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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 004 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(171) 『ともかく美しいのだ。日本ってこんなに緑豊かなのだって、ひとりほくそ笑んでしまう』 2010年7月22日(木)

 『投馬国に至るのに水行20日』『西都市の辺りは昔、妻(つま)と呼ばれていました』⇒あっまた、懐かしい命題ですね。「まぼろしの邪馬台国」思い出します。御笠川と宝満川が昔海峡で”筑紫は築石”で海峡が狭まって運河にしたって話ですが、私も『投馬=妻(つま)』派です

 瀋陽から大連へは列車で移動した。進路左手東側には延々と低いなだらかな丘陵の遠景が視野に入っていた。赤茶けた丘陵には低い潅木が所々にあるだけで殺風景といったら無い。瀋陽の郊外は何千年の生活痕が消えず残っているように見えた。日本のように水に流してくれないのだ。

 大連からいったん南下し黄海へ出る。飛行機はその後38度線にそって韓半島を横切って日本海を南東に飛び、中国山地の緑が眼に入ると、思わずワット声を出したくなる。ともかく美しいのだ。日本ってこんなに緑豊かなのだって、ひとりほくそ笑んでしまう。皆さんはどうですか?

 『乾燥地帯の国からきた人は押しなべて、日本の緑あふれる景色に感激してくれるようです。景色だけでなく、きれいな心もってますねといってもらえるようになりたいですね。』⇒ん、未来永劫、無理でしょうね ’’);  なーんちゃって。でも、ともかく人で一杯あふれていました。どこからともなくっていうか。“中国・広し”です。

 博多から熊本玉名市に九州新幹線リレーつばめ搭乗。ハングル中国語の案内あり。本当に日本は暑いよ!

 ソウルって緯度がだいたい仙台ぐらいかなー。黄海があるけど大陸性気候にちかいのかな。今年はエルニニョがどうたらこうたらで9月に入っても暑いらしいですからね。まして九州は特別でしょう。どぶろくの南限です。だから、熊本は結局焼酎なんですね。RT@hotwind12 本当に日本は暑いよ!


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(172) 『天武天皇は二人いた(日出島哲雄著)』 2010年7月23日(金)

 日本書紀は、673年(天武2年:白鳳13年)2月27日の項に、
●『〔天武〕天皇は、 —略— 帝位に即いた。正妃を立てて皇后とした。后は草壁皇子 「尊」 を生んだ。—略—』
○『天皇ははじめ、鏡王の —略—次に胸形君徳善の娘、尼子娘を納れて、高市皇子 「命」 を生んだ。—略—』
 同じ天武天皇の皇子に 「尊」「命」 の異なった「みこと」表記がされていて出典が違うことがわかる。
 同時に「二人で一役」の合成人間であることもわかります。
●大和王朝:「難波副都倭弟王家」出身の 天武天皇(=大海人皇子・持統の夫・草壁皇子 「尊」 の父)
○九州王朝:「大宰府倭兄王家」出身の 天武天皇(=明日香皇子・薩夜麻・白鳳王・高市皇子 「命」 の父)
 日本書紀が天武天皇を、「二人で一役」の合成人間で記述することは、全編を通じて九州王朝「倭国」を抹殺するが為でしょう。しかし逆に、九州王朝「倭国」を抹殺してるよ、と教えてくれてもいます。さらに、このことは高市皇子 「命」 が九州王朝:「大宰府倭兄王家」の出身であることを、はからずも我々に教えてくれてもいます。
〔参照:天武天皇は二人いた(日出島哲雄著)〕

 日本のひとりでも、多くの方にこのことを知っていただきたいので、繰り返しtwitterしてる。twitterの一過性の良いところでもあり、欠点でもある。実際に、日本書紀の「天武紀下巻」のページをめくって見てほしいのだ。一番最初にこのことが記述されサインペンで2グループ分けて見よう。
 正木裕氏が言うように日本書紀が34年遡上させていることの解明で、「ただ眺めていては分からない。注意して読めばわかる」・・と、いやー、ボンクラには注意して読んでも分からない。いや、失礼、私のことですけに。


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(173) 『6月伊勢王とその弟の王とが、日を接して薨じた』 2010年7月23日(金)

 日本書紀は『668年(天智7年)6月伊勢王とその弟の王とが、日を接して薨じた(官位は未詳)』と記載している。先に『661年(斉明7年)4月、斉明天皇は朝倉宮に遷居した。6月伊勢王が薨じた。秋7月24日、斉明天皇は朝倉の宮で崩じた』とあり、「弟の王」と斉明とがさも同じと言わんばかりだ。

●『668年6月伊勢王とその弟の王とが、日を接して薨じた』と記し、
●『661年6月伊勢王が薨じた。秋7月24日、斉明天皇は朝倉の宮で崩じた』とあり、
 「弟の王」と「斉明天皇」とが同じとなる。では、斉明は女性ではなく男性ということになろう。鹿島昇氏は舒明は百済王義慈王がモデルといってた。
 鹿島昇はたしか、用明天皇は百済の聖明王、聖徳太子は威徳王聖だと確か言ってた。やれやれ、何がなんやらー

 天武天皇が「九州王朝倭国王の薩夜麻・白鳳王・明日香皇子・高市皇子命の父親」であると同時に、「プロト大和近江朝の大海人皇子・持統天皇の夫・草壁皇子尊の父親」の合成人間である。一方皇極・斉明は善徳・真徳のコピーで元々は一人。桓武が後に追記したのが舒明の義慈王で孝徳はその王子孝である。

 斉明は「伊勢王」か「その弟王」と分かるので、「皇極・孝徳・斉明・伊勢王・その弟王」は元々は一人だった。たぶん伊勢王だったと私は思うが、良く天武は天智の弟なのに年長だと書かれてる。これって言い換えると、百済の義慈王とプロト大和の伊勢王が結婚して出来た子が天智・薩夜麻・大海人となる。

 もう、しっちゃか・めっちゃか、で。そもそも天智・天武の年齢を較べても詮無いことです。

 いま「伊勢王」で検索してたら、なんか似てるけどなー、ちょっと『俺のとは違うなー』ってページを見つけた。
《真説古代史・近畿王朝草創期編》(18)「天智紀」(7)天智称制の秘密(6)「伊勢王とは誰か」(2) 《魚拓》

『668年6月伊勢王とその弟の王とが、日を接して薨じた』と記し、『661年6月伊勢王が薨じた。秋7月24日、斉明天皇は朝倉の宮で崩じた』とあり、「弟の王」と「斉明天皇」とが同じとなる。668年の記事は伊勢王とその弟の王「斉明天皇」は違う別人だと言ってるのだろうが、わざとらしい。

『668年6月伊勢王とその弟の王とが、日を接して薨じた』の記事は何故、『661年6月伊勢王とその妹の王女「斉明天皇」とが、日を接して薨じた』と書かなかったか?である。伊勢王と斉明とが同一人物で斉明は女性でなく男だと、当時はみんな知ってた、だから「否、物語上は別人物だ」と強弁した。

 今一つ可能性があるとすれば『668年6月伊勢王とその弟の王とが、日を接して薨じた』の記事の「その弟の王」とは、九州王朝倭国の天帰王(=甘木王・常色白雉王)のことか、狩猟の途中不慮の事故で亡くなったのが、661年白鳳へ改元時と同じなのだ。この場合、天帰王が伊勢王の弟だと検証を要す。  

