ発展したと「仮定」した場合、その王朝史となる「日本書紀」が九州「倭国」を抹殺しただろうか、私は思うに『抹殺せずその「討伐経緯」をむしろ誇らしげに書き込んだ』だろう。

 若し、倭国連邦一員の出雲・加賀・吉備・葛城『秦国』・尾張・毛野(常陸)のいずれかが、母体・核となって大和朝廷「日本国」へ発展したと「仮定」した場合、その王朝史となる「日本書紀」が九州「倭国」を抹殺しただろうか、思うに『抹殺せずその「討伐経緯」をむしろ誇らしげに書き込んだ』だろう。

 倭王家〔分家の弟王家〕が母体・核となって大和朝廷「日本国」へ発展したが為、その王朝前史「日本書紀」が九州「倭国」を抹殺したわけは、『抹殺しないとその「討伐経緯」「倭転覆・乗取り経緯」「倭国敗戦・負債経緯」を書き込むことになり、新大和王朝「日本国」にとってまずいことになったから』だろう。


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(106) 『日本書紀のからくりだ!九州元号で倭国史書をコピペした』 2010年5月26日(水)

 わたしのホームページの
「日本書紀のからくりだ!九州元号で倭国史書をコピペした」
に掲載の年表
九州年号・書紀天皇表〔九州年号の34年繰り下げ/50年繰り上げ〕
一番右欄の記事を見てくれますか?例えば「大化改新」何時になってます?696年になっていますね。

 696年〔持統10年(持統即位7年)大化2年〕7月10日、後皇子尊『高市天皇』が薨じた。同年10月22日、丹比真人嶋・安倍朝臣御主人・大伴宿禰御行・藤原朝臣不比等へ資人を賜った。天皇薨去の3ヶ月後の顕彰記事は異常だ。以上から「高市天皇薨去」は暗殺だとわかる。倭国最後の王の暗殺だ。

 ま・あ・な~、普通の日本人は大化改新は646年って習っているし、ましてや、天武天皇の高市皇子が天皇に即位してたって、その天武天皇も2人1役だったなんて・なー、あーぁ、だれも信じてくんないな。そもそも、九州王朝倭国に九州年号なるものがあったなんてなー(最初が「善記」522年創始)。

 まぁー、素を質せば、我々長州人が維新で吉田松陰の立憲君主制かな、その為の南朝革命が、ひょんなことから先を急いだ、岩倉具視・伊藤博文によって孝明天皇暗殺という最悪のシナリオになり、維新後、大室寅之助の明治天皇暗殺を恐れた伊藤博文が万世一系だとか言って、国史の編纂に関与した為だろう。


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(107) 『九州倭国の天下立評・蝦夷懐柔の前進基地で大和王朝のうぶすな』 2010年5月26日(水)

 「郡制への大化改新を副都難波宮での評制施行の昔とした」
前期難波京は秀吉の大阪城のすぐ南にあたります。ここが九州倭国の天下立評・蝦夷懐柔皇化の前進基地で大和王朝のうぶすなだったわけです


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(108) 『意図的に34年の時間を操作する書物が史書であるはずはない』 2010年5月27日(木)
 古田武彦氏の言う九州王朝倭国は古代の600年代末葉以前の東北アジアの史書にはありふれて目にするもので、逆に、この時代に大和王朝日本を主張しても、日本書紀の擁護者以外は吹き出してしまうだろう。意図的に34年の時間を操作する書物が史書であるはずはない。悪ふざけの小説より性質が悪い。

実際のところ、今の若者は日本書紀の記述をどう思っているのだろう。文科省の言いなりなのだろうか。文科省は明治より、○○天皇前方後円墳だと史跡指定するなどで培ってきた「おとぎの国」大和朝廷をいまさら無かったとは言えまいが。赤字の地方空港を何時までも造って来た体質は同じだ。早く気付け喝


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(109) 『年・元号の使用は公用は止めて、私用に限るべきだ』 2010年5月27日(木)

 大和王朝は (難波副都で 「天下立評」 した) 九州王朝倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 だ
には、内容的に、極力649年(大化5年:孝徳5年:常色3年)10月、〔造複都難波京の詔〕などと記入努めてるが、複数の年号の煩雑さは並みではない。今でも日本国内における公式文書は「平成○年」等の年号記入が義務付けられている。昭和43年が西暦何年に当るか、パッと答えられる方は少ないだろう、実は1968年だが。年・元号の使用は止めるまでは無くても、公用は止めて私用に限るべきだ。日本人は年号に関しては未だ鎖国状態のままだ。


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(110) 『皇太神宮儀式帳 「難波朝廷天下立評給時」』 2010年5月28日(金)

 わおっ。
『難波朝廷天下立評給時』 《魚拓》
の記事がネット上に有ったぜよ。
「古代史獺祭:皇太神宮儀式帳「初神郡度會多氣飯野三箇本記行事」フレーム」
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/koutaijinnguu_gishikichou/01_fr.htm

〔 「皇太神宮儀式帳」より抜粋「初神郡度會多氣飯野三箇郡本記行事」条 〕


一 初神郡度會多氣飯野三箇郡本記行事   右従纏向殊城朝廷以來 至于難波長柄豐前宮御宇天萬豐日天皇御世 有爾鳥墓村造神庤弖 爲雑神政行仕奉支 而難波朝廷天下立評給時仁 以十郷分弖 度會乃山田原立屯倉弖 新家連阿久多督領 礒連牟良助督仕奉支 以十郷分 竹村立屯倉 麻續連廣背督領 礒部眞夜手助督仕奉支 同朝廷御時仁 初太神宮司所稱神庤司 中臣香積連須氣仕奉支 是人時仁 度會山田原造御厨弖 改神庤止云名弖号御厨 即号大神宮司支 近江大津朝廷天命開別天皇御世仁 以甲子年 小乙中久米勝麿仁 多氣郡四箇郷申割弖 立飯野宮村屯倉弖 評督領仕奉支 即爲公郡之 右元三箇郡攝一處 太神宮仕奉支 所割分由顕如件


一、 初め神郡(かむこおり)度會(わたらい)多氣(たけ)飯野(いいの)三箇郡の本記行事


  右は纏向殊城朝廷(まきむくのたまきのみかど=活目入彦五十狭茅‐垂仁天皇)より以來、難波長柄豐前宮(なにわのながらとよさきのみや)に御宇(あめのしたしらしらし)めしし天萬豐日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと=孝徳天皇)の御世に至るまで、
有爾鳥墓村(うてとりつかのむら)に神庤(かむたち)を造りて、雑(よろづ)の神政行(かむことのことまろ)として仕え奉りき。


 而して難波朝廷(なにわのみかど =孝徳天皇 )、天の下に評(こおり)を立て給いし時に、
以って十郷を分かちて度會(わたらい)の山田原(やまだのはら)に屯倉(みやけ)を立てて、新家連阿久多(にいのむらじ・あくた)が督領(かみ)に礒連牟良(いそのむらじ・むら)が助督(すけ)に仕え奉りき。

 以って十郷を分かち、竹村(たけのむら)に屯倉を立て、麻續連廣背(おうみのむらじ・ひろせ)が督領(かみ)に、礒部眞夜手(いそべのまやて)が助督(すけ)に仕え奉りき。


 同じき朝廷(みかど)の御時(おんとき)に、
初め太神宮の司の所、神庤司(かむたちの/uつかさ)と稱(なづ)け中臣香積連須氣(なかとみのかつみのむらじ・すけ)仕え奉りき。

 この人の時に、度會の山田原に御厨(みくりや)を造りて、神庤(かむたち)と云うを改め名づけて御厨(みくりや)と号(なづ)く。
 即ち大神宮司と号(なづけ)き。


 近江大津朝廷(おおみのおおつのみかど)天命開別天皇(あめことひらかすわけのすめらみこと=天智天皇)の御世に、
甲子の年を以って小乙中の久米勝麿(くめのかつまろ)に多氣の郡四箇の郷を申し割(わ)けて、飯野宮村(いいののたかみやのむら)に屯倉を立てて、評督領(こおりのかみ)に仕え奉りき。
 即ちこれを公郡(みかどのこおり)と爲す。

 右のもと三箇の郡を一處に攝(す)え、太神宮に仕え奉りき所の割分由(わけさだめたるゆえ)を顕(あらわ)すこと件(くだん)の如し。


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(111) 『郡制施行に先んじる、評制施行の史実が文書で裏付けられた』 2010年5月28日(金)

