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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 003 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(141) 『これから「倭の国王は百済語で話す」の著者金容雲先生を取材します』 2010年6月29日(火)

 『壬申の乱ダイアローグ』
万葉と新羅の郷札(ヒャンチル)「新羅の古歌」 A:「元は同じ言葉なのに、ずいぶん変わってきました。」私には、もとは同じ言葉だと言う風にはどうも思えないのですが、なにかの本でも見たなと思ってましたら、「日本列島史抹殺の謎」に、佐治:鈴木武樹氏は「いまわれわれが万葉ぶりといっているのは、案外古代朝鮮ぶりかもしれない」といっていますね。吾郷:金思華(「三国遺事」の訳者)氏は万葉と新羅の郷札(ヒャンチル)「新羅の古歌」が似ているといっています。

「倭の国王は百済語で話す」⇒百済語・新羅語・筑紫倭語が対馬海峡を挟んで両岸に位置し、方言程度の違いだった。ところが統一新羅滅亡以降、高麗・李王朝と北方民族の半島南部が植民地化するに及んで鮮卑語化した。日本語は縄文系の熊襲・蝦夷語と同化したと思ってるのですが。

 朝鮮は統一新羅滅亡後、異民族高麗・李朝に支配された。同様日本は百済韓族遺族の桓武天皇に支配されたということです。桓武の母方の出身が百済王氏です。百済の義慈王には41人の子供がいて善光・他王子6名の名前は残っているも、禎嘉王は見つからないとのことですが。

 統一新羅滅亡後のことは『韓国は日本人がつくった: 黄文雄著』に詳しく 書かれている。まー、タイトルを見ると今晩サッカーの応援してくれそうになくなるけど^^統一新羅以降の儒教による中国崇拝の属国思想が韓民族の覇気を押さえたか良く分かります。白村江敗戦が日韓民族に与えた影響は大きい。

 検索してはじめて今知った。
『日韓の古代語、方言ほどの近さ』金容雲(キムヨンウン)氏の著書「日本語の正体」(日本語版)を読んだ。

『「日韓の古代語、方言ほどの近さ」 2009年12月2日
 日本語と韓国語は文法と語法がよく似ているが、共通の語彙(ごい)はないに等しい。隣国だから言語の起源も近いのではと思うのだが、それを証明した著作にはお目にかかったことがない。
 そんな折、韓国の比較文化研究者、金容雲(キムヨンウン)氏の著書「日本語の正体」(日本語版)を読んだ。
 日韓の言語は三~七世紀には方言程度の違いしかなかった。そのころ朝鮮半島には百済、新羅という国家があった。日本語は百済語の影響を受けて漢文を訓読した。一方で、朝鮮半島を統一した新羅の言葉は漢文を中国式に棒読みし、中国語の音が多く流入したため、以後、日韓の言語は音韻が全く異なるものになったのだという。
 著書は古語の比較が中心であり、理解しにくい部分もあるが、日本語は百済語の痕跡を残し、韓国語の原型に近いという大胆な説もあって面白い。
 金容雲氏は八十二歳。戦前、日本で育ち大学まで通った。古代史、民俗、方言と、博識には圧倒される。
 韓国の戦前世代では国文学者の故金思華〓(キムサヨプ)氏も日韓の古典を読みこなし、「古事記」や「万葉集」を韓国語で解釈した著作を多数残した。いまその業績を継げる人はいないようだ。
 二つの民族は「六、七世紀には通訳なしで会話ができた」という推測もある。日韓の若い世代で、双方の古語を研究し、言語の起源解明に挑む人材の登場を願っている。 (東京新聞論説:山本勇二)』

 『金容雲先生を取材します。』⇒『倭国王家分家の弟王家がプロト大和王朝「日本」だ』に一生懸命で、結局『日本語の正体』を発注することにした。で、まだ読んでないのだが、
『YOMIURIONLINEの書評』の『日本語の正体』・《リンク切れ》
が分かりやすい。
『日本語は百済語の痕跡を色濃く残しているのに対し、今の韓国語は中国化した新羅語の影響をもろに受けて、変形してしまったという。決定的だったのは、日本では百済の影響を受けて漢文を訓読する方法が定着し、そこから日本独自の文学などが生まれたのに対し、韓国では半島統一後の新羅が全面的な唐化によって漢文を中国式に棒読みするようになり、音韻が膨れ上がって吏読(りとう)(新羅式万葉仮名)では対応できなくなった点にある。その結果、現韓国語は現日本語の30倍もの音の種類を必要としている。この音韻を記述するためには、15世紀のハングルの創製を待たねばならなかった。〈現韓国語がオリジナルで、現日本語はその変形だ〉と誤解している韓国人が多いが、事実はその逆で、日本語のほうが原型に近いという。』そうか、ちいさい頃山口の田舎にたくさん住んでた朝鮮人はみんな日本語が話せ、俺達日本人は朝鮮語が話せなかったわけ「漢文の中国式棒読み」だったんだ。朝鮮人は日本人と話す時文法は同じで漢字の発音さえ替えればよかったからだろう。朝鮮人の発音に日本人は付いて行けなかった。いやー今も同じだけど、この解釈少し荒っぽいか^^


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上記twitter記事に対し、以下の投稿がありましたのでメモします。

こちらをご覧ください。
『むしろ百済語の実態を捻じ曲げる書だということがわかる。』

投稿者 尼尊太郎 : 2011年12月18日(日) 01:13


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(143) 『日本書記は、讖緯説の物差しと元嘉歴の時間歴よったのでは?』 2010年7月1日(木)

 日本書記は、讖緯説の物差しと元嘉歴の時間歴よって書かれたのでは? 易暦の支配者が時の権力者ではなかったのか?武力による支配よりも影響力が絶対的に大きいはず。明治以降、西暦や年号で画策された日本史の目的は?詳しい方、情報お願いします。

⇒これどう?
「浦島説話原作成立時期」《魚拓》
 藤原不比等の祖が古代神事祭祀を司る中臣である必要性があったか分る気がする。

『易暦の支配者が時の権力者ではなかったのか』⇒逆でしょう『時の権力者が易暦の支配者だった』とすなおに思いますよ。百済を通じて五世紀中頃から「元嘉暦」を用い、690年~697年迄「元嘉暦と儀鳳暦」併用し、698年~763年は単独で「儀鳳暦」を用いたと考えます。

 「元嘉暦と儀鳳暦」併用の690年は、私の仮説が正しければ倭国王最後の高市天皇の即位年で、696年高市天皇の暗殺・倭国滅亡、697年文武天皇即位、698年は大和王朝「日本国」の文武即位2年です。684年倭国が大宰府から難波京へ遷都の折り、唐の駐留軍がぞろぞろとくっ付いて来た。

 「儀鳳暦」は763年迄用いたとあり、その前後の史実は
•764(天平宝字8)年:太政大臣恵美押勝の反乱。
•764(天平宝字8)年:淳仁天皇を廃し淡路に移す。
•764(天平宝字8)年:称徳天皇即位。
•765(天平神護1)年:道鏡が太政大臣禅師となる。
とあり政権の交代があった模様です。

 〔守常ブログデーター集〕・《リンク切れ》
に『日本書紀の暦日は、前半分は儀鳳暦を平朔(へいさく)で用いて計算し、後から元嘉暦に続けたというのが、亡き小川清彦氏の所論である。』と言う。書紀の上古史でっち上げ手法が見え隠れする。

 『明治以降、西暦や年号で画策された日本史の目的は?』⇒“画策された”ですか初耳ですね。なにかそんな兆候とか、事件とかあったんでしょうか?

 『それを明治に西暦に変更すると過去の歴史の時系列が狂ってくるのでは?』⇒うーんそういう意味、というか「元々狂ってたのが西暦に換算すると赤裸々になった」ということだと思うのですが、指摘すると、明治維新の孝明天皇暗殺を隠す万世一系を標榜の皇国史観に潰された。

 〔日本書紀紀年法がついに解明されました〕
日本書紀紀年法は複数の「年代列」の並列構造になっている。と

 彼は『日本書紀紀年法は、応神元年を西暦390年と位置付けて、以下の式に表されるような「プラス・マイナス120年構想」が設定されています。
●192年(応神元年~雄略5年までの合計紀年数)-72年(実際の経過年数)=+120年
●69年(神功元年~神功69年までの紀年数)-189(実際の経過年数)=-120年。
 また、日本書紀紀年法は、神武元年の紀元前660年から持統11年までの一本の年表のような年列ではなく、応神列(A列)、雄略列(B列)、允恭列(C列)、仁徳列(D列)などの、複数の「年代列」によって並列構造になっている。』
と表明したが認めてもらえなかった。


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(144) 『出雲大社は解慕漱を祭っているのでは?』 2010年7月2日(金)

 『出雲大社は解慕漱を祭っているのでは?』⇒質問の意図が分かりませんが、
〔記紀神話〕《魚拓》
の【高句麗~天孫降臨と国譲り 】の転載で、鹿島昇説の北扶余⇒高句麗⇒百済⇒倭国の一部か。