 九州王朝倭国の天帰王が「常色の改革」の一環に天下立評があり、その為に難波複都を造り、ある時期より倭王家分家の弟王家出身の伊勢王が難波複都に常駐し、天下立評を推進した。結果、倭国連邦各附庸王国が解体した。その立役者プロト大和「近江朝」の伊勢王が倭国の天帰王と同時期661年に崩じた。


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(175) 『磐瀬宮は従来説では(福岡市三宅)、合田説では (伊予国宇摩郡津根・長津)』 2010年7月24日(土)

 古田史学会報no94「娜大津の長津宮考」合田洋一氏は、娜大津の長津宮の比定地は伊予国宇摩郡だと紹介する。661年(斉明7年)8月1日、皇太子は天皇の柩を移し奉って、磐瀬の宮にもどりついた。この磐瀬の宮が従来説では(福岡市三宅)で、合田説では (伊予国宇摩郡津根・長津)となるのだ。

 私はつながったと正直喜びました。磐瀬の宮が従来説では(福岡市三宅)ですが、MAPFANを開いて福岡市内の三宅なる場所を調べても見つからなかたのです。(伊予国宇摩郡津根・長津)説は大宰府・朝倉と難波複都との中継地で、そこは伊予国温泉風土記の法興王と葛城王がゆあみした側だったのです。


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(176) 『倭国史の九州年号で白雉の記事を34年后の朱鳥へと置換えを知らずいきなりは無理』 2010年7月25日(日)

 『白雉年間の難波副都建設と評制の創設について:正木裕』
の転載ですが、

「伊勢王は孝徳期白雉改元記事に登場」として
『そこで書紀におけるこれら伊勢王関連記事を34年遡上させてみると
①天武12年(683年)→大化5年(649年)
②天武13年(684年)→白雉元年(650年)
③天武14年(685年)→白雉2年(651年)となり、次の伊勢王の白雉改元譚(古賀説では白雉3年・九州年号白雉元年)と見事に連続する。
④白雉元年(650年)→白雉3年(652年)2月庚午朔(略)甲申(15日)(略)伊勢王・三国公麻呂・倉臣小屎、輿の後頭を執き、御座の前に置く。
⑤朱鳥元年(686年)→白雉3年(652年)朱鳥元年春正月壬寅朔(略)伊勢王亦実を得。』
倭国史の九州年号で白雉の記事を34年后の朱鳥へと置換えてるを知らずいきなり解釈はどうかと思う。

《九州年号・書紀天皇対比表》
表中の例えば〔686丙戊:天武15:朱鳥1〕〔652壬子:孝徳8:白雉1〕 倭国史の九州年号で白雉の記事を34年后の朱鳥へと置換えて、日本書紀は編纂され記述する。

正木裕氏が解明した「34年繰下げ若年化」、古賀達也氏の「50年繰上げ老化」で分かるように、倭国史書を素に、書紀編者が日本書紀をコピペ・切り貼り・編纂したと推定できる。日本書紀をいきなり年次や記事を読み解くのはとても無謀なことである。年次の繰上げ・繰下げを吟味の上解読すべきだろう。


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(177) 『「難波副都倭弟王家」の「近江朝」が倭国から実質的に分離独立』
 2010年7月26日(月)

 663年9月以降の早い時期に、倭国の白村江敗戦を難波で知った「難波副都倭弟王家」の中大兄皇太子は大海人皇子へ「長門以東は朕がとろう、筑紫以西は汝がとれ。もっぱら賞罰を行え、ひんぴんと報告しなくともよい」といった。大海人皇子は難波から筑紫へ急行し、倭軍残存部隊の結集と筑紫島を確保。中大兄皇太子は九州島を除く本州・四国を実効・直接支配。

 667年天智6年3月19日、「難波副都倭弟王家」が倭国から実質的に分離独立、筑紫都督府の唐進駐軍が瀬戸内海を通って難波京を急襲すればひとたまりも無い為、暫時、難波京から近江京へ遷都。同時に、中大兄皇太子は天智天皇として即位。

 『三国史記新羅本紀文武王10年670天智9年に倭国更えて日本と号す。自ら言う「日出づる所に近し」と以って名と為す』。この時の倭国は日本府安羅国王の子孫「難波副都倭弟王家」の「近江朝」であろう。671年天智10年春正月6日「近江朝」の大友皇子が宣命して、26階冠位・法制を施行した。


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(178) 『(683年:白鳳23年)天武12年⇒(649年:常色3年)孝徳5年12月13日』
 2010年7月26日(月)

 (683年:白鳳23年)天武12年⇒(649年:常色3年)孝徳5年12月13日、諸王五位伊勢王・大錦下羽田公八国・小錦下多臣品治・小錦下中臣連大嶋、并判官・録史・工匠者等を遣はして、天下に巡行きて、諸国の境堺を限分ふ。然るに是の年、限分ふに堪へず。12月17日詔して、「文武の諸官人および幾内の有位の人らは、四季の初めの月(1・4・7・10月)の1日に、必ず朝廷に参内せよ。ー略ー。

 また詔して、「およそ都城・宮室は、1ヶ処ではない、必ず2・3ヶ処を造る。それゆえ、先ず難波に都を造ろうと思う。そこで、百寮(官)は、それぞれ〔難波に〕行き、家地を請え」と詔した。

(684年:朱雀元年 )天武13年⇒(650年:常色4年)孝徳6年冬10月3日、伊勢王等を遣して、諸国の堺を定めしむ。 ー略ー 
 是年、詔したまはく、伊賀・伊勢・美濃・尾張、四の国、今より以後、調の年に役を免し、役の年に調を免せ。

(685年:朱雀2年)天武14年⇒(651年:常色5年)孝徳7年秋7月、(中略)27日、詔して、「東山道は美濃より東、東海道は伊勢より東の諸国の有位の人等に、並に課役を免じる」といった。
 冬10月10日、軽部朝臣足瀬・高田首新家・荒田尾連麻呂を信濃に遣はして、行宮を造らせた。思うに束間の温湯に行幸しょうと考えたのであろうか。
 12日、浄大肆泊瀬王・直広肆巨勢朝臣馬飼を、判官以下、并廿人を以て、畿内の役に任じた。
 17日、伊勢王等、亦東国に向うことになり衣袴を賜わった。

(686年:朱鳥元年)天武15年⇒(652年:白雉元年)孝徳8年春正月ー略ー伊勢王亦実を得。

(650年:常色4年)孝徳6年:書紀白雉元年⇒(652年:白雉元年)孝徳8年:書紀白雉3年2月ー略ー15日ー略ーこのとき、左大臣、右大臣〔の2人〕がつき従って輿の前部を持ち、〔伊勢王:後に追加した?〕、三国公麻呂、倉臣小屎〔の2人が〕、輿の後部を持って、御座の前に置いた。

以上を整理すると、
①(683年:白鳳23年)天武12年⇒(649年:常色3年)孝徳5年。
②(684年:朱雀元年 )天武13年⇒(650年:常色4年)孝徳6年。
③(685年:朱雀2年)天武14年⇒(651年:常色5年)孝徳7年。
④(686年:朱鳥元年)天武15年⇒(652年:白雉元年)孝徳8年。
となり、すべて34年前の倭国史に記述されていたものらしい。

 いっぽう、『661年(斉明7年)4月、斉明天皇は朝倉宮に遷居した。6月伊勢王が薨じた。秋7月24日、斉明天皇は朝倉の宮で崩じた』とある。この記事を信じれば伊勢王は661年(斉明7年)6月死亡・崩じてたはずだ。天武紀に出る伊勢王は34年前へ移動・読替えてみる必要があるようだ。


