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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 031 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(608) 『百済観音と同じくクスノキの大木・まさに10mを越す気長足姫尊(=神功皇后)を直接刻んだもの』 2011年5月29日(日)


 〔長谷寺ご本尊は、右手に錫杖、左手に水瓶を持って方形の大盤石という台座に立つ、いわゆる長谷寺式十一面観世音菩薩です。像高三丈三尺六寸1018.0cm。我が国で最大のクスノキ木造仏。〕《魚拓》


 百済観音と同じくクスノキの大木・まさに10mを越す気長足姫尊(=神功皇后)を直接刻んだもの。米田良三氏は長谷寺観音像は517年に造られていて、現存するもので最古であるばかりか、大きさも日本一どころか世界一の木造彫刻だと言う。

 “本尊像の拝観できる6月30日迄のお参りをぜひお勧めする”。


 『源氏物語画帳』玉鬘は移築前の長谷寺を描いているとすると、〔長谷寺は727年開山としている〕 ⇒
 これは九州から近畿への移築開山年次だろうから、〔源氏物語は900年代初頭の著作〕とする通説が間違っていて、芋ずる式に源氏物語・住吉物語・枕草子・土佐日記・大和物語・伊勢物語が九州倭国の著作となる。


 わたしも、あなたも、日本人みんなが学校で教わった、この通説が京都・平安時代900年代の古典だとする。即ち、源氏物語・住吉物語・枕草子・土佐日記・大和物語・伊勢物語、等々の古典という古典が…。
 全く、驚くことに、更に300年も古く、九州王朝「倭国」時代500~600年代の著作だ、と分ったのだ。


 『源氏物語画帳』から分ることは、玉鬘が移築前の九州佐賀県山中奥深く、今はひなびた三瀬にあったであろう長谷寺を訪ねお参りしたのは確かだろう。
 柿本人麻呂は云うに及ばず、『枕草子』の【114】を書いた清少納言も、『土佐日記』を書いた紀貫之も、九州佐賀県の籠国の三瀬の長谷寺を拝んだのだ。


 何故嘘をつくのか?1,300年前に何があったのだろうか?
 〔長谷寺は創建以来9度を超える罹災で、焼失と復興を繰り返してきました。そのため失われた寺宝も多いと思われますが、それでもなお各時代のさまざまな宝物を今に伝えています。〕


 更に、『長谷寺の本尊十一面観音菩薩立像』の全体像を知りたい人は以下をクリックしてくださいね。

 『多摩美術大学 芸術人類学研究所Jan 06, 2009
鶴岡真弓記事 月刊『家庭画報』2月号(同記事191pより)』
《魚拓》
より転載しています。


 とても木造彫刻と思えない躍動感。プロの“ど迫力”画像⇒ここ、クリック

 (同記事191pより、長谷寺の本尊十一面観音菩薩立像を見上げる鶴岡所員)


 今テレビでPRしてるよね。長谷寺は517年、薬師寺東塔は534年、法隆寺は607年なんだね
 とても木造彫刻と思えない躍動感!


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(609) 『「枕草子」にある「高瀬の淀」がこの「北山貯水池」の底に沈むのだろう。「高瀬の淀」は、菖蒲を刈る深さか』 2011年5月30日(月)

 『続・法隆寺は移築された(源氏物語は筑紫が舞台だ):米田良三著』p173「②隠国(こもりく)」の項を抜粋引用する。


 『住吉物語』から明らかなように本来の龍田山は、九州の背振山地である。山並みを龍が伏せていると捉えた名称と思われる。
 その龍に守られた山国は隠国と呼ばれ、筑紫の京の奥座敷の位置にあった。隠国の奥まったところに泊瀬はある。

 今は無い泊瀬に倭薈(いわい)の母である神功王后が祀られ、500年代後半から600年代にかけて、泊瀬観音信仰が東アジアに広がっていた。

 現在、龍田川は初瀬川と呼ばれており、倭国時代の余韻が残る。
泊瀬寺跡推定地のすぐ下流にはダムが造られ、北山貯水池が出来ている。


 『小倉百人一首』に歌われる龍田、泊瀬の歌は次の3首である。

 ●ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは :在原業平朝臣(百17)

 ●嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 龍田の川の 錦なりけり :能因法師(百69)

 ●憂かりける 人を泊瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを :源俊頼朝臣(百74)


 龍田川は北山ダムの下流で長野峠からの流れと合流する。
(百69)に歌われる三室の山の地名は現在無いが、長野峠から少し降りた山懐に「上無津呂」「下無津呂」という地名があり、名残を感じる。逆方向に峠を越えて下がると倭国の時代には伊勢神宮が在った。』


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 『泊瀬寺跡推定地のすぐ下流にはダムが造られ、北山貯水池が出来ている。』とあるが、いわば、『枕草子』にある「高瀬の淀」が、この「北山貯水池」の底に沈むのだろう。
 「高瀬の淀」は、菖蒲を刈るとあるので人の腰もなさそうな深さか、「北山貯水池」の場合もどうだろう名前からは浅そうなのだが。