 紀元前59年の4月8日、天から不思議な一行が降りてきました。白鳥に乗って羽衣を翻した百人あまりの天人が、天空を駆ける五龍車につき従っています。清らかな楽の音が高らかに響き、鮮やかな雲の間をかきわけて、まずは熊心山に降りました。そこで十日あまり過ごし、ついに地上の訖升骨(フルスンコル)という城に降臨しました。五龍車に乗っていたのは天帝の太子で、解慕漱(ヘモソ)と言います。頭には鳥羽冠をかぶり、腰には龍光の剣をさしていました。慕漱はそこを 都に決めて自分のことを王だと名乗り、国の名前を北扶餘と名づけます。やがて解夫婁(ヘブル)という王子も産まれ、彼が成長すると国を継が せたのでした。解(ヘ)という姓は「日(ヘ)」に、夫婁(ブル)という名前は「火(ブル)」 にひっかけたものだと言われます。つまり、「太陽・炎」という名前です。天から降りてきた一族は、太陽にちなんだ名前を持っているのでした。こうして夫婁が王として北扶餘を治めていたとき、大臣の阿蘭弗(アランブル)は不思議な夢を見ました。天帝が夢枕に現れて、遷都せよと命じるのです。「この地は、今まさに余の子孫が国を建てるべき場所である。よって汝らは遠慮して立ち退くのじゃ。東海の沿岸に迦葉原(カソヴォル)というよく肥えた地がある。そこがお前たちに向いておるであろう」


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(145) 『軍事権・祭祀権を独占し、藤原氏独裁の思想が語られている』 2010年7月2日(金)

 以下は、
〔守常ブログデーター集〕・《リンク切れ》
の中の転載である。また、ここにも藤原不比等が出てくる。

 『天武天皇は壬申の乱を正当化する史書を必要としたし、その皇后の持統天皇は万世一系で孫の文武天皇に、また元明天皇も孫の聖武天皇に皇位を譲る熱望があった。それが、天照大御神が皇孫の瓊瓊杵尊に天孫降臨という神話を作らせたというのである。そして天照大御神には外祖父の高皇産霊神があるが、聖武天皇には外祖父の藤原上比等がいた。全く同じ形体であり、聖徳太子の作られたものに追加して、藤原氏の祖先神である武甕槌神、経津主神及び天児屋根命が軍事権、祭祀権を独占し、藤原氏独裁の思想が暗々裡に語られているというのである。その神話には藤原上比等の意志が強く働いていると云うのである。』


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(146) 『四分暦と儀鳳暦と余り定数の違わぬ景初暦が使われなかったか』 2010年7月2日(金)

 以下も先と同様に、
〔守常ブログデーター集〕・《リンク切れ》
の中の転載である。

 中国暦を見る限り、昔から日本に暦法が整っていたなどとは夢にも思えないことで、書紀編纂時に逆算したと見るのが穏当である。そしてその頃入手した最も新しい暦法である麟徳暦を平朔で使用して儀鳳暦とし、これによったと考える小川説が一番自然である。ただ全部に渡っての作成なら勿論そうだが、一部でも記録があったとすれば、それまでの中国暦の影響がなかったかということで、この時考えられるのは、四分暦と儀鳳暦と余り定数の違わぬ景初暦が使われなかったかという疑いである。

 以上この書物の仕組みについて記したが、要するにこの時代の暦法は、定朔が用いられたほんの僅かの期間を除けば、農事にとって最も大切な季節を正しく合わせるための閏月挿入法と、月の満ち欠けに合致させて日付を正しくするための連大配置法の二つに尽きる。そして日本のように、1日、2日と数える所では、甲子、乙丑と数える所よりも、後者が重要だと思うが、恐らく日本ではその法則を考えるよりも、自然現象を見ることに徹して、月の形から日付を数えていたと思う。そして五穀を収るにしても、栽培が行われたのは余程後のことで、最初は渡来によって椊えられたかも知れないが、自然に種子がこぼれて、草が生え、実って収穫する。そしてまた種子が自然にこぼれて、草が生えまた実るという繰返しが行われたのではなかろうか。そして九州地方であれば、自然が二期作をしなかったとは言えないと思う。


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(147) 『金容雲(キムヨンウン)氏の著書「日本語の正体」(日本語版)』 2010年7月3日(土)

 金容雲(キムヨンウン)氏の著書「日本語の正体」(日本語版)が今朝ポストに来てた。昨日遅く配達か?まだ途中ですべてを読んだわけではないのだが「いやーすごいの一語に尽きる著作だ」ここまで緻密にその由来が分析されていようとは、日韓民族が白村江戦以降、いかに、離れ離れに歩んだかが分かる。

 大野晋氏のタミール語説も一時はインドからの移民かと考えたり、四国の金比羅様がインドのクンビーラ神だとか、インドのカースト身分制の移入を伴ったエタ部落民がセイロン辺りのベェッダが故郷だとか聞くに付け、新羅の王妃がインドアユーダ国だとかで、倭人もまさか、と考えたりもしたが・・・・・。

 『おはよー!今日も百済の歴史をくだらなく考えています。師走祭りから6ヶ月日本=百済に思えるのは錯覚なのか妄想なのか?』

 以前、そんなこと下らないこっちゃ!、=取るに足らないことと受け取っていました。鹿島昇氏の『日本列島史抹殺の謎』という本には『百済人でないこと』とあって、それってどういうこと?京都の桓武天皇の桓は韓の正字で武はその始祖王とあり韓族の始祖王ということだとあり都が奈良から京都へ変わったのは大和王朝「日本国」の新羅系統治主権者が百済系移民・帰化人の百済王傍系百済王の桓武に乗っ取られたということだと書かれています。このとき新羅系がでっち上げて最初に書いた「日本書紀」を桓武がさらに書き直した。「日本語の正体」が「日本書紀」に依存することはすべてではないが不満ですね。

 『日本語の正体:金容雲著』をまだ全部読んでいない。なんか戦前の鬱屈したわだかまりを感じる。読者の日本人がそう受け取っているだろう。せっかくの研究成果を台無しにしている。何故か?九州王朝「倭国」・プロト大和・隋の秦国が出てこない。いきなり桓武王朝が出てくる、意図的にか端折ってある。


◆◆◆◆


 ここのブログ
【2010年7月3日(土)
金容雲(キムヨンウン)氏の著書「日本語の正体」(日本語版)】

に対する投稿記事がありましたので、ご紹介しておきます。

『感動されるのは自由ですが、

“こちら”【金容雲学説(日本語百済語起源説)検証】
を見てください。

 韓国の学界でもまったく相手にされていません。
むしろ百済語の実態をねじまげる内容であることがわかります。

投稿者 尼尊太郎 : 2011年12月8日(木) 02:03』


◆◆◆◆


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(148) 『日本=百済に思えるのは錯覚なのか妄想なのか?』 2010年7月4日(日)

 『日本=百済に思えるのは錯覚なのか妄想なのか?』⇒私には民族的には1300年の開きがあってま・まさかーと言う事だろうが、日本=韓国に思える。錯覚でも・妄想でも無い。イラン民族がゲルマンから分かれたのが2000年前と聞いている。それに較べればまだ近いのだろう。

大社造りとか神明造りとかは、どうみても南の建物だろう。揚子江下流域にいた稲作農耕民が北上し、山東半島、遼東半島をUターンし半島を南下した。「日本語の正体」はUターン説らしいが、私は黄海をまっすぐ筏でも風任せで横切って、対馬海流にのれば、九州西岸・韓国西岸には簡単に着岸したはずだ。

 揚子江下流域にいた稲作農耕民が北上し、山東半島を渡海Uターンし半島を南下でなく、黄海をまっすぐ筏でも風任せで横切って対馬海流にのれば、九州西岸・韓国西岸に簡単に着岸せしめたものは秦の始皇帝による中国の統一だろう。征服を嫌った我が先祖は危険を承知で大挙海に浮かんで逃れんとした。

「隋書」に『明年(608年)上、文林郎裴清を遣わして俀国に使いー略ー又竹斯国に至り、又東して秦王国に至る。其の人華夏に同じ。以って夷州と為すも、疑うらくは明らかにする能わざるなり』倭人は我々中国人(=華夏)に同じ此処は台湾(=夷州)かと疑うも良く分からないと言わしめたものは何か?