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(179) 『白村江敗戦后すぐに「近江朝」の天智は本州・四国を直接支配下に置いた』 2010年7月27日(火)
 

 九州王朝倭国が白村江敗戦以後、筑紫都督府に唐軍が進駐・占領した時点では、既に本州・四国は倭国難波分家弟王家「近江朝」の天智の支配下に入っていたと推定できる。唐軍が進駐し占領したのは、薩夜麻倭国白鳳王不在の倭国直轄地・即ち九州島で、白鳳王の息子の高市皇子を大海人が助ける形で統治していた。

 倭国の天帰王が実施した「常色の改革」の一環に天下立評があり、この徴税システムが従来の倭国附庸国連邦を解体したであろうことは明瞭です。弟王家「近江朝」の天智は本州・四国の連邦解体後の後釜に坐り、弟王家「近江朝」の中央集権国家を樹立しその宣言が新羅への「倭国」改めて「日本」と号すだ。

 白村江までは倭国附庸国連邦の解体が約10年というあれよ・あれよ間であり、本州・四国の統治は、弟王家が大宰府王家からの委任統治の形だったでしょう。倭国大宰府王家が白村江で敗戦したと同時に、弟王家「近江朝」の天智は本州・四国を直接支配下に置いたと考えます。表面的な違いは無かったのだ。

 日本書紀は(664年)天智3年春2月9日天皇は大皇弟に命じ、二六階の近江令を宣したというが、少し用意周到過ぎないだろうか、(671年)天智10年正月6日大友皇子が宣命した「冠位・法制の施行」が史実と思うがどうだろう。この弟王家「近江朝」は天智が崩御することで潰えてしまう、毒殺か。


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(180) 『唐国へ立ち向かった高句麗・百済・倭国の独立心』 2010年7月28日(水)

 ご来館下さい
九州王朝「倭国」
大和王朝は(難波副都で「天下立評」した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ

 日本の古代史云々を語る者は、何はさて置き、 『 何故、国内的には「日本書紀」が九州王朝「倭国」を抹殺したのか、対外的には、大和王朝「日本国」がどういう経緯で忽然と極東アジアに現れたのか 』  を明らかにしなければならない

 九州王朝『倭国』は白村江の敗戦を期に一気に衰弱し、さらに『壬申の乱』経て、最期の『プロト大化改新』をとどめに滅亡に至った。その後は中央集権国家の大和王朝『日本国』が701年開闢したと理解・想像できよう。

 韓国の女の子の自殺と言い、秋葉の掲示板云々と言い。 うかつなことは、言えないなー。 いろんな 人 が いるって ことだ。 あれっ、自分もその ひとり ってか・・・・

 ベトナム人は中国人が攻めてくると常に立ち向かい自主独立を維持してきたという。一方朝鮮は統一新羅が唐から独立を勝ち取ったにも関わらず、以来1300年に渡り、常に中国を宗主国とし、属国の立場に甘んじてきた。いやむしろ優秀な属国であることを誇りにしてたのではないだろうか、ところが野蛮な日帝によって、結果、属国根性・事大主義が暴かれ、日清戦争の下関講和会議で清国から独立させられた。中国の支配から脱却するのが、さも嫌々であったかのようだ。

 朝鮮総督府は国民へ内地と同様の義務教育をし、全国土地調査を実施し両班の中間搾取から農民を解放した。これは朝鮮に自主独立心を芽生えさせた。いま韓国が世界に伍して渡りあってるのは実に頼もしい限りだ。これは、嫌われ者の朝鮮総督府の成果だと言えよう。感謝されこそ恨まれることではない。

 いま韓国では百済ブームなのだろうか、ようやく、唐国へ立ち向かった高句麗・百済・倭国の独立心が1300年ぶりによみがえったのだろう。

 世宗が3年かけて対馬の阿比留家のアビル文字を参考に、韓国語に適したハングル28文字をつくったときには、両班から猛反対が起こった。

 崔万理なるものは「日本やモンゴル、チベットなどには独自の文字があるが、それは野蛮な地域だからだ。我々が独自の字をもったら、彼らと同様に野蛮人になってしまう。そのうえ、我々は中国を宗主国として仰いでいるのだから、新しい文字をつくることは中国からしてみれば謀叛であり、怒りを買う恐れがある」と、なんともはやだ。

 ハングルの奨励は1897年の日清戦争後の大韓帝国が独立して后、1910年の日韓合邦以降になって、ようやく、韓国全国民へ教えられた。

 世宗という王がいかに偉大だったか、いまの韓国民は理解しているのだろうか?慶応大学創始者福沢諭吉らがハングルを研究し、ハングル・漢字併用を勧め、朝鮮総督府が推進する以前にだ、300年前の先祖がだれだったか、系図とやらをたどればわかるだろう。きっと世宗は失意のままこの世をあとにした。

 ハングルが一般的に使用されるようになってジャスト100年ということだ。野蛮な日帝に強制されたからと言うのだろうか。確かに1300年前亡国の民が列島に移住し、先住民と徐々に混血し、たぶん8割方が韓国民と同じ先祖だろう。いまの在日は1200年後に移住した、元々は同じで早いか遅いかだ。

 ただ、北朝鮮は同じ民族と思っていない。かれら北方民族は桓・倭民族ではない。所詮私らのほとんどが下層民出身だろうから、王朝史が北方の高句麗・百済の扶余系王族ひとにぎりとは関係ない、血縁的には圧倒的に長江下流域の流民・避難民だろう。秦の始皇帝の役を逃れ遁れてたどり着いた列島であろう。


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(181) 『熊野本宮大社なう、三つ足烏である八咫を祭っている』 2010年7月30日(金)

 熊野本宮大社なう。三つ足烏である八咫を祭っている。

 ●『683年(天武12年:白鳳23年)春正月2日、百寮(官)が朝廷〔天皇〕を拝した。   〔筑紫太宰丹比真人嶋らが、三つ足の雀を貢〔上〕した。〕』    ⇒ 下線部の意味は、 〔3種の神器(=三つ足の雀) を九州王朝から大和王朝へ貢上した〕 という意味。

 太陽信仰と熊信仰があって、太陽信仰は農業民の信仰対象で、一方熊信仰は月・星とか北斗七星・北極星の狩猟民の信仰対象である。と聞いたことがある。半島列島の支配者は北方からの流民のかたわれで書紀は支配者の歴史書だろう。長江下流域から秦の役を避けて渡来の農業従事者は被支配者・庶民だった。

 こんなこと言ったら、またまたかなー。統一新羅・高麗・李朝の1300年は変化の無い、のっぺらな時代だなーって思うのだが・・・・起伏が無いというか、面白味の無い時代というか、それに比べ白村江以前の高句麗・百済・新羅・加羅は住みよかったかはともかく、同じ韓半島の出来事ととても思えない。

 なんかとても、躍動感にあふれている。それに比べ海によって隔離された日本は奈良・京都の貴族時代はともかく、源平・鎌倉・室町・戦国・徳川の武家時代と庶民の活躍が記録されている。さて、太陽信仰・熊信仰、の他にも阿蘇神社のイランのゾロアスター教、インドのりんが・金比羅・毘沙門とかあって、日本列島は、これから先はメキシコ・ペルーという行き止まり。民族のまさに坩堝といえよう。天草は“天津ふたやの島”が訛ったというが大陸から黄海を渡って最初に着く島だった、で、天草四郎の所以でもある。別所・散所・余部、森鴎外の山椒太夫に同じだ。お地蔵さんとばかりと思ってたが”へのこ”?


