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《 大和朝廷の 「はしり」 は、 「 難波朝廷 ( なにわのみかど=九州王朝「倭国」の難波複都 )」 に始まる 》  即ち、大和朝廷「日本国」 は、九州王朝「倭国」の 【 同じ血族・分流・分家 】 である。


大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 033 》



大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕

《 大和朝廷の 「はしり」 は、ここで言う 「難波朝廷(=九州王朝倭国の難波複都)」 に始まる。
  即ち、大和朝廷「日本国」は、九州王朝「倭国」【 同じ血族・分流 】 と分かった。 》



 白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国 長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
 日本書紀の〔 舒明 ・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・ 持統 〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
 倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権 の禅譲を受け をクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。


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2010年 4月 2日 発行




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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』


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(639) 『延喜の治909から「376」を引くと、延喜元年533となる。天暦の治947から「376」を引くと、天暦元年571となる』 2011年6月16日(木)


 米田良三氏「倭薈:奈良帝・延喜帝・天慶帝・天暦帝」、正木裕氏「法興帝・聖徳帝」を倭国年号「善記」建元以降の倭国全盛期・白村江敗戦後の衰退滅亡迄の歴代「倭国」帝王名を
【九州年号・書紀天皇表】
へ追記



 歴代「倭国」帝王名の  倭薈:奈良帝(510~531)・延喜帝(533~553)・天慶帝(554~570)・天暦帝(571~590)・法興帝:桐壺帝(591~622)・朱雀帝(623~628)・聖徳帝:冷泉帝(629~634僧籍離脱:崩御646)・甘木王:常色・白雉王(647~661)・薩夜麻:白鳳王(661~684)・近畿天武天皇(685~686)・空位(687~689)・倭王高市(690~696)

 ー倭国年号の「善記」建元以降の倭国全盛期・唐との白村江敗戦後の衰退期・プロト大化改新696での倭王高市の暗殺で滅亡した歴代「倭国」帝王名が計らずも明らかになった。


 さて、公表の
〔京都・平安時代の年表〕
をじっくり、見てみようか。 斜線の部分に【890寛平の治898】・【909延喜の治930】・(930天慶の治946)・【947949天暦の治967】とあります。


 一方、先の歴代「倭国」帝王名の 【倭薈:奈良帝(510~531)】・【延喜帝(533~553)】・天慶帝(554~570)】・【天暦帝(571~590)】・【法興帝:桐壺帝(591~622)】・【朱雀帝(623~628)】・【聖徳帝:冷泉帝(629~634僧籍離脱:崩御646)】と 較べて見よう。


 延喜の治909から「376」を引くと、延喜元年533となる。(この表には無いが、天慶の治930から「376」を引くと、天慶元年554となる。)天暦の治947949から「376」を引くと、天暦元年571となる。天暦の治末年967から「376」を引くと、法興元年591となる。

 以上は、先に紹介の『続・法隆寺は移築された(源氏物語は筑紫が舞台だ):米田良三著』同書p82に、

 『③慶尚南道から出土した金銅如来立像の銘文に「延嘉七年歳在巳未」とあり、韓国中央博物館は仏像の様式から539年とする。「延嘉」を高句麗の逸年号とするが、この時代朝鮮半島南岸は倭国の一部であり、倭国の年号「延喜」を誤って使ったことが考えられる。 誤って使ったと仮定すると、「延喜元年」は533年である。』

 と併せて【13.摂関政治の真相】の項に記載されているものです。ただボンクラの私目には肝心な定数「376」がどうして導かれたのか?分らないのですね。分る人居ますか?


 定数「376」は還暦の60x6=360でもない、端数が16となって良く分らん。いずれにしても、『源氏物語』は平安・摂関時代の京都をテーマにしていないで、定数「376」のそれから更に前の376年前の九州王朝「倭国」の都の大宰府をテーマにしてると分る。では、他の関連する古典はどうか?


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(640) 『人はいさ 心も知らず 古里は 花ぞ昔の 香ににほひける : 紀貫之 (百人一首35)』 2011年6月16日(木)


『続・法隆寺は移築された(源氏物語は筑紫が舞台だ):米田良三著』p186に、【4.紀貫之】項に、

『源氏物語』伊勢とともに名前があがる紀貫之の『百人一首』の歌は次だ。

【 人はいさ 心も知らず 古里は

 花ぞ昔の 香ににほひける : 紀貫之 (百人一首35) 】 


 この歌は貫之らが撰者となった『古今集』に収められる歌である。「千歌二十巻」の中に貫之の歌は九十九首あり、その中から定家によって選ばれた一首ということになる。


 『古今集』には詞書きが添えられる。

 『初瀬にまうづるごとに、やどりける人の家に、久しくやどらで、程へて後にいたれりければ、かの家のあるじ、「かくさだかになんやどりはある」と、言ひいだして侍りければ、そこにたてりける梅の花を折りてよめる』


 亭子院が求めた屏風絵「長恨歌」に伊勢・貫之が歌を添えたのは590年代と推定できる。

<途中略>

 この年代に貫之が詣でたのはもちろん奈良県の長谷寺ではなく、九州にあった隠国初瀬の御寺である。その時は、観音像が造られて80年近い時間が経過した初瀬であり、『源氏物語』玉鬘の巻の初瀬詣、『住吉物語』の中将の7日籠りと合わせ、初瀬信仰の様子を知ることが出来る。


 ところで、紀貫之といえば『土佐日記』が知られる。
 64歳で土佐の守の任が解けての船旅による帰京の際の紀行文であり、定説では934年12月21日に土佐の国府を出発し、室戸岬を回り、翌935年2月16日に京の我が家に到着したとされる。


 いっぽう、移築論の立場で『源氏物語』『伊勢集』『古今集』から導き出す帰京の年次は630年で、定説の305年前である。
 土佐の国府を出発し、定説とはは反対に足摺岬を回り、速吸瀬戸、周防灘、早鞆瀬戸、玄界灘(響き灘)を通り、博多(難波津)へ、そして堀江から御笠川(賀茂川)を上り京:大宰府へ帰った。