 魏志弁辰與辰韓雜居・・・其瀆盧國與倭接界・・・さらに、倭人伝には『郡より倭に至るには、海岸にしたがいて水行し、韓國をへて、しばらく南し、たちまち東し、その北岸狗邪韓國(=巨済島)に到る。』とある。韓半島南部に倭人の居住地があったのだ。この時点では、韓と倭は別人種とみなされていた。

 カラ語なるものがあって、韓・倭のいずれもが方言程度の違いだったという。人種が違うのに言葉は同じだと言う。そんな器用なことがありうるのか?中国の文献にはしょっちゅう「韓」は出てくるそもそも韓人とはどんな人種だろうか?、同じなのか?任那を割譲したと、そんな馬鹿な侵略・征服されたのだ。

 カラ語なるものがあって、韓・倭が人種が違うのに方言程度の違いで、言葉は同じだと言う。肯定的に見て揚子江下流域にいた稲作農耕民が秦の侵略を嫌って北上し、山東半島を渡海Uターンし半島を南下したのが韓人で、黄海を横切って対馬海流にのり、九州西岸・韓国西岸に着岸したのが倭人だというのか。


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(149) 『鮮卑族李朝が占領の韓半島を百済・桓武の子孫の明治天皇が取戻した』 2010年7月5日(月)

 半島東側の新羅が朝日で白日であり白旗で源氏、百済が西側の夕日で赤旗で平家。源朗の元締め源花の家柄で源義経⇒元と同一発音で”ジンギスカン”。ここまでゆくと若干眉唾かな。平安時代・鎌倉時代は大混血時代だったのでしょう。混血の完了した室町時代は日本独自の文化が花開いた時代でもあります。

 鹿島昇氏は鮮卑族李朝が占領の韓半島を百済・桓武の子孫の大室寅之助(=明治天皇)が取戻した。ただ1300年たってではねーと書いている。当然、朝鮮総督府は天下立評と同じことをし朝鮮の農民に農地を取り戻し、日韓同祖論による国内の小学校と同じ義務教育をした。今はぼろくそに言われているが。

 まー、そうはいっても。それは、支配階級の一握りの人間の話だ。われわれ庶民には雲の上の話ではある。『韓国は日本人がつくった:黄文雄著』 『日本列島史抹殺の謎:鹿島昇・吾郷清彦・佐治芳彦共著』 『日本語の正体:金容雲著』は列島・半島の古代史及び今現代を理解する上でのバイブルと思える。

 日本書紀で言う天孫降臨の話は騎馬民族が北方から南下し原住民を使役・占領した話で、鹿島昇説の北扶余⇒高句麗⇒百済⇒倭国⇒日本の桓武天皇も同じで、極一部の支配階級の話だ。北朝鮮の北緯どのくらいまで稲作がされているかにもよろうが、稲作以南は日韓同一民族だろう。すこし、荒っぽい話かな ^^

 今もって不思議なのは、唐から韓半島の独立をせっかく勝ち得たに関わらず、統一新羅が儒教による中国唐政権を宗主国とし、自らを朝貢国に卑下した政策だろう。さらにこの政策は高麗・李朝と引き継がれたと言う。支配階級はまだしも国民の忍従はいかほどだっただろう。心あるものの反発はなかったのか?


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(150) 『そもそも百済は義慈王・豊璋で息絶えたわけで子孫がいたのか』 2010年7月6日(火)

 そもそも百済は義慈王・豊璋で息絶えたわけで王家の子孫が果たしていたかどうか?
『 C)百済王(天智系)系図』
及び
『桓武天皇即位の謎』

 百済王(くだらこにきし)は並王だという。では並王とはどういうものだったのか?お后の生んだ子は自分の子だと王が思ってても、実際は后が浮気してたかもしれないわけで。事実、足利義満は北朝の桓武の子孫の天皇を幽閉し、3人の后を犯して出来た自分の子供を天皇にし、これが孝明天皇まで続いた。

 百済の元盗賊だったとか百姓だったのが、白村江敗戦後日本へ移民し、大和朝廷の傭兵になって、東北蝦夷懐柔で手柄をたて将軍に納まった。挙句その軍事力でご主人の大和朝廷を滅ぼした。で、義慈王を自分の先祖に据えて、ついでに「日本書紀」・「日本続紀」を焚書し改編した。ざっとこんなことだろう。

 『まさしく日本人の大好きな豊臣秀吉ですね。猿も百済系だから朝鮮征伐か。』⇒猿は百済系じゃないでしょ。多治比の木下(=木陰)スパイですね。猿ねー、全国統一が終わってその軍事力の解体に困って、神功皇后の朝鮮征伐を真似たんとちゃう。本気で明を征服するには自分の年齢が老いぼれと知ってただろうし。元々は李朝ではなく、明だったわけで朝鮮にとっては迷惑な話ですが。

 『古代建築における匠が使用した尺の基準。新井 宏氏の「古韓尺」の論文が証明か?百済尺と名付けてほしかった。』⇒あれっ、えらい百済に入れ込んでますね。百済豊璋は倭王薩夜麻を強引に白村江の戦いに連れ出し、しぶしぶ出兵した九州倭国は、その敗戦がもとで亡んだみたいなもので、複雑ですね。それと、そんな論文知りませんね。
『法隆寺の物差しは中国南朝尺の「材」:北海学園大学 川端俊一郎』
が出されていますご存知ですか?

『日本で百済系の人を探しております。我こそは百済系だと思われる方、ツイートくださいませ!』⇒我が家の先祖も平家だと言うんで、もとは百済出身でしょうが。


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(151) 『三つ足の雀=八咫烏=高句麗古墳出土の三足鳥と同じですよね?』 2010年7月7日(水)

 『以前から気にはなっていたのですが
「三つ足の雀」
=八咫烏=三足鳥と同じですよね?高句麗古墳から出土した
「三足鳥」
を見ると 』

 ⇒以前になんかの本で読んで、『3種の神器=三つ足の雀』と日本書紀のページに書き込んでまして、最近になって倭⇒大和への禅譲の打診だと気付いた。

 教えていただきありがとうございます。知りませんでした。このデザインは確かに3ッ脚の鳥ですね。高句麗の王朝では『三つ足の雀=八咫烏=三足鳥』がどんな意味を持っていたのでしょうか?日本の『3種の神器』=王権の象徴、だと思っているのですが・・・・・・詳しくは知りません。

 『三つ足の雀=八咫烏=三足鳥』ですか?『3種の神器=三つ足の雀』とは考えてますが.例『しかるを天武天皇朱鳥元年に、是をめして内裏にをかる、いまの宝剣是也』『686年(朱鳥元年:天武15年)6月10日、天皇の病を卜ったところ、草薙剣が祟っていた。即日、尾張の国の熱田社に送り置いた』

 『三つ足の雀=八咫烏=三足鳥』の『八咫烏:ヤタガラス』ですが、『八咫烏』は航海神で、船上放して陸方へ飛ぶ望遠鏡代りです。日本の神話にはこの「や」が良く出て来ますが神聖な宮代を意味してると思っています。『八岐大蛇:ヤマタノオロチ』『矢:ヤ』『社:ヤシロ』『八幡:ヤハタ』などですが。

 扶余・半島系の神話には1・3・5・7・9の奇数が好まれ、これに対し、土着・列島系には無頓着に感じます。新生大和朝廷が「日本書紀」を720年急遽編纂することになった時、『高句麗・百済・新羅・安羅・加羅・倭国・秦国の神話をつなげて、日本国史をでっちあげた。』と鹿島昇氏は言っています。

 善記(522年)以降、倭国元号で編纂の倭国史をどちらかというとベースにしている。更に、プロト大和史を書き込む関係上649年「常色の大改革」以降は、結果的に実話により近くなった。それでも白村江以前の倭国史を34年后に切貼りしてる。649年以前特に522年以前は、もう無茶苦茶ですよ。


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(152) 『古代結負制の復元と代制の起源:新井宏氏』 2010年7月7日(水)

 『新井宏氏論文· 古墳築造企画と代制・結負制の基準尺度《魚拓》
日本語です。』 ⇒ ありがとう。いま読んでいますが、長いっすね。

 新井宏氏は古韓尺単位長=26.7cmで、米田良三氏は「建築から古代を解く」で、1イ尺=28.1cmでは?川端俊一郎氏は「法隆寺のものさし」南朝劉宋の標準尺=245mmだという。皆さん適当に言ってるのだろうか。倭・百済ともに南朝を宗主国としてきた、私は川端俊一郎氏説が穏当だと思う。

 だれかが嘘を付いている、ってんで調べてるが分からない。新井宏氏は古韓尺単位長=26.7cmで、「奈良に実存する法隆寺の金堂・五重の塔・は柱間隔から建築部材にいたるまで、古韓尺に一致している」塔の柱間3.167m(=12.ox26.4)としてるが、3.167はどこの寸法なのか不明。


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(153) 『難波宮と難波長柄豊崎宮(第268話 2010/06/19)古賀達也氏』 2010年7月8日(木)

 第268話 2010/06/19 難波宮と難波長柄豊崎宮


 第163話「前期難波宮の名称」で言及しましたように、『日本書紀』に記された孝徳天皇の難波長柄豊碕宮は前期難波宮ではなく、前期難波宮は九州王朝の副都とする私の仮説から見ると、それでは孝徳天皇の難波長柄豊碕宮はどこにあったのかという問題が残っていました。ところが、この問題を解明できそうな現地伝承を最近見いだしました。


 それは
前期難波宮(大阪市中央区)
の北方の淀川沿いにある
豊崎神社(大阪市北区豊崎)
の創建伝承です。
『稿本長柄郷土誌』(戸田繁次著、1994)・《リンク切れ》
によれば、この豊崎神社は孝徳天皇を祭神として、正暦年間(990-994)に難波長柄豊碕宮旧跡地が湮滅してしまうことを恐れた藤原重治という人物が同地に小祠を建立したことが始まりと伝えています。


 正暦年間といえば聖武天皇が造営した後期難波宮が廃止された延暦12年(793年、『類従三代格』3月9日官符)から二百年しか経っていませんから、当時既に聖武天皇の難波宮跡地(後期難波宮・上町台地)が忘れ去られていたとは考えにくく、むしろ孝徳天皇の難波長柄豊碕宮と聖武天皇の難波宮は別と考えられていたのではないでしょうか。その上で、北区の豊崎が難波長柄豊碕宮旧跡地と認識されていたからこそ、その地に豊崎神社を建立し、孝徳天皇を主祭神として祀ったものと考えざるを得ないのです。