 『法隆寺は移築された(大宰府から斑鳩へ):米田良三著』は1991年7月5日に㈱新泉社から発行された。
腹帯びには「建築家の眼がとらえた再建法隆寺の意外な真実」とある。
 その本を取ってから、全くの「虜:とりこ」になってしまった。中学の修学旅行は法隆寺昭和大修理の雨の最中だったのだが…。


 だが、この著作はせっかく歴代が隠してきた九州王朝「倭国」を、「あからさま」にする、きわめて危険な書物だったのだ。たぶん、本人もそこまで認識していなかった、だろう。
 そう、その後のバッシングたるやすごいものがある。そりゃー、そうだろう。若草伽藍焼失後、新築でなく移築だと言うのだから。


 東京工大建築学科卒業の学歴から法隆寺昭和大修理報告書をつぶさに見直すし、客観的にその「ありよう」を見つめなおすと、そう、どうみても新築でないと。法隆寺は再建だ。
 そう建物の組立の符牒が東西・南北、変わっていたのだ、そればかりでないのだ。お陰で、彼は10年の冷や飯を喰うことになった。


 10年後まさか、リベンジしてたとは、そう、このブログをずっと読んでくれてたら分るだろうけど…
 〔AB&JC PRESS〕
から、『続・法隆寺は移築された(『源氏物語』は筑紫が舞台だ)』更に、予定の『現代を解く・長谷寺考』を知った次第だ。


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(610) 『「源氏物語」「住吉物語」の舞台になった頃の九州王朝「倭国」の筑紫』 2011年5月31日(火)

 『続・法隆寺は移築された:米田良三著』p165に掲載の〔「源氏物語」「住吉物語」の舞台になった頃の九州王朝「倭国」の中枢部復元図〕が非常に分りやすいので転載します。


 『源氏物語(巻二):円地文子訳』澪標(=水脈土筆:水先案内ブイ)p140を抜粋引用転載する。


 『その秋、源氏の大臣は住吉へ御参詣になった。多くの願の叶ったお礼を果たされるためなので、おびただしい人数の厳しい御行列で、世の中挙って、上達部も殿上人も、われもわれもと競ってお供申上げた。


 折も折、あの明石の女も、毎年の例として住吉詣でをつづけてきたのが、去年と今年は身に障りがあって参ることの出来なかったお詫びもかねてと思い立って、これは船で参詣した。
 岸に船をつける頃、ふと見ると、ざわめき立ってお参りになる同勢が渚に満ちあふれて、厳かな奉納の宝物を次々に捧げてゆく。

 『源氏物語』の書かれた650年頃の博多は、今とかなり違うっています。
明石の君の住吉詣では田蓑島、住吉大社と渡り、難波浦に宿泊する。地図で分りましょうか?

 博多古図(住吉神社 所蔵絵馬 複製)《魚拓》



 <中略>p142 摂津の国守が伺候して、御接待申すにも、普通の大臣の御参詣の折よりも格別にこの上なくお仕え申したに違いない。
 明石の女君はこうした御有様を見るにつけても居たたまれず、「この御参詣に交じって、ものの数にも入らぬ身が少しばかりの捧げ物をしたところで、神様も一人前に御目をとめても下さらないでしょう。といって引き返すのも中途半端です。
 今日は難波の浦に船をとめて、お祓えだけでもしましょう」と漕ぎ離れていった。源氏の君は夢にもご存じなくて、その夜は夜一夜さまざまの神事を行われた。

 <中略>p144 あの明石の船がこの騒ぎに気圧されて、難波の方へ漕ぎ渡って行った様子をも惟光がお耳に入れると、君は少しも知らなかったとあわれにお思いやりになる。

 これも住吉の神の御導きによって結ばれた縁であったと思い出だし給うにつけても、疎かには思われないので、ほんのわずかの便りだけでも遣わして、心を慰めてやりたい、きっと、なまじ同じ日ここまで来ているだけに、逢えないのを悲しく思っていることであろうとお考えになる。


 『続・法隆寺は移築された:米田良三著』p143に掲載の

 福岡地盤図(付図5.基盤岩表面等高線図)を元に復元修正した『近江の海』 ⇒

 明石の君の住吉詣では田蓑島、住吉大社と渡り、難波浦に泊する。


 御社を後になさって、道すがら名ある所々でそぞろ歩きに興をお尽くしになった。
難波の御祓えなどは殊にその七ヶ所で立派にお勤めになる。
 堀江のあたりをご覧になって、『今はた同じ難波なる』と心にもなく口ずさまれるのを、御車の傍近くに控えていた惟光が、下の句の『身をつくしても逢はむとぞ思ふ』お心を洩れ承ったものであろうか、そうした仰せもと、いつも御遠出の折の例にならって懐中に用意していた柄の短い筆などを、御車をとめたところへさし上げた。