<途中略>

 廿日に記される月の出方は
〔高知県 室戸市の【 室津 】〕
ではありえない」。『宮廷歌人:紀貫之』を書かれた村瀬敏夫氏は(室津港の東方には標高85mの城床山が迫っていて、とても「海の中よりぞ出で来る」という情景ではない)と記している。

 片や、足摺岬廻りの
〔高知県 土佐清水市の【 津呂 】〕
であれば東方は海であり、問題は全て解決する。


 本来の紀貫之の自筆本には次のように書かれていたと思われる。

『山の端もなくて、海のなかよりぞ出でくる。こうようなるを見てや、
   みやこにてやまのはにみしつきなれど、
       なみよりいでてなみにこそいれ』


 もちろん私もだが…、紀貫之といえば『土佐日記』という紀行文を書いた、『64歳で土佐の守の任が解けての船旅により、934年12月21日に土佐の国府を出発』とまでに、細かく知らなくともだ。土佐の国府を出発し室戸岬を回り、国司なのに途中海賊にでくわしながら、京都に到着したと理解してた。


 繰返す、『米田氏は『源氏物語』『伊勢集』『古今集』から導き出す帰京の年次は630年で、定説の305年前である。土佐の国府を出発し、定説とは真反対に足摺岬を回り、速吸瀬戸、周防灘、早鞆瀬戸、玄界灘(響き灘)を通り、博多(難波津)へ、そして堀江から御笠川(賀茂川)を上り京:大宰府へ帰った』と言う。


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(641) 『かきくもり あやめも知らぬ大空に ありとほし をば思ふべしやは』 2011年6月17日(金)

『謎の新撰姓氏録:高橋良典著』p59に紀貫之の『貫之集』を挙げて、当時既に「アナグラム」を貫之が知っていたと言う。


 『かきくもり あやめも知らぬ大空に ありとほし をば思ふべしやは』


 ここには、紀貫之が京都から紀の国へ旅に出かけた帰り道に、「蟻通(アリツウズ⇒アリトホシ)の神」がかつて祭られていた神社の境内をそうとは知らずに乗馬姿で通りすぎようとして馬が倒れ、右のような和歌を献じて神の怒りを和らげた結果、ようやく馬の病気が治ったことが述べられている。


 問題は、このとき彼が「蟻通の神」に捧げたという和歌の内容である。

『空が真っ暗になって(かきくもり)どこに神がおられるかもわからないのに(あやめも知らぬ)、大空に「蟻通の星がある(ありとほし=ほしありと)」と誰が思うでしょうか_

 と紀貫之は歌っているが、読者はこの「蟻通=アリツウズの神」が、ギリシャ神話に登場する「蟻通=アリトホシの神」、ダイダロスのアナグラムになっている、とは夢にも思わないだろう。


 ところが、ところがである_
ダイダロスDadalosが少し訛ったタイヅルスTaizulusの文字の配列を変えてみるとどうか。タイヅルスはアリツウズAritsuzuとなって、日本の「蟻通の神」は、その昔、大空を飛び、蟻を使って貝にあけられた小さな穴にみごとに糸を通したといわれるギリシャのダイダロスだった、ということがわかるのである。


 ギリシャの名工ダイダロスは、クレータ王ミーノースのために地下の迷宮に閉じ込められ、ここで息子のイーカロスとともに飛行機械をつくってクレータの迷宮を脱出した。
 そしてイタリアのシシリー島にひっそりと身を隠していたところ、クレータ王ミーノースは彼の行方を捜すために四方八方に小さな穴のあいた巻貝をもってゆき、この貝に糸を通した者には莫大な賞金をあたえると約束した。
 これを聞いたダイダロスはもちまえの天才ぶりを発揮し、蟻に糸を結びつけてこの貝の穴に糸を通したが、こんなことができるのはダイダロス以外にはいない、ということでミーノースに隠れ家をみつけられてしまった。


 このようなギリシャの伝説を紀貫之が知らないで、どうして彼が「蟻通の神」は大空にいますやと歌えただろうか。なぜ、蟻通しの名工ダイダロスのアナグラムがアリツウズ=蟻通の神になるだろうか。


 紀貫之のこの歌にいたく感動した清少納言は、『枕草子』にこう書いている。

『「蟻通の明神」。貫之が馬のわづらひけるに、この明神のやませ給ふとて、歌よみて奉りけるに、やめ給ひけん、いとおかし。』

…云々、と書いている。と言うことは、紀貫之は清少納言の年配・先輩か、同輩かと言うことだ。


 今見たように『謎の新撰姓氏録:高橋良典著』p59に紀貫之の『貫之集』を挙げて、当時既に「アナグラム」を貫之が知っていた。だからこそ、彼は「蟻通の神」は大空にいますやと歌い、蟻通しの名工ダイダロスをアナグラムでアリツウズ=蟻通の神とした。清少納言も『枕草子』でそれを知り讃えている。


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(642) 『「源氏物語」薄雲の巻は源氏32歳632年、突如太政大臣、次に式部卿の死が語られ、冷泉帝が嘆かれる』 2011年6月18日(土)

 大陸では、この当の隋がこのすぐ10年後の618年滅亡し、その版図はそっくり唐に引継がれる。632舒明4仁王10年、冷泉帝:聖徳帝4年、唐刺史高表仁が倭国に到来する。米田良三氏は『源氏物語』によれば、この時冊封関係を強いる「唐使・高表仁」によって、太政大臣・式部卿が殺されたと言う。


 〔 法隆寺移築説の原点である観世音寺・考 : 米田良三 論 〕
の頁中段にある記事を抜粋転載する。


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『源氏物語』薄雲の巻は源氏三十二歳の年、632年のお正月の様子の記述の後、突如太政大臣の死が語られ、次に式部卿の死が語られ、世の中の騒がしいことを(冷泉)帝が嘆かれる。