 その証拠に、『続日本紀』では「難波宮」と一貫して表記されており、難波長柄豊碕宮とはされていません。すなわち、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮の跡地に聖武天皇は難波宮を作ったとは述べていないのです。前期難波宮の跡に後期難波宮が造営されていたという考古学の発掘調査結果を知っている現在のわたしたちは、『続日本紀』の表記事実のもつ意味に気づかずにきたようです。


 その点、10世紀末の難波の人々の方が、難波長柄豊碕宮は長柄の豊崎にあったという事実を地名との一致からも素直に信じていたのです。ちなみに、豊崎神社のある「豊崎」の東側に「長柄」地名が現存していますから、この付近に孝徳天皇の難波長柄豊碕宮があったと、とりあえず推定しておいても良いのではないでしょうか。今後の考古学的調査が待たれます。また、九州王朝の副都前期難波宮が上町台地北端の高台に位置し、近畿天皇家の孝徳の宮殿が淀川沿いの低湿地にあったとすれば、両者の政治的立場を良く表していることにもなり、この点も興味深く感じられます。


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(154) 『日本人でお酒に弱い人は、もしかしたら中国南部から来た集団かも』 2010年7月8日(木)

 『DNAからみた日本人のルーツ』《魚拓》
 お酒に弱い人は、ALDH2という遺伝子の変異型を持っており、極東アジアにしかこの変異型はいないそうだ。しかも、チュウゴク南部から離れるほど、お酒に弱い人は少なくなる。だから、日本人でお酒に弱い人は、もしかしたら中国南部から来た集団かも。

 新モンゴロイド母を先祖に蒙古から広がって日本人は日本列島へやってきたと思っていたのだが。最近になって瀋陽・大連・旅順と出張する機会があって初対面の挨拶代わりに酒席をともにした。乾杯后グラスを置くと、先方の女性が駄目だ飲み干せと言うじゃないか。女性でも、日本人と違って酒に強いのだ。

 日本人はと言うか特に酒の弱い奴は、朝鮮半島を陸橋にして北方から渡って来た騎馬民族系ではないのだ。中国南部の福建省辺りから船に乗って渡ってきたのだ。最初はちょろちょろと、ある時期大挙して、たぶん秦の始皇帝の侵略を避けて渡ってきたのだ。船が幼稚で渡れたはずが無いと誰しもが考えようが。

 膠着語の日本人・韓国人・蒙古人も秦が侵略する前は、ほとんどが中国平野に住んでいたのだ。秦の始皇帝は今のイラン辺りにあったバクトリア(大秦国)の出身で軍隊と中国へ侵入・征服して中国を始めて統一したのだ。兵馬俑の兵隊は大きいのだ、きっと青い目をしてた。中国語は彼らが移入したのだろう。


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(155) 『「博多人は酒豪」から解く日本人のルーツ』 2010年7月9日(金)

《ご注意》以下は

 『酒に強い「博多人」の謎』
 からの抜粋・転載ですのであしからず。

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 『酒酔い遺伝子』

 列島先住民の縄文人と弥生時代以降に大陸からきた渡来人という2つの系統の集団から成り立つ日本民族の「二重構造」。渡来人の拡散や縄文人との混血の状況は場所によって異なり、前回みたY染色体DNA型の分布のように日本人にさまざまな地域差をもたらしている。酒に対する強さも、その一例だ。

 人の酒の強さは、アルコールを飲むとできる「アセトアルデヒド」という毒性物質を肝臓で分解・無害化する「アルデヒド脱水素酵素」の一つ、「ALDH2」の働き(活性)に左右される。この酵素の活性がない人はALDH2の遺伝子に変異した型を持ち、飲酒で顔が赤くなるなど東アジア人特有の現象をみせることが原田勝二・元筑波大教授の研究で分かっている(連載第2章『機能・体質』編参照)。

 原田元教授が地域別に調べたところ、酒に強い通常型の遺伝子の人は近畿、中部、中国地方で少なく、そこから離れるほど増加。変異型を持つ人はこれとは逆の傾向にあった。種類消費量も「通常型(酒に強い)」「変異型あり(弱い)」の分布にほぼ一致した。

 原田元教授の調査では、変異型のALDH2遺伝子は白人や黒人にはみられず、日本全体では44%。それ以外では中国南部(41%)に多く、韓国(28%)がそれに次いだ。「列島内の分布と総合すると、変異型遺伝子はおそらく中国南部で生まれ、弥生~古墳時代にやってきた渡来系弥生人が列島に持ち込んだと考えられる。縄文人は通常型の遺伝子だけを持ち、酒に強かっただろう」


 『中部に多いHLA型』

 都道府県別では、酒に強い通常型の人が多いのは、(1)秋田(76・7%)(2)岩手、鹿児島(71・4%)(4)福岡(70・4%)(5)埼玉(65・4%)など。逆に通常型が少ない(変異型をもつ人が多い)のは(1)三重(39・7%)(2)愛知(41・4%)(3)石川(45・7%)(4)岐阜(47・6%)(5)和歌山(49・7%)の順となった。

 ここで注目されるのは、福岡県だ。福岡は弥生時代に渡来人が最初に水田稲作を営んで人口を増やし、拡散の中心となった地域の一つと考えられてきた。ところがALDH2遺伝子でみると、酒に強い人が多いという縄文色が濃い。なぜ、こうした「矛盾」が生じたのだろうか。

 人体に入り込んだ異物に対応し、免疫反応を制御するHLA(ヒト白血球抗原)というタンパク分子がある。HLAの遺伝子もミトコンドリアDNAなどと同様に民族集団間で分布が異なり、集団のルーツ研究に有効とされている。

 患者とHLA型が一致する骨髄移植のドナー(提供者)を選ぶため、提供希望者を募っている日本骨髄バンクの登録者約15万人の分析では、日本人では(1)「A24-B52-DR15」(2)「A33-B44-DR13」という2つのHLA遺伝子型が占める割合が最多だった。

 このうち(2)は、「韓国では最多で、型が成立した年代推定などから、半島から列島にやってきた渡来系弥生人の型とみられる」(徳永勝士・東大教授)。都道府県別では、三重、静岡、愛知、山梨、岐阜の中部周辺県が7・98~6・49%で最も多かった。このうち、三重と愛知、岐阜は、「酒に弱い」遺伝子型が最多の5県にも入っている。福岡は4・84%にとどまり、5%台の関東地方より少ないなど、「酒に弱い」遺伝子型の分布と重なる点が多い。「酒に弱い」遺伝子型は、水田稲作を伴って北部九州にやってきた集団ではなく、主に(2)のHLA遺伝子型をもつ人々が列島に持ち込み、その多くは中部地方に住んだのかもしれない。


 『JCウイルス』

 余郷嘉明・元東大医科学研究所准教授らは、免疫が低下した人に重篤な脳疾患を引き起こすJCウイルスの遺伝子型の分布から、民族集団の由来を明らかにする研究を進めている。人類のほとんどが感染しているとみられるJCウイルスは、生活をともにする親子間で感染するケースが多く、遺伝子型によってルーツをたどることができる。

 余郷元准教授によれば、日本人の多くが感染しているのが、「MY」と「CY」という遺伝子型。この2つの型の分布には顕著な差があり、MY型は東北地方が最多で西にいくほど減少。CY型は沖縄が最多で、西日本に多い。本州の日本海側と関東地方では両者は拮抗(きっこう)する。「渡来人が北部九州から東へ進出したことを考えると、CY型は渡来系弥生人、MY型は縄文人の型とみられる」と余郷元准教授。「二重構造論」によれば、渡来人拡散の中心となった北部九州から近畿地方にかけての地域では渡来人的体質が、そこから離れた南部九州や沖縄、東日本では縄文人的体質が色濃いと考えられている。しかし、どのような「体質」でみるかによって、その分布は微妙に異なる。縄文人にも渡来系弥生人にも、多様な集団があったことを示唆しているようだ。(小島新一)

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(156) 『読んで眺めていたのでは駄目なので、根気良く読解け』 2010年7月9日(金)

 日本書紀が如何にいい加減な史書かを実感しています。正木裕氏の34年遡上説が画期的だと思うのは書紀が編纂される時、その完成期限が限られていたのでしょうか、倭国史書を元号単位に年次を移動し転記した模様で、元記事がそっくり残っていて、あるルールに従い根気良く読み解く必要があのでしょう。

 私はアマゾンで良く古本を購入しますが、その古本に時々蛍光ペンで線引きされたり、丁寧に書き込みされたりしてるのにでくわします。前の持ち主を想像し、面映くなります。正木裕氏がおっしゃるように、読んで眺めていたのでは駄目なのでしょう。逆に編集者の立場に立って読解く必要があるのでしょう。

少なくとも、古代史に関心をもち、更には日本書紀に興味がある方はぜひ正木裕氏がネットで公開の下記著作は眼を通していただきたい。

・白雉年間の難波副都建設と評制の創設:正木裕
・日本書紀、白村江以降に見られる「34年遡上現象」:正木裕
・日本書紀の編纂と九州年号「34年遡上分析」:正木裕
・朱鳥元年の僧尼献上記事批判「34年遡上問題」:正木裕