 君はよく気がつくとお思いになって、懐紙に、

みをつくし恋ふるしるしにここまでもめぐり逢ひける縁は深しな

 と書いて賜ったので、あちらの様子を知っている者を使いとして届けさせた。
こちらでは馬を並べて通りすぎて行かれる君のお供の人数を見ていても、もう心が波だち騒ぐのに、ほんのわずかのお便りではあるが、あわれに勿体なく、涙ばかりこぼれるのであった。


 『数ならで 難波のことも かなひなきに などみをつくし 思ひそめけむ

 田蓑の島で禊を行った折、お祓えに用いた木綿につけてお返しをさし上げた。
 日は暮れ方になってゆく。夕潮が満ちてきて、入江に集まって来る鶴も声を惜しまず鳴き渡る風情などあわれ深い折からでもあるためか、君は人目も憚らず明石の君と逢いたい、顔を見たいと無償にあこがれるのであった。


 『露けさの 昔に似たる 旅衣 田蓑の島の 名には隠れず

 道すがら、楽しいそぞろ歩きをなさって、賑やかに遊んだり騒いだりなさるものの、君はやはりあの明石の女のことが忘れられず、絶えず思いやっておいでになった。<後略>』

 …この描写を皆さんは、はてさて、どこをと思われますか?


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(616) 『関山の せきとめられぬ 涙こそ あふみのうみと ながれ出づらめ :和泉式部』 2011年6月3日(金)


 『続・法隆寺は移築された(『源氏物語』は筑紫が舞台だ)』:米田良三著』25.小倉百人一首再論⑫石山寺p237に掲載の地図を転載します。


 関山の せきとめられぬ 涙こそ あふみのうみと ながれ出づらめ :和泉式部』

〔石山寺推定地:南区南大橋〕
 米田良三氏はp238⑬和泉式部の項で、
『近江の海は現在の井尻の東まで広がっており、三宅廃寺とされている場所に近江の海を臨む形で石山寺があったと推定する』
 と云う。


 米田良三氏は「⑬和泉式部」の項p247で、

『帥宮は蛍の巻きに、六条院の馬場の御殿で行われた競射に参加した蛍兵部卿とともに、花散里に比較評価されて登場する人物である。帥宮から兵部卿に替わった蛍の宮と比べられており、帥宮26歳のときである。つまり、『和泉式部日記』に記される故宮、帥宮は、上宮王の息子たちであり、大殿は平安時代の藤原道長ではなく、上宮王の息子の光源氏である。』 という。


 先に
『続・法隆寺は移築された:米田良三著』
25.小倉百人一首再論⑫石山寺p237に掲載の地図〕

 を転載しましたが、『源氏物語』の書かれた650年頃の地理「石山寺」「桂離宮」分りますかね?


 維新戊辰戦争で、周防・田布施の高松宮で作った「錦の御旗」を押し立て「宮さん・宮さん、お馬の前をひらひらするのは何んじゃいな」と歌って行進したという。
 私はこの「錦の御旗」は壬申乱の「駅鈴」を真似たものではと以前指摘していますが、源氏物語から「桂殿」を発見「桂離宮」へ移築と同様です。


 更に現在の水城の場所には、花崗岩石を積んだ垂直な城壁が築かれ、その城壁の関所が「逢坂の関」だと言う。
 米田氏は白村江敗戦後、唐進駐軍がこの城壁を壊した。更に後、野面石と土で大堤を作った。これが今の「水城」だと言う。
 私は当時も今と同じ土塁と思ってたが花崗岩の中国風城壁だったのだろう。


 この城壁の内側に「淀」があり、その「淀」に面して「打出の浜」「関山」があったというのだ。
 先に、泊瀬寺の傍を初瀬川が流れ、その下流に「高瀬の淀」・「関谷」があって、今の北山湖の下に沈んでいる。
 余談だが私は、この『「高瀬の淀」「関谷」』と、『「淀」「関山」』とパット見早合点していた。


 米田氏は「⑬和泉式部」の項p239で、
関山の せきとめられぬ 涙こそ あふみのうみと ながれ出づらめ』 ⇒
 関山が堰き止められないほどの(都で流す)宮の涙は、淀にあふれ、賀茂川を流れて近江の海に流れ出るのだから、宮自身が近江の海に流れ出なさい ⇒
 この地理を踏まえると分り易いと言う。


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(623) 『唐との白村江戦で、半島は属国化を選択。列島は九州王朝「倭国」を消して、歴史上存在しなかったものにした』 2011年6月8日(水)



我が家の栗の花です。雄花は写真の上部の狐の尻尾みたいなの。で、雌花は写真の真ん中、風に揺れてて少しピンボケかな、パインナップルというか、爆弾形状と言うか、派手な雄花の割には、1っ個だけ。