 『旧唐書』倭国日本伝には、次のように記されます。

 貞観五(631)年、使を遣わして方物を献ず。
 太宗其の道の遠きを矜(あわ)れみ、所司に勅して歳ごとに貢せしむるなし。
 また新州の刺史(しし)高表仁を遣わし、節を持して往いて之を撫せしむ。
 表仁、綏遠(すいえん)の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣(の)べずして還(かえ)る。

 631年に最初の遣唐使が送られます(『日本書紀』は630年とする)。
 刺史高表仁が日本に遣わされたのは632年(『日本書紀』)です。
 『源氏物語』には太政大臣と式部卿が亡くなったことが記されますが、さらに二十六歳の弾正尹(だんじやうのいん)(現在の警察庁長官)為尊(ためたか)親王も亡くなる事件でした。

 このことは『源氏物語』と『和泉式部日記』から明らかになります。
 唐からの一団は冊封関係を強いる使いであったため、王子である為尊親王は拒否をし、高表仁と言い争いになり、切られてしまいます。
 傍にいた太政大臣(現在の総理大臣)と式部卿(現在の外務大臣)も巻き添えを食うことになります。
 事件は博多駅辺にあった高津の宮に唐の使節を迎えての会談の場で起こったと考えられます。
 強大な国家唐が意図して起こしたと考えられる外交事件です。
 十四歳の冷泉帝を補佐する最高権力者である三十二歳の源氏は、三十六歳の唐の太宗の意図を外し、「表仁、綏遠の才無く、王子と礼を争い、朝命を宣べずして還る」という形でこの事件を処理したものと思われます。

この時の緊張感は『和泉式部日記』にも記されており、632 633 年5月5日のことと分かります。

 帥(そち)の宮の侍従の乳母(めのと)が、和泉式部のところに出かけようとする帥の宮に小言をいう場面があり、その中で次のように言う。

 世の中は今日明日とも知らず変わりぬべかめるを、殿のおぼしきつることもあるを、世の中御覧じはつるまでは、かゝる御歩きなくてこそおはしまさめ

 (現代語訳)最近の政情は今日明日と関係なく変ってゆくに違いないのですから、殿が御計画を立てておかれたこともあるように、政情の変化の結果が見極められるまではこのような御歩きをなさらないでいなさい


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(643) 『甘木王は附庸王国の連邦制を止め、長門以東を天下立評・難波副都の建設等、矢継ぎ早に常色の改革を強行する』 2011年6月18日(土)

 「隋書」俀国伝中に、  『明年(大業4年:608年:推古16年)、上、文林郎裴清を遣わして俀国に使いせしむ。百済を渡り、行きて竹島に至り、南に聃羅を望み、都斯麻国を経、迥かに大海の中に在り。又東して一支国に至り、又竹斯国(=筑紫・九州島)に至り、又東して秦王国に至る。  其の人華夏に同じ。以って夷州と為すも、疑うらくは明らかにする能わざるなり。又十余国を経て海岸(=九十九里浜海岸)に達す。竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す。』


 『明年(大業4年:608年:推古16年)、上、文林郎裴清を遣わして俀国に使いせしむ』隋使が派遣された608年は
九州年号「光充4年」法興帝18年
で、前年に法隆寺が創建され、光源氏8才の時である。


 608年時点で隋使「文林郎裴清」率いる一行が見たであろう俀国は『竹斯国より以東は、皆な俀に附庸す。』とあるように、倭国は九州(筑紫島)を直轄地・本拠に・出雲・加賀・吉備・『秦国』・尾張・毛野(常陸)・任那等を従えた連邦国家だった。更に各附庸王国は自治を許されていた。と考えられる。


 この『隋書・俀国伝』中に記載の国名の『俀国』『秦国』が、あら、不思議^^文部省が正史とする『日本書紀』には、これまた一箇所たりとも記載されていないのだ。果ては、この『隋書・俀国伝』は虚偽が記載されている、と反論に会うから始末に終えない。『俀国』『秦国』は、さてどこにあったか?だ。


 『隋書・俀国伝』に記載の『俀国』『秦国』は、間違いなく608年時点で日本列島に存在したと考える。この隋書でいう秦王国こそが飛鳥・葛城地方の『秦国』王家であり、蘇我氏であろう。更に、白鳳地震で倒壊の掘立柱構造の飛鳥寺・四天王寺・川原寺・山田寺は『秦国』を代表する寺社・仏閣であろう。


 大陸では、この当の隋がこのすぐ10年後の618年滅亡し、その版図はそっくり唐に引継がれる。632舒明4仁王10年、冷泉帝:聖徳帝4年、唐刺史高表仁が倭国に到来する。米田良三氏は『源氏物語』によれば、この時冊封関係を強いる「唐使・高表仁」によって、太政大臣・式部卿が殺されたと言う。


  〔 法隆寺移築説の原点である観世音寺・考 : 米田良三 論 〕
の頁中段にある記事を抜粋転載する。

 『源氏物語』薄雲の巻は源氏三十二歳の年、632年のお正月の様子の記述の後、突如太政大臣の死が語られ、次に式部卿の死が語られ、世の中の騒がしいことを(冷泉)帝が嘆かれる。


 (645年乙巳:命長6:冷泉帝17年)この年、唐太宗が高句麗を攻撃開始。この開戦を契機に倭国は冷泉帝が退位。(647年丁未:常色元年:甘木王元年)甘木「常色王」即位する。甘木王は先に見た附庸王国の連邦制を止め、長門以東を天下立評・難波副都の建設等、矢継ぎ早に常色の改革を強行する。


 隣国新羅では647年6月「ひどんの乱」が起こっています。『日本書紀』が「696年高市薨去とのみ記す、藤原京で倭王暗殺クーデター事件」を、この「ひどんの乱」をコピーし、50年前の645年「乙巳の変」、646年「大化改新」をでっち上げ、肝心な「常色改革」・「天下立評」には一言も触れていない。