  今ひとつは、
『古賀達の也洛中洛外日記』
 このブログは別に日本書紀に限りませんが、このうちの「大化改新詔」50年移動の理由については今日本の普通の方が陥ってる「大化改新」の何たるかを教えてくれます。

 私が言いたいのは、神武・崇神・応神の話ではなく、皇極・孝徳・斉明・天智・天武の和風諡号に天□□□を持つ5代が九州王朝倭国の分家・弟王家の出身であり、文武天皇を初代にする大和王朝「日本国」の前身・すなわち
プロト大和朝廷
であるということだ。今はまだ、こんな白村江戦前後さえ分かっていないのだ。


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(157) 『日本人になった祖先たち―DNAから解明するその多元的構造』 2010年7月10日(土)

 日本人になった祖先たち―DNAから解明するその多元的構造 (NHKブックス 1078) :篠田 謙一(2007-02)《魚拓》

 2013年9月 9日 (月)
篠田謙一さんの 「日本人になった祖先たち──DNAから解明するその多元的構造」

 DNAで探る日本人のルーツ
~国立博物館 篠田謙一先生を訪ねて

の紹介です。


 DNA分析によって人類のルーツを辿る研究は日進月歩で進んでおり、これまで通説になっていた各地域で原人から新人、そして白人や黒人やアジア人などに進化したとする他地域進化説はほぼ否定されて、今では8万5000年前~5万5000年前にアフリカを飛び出した一団が数万年かけて全世界に広がったとする、出アフリカ説が定説となっています。 この本はそれら現在の研究成果を元に、ミトコンドリアを辿って日本人のルーツを分子遺伝学の立場から解説した一冊。約220ページと、手軽で読みやすく、かつ内容は充実でとハプログループても面白かった。

 実は、ミトコンドリアDNAの系統がもっとも詳しくわかっているのは日本人で、全世界で判明している全塩基配列のうち四分の一近くが日本人のもので、ミトコンドリアDNAを使って集団の構造を考える場合、現時点では日本人がもっとも適切な対象だという。

 その前提で、この本ではまず、遺伝子、DNAについての基礎をわかりやすく解説したあと、出アフリカからアジアへとミトコンドリアの拡散状況を解説し、日本のミトコンドリアのハプログループを詳しく解説しています。内容的に過不足無い感じでとても刺激的。

※ハプログループとは

 ハプロというのは「単一の」という意味で、両親どちらか一方から受け取るDNAについて用いられる学術用語です。ミトコンドリアDNAは母親のみから受け継がれるので、この用語が使われています。(P30)

 さて、日本人の持つハプログループはどんな割合か。主に以下の12種類について解説されています。この本による説明をざっくりとまとめると、

------------------

●ハプログループD
 日本人で最も多いハプログループで、東アジアでも最大の集団。
日本にはD4とD5があり全体の40%を占める。
D4が東アジアの東北部を中心に広がり、D5は中国の南部に広がっている。

●ハプログループB
 日本人の約13%を占める第二集団。
およそ四万年前に中国の南部で誕生したと推定される。
中国南部から東南アジアにかけて多い。
東アジア沿岸から北上する過程で日本に上陸したと思われ、その後南太平洋から南米まで拡散していった。

●ハプログループM7
 M7にはa,b,cというサブグループがあり、M7が生まれたのが四万年以上前、各サブグループは二万五千年前に、かつて、黄海から東シナ海周辺にあり、今は水没した広大な陸地で生まれたと思われる。
M7aは琉球列島を伝って日本に入ってきたと考えられ、本土では約7%だが、沖縄では四人に一人が持っている。
縄文人の主なグループかもしれないと推測されている。

●ハプログループA
 日本人の7%。
中央アジアから北アジアに広がり、北東シベリアと北中米など新大陸では多数派を占める。
 旧石器時代のシベリアで生まれて、バイカル湖周辺から南下し、A4は東アジア各地に広がり、A5は朝鮮半島へと向かったと思われる。
江戸時代の奥絵師の名門狩野家の九代目養信の遺骨からこのハプログループA5が検出されている。

●ハプログループG
 データが少ないので、今後のデータの蓄積が必要。本土日本やアイヌに分布。
中央アジアやカムチャッカ半島や北シベリアの先住民族など北方に多い。
南には拡散しなかったようだ。

●ハプログループF
 東南アジア最大の集団。日本では5.34%を占める。
中国南部や台湾の先住民に多い。どうやら東南アジア一帯に定住し、積極的に北上はしなかった模様。ミトコンドリアはエネルギーを作る装置だが、このグループや、南方に展開する他のグループは熱を作る能力が低かったのではないか。そのため北方に広がらなかったのかもしれない、という仮説が紹介されています。

●ハプログループN9
 N9a、N9b、Yというサブグループがあるが、北方から日本に入ってきたグループではないかと推測される。中東から北方に進み、ヒマラヤの北を通って東アジアへ拡散した。このうちN9bは日本以外ではほとんど見られず、また、日本国内でも北に行くほど分布が多い。
 またYは特にアイヌの人々に多く、日本以外は北東シベリアの分布に限られている。

●ハプログループM8a
 日本人では1.2%
中国の漢民族と同じDNA組成を持っており、中国北部で誕生したのではないか。

●ハプログループC
 日本人では約0.5%とほとんど見られない。
中央アジアから新大陸にまで広がっている。朝鮮半島、中国北部、中央アジア一帯の草原地帯に分布の起源があったと思われ、ハプログループAやDとともに新大陸に進出し、後の時代に人口比率を大きくしていった。特に遊牧騎馬民族国家「元」の拡大が大きい。

●ハプログループZ
 日本では1.3%。
フィンランドの先住民やカムチャッカの先住民、ロシア極北地域、極東アジアにまたがる広い分布域を持つ。
東アジアから中央アジアで生まれ、極北ルートで極東からヨーロッパまで広がった。
●ハプログループM10
 日本人は1.3%と少数派。
チベットでは人口の8%を占める。中国北部で生まれたと推測される。
茨城県取手市の中妻遺跡の100体の縄文人の遺骨が持っていたのがこのDNAで、バイカル湖周辺のブリヤート人たちのDNA配列と一致した。
縄文人と中央アジアとの繋がりを考察する上で重要なハプログループ。

●ハプログループHV
 おそらく近代になって入ってきたと思われる、ヨーロッパ人の系統。
日本では極少数。

------------------

 このように、集団としての日本人はとても複合的な構成を持っていることがわかりますね。
 様々な時代に様々なルートを辿って日本列島にたどり着いた人々がいて、その人たちが融合していきながら日本人が成立していったと著者は言います。このようなデータを見るとそれが実感として伝わってきてとても面白かった。

 そして、DNAから見ると日本人というくくりがあるわけではなく、特にアジアを中心にした多数のハプログループの集団が複数共存しているというのがよくわかります。
この遺伝子からみた日本人、文化から見た日本人、生活様式からみた日本人など様々な多方面からの見方の総合としての日本人像を持てるようになれればいいなぁと読みながら思いました。


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(158) 『難波長柄豊崎宮は分家・弟王家の伊勢王の都と言うより「住居」』 2010年7月11日(日)

 原本では皇極、斉明と続いていて、女帝の皇極のモデルもやはり新羅の女帝の善徳王、女帝の斉明のモデルが新羅の女帝の真徳王であった。のちにその間に孝徳が入ったということになります。が、その又、原本は「伊勢王」だったということで、「伊勢王」は「皇極、孝徳、斉明」の1人3役ということです。


 先の『難波宮と難波長柄豊崎宮(第268話 2010/06/19)』で古賀達也氏は「九州王朝の副都前期難波宮が上町台地北端の高台に位置し、近畿天皇家の孝徳の宮殿が淀川沿いの低湿地にあったとすれば、両者の政治的立場を良く表していることにもなり、この点も興味深く感じられます。」と言う。

 私の皇極・孝徳・斉明・天智・天武の和風諡号に天□□を持つ5代が九州王朝倭国の分家・弟王家の出身であり、大和王朝「日本国」の前身・すなわちプロト大和朝廷であるという立場では難波宮は九州倭国の常時不在の倭王の都であり、難波長柄豊崎宮は分家・弟王家の伊勢王の都と言うより「住居」だった。

 『北区の豊崎が難波長柄豊碕宮旧跡地と認識されていたからこそ、その地に
豊崎神社
を建立』ということで、豊崎神社は当時の地図をみると淀川の中洲「日女島」という島の北端に位置し、現在は大阪駅と新大阪駅の中間に位置し、難波長柄豊崎宮は淀川沿いの低湿地にあり、住み良かったとは言えそうに無い。

 私の「皇極・孝徳・斉明・天智・天武」の和風諡号に天□□を持つ5代が九州王朝倭国の分家・弟王家の出身であり、大和王朝「日本国」の前身ということだが、「伊勢王」が「皇極、孝徳、斉明」の1人3役ということからして、「伊勢王・天智・天武」の3代が 、本来のプロト大和朝廷ということになる。

 和風諡号に天□を持つ5代の天皇とは、
・皇極:天豊財重日足姫(あまとよたからいかしひたらしひめ)
・孝徳:天万豊日(あまよろずとよひ)
・斉明:天豊財重日足姫(あまとよたからいかしひたらしひめ)
・天智:天命開別(あまみことひらかすわけ)
・天武:天淳中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)