 【皇太神宮儀式帳 より抜粋 初郡度會多氣飯野三箇郡本記行事 条】
に書かれている 『難波朝廷天下立評給時(=難波朝廷(なにわのみかど)、天の下に評(こおり)を立て給いし時)』の字句の注目しょう!!
 即ち「難波朝廷」・「天下立評」である。

 延暦23年(804)に成立した伊勢神宮の文書『皇太神宮儀式帳』の『難波朝廷天下立評給時』の記事が残されてた事で、
《九州王朝倭国の「複都:難波朝廷での評制施行」が、「大和朝廷の郡制施行」の約50年も以前にあった事が(木簡出土などで分かってはいたが)初めて文書でも裏付けられた》のだ。




『日本書紀』が黙して語らぬ貴重な歴史資料

《而難波朝廷天下立評給時仁[=難波朝廷(なにわのみかど)、天の下に評(こおり)を立て給いし時に]》
 ⇒

『九州王朝「倭国」の難波副都(=難波朝廷)が、天下立評(=「長門以東」に評制を確立)給いし時に』



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(112) 『「白雉年間の難波副都建設と評制の創設」へと次々展開する』 2010年5月29日(土)

 「郡制施行に先んじる、評制施行の史実が文書で裏付けられた」わけですが、このことは更に次の段階である「白雉年間の難波副都建設と評制の創設について:川西市 正木 裕」
で述べられている段階へと展開します。

 『書紀』の天武一二年から一四年にかけて、伊勢王等の諸国境界確定記事(「限分諸国之境堺」)がある。更に、これに符合して諸国・諸官に恩賞が与えられている。
 ところが、伊勢王の記事は孝徳期白雉改元記事にも登場する。
不審である。そこで、天武紀の伊勢王関連記事を34年遡上させてみると、

①天武12年(683年)→大化5年(649年)〔十二月甲寅朔丙寅(一三日)、諸王五位伊勢王・大錦下羽田公八国・小錦下多臣品治・小錦下中臣連大嶋、并判官・録史・工匠者等を遣はして、天下に巡行きて、諸国の境堺を限分ふ。然るに是の年、限分ふに堪へず。〕

②天武13年(684年)→白雉元年(650年)〔冬十月己卯朔(中略)辛巳(三日)、伊勢王等を遣して、諸国の堺を定めしむ。
 是年、詔したまはく、伊賀・伊勢・美濃・尾張、四の国、今より以後、調の年に役を免し、役の年に調を免せ。〕

③天武14年(685年)→白雉2年(651年)〔秋七月乙巳朔、(中略)辛未(二七日)、詔して曰く、東山道は美濃より東、東海道は伊勢より東の諸国の有位の人等に、並に課役を免せ。
 冬十月癸酉朔(中略)壬午(一〇日)、軽部朝臣足瀬・高田首新家・荒田尾連麻呂を信濃に遣はして、行宮を造らしむ。蓋し束間の温湯に幸さむと擬ほすか。甲申(一二日)、浄大肆泊瀬王・直広肆巨勢朝臣馬飼・判官以下、并廿人を以て、畿内の役に任す。
 己丑(一七日)、伊勢王等、亦東国に向る。因りて衣袴を賜ふ。〕
 となり、次の伊勢王の白雉改元譚(古賀説では白雉3年・九州年号白雉元年)と見事に連続する。

④朱鳥元年(686年)→白雉3年(652年)朱鳥元年春正月壬寅朔ー略ー伊勢王亦実を得。

⑤白雉元年(650年)→白雉3年(652年)2月庚午朔ー略ー甲申(15日)ー略ー伊勢王・三国公麻呂・倉臣小屎、輿の後頭を執き、御座の前に置く。

 即ち、34年遡上させてみると一連の史実が浮かぶ。


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(113) 『九州王朝難波副都の天子伊勢王こそ、評制創設の立て役者』 2010年5月29日(土)

 661年(斉明7年:白鳳元年)『4月、斉明天皇は朝倉宮に遷居した。6月伊勢王が薨じた。秋7月24日、斉明天皇は朝倉の宮で崩じた。』記事ではさらっと、6月に伊勢王が薨じ、ついで翌7月斉明天皇が崩じたとなっているが、この伊勢王という人物は斉明天皇と、ひょっとして、同一人物ではないか?

『大化の改新は無かった』
で、吾郷 : 鹿島先生の「倭と王朝」の比定表では、舒明が百済の末王義慈、皇極が新羅女王善徳、孝徳が百済の義慈王の王子孝、斉明が新羅女王真徳、天智が孝の弟豊璋という。

その中で鹿島昇氏は「原本では皇極、斉明と続いていて、女帝の皇極のモデルもやはり新羅の女帝の善徳王、女帝の斉明のモデルが新羅の女帝の真徳王であった。のちにその間に孝徳が入ったということになります」と言う。「毘曇の乱」の善徳王・真徳王の写しが「乙巳の変」の皇極・斉明であれば、その本元が評制創設の天子伊勢王であったとしてもおかしくない。

 「古賀事務局長の洛中洛外日記 2008/03/01第164話」〔白雉年号と伊勢王〕
 従来、疑問とされてきた天武紀に現れる伊勢王記事が、34年遡り現象により、孝徳期へと移動しうることが、正木さんの研究で判明していましたから、白雉年間の天子としての伊勢王の姿が見えてきたのでした。難波副都で活躍した九州王朝の天子伊勢王こそ、評制創設の立て役者ではなかったかと考えているのですが如何でしょう。と、


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(114) 『思ったより高度な測量技術が古代にあったと言うことらしい』 2010年5月30日(日)

 今、伊勢王で検索してたら
〔『伊勢物語』9段の暗号〕 《魚拓》
というページを見つけた。思ったより高度な測量技術が古代にあったと言うことらしいが、このほかにも暗号についての膨大なページがあってとても読み切れない。


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(115) 『日本が「日辺にある」の南から「日出づる所に近し」の東へなった』 2010年6月2日(水)

 のちの大和王朝が「日本国」を名乗った分けは、この時、小伽耶の継体天皇が任那日本府・天皇を称号の安羅王家の遺族を連れて筑紫倭国へ渡海避難し、倭国を再興・継体した。倭薈王遺族が倭兄王家で、任那日本府遺族が倭弟王家だと思う。日本が「日辺にある」の南から「日出づる所に近し」の東へなった。

 親戚の近くに妙見宮鷲頭寺がある。約1400年の歴史をもち、日本の節分発祥の地ともいわれる。真言宗御室派に属し、本堂は権現造で神社のようにも見えるたたずまい。本尊の妙見大菩薩は大内氏の氏神さまで、古くから「みょうけんさま」と親しまれている。周防大内氏はひょっとして安羅王族だったか?

  【九州王朝の落日(下関市前田博司氏)「山口県内の文献に見える逸年号」表】
の中に「寺社由来」奥山代宰判阿賀村崎所大明神縁起(現玖珂郡美和町大字阿賀)『季号賢称丁酉とかやの時、もろこし百済国に(中略)百済琳中皇帝中林聖家之太子こころさし有て五ケ年の後、この和国にわたらんとおほしめす」
その後「五ケ年を期し鏡(けん)常辛丑之季七月下旬、琳聖太子防浜に来朝し給ふ」

 思うに、日本府を称し、北極星・北辰(=妙見信仰)の天皇を号した安羅王家が大内氏の先祖:琳聖太子の由来だろう。

 応永六年(1399)、大内義弘が李氏朝鮮に「わたしの先祖は百済から来朝の
琳聖太子
だと言う伝えです、ついては詳しくその由来を知りたいので調べてくれませんか」と言った。百済ではなく安羅か多田羅であろう。倭人の王族でなければそう簡単にましてや、九州のそばの周防へ来朝は出来なかったはずだ。


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(116) 『継体天皇は九州倭国の倭薈(=磐井)王をほんとうに継体したか』 2010年6月3日(木)

 継体天皇は大和朝廷の暴虐な武烈天皇の継嗣なく絶えるはずの皇位を易姓革命で継体したとなっている。が、わたしの仮説が正しいなら500年代初頭に大和王朝は影の形もない、だから継体しようがないことになる。九州王朝倭国の倭薈(=磐井)王(531薨去)の後か、或いは安羅王日本府天皇(531薨去)の後を3年(継体534年薨去)で継体したとなる。

 然し一方で、
『継体紀の「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ」とは』
で分るように、継体天皇とは天智天皇の事ではないか?という疑問がわいてくる。「プロト大化改新」を50年前の「大化改新」に置換した技法が一部使われている可能性がある。

 531年3月、安羅の王・安が殺され(=日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨)と、倭薈(磐井)王が「にわかに官軍が動発し襲われた」が為の死亡が「發倒」531年11月11日であり。「越港国」小伽耶の継体天皇が534年崩ずが一連の事件だとしたら、なんか非常に手廻しの良い改元・継体である。

 何人の方がこのtwitterを見てるか分からないが、531年3月、安羅の王・安(=日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨)の死亡と、倭薈(磐井)王の死亡が「發倒」531年11月11日で、「越港国」小伽耶の継体天皇が自身の死・534年崩ず迄の間に、このいずれを「継体」したと思いますか?