 この「天下立評」とはどんなものだったのか、長門以東の出雲・加賀・吉備・『秦国』・尾張・毛野(常陸)のど真ん中に出先機関の複都・灘波京を築き、各附庸王国の自治権を取り上げ、直接、「評制を施行」し中央集権化、今で言う「富国強兵」を計ったのだ。言うまでもなく、唐の侵略に対抗するためだ。


 天下立評の目処が付き、灘波複都が完成し、大宰府と灘波複都を繋ぐ幅員10mを越す「山陽大路」も同時に完成したこの時、九州年号白雉元年652年「白雉改元儀式」が大々的に挙行された。これ以降「天下立評」の立役者:伊勢王が灘波京へ常駐。この倭国弟王家の伊勢王こそ大和朝廷の開祖だと考える。


 私の「皇極・孝徳・斉明・天智・天武」の和風諡号に「天□□」を持つ5代が九州王朝倭国の分家・弟王家の出身であり、大和王朝「日本国」の前身ということだが、「伊勢王」が「皇極、孝徳、斉明」の1人3役ということからして「伊勢王・天智・天武」の3代が、本来のプロト大和朝廷ということになる。


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(644) 『新羅金春秋(のちの武烈王)が「唐国・新羅・秦国の東西枢軸」参入勧誘の為に『秦国』へ赴いた』 2011年6月19日(日)

 書紀推古16年(608年)〔ここに天皇『唐帝』を聘ふ。その辞に曰く「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す。使人鴻臚等の掌客裴世清等至りて久しき億ひ方に解けぬ。李秋薄冷尊如何に想ひ清悆此れ即ち常の如し。今大礼蘇因高・大礼乎那利等を遣わして往かしむ謹白具ならず」〕これは『秦国』の記事では?


 書紀推古16年(608年)『ここに天皇『唐帝』を聘ふ。云々』⇒これは、若しこの608年が正しい年次ならば、『唐帝』でなく『隋帝』であるはず、何故なら618年で隋は滅亡するからで、むしろ隋の最盛期なのだ。一方、『唐帝』が正しいならば、年次を、1干支分わざとずらしてるのかもしれない。


 書紀632年(舒明4年10月4日)〔高表仁に告げて「天子の命じた使が、天皇の朝廷に到来したと聞き迎えます」といった。高表仁 が答えて「風の寒い日に、船を飾り整えて迎えを賜い、歓びまた恐縮しています」といった。〕 この時の朝廷とは『秦国』であり、この時唐国と同盟の誼を結んだだろう。


【書紀632年(舒明4年10月4日)高表仁が答えて「風の寒い日に、船を飾り整えて迎えを賜い、歓びまた恐縮しています」⇒秦国】
 一方【『和泉式部日記633年5月5日』唐派遣団は冊封関係を強いる使いであった為、王子の為尊親王は拒否をし高表仁と言い争いになり切られてしまいます。⇒倭国】


 日本書紀647年(孝徳3年:常色元年)〔この歳、新羅が大臣大阿飡金春秋(のちの武烈王)らを遣わして、博士で小徳の高向黒麻呂、小山中の中臣連押熊を送ってきて、孔雀一羽、鸚鵡一羽を献上した。そこで春秋を人質とした。春秋は姿や顔が美しくよく談笑した。〕

 この647年は、新羅で正月毘曇が反乱を起こし、金春秋・金庚信が誅殺したいわゆる「毘曇の乱」と同年である。そんな余裕が金春秋にあったか疑わしいが、金春秋は新羅で647年正月「毘曇の乱」を収め、すぐその足で来たことになる。

 来たのは倭国か、秦国かということだが、「唐国・新羅・秦国の東西枢軸」への参入勧誘・交渉の為に唐の内意を受けて、『秦国』へ自ら赴いて来たというのが正解だろう。


 隋・唐がしつこく高句麗の侵略を繰り返し、やがては百済・倭国へとその矛先が向いてくると予想した九州王朝倭国は〔造複都難波京の詔:649年10月〕を発して難波宮に拠点(副都)を設け天下立評・『秦国』王家の蘇我氏の排除を計画・実行した。

 その際、「両京制」「兄弟王朝制」倭国は即断即決の為、王家を大宰府兄王家と難波副都弟王家に分担した。当初倭王は大宰府倭京と、副都・難波京を数度往復したであろうが、その後は、難波京に王家分家の弟王家が常駐することになったであろう。


 当然、唐は高句麗を屈服させた後に、半島を陸路で百済へ侵入すると想定してたはず、しかし、唐は山東半島から直接海路侵入してきた。百済は思わぬ侵略にあわてたことだろう。660年百済は壊滅した。
 その前の659年、倭国・ 日本国 秦国 の遣唐使が喧嘩・拘束されたのはその計画を本国に察知させない為だろう。


 「冊府元亀」に『(顕慶4年:659:高宗)10月、蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す』とある、蝦夷国人は大宰府倭国の使とともに入唐したのである。
 この記事に何故拘(こだわ)るかと言えば半島や唐との関係悪化に備えて、九州王朝倭国が「難波副都」を基点に更に東方の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化し後塵の憂いを除く、のも一つ目的だったとすれば、蝦夷国が倭国の使に随いて入朝は難波副都倭弟王家の成果である。
 と同時に、難波副都倭弟王家はこの時点では大宰府兄王家に従たる存在だったと分かります。


 倭国が難波副都で652年「天下立評」して以降、倭国は『秦国』王家の蘇我氏の取込みができなかったようで、660年百済壊滅の直前の659年、倭国・ 日本国 秦国 の遣唐使が喧嘩・拘束記事につながったのだろう。
 この時の「日本国」とは、唐国・新羅に唆(そその)かされて同盟・遣使の『秦国』で、この王家が蘇我氏だと考えると、白村江の戦い前後まで蘇我氏は健在で、難波副都倭弟王家の天智天皇は『秦国』のブロックのため白村江に出兵できなかった。
 否この時蘇我氏を打倒したのかもしれないが、その後に少なくとも滅ぼされたことになる。