「すすきの穂」のような栗の花は新枝の先のほうに一杯付いてて、その一つひとつが実になると思ってたのです。でも、その割には実の数少ないなーってね。実は今年こそと、狙ってたのです。ありました、栗坊が、それが写真です。雄花は派手に一杯垂れ下がってるのですが…、なんと、雌花はたった1っ個。


「能古島」が「淡路島」の原形ですか。源氏物語が九州王朝「倭国」時代特に600-653の作品だとすると、枕草子・伊勢物語・住吉物語・大和物語・土佐日記と連動して、それが「倭国」の古典だとなります。今改めてみなおししてみようかなと思ったりして^^


beatDPJ 多くの韓国人は韓国が中国の属国だったことも知らず、たった一回だけ日本に支配されたと思ってる。だから日本人コンプレックスが酷い
 ⇒ 〔韓国人は病んでいる〕
韓国は2000年の間に960回も異民族に侵略され…民族のプライドを保つためには、日本に対して悪意の捏造


唐との白村江戦で、半島は属国を選択し、言葉を中国語化した。一方、列島は九州王朝「倭国」「秦国」の歴史・芸術・文化を消して、歴史上存在しなかったものにしただけの違い。
RT @beatDPJ 多くの韓国人は韓国が中国の属国だったことも知らず、たった一回だけ日本に支配されたと思ってる。


そう、それはそうなんですが…。では韓国が、というより半島がいつから属国の道を選択したか、選択せざるを得なかったか、を理解しておかないとならないのじゃないでしょうか。
RT @beatDPJ 多くの韓国人は韓国が中国の属国だったことも知らず、たった一回だけ日本に支配されたと思ってる。


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(627) 『歴史は教える、九州王朝「倭国」の滅亡の直接の引き金が『筑紫大地震(678年)推定震度「7.1以上」』再掲載3/13』 2011年6月11日(土)


      『源氏物語画帖:玉鬘』


 歴史を振り返るに、歴史は教える、九州王朝「倭国」の滅亡の直接の引き金が、筑紫全域を襲った『(水縄活断層系を起震断層とする) 筑紫大地震(678年:天武7年:白鳳18年)推定震度は「7.1以上」』の発生である。これによって、『倭国王権』は、居た堪れずに、大宰府から難波へ逃げ出すようにしての遷都しただろうことをである。

 更に、この筑紫大地震(678年:天武7年:白鳳18年)発生後、余震と思える書紀の記事12回を経てのち、四国・近畿・東海を襲った、いわゆる大型東南海地震の 『 (震源が室戸岬沖とされる) 白鳳大地震(684年:天武13年:白鳳24年)・マグニチュード 8.4』 が発生するのである。


 「古賀達也洛中・洛外日記」第240話 2010/01/11の『天武紀の地震記事と九州王朝(川西市・正木裕)』
参照され度。

『天武紀には天武七年(六七八)の筑紫大地震はじめ、十七回もの地震記事が記録され、『書紀』中でも群を抜く。筑紫大地震以降の十六回中十二回はその余震と見られる事、火山活動に伴う降灰・雷電が記されている事等から、『書紀』のこの部分は筑紫の記事、即ち九州王朝の記録と考えられる。この時期風水害や降雹記事もあり、白村江敗戦に追い討ちをかける、度重なる天災により筑紫の疲弊は甚だしかったと推測される。

 一方、『書紀』天武十三年(六八四)の白鳳大地震は、東海・東南海・南海地震の同時発生と考えられ、被災地は筑紫ではなく東海・近畿・四国であるから、これは近畿の記事である。

 そして、この年九州年号が「朱雀」と改元されており、近畿での地震被害が改元の契機であれば、九州王朝はこの時点で拠点を近畿、その中でも副都たる難波宮に移していた事となる。これは難波宮焼失の天武十五年に九州年号が「朱鳥」に改元されていることからも裏付けられる。

 この間に九州王朝の筑紫から難波への移転がおき、近畿天皇家への権力移行期である天武末期から持統期に、両者は地理的にも近接して存在していたと考えられるのではないか』


 即ち、唐、高句麗侵略に端を発した倭国の「常色の改革」、一環の天下立評、難波副都建造、附庸王国解体、白村江敗戦、天智近江朝の唐・倭国からの独立、壬申大乱、倭国再統合、薩夜麻復位、筑紫大地震、大宰府から難波京遷都、白鳳大地震、難波京焼失、浄御原京同居、藤原京遷都、元大化改新、倭国滅亡、をである。


まさに、地震「お・お・怖ッ」である。
首都が健在のうちは、なんとかなる。


今リチャード・クレーダーマンをNHKBSプレミアムでやってる。いつも車で聞いてるが本人の素顔を知るといっそう好きになった。


(水縄活断層系を起震断層とする)筑紫大地震(678年:天武7年:白鳳18年)推定震度は7.1以上の発生で、天武紀にはこの筑紫大地震はじめ、十七回もの地震記事が記録され、『書紀』中でも群を抜く。筑紫大地震以降の十六回中十二回はその余震と見られ、火山活動に伴う降灰・雷電が記されている。