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(117) 『九州王朝の「常色の改革」こそ大和朝廷「日本国」の起源だろう』 2010年6月7日(月)

 正木裕氏は、
 【古田史学会報no96(2010年2月号)『九州年号の改元について』(後編)】
 の中の『3、「新宮」記事の三四年遡上』項で、次のように、『九州王朝の「常色の改革」と名づけた。』旨が書かれている。

 『これまでの考察から、命長七年(六四六)「利」が崩御し、次代の天子は筑紫小郡宮に遷居するとともに、年号を「常色(六四七~)」と改元。
 礼法や冠位制度を改革し、さらに評制施行や難波宮建設などの大改革を行ったと考えられる。
 私はこれを九州王朝の「常色の改革」と名づけた。』

 さらに、『なお、「常色」の常は「のり・典法」を意味し、色は〔色法〕という語で「仏・物質の法を言ふ(諸橋漢和大辞典)」ことから、『書紀』大化3年の「七色・十三階の冠制」創設にも因む年号名と思われる』この正木裕氏のご意見に私も大賛成だ。
 九州王朝の「常色の改革」こそ大和朝廷「日本国」の起源だろう。

 九州王朝の「常色の大改革」の目玉が評制施行の天下立評であり、その天下立評が九州王朝を従来の連邦制から中央集権制へと大転換させただろうし、中央集権制の天下立評が大宰府の東方へ副都難波宮を建設させ、巨大徴税システムの天下立評維持が強大な軍事力を要し倭国の軍隊を2分したと想像できる。

 それにしても、倭国の連邦制を構成していた吉備・出雲・尾張・毛野・秦の各王国が大きな抵抗も無く、伊勢王の境界確定作業が3年ばかりで終わっていることから概ね協力的であったと思われることだ。それだけ、唐国・新羅・秦国の侵略脅威がひしひしと迫り、「常色の大改革」が大和朝廷の萌芽となった。

 宮殿というよりは軍事基地に近い九州王朝倭国の副都・難波宮に王家分家の弟王家が常駐したであろうことは即断即決が必要な当時の状況から容易に想像できよう。その弟王家が天智系の(舒明・皇極・孝徳・斉明・天智・大海人の天武・持統)の各天皇の出身母体であり、大和王朝「日本国」の前身であろう。


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(118) 『そもそも、大和王朝「日本国」はいつ発生したか?が問題だ』 2010年6月8日(火)

 そもそも、近隣の史書が認める九州王朝「倭国」が在ったかが問題ではなく、大和王朝「日本国」が遣唐使・粟田真人派遣 (701年)で、華々しく東アジア史にデビューする以前、九州王朝倭国が高市天皇暗殺で滅亡696年する以前はどうだったかが問題だろう。みんな問題を履き違えていないだろうか?

 私の仮説は、九州王朝「倭国」の元号「大化」を、大和王朝「日本国」が「大宝」と改元する以前の、大和朝廷の前身は九州王朝倭国の難波副都の倭王家分家の弟王家だったということだ。

九州年号・書紀天皇表〔九州年号の34年繰り下げ/50年繰り上げ〕
を参照

 では、九州王朝「倭国」が「常色の改革647年」で評制施行の天下立評し、大宰府の東方へ副都難波宮を建設する以前はどうだったか?何もなかったではなく「隋書」俀国伝中に『明年上文林郎裴清を遣わして俀国に使いせしむ。ー略ー又竹斯国に至り、又東して秦王国に至る』そう其処には秦王国があった。

 『明年(大業4年:608)、上、文林郎裴清を遣わし、ー略ー秦王国に至る』『620?( 推古28:倭京3)唐の掌客裴世清等至』『632(舒明4:仁王10)唐使の高表仁が到来』これらの記事は隋・唐が倭国の附庸国・秦国と知りながら秦国と交渉続け唐・新羅陣営へ取込むべく画策の証しだろう。

 倭国は附庸国・秦国を唐が唐・新羅同盟に組込むべくチョッカイを出しているのを苦々しく見てただけではないだろう、知ってどうしたか、天下立評で財務基盤を強化し、更には、秦国の傍に難波副都を築き、秦国を牽制し、秦国が唐・新羅同盟へ参加するのを阻止・最終的には抹殺・撲滅しようとしただろう。

 『秦国の唐・新羅同盟参加阻止・最終的には抹殺・撲滅しようとした』その過程は、日本書紀が記す蘇我氏を秦国の王家だとして考えると分かりやすいだろう。蘇我氏は壬申乱以降、その姿を日本書紀に見せなくなった。


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(119) 『「常色の大改革」を推し進めた倭国王とはどんな「王」だったか』 2010年6月8日(火)

 『命長7年:646「利」が崩御后、次の天子は筑紫小郡宮に遷居、年号を「常色647~」と改元。礼法や冠位制度を改革、評制施行や難波宮建設など「常色の大改革」を推し進め、難波京完成で「白雉652~」改元后も「白鳳661~」改元直前迄在位しただろう倭国王とはどんな「王」だったのだろう。

 古田武彦氏の著「古代史の十字路」「壬申大乱」で言う明日香皇子=筑紫君薩夜麻であり、白鳳王であり、唐から捕虜解放後の筑紫君薩夜麻は「高市皇子命の父の天武天皇」だから、明日香皇子=筑紫君薩夜麻=白鳳王=「高市皇子命の父の天武天皇」は同一人物となる。その父が「常色」「白雉」の王となる。

 (巻3-240)「久堅乃天歸月乎網尒刺我大王者盖尒為有」甘木の大王は「月」を(旗などの)しるしにし、それを御狩りに使われた網の前に、刺すように立てておられる。(亡き大王の棺の列の)そのありさまを見ると、まるで生きておられた時の行列と同じく、今も「きぬがさ」を立てておられるようだ。

 古田武彦氏の著「古代史の十字路」の中で紹介の「万葉集(巻3-240)「久堅乃天歸月乎網尒刺我大王者盖尒為有」は柿本人麻呂が猟の途中、不慮の死をとげた甘木(=天歸)大王の雷山葬送追悼の辞だ言う。この筑紫甘木の王こそ明日香皇子=筑紫君薩夜麻=白鳳王の父の「常色」「白雉」の王であろう。

 あー、もっと詳しく「常色の改革」「白雉改元儀式」「甘木(=天歸)大王の雷山葬送」を知りたいものだ。日本書紀が完成と同時に倭国史書の類をすべて焼却してしまったという、どこか皇居の倉庫片隅に眠ってないか?探してくれー。それにしても古田武彦氏はすごいなッ。万葉集に書かれているよだって。


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(120) 『持統が大嘗したのでなく、遷都后の高市だったとわかる』 2010年6月11日(金)

 当初倭王は大宰府倭京と、副都・難波京を数度往復したであろうが、その後は、難波京に王家分家の弟王家が常駐することになったであろう。しかし、難波京はあくまで副都でそこには、王権を示す「3種の神器」や「大嘗祭」をすることは無かったわけで、持統が大嘗したのでなく、遷都后の高市だったとわかる。