 飛鳥寺・四天王寺・川原寺・山田寺は『秦国』を代表する寺社・仏閣である。白鳳地震の後どうも捨て置かれたみたいで発掘調査で塀が倒れたままの状態とかで発見されている。『秦国』王家の蘇我氏がこの時点で滅亡していたと考えられる。確かに壬申乱以降、日本書紀に蘇我氏の名前が出て来ない。


 (なおここで注意したいのは、日本書紀は大宝元年 『日本国』 が成立以降、倭附庸国『秦国』と隋・唐の密使との外交秘史が、隋・唐の中国外交正史書に記載無いことを良いことに、『秦国』を 『日本国』 へ書き換えたものと推測できることである。)


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(645) 『米田氏は【扶桑国から日本国に国名を変え、大和朝廷がその後の日本を統治】と書くが、「扶桑国」とは何か?』 2011年6月20日(月)

 米田良三氏は
 〔 法隆寺移築説の原点である観世音寺・考 : 米田良三 論 〕
の最末尾に

 【『旧唐書』に記されるように703年大和朝廷の遣唐使が「日本国」を自称します。扶桑国から日本国に国名を変え、大和朝廷がその後の日本を統治し、現代に至っています】

 と書かかれているが、この氏の言う「扶桑国」とはいったい何なのか?


 『続・法隆寺は移築された(源氏物語は筑紫が舞台だ):米田良三著』p15に、筑紫が都である倭国は、672年に近畿地方の扶桑国に滅ぼされるのだが、その時点で扶桑国には掘立柱系の寺院建築が多数建っていた。一方扶桑国以外の日本国はすでに伝統的日本建築が造られていた。

 そして、678年(⇒684年のはず)に土佐沖を震源とする白鳳地震が起こる。恐らくマグニチュード9の巨大地震と思われる。扶桑国の掘立柱建物がことごとく壊れ、復興のために伝統的日本建築が九州から解体移築される。結果技術がかわり、掘立柱建物は姿を消す。』

 更に同書p16には、『飛鳥時代の奈良周辺は扶桑国とよばれる国であった。

 更に同書p42には、『日本書紀』672年の壬申の乱の記述は、裏に倭国滅亡を含んでいるものと考えられる。倭国の滅亡は672年をおいてない。以上が移築説の骨子である。』


 米田良三氏の「扶桑国」とはいったい何なのか?
私が米田氏の著書をざっと見しても、その国名「扶桑国」表記の史書出典根拠は「宋書」・「梁書」・「山海経」らしいが、具体的にその由来を断定されてはいない模様だ。

 なお、ネットで検索すると以下の頁がヒットする。
〔扶桑国とは何か〕《魚拓》
〔太陽の母国、扶桑国日本〕《魚拓》
〔日本史の誕生―通説を疑う―〕《魚拓》


 米田氏の引用の「山海経」は分ったような・分らないような文章表現で、煙に巻かれるが…。

 『扶桑国から日本国に国名を変え…』は『列島合体から倭国を論ず:米田良三著』
p52『下に湯のわく谷あり、湯の谷の上に扶桑あり、ここは十個の太陽が湯浴みするところ』とあり、

 更に、要約『「扶桑の木」が生えた断崖の下に湯源の谷があり、ここは十個の太陽が湯浴みするところ。1個の太陽がやってくると、1個の太陽が出てゆく。太陽はみんな鳥を載せている』
p53『現在中部・関東地方の神社に伝わるオビシャという祭りの原型と思われる「太陽と鳥」が記される。』⇒『これは隋書の「日出ずるところ」の淵源となった。』からのようだ。


 米田氏の【扶桑国】は、どうも私の想定する【秦国】と同じようだ。では、まったく同じかと言うとそうでもない。私の【秦国】は九州王朝【倭国】が天下立評後、複都:灘波京に常駐の倭国弟王家の伊勢王、中大兄皇子、大海人皇子に白村江前後に解体され、【秦国】が【日本国】になったのではないと想定している。


 新羅の旧名は辰韓・秦韓であり【秦国】と同じである。【秦国】は秦韓からの渡来人が作った国だったのではないだろうか?先に『新羅金春秋(のちの武烈王)は、「倭国」の背後を脅かす「唐国・新羅・秦国の東西枢軸」への参入勧誘の為に唐の内意を受けて『秦国』へ自ら赴いた』がご理解戴けましょうか?


 百済が唐に破れ滅亡したのは、660年(斉明6白雉9)である。その翌年661年(斉明7白鳳元年)倭国甘木王が崩御、前後して灘波副都伊勢王崩御、白鳳王薩夜麻が即位する。古田武彦氏が「狩猟の途次に没した」とする「常色改革」を断行の甘木王は、半島への出兵をセーブしてたのではないだろうか?


 古田武彦氏が「狩猟の途次に没した」とする「常色改革」を断行の甘木王は、半島への出兵をセーブしてたのではないだろうか?詳しく「狩猟の途次に没した」状況を知りたいものだが…分らない。ただ狩猟で怪我をする事はあっても亡くなるとなると、狩猟に託けて暗殺されたとしか考えられないのだ。


 滅亡前から百済救援の督促は矢継ぎ早だっただろう。その後も千食王后系の百済シンパは百済復活戦を画策したはずだ。百済最後の義慈王の王子の扶余豊璋は倭国の人質だった為に難を逃れたともいえるが甘木王を「狩猟の途次」暗殺し、若い決起にはやる薩夜麻をまんまと百済復活戦に連れ出したものだろう。


 豊璋の百済復活戦に連れ出された若く血気に逸る薩夜麻は、即位、「白鳳」改元、遠征軍を募っただろう。が、倭国の灘波副都にいたはずの軍隊は『日本書紀』の陣ブレを見る限り、百済復活戦へ参加していない。亡き甘木王に止められていたと思うほか無い。出兵に応じたのは遠く関東の上毛野君稚子である。


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(646) 『そうだ、私がいくら「天下立評」とは、倭国の全てが「評制施行」されたことだ。と言っても何それーッ?て』 2011年6月20日(月)