改めてこの水縄活断層地震の筑紫地震、その群を抜く余震が凄かったか想像に難くない。また余震が6年に及ぶと言うからしつこいこと。九州王朝「倭国」は、鋒鋩の体で、九州大宰府から今の大阪城南にあった難波京へひとまず遷都・引越ししたのだ。これは、今見たように「九州年号」の解読から分るのだ。


今私が勝手に思うに、この筑紫大地震678年の時、佐賀県三瀬の竜田川(=初瀬川)の傍にあった泊瀬寺(=長谷寺)の空中回廊、社殿の格子櫓等が破損したのじゃないだろうか?と思うのだ。修理もできないまま、奈良へ移築と決まり、現長谷寺の「登廊の先に本殿」形式に変更されたのじゃないだろうか。


ハーバード大学美術館蔵『源氏物語画帖』玉鬘を良く見ると、椿市(今の地名:宿)上空から南方を俯瞰しており、そこから長谷寺本殿までは、なだらかな平坦地だったと分る。初瀬川の途中に「二本の杉」が描かれている。明らかに本殿は平坦な地形にやぐら格子の建物で奈良の現長谷寺を描いたものではない。


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(628) 『が、ここに来て、これより更に古い、517年創建の泊瀬寺(=長谷寺)が世界最古だとなります』 2011年6月12日(日)

米田良三氏は『これまで世界最古の木造建築とされていた「法隆寺」の創建は607年であり、これより73年前の534年に造られた「薬師寺東塔」が、これから世界最古の木造建築とされよう』としていた。が、ここに来て、これより更に古い、517年創建の泊瀬寺(=長谷寺)が世界最古だとなります。


ところがである
【縁起・国宝・寺宝】
長谷寺は、創建以来9度を超える罹災で、焼失と復興を繰り返してきました。そのため失われた寺宝も多いと思われますが、それでもなお各時代のさまざまな宝物を今に伝えています。


【寺 宝(像)】
本尊十一面観世音菩薩立像(1,018.0cm室町時代本堂)長谷寺のご本尊さまは、右手に錫杖、左手に水瓶を持って方形の大盤石という台座に立つ、いわゆる長谷寺式十一面観世音菩薩です。

開山徳道上人が造立して以来、度重なる火災により再造を繰り返してきました。
現在の御尊像は、室町時代の天文七年(1538)に大仏師運宗らによって造立されました。像高三丈三尺六寸(1018.0cm)。
我が国で最も大きな木造の仏さまで、その堂々としたお姿には全国に広がる長谷信仰の根本仏像としての威厳を十分に伺わせます。


長谷寺側自らは、『創建以来9度を超える罹災で、焼失と復興を繰り返してきました』と言う。
対し、米田良三氏はこの『大小9回の多きに達したという災火の焼土などは無い。災火は嘘とせざるを得ない』と言う。
長谷寺は517年創建であり、残り6年で1,500年と言う長寿世界最古の木造建築なのだ。


この長谷寺の「嘘の歴史」はちょうど、法隆寺の670年全焼失、710年再建と言うわりに、何故に
『法隆寺五重塔心柱594年の伐採材使用』
なんだ、と全く同じ虚構性を持つ。


長谷寺は
『創建以来9度を超える罹災で、焼失と復興を繰り返してきました。そのため失われた寺宝も多いと思われますが、それでもなお各時代のさまざまな宝物を今に伝えています』
と言う。
ならば当然、寺宝を持ち出そうとした僧侶もいたはずで焼け残ったしるしとか、全山焼けたとすると灰が残るはずだ。


約10年前、当時の読売新聞が2001年3月21日に報道の
『法隆寺五重塔の心柱「594年に伐採」で論争』
の記事切抜きです。知らぬ存ぜずで、ほとぼりが冷めるのを待ちに待ったということか…。


【古田史学会報2001年4月22日 No.43】
『法隆寺五重塔心柱594年の伐採材使用確定に思う』
を振り返って読むと、米田氏は『法隆寺の西院伽藍だけでなく、夢殿を中心とする東院伽藍、法輪寺、法起寺などは一連のものとして移築されたのではないかと思います。吉野宮(吉野ヶ里からの移築)、伊勢神宮、薬師寺、長谷寺、東大寺、三十三間堂、さらに時代はぐっと新しいのですが、桂離宮も移築されたと考えています。

移築という発想のもう一つの契機となったのが六七八年の白鳳大地震を知ったことです。
この時、飛鳥では回廊の壁が発見されて話題を呼んだ山田寺を始め、掘立柱系の多くの建物が崩壊したのではないかと思われます。
ところが、九州の建物はまったく壊れていない、無傷だったのです。