 690年〔持統4年(持統即位元年):朱鳥5年〕春正月1日 —略— 神璽の剣、鏡を『皇后 高市天皇』に上げ奉った。『皇后 高市天皇』は天皇位に即いた。—略—
 ●690年〔持統4年(持統即位元年):朱鳥5年〕10月29日『 高市皇子 高市天皇』が、藤原の宮の〔予定〕地を観た。公卿、百寮〔官〕が従った。 ●『同年12月19日『 天皇 高市天皇』が、藤原に〔行〕幸して、宮地を観た。公卿、百寮〔官〕がみな従った。〔高市皇子に公卿、百寮〔官〕が従ったとあるが皇太子に天皇と同じ規模の公卿、百寮〔官〕が従うだろうか、この2つの記事は主語の「高市皇子」と「天皇」のみが意図的に違えてあるようだ、他の述語の部分は全く同じだからして〕。
 691年〔持統5年(持統即位2年):朱鳥6年〕11月1日、大嘗。「持統即位何年」というのは大宰府倭兄王家の高市天皇の在位であろう。これが倭国王最後の大嘗祭である。


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(121) 『なんと法隆寺は、九州王朝「倭国」の版図より「移築」されていた』 2010年6月12日(土)

 米田良三著「法隆寺は移築された」は、古代史を解明するうえで、すばらしくも画期的です。なんと法隆寺は、九州王朝「倭国」の版図より「移築」されていた。著書の中の移築元が大宰府「観世音寺」だとする説で、私は「九州倭国の法興寺を法隆寺へ移築し、その跡地に観世音寺を造った」と考えています。

 以前より、私は古田武彦氏の著書で九州王朝「倭国」の存在が確かである、と思いつつも、それらを証明する手がかり・物証なるものが得られず、すっきりしませんでした。本書に出会い 「法隆寺が九州からの移築である」 と知ったとき、九州王朝 『倭国』 の存在・実在を確信しました。

「藥師寺」「東大寺」が、宇佐八幡宮にほど近い 倭国の聖地「小倉山」より移築されたもの。「東大寺 」の正式名称「金光明四天王護国の寺」の「金光」は「倭国の元号」であり、「金光元年(西暦570年)」に完成していると言い。また、『これまで世界最古の木造建築とされていた法隆寺(=法興寺)の創建は607年であり、これより73年前の534年に造られた「薬師寺東塔」がこれから世界最古の木造建築とされよう。 さらに法隆寺・東大寺・薬師寺・長谷寺・法輪寺・法起寺・興福寺・東福寺・三十三間堂・桂離宮・吉野宮・伊勢神宮等々の建物が九州倭国より移築されたものである。』 と言う。

 確かに北部九州の、特に宇佐から大宰府、更に吉野ヶ里にかけて「虚空蔵寺・法鏡寺・相原・垂水・椿市・木山・上坂・天台寺・大分・塔之原・井上・観興寺・塔之塚・大願寺・晴気」などの「…廃寺跡」が数珠のごとく連なって残されてます、ごっそり倭国から大和へ移築されたのでしょう。それはまた何故?私に限らず興味の引かれるところです。
大和王朝は(難波副都で「天下立評」した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ
に“ヒント”が書かれている。


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(122) 『大和王朝「日本国」・「天皇」の系譜』 2010年6月12日(土)

 韓半島南部「日辺に在る」で「日本府」を名乗った「安羅国」、「天皇」を号した王安が高麗に531年殺され、「越港国」小伽耶の継体天皇が日本府安羅王遺族を連れて筑紫倭国へ渡海避難し倭国を再興。日本府遺族が倭弟王家となり、その後 652難波副都に常駐後701大和王朝「日本国」・「天皇」を号した。

 ここら辺りが、大和王朝「日本国」・「天皇」を号した系譜だろう。新羅には670『倭国更えて日本と号す。自ら言う「日出づる所に近し」と以って名と為す。』と強弁し、一方唐国には『その国「日辺に在る」を以て故に日本を以て名と為す』と曲げられて抗弁しないのは敗戦国倭王家の分家大和王朝故か。

 みんな先入観で「日本」を日出る国ってね、でも新羅本紀に「日出づる所に近し」=東とあっても、旧唐書には「日辺に在る」=南とあり。明らかに東と南で違います。韓半島南部の安羅王が最初「日本」を称し、その子孫が筑紫経由で奈良の大和王朝「日本」を開いた。唐に対し東ってね。


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(123) 『倭⇒俀(大倭)⇒大倭(俀)⇒大和と変化し、大和を“やまと”と呼んだ』 2010年6月14日(月)

 『天子のいる国号は一文字』確かに中国ではそうですね。卑弥呼が邪馬壹国の女王で、その次王が壹与で“壹”ですが、これは中国風の自称でしょう。この時既に『桓・霊の間、“倭国”大いに乱れ、云々』とあって廻りは倭と呼んでたみたいです。

 で、倭の中国音「ゐ」から「わい」へ変化して卑猥・矮小を連想するとして、俀(大倭)或いは日本としたのは事実でしょう。唐に遠慮して、天子の居る1字名の俀から2字名の日本にしたでしょうか。私は「うぃ・ゐ・ヰ」がどういう経過をたどって、「わ・わい」になったか想像してます。

 倭⇒俀(大倭)⇒大倭(俀)⇒大和と変化し、大和を“やまと”と呼んだ。でも、なぜ大和を“やまと”呼んだか分からない、“やまと”とはとても読めないですよね。そう読むのだと決めてかかってるからで、理屈もへったくれもない。


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(124) 『「長谷寺」・「藥師寺」・「東大寺」の故里』 2010年6月15日(火)

 この手書きの地図どこだかわかります?今現在は移築されて、奈良に建っていますが、長谷寺が倭国時代に建っていた元々場所を米田良三氏がそっと教えてくれました。
長谷寺の故里

 移築された「藥師寺」・「東大寺」が以前建っていた、宇佐八幡宮近くの倭国聖地
「小倉山」
だ。

 うっすらと写真に残っている倭国時代の東大寺跡地の僧坊の区割りが分かりましょうか?
 小倉の池そばに建っていた倭国東大寺の跡地
(戦後すぐの米軍上空写真)
 小倉の池そばに建っていた倭国東大寺の跡地
(米軍上空写真から割りだした僧坊区割り図)


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(125) 『王家と軍隊だけでは、「国」はできません』 2010年6月15日(火)

 実のところ私にもわからないのです。葛城「秦国」王家の蘇我氏は、『法興6年10月我が法王大王が〔葛城臣〕と伊予温泉に遊ぶ』・『隋書に〔秦王国あり〕』・『皇極元(642)年蘇我大臣蝦夷が葛城の高宮に祖廟を建て〔やつらの舞を舞った〕』・『筑紫舞に〔難波津より上りし翁〕』・『元興寺丈六光銘に曰く〔巷苛(蘇我)〕の伊奈米・有明子』等々の記事から想定の合成造語です。

 『王家と軍隊だけでは、「国」はできません』⇒いや、そんな昔ではなく「倭国は九州(筑紫島)を本拠に・出雲・加賀・吉備・葛城『秦国』・尾張・毛野(常陸)・任那等を含む連邦国家であったはずで」、これを中央集権化しただけです。明治政府がした廃藩置県を思い出してください。

 『そこにいた「国民」はなんも抵抗せずに弟王家を君主として迎えたんでしょうか?』⇒例えば倭国の附庸国(隋書の表現を借ります)の「毛野国」とかはすんなり「天下立評」を受け入れたでしょうが、たぶん「秦国」は抵抗したでしょう。唐が「唐・新羅・秦国同盟」へ参加させようと画策の為にね。

 『もともと蘇我氏が秦国王だとしたら、別に葛城の高宮に祖廟を建て「やつらの舞」を舞っても特におかしなことじゃないですね。天皇の地位を狙うのどうのという話ではないですね』⇒そうなんです、その時は、秦国は倭国の附庸国ではあっても以前は独立国で舞を継承してただけでしょう。日本書紀得意の“やらせ”でしょう。

 隋書俀国伝中『明年(608年)上、文林郎裴清を遣わして俀国に使いせしむ。ー又竹斯国に至り、又東して秦王国に至る。ー又十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す』裴清は文中に秦王国は書き、大和「日本国」に至るとは書いてない。何故か、無かったから書きようがなかったのだ。


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(126) 『何で今の天皇家苗字がないんでしょうね?』 2010年6月17日(木)

 西暦558年は九州元号で「兄弟元年」です。古田武彦氏はこれも倭国が兄弟王朝制を示すひとつの例だと言っています。その実、どういった行政機構・システムだったかは良く分かっていません。隋の皇帝にそんなのくだらない、すぐ止めろと言われたとか。詳しく知りたいがもどかしい。