 隋・唐がしつこく高句麗の侵略を繰り返し、やがては百済・倭国へとその矛先が向いてくると予想した九州王朝倭国の「天帰王(あまぎ・甘木)」が正木裕氏の言う「常色の改革」を推し進める一環として、「天下立評」があり、造複都「難波京」の建設詔649年10月が発せられ、652年「難波京」完成を祝って「白雉改元儀式」が大々的に挙行された。

 すなわち、本州・四国地区においても「都督と評督」制が採用された。「天下立評」とは、天下(=本州・四国地区)の立評(=評制施行)である。さらに、「天下立評」は「難波京」に常駐の九州王朝「倭国」の分家「難波副都倭弟王家」の一任で実施された。


 そうだ、私がいくら「天下立評」とは、倭国の全てが「評制施行」されたことだ。と言っても何それーッ?て、受け取られているのかもしれないな^^学校では「乙巳の変:645」で中大兄皇子が中臣鎌足と計らって蘇我入鹿を討ち「大化の改新:646年」で建郡(=郡制施行)したと習っているのだから。


 『日本書紀』を読む限り、大化の改新で「郡制が施行:646年」されたとしか読めないのだが、遺跡から発掘される「木簡(=木に墨で書かれた荷札)」で「○○郡」とあるのは、701年以降の年次に書かれたもので、700年以前は全て「□□評」と分った。「廃評建郡」されたのが701年だと分った。


 倭王高市が大宰府から灘波京・浄御原・藤原京と遷都し、実際には「大化」と改元と同時に696年発詔の「廃評建郡(=大化の改新)」だった。696年7月10日、後皇子尊(=高市皇子:倭王)が(暗殺されて)薨じた。この事件を元に新羅「ひどんの乱」を参考に「乙巳の変」はでっち上げられたのだ。


 以下は古田史学の会の古賀達也氏の洛中洛外日記
『第196話 2007/11/16
「大化改新詔」50年移動の理由』

のそっくり転載です。
 「難波朝廷天下立評給時」 記事から倭国史改編手法のひとつ 「50年前移動」  が明らかになって、ようやく、
 ・『郡評論争』
・『大化改新詔』
『九州王朝難波副都説』 がみえてきました。

—————〔「大化改新詔」50年移動の理由〕—————
 『延暦23年(804)に成立した伊勢神宮の文書 『皇太神宮儀式帳』 の 
「難波朝廷天下立評給時」
 という記事から、それは 「難波朝廷」 の頃というだけではなく、前期難波宮九州王朝副都説の成立により、文字通り九州王朝難波副都で施行された制度と理解できます。<以下略>


 その記事本文を
〔古代史獺祭〕
より借用転載します。

一 初神郡度會多氣飯野三箇郡本記行事
右従纏向殊城朝廷以來 至于難波長柄豐前宮御宇天萬豐日天皇御世 有爾鳥墓村造神庤弖 爲雑神政行仕奉支 而難波朝廷天下立評給時仁 <略>


 本文に【而難波朝廷天下立評給時仁】を含む、伊勢神宮の文書『皇太神宮儀式帳』は実に貴重な「文書」であると言えます。大和朝廷が抹殺した『倭国』『秦国』『九州年号』『阿弥陀佛』『天下立評』『源氏物語・住吉物語・枕草子・土佐日記・和泉式部日記他の九州王朝時各種古典』等と実に膨大な量です。


 九州王朝「倭国」の甘木王が「常色の改革」の一環として断行した「天下立評の評制施行の詔」の内容が本当はどうだったのか知りたいところですが、例によって抹殺されてて分りません。

 696年「廃評建郡の大化改新」は、「天下立評の評制施行」を改訂したものと想定できますので、定説が主張する
【大化改新の詔】
を覗いてみましょうか。

①.従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉、そして臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘を廃止する。

②.初めて京師を定め、畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬の制度を設置し、駅鈴・契を作成し、国郡の境界を設定することとする。

③.初めて戸籍・計帳・班田収授法を策定することとする。

④.旧来の税制・労役を廃止して、新たな租税制度(田の調)を策定することとする。


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(647) 『「筑紫が都である倭国は、672年に近畿地方の扶桑国に滅ぼされる、云々」について、私説で検討しょう』 2011年6月21日(火)

『続・法隆寺は移築された(源氏物語は筑紫が舞台だ):米田良三著』p15に、

『筑紫が都である倭国は、672年に近畿地方の扶桑国に滅ぼされる、云々』について、私説で検討しょう。


 倭国の灘波副都に常駐して、「天下立評」を弟王家の伊勢王・中大兄皇子・大海人皇子の父子は洲柔・白村江に参加せず『秦国』の「唐・新羅・秦国の東西同盟」の動きを監視・牽制・懐柔・解体を進めただろう。伊勢王が百済滅亡後、倭国甘木王と同時期に亡くなり、跡を継いだ灘波弟王家は白村江戦へは亡き甘木王の遺言通り出征しなかったものと考える。


 洲柔戦で倭王薩夜麻が行方知れずになり、更に白村江敗戦が伝わると、長門以東を中大兄皇子が唐の占領進駐を防衛。

 大海人皇子は九州へとって返し、薩夜麻の皇子の高市皇子と協力し九州筑紫を守備・防衛に当たったものと考える。為に、唐の百済占領軍はすぐには手出し出来なかった。


 漸く、薩夜麻が唐の捕虜になってると分り、更に薩夜麻からの無駄な抵抗はしないようにという書簡が届くと、大宰府の降伏・開城が決まったものと考える。唐は大宰府を筑紫都督府と改名し筑紫を占領する。


666年:唐の高宗が麟徳三年正月、泰山で封禅の儀。倭王薩夜麻も参列。

667年:一方、長門以東の中大兄皇子は守備・防衛を堅くし、都を灘波副都から近江京へ遷都する。筑紫都督府の唐軍が瀬戸内海を進撃すると灘波副都では防衛できないとの判断だろう。
長門以東の独立を決意し、中大兄皇子が天智天皇に即位する。