 最後の天武天皇の和風諡号:天淳中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと) について、『古田武彦氏は、八色の姓(やくさのかばね)の筆頭が「真人」であるが、天武天皇を「真人」の位に任命した上位者がいることを表わしている』といってる。即ち、その上位者とは九州王朝倭国の白鳳王・薩夜麻である。


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(159) 『日本書紀は天武天皇を、「二人で一役」の合成人間で記述する』 2010年7月13日(火)

 日本書紀は、673年(天武2年:白鳳13年)2月27日の項に、
●『〔天武〕天皇は、 —略— 帝位に即いた。正妃を立てて皇后とした。后は草壁皇子 「尊」 を生んだ。—略—』
○『天皇ははじめ、鏡王の —略—次に胸形君徳善の娘、尼子娘を納れて、高市皇子 「命」 を生んだ。—略—』
 同じ天武天皇の皇子に 「尊」「命」 の異なった「みこと」表記がされていて出典が違うことがわかる。
 同時に「二人で一役」の合成人間であることもわかります。
●大和王朝:「難波副都倭弟王家」出身の 天武天皇(=大海人皇子・持統の夫・草壁皇子 「尊」 の父)
○九州王朝:「大宰府倭兄王家」出身の 天武天皇(=明日香皇子・薩夜麻・白鳳王・高市皇子 「命」 の父)
 日本書紀が天武天皇を、「二人で一役」の合成人間で記述することは、全編を通じて九州王朝「倭国」を抹殺するが為でしょう。しかし逆に、九州王朝「倭国」を抹殺してるよ、と教えてくれてもいます。さらに、このことは高市皇子 「命」 が九州王朝:「大宰府倭兄王家」の出身であることを、はからずも我々に教えてくれてもいます。
〔参照:天武天皇は二人いた(日出島哲雄著)〕


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160) 『1300年に及ぶ「事大主義と属国根性が染みついた民族性」』 2010年7月13日(火)

 『つかこうへいさんの冥福をお祈りします。18年ほど前、お目にかかった時、皆死んでいなくなると在日のハン(恨)語っていた先生のお言葉を思い出します。追い求めていたのはサランだったのかも?』

 『おはようございます。井上ひさしさんのお言葉「過去ときちんと向き合うと、未来にかかる夢が見えてくる」何故か? 心にしみる。』

 「在日のハン(恨)語っていた」「過去ときちんと向き合うと」⇒おや・おや、なにか変だな・・・、1300年に及ぶ「事大主義と属国根性が染みついた民族性」と『韓国は日本人がつくった:黄文雄』は、韓国社会を表現してる。今もって芸能界は褥を共にするよう要求されるとか。

 瀋陽空港に降りて迎えの車に乗ったら、なんとも言えない匂いに悪酔いしそうだった。後から聞くと「香草」だと言ってた。本人達は体の健康に良いとかで日頃から摂取してるようだった。で、気付かないのだろう。瀋陽に滞在中はずっと、悩まされた。これと同じでしょう。まっ、聞く耳を持たないだろうが。

 32p『千年にわたる「中華への恭順」』66p『小中華を自負する属国の歪んだ自尊心』79p事大主義と属国根性という持病』等々、幼少の頃実家の近くにすんでいた朝鮮人は結構豊かな生活をしてた。軒に唐辛子を沢山干してたけど、半島から山口へは出稼ぎに来てたのであって「強制連行」ではないよ。

『韓国は日本人がつくった:黄文雄』を、われわれ戦後世代の日本人はぜひ読むことを勧める。と同時に、韓国人、とりわけ在日韓国人の方に読んでいただきたい。その上で、金容雲(キムヨンウン)氏の著書『日本語の正体』(日本語版)、「日韓の古代語、方言ほどの近さ」を読まれることを勧める。


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(161) 『三国史記新羅本紀文武王10年天智9年670年倭国更えて日本と号す』 2010年7月14日(水)

①662年、 663年「大宰府倭兄王家」の薩夜麻が白村江敗戦で捕虜。
②663年、「難波副都倭弟王家」の天智は倭国の残存部隊の結集と留守居王権として九州島を除く本州・四国を実効・直接支配。
③664年、九州倭国の筑紫都督府(=大宰府)に唐軍が進駐・駐留。
④667年、大和が倭国から実質的に分離独立、唐進駐軍の侵略予防の為難波京から近江京へ遷都・即位。
⑤670年、三国史記新羅本紀文武王10年天智9年に「難波倭弟王家近江朝」が倭国更えて日本と号す。
⑥672年、壬申乱後、薩夜麻の倭国王復位。
⑦672年、大海人の天武天皇が「難波副都倭弟王家」の飛鳥浄御原宮で即位。
 (ご注意:当初はこのように考えていたが、大海人でなく薩夜麻の天武天皇のようだ。即位の場所についても近畿の飛鳥浄御原宮ではなく、九州小郡宮近くの飛鳥浄御原宮とのことだ。)

『三国史記新羅本紀「文武王十年十二月:670年倭國更號日本自言近日所出以爲名」で、「倭国は、更えて日本と号す。自ら言うに、日出ずる所に近し、以て名とする」倭国が日本と国号を替えたとある。』⇒この記事が史実ならば「倭国王難波分家の弟王家の近江朝」が独立し、新羅へ遣使したことになる。


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162) 『なんとも言えない匂いに悪酔いしそうだった。後から聞くと「香草」だと言ってた』 2010年7月14日(水)

 瀋陽空港に降りて迎えの車に乗ったら、なんとも言えない匂いに悪酔いしそうだった。後から聞くと「香草」だと言ってた。本人達は体の健康に良いとかで日頃から摂取してるようだった。で、気付かないのだろう。瀋陽に滞在中はずっと、悩まされた。これと同じでしょう。まっ、聞く耳を持たないだろうが。

 瀋陽空港に降りて迎えの車に乗ったら、なんとも言えない匂いに悪酔いしそうだった。後から聞くと「香草」だと言ってた====>日本人の八割がたは苦手のようです。ワガ夫婦は二人して大好物。臭みのある魚肉はこれがないとものたりなかつた。日本ものは香りが薄く高い。

 『臭みのある魚肉はこれがないとものたりなかつた。』⇒うへーっ気が知れないな~。臭みのある魚って、どんな魚です。まさか、“くさや”のようなのがあったりして^^

 川魚ですね。川かになどもいいですよ。肉は羊、山羊、驢馬、犬が主だったところです。ぜひぜひお試しあれ。

 瀋陽へは良く行かれるのですか?SONYのでかい看板を見たような気がします。その折、故宮へ行きましたが清王朝発祥の場所で、ここから全中国を征服統一したんだなーってね、みやげ屋がうるさくて閉口しました。

 95~00年まで駐在し、05年まで出張ベースでかかわっていました。その後は年一回程度友人に会いに訪れる程度です。 瀋陽の観光資源は人だといった商社マンがいましたが同感です。上海北京は平成、瀋陽は昭和、内モンゴルは明治大正と歴史遡行が味わえます。

すごいですね、私なんか瀋陽の駅のトイレが昔の小学校のトイレと同じで横1列に並んでする奴下にはみぞが横に流れてる奴で、つま先立で用をたし。民工が春先というのに青色シャツ1枚でホームを大国主の命みたいに麻袋を肩に列を組んで歩いてくると怖くて後ずさりして、とても独り歩きは出来ません^^

あれ、宗教禁止されてたんじゃー、小平という方はすごい人ですよね。清濁併せ呑むというか、共産主義でもまったくの市場経済で、国民もあまり気にしてないみたいです。通訳も文化大革命を強く批判してましたが、どういうことを言ったら処刑されるのか、微妙に分かりません。

 『瀋陽は昭和と歴史遡行が味わえます。』⇒なるほど、うまい表現ですね。でも独りでは怖くて、せっかく瀋陽に行っても、昔の奉天だ、ノモンファン事件の近くだといても言葉は分からないし情けない限り。203高地スレートのような石ころばかりの浅い塹壕で上から狙い撃ち 。

 オリンピックが終わって、万博が終わると、どこの国も経験したバブル崩壊と言う奴に不思議と見舞われる。何故かはわからないが、中国政府も早晩元高に誘導せざるを得ないだろう。菅さんと同じ宇部出身のユニクロ柳井さんこれからどうだろう?日本は平成以降のデフレがひょっとすると脱却できるかも^^

 中国のトイレ事情は有名ですね。農村部ではもとの深さは1Mだが、大便が山になって蛆がわき尻につきそうになってしびれたと仲間は懐旧談をしています。連れ合いも、ドアなしトイレで目の前に通訳に立待ちされて閉口したといってました。「大国主の命」は今度使わせてもらいます。

 ことばは大切ですね。日本語勉強中のグループ(老若男女問わず)と知り合いになり、当初私生活では彼等にやっかいになりました。みんな貧乏なので買い物交渉やB級ランチなどの生活ガイドに最適。家族来瀋時のガイドにも頼み、大好評で、いまでも家族づきあいです。

 『買い物交渉』⇒もっぱら、通訳の仕事で、関西はそれでも値切るの慣れてるのかな、もう面倒くさくて。ある工場の現場のトイレの話ですが、行きは良い良い帰りは怖い、自分のしたしょん便が逆流して来て、振り向くと帰り道が湖で飛ぶと、靴に飛び散って、まっこと飛散でした。