そこで、大和政権は震災からの復興に九州の建物を移築したのではないかと思いついたのです。』

当時既に長谷寺も移築されたと言ってたと分ります。


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(630) 『ご本尊像の拝観できる6月30日迄のお参りをぜひお勧めする《再掲載5/29》』 2011年6月13日(月)


〔長谷寺ご本尊は、右手に錫杖、左手に水瓶を持って方形の大盤石という台座に立つ、いわゆる長谷寺式十一面観世音菩薩です。像高三丈三尺六寸1018.0cm。我が国で最大のクスノキ木造仏。〕


百済観音と同じくクスノキの大木・まさに10mを越す気長足姫尊(=神功皇后)を直接刻んだもの。米田良三氏は長谷寺観音像は517年に造られていて、現存するもので最古であるばかりか、大きさも日本一どころか世界一の木造彫刻だと言う。

“本尊像の拝観できる6月30日迄のお参りをぜひお勧めする”。


『源氏物語画帳』玉鬘は移築前の長谷寺を描いているとすると、〔長谷寺は727年開山としている〕⇒
これは九州から近畿への移築開山年次だろうから、
〔源氏物語は900年代初頭の著作〕とする通説が間違っていて、
芋ずる式に源氏物語・住吉物語・枕草子・土佐日記・大和物語・伊勢物語が九州倭国の著作となる。


わたしも、あなたも、日本人みんなが学校で教わった、この通説が京都・平安時代900年代の古典だとする。
即ち、源氏物語・住吉物語・枕草子・土佐日記・大和物語・伊勢物語、等々の古典という古典が…。
全く、驚くことに、更に300年も古く、九州王朝「倭国」時代500~600年代の著作だ、と分ったのだ。


『源氏物語画帳』から分ることは、玉鬘が移築前の九州佐賀県山中奥深く、今はひなびた三瀬にあったであろう長谷寺を訪ねお参りしたのは確かだろう。
柿本人麻呂は云うに及ばず、『枕草子』の【114】を書いた清少納言も、『土佐日記』を書いた紀貫之も、九州佐賀県の籠国の三瀬の長谷寺を拝んだのだ。


何故嘘をつくのか?1,300年前に何があったのだろうか?
〔長谷寺は創建以来9度を超える罹災で、焼失と復興を繰り返してきました。
そのため失われた寺宝も多いと思われますが、それでもなお各時代のさまざまな宝物を今に伝えています。〕


更に、『長谷寺の本尊十一面観音菩薩立像』の全体像を知りたい人は以下をクリックしてくださいね。

『多摩美術大学 芸術人類学研究所Jan 06, 2009
鶴岡真弓記事 月刊『家庭画報』2月号(同記事191pより)』

より転載しています。


とても木造彫刻と思えない躍動感。プロの“ど迫力”画像⇒ここ、クリック

(同記事191pより、長谷寺の本尊十一面観音菩薩立像を見上げる鶴岡所員)


今テレビでPRしてるよね。長谷寺は517年、薬師寺東塔は534年、法隆寺は607年なんだね
とても木造彫刻と思えない躍動感!


長谷寺ご本尊像の拝観できる6月30日迄のお参りをぜひお勧めする。百済観音同様クスノキの大木・まさに10mを越す気長足姫尊(=神功皇后)を直接刻んだもの。
米田氏は長谷寺観音像は517年に造られていて、現存するもので最古であるばかりか、大きさも日本一どころか世界一の木造彫刻だと言う。


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(631) 『「古賀達也の洛中洛外日記」第321話 2011/06/05 【九州の語源】』 2011年6月13日(月)

以下は
『古賀達也の洛中洛外日記』第321話【九州の語源】
で、私の主張する

『隋書俀国伝時点での九州王朝「倭国」の直轄地の九州島、間接統治の長門以東の「秦国」を含む附庸王国、更には天下立評による附庸王国の解体、間接分権支配から評制による中央集権支配、白村江敗戦、長門以東天智近江朝の倭国からの独立、壬申乱での倭国再統合、九州王朝「倭国」の筑紫から近畿への遷都、プロト大化改新での廃評建郡・倭王高市の暗殺、倭国の滅亡、大和朝廷の開闢、等の説明』

に非常に分り易く、且つ有意義なので抜粋・転載・紹介します。


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『古賀達也の洛中洛外日記』第321話 2011/06/05 【九州の語源】
 からの抜粋・転載ですので悪しからず。


第321話 2011/06/05 【九州の語源】

 九州新幹線により一つに結ばれた九州ですが、九州新幹線のシンボルカラーは九州7県を象徴した7色のレインボーカラーでした。厳密に言うと、九州新幹線は長崎県・大分県・宮崎県は走っていないので、7色で表現するのはビミョーかもしれません。