668年:高句麗が滅亡する。同年天智近江朝は隣国新羅へ休戦協定の使節を派遣する(新羅本紀に「阿麻(=近江朝の仮名)来服」)。

669年:唐が郭務悰他2千人を筑紫都督府へ派遣。

670年:天智天皇の近江朝が「倭国」更えて「日本」号す。

671年:天智天皇崩御。

671年:倭国白鳳王薩夜麻が唐から解放されて帰国。

672年:壬申大乱・天智近江朝滅亡・倭国再統一・筑紫小郡浄御原宮で白鳳王復位。

 壬申大乱は九州王朝「倭国」の再統合戦である。

 白鳳倭王薩夜麻が洲柔敗戦で行方不明。その後捕虜になってたと分り、大宰府は無血開城し、唐の占領下におかれ筑紫都督府と呼ばれた。

 一方、倭国の「天下立評」で灘波副都に常駐の中大兄皇子は、唐占領軍に抵抗、近江京へ遷都、天智天皇に即位、長門以東を「日本国」として独立させた。

 唐は百済・高句麗を滅亡させて、派遣軍の厭戦気分からも撤兵を計画した。倭国征服戦が天智近江朝の抵抗で長期・硬直化したのを受けて奇策を計画。薩夜麻を解放・帰国させ、薩夜麻に倭王白鳳王を復位させ、九州と長門以東天智近江朝「日本国」の再統合をさせたのだ。

 元々天智近江朝の独立は唐占領軍に対してであり、倭王薩夜麻に対してではなかったので、再統合戦に抵抗という抵抗は無かっただろう。

 唐は薩夜麻を「あやつる」ことで九州王朝「倭国」を傀儡化した。壬申乱後「遣唐使」の派遣が無いと言う、これは唐にとって倭国は既に属領地だから記録しなかっただけだろう。


673年:倭国で復位の白鳳王が大嘗祭。

676年:新羅が朝鮮半島を統一。

678年:倭国で筑紫大地震。

683年:倭国の丹比真人嶋「三つ足の雀」をプロト大和へ貢上。

684年:白鳳地震、白鳳王崩御、大宰府⇒難波京遷都「朱雀」改元。白鳳地震は684年10月14日午後8時とある。白鳳改元は661年であるから薩夜麻が即位して洲柔戦以降唐拘留中(空位)も続き、実に23年の長きに亘る。白鳳地震と誰が呼んだか知れないがこの時薩夜麻は生きていた事になる。


686年:難波宮焼失で浄御原宮再遷都改元、天武大海人崩御。

686年:1月14日難波宮焼失で、7月20日浄御原宮へ再遷都「朱鳥」改元。この浄御原宮は九州小郡井上にもあったと言うから、大海人の宮だったのを一時借り受けたのだろう。この時「倭国筑紫系官僚」と、倭国「灘波(プロト大和)系官僚」が同居を通じて協力・共存し次の大和朝廷の素地になった。

686年:9月9日大海人皇子の天渟中原瀛「真人」の天武天皇が崩御。684年薩夜麻が亡くなって、大海人は薩夜麻の遺言通り禅譲され、倭王「朱雀」王に即位。
〔天武天皇は二人いた(日出島哲雄著)〕


690年:高市天皇即位。

691年:高市天皇大嘗祭。

694年:12月6日浄御原京⇒藤原京遷都。

695年:藤原京遷都で「大化」改元。
695年:8月5日東国の国司を任命、国司に詔す。

696年:春正月1日「廃評建郡の大化改新の詔」を宣した。
696年:7月10日後皇子尊(高市皇子)が薨じた。
 (⇒倭王高市暗殺、倭国滅亡。⇒645年:6月12日乙巳の変へ。)
 なのだが、倭王高市は大和朝廷側に不利益な東国・国司を任命、国司に詔し、更に大化改新の詔したから殺されたのだ。


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(648) 『みんな、「天下立評」の見えざる、物凄いインパクトに気付いていないだけなのだ』 2011年6月22日(水)

 米田良三氏は『筑紫が都である倭国は、672年に近畿地方の扶桑国に滅ぼされる、云々』と書かれているが、倭国の灘波副都が「天下立評」を梃子に、長門以東の『秦国(≒扶桑国)』をふくむ隋書で言う附庸王国を解体し、白村江敗戦後天智近江朝として、倭国から独立。阿麻(=天)⇒日本国と名のる。


 668年:高句麗が滅亡したので唐は長期派遣軍の厭戦気分もあって、兵の撤収に入ったと考える。天智近江朝の抗戦で硬直化した倭国の占領の奇策が、捕らえていた倭王薩夜麻の解放・帰国である。672年:壬申大乱・天智近江朝滅亡・倭国再統一・白鳳王薩夜麻復位。696年:倭王高市暗殺、倭国滅亡。


 大化の改新は新羅「毘曇の乱」をコピーしてでっち上げている。だから先に、「乙巳の変」の蘇我入鹿の暗殺があって、東国・国司の任命、国司への詔。大化の改新の詔と続く。
 が元々の「プロト大化改新」は最後に倭王・高市の暗殺、結果的に倭国の滅亡となる。

 倭国甘木王が灘波副都常駐の伊勢王に長門以東「天下立評」を一任で委嘱した。その跡を継いだ、中大兄皇子、大海人皇子らは評制の施行・確立・維持で並々ならぬ苦難紆余曲折があった筈。

 そこへ、よそ者の倭王高市が乗り込んで、イチャモン付けて来たのだ。本家筋の筑紫倭王高市に言わせれば、俺達は唐へ戦後賠償金支払いで大変なのに、灘波副都の天下立評は思うが侭の闇カルテルになっているのじゃないか。なんとこんなにひどいとは、てんで、「廃評建郡」することにした。

 天下立評の詔の条文が無く比べようも無いが、「廃評建郡」の大化改新はプロト大和朝廷側にはとても受け入れられない内容だったのだろう。筑紫系の同情者と共謀し暗殺したのだ。


みんな、「天下立評」の見えざる、物凄いインパクトに気付いていないだけなのだ。


 そもそも「天下立評」とは何ぞや?偽書たる『日本書紀』は無防備に読んでも分らない^^ように編集されてる。
【白雉年間の難波副都建設と評制の創設について】
をともかく読む!