 関東へ来てしばらくたった頃、私の子供達が当時は幼くて喜ぶからといって、浦賀の知人が夏祭りに誘ってくれた。細いひなびた道のそばに苔むした古いお地蔵さん見つけ。おやっこんなところにお地蔵さんがと思い薄暗がりのそれを凝視すると、なんと“いちもつ”ではないか。そうか昔のお地蔵って納得。 

鳥船塚古墳-2個の石材だけになった装飾古墳-《魚拓》
「天の鳥舟」

 「日本古代文字の謎を解く」相馬龍夫著に紹介の壁画ですが、これは絵文字だそうで、この読みは「日御漕(ヒミコ)水戸(ミト)水戸(ミト)漕武(コム)」だそうです。船の舳先と艫に烏か鳶が描かれていて、死者の黄泉の国への「水先案内鳥」でしょうか。地球が丸いので船上鳥を放すと高くのぼった鳥に陸が見えるとその方へ飛ぶそうです。


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(182) 『金春秋は唐・新羅・秦国の東西枢軸へ参入勧誘の為に秦国へ赴いた』 2010年7月31日(土)

 647年孝徳3年常色元年、この歳新羅が大臣大阿飡金春秋〔のちの武烈王〕らを遣わして、博士で小徳の高向黒麻呂、小山中の中臣連押熊を送ってきて、孔雀一羽、鸚鵡一羽を献上した。春秋は姿や顔が美しくよく談笑した。新羅で647年正月は毘曇が反乱を起こし、金春秋・金庚信が誅殺した同年である。

 金春秋は新羅で647年正月「毘曇の乱」を治め、すぐその足で来たことになる。来たのは倭国か、秦国かということだが、唐国・新羅・秦国の東西枢軸への参入勧誘・交渉の為に唐の内意を受けて、秦国へ自ら赴いて来たというのが正解だろう。


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(183) 『九州王朝「倭国」が在ったことは、周辺国が認めていることだ』 2010年8月1日(日)

 そもそも九州王朝「倭国」が在ったか・無かったかが問題ではない。九州王朝「倭国」が在ったことはとっくの昔に周辺国が認めていることなのだ。では逆に大和王朝「日本国」は在ったかというと『670年新羅本紀文武王10年天智9年に、「プロト大和・近江朝(=難波副都倭弟王家)」が倭国更えて日本と号す』が周辺国で一番最初なのだ。

 「三國史記・卷第六・新羅本紀第六・文武王・上・(原文)」
文武王10年670天智9年「十二月・土星入月・倭國更號日本・自言近日所出以爲名」

〔三国史記新羅本紀文武王10年670天智9年に「倭国更えて日本と号す。自ら言う日出づる所に近しと以って名と為す。」〕

 文中に、『倭国更えて日本と号す』とあるではないか。この文意は改めて言うまでもなかろうが、670年:天智9年までは「倭国」だったが、これ以降は「日本国」と号するというものだ。

 問題はその時の『倭国』とは何者か?だが、

 〔667年天智6年3月19日、長門以東の本州・四国を支配する「プロト大和・近江朝(=難波副都倭弟王家)」が倭国から実質的に分離独立、唐占領下の倭国筑紫都督府の唐進駐軍が瀬戸内海を通って難波京を急襲すればひとたまりも無い、この為暫時難波京から近江京へ遷都。同時に中大兄皇太子は天智天皇として即位〕

の「プロト大和・近江朝(=難波副都倭弟王家)」だろう。

 671年天智10年12月3日、「プロト大和・近江朝(=難波副都倭弟王家)」の天智天皇が近江宮で崩じた。さらに壬申乱戦中の672年天武元年7月23日、この新生「近江朝」の大友皇子が自ら首をくくり、「プロト大和・近江朝(=難波副都倭弟王家)」は生まれてしばらくして亡んでしまう。

 「プロト大和・近江朝(=難波副都倭弟王家)」が「倭国」から分離独立することを、唐国は認めるわけに行かなかったのだろう。壬申乱戦勝で唐から独立を認められた筑紫大宰府本家兄王家「倭国」と、難波副都倭分家弟王家・プロト大和の「天武朝」へと取って代わる。

 壬申乱戦勝で唐から独立を認められた筑紫大宰府本家兄王家「倭国」であるが、その後も唐の過酷な戦後賠償・筑紫大地震とでさらに疲弊してゆく。「倭国」は、大宰府から難波京へ遷都684年「朱雀」改元、難波京焼失后の浄御原京遷都686年「朱鳥」改元、藤原京の造都・遷都694年「大化」改元する。

 「プロト大和・天武朝(=難波副都倭分家弟王家)」が、「倭国」の高市天皇を「プロト大化改新696年」で暗殺し倭国を乗っ取る。翌697年文武天皇即位、翌698年大和王朝初の文武天皇大嘗祭。701年「大宝」改元、大和王朝「日本国」が開闢する。これを機に九州「倭国」を併合する。最後の抵抗が隼人乱である 。

 最後の倭国王『高市天皇』って、私は呼んでるけど、高市皇子が(高市=持統即位元年)690年九州年号朱鳥5年に即位したのち、倭国王としての本当の名前を知らない。「朱鳥王」とは呼べるかな。なんとも、もどかしい。天皇と呼んでいなかったのは確かだろうけど。天智天皇か、文武天皇が最初だろう。


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(184) 『九州王朝系の「格」の痕跡の「発見」記事の紹介』 2010年8月3日(火)

 『古賀達也の洛中洛外日記』〔第171話2008/04/27九州王朝の白鳳六年「格」〕
 『日本後紀』延暦十八年(799)十二月条に、亡命百済人等の子孫による賜姓を請う記事があり、その中で祖先が百済から亡命した際、当初、摂津職(難波)に安置され、その後の「丙寅歳正月廿七日格」にて甲斐国に移住を命じられたと述べています。
 この丙寅歳は666年に相当し、九州年号の白鳳六年のことです。この時代は九州王朝の時代ですから、「丙寅歳正月廿七日格」は九州王朝が発した「格」ということになります。

 更に言うならば、最初に留めおかれた所が「摂津職」とありますから、大和朝廷の『養老律令』などで規定された「摂津職」は、その淵源が九州王朝律令にあったこととなります。
 従来は、難波宮があったため大和朝廷は摂津を「国」ではなく、「職」にしたと理解されてきましたが、九州王朝の時代から既に「摂津職」とされていたことは、わたしの前期難波宮九州王朝副都説に対応しており、思いがけない発見となりました。
 すなわち、九州王朝は副都がある摂津を「職」と命名位置づけていたことになるのです。『日本後紀』の九州王朝「格」記事は、摂津職の淵源まで、明らかにしてくれたのでした。

 参照:〔九州年号・書紀天皇対比表〕
百済滅亡が660年(えと庚申)斉明6年:白雉9年、百済復活白村江敗戦が663年(:癸亥)天智2年:白鳳3年、甲斐国移住が666年(丙寅)天智5年:白鳳6年となる。

 百済復活を目論んだ白村江敗戦が663年で、韓半島の百済から避難・亡命者の先祖が倭国へ着いて以降、九州王朝難波副都の「摂津職」に安置(一時預かり)され、その後「(666:えと丙寅年)正月27日の“格”」で甲斐国に移住を命じられたと述べる。記録外の者はもっと多数・膨大だっただろうが。


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(185) 『隋書・伊予温湯碑・元興寺丈六光銘・やつらの舞・筑紫舞の何れも捨てがたい』 2010年8月3日(火)