 ともかく、中国の道は広い、けど、私の記憶が正しければ中央分離帯が無い。片道3~4車線あるにも関わらずだ。対抗車線の車は生きた心地がしないだろう。交差点に信号機が少なく美人の女性警察官が交通整理してくれてる。ボックスの上に立ってるし脚が非常に美しい。見惚れて事故するかもね。そのくせ、横断歩道の間隔が遠い。で、年寄りは横断歩道を渡らず近道する。片側が空いた時中央線まで行って反対側の車線が空くのを待つことになる。分離帯が無いので、中央線の20センチ位の白線上で待機だ。私が訪問した時期が悪かったのか車が黄砂でよごれ新車か中古か分からない。

 今は違うが、昔、東京湾岸を走る16号線は外国の軍隊が浦賀や横須賀へ上陸した時、直接首都が戦車等大挙移動できないように道が狭くトンネル多い構造になってると聞いたことがある。負け惜しみかもね、しばらく不便だったなー。中国は逆で、見ようによっては、軍隊をすばやく移動し敵に対戦可能である。

 たしかに中央分離帯は少ないですね。面子重視の東北は警官がいるときは従うが、いないときはなにをやってもいいという傾向。強いてルールがあるといえば、早いもの勝ちかな。 あと瀋陽人は関西人と似ているとの記述をみかけましたが、確かに溶け込むと暮らしやすいです。

 「美人の女性警察官」==>南方と比べると東北は美人が多いです。八頭身、手足長く、色白で、切れ長の眼。以前は胸が小さいのと化粧がへたくそなのが欠点でしたが、最近の発展で解消されています。日本のスナックでは、瀋陽人かハルピン人をオーダーしています。

 『日本のスナックでは、瀋陽人かハルピン人をオーダーしています。』⇒ま・まさか、人身売買とか^^ 確かに、交差点なんか鼻を先に出した方が勝ちですからね、車は前の部分を装甲車なみに改造しておく必要があります。 でも以外と事故ってはいないそうですが、おお・怖っ。


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(163) 『錦川上流の広瀬付近の向畑に平家の落ち武者のおばあちゃんの桜の古木の花見』 2010年7月16日(金)

 白村江戦の後、半島に「統一新羅」が出来、列島に大和王朝「日本」が出来た。その後も奈良平城京時代は、元は高句麗・百済・新羅・任那の半島人の避難・逃亡が続いた模様で、逃亡がひと段落したのが京都桓武朝の平安時代だろう。その後列島は元寇・秀吉の朝鮮役以外は大きな民族的混入は見当たらない。

 では、残った半島はどうか?半島人でないので詳しくないが、当然統一新羅・高麗・李朝の宗主国の唐・宋・元・明・清の上級官僚が赴任しただろうし、異民族の高麗・李朝の所謂両班支配の貴族の血が混入しただろう。半島の人口が圧政の為極端に減少していたので、思ったより混入比率は大きいのだろう。

 然し、800年代以降はほぼ移動が無かったという前提で考えても、現代まで実に1200年が経過したことになる。両親をたどって、1世代を25年として、2の1乗+2の2乗+・・・・2の(1200/25=48)乗の本人及びご先祖様がいることになる。韓国人の好きな血統をたどっても意味が無い。

 この春先、テレビで錦川上流の広瀬付近の向畑に平家の落ち武者のおばあちゃんの桜の古木の花見を放送してた。父の寝物語によれば、「ご先祖は平家岳の麓に扇状に家来の家が守っていた」らしい。がだ、最近ななって、本家のいとこが言うことには祖父夫妻は実は「取り子取り嫁」だったいうじゃないか^^


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(165) 『郭務悰⇒塔務悰⇒唐無双⇒藤腹無双⇒藤原不比等じゃないかなー』 2010年7月16日(金)

 郭務悰⇒塔務悰⇒唐無双⇒藤腹無双⇒藤原不比等じゃないかなー。ただ720年に薨去してるので、白村江戦の663年当時は57年前の話となり、85才で亡くなったとして28才の若造になる。そんな若造に唐国が全権大使で熊津都督府から倭国の筑紫都督府へ派遣するかなー、このからくりぜひ知りたい。


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(166) 『娜大津の磐瀬宮は伊予国宇摩郡津根・長津の村山神社:合田洋一著』 2010年7月17日(土)

 はじめて、
『2.中大兄皇子の「謎」(8)』《魚拓》
を読ませていただきました。

 『日本書紀では、白村江で惨敗した中大兄皇子や大海皇子達は急遽近畿大和に逃げ帰ったことになっています。「逃げ帰る」のと「逃げる」のとでは全く意味が違います。中大兄皇子が九州筑紫の人間とするならば、これは、逃げ帰ったのではなく、「逃げてきた」という事になります』


 私のホームページ、
『大和王朝は(難波副都で「天下立評」した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』
及び、
『九州王朝「倭国」』
へ、ぜひ、ご足労方お願いします。

 うーん、わたしのひと頃前の悩みと同じですね。古賀達也氏の前期難波京が九州王朝「倭国」の複都だという説、更に正木裕氏の「常色の改革」を知って、『倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である』という仮説にたどり着きました。中大兄皇子は参戦してないと思います。

 中大兄皇子は卑怯者だったのでしょうか「秦国の蘇我氏をブロックするため」「天下立評で忙しいため」「こういう事態が起こった場合、弟王家は出征しないようにと前倭王から言われてた」とか⇒若し、中大兄皇子が白村江へ参戦してたら。唐へ征討軍派遣の口実を与えてたでしょう。

 日本書紀を読むと、中大兄皇子が白村江戦を指揮したと一見受け取れますが、倭国王薩夜麻のように白村江に出向いて陣頭指揮したとは書かれていないのです。『661年斉明7年9月、皇太子は長津(那津・博多港)の宮にはべっていた』とあるだけで、更に、長津は伊予にあったと言う説さえ最近出てきた。

 古田史学会報no94「娜大津の長津宮考」合田洋一著で『釈日本紀』に、「皇太子遷居于長津宮。斉明天皇紀曰。七年三月。御船還至于娜大津。居于磐瀬行宮。天皇改此名曰長津。兼方案之。于娜者。伊豫國宇麻郡也。長津宮者。伊豫國也。」とあって、娜大津の長津宮の比定地は伊予国宇摩郡だと紹介する。

 倭弟王家の斉明天皇は661年斉明7年正月6日難波副都を出発。8日大伯(岡山県邑久おおく郡)。14日伊予熟田津の石湯(道後温泉)。3月25日御船はもどって娜大津に至った。磐瀬行宮に居た。天皇はこれを改めて長津といった。4月天皇は朝倉の宮に遷居した。7月24日天皇は朝倉の宮で崩じた。

 娜大津の長津宮の比定地は伊予国宇摩郡だとする合田洋一氏はさらに、長津宮は宇麻国津根・長津の村山神社(現・四国中央市)だと言う。斉明は老いて正月14日道後温泉で病気とかを2ヶ月湯治し、戻って3月25日長津宮で休養し、4月天皇は朝倉の宮に遷居した。7月24日天皇は朝倉の宮で崩じた。

 『661年斉明7年正月6日御船は征西して、はじめて海路に就いた』と書紀は記すが、こんな旅が果たして征西といえるだろうか「斉明老人が筑紫の田舎で死にたいと懇願するので、いたわって中大兄皇子は道後温泉で2ヶ月湯治させ、少し戻って長津宮で休養し、4月朝倉の宮。7月24日朝倉宮で崩じた」

  その後、
・(斉明紀に) 7月24日斉明天皇が朝倉宮で崩じた。
・(天智紀に) この月、皇太子は長津宮に遷居した。だんだんと海外の軍政務をとった。
・(斉明紀に) 8月1日皇太子は天皇の柩を移し奉って、磐瀬の宮に戻りついた。
・(天智紀に) 9月皇太子は長津宮にはべっていた。
・(斉明紀に) 冬10月7日天皇の棺は海を帰り行った。
・(斉明紀に) 10月23日天皇の柩は、戻って難波に泊まった。

 冬10月7日天皇の棺は海を帰り行った。このとき皇太子はある所に停泊して、天皇をー云々ーした。
何が言いたいか、要するに、何しに朝倉宮へ行ったの?「朝倉宮で崩じる」為だったとしか言えない。それも筑紫朝倉宮は長居せず、柩を埋葬せず難波へ持ち帰っている。結局、往復して難波宮へ戻ったのだ。

 先のtwitterの日付は斉明天皇の巻末と天智天皇の巻頭との記事が日付順に突合せてある。この難波宮と朝倉宮の往復での還り途次、9月皇太子は長津宮にはべっていた。『職冠を百済の王子豊璋に授けた。云々』以降の記事が続くのだ。還り途次の長津宮で白村江戦までの事件・史実が記入されている。

・(天智紀に) 9月皇太子は長津宮にはべっていた。
・(斉明紀に) 冬10月7日天皇の棺は海を帰り行った。10月23日天皇の柩は、戻って難波に泊まった。「長津宮にはべっていた」のは9月初めから10月7日迄。10月23日戻って以降、近江に遷都する 667年天智6年3月19日迄は難波に居た。