 『ふと思ったんですが、何で今の天皇家苗字がないんでしょうね?』⇒私の仮説だと奈良・文武朝の時は「倭」或は「安」で、京都・桓武朝の時は「余」で、足利義満の北朝乗っ取り后は「足利」、明治維新・南朝革命后は「大室」或は「余」、平成天皇は「足利」へ戻り、浩宮は「大室」か。

 『天皇家に苗字があった形跡ってあるんですか』⇒わたしは、たぶん今もあると思ってるんですよ。というのは、天皇家は「天武系の天皇の先祖供養してない」と聞きます、ご先祖がちがうんですね。それを言っちゃーおしまいよとか、言うとたてまえの「万世一系」でなくなりますからね。

 『兄弟統治っていうのがあれば、たしかに自然な年号なのかもしれないですね』⇒ 西暦558年は九州元号で「兄弟元年」ですが、この時、小倉山で死んだ倭薈王の遺族と任那が滅び半島から避難の安羅王(日本府の天皇)の遺族がともに助け合って倭国を再興したのじゃないでしょうか。

 確か「朱鳥」(686)の借金の訴訟の話でしたよね。「白雉」(652~661)時代の約束は「年代玄遠」というのも奇妙な話っていうやつでしょう。王朝が違うので前王朝の約束なんぞ俺知らないよ。借金だらけの倭国家臣を知らぬ存ぜぬで高市が守ってやったということでしょうか。


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(127) 『連邦制各附庸王国が解体し、大和朝廷の前身へ統合・強大化した』 2010年6月17日(木)

 九州王朝倭国は645年唐太宗が高句麗攻撃の報せを知り、唐・新羅・秦国連合の倭国侵略を予想。命長王「利」の薨去后、常色王は従来の連邦制倭国を中央集権制へと「常色の大改革」を実行。その一つが天下立評であり、難波副都への倭王家分家の弟王家と軍隊の常駐で、これが大和朝廷の前身となった。

 難波副都への弟王家と軍隊の常駐ですが、これは何の為か倭国連邦附庸国(出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野)の王・王家・貴族を天下立評での中央集権システムの上級官僚へと取り込む為でしょう。

 結果どうなったか、各附庸国は各々少なからずの軍隊持っていたでしょうから、この軍隊を取り上げ、付近の倭国地区官衙の軍隊へ嵌め込んだでしょう。当初倭国地区官衙の長官は各附庸国の王が就任したでしょうから、以前の命令・指示系統と変わらなかったでしょうが、次世代へ相続は出来なかった。

 相続できないから、倭国連邦構成国の各附庸国王家はいつしかバラバラに解体され、大和朝廷が50年后郡制を施行した頃はもう無かったのではないでしょうか。明治維新の廃藩置県で各旧藩主は華族だ・貴族院議員だとおだてられ下にも置かれなかったでしょうが、戦後は廃れて観る影もありませんね。

 倭国は出雲・加賀・吉備・秦国・尾張・毛野・等を含む連邦国家で附庸国の各王家を天下立評の官僚組織の長官へ任用組み込むことで武力による討伐でなく、やんわりと各附庸国を解体し、その班田収受による上納税金を大和朝廷の前身(=倭国分家の難波弟王家)がちゃっかり頂くという構図が見えてきます。

 こうして見て来ると「常色の大改革」が如何にすごい改革だったかがわかります。なかでも既に評制施行済みの九州を除く日本のほぼ全域を天下立評し、この巨大徴税システムが連邦制から中央集権制へ変革し、連邦制各附庸王国が解体し、大和朝廷の前身(倭国分家の難波弟王家)へ統合・強大化したのです。

 『すると600年代に、蘇我氏滅ぼしたりして、急激に力をつけていったのでしょうね』⇒そうですそれも、645年唐太宗が高句麗を再攻撃、647年(常色1)6月新羅で「ひどんの乱」が発生。あわてた常色王が 「常色の大改革」を実行し、652年(白雉1)難波京完成后ですね。


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(128) 『多利思北孤だけのことかもしれませんが、仏教に帰依したみたいで』 2010年6月17日(木)

 『多利思北孤だけのことかもしれませんが、仏教に帰依したみたいで』⇒米田良三氏は東大寺の大佛及び薬師寺の薬師如来には手足に瑞祥文・輪宝文、右胸に卍文が彫られていて、これは九州王朝倭国の倭薈王の生前の姿をあらわしている、更に阿弥陀経は倭薈王が広めたとも言っています。


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(129) 『白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し』 2010年6月18日(金)

 「「白雉」(652~661)時代の約束は「年代玄遠」というのも奇妙な話っていうやつでしょう。王朝が違うので前王朝の約束なんぞ俺知らないよ」 そうですそうです^^ とぼけただけかもしれませんが 弟王家なら、本当にその年号知らんっていうことはないと思いまして

 『その年号知らんっていうことはない』⇒もちろん知った上で九州年号表記は「九州王朝倭国」認める事です、詳しくはここ参照方
朱鳥 白雉 改元の史料批判:古賀達也

 「白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し。」『続日本紀』神亀元年冬十月条(724)聖武天皇自らが「白鳳」「朱雀」という九州年号の存在を前提として発言していたのである。九州年号実在の証言としてこれ以上の証言はないのではあるまいか。九州王朝を滅ぼした王朝代表者の言葉だ。

 「戊午(20日)改元して朱鳥元年と曰ふ。〈朱鳥、此を阿訶美苔利(あかみとり)といふ〉仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮(あすかきよみはら)と曰ふ」。天武紀朱鳥元年7月条(686)「是歳、宮室を岡本宮の南に營る。即冬に、遷りて居します。是を飛鳥浄御原宮と謂ふ。」天武元年是歳条(672)

 「朱鳥元年(686)7月19日丁巳に詔して曰はく、天下の百姓の貧乏(まず)しきに由りて、稲と資材とを貸(いら)へし者は、乙酉の年(天武14年、685)の12月30日より以前は、公私を問はず、皆免原(ゆる)せ」とのたまふ。」この「徳政令」記事が朱鳥改元記事前日に記入でこれが理由だ。

 「持統元年(687)秋7月2日に詔して曰はく、『凡そ負債者、乙酉より以前の物は利収ること莫。若し既に身を役へらば利に役ふこと得ざれ』とのたまふ」。続いて「利息」についても免除する詔勅が出され、一連の「徳政令」にこそ、朱鳥年号を正しくその位置に盗用せざるを得なかった理由といえよう。

 日本書紀は「九州年号」を書きたくなかったが、「白雉」「朱鳥」「大化」は現実の行政の都合上書き込まざるを得なかったのだ。古田武彦氏・古賀達也氏・正木裕氏の地味な究明の積み重ねが「九州年号」の実在を証明し、更に「九州年号」を前提にした時「日本書紀」の元号単位の切り貼りが分かったのだ。


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(130) 『倭国の弟王家が大和朝廷なら、なんで九州年号は知らないと言ったか』 2010年6月18日(金)

 倭国の弟王家が大和朝廷の基礎築いたのなら そのトップが書いた「正史」になんで そんな九州年号なんかしらん みたいな記事を書いたんでしょうね?