 古田武彦著『古代は輝いていたⅢ(法隆寺の九州王朝)』の253pに一次的史料、それは伊予温泉碑だ。『法興六年十月歳在丙辰、我が法王大王、恵総法師及び葛城の臣と与ともに、夷与村に逍遥し、正に神井を観る。世の妙験を歎じ、意を敍のべんと欲し、聊いささか碑文一首を作る。(下略)』と書かれ。

 更に同書p255〔『和名抄』には、「葛木郷ー備前・赤坂」「葛木郷ー肥前・三根(加都良木)」とある。「葛城」に当る地名は大和以外にもある、云々〕とあるが、九州王朝倭国の法興王が大宰府から伊予温泉迄出向き逍遥した相手が「葛城の臣」なのだ。余程の人物である、やはり「葛城」は大和だろう。

 実は本日、『葛城「秦国」がいきなり登場するが、隋書に出現するそれと同一なのか。また蘇我氏と秦国のつながりが判然としない。これを裏付ける詳細な文献資料または仮説資料があるのか知りたい』の問合せのメールあり、この質問に、『隋書から「秦国」、伊予温湯碑より「葛城」、書紀から「蘇我氏」を斟酌し、葛城「秦国」造語している。』旨、ご返答した。

 先に(6月15日頃)、葛城「秦国」王家の蘇我氏は、『法興6年10月我が法王大王が〔葛城臣〕と伊予温泉に遊ぶ』『隋書に〔秦王国あり〕』『皇極元(642)年蘇我大臣蝦夷が葛城の高宮に祖廟を建て〔やつらの舞を舞った〕』『筑紫舞に〔難波津より上りし翁〕』『元興寺丈六光銘に曰く〔巷苛(蘇我)〕の伊奈米・有明子』等々の記事から想定の合成造語だとも、ご返答しているが、私には残念なことに「常色の改革:647-652年」の当時に「近畿」にあったであろう倭国附庸王国の実態(名前・勢力・歴史・領土・軍事力etc)が掴めていません。隋書・伊予温湯碑・元興寺丈六光銘・やつらの舞・筑紫舞の何れも捨てがたいです。

つい昔と言うか、いわゆる庶民が石鹸を使い出したのはいつごろか?とか、風呂に入りだしたのはいつからか、ハンカチとかチッシュはいつからか、便所は何時から使かいだしたか、生理ナプキン無いとき女性はどうしてたかだとか、私の先祖4代前の16人はどんな顔してたか、とか以外と知らないんですね。

 そんな昨今のことも知らずに、プロト大和時代の1,300年前-1,350年前のことをどうたら・こうたら、知ろうとしているのだ、分からないのが当たり前といえば、当たり前なのだ。女房じゃないがタイムスリップしたらって、皮肉られてしまう。マジ相手にしてくれてない、のだよね^^やれやれ。

 そうだ、せめて、twitterで相手にしてくれる人は、大切にしないと・・・ね。

「隋書の〔秦王国〕」は国名である。その他の、「伊予温湯碑の〔葛城臣〕」「書紀やつらの舞を舞ったの〔蘇我大臣蝦夷〕」「元興寺丈六光銘の〔巷苛(蘇我)〕」 「筑紫舞の〔難波津より上りし翁〕」等は王族名・場所名である。書紀が何故蘇我なる名前を使用したか別途考えるとし『秦国』に統一する。

 『葛城〔秦国]がいきなり登場するが、隋書に出現するそれと、同一なのか。』⇒そうです。表記が紛らわしいので葛城〔秦国]を 今後は〔秦国] に集約修正します。
 『また蘇我氏と秦国のつながりが判然としない。これを裏付ける詳細な文献資料または仮説資料があるのか知りたい。』⇒状況証拠って言う程度です。蘇我氏に就いては「プロト大化改新」から蘇我入鹿は最後の倭国王高市天皇、また新羅の「毘曇乱」から当の新羅王族の毘曇に相当してるとも考えられます。

 そうか、『ゲゲゲの鬼太郎』のゲゲゲって、しげるの幼名だったのか。なーるほど、日本書紀と一脈通じてるんじゃないかなー

 『日本書紀と一脈通じてるんじゃないかなー』 ===>詳しく展開希望!  ⇒ うーん、「大化改新」とか、大化が九州年号と認めない方にはむづいですがね、蘇我入鹿は最後の倭国王高市天皇の暗殺のモチーフだった(本来のプロト大化改新696年:持統即位7年:大化2年)


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(189) 『「常色の改革」の一環としての難波副都での「天下立評」がその発端』 2010年8月7日(土)

 認めたくないかもしれませんが、日本は白村江敗戦と、太平洋戦争敗戦の「敗戦による進駐・占領」を2度経験しているのです。

 九州王朝『倭国』は白村江の敗戦を期に一気に衰弱し、さらに『壬申の乱』を経て、最期の本来の『プロト大化改新』をとどめに滅亡に至った。  その後は中央集権国家の大和王朝『日本国』が701年開闢したと理解できよう。

 ただこの大和王朝『日本国』もいきなり出来たわけではなく、その約50年前に前身の『プロト大和朝廷(=難波副都倭弟王家)』が出来るきっかけ、九州王朝「倭国」の天帰王(甘木王)が実施した「常色の改革」の一環としての難波副都での「天下立評」がその発端でしょう。

 日本の古代史云々を語る者は、何はさて置き、 『何故、国内的には「日本書紀」が九州王朝「倭国」を抹殺したのか、対外的には、大和王朝「日本国」がどういう経緯で忽然と極東アジアに現れたのか』  を明らかにしなければならない。


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(190) 『秀吉が朝鮮戦役では、加藤清正の寅退治が有名だ』 2010年8月10日(火)

 秀吉が朝鮮戦役では、加藤清正の寅退治が有名だ。要するに、暇をもてあまし太閤の帰還命令を待ってたみたいだ。李朝の正規軍は賄賂・収賄で軍隊の体をなしていず、ぬかに釘だったという。抵抗したのは現地の農民だったのだろう。日本人は西洋にばかり見てきた。これからは隣をもっと知る必要があろう。

 それにしても、太閤秀吉は死ぬ間際になって急に明国征討なんて言い出したんだろう。本能寺変での信長暗殺は秀吉とバテレンのタッグでなされたという説があるが、思うに明が鄭和の世界艦隊の往時から衰退し、今なら明を征討できるとバテレンから耳打ちされたんじゃないだろうか。で、先ずは李朝からとなった。

 当時火縄銃の火薬は硝石が主成分で、今はチリが主産地だが当時もそうだろう。元々は鳥の糞が乾燥堆積したものらしいが、バテレンは日本に無い硝石を取引材料に戦国大名を手玉に取ってたと思われる。

 信長が安土城を築き吹抜けの天守閣をバテレンに披露し、世界の王はキリストでなくこの信長と言った辺りから、信長がバテレンと不和になり同時に硝石も手に入らなくなった。たぶん信長はあわててバテレンの布教を禁止するとかで脅したり・すかしたりしただろうが、本能寺のすぐ隣にバテレンの教会があり、信長は本能寺もろとも爆薬でふっ飛ばされた、のが正解だろう。秀吉はバテレンの逃走を助けただろう。

 以上は『信長殺し、光秀ではない:八切止夫著』『本能寺の首謀者は秀吉である:今木健之著』を合成した私の説ですが、当らずとも遠からずと私は思っています。鉄砲は早くからコピー商品を堺衆が製造していたと分かっている。でも硝石は倭寇の範囲では手に入らず、バテレンが硝石の専売権を握っていた。