 ご存じのように、その昔、九州は筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後・日向・薩摩・大隅の9国からなっており、そのため「九州」と呼ばれるようになった とするのが通説でした。
 しかし、中国では天子の直轄支配地を9に分けて統治する伝統があり、その影響により「九州」と言えば単なる地名ではなく、天子の直 轄支配領域を指す「政治地名用語」となりました。
 例えば、『旧唐書』にも「九州」という表記が頻出します。その上で、古田先生の九州王朝説によれば、古代 九州島は天子が直轄支配する政治的地域であり、倭国(九州王朝)が中国に倣って命名したものとされました。

 その証拠に、意図的に9国に分けられた痕跡として、筑紫・肥・豊の3国のみが前・後に分割され、ちょうど9国となっています。
 薩摩を薩前・薩後、日向を 日前・日後などとは分割しなかったのです。恐らく倭国の天子にとって、直轄中の直轄領域であった筑紫・肥・豊を前後に分割したのではないでしょうか。

 なお、9国への分国の時期が日出ずる処の天子・多利思北孤の時代(6世紀末)であったことを、わたしは『九州王朝の論理』(古田先生・福永晋三さんとの 共著、明石書店刊。2000年)で論証しましたので、ご参照いただければ幸いです。

 こうした認識に立つと、九州王朝にとっての直轄支配領域は九州島であり、それ以外の本州や四国は支配領域ではあっても、「直轄地」ではなかったことにな ります。
 恐らくそれらは地方豪族により統治されており、その豪族達の上に九州王朝の天子が列島の代表者として間接統治したのではないでしょうか。
 そし て7世紀中頃になると、全国に評制を実施し、律令による中央集権的統治を進めたものと思われます。

 701年以後になると、大和朝廷が列島の新たな代表者となりますから、大和朝廷にとって自らの直轄支配領域を「九州」と呼ぶ「大義名分」が発生します。

 その史料的痕跡は『日本書紀』にはありま せんが、『続日本紀』には1回だけ見えます。天平3年(731)12月21日の聖武天皇の詔中に「朕、九州に君臨す。」とあり、この時になってようやく大 和朝廷は「九州」という政治的地名を使用したようです。

 九州王朝を滅ぼして間もない『日本書紀』成立時(720)では、九州王朝による九州島の九州という 地名が「現存」しており、『日本書紀』での使用はためらったのではないでしょうか。

 聖武天皇による「九州」という表現ですが、ここには微妙な検討課題があります。それは、聖武天皇にとっての「九州」に、九州島は含まれていたのかという 問題です。
 すなわち、九州王朝の故地である九州島を聖武天皇は自らの直轄支配領域と認識していたのかというテーマです。

 わたしの現時点での考えとしては、天平3年の時点では九州島は大和朝廷の直轄支配領域とはされておらず、聖武天皇の詔勅中の「九州」には九州島は含まれ ていなかったのではないかと考えています。

 その根拠の一つは、養老律令によれば九州島は大宰府が統括しており、大和朝廷の直轄支配というよりも、大宰府に よる間接統治だったからです。
 このテーマは九州王朝の滅亡過程とも密接に関 係しており、今後の研究テーマでもあります。引き続き、検討したいと思います。


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(635) 『随所に誤って再組の部材が見つかるなどから『法隆寺は観世音寺から移築された』と結論した』 2011年6月14日(火)

『法隆寺は移築された:米田良三著』が新泉社から発行された時、解体修理報告書を緻密に分析検討した結果、法隆寺は若草伽藍全焼後新築された(その後も解体修理した事は一度も無く今回が初めて)と言うわりに随所に誤って再組の部材が見つかるなどから『法隆寺は観世音寺から移築された』と結論した。


 長谷寺も移築されたとした場合に、それを具体的・ビジュアル(=視覚的)に訴えようとしても、法隆寺のように昭和大修理での緻密・綿密・正確に記録された『解体修理報告書』などは無い。
米田良三氏は、古典『源氏物語』『住吉物語』『枕草子』『大和物語』を引用・読解し、次々新解釈を展開するのだ。


『続・法隆寺は移築された(源氏物語は筑紫が舞台だ):米田良三著』p124に
『創建「観世音寺資材帳」は法隆寺「西院資材帳」から復元できる。そこには「御世御世帝」とある。
つまり、倭薈(510~531)・延喜帝(533~553)・天慶帝(554~570)・天暦帝(571~590)を祀る倭国王室寺院である。

 もちろん主仏は釈迦像(現・法隆寺薬師像)であり、脇侍として上宮王像(現・救世観音像)千食王后像(現・百済観音像)が仏壇に配された。
「御世御世帝」は金堂の4大壁画に描かれたが、現在の定説では阿弥陀・弥勒・薬師・釈迦の各浄土図と説明される』

として古典を新解釈する。


 同書p82には、『③慶尚南道から出土した金銅如来立像の銘文に「延嘉七年歳在巳未」とあり、韓国中央博物館は仏像の様式から539年とうる。「延嘉」を高句麗の逸年号とするが、この時代朝鮮半島南岸は倭国の一部であり、倭国の年号「延喜」を誤って使ったことが考えられる。 誤って使ったと仮定すると、「延喜元年」は533年である。