 『倭国の弟王家が大和朝廷なら、何故九州年号は知らないと言ったか』⇒若し他王朝の吉備・出雲・秦・尾張・毛野が倭国を征服して大和王朝になったのなら九州年号を消す必要は無い。
 倭国の白村江の戦後賠償金の支払いを倭国に代わって大和が応じることは絶対に避けたかったからだ。

 自分達「兄弟王朝」の素性を消しても「唐が倭国へ要求した戦後賠償金が過酷だった」の一語に尽きるでしょう。若し弟だと言ったら、兄の負債の支払要求を却下できなかったでしょう。倭国を列島史から消し、倭国年号を消し、新たに大和朝廷が日本列島に人類発生と同時にさもあったかの如くでっち上げた。

 たぶん「兄弟王朝」の素性は唐にバレバレだったのでしょう。このへんのやりとりが旧唐書の『日本国は倭国の別種なり〔=倭国から別(わか)れた国〕、…或いは言う、日本はもと小国、倭国の地を併せたり、…或いは言う、尊大ぶって事実〔=倭国から別(わか)れた国であること〕を伝えない』となった。

 倭国と日本国とは民族的には同じ倭族ですが全くの別国です。負けたのは対等外交を主張した倭国で、日本国は唐国への戦後賠償には応じられない。ただし、日本国は唐国・周国を宗主国と崇め、朝貢貿易をしましょう。そうかそうか分かった。違うというなら日本国史書があるだろう、次回もって来るように。

 『なるほど、賠償金のがれですか、考えられますね「正史」は、唐にむけての主張でもあったわけですね』⇒日本書紀は唐朝が読んで分かるように漢文だった。その前に、日本側の記録は無いが、唐の開元713年「大陸風漢風諡号日本国王名表」を制定し遣唐使正使の粟田真人が唐朝へ報告した。

 この話は「古代に真実を求めて」古田史学論集第12集:古田史学の会編の中の
研究論文〔「持統紀」はなかった〕:飯田満麿著
のご意見を抜粋・転載しています。(注意:途中を端折っています、詳細はご購入の上参照方)


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(131) 『九州王朝倭国は暗殺された高市天皇を最後に696年亡んだ』 2010年6月19日(土)

①明日香皇子・のちの筑紫君薩夜麻は九州王朝倭国の白鳳王だった:古田武彦氏。
②(大海人・持統の夫・草壁皇子「尊」の父) と (明日香皇子・薩夜麻・白鳳王・高市皇子「命」の父) とで、天武天皇は二人いた:日出島哲雄氏。
③「持統紀」はなかった ⇒ いいかえると、暗殺された「高市天皇紀」だった:飯田満麿氏。
⇒ 以上の①②③をまとめると、『九州王朝倭国は暗殺された高市天皇を最後に696年亡んだ。』ということになる。


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(132) 『休戦協定成立后、郭務悰・唐の駐留軍は本国へ引揚げたか』 2010年6月23日(水)

 「持統元年(687)秋7月2日に詔して曰はく、『凡そ負債者、乙酉より以前の物は利収ること莫。若し既に身を役へらば利に役ふこと得ざれ』とのたまふ」。続いて「利息」についても免除する詔勅が出され、これら一連の「徳政令」は、 九州王朝倭国のひどい困窮ぶりがわかろうというものだ。

 天武元年(672年:白鳳12) 夏5月22日郭務悰らに甲冑弓矢を賜った。この日、郭務悰らに賜った物は、総合してふとぎぬ1673匹、布2852端、真綿666斤である。30日、郭務悰らが帰国した。とあるが、壬申乱の前である倭国占領軍の指揮官郭務悰らが帰国したとは考えられない。

 郭務悰は駐留を続け、薩夜麻を倭国王に、大海人の天武を征討将軍に任命し、自らは唐の駐留軍を直接指揮し、近江朝の大友皇子を討破った。これが世に言う壬申乱である。その後702年まで遣唐使派遣記事は史書に無い。記事が無いからといって戦敗国・属国から唐への賠償金支払いが免除されたか?

 壬申乱前、郭務悰と大海人とで近江朝の処遇約束をいかように交わしたかわからないが、天智近江朝の状態を維持する内容だった思われる。たぶん、倭国と近江朝が並立する休戦協定に近かったのだろう。この休戦協定がなって后、郭務悰・唐の駐留軍は本国へ引揚げただろうか。その後の郭務悰の記事は無い。


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(133) 『壬申の乱の意味合いっていうのが、変わってくる』 2010年6月23日(水)

 『壬申の乱って、古田さんの「壬申の乱」という本も読みましたが、どうもよくわかりません』⇒ですよね、でもこれをクリアーしないと次に進めません。
「持統紀はなかった」
が分り易いのですが、今見ると肝心な三・四・五・六・七・八章の途中を、古田史学の会編で著作権にも触れるかと思いまして、端折っていますね。ネットに公開してないみたいです。著者の飯田満麿氏は2009年1月10日、すでに亡くなって居られますので極力内容が分かるように今から追記しますかね。

 『壬申の乱の意味合いっていうのが、変わってくる』⇒そうです。その手口が、倭国王の「薩夜麻」を筑紫君薩夜麻とし、その薩夜麻と大海人皇子を天武天皇「2人1役」にし、更に薩夜麻の皇子の「高市天皇」を認めず「持統天皇」に在位を挿げ替えた。こうして白村江後の倭国を消した。

 『近江宮とtohyanさんが言う副都・難波京。←これとはまったく関係のないものなんですよね?なんか九州王朝の出先機関だったとか』⇒近江京は難波京を避けて日本海・或は尾張へ抜ける・位置にあります。瀬戸内海をまっすぐ難波京へ攻め立てられては一溜まりもありませんからね。近江京は難波京の一時避難京でしょうね。

 『あれだけ濃密に、まるで日記のごとく「壬申の乱」について書いた』⇒ん、まー確かに。
〔天武天皇は二人いた。日出島哲雄著〕
を読んでいただけると、その何たるかがわかるでしょうね。


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〔天武天皇は二人いた。日出島哲雄著〕
を以下抜粋引用転載します。

 大友皇子と鞠智城(壬申の乱は九州)で私は、天武天皇が合成人物であることを指摘した。では、岩波文庫の『日本書紀』の「天武紀」下の天皇の子達を記している箇所を見てみよう。

 正妃を立てて皇后とす。后、草壁皇子尊を生れます。先に皇后の姉大田皇女を納して妃とす。大来皇女と大津皇子とを生れませり。次の妃大江皇女、長皇子と弓削皇子とを生れませり。次の妃新田部皇女、舎人皇子を生れませり。又夫人藤原大臣の女氷上娘、但馬皇女を生めり。次の夫人氷上娘の弟五百重娘、新田部皇子を生めり。次の夫人蘇我赤兄大臣の女太娘、一の男・二の女を生めり。其の一を穂積皇子と曰す。其の二を紀皇女と曰す。其の三を田形皇女と曰す。
 天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶して、十市皇女を生しませり。次に胸形君徳善が女尼子娘を納して、高市皇子命を生しませり。次に宍人臣大麻呂が女かぢ媛娘、二の男・二の女を生めり。其の一を忍壁皇子と曰す。其の二を磯城皇子と曰す。其の三を泊瀬部皇女と曰す。其の四を託基皇女と曰す。

 「田形皇女と曰す」まで皇子皇女を記した次に、「天皇、初め鏡王の女額田姫王を娶して」は不自然な文である。「草壁皇子尊」の「尊」と「高市皇子命」の「命」の表記の違いは出典が異なることを示している。草壁皇子尊から田形皇女までの父親と十市皇女から託基皇女までの父親は別人である。
 大友皇子と鞠智城(壬申の乱は九州)から前者が大海人皇子であり、後者が壬申の乱を起こした人物であることが分かる。天武天皇が二人いたことは、高市皇子命天皇説と七0一年(大宝元年)の王朝交代の証拠となる。
 高市皇子命天皇説の根拠は二つある。斉藤忠氏は『倭国と日本古代史の謎』(学習研究社、二00六年)で高市皇子天皇説の二つの根拠を述べている。また、七0一年(大宝元年)の王朝交代について述べている。
 斉藤忠氏はまず高市皇子が亡くなった後の皇位継承会議について述べている。

 彼(高市皇子)の死後、皇位継承者がいないので、それを選ぶ会議がもたれた。ところが、会議の模様を伝える『懐風藻』の「葛野王伝」は、「高市皇子薨りて後に、皇太后王公卿士を禁中に引きて、日嗣を立てむことを謀らす。時に群臣各私好を挟みて、衆議粉紜なり」と記す。

 高市皇子が亡くなって日嗣を立てる衆議は、高市皇子が天皇でなかったなら不要であると私は思う。斉藤忠氏は次に長屋親王について述べている。

 高市皇子の嫡子に長屋王がいた。平城京の邸宅跡から大量の木簡が出土したが、中に「長屋親王宮鮑大贄十編」と墨書されたものがあった。彼は長屋親王と呼ばれていたのだ。9世紀の仏教説話集『日本霊異記』にも「長屋親王」とある。
 「大宝律令」によれば、親王とは父が天皇か、兄弟が天皇の場合のみ許される尊称だ。長屋王の兄弟(男一、女二)に天皇はいないし、それを匂わす異伝もない。すると、父・高市皇子が天皇だったことになる。