『日本書紀』の偽書ぶりを紹介します。以下は同記事の抜粋です。

【伊勢王は孝徳期白雉改元記事に登場】

 私は六月の同会総会で「日本書紀の編集と九州年号」と題して、天武・持統紀には三四年遡上した記事が散見され、これは九州年号を基にした史書・史料(従って九州王朝の史書)からの切り貼りである事等を指摘させていただいた。

 この観点からすれば、伊勢王は書紀白雉元年に改元の輿を担いだ人物だし、羽田公八国・多臣品治・中臣連大嶋らは天武末から持統期の「三四年遡上」領域にしか登場しない。従って彼等はセットで白雉期すなわち難波長柄豊前宮時代の人物だという可能性が高いと思われる。(「冠位」は後世の追記となろう。例えば羽田公八国の大錦下は「朱鳥元年の直大参とあわない(岩波注)」とされる。)

 そこで書紀におけるこれら伊勢王関連記事を三四年遡上させてみると
(1) 天武一二年(六八三年)→大化五年(六四九年)
(2) 天武一三年(六八四年)→白雉元年(六五〇年)
(3) 天武一四年(六八五年)→白雉二年(六五一年)
となり、次の伊勢王の白雉改元譚(古賀説では白雉三年・九州年号白雉元年)と見事に連続する。
(4) 白雉元年(六五〇年)→白雉三年(六五二年)
 二月庚午朔(略)甲申(一五日)(略)
 伊勢王・三国公麻呂・倉臣小屎、輿の後頭を執き、御座の前に置く。
(5) 朱鳥元年(六八六年)→白雉三年(六五二年)
 朱鳥元年春正月壬寅朔(略)伊勢王亦実を得。


【立評の「己酉」年は「諸国境堺限分」の三四年前】

 そして伊勢王等が、天下巡行し諸国の境界を定めようとした、「天武一二年」を三四年遡上した六四九年こそ、古賀氏の示されたように「神宮雑例集一伊勢国神郡八郡事」に「飯野多気渡会評也」とあり、同時に「己酉の年を以て始めて度会郡を立つ」とある己酉(六四九年)にあたるのだ。同書頭注には「評ハ郡ノ誤。評ハ郡ノ俗字也」とあることから、伊勢国渡会評がこの年にできた事を示すと考えられる。

 また同史料にある「伊勢国」について、翌天武一三年(従って白雉元年六五〇年)に恩賞が与えられている事は、「評」制や任官がこれら地域に先行して施行され、これに伴い恩賞が与えられたと見れば無理なく理解できる。「然是年、不堪限」とあるのは六四九年段階では東国全体にまで施行することが出来なかった事を示しているのではないか。

 そして六五〇年に東国にも施行を終え(「遣伊勢王等、定諸国堺」)その結果が翌六五一年の東国「諸国有位人」への恩賞となったのだろう。(「東国に施行」とは、天武一四年(六五一年)に「伊勢王等、亦東国に向る」とある事から読み取れる。また「諸国有位人」と官職名を記さなかったのは、評制に伴う「評督・助督」等新任官者の官職名を隠したのではないか。)

 そうです、『日本書紀』の白村江以降の記事には、34年前の記事が混ざっているのですね。


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(649) 『薩夜麻とは明日香皇子であり倭国の白鳳王である。更に「壬申大乱」直前に唐から捕虜解放・帰国した』 2011年6月23日(木)

『薩夜麻とは明日香皇子であり倭国の白鳳王である。更に「壬申大乱」直前に唐から捕虜解放・帰国した』と最低理解してないと分らない。
【明日香皇子の出征と書紀・万葉の分岐点】


 米田良三氏は『筑紫が都である倭国は、672年に近畿地方の扶桑国に滅ぼされる、云々』と書かれているが、『薩夜麻は明日香皇子で倭国白鳳王だ。更に「壬申大乱」直前唐から捕虜解放・帰国した』と理解されていないのではないだろうか?「壬申大乱」とは倭国再統合戦であり、白鳳王薩夜麻が復位したのだ。


 九州年号「白鳳」は、百済復活戦前の661年から684年の白鳳地震迄、実に23年間の長きに亘るのだ。洲柔戦で捕われ解放される壬申乱672年迄の間は空位だったと考えられる。
参照:
【九州年号・書紀天皇表】


 米田良三氏は、その著書でp80『大国と小国の関係は、現在のアメリカと日本では、太平洋戦争で無条件降伏をしたことで全てアメリカの言いなりであるように、唐との関係では、日本は、倭国の滅亡に関しての密約を守る以外になかったようだ。恐らく密約は以下の内容であったと思われる。』要約される。

 【阿弥陀(倭薈、奈良帝)の信仰の排除。阿弥陀信仰は中国で完成したものとする。倭国王室の歴史全般の削除。日本列島の統治と引き換えに唐軍の筑紫占領の事実隠蔽する。】

 まー、私の意見は、唐との外交を、倭国は対等を主張したのに対し、大和朝廷は冊封を是認し、唐に遠慮してそうしたと思ってるがどうだか。


 とはいえ、米田氏の『扶桑国が壬申乱で倭国を滅ぼし日本になった』も、私の『秦国を倭国灘波副都弟王家が解体し、天智近江朝「日本国」独立、壬申乱で大海人が灘波王家を継承、大化改新で倭王高市暗殺倭国滅亡』と大差ない。所詮『大和朝廷』が倭国・秦国の歴史・文化を抹殺したからどこ迄想定可かの違いだが…。


 米田良三氏
 〔 法隆寺移築説の原点である観世音寺・考 : 米田良三 論 〕
は少し従来の著書と比べ、難しく感じられる。最初の著書『法隆寺は移築された』は建物であり具体的で分り易かった。今度は源氏物語・枕草子・住吉物語云々が相手だ。そうか、こういう読み方もあったのか、すごーい




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