 一方、手元には、今月号『古田史学会報』no104がある。その中に、なるほどそうだったのかの投稿記事『九州年号の別系列(法興・聖徳・始哭)について:正木裕氏』がある。
 記事は長いので端折って抜粋・転載する。興味のある方は一般会員年会費3,000円ですのでよろしく。

『三-2、菩薩天子は法号を持つべき』の項の末尾に、

『「法興」は、「法興元」と「元」を付けての使用が多い。これは「多利思北弧が仏門に帰依し、法興という法号を得てからの年数を示す」と言う「注釈」の意味なのではないか。

 即ち法興は本来の九州年号ではなく、多利思北弧が仏門に帰依してからの年数を示すもの、多利思北弧一人に属する仏教上の年期・年号といえよう。』

 とある。


 更に、私が要約するに、『「聖徳」も多利思北弧の太子「利(利歌弥多弗利)」が、多利思北弧同様仏門に帰依し法号を得ていた可能性が高く、それが、「聖徳」だったのではないか。「法興」・「聖徳」は法号である。なお、始哭は『二中歴』細注の記事断片が紛れ込んだもので年号とは疑わしい。』とされている。


米田良三氏と正木裕氏の説を強引かな合本するとどうなるか。

「倭国」帝王名歴の

倭薈:奈良帝(510~531)・延喜帝(533~553)・天慶帝(554~570)・天暦帝(571~590)・法興帝:桐壺帝(591~622)・朱雀帝(623~628)・聖徳帝:冷泉帝(629~634僧籍離脱:崩御646)・甘木王:常色・白雉王(647~661)・薩夜麻:白鳳王(661~684)・近畿天武天皇(685~686)・空位(687~689)・倭王高市(690~696)

ー倭国年号の「善記」建元以降の倭国全盛期・唐との白村江敗戦後の衰退期・プロト大化改新696での倭王高市の暗殺で滅亡した「倭国」帝王名歴が計らずも出来上がったことになるのだ。


『続・法隆寺は移築された(源氏物語は筑紫が舞台だ):米田良三著』p107に、


17.桐壺帝(=上宮王)・更衣(=千食王后)

 『源氏物語』は「いずれの御時にか」に始まるが、先に示した倭薈王死後の延喜帝・天慶帝・天暦帝・法興帝の存在が明らかになると、当時の読者はどの帝の話かは容易に理解できたことが推測できる。

 その時代に関わる記述は次の三つである(百地文子訳を用いる)。

①花宴の巻に左大臣が源氏に「多くの年齢を重ねてまいりまして、聖天子の御代四代にお仕え申し上げましたが」と話しかける場面がある。

②明石の巻に明石入道が源氏に「私は延喜の帝の御直伝を弾き伝えまして、三代目に至っておりますが」と説明する場面がある。

③絵合せの巻に朱雀院が「一年中のさまざまな節会の興味深い有様なのを、昔の名人がとりどりに描いたのに、延喜の帝が御手ずから行事の意味をお描きになったもの」を届ける場面がある。ー云々ー


①は源氏が20歳の時の話であり、法興30年に当る。延喜帝の末年に15歳で仕えていたとすると、この時左大臣は82歳である。

 また②の明石入道の説明も延喜帝没後67年が経過しており、3代目というのが理解できる。

 ②、③に現れる延喜帝の多彩さは『信貴山縁起絵巻』の隠れた主役である延喜帝と繋がる。…源氏物語は600年代前半が主な舞台である。


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(636) 『倭国年号「善記」建元以降の倭国全盛期・白村江敗戦後の衰退滅亡迄の歴代「倭国」帝王名が明らかになった』 2011年6月15日(水)

米田良三氏「倭薈:奈良帝・延喜帝・天慶帝・天暦帝」、正木裕氏「法興帝・聖徳帝」を倭国年号「善記」建元以降の倭国全盛期・白村江敗戦後の衰退滅亡迄の歴代「倭国」帝王名を
【九州年号・書紀天皇表】
へ追記


歴代「倭国」帝王名の

倭薈:奈良帝(510~531)・延喜帝(533~553)・天慶帝(554~570)・天暦帝(571~590)・法興帝:桐壺帝(591~622)・朱雀帝(623~628)・聖徳帝:冷泉帝(629~634僧籍離脱:崩御646)・甘木王:常色・白雉王(647~661)・薩夜麻:白鳳王(661~684)・近畿天武天皇(685~686)・空位(687~689)・倭王高市(690~696)

ー倭国年号の「善記」建元以降の倭国全盛期・唐との白村江敗戦後の衰退期・プロト大化改新696での倭王高市の暗殺で滅亡した歴代「倭国」帝王名が計らずも明らかになった。




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