 斉藤忠氏は次に七0一年(大宝元年)の王朝交代について述べている。

 『新唐書』は『日本書紀』と異なる情報を我々に提供してくれる。たとえば、「長安元年(七0一年)、その王(文武)立ち、大宝と改元した」という一節だ。
 『日本書紀』によれば、文武天皇は六九七年に即位する。また『続日本紀』によれば、大宝元年は七0一年だ。改元の年次は日中の史書ともに一致するが、文武の即位年がずれている。
 まず注目したいのは、『新唐書』の伝える「大宝と改元した」という情報だ。改元はその前にも元号があり、それをやめて新たな元号に置き換えることが本義だ。ところが『日本書紀』『続日本紀』にも、大宝にバトンタッチされた元号に言及しない。『新唐書』は嘘をついているのだろうか。
 すでに触れたように、一連の年号群「九州年号」が存在している。三二からなる一連の年号は五二二年以降連綿と続き、六九五年を元年とする大化を最後に消滅する。
 『新唐書』が九州年号を知っていたかどうかは不明だが、大宝へバトンタッチされる元号の存在を認識した上で「改元」なる表現をとったことは明らかだ。
 「九州年号」は大化六年(七00年)をもって消滅するが、大宝とそれに続く元号群が七0一年以降連綿と続く。このことは、それらが「九州年号」にとって替わったことを意味する。元号とは絶対暦年(年代座標)を確定するため、切れ目なく連綿と続くのが本義だし、天子が定めるものなのだ。元号と王朝は表裏一体のものなのだ。
 であれば、七0一年に朝廷が交替したととる他ない。易姓革命があり、文武は新王朝の君主として立った、ということになろう。

 文武天皇は日並知皇子尊の第二子であると『続日本紀』に記されている。日並知皇子尊は草壁皇子と同一人物だという。草壁皇子尊の父親と高市皇子命の父親は別人である。高市皇子命から文武に皇位が移ったことは易姓革命である。
 日並知皇子尊と草壁皇子が同一人物であるという確証をわたしはまだ見ていない。この二人が同一人物でなければ、七0一年(大宝元年)の王朝交代は、より複雑になる。

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 この「天武天皇は二人いた」で、文武天皇は日並知皇子尊の第二子であると『続日本紀』に記されている。日並知皇子尊は草壁皇子と同一人物だという。草壁皇子尊の父親と高市皇子命の父親は別人である。高市皇子命から文武に皇位が移ったことは易姓革命である。⇒だが高市天皇が暗殺だとすれば易姓革命にはならないだろう。

「ひどんの乱⇒乙巳の変」なのですが、この新羅史の『金春秋⇒中大兄皇子⇒文武天皇』『金庚信⇒中臣鎌足⇒藤原不比等』『比曇⇒蘇我入鹿⇒高市天皇』で、更に百済史の『豊璋⇒天智⇒文武天皇』『郭務悰⇒藤原鎌足⇒藤原不比等』とするのが50年后の696年起った高市天皇暗殺事件の本来姿であろう。

 『書紀編者たちはー何かを訴えたかったのか、それとも何かを消し去りたかったのか、なにかあれを書かなければならない理由っていうのはあったのは間違いないでしょうねぇ 』⇒物語風の箇所特に「乙巳の変」「大化の改新」「白村江戦」「壬申乱」は「言い訳する時、人は多弁になると言います」ね。


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(134) 『「大宰府倭兄王家」と「難波副都倭弟王家」の白村江戦後』 2010年6月24日(木)

①662年、「大宰府倭兄王家」の薩夜麻が白村江敗戦で捕虜。
②663年、「難波副都倭弟王家」の天智は倭国の残存部隊の結集と留守居王権として九州島を除く本州・四国を実効・直接支配。
③664年、九州倭国の筑紫都督府(=大宰府)に唐軍が進駐・駐留。
④667年、大和が倭国から実質的に分離独立、唐進駐軍の侵略予防の為難波京から近江京へ遷都・即位。
⑤672年、壬申乱後、薩夜麻の倭国王復位。
⑥672年、大海人の天武天皇が「難波副都倭弟王家」の飛鳥浄御原宮で即位。
⑥672年、薩夜麻の天武天皇が「福岡県小郡市」の飛鳥浄御原宮で即位。
⑦九州倭国は戦後賠償金支払いで疲弊。
⑧678年、筑紫大地震で更に疲弊。
⑨683年、倭国が大和へ3種神器貢上。
⑩684年、倭国が大宰府から難波京へ遷都・朱雀改元。
⑪686年、難波京全焼で飛鳥浄御原宮へ再遷都・朱鳥改元。
⑫695年、藤原京完成で遷都・大化改元。
⑬696年、高市天皇が郡制施行の大化改新発詔。
⑭696年、高市天皇暗殺。
⑮696年、九州王朝倭国滅亡。

 九州王朝倭国の難波副都が652年完成で、倭王分家の弟王家が難波京へ常駐するようになって以降の歩みと言えよう。白村江戦以前は天下立評・蝦夷皇化・倭連邦各附庸国〔出雲・加賀・吉備・葛城『秦国』・尾張・毛野(常陸)〕王家の解体・特に秦国の取込みに専念したむきが天智の行動から考えられる。白村江戦以降は倭国兄王家が疲弊・自壊・主客転倒し滅亡した。


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(135) 『「高市天皇」暗殺が、「乙巳の変」のモデルになっている』 2010年6月25日(金)

 696年〔持統即位7年:大化2年〕7月10日、後皇子尊『 高市皇子 高市天皇』が薨じた。

 この記事は、倭国側の暗殺下手人:丹比真人嶋・安倍朝臣御主人・大伴宿禰御行。大和側の暗殺下手人:石上朝臣麻呂・藤原朝臣不比等。らによって倭国最後の王「高市天皇」が暗殺・薨去したもので、645年乙巳皇極4年6月12日の「乙巳の変」のモデルになっていると考えるものです。登場人物を「乙巳の変」に当て嵌めてみよう。

 ( 皇極 高市 )天皇が( 板葺宮 藤原京 の)大極殿に出御した。 古人大兄 丹比真人嶋 が侍した。 中臣鎌子連 藤原朝臣不比等 は、 蘇我入鹿臣 高市天皇 が、疑多い性格で、昼夜剣を持っているのを知っていて、俳優をして、たばかって解かした。 入鹿臣 高市天皇 は、笑って剣を解き、入って座に侍した。 倉山田麻呂臣 石上朝臣麻呂 が、進んで三韓の表文を読み上げた。このとき、 中大兄 のちの文武天皇 は、衛門府を戒め、同時に( 板葺宮 藤原京 の)十二の通用門を鎖し、往来させなかった。衛門府を一ヶ所に召集して、まさに禄を給しようとした。 中大兄 のちの文武天皇 は、自分で長槍を執りもって、〔大極〕殿の側に隠れた。 中臣鎌子連 藤原朝臣不比等 らが、弓矢を持って助けまもった。海犬養連勝麻呂(?)をして、箱の中の両剣を 佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田 安倍朝臣御主人 と 大伴宿禰御行 とに授けさせ「努め努めて、いっきょに斬れ」といった。 ー 以下、略 ー

・・・如何だろう?少し当て嵌めに無理があるかな・はてさて・・・


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(136) 『高市天皇の皇子:長屋親王は、結局は「長屋王の変」で抹殺された』 2010年6月25日(金)

 倭国王最後の高市天皇の皇子:長屋親王は684年誕生-729年3月16日薨去。母は天智天皇の皇女の御名部皇女(元明天皇の同母姉)であった。長屋親王は平城京遷都後台頭の藤原不比等の娘を妻としていた。717年石上麻呂が死去、藤原不比等が720年に没、729年3月「長屋王の変」で自害した。

 倭国王最後の高市天皇の暗殺が696年7月、長屋親王は684年生れで当時12才だ、12才だと判断力もあり、父の暗殺を知らなかったのだろうか。藤原不比等の娘を妻にしていたということは、大和側の石上麻呂・藤原不比等に監視されていただろうし、結局は「長屋王の変」で抹殺されたということか。


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(137) 『「偽書」じゃない歴史書なんてこの世の中に存在しない』 2010年6月26日(土)

 『「偽書」じゃない歴史書なんてこの世の中に存在しない』⇒おっしゃる通りです。佐藤栄作の沖縄返還交渉后も以前米軍は駐留を続け、私も含め日本人自身も徴兵令怖さに自主防衛を真剣に考えない。自民党のまやかしを、さも鳩山が沖縄県民にうそを言ったとして逃げる。今も昔も同じか。