 このように、(天智紀に)と、(斉明紀に)とを、交いに日時順に、つなぐと、中大兄皇子の行動が連続して分ります。
 『書紀』は「ちょっとしたいたずら」をしてるようですね。
白鳳王薩夜麻のように王自身が白村江戦に出征していない事が判然とします。
 中大兄皇子は白村江戦に出征していないと分ります。


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(167) 『継体紀の「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ」とは』 2010年7月18日(日)

 『日本書紀継体紀527年(継体21正和2)8月1日天皇は親しく斧鉞をとって、物部麁鹿火大連に授けて「長門以東は朕がとろう。筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え。ひんぴんと報告しなくともよい」といった。』

 ⇒いままで、この句の背景になった史実が思い浮かばなく思案してたが、

 朕が天智で物部麁鹿火大連が大海人皇子の天武天皇だとしたらどうだろう。大宰府倭兄王家の白鳳王薩夜麻が白村江戦で敗れ自身は唐の捕虜になった。その直後の難波複都倭弟王家の中大兄皇太子と大海人皇子との会話だとすれば、留守居のプロト大和朝廷が、九州王朝倭国のあとがまにそっくり納まろうとしたと分かる。

■661年斉明7年10月23日戻って以降、近江に遷都する 667年天智6年3月19日迄は難波に居た。ことになるが、662663年天智12年8月28日倭国・百済連合軍は唐・新羅連合軍に白村江で敗戦する、倭王の薩夜麻が唐の捕虜になる。

■662663年9月以降の早い時期に、難波で敗戦の報を受けたプロト大和朝廷の中大兄皇太子は大海人皇子へ「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え、ひんぴんと報告しなくともよい」といった。大海人皇子は筑紫へ渡り倭国の残存部隊の結集と留守居王権として筑紫島を確保。中大兄皇太子は九州島を除く本州・四国を実効・直接支配。

■664年天智3年夏5月17日百済を占領した唐の将軍(鎮将)劉仁願が朝散大夫郭務悰を九州倭国の筑紫都督府(=大宰府)へ派遣。664年天智3年12月12日郭務悰らが帰った。

■665年天智4年9月23日唐国が朝散大夫郭務悰、忻州の司馬、上柱国の劉徳高ら凡そ254人を九州倭国の筑紫都督府(=大宰府)へ遣わした。665年天智4年12月劉徳高らが帰国した。

■667年天智6年3月19日、プロト大和朝廷が倭国から実質的に分離独立、筑紫都督府(=大宰府)の唐進駐軍が瀬戸内海を通って難波京を急襲すればひとたまりも無い、この侵略予防の為、暫時、難波京から近江京へ遷都。同時に、中大兄皇太子は天智天皇として即位。これが、プロト大和朝廷で初の王位即位であろう。(668年天智7年正月3日皇太子が天皇位に即いた。或本はいう6年3月に即位)

■667年天智6年11月9日、百済の鎮将劉仁願が、熊津都督府の熊山県令で上柱国の司馬法聡らを遣わして、大山下境合部連石積らを九州倭国の筑紫都督府(=大宰府)に送った。13日司馬法聡らが帰国した。

■668年天智7年冬10月大唐の大将軍英公が、高句麗を打ち滅ぼした。

■669年大唐が郭務悰ら2000人余人を九州倭国の筑紫都督府(=大宰府)へ派遣してきた。

■670年、三国史記新羅本紀文武王10年天智9年にプロト大和朝「近江朝」が倭国更えて日本と号す。

■671年天智10年春正月6日プロト大和朝「近江朝」の大友皇子が宣命して、26階冠位・法制を施行した。

■671年天智10年春正月13日唐の百済鎮将劉仁願が李守真らを九州倭国の筑紫都督府(=大宰府)へ遣わし上表した。7月11日唐の人の李守真らと百済の使人らとがいずれも帰国した。

■671年天智10年11月10日この月になって沙門道久、筑紫君薩夜麻、韓島勝裟婆、布師首磐の4人が唐から来て、「唐国の使人郭務悰ら600人、送使沙宅孫登(百済人)ら1400人、あわせて2000人が、船47隻に乗りともに比知島に停泊し語り合って”今吾等の人・船は多い。いきなりあそこに行ったなら、あそこの防人がおどろいて射戦するのをおそれる”といい、そこで道久らを遣わして予め来朝の意を開陳」

■671年天智10年12月3日プロト大和朝「近江朝」の天智天皇が近江宮で崩じた。

■672年天武元年夏5月22日郭務悰らに総合してふとぎぬ1673匹、布2852端、真綿666斤、他甲冑弓矢を(倭国が白村江戦後賠償金として)賜った。30日郭務悰らが帰国した。

■672年天武元年7月23日プロト大和朝「近江朝」の大友皇子が自ら首をくくった、ことで壬申乱が終結した。


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168) 『高杉晋作はフランス語のゲリラを訳して奇兵隊と造語』 2010年7月18日(日)

 高杉晋作はフランス語のゲリラを訳して奇兵隊と造語したと郷里の長州藩で言う。彼は毛利長門支藩の家老職の長男として生まれたが、官僚化した武家を諦め、部落民を組織化し毛利藩の武力結集に成功した。維新は部落民の血の結晶でもある。高杉晋作は長州四境戦争小倉口で戦勝するも肺病のため早死にす。

 このブログおもしろい良く調べてある。まさか山口県人?じゃーないよね。
高杉晋作流奇兵隊が菅直人の手法《魚拓》

 いやー、先日ある人をフォローしたら、次の瞬間からツイートが来るは、来るは・・・1000人近くの人がフォローし、フォローされてた。とても私にはフォローできないと感じ、相手の方には失礼と思ったがフォロー解除をさせてもらった。孫正義さんとかはもっと多いのだろう。人気があるのも良し悪しか


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(169) 『大和王朝「日本国」がどういう経緯で忽然と極東アジアに現れたのか』 2010年7月19日(月)

 日本の古代史云々を語る者は、何はさて置き、『何故国内的には「日本書紀」が九州王朝「倭国」を抹殺したのか、対外的には、大和王朝「日本国」がどういう経緯で忽然と極東アジアに現れたのか』を明らかにしなければならないと、私は考えます。

 古田武彦氏が主張する王朝多元史観はすごく大事です。日本の部族集団が討伐禅譲のいずれかで離合集散を繰り返し国家統一したであろうことは、誰の眼にも明らかだからです。さらに最終的に日本を統一したのは倭の五王でしょう。ただ、中央集権体制でなく地方自治を認めた連邦制だったとも推定されます。

 然し、この王朝多元史観は列島・半島南部の村落が離合集散し部族国家を形成し、倭の五王に統合される過程から、倭国の九州(筑紫島)を本拠に・出雲・加賀・吉備・葛城『秦国』・尾張・毛野(常陸)・任那等を含む連邦国家形成までの歴史観ではないでしょうか。

 これが天下立評で各附庸王国が律令制の官僚組織の中に組み込まれ、中央集権制の一官衙になった時、各附庸王国の出雲・加賀・吉備・葛城『秦国』・尾張・毛野(常陸)は実質的に解体しました。解体した以降を万世一系の大和一元史観で説明は出来ても、以前の連邦時を大和一元史観で説明するのは無理というものです。

 私は、倭国の連邦制から、日本国の中央集権制への移行がどういう過程・経緯でなされたか。を明かにすることが、『何故国内的には「日本書紀」が九州王朝「倭国」を抹殺したのか、対外的には、大和王朝「日本国」がどういう経緯で忽然と極東アジアに現れたのか』の説明に大きな成果を与えものと考えます。


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(170) 『長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え、ひんぴんと報告しなくともよい』 2010年7月21日(水)

 662663年9月以降の早い時期に、難波で白村江敗戦の報を受けた、難波副都倭弟王家(=プロト大和朝廷)の中大兄皇太子(=のちの天智天皇)は弟の大海人皇子へ「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え、ひんぴんと報告しなくともよい」と指示した。

 大海人は難波から筑紫へ急行し、倭国大宰府倭兄王家の残存部隊を結集し、留守居王権として筑紫島を防衛・確保、百済倭敗残兵・百済避難逃亡民の受入れ、さらには困難な戦後賠償交渉と損な役回りだっただろう。中大兄は九州島を除く本州・四国を実効・直接支配下に治め、これが後のプロト大和「近江朝」の基盤となった、だろう。

 「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え、ひんぴんと報告しなくともよい」⇒これが、白村江敗戦直後のプロト大和朝廷の中大兄と大海人との会話だとすれば、天下立評后の中央集権化で出雲・加賀・吉備・葛城『秦国』・尾張・毛野(常陸)が解体した直後の即ち『長門以東』である。

 正木裕氏の言う「常色の改革」の天下立評を指示し、難波複都を造った、倭国の天帰王(=甘木王)もまさかこんなに簡単に出雲・加賀・吉備・葛城『秦国』・尾張・毛野(常陸)が解体し中央集権化しょうとは思ってもいなかっただろう。『長門以東』とは嘗かつての倭国連邦附庸王国の領土であったわけだ。

 いまひとつ分からないなー。『ひんぴんと報告しなくともよい』は分かるとして、『もっぱら賞罰を行え、』⇒これってどういうこと?信賞必罰だよね・・・・これと『筑紫以西は汝がとれ』と、どういう関係があるのだろう。残念、一部消化不良です。








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