 『信長殺し、光秀ではない:八切止夫著』のネット上での紹介は
〔1151: 信長殺しは秀吉かー1 〕〔 1182: 信長殺し、光秀ではないー1〕 《魚拓》
がなされています、ご参照ください。


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(192) 『百済3史は日本書紀編者がでっち上げた史書であるか』 2010年8月10日(火)

 『朝鮮王室儀軌(ちょうせんおうしつぎき)は、李氏朝鮮時代の国家主要行事を文章や絵画で記録した文章類の総称である。』をかっぱらってたとは、なんとも情けない。即刻返すべきだ、李朝の文化財らしいが、こんなものかっぱらう奴がいたとはほんまに情けない。でも百済3史あったら返したくないな^^

 百済3史は日本書紀編者がでっち上げた史書である、という説がある。一方「任那日本府は無かった」を書いた元記者の泊勝美氏はそのなかで、百済王が都を出て任那の北方の大邸にいったん集結し、そこから放射状に南方の任那の小国家を攻略したルートを神功皇后征討記事に書直したと、ということは元記事があった?ということになる。

 では、任那日本府は無かったかと言うと、そんなことはなくちゃんと有ったといえよう。ただ大和王朝「日本国」そのものが当時無かったわけで、その出先であるはずがなく安羅王が天皇を名乗り、安羅国の日本府を総帥とする小国家連合体が九州王朝「倭国」の附庸国として、北の海を隔てた地・任那にあった、ということになる。

 531年(継体25年)「太歳辛亥の3月軍進みて安羅に至り、乞乇城を営む。この月高麗、其の王・安を殺す。又聞く日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬ」で、百済本紀はこの「安羅の王・安」と「日本の天皇」とが同じだという。最初に日本府・天皇を称したのは安羅国であり、安羅国王だろう。

 『531年3月軍進みて安羅に至り、乞乇城を営む。この月高麗、其の王・安を殺す。』 の安羅王・「安」(=日本府「天皇」)殺戮事件が起因で、 『倭薈(磐井)王が「にわかに官軍が動発し襲われた」が為の死亡が531年11月11日である。』 に連なり、さらに、 『この安羅の南の「越港国」小伽耶の継体天皇が534に崩ずる』 前に、継体天皇が倭国を再興した、ということになる。

 のちに、大和王朝が「日本国」「天皇」を名乗ったことから逆算すると、この時、小伽耶の継体天皇が任那日本府王家の遺族を連れて筑紫倭国へ渡海避難し、倭国を發倒(=再興)・継体した。倭薈(磐井)王遺族が倭兄王家で、任那日本府遺族が倭弟王家だと思う。


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(194) 『「韓国は日本人がつくった:黄文雄著」を読み勉強しよう』 2010年8月12日(木)

 どうも、菅首相をはじめ我々の戦後世代は、韓国併合をあたかも西欧列強の植民地支配と混同しているようだ。隣国というのに朝鮮の歴史を日本人のほとんどが知らないというのがその実態だろう。

 高句麗・百済・新羅の3韓時代は比較的関心があっても、統一新羅以降、高麗・李朝の1300年が中国の属国だったということだ。それも特殊な自らすすんでなった属国で、これまた類を見ない自虐の王朝史をだ。中国清朝がアヘン戦争等で弱体化した折も、李朝は属国だったのだ。

 日本は半島がロシアの植民地になると、ひいては日本自身もが列強の餌食になると考えていたのだ。日清戦争後の下関条約で李朝の独立を清朝に認めさせた。その後、独立の大韓帝国はこともあろうに帝政ロシアに秋波を送り、これがもとで日露戦争が起こった。日露戦争はだてではないのだ。第二次日韓協約を経て日本の保護国・統韓時代・日韓合邦に至る。それも、あくまで合邦である。「韓国は日本人がつくった:黄文雄著」を読み勉強しよう。

 如何に白村江戦が半島・列島のその後の歴史に影を落としているか、分かろうというものだ。言葉一つを見ても「日本語の正体(倭の大王は百済語で話す):金容雲」で言うように朝鮮語を中国語化し、いまでは日本語とは全くの別物にしてしまった。一方、日本は書紀が九州王朝倭国史を抹殺し亡き者にした。

『韓国は日本人がつくった:黄文雄著』
      ー 目次 ー
第1章〔韓国の独立と主権を確立したのは日本だった〕ー
 (1)「日本が朝鮮の独立・主権を奪った」という嘘
 (2)千年にわたる「中華への恭順」
 (3)日本が清国の支配から朝鮮を開放した
 (4)日韓合邦は列強すべてが賛成した史実。
第2章〔事大主義と属国根性が染み付いた民族性〕-
 (1)小中華を自負する属国の歪んだ自尊心
 (2)事大主義と属国根性という持病
 (3)事大主義を否定する現代韓国人の欺瞞
第3章〔李朝崩壊の混乱を救った日韓合邦〕-
 (1)国民を絞るだけ絞っていた李朝の悪政
 (2)権力闘争と腐敗に明け暮れる朝鮮半島
 (3)日韓合邦で破滅を免れた朝鮮半島
第4章〔「日帝36年」で実現した法治と人権〕-
 (1)「日本の略奪・虐殺」という嘘
 (2)「強制連行」という歴史の捏造
 (3)新羅以来の党争を根絶した総督府
 (4)法治社会の確立で守られた人権
 (5)飢饉と疫病の悪循環を止める
第5章〔漢語崇拝を絶ち、ハングルを広めた日本〕-
 (1)漢語を崇拝し、自国語をおとしめてきた歴史
 (2)朝鮮にハングルを広めたのは日本だった
 (3)漢字を棄てる現代韓国の文化自殺
第6章〔創氏改名と皇民化政策の真実〕-
 (1)自己申告制だった創氏改名
 (2)創氏改名は朝鮮人の嘆願でもあった
 (3)創氏改名を繰り返してきたのが歴史の真実
 (4)強固な階級差別社会を打ちこわす
 (5)日韓同祖論を使い分けるご都合主義
 (6)歪曲された皇民化運動
第7章〔飢餓の国を近代農業国に変身させた 〕-
 (1)惨憺たる田畑・林野の荒廃
 (2)土地強奪の歴史捏造
 (3)初の科学的全国土地調査による恩恵
 (4)農民の活力を奪った両班の階級支配
 (5)農民の意識改革こそ最大の貢献
 (6)米産倍増によって飢餓の国を救った
第8章〔近代化のインフラを創出した日本の投資〕-
 (1)加速する国土崩壊を喰い止める
 (2)近代工業国へと導いたインフラ整備
 (3)人流と物流を初めて実現
 (4)資源開発は日本の貢献なのだ
 (5)開発の障壁となった祖先崇拝と風水信仰
 (6)日本人の血税で支えられた朝鮮経済
 (7)日本なくして近代化はあり得なかった
 (8)現代の日韓関係も「搾取」と捉える妄想
第9章〔「正しい歴史」を学ぶべきは韓国人だ〕-
 (1)なぜ韓国人は被害妄想から脱却できないのか
 (2)南北朝鮮の統一こそ悲劇になる
 (3)「七奪」より「七恩」史観で半島史を見つめよ

 『韓国は日本人がつくった:黄文雄著』の黄文雄(こう・ぶんゆう)氏紹介
:文明史家、評論家。1938年台湾生まれ。64年来日し、早稲田大学商学部を卒業、明治大学大学院修士課程を修了。『中国の没落』(台湾、1991年)が大反響を呼んで以来、旺盛な執筆・評論活動を展開しており、次々と問題作・話題作を世に問うている。
巫永福文明評論賞、台湾ペンクラブ賞を受賞。
 著書に『つけあがるな中国人、うろたえるな日本人』『日中戦争、知られざる真実』『中国が死んでも日本に勝てない7つの理由』『それでも中国は崩壊する』『捏造された昭和史』『華禍』(ワック出版)などのほか多数がある


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(195) 『いまNHKで『韓国人の70%なぜ日本が嫌い』を放映してる、非常に興味がある』 2010年8月14日(土)

 いまNHKで『韓国人の70%なぜ日本が嫌い』を放映してる、非常に興味がある。

 女性のミトコンドリアで縄文・弥生人と相同なDNA配列の数を見ると本土日本人(10:5) と朝鮮人(11:6)、あと遼寧省(7:2)でこれまでは弥生時代になって急に朝鮮半島との間に交流が発生したと考えられていたがDNAの相同検索結果は半島にも古い時代から縄文人が住んでいたと分かる。

 『女性のミトコンドリアDNAのハプログループ頻度』が日本・半島・遼寧でよく似ているのに対し、『男性Y染色体のそれは大きく違っている。 その原因はハプログループDの頻度』にあり古い時代から日本にいた縄文人Dのそれであろう。半島は征服によって縄文人Dの男性が淘汰され、列島は平和裏に融合した。

 以上は『日本人になった祖先たち(DNAから解明するその多元的構造)篠田謙一著』を私なりにまとめたものです。片や「日本語の正体(倭の大王は百済語で話す):金容雲」でも日本はともかく、半島にも縄文人がいて縄文語が祖語になっていると解釈しないと現在の韓国語の成立ちが説明できないようだ。

 おそらく、半島と列島は白村江戦まではほぼ同質な人種だった。白村江敗戦以降、半島人は列島に避難・亡命渡海しただろうが、列島人を殺戮して占領したのでなく、平和的同居だったのだろう。一方半島は中国華北・東北・蒙古から男性が侵入し殺戮・殲滅・淘汰であり、女性の強姦等の征服だったのだろう。

 「日本のお姉さん」・『日本がハングルを学校で教えた拓殖大学客員教授・藤岡信勝』《魚拓》
のこれって黄文雄氏の受売り?

 『朝鮮半島人は、どうも、歴史を勝手に作り変えて、それを日本人にも教え込もうとするので困ります。日本人は、ちゃんと歴史を勉強していないので、朝鮮半島人と討論すると、言い負かされてしまう。無知でいることは、罪なことです。NHKの日韓の学生たちの出演したテレビ討論会では、朝鮮半島の学生たちは日本の学生たちに歴史を勉強しろと偉そうに言っていた。

 朝鮮半島人はアメリカに行くと、自分たちの習った歴史がウソだったと知らされて、あまりのショックに半分気が狂ったようになるらしい。その意味では、留学するのはいいことだ。テレビ討論会では、韓国に留学して日本の悪口をさんざん聞かされた日本人学生が韓国の味方をしていたが、たぶん、日本人と言っても在日の日本人だと思う。日本の歴史を知らずに、外国の作ったニセの歴史を信じこむような人は、たとえ血は日本人でも心はすでに日本人ではないかも。』

 韓国人は統一新羅以降李朝末の間は、自分の国の主権を放棄した民族なのだろう。世界の中でも稀な歴史を歩んできた民族なのだ。この間の歴史は無いに等しい。実に痛ましい歴史といえる。主権に目覚めたのは朝鮮総督府時代の義務教育からであろう。まー日本にとっても独立してもらわないと困ったのだが。

 慶応大学創始者の福沢諭吉は大分県中津藩士の出身だが、対馬の阿比留文字を改良し世宗1443年が考案したが普及に至らなかった「訓民正音(=ハングル)」が朝鮮語の表記に適していると推奨提案している。いつから福沢諭吉は韓国語に精通したのだろうか。とはいえハングルの普及には苦労したらしい。

 くどいかも知れないが、これまで日本人は韓国の歴史を疎んじてきた。韓国人はというと自国の歴史を素直に受け入れず歪曲して解釈してないだろうか。これから、お互いの誤解が更なる誤解を生み不幸な結末を迎えないように、「韓国は日本人がつくった:黄文雄著」をお互いに読み勉強しようではないか。

 『韓国は日本人がつくった:黄文雄』
①韓国の独立と主権を確立したのは日本だった
②事大主義と属国根性が染み付いた民族性
③李朝崩壊の混乱を救った日韓合邦
④「日帝36年」で実現した法治と人権
⑤漢語崇拝を絶ちハングルを広めた日本
⑥創氏改名と皇民化政策の真実
⑦飢餓の国を近代農業国に変身させた
⑧近代化のインフラを創出した日本の投資
⑨「正しい歴史」を学ぶべきは韓国人だ』

 以上はこの本の背表紙に記載の目次タイトルだ。このタイトルだけからでも著書の内容がわかるだろうが、NHKは『韓国人の70%なぜ日本が嫌い』を放映の前に日韓双方の若者に基礎的史実の理解を必要としたのではないか.

 朝鮮半島人は、どうも、歴史を勝手に作り変え云々⇒参照
「日本のお姉さん」
の中の
「 【マスコミ隠蔽の掲示板】最新版」


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(196) 『伊勢王が大和朝廷の始祖王で、皇極・斉明天皇は伊勢王と同一人物だろう』 2010年8月14日(土)

 九州王朝倭国の甘木王(明日香皇子、常色・白雉王)が647年即位してすぐ、唐・新羅・秦同盟に対抗の為「常色の改革」を発表するが、その一環として「天下立評」し、複都難波京を築き、倭王分家弟王家の伊勢王が常駐する。この伊勢王が大和朝廷の始祖王で、皇極・斉明天皇は伊勢王と同一人物だろう。

 以下は、「九州王朝倭国の甘木王」の説明のために、
「やさしい古代史」番外編(11)《魚拓》
に記載の内容一部の転載です。詳細を読みたい方はそちらでお願いします。

(万葉240番歌)

(短歌)久堅乃 天帰月乎 網尓刺 吾大王者 盖尓為有


 『(1)短歌で「天行く、天を行く」と読んだ所の原文は、「天帰」だ。「往」であれば「行く」だが、逆の意味を持つ「帰」を「行く」と訓む…とはならないはずだ。これは万葉集にもある「帰依(きえ)や帰化(きげ)」の「き」と訓むのではないか。「天帰」は「あまぎ」、つまり朝倉郡の「甘木」だ。

 なぜ素直に「甘木」とせず「天帰」としたのだろう。この歌に詠われた「わが大王」といわれる本来の主人公は、狩の途中不慮の死を遂げたのだ。その「死」を「天に帰る」と表現し、かつ主人公の領地を示そうとしたのだ。これは「挽歌」である。』 ー続くー 


● “ とうやん ” @t0hyan · 13秒 14秒前
@t0hyan この甘木王(明日香皇子、常色・白雉王)が647年即位してすぐ「常色の改革」を発表し、その一環として「天下立評」し、複都難波京を築き、倭王分家弟王 家の伊勢王が常駐する。この伊勢王が大和朝廷の始祖王で、更に甘木王とは「天来王」であり、「天智」「天武」へ続く考えている。


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(197) 『長江中・下流域からの直接の渡来:日本のイネに半島にない遺伝子があった』 2010年8月15日(日)

   『第3部:弥生文化と渡来人の登場』(04.長江中・下流域からの直接の渡来)〔日本のイネの中に朝鮮半島にない遺伝子があった〕《魚拓》

 水田稲作農耕の長江中・下流域からの直接伝播の可能性を指摘したのは、イネの遺伝子に詳しい農学者佐藤洋一郎である。佐藤が、大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から出土した、2,200年以上前の弥生米のDNA分析を行なったところ、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分ったという。

 佐藤によると、イネのDNAの文字(塩基)列が有用な遺伝子を意味せず、無意味に繰り返す領域、いわゆるSSR(Simple Sequence Repeat)領域のうち、RM1という場所にa~hの8種類(多型)があるという。日本の在来種105品種には、この種類が少なくa,bとわずかの c の3種類があるのみである。これが中国では90品種の中に、すべて8種類が存在し、朝鮮半島では55品種の中に、bを除く7種類があるという。

 すなわち、日本で一般的な、b遺伝子をもつイネは、朝鮮半島には存在せず、中国大陸の品種に存在する。したがって、日本のb遺伝子をもつイネの品種は、直接中国から渡来した品種に違いないというのである。

 考古学が“短粒米”という米の単純な形状の一致をもって、南部朝鮮からの渡来の一つの重要な根拠としてきたが、遺伝子レベルで詳しく調べると、実は朝鮮半島にはない品種が日本に在った、という鋭い指摘を受けた形なのである。


《これに以前に(154)で載せた次の内容をつなげると》


 (154)  『DNAからみた日本人のルーツ』《魚拓》
 お酒に弱い人は、ALDH2という遺伝子の変異型を持っており、極東アジアにしかこの変異型はいないそうだ。しかも、チュウゴク南部から離れるほど、お酒に弱い人は少なくなる。だから、日本人でお酒に弱い人は、もしかしたら中国南部から来た集団かも。

 新モンゴロイド母を先祖に蒙古から広がって日本人は日本列島へやってきたと思っていたのだが。最近になって瀋陽・大連・旅順と出張する機会があって初対面の挨拶代わりに酒席をともにした。乾杯后グラスを置くと、先方の女性が駄目だ飲み干せと言うじゃないか。女性でも、日本人と違って酒に強いのだ。

 日本人はと言うか特に酒の弱い奴は、朝鮮半島を陸橋にして北方から渡って来た騎馬民族系ではないのだ。中国南部の福建省辺りから船に乗って渡ってきたのだ。最初はちょろちょろと、ある時期大挙して、たぶん秦の始皇帝の侵略を避けて渡ってきたのだ。船が幼稚で渡れたはずが無いと誰しもが考えようが。

 膠着語の日本人・韓国人・蒙古人も秦が侵略する前は、ほとんどが中国平野に住んでいたのだ。秦の始皇帝は今のイラン辺りにあったバクトリア(大秦国)の出身で軍隊と中国へ侵入・征服して中国を始めて統一したのだ。兵馬俑の兵隊は大きいのだ、きっと青い目をしてた。中国語は彼らが移入したのだろう。


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(198) 『「隋書」俀国伝中に、記載の『俀国』『秦王国』のいずれもが、日本書紀に出て来ないのだ』 22010年8月17日(火)

 明年(大業4年:608年:推古16年)、上、文林郎裴清を遣わして俀国に使いせしむ。百済を渡り、行きて竹島に至り、南に聃羅を望み、都斯麻国を経、迥かに大海の中に在り。又東して一支国に至り、又竹斯国(=筑紫・九州島)に至り、又東して秦王国に至る。其の人華夏に同じ。以って夷州と為すも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。又十余国を経て海岸(=九十九里浜)に達す。竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す。』

 そう、この「隋書」俀国伝中に、記載の『俀国』『秦王国』のいずれもが、日本書紀に出て来ないのだ。これこそが書紀の編纂理由だろう。

 『大和朝廷「日本国」出生の秘話』
がそこら辺のわけを解き明かしてくれるよ。

 この『大和朝廷「日本国」出生の秘話』を読むと、近江朝出生のきっかけがなんとなく、想像できるでしょう。で、天智天皇の近江朝は早過ぎた春だったのでしょう。壬申乱でこの仇花の近江朝はいったん潰えます。


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(199) 『中国の航空母艦充実の動きは原油ルート確保の他に海外制覇でしょう』 2010年8月19日(木)

 旅行者ではないが、同じ時期のフルブライト資金で米国留学生に、竹村健太郎 (間違えました!! 竹村健太郎===>竹村健一さんでした。 対不起!!) と小田実の二人がいますが、前者がWASPばかりみていたのに対し、後者は上下左右あまねく見て帰ったそうです。どちらも米国に利益だったと思います。ファンにしろアンチにしろ、無関心よりははるかにいい

 あの、偉そうな竹村健一ですか、あまり好きでなかったから^^

 好き嫌いでいうと小生は二人とも嫌いです。嫌う理由はちがいますが。 まあ米国の懐の深さで、どうころんでもパイプはつながりますよね。あとはパイプの使いし方次第。日本政府も市民も、大国中国と対等に付き合えるように準備おこたりなくしたいもの。映画『北京の西瓜』おすすめ

 中国が今迄は陸軍主体でチベットを征服しました。アメリカは日本を征服し植民地化するつもりが戦後の植民地解放の動きで果たせなかった。中国の航空母艦充実の動きは原油ルート確保の他に海外制覇でしょう、沖縄は日米にとって手放せなくなった。@junjohnmat 映画『北京の西瓜』おすすめ


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(200) 『毛利長州藩の英雲公の「撫育方」制度の確立、撫育金の秘密裏の貯蔵であろう』 2010年8月21日(土)

 我が毛利長州藩の英雲公の施策は藩財政改革で3白(=米・紙・塩)の殖産に成功、「撫育方」制度の確立、撫育金の秘密裏の貯蔵であろう。李朝の釜山・倭館とは対馬藩経由で交易されたというが、シーボルトが下関の活況ぶりを伝えるように密貿易も盛んだっただろう、維新の軍資金はこうして蓄えられた。

 以上のことは、『明治維新の生贄(いけにえ)長州忍者外伝ー誰が孝明天皇を殺したかー鹿島昇・宮崎鉄雄・松重正:共著』に詳しい。私はユダヤ・ロスチャイルド家とのつながりは品川の英国公使館焼討ちから以降にできたと考えている。伊藤博文・井上馨等5名の密航も彼らの支援があってこそ出来たのだ。

 いま、坂本竜馬が薩長連合を斡旋したとNHK大河ドラマ放映中だが、はたして史実だろうか? 
『龍馬「薩長同盟発案伝説」はウソである』
で言うように、グラバーを通じてユダヤとコネクションが出来ていただろう。

 毛利英雲公以来の「撫育金」の有り余る貯えで、アメリカの南北戦争終戦で不用になったミネーゲル銃の購入・軍艦等の購入・手配は長州単独で充分果たせただろう。問題は兵隊でわが先祖は徳山支藩の士族で先祖の悪口になるが使い物にならなかったらしい。そこで、部落民で組織した奇兵隊を創設となった。

 大内氏がたぶん安羅王家出身で、引継ぐ形の毛利の1300年の歴史を知るまでもなく、わが長州藩の伊藤博文・大室寅之助の明治天皇が対馬海峡を挟んで対岸の釜山港倭舘との密貿易で貯えた「撫育金」のおかげで明治維新を成功し、李朝の内情が如何に荒廃していたか熟知し止むを得ず合邦に至っただろう。

 日本書紀665年天智4年8月、長門に城を築くとある。山口県西半分旧長門国の地図を首っ引きで探したが無かった。
『石城山遺跡は「長門の城」であったか、楊井水道は古代長門水道であった』《魚拓》
と分かった。








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