 662年、九州王朝倭国・百済が、唐・新羅連合軍に白村江戦で敗れ、筑紫都督府(=大宰府)は唐軍の進駐・駐留を受け、戦後賠償金・筑紫大地震で極端な疲弊を被り、朱鳥の借金棒引話を、正しく戦前の帝國臣民が認識していたら、やはり米国と神がかり的な日米戦争をしただろうか。

 次はおよそ10年前の2000年11月、厚木の方からのメールを紹介します。
 『かなり前から白村江の敗戦については興味がありこのサイトに記載されていることについては認識していました。私の知っている事を1つ記載しておきます。(ただし証拠はない、昔なにかの本で読みました)

”地団駄を踏むとなぜ悔しいか”

白村江の敗戦以降、中国、朝鮮の占領軍は大仏建設などの労働力として日本国内から働き盛りの男手を奴隷としてかなり多くの日本人を集めていました。これに不服のある村人を匿った事への見せしめとして村の男を生き埋めにし、その上を女子供や老人に踏み固めさせました。(自分の子供や亭主を自分で生き埋めにする)
 この名残が”ラッセーラ”で有名なねぶた祭り。黒人霊歌のあのソウルフルな感動と同じように、ねぶた祭りが日本人の魂を揺さぶるのは、こうした背景があった模様です。
 大東亜戦争の代償として支払う対中国、対朝鮮への保証などこれに比べれば些細な事・・・みんな忘れてしまったほうが幸せか?』
このメールね、すこし、長かったですかね。


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(138) 『九州王朝倭国「天帰王(あまぎ・甘木)」の「常色の改革」以降』 2010年6月26日(土)

 少し、いったん整理をしよう。

九州王朝倭国の(博多駅九大付近の上塔里に居住したであろう)「利」王が薨去后、次王の「天帰王(あまぎ・甘木)」が正木裕氏の言う「常色の改革」を推し進める一環として、天下立評があり、複都「難波京」の建設詔649年が発せられ、652年「難波京」完成を祝って「白雉改元儀式」が大々的に挙行された。

 当初「天帰王(あまぎ・甘木)」は大宰府と複都「難波京」を数度往復したであろうが、唐が高句麗をしつこく攻撃を繰り返すという、風雲急を告げる状況で「兄弟王朝」の弟王家出身の「伊勢王」が、天下立評・東国蝦夷皇化の為、倭国軍の約半分を率い「難波京」へ常駐することになったであろう。

 天下立評は中央集権的巨大徴税制度であり、従来の倭国附庸国「出雲・加賀・吉備・葛城『秦国』・尾張・毛野(常陸)」連邦制はそぐわないものであった。各附庸国の王や軍を地区の国衙官庁・軍の官僚制へ組み込み、各附庸国は自然と解体した。結果、弟王家は九州を除く、四国・本州を直接実効支配する。こととなり、約10年で弟王家は筑紫の倭兄王家をしのぐ勢いに。

 661年「天帰王(あまぎ・甘木)」の「常色・白雉王」が狩の途中不慮の死を遂げ、「明日香皇子・薩夜麻」が大嘗祭もせずにそそくさに「白鳳王」として即位、白村江戦へ自ら出征するも662年 663年 敗戦し、途中不幸にも捕虜・連行された。


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(139) 『真実が解かれることを願って書いたとしか思えない箇所がある』 2010年6月27日(日)

 『時の権力者の都合で歴史を書き換える』⇒あなたは自分が言いたいことが何かをわかって言っていないようだ。『俺のとは違うなー』です。『日本書紀編者が早く正しい「倭国史」を復元してくれ』と言ってるようです。真実が解かれることを願って書いたとしか思えない箇所があります。

 『はあ?日本書紀が偽書の類だといったのはあなたじゃないですか? 』⇒もちろん、偽書ですよ。でも、正木裕氏説のように一定の法則「34遡上説」で読み解けば「元の倭国史が浮かび上がってくる」そんな感じかな。あなたもでしょうが、元の倭国史を知りたい方が巷に溢れています。

 日本書紀安閑天皇元年534閏12月4日天皇が三島に行幸時の記事中『(故)先〔天皇〕建顕・號垂鴻名・廣(大)配(乎)乾坤・光(華)象(乎)日月・長駕遠撫・横逸(乎)都外・宝境區域・充塞(乎)無限・上冠九垓・旁〔濟〕八表・制禮以告・成功作楽・以彰治定・福應充臻・祥慶符号・於往歳矣』

 米田良三氏は著書中で、この『』内の記事で、()内の文字を外し〔〕を王、済に替え4字句にすると『先王建顕・號垂鴻名・廣配乾坤・光象日月・長駕遠撫・横逸都外・宝境區域・充塞無限・上冠九垓・旁済八表・制禮以告・成功作楽・以彰治定・福應充臻・祥慶符号・於往歳矣』駢儷(べんれい)文となる。

 (読み下し文) 『先王に顕(あき)らかに建(もうしあ)げる・號(なづ)けて鴻名(こうみょう)を垂(のこ)さむことを・廣(ひろ)く乾坤(かんこん)に配し・光象(こうしょう)すること日月のごとくせむ・長駕(ちょうが)して遠く撫(いつく)しみ・横逸(おういつ)するに都を外(はるか)にす・宝(たま)をもって區域を鏡(て)らし・充塞(じゅうそく)すること限(かぎり)無(な)し・上は九垓(きゅうがい)を冠(おお)い・旁(かたわ)ら八表を済(とと)のう・禮を制して以て告げ・功を成して楽を作らむ・治定が彰らかになるを以って・福が應じ充(まこと)が臻(あつま)らむ・祥慶に符号して・往てに於けるごとき歳(とし)と矣(な)らむ』 上には塔を高く聳えさせ傍らには八つの表(人徳を褒めたたえた文を刻んだ石柱)を整えました。儀式を定め触れ示し楽境を造ることに努めます。政治が安定したことが世間に知れれば自然と幸せが起こり誠が集まります。喜ばしいことや愛でたいことが重なって以前のような幸せな世が再び訪れるでしょう。』

 (口語訳)『先王に対して、明らかに申し上げます。あなたの偉大さを、何時までも記憶するために送り名をし、太陽の光が植物を育てるように、時間を掛けて全国に広く知らせます。車に乗って出掛けるほどの、都をはるかに離れた遠い場所に、鏡のように光り輝く区域を造り隅々まで充たし、悲しみます。上には塔を高く聳えさせ傍らには八つの表(人徳を褒めたたえた文を刻んだ石柱)を整えました。儀式を定め触れ示し楽境を造ることに努めます。政治が安定したことが世間に知れれば自然と幸せが起こり誠が集まります。喜ばしいことや愛でたいことが重なって以前のような幸せな世が再び訪れるでしょう。』

 薬師寺東塔擦銘「維清原馭宇」天皇即位八年庚辰之歳建子之月以中宮不悆創伽藍而鋪金未龍駕騰仙大上天皇奉遵前緒成斯業照先皇之弘誓光後帝之玄功道濟郡正業傳曠劫式於高躅敢勒貞金

  薬師寺東塔擦銘駢儷文「其銘曰」『巍巍蕩蕩・薬師如来・大發誓願・廣運慈哀・猗與聖王・仰延冥助・爰餝靈宇・荘厳調御・亭亭寶刹・寂寂法域・福崇億劫・慶溢萬齢』

 薬師寺東塔擦銘駢儷文(読み下し文)「其銘曰」『巍巍(ぎぎ)たり蕩蕩(とうとう)たり、薬師如来。大いに誓願(せいがん)を發して、廣く慈哀を運(めぐ)らしたもう。猗與(いわい)聖王、冥助仰ぎ延(こ)い、爰(ここ)に靈宇を餝(かざ)り、調御を荘厳したもう。亭亭たり寶刹、寂寂たり法域、福は億劫に崇く、慶(よろこび)は萬齢に溢(あふ)れん。』

 以上は米田良三著「逆賊磐井は国父倭薈だ」の第2章「薬師寺」に記載されている。『薬師寺東塔の屋根の上の擦銘と、「日本書紀」の中に書き込まれた駢儷文が照合されるということは無きに等しい。真実が解かれることを願って組み立てられた、この2つの文の存在こそが、倭国の歴史の実在を証明する